静かな森の中に一人の少女の姿がある。少女は一人、何をするでもなくその場に立ち尽くしている。それは紫織。そしてここはいつもの紫織の遊び場。誰にも邪魔をされない、自分の居場所。そこで遊ぶことが紫織の楽しみの一つだった。だがその表情は暗く沈んでいる。その理由。それは今日が自らの祖父、大獄丸が自分を迎えに来る日だから。そして自らの母との別れの日でもあった。
(かあちゃん………)
紫織は一人、目を伏せながら母へと想いを抱く。半妖の自分を愛してくれている大好きな母。自分がどうして半妖として生まれてしまったのか。それを考えない日はない。村人からの差別。自分だけでなく、母までもがそれに巻き込まれてしまっている。それが紫織は辛かった。自分のせいで母を辛い目に会わせてしまっている。その事実が。
でもそれも今日で終わる。自分がこの村を出ていくことで。そしてそれを母も望んでいる。それが自分の幸せになると、そう思ってくれているから。でも、それでもやはり母と別れることに迷いがある。もしかしたら祖父の元、百鬼蝙蝠たちの中で暮らす方がいいのかもしれない。この村にいるよりも幸せな生活があるのかもしれない。でも
「違う……お前が『弱い』からだ。」
そんな言葉が紫織の脳裏に蘇る。それは昨日、自分が言われた言葉。犬夜叉という、自分と同じ半妖の少年によって。それは生まれて初めて会った自分と同じ半妖だった。同時に自分の中に淡い期待が生まれてくる。もしかしたら目の前の犬夜叉なら自分の苦しみを、悲しみを分かってくれるのではないかと。だが違った。自分はその言葉によって拒絶されてしまった。村人たちと同じように。やはり自分を認めてくれる人は母以外にはいないのだと、そう悟るしかなかった。だがその言葉が、姿が頭から離れない。それが何故だか分からない。でも何かそうしてしまうような不思議な力がその言葉にはあった。それが何なのか紫織が考えていると
「こんなところにおったのか、紫織。」
そんな聞き慣れない子供の声が聞こえてくる。驚きながら振り返った先には自分と同じぐらいの年の子狐妖怪、七宝の姿があった。
「おっかあが心配しておったぞ。早く家に戻らねば。」
七宝は紫織に向かってそう声をかける。もうすぐ大獄丸との約束の時間。七宝は紫織の母に頼まれ、紫織を迎えに来たところ。だが七宝の言葉を聞いた紫織はどこか悲しげな表情を見せたままその場に立ち尽くしてしまう。その姿に七宝もその場にとどまることしかできない。いくら子供といえど七宝も紫織が置かれている状況がどんなものかはおぼろげながら理解している。そして七宝は意を決して紫織に尋ねることにする。
「紫織は……おっかあと離れ離れになってもよいのか?」
それが七宝の一番聞きたかったこと。そして一番聞かなければいけないこと。この村の人々が紫織にひどいことをし続けてきたことを七宝はこの短い時間の間でも理解できた。この村で暮らすよりもその方がいいのかもしれないと思ってしまうほど。でもそうなれば紫織は母と共に暮らすことができなくなってしまう。それがどんなに辛いことか七宝には分かる。自分も大好きだった父と別れることになってしまったから。その悲しさと寂しさは今でもこの胸にある。今は犬夜叉や珊瑚たちがいるためそれを感じることは多くはないがそれでも時折、思い出し泣きそうになることがある。このままでは紫織もそうなってしまうのは明らか。だからこそ七宝は紫織の本音を、本当の気持ちを聞きたいと思っていた。そんな七宝の問いと姿に紫織は顔を俯かせたまま黙りこんでしまう。そして
「でも……そうしないと、かあちゃんが辛い目に合うから……」
絞り出すように、かすれるような声で紫織は七宝の問いに応える。そのまま紫織は一人、森から村に向かって戻って行く。その背中が見えなくなるまで七宝はそれを見送ることしかできない。そんな中
「紫織、行っちゃったんだね………」
七宝の後ろからそんな女性の声が聞こえてくる。どこか悲しげな、何かを言いたくてもいえない、そんな雰囲気を感じさせる声が。
「珊瑚………」
