静まり返った村の中で二人はお互いを見つめ合う。いや、少年、犬夜叉はその瞳で巫女である桔梗を睨みつけていた。その眼光には視線で人を殺せるのではないかと思えるほどの殺気が込められている。その光景に小夜はもちろん、武器を構えている村人たちも誰ひとりその場から動くことができない。だがそんな犬夜叉を前にしながらも桔梗は怯えることもなく、ただその視線を返しているだけ。その表情から感情を読み取ることはできない。何人にも犯せない世界が二人の間には存在していた。
「またお前か………」
そんな中、静かに呟くように桔梗が告げる。感情を感じさせない声で、まるで感情を見せまいとしているかのような声で。その言葉と共に犬夜叉の空気が変わって行く。その殺気が、妖気が膨れ上がって行く。まるで爆弾が今にも爆発するのではないかと思えるような前兆。
「言ったはずだぜ……絶対に逃がさねえってな……」
その爪に力を込めながら犬夜叉は地に響くような声で答える。それはまるで獲物を前にした獣その物。絶対に逃がさないと、どこまででも追っていき、必ずその息の根を止める。そう誓うように。それを見ながら桔梗は一度目を深く閉じた後
「私は逃げてなどいない……逃げているのはお前の方だろう……」
その言葉を口にした。それは犬夜叉にとっては絶対に許すことができない、認めることができない言葉。瞬間、弾けるように犬夜叉は動き出す。その爪で桔梗を引き裂くために。その動き、速さはまさに獣そのもの。目にも止まらない速度で犬夜叉は一瞬で桔梗の目の前まで距離を詰める。その光景に小夜も、村人たちも声を上げる暇すらない。今まで見てきた、出会ったどんな妖怪とも比べ物にならない実力が目の前の妖怪にはあると悟るものの、桔梗が襲われるのを防ぐことができない。小夜はその光景に悲鳴を上げるが
桔梗はそれをまるで見抜いていたかのような最小限の動きで躱す。
空を切った爪の威力で地面に大きな爪痕が残るも桔梗にはかすり傷一つ負わすことができていない。自分の爪が難なく躱されてしまったことで犬夜叉は体勢を崩すもののすぐに立て直しながら再び桔梗へと襲いかかって行く。だが何度続けてもその爪は桔梗を捉えることができない。
それは桔梗の経験によるもの。巫女として数多くの、そしてかつて犬夜叉と何度も戦ったことがある桔梗だからこそ。加えて今の犬夜叉は怒りに、憎悪に身をゆだねたままただがむしゃらに向かってきているだけ。ならばその動きも至極読みやすい。
「ちっ……!!」
そのことに気づいた犬夜叉は一旦、大きく距離を取った後、熱くなってしまっていた頭を冷やす。そう、今自分が戦っている相手は、殺そうとしている相手はただの巫女ではない。数多の妖怪から四魂の玉を守ってきた巫女、桔梗。かつての犬夜叉も一度も勝つことができなかった程の相手。
その事実が犬夜叉に冷静さを取り戻させる。確かに桔梗は凄まじい巫女の力を持っている。だが半妖である自分は身体能力という点においては大きく勝っている。ならばそれを持って向かって行くのみ。
犬夜叉は再びその速度を持って桔梗へと飛びかかって行く。だがそれを許さないとばかりに桔梗はその手に矢を持ち、弓を構える。その光景に犬夜叉は息を飲む。弓の名手。桔梗はかつてそう呼ばれるほどの弓の腕の持ち主。それこそが桔梗の真骨頂。その弓によって何度も自分は敗れている。そう、あの時も。そのせいで、そのせいで俺は―――――
「ああああああっ!!」
咆哮と共に犬夜叉は躊躇いなく桔梗へと迫る。桔梗はそれを見ながらも表情を変えることなくその矢を、破魔の矢を放つ。それは巫女が持つ霊力、浄化の力を込めた矢。邪悪なもの、妖怪に対しては天敵ともいえる力を持つ矢。ましてや桔梗の矢には並みの妖怪なら触れるだけで消滅してしまうほどの力がある。
だが犬夜叉はそれに怯むことなく向かって行く。まるでもう二度と同じ間違いは犯さないと、そう誓うように。その矢がまさに犬夜叉を貫かんとした時、それは紙一重のところで躱される。その光景に今まで全く変わらなかった桔梗の表情に一瞬、驚きが浮かぶ。それは犬夜叉の目と反射神経によるもの。今までの戦いの中で、殺生丸との修行の中で身に付けたもの。そう、かつてかごめを守るために身に付けたもの。なのに、それなのに―――――
「はあっ!!」
そんな想いを振り切るかのように犬夜叉は爪を振り切る。だがその姿は先の弓の余波で傷ついてしまっている。確かに避けた筈なのに余波だけで火鼠の衣は破け、体中に傷が生まれている。だがそんなことは承知の上。全てはこの時のため。
