日が傾き、一日の終わりを告げようとしている。その夕日が全てを照らしている。真っ赤な、まるで血の様な色が全てを染め上げていく。森から一斉に鳥たちが鳴き声を上げながら飛び去って行く。その声はまるで何かの不吉を孕んでいるかのよう。いつもと変わらない、ずっと暮らしてきたはずの村の光景。なのに何故こんなにも違って見えるのか。分かっている、そんな理由はとうの昔に分かっている。これは他でもない、今の自分の心境を表しているのだから。
村の中を一人の老女が歩いている。その姿は巫女装束、そして隻眼。それがこの村の巫女である楓の姿。楓はそのまま村の中を通りながらどこかに向かって行く。そんな楓の姿に村の者たちは気づくも誰も声をかけることはない。いや、声をかけることなどできるはずもなかった。
どこか疲れ切った、憔悴しているかのような姿。確かに楓は高齢ではあるがそれでも健康であり、その姿が村が平和であることの証でもあった。だがかつての楓の姿はそこにはない。深い悲しみを、哀愁を感じさせるかのような雰囲気をもちながら楓はただその場所へ向かって行く。全ての始まりであり、そして全ての終わりであるその場所へ。
そこは村から少し離れた場所。森に近い場所。楓は老体に鞭を打ちながらその場所へと辿り着く。それはあの日からの心労によるもの。それは楓の体に負担を掛けるには十分すぎるほどの物。だがそれでも自分はここにこなければならなかった。たったひとり残った家族を迎えに行くために。
そこには一人の人影がある。小さな子供の様なその姿。だがそれは人間ではない。尻尾が生えているその姿はまさしく妖怪の物。子狐の様な少年。
「七宝……またここにおったのか……」
子狐妖怪、七宝がそこにいた。だが七宝は楓の言葉に何の反応も示さず、ただずっとある物を見つめ続けている。楓も同じようにその視線を向ける。小さな石がそこにはあった。だがそれがただの石ではないのは明らか。
それは墓石。一人の少女の墓標。自分たちにかけがえのない、そして七宝にとってはもう一人の母といっても過言ではなかった少女の墓。
七宝は俯いたままその墓石の前で佇んでいるだけ。その表情を伺うことはできない。だがその小さな背中がその心境を何よりも表していた。楓は何を言うでもなくその姿を見つめることしかできない。掛ける言葉など持たない。そんなものはとうの昔に失くしてしまったのだから。
だがその眼が捉える。それは花。墓石の前にまだ真新しいであろう花が供えられている。その花はこの辺りは見ないようなもの。一体誰が。だがすぐに悟る。それを誰が供えたのかを。
「楓……おら、おら悔しいんじゃ………」
七宝は震えるような、絞り出すような声で呟く。嗚咽を漏らしながら、涙を流しながら。自らの無力さを、後悔を。
「何もできん……子供のおらが………」
あの日、何もできなかった自分。自分を見守ってくれた、一緒にいてくれた二人を失ってしまったあの日。もう帰ってはこない、あの日々。全てを失ってしまった、全てが変わってしまった。まるで時間があの時から止まってしまったかのように。
楓はそんな七宝の姿を見ながらも、ただ深く目を閉じることしかできない。その心は七宝と同じだった。数えきれない程の後悔をこれまでの人生でしてきた。だがそれでも自分はここまで生きてきた。それを乗り越えて、受け入れて。だが今度は、今度ばかりはそれもできないかもしれない。自分はまだいい。もうそう長くない人生。それならまだ耐えられる。
だが目の前の少年は、七宝は違う。きっとそれに生涯苛まれるはず。父を失い、それでも新たな出会いによって救われたはずなのに、また七宝はそれを失ってしまった。
楓は赤く染まった空を見上げながら想いを馳せる。どうしてこんなことになってしまったのか。何が間違っていたのか。どうすればよかったのか。その脳裏に二人の姿が浮かぶ。
今はもうここにはいない一人の少年。そして
(まだこの世を彷徨われているのですか……お姉さま………)
自らの姉である、桔梗の姿を―――――
温かな風が木々を揺らし、小鳥たちが囀っている森の中の小さな村。そこに一人の女性がいた。だがその姿から女性が巫女であることが分かる。巫女は静かにその場にある薬草を手に取って行く。そこには全く淀みが無い、まるで自然体そのもの。黒い長髪をたなびかせながら、どこか優雅さすら感じさせる光景。それはまさしく美女。もし男がその場にいれば間違いなく見とれてしまうだろう。
「桔梗様! みて、こんなにとれたよ!」
そんな中小さな少女が嬉しそうに走りながら巫女に、桔梗に向かって近づいてくる。その手には薬草が握られている。少女は桔梗と共に薬草を取る手伝いをしにやってきていたのだった。もっともその理由は桔梗と一緒にいたかったからだったのだが。
「そうか、ありがとう、小夜。」
「うん、桔梗様、また花の名前を教えて!」
桔梗はそんな小夜に微笑みながら答える。その姿に少女、小夜は恥ずかしそうに笑みを浮かべながらも桔梗に次々に質問を、お願いをしていく。それはまるで姉に付き添っている妹のよう。桔梗もそんな小夜の事を優しく見守りながら一緒に過ごしている。それがここ最近の小夜の日常だった。