七宝は振り返りながら声の主である珊瑚に目を向ける。どうやら先程のやり取りを見ていたらしい。だが珊瑚も七宝同様、紫織を追うことなくその後ろ姿を見つめ続けている。本当なら声をかけ、思いとどまるように言うべきかもしれない。そんなことをしても村が救われるわけではないという事実を。だがそれを口にすることはできなかった。それを口にすればもしかしたらこの場は紫織が祖父の元に行かなくなるかもしれない。しかしそれは何の解決にもならない。それによって百鬼蝙蝠たちが強行な手段に出てこないとも限らない。何よりも、これはあの親子の、いや紫織自身の問題。紫織が自分で考え、選ばなければ何の意味もない。自分たちがそれに口を出すことなどできない。それができる者がいるとすればそれは紫織と同じ半妖、いや同じ苦しみを知っている犬夜叉だけだろう。
「全く……犬夜叉の奴、どこで何してるんだか……」
どこか呆れ気味の表情を見せながら珊瑚はそう呟く。あの後、森の中に姿を消してから犬夜叉は珊瑚たちの前には現れていなかった。恐らくまだ森の中にいるのだろう。あんなことを言ってしまった手前、出るに出てこれなくなってしまっているのかもしれない。そんなことを考えていると
「珊瑚……犬夜叉のことを嫌いにならんでやってくれんか……?」
七宝がどこか言いづらそうな様子を見せながらそう口にする。そんな七宝の姿に珊瑚は少し驚きながらもすぐに事情を察する。どうやら七宝は自分が昨日の出来事のせいで犬夜叉に幻滅してしまっている、嫌ってしまっているのではないかと思っているらしい。
「……心配しなくていいよ、七宝。犬夜叉のことを嫌いになんてなってないさ。いつも通り天の邪鬼なだけなんだから。」
七宝を安心させるような優しい笑みを浮かべながら珊瑚はそう告げる。確かに犬夜叉の紫織への態度に驚き、問い詰めてしまったもののあの後珊瑚はすぐに気づいた。犬夜叉が紫織に放った言葉には犬夜叉なりの紫織への想いが込められていたものだったということに。もしかしたら本人は無意識でそうしていたのかもしれないが。
だが犬夜叉がこの村に来たことによって不安定になっていることは間違いないだろう。それは十中八九、封印されていた村での生活にあるはず。きっと犬夜叉はそれと向かい合い、悩んでいるのだろう。ならそれを乗り越えるまで自分は待つことしかできない。
「それにきっとすぐに戻ってくるよ。あたしたちは仲間なんだからね。」
それは珊瑚の心からの言葉。犬夜叉への、仲間への信頼と想い。それを感じ取った七宝の表情に明るさが戻る。その姿に珊瑚も笑みを浮かべながら村に向かって行く。恐らくは自分本来の仕事をこなす必要が出てくることを確信しながら―――――
「あんたたちには迷惑かけちゃったね。ありがとう。」
どこか無理をした笑みを浮かべながら紫織の母はそう珊瑚たちに礼を述べる。もうすでに紫織の姿はここにはない。約束通り迎えに来た大獄丸によって村から去って行ってしまった後。ただそれだけで決して広くはない家が急に広くなってしまったのではないか。そんなことを紫織の母は感じながらもそれを表には出そうとはしない。
そうだ。これで良かったんだ。この村にいても紫織が幸せになれないことは自分が一番分かっている。今は自分が紫織を守ることができる。だが自分はずっと紫織と一緒にいれるわけではない。遠くない未来、紫織は一人になってしまうのだろう。その時のことを考えるなら、妖怪である祖父に紫織を任せる方が紫織のためになるはず。きっとあの子も分かってくれる。紫織の母そう自分に言い聞かせる。その姿に珊瑚たちは掛ける言葉を持たない。そして沈黙が辺りを支配しようとした瞬間
凄まじい悲鳴と物音が村中に響き渡る。突然の事態に紫織の母は驚き、目を見開くことしかできない。慌てて家の外に出たそこには、百鬼蝙蝠によって蹂躙されている村の無残な姿があった。
「そんな……どうして……」
その光景に力を失い、紫織の母はその場に崩れ落ちるも近くにいた七宝がそれを何とか支える。その隣には既に戦装束を身に纏った珊瑚の姿がある。その眼は既に臨戦態勢。退治屋としての珊瑚がそこにはあった。
「……七宝、ここは頼んだよ。あたしはあいつらを相手する。」
「分かったぞ、珊瑚!」
七宝の心強い言葉に笑みを浮かべながら珊瑚は自らの武器である飛来骨を担いだまま走り出す。戦場となってしまった村の中を駆け抜けながら―――――