自分の、かごめの仇である桔梗を殺すために。その憎悪の爪がついに桔梗に届くかに思われたその瞬間、犬夜叉は見えない力によってその場から弾き飛ばされてしまう。
「がっ……!?」
何が起こったのか分からないまま犬夜叉は遥か後方まで吹き飛ばされてしまう。何故。自分は間違いなく桔梗の隙を突いたはず。矢を躱し、次の矢を放つ隙を与えないタイミングを狙ったはず。なのに何故。だが犬夜叉はすぐに気づく。それは桔梗の霊力、破魔の力であることに。桔梗は弓で応戦が間に合わないと瞬時に判断し、その手に霊力を集中させ犬夜叉を弾き飛ばしたのだった。それは言うならば見えない壁によって阻まれてしまったようなもの。だがそれだけではない。その力によって犬夜叉の全身はまるで火傷を負ってしまったかのような姿になってしまっている。それは破魔の力。巫女、桔梗の力だった。その力の前に犬夜叉は為す術がない。いや、そんなことは分かっていた。もう既に何度も、数えきれない程その力の前に敗れてきたのだから。
「あああああっ!!」
叫びと共に犬夜叉は傷ついた自分の体の血に妖力を込めながら桔梗に向かって放つ。それは飛刃血爪と呼ばれる犬夜叉の飛び道具。だがそれは桔梗の霊力によって為すすべなく防がれてしまう。だが犬夜叉はそれを見ながらもただがむしゃらにその血を、爪を振るい続ける。その光景に村人たちは戦慄する。
まるで狂人のようなその姿。妖怪だからではない、そのありように、姿に村人たちは本能から恐怖する。だがそんな中で唯一人、桔梗だけは恐れも、怯えも見せぬまま、その弓を構える。そして静かにその破魔の矢を放つ。まるで狂っている、狂うことしかできない犬夜叉を止めるかのように。
その矢が、避けることのできない矢が犬夜叉の左肩を射抜く。その衝撃と威力によって犬夜叉は叫びを上げることもできぬままその場にうずくまる。だがその矢による傷によって犬夜叉は左腕を動かすことができない。普通の矢なら射抜かれた程度は何の問題にもならない。だが破魔の矢なら話は別だ。そのダメージは凄まじく、回復にも時間がかかる。もはや勝敗は決した。だが犬夜叉は全く怯むことなくその眼で、視線で桔梗を射抜いている。桔梗はそんな犬夜叉の姿を見ながらも何かを口にしようとする。
だがそれをまるで振り切るかのように犬夜叉は残った右の爪を振るい、地面を切り裂く。その衝撃と威力によって辺りは煙に包まれてしまう。そしてそれが収まった先には、大きな爪痕が地面に残っているだけだった―――――
「桔梗様、大丈夫っ!?」
戦いが終わったことを悟った小夜が慌てながら桔梗へと近づいていく。見ている限りは怪我はなさそうだったが大丈夫だろうか。あの相手が普通ではなかったことは子供の自分でも分かった。でもやっぱり桔梗様はすごい。あんな妖怪相手でも一歩も引けを取らないのだから。
だが妖怪を追い払ったはずなのに桔梗様の表情には安堵や喜びがみられない。いや、むしろその表情には先程以上の儚さが寂しさがある。何でそんな顔をしているのか小夜には、村人たちには分からない。
「……すまない、心配をかけた。早く家に帰ろう。」
そんな小夜達の姿を見ながらも桔梗は弓をしまいながら歩き始める。いつもと変わらないその背中を見せながら。
そしてその夜、桔梗は小夜たちの前から姿を消した―――――
「ハアッ……ハアッ……!!」
動かない左腕を、傷だらけの体を引きずりながら少年は森の中を進み続ける。まるで何かから逃げるかのように。桔梗からではなく、他の何かから逃げるかのように。だがついに力尽き、その場に倒れ込んでしまう。いくら力を入れても立ち上がることすらできない。地べたに這いつくばるようなその姿。いや、これが今の自分に相応しい姿なのかもしれない。少年は朦朧とした意識の中で思い出す。自分にとっての、自分たちの運命が変わってしまったあの日。
桔梗が蘇り、そしてかごめが命を落としたあの日。
犯してはいけない過ちを、罪を犯してしまった日。
そう、分かっていた。桔梗を殺さなければかごめが死んでしまうことを。だが自分は桔梗を殺すことが、この手に掛けることができなかった。
犬夜叉の記憶のせいではなく、自分自身が、人を殺すことを躊躇ってしまった。相手は死者、この世にいてはいけない存在だったのに。それは自分の弱さ。我が身可愛さによるもの。