桔梗がこの村にやってきたのはつい最近のこと。どうやら偉い巫女様だったらしい。桔梗は村の傷ついた人々、病気の人々を看病し、たちまち村の人気者となった。巫女としての力も凄まじく、村にやってきた妖怪もあっという間に追い払ってしまった。村人たちはそんな桔梗に感謝し、以来桔梗はこの村に滞在している。村人たちも桔梗が来てからは村が穏やかに、平和になったことから感謝しているようだ。特に村の子供たちからは慕われており、桔梗の周りにはいつも子供の姿が見えるほど。誰にでも優しく、遊んでくれる桔梗は子供たちにとってもかけがえのない存在だった。小夜もそんな中の一人。だが今日はいつもとは少し違っていた。珍しく今日は自分しか桔梗の傍にはいない。今まではないこと。桔梗を独り占めできているという嬉しさと優越感から小夜はいつも以上にはしゃいでしまっているようだ。だがそれを分かっているかのように桔梗は優しくあやすように小夜と戯れている。
小夜はそんな桔梗との交流を楽しみながらも子供心ながらに気づいていた。桔梗が時々、どこか遠くを見るような、寂しげな目をしていることがあることを。儚げな、いつかいなくなってしまうのではないか、そんな風に思ってしまうような姿。
「ねー桔梗様。」
「うん?」
そんな不安を振り切るように小夜は桔梗のその手を取りながら近づいていく。まるでこの手を離さないと、ずっと一緒にいてほしいと、そう伝えるかのように。
「明日も草や花のこと教えてね?」
小夜はどこか不安感じさせまいとしながらもそう桔梗に告げる。それは約束。きっと明日も変わらずにあるであろう日常。でもそれをせずにはいられなかった。だが
「……桔梗様?」
「………」
桔梗はそんな小夜の言葉を聞きながらもどこか心ここに非ずと言った風な姿を見せている。どこか儚さを、悲しさを感じさせるもの。だがそれすらも美しいと感じてしまうほどの何かが桔梗にはあった。しばらくその姿に見とれてしまっていた小夜だが
「ねえ……どこにも行かないよね……?」
静かに、それでもどこか不安を隠しきれない様子で桔梗に尋ねる。まるで母に縋る子供のように、どこにも行かないでほしいと。そんな小夜の姿に気づいた桔梗はすぐに雰囲気を変えながらしゃがみ込み、小夜と視線を合わせる。
「小夜……小夜は私が好きか?」
「うんっ大好き!」
小夜は桔梗の言葉にすぐさま答える。そんなことは当たり前だと、そう宣言するかのように。桔梗は小夜の迷いない言葉に微笑みながらも
「ありがとう……私も小夜が妹みたいに可愛いよ。」
そう小夜に自らの想いを伝える。それは嘘偽りない本音。自分に就いて回ってくるその姿、自分に全幅の信頼を抱いているその姿に桔梗はかつての楓を重ねていた。自分にとってはついこの間に思えるような日々。だがそれから既に五十年以上が経っている。再会した楓の姿からそれは間違いない真実。そしてこの体、死者の墓土によってできた紛い物の体。まるでこの世にあるべきではない自分への戒め、呪縛。本当なら自分はこの子たちとは関わりになるべきではないのだろう。死者でしかない、亡霊の自分には。
「えへへ~っ本当!?」
「ああ。」
だが小夜は桔梗の言葉が嬉しかったのか顔を赤くしながら照れてしまう。桔梗はそんな小夜の姿に心を洗われるような感覚を覚えながらもその手を取りながら村に戻って行く。その温かさを感じながらもう少し、この子たちと一緒にいてやれたなら。だがそんな小さな望みは一瞬にして打ち砕かれる。
「妖怪だっ!! 妖怪が出たぞ―――!!」
望まれぬ者が村に現れたことによって。その言葉と共に村に緊張が走る。男たちは武器を手に持ちながら、女たちは子供たちを連れながら家の中に避難していく。まるで先程までの穏やかな、平和な時間が嘘であったかのような光景に小夜は言葉を失う。だがそれを振り払うかのように小夜はその手に力を込める。自分の隣にいる桔梗の手を握る手に。しかし桔梗はそれに何の反応も示さない。いつもなら自分を安心させるように声を掛けてくれるのに。
「桔梗様……?」
小夜はゆっくりとその顔を上げる。だがそこには自分が知る桔梗はいなかった。先程までのどこか儚げな姿、いやそれ以上の感情を感じさせるその表情。一体それが何を意味しているのか小夜に知る術はない。ただひとつ分かること。それは
「見つけたぜ………桔梗………」
それは間違いなく目の前の妖怪のせいなのだということ。
銀の髪に金の瞳。赤い着物と刀を身に付け、犬の耳が頭にある。間違いなく人間ではない存在。
だがその姿に、雰囲気に小夜は恐怖する。その空気、そしてまるで死んだ魚の様な目。まるで生気を感じさせないような、見たことのないような姿。その発した言葉からは憎しみが、恨みが溢れている。怨嗟、呪いともいうべきものがそこには込められていた。
だがそれを前にしながらも桔梗はただ、真っ直ぐにその少年に向かい合う。
それが今の犬夜叉の、いや少年の『復讐鬼』と化してしまった姿だった―――――