その結果を、結末を変えることができたかもしれないのに。
少年はその手をかざす。覚えている。あの温もりを。自分に生きる意味をくれた、一緒にいてくれた少女の温もりを。
覚えている。自分の腕の中で冷たくなっていく少女の姿を。
それからはただ桔梗を殺すために追い続ける日々の始まりだった。
それはまるで五十年前、四魂の玉を狙っていたかつての犬夜叉のよう。だが違うところがあるとすれば自分は犬夜叉とは違い、本気で桔梗を殺しにかかっているということ。
正々堂々などど綺麗事はいっていられない。寝込みを、その隙を自分は躊躇いなく狙い続けてきた。だがその全てが通用しなかった。自分は決して弱いわけではない。確かにこの世界に来た当初はそうだったが師匠に、殺生丸に鍛えてもらった自分は強くなれたはず。だがそれさえも通用しない。傷一つ負わせることもなく、ただ返り討ちにあい、見逃されるだけ。
いっそ殺された方が楽になる、あきらめがつく。だが桔梗は決して自分にとどめを刺そうとはしない。まるでかつての犬夜叉にそうしたように。その事実にただ打ちのめされるだけ。まるで自分にはとどめを刺す価値もないと、そう告げられているかのように。
知らず自分の心が死んでいくのが分かる。憎しみに、悲しみに囚われていくうちに自分がなくなって行っているのが分かる。いや、自分なんてものは最初からなかった。自分が誰かすら分からないのだから。でもそれでもよかった。
ただかごめがいてくれれば。かごめがいてくれればこんな世界でも生きていけると、そう思っていたのに―――――
その眼が捉える。それは刀、かつて自分が誓いと共に手に入れた力。鉄砕牙。だがそれを使うことはもうできなくなってしまった。あの日から鉄砕牙は一度も自分に力を貸してくれはしない。当たり前だ。鉄砕牙は誰かを守りたいという心がなければ扱えない刀。今の自分にそれが扱えるはずがない。ただ復讐のために、憎悪によって動いている自分には。
『かごめを守りたい』
かつての自分はその誓いを持って鉄砕牙を手に入れた。だがそれを自分は守ることができなかった。そのために強くなったのに、それなのに一番大切なものを守ることができなかった。
分かっている。分かっていた。それが桔梗のせいではないということは。これはそう、全て自分の弱さのせい。妖怪化に飲まれてしまった時から何一つ変わっていない自分の心の弱さ。今、自分が鉄砕牙を持っているのもただ妖怪化を抑えるためだけ。かごめを悲しませたあの姿をもう二度とさらしたくなかったから。だがそれももう何の意味もない。かごめはもうこの世にはいないのだから。
少年は無造作にそれをその場に投げ捨てる。決して失くしてはいけないはずの物を。まるでかつての誓いを、自分を捨てるかのように。
もう何も自分には残ってはいない。守りたいものも、誓いも、何もかも。
心が、体が摩耗していく。絶望が、闇が少年を飲みこんでいく。どうしようもない、覆せない自らの運命を呪うかのように。十四歳の少年の心は既に限界を超えていた。そして、それが少年の前に現れる。
何もかも失ってしまった少年にたったひとつ残ったもの。
それは宝石のカケラ。かつて四魂の玉であったもの。元の大きさの三分の一ほどの大きさを持つ四魂のカケラ。それが今、少年の手の中にある。
それはかごめとともに集めていたもの。それを集めるために自分たちは旅をしていた。だが四魂の玉などどうでもよかった。ただかごめといられることが俺の全てだった。なのに今の俺に残ったのはこんなものだけ。願いをかなえるという呪われた宝玉、そのなれの果て。
だがそれを使ってもかごめを蘇らすことはできない。その魂は全て桔梗の元にあるのだから。
だからもういい。全てを失くしたい。この体も、いやこの心を。かつて誰かが言っていた言葉を思い出す。
四魂の玉は力を与える代わりにその心を奪うのだと。
それはきっと命よりも大切なもの。だがそれすらどうでもいい。いや、この心がなくなればこの苦しみから、地獄から解放される。
少年はその手に力を込める。同時に淡い光がカケラから放たれ始める。
『強さが欲しい』
それが少年の願い。かつての犬夜叉と同じ願い。だが決定的に違うことがあった。それは少年の望んだ強さは自分自身の心を失くし、この世界から逃げ出すための強さだったから。
それは契約。絶対に結んではいけない悪魔との契約。
それが今、ここに成立した。
この瞬間、世界は闇に包まれた――――――