百鬼蝙蝠たちは思うがままに村を襲っていた。その姿は普段よりも荒々しく、容赦がない物。それは今まで目の鼻の先にありながら手を出すことが禁じられていたこの村をやっとその手に掛けることができるという喜びから。その眼下には逃げまどう村人たちの姿がある。自分たちに抵抗しようとする者は誰一人いない。当たり前だ。村人たちは誰よりも自分たち百鬼蝙蝠のことを理解している。決して敵わず、逃げられないことを。今までは先代の長である月夜丸、そして紫織の祖父でもある大獄丸によって村を襲うことを禁じられていたがそれも今解かれた。百鬼蝙蝠たちがその欲望のまま村人たちに襲いかかろうとしたその瞬間、凄まじい衝撃と威力が百鬼蝙蝠たちを襲う。突然の事態に何が起こったのか分からず百鬼蝙蝠たちは慌てることしかできない。だがそこには先程までいた仲間たちが切り裂かれ、地面へと落ちていく光景がある。一体何が。だがその正体を百鬼蝙蝠たちはすぐに目の当たりにする。
それはまるで巨大なブーメラン。それが凄まじい速度と威力をもって自分たちに襲いかかってくる。空と言う人間には手が出せない領域にいる自分たちを何の問題もないかの如く次々に葬り去って行く。それはそのまままるで吸い寄せられるかのような軌道を描きながらある方向へと戻って行く。そこには黒い装束を身に纏った少女の姿があった。百鬼蝙蝠たちは悟る。その少女こそが目の前の光景を作り出した原因、自分たちの敵だと。
百鬼蝙蝠たちはすぐに冷静さを取り戻しながら一斉に少女、珊瑚へと向かって襲いかかって行く。それはまるで獲物を見つけた鳥の群れの様。だがその圧倒的数を目の前にしながらも珊瑚は全く動じる様子を見せない。そのことに気づいた瞬間、百鬼蝙蝠たちは戦慄する。それは先のブーメラン。それが少女から放たれた瞬間、襲いかかった仲間たちがまるで為すすべなく切り裂かれていく。先程のは奇襲だったため対応できなかった。だが今は違う。自分たちは油断も容赦もなく襲いかかっている。だがそれを何の問題にもしないかのように珊瑚はその力を振るい、百鬼蝙蝠たちを倒していく。本当に目の前にいるのは人間なのか。そう思ってしまうような、悪夢のような光景が百鬼蝙蝠たちの前にある。
それが退治屋珊瑚の実力だった―――――
「どうした、もうかかってこないのかい?」
飛来骨を肩に担ぎながら珊瑚は空を飛び、自分と距離を取ったまま動こうとしない百鬼蝙蝠たちを挑発する。だが百鬼蝙蝠たちは珊瑚に恐れをなしてしまったのか動こうとはしない。それは本能。目の前の珊瑚には敵わないという事実を悟った故の行動。それを見据えながらも珊瑚は考える。どうやら思ったよりも相手は大した相手ではなかったらしい。その数から苦戦することも覚悟していたが杞憂だったようだ。
それは珊瑚自身は気づいていないが犬夜叉との修行によって上がっている実力故の物。今の珊瑚にとって百鬼蝙蝠が何匹いようが何の脅威にもならない。だが相手は空を飛んでいる。雲母がいればやりようもあったが今の自分ではその距離を詰めることはできない。ならば何とか自分の間合いに相手を誘い込まなければ、そう思考した時
「ほう……余計な邪魔が入ったようだな。」
そんな老人の声が辺りに響き渡る。珊瑚がその声の先に視線を向ける。そこには紫織をその手に乗せた百鬼蝙蝠の長、大獄丸の姿があった。その姿に珊瑚は緊張を高める。それはその大きさ。普通の百鬼蝙蝠の何倍もある巨体。恐らくはその力も今までの相手とは比べ物にならないであろうことは明らかだった。何よりも紫織が一緒にいるというこの状況。どう動くべきか珊瑚が決めかねていると
「紫織っ!」
家から飛び出してきた紫織の母の叫びが響き渡る。七宝はそれを何とか止めようとしたがどうにもできなかったらしい。
「かあちゃん……」
紫織は母の叫びを聞きながらもそう呟くことしかできない。それは大獄丸との約束。自分が言うことを聞けば母には手を出さないというもの。そのせいで紫織は大獄丸に従わざるを得なかった。
「どういうことだ、大獄丸!? 約束を守れば村を襲わないはずだろう!?」
気丈に振る舞いながら紫織の母そう言葉を荒げる。その約束があったからこそ紫織を預けた。なのにこの光景。それは夫である月夜丸が守ってくれた村が、約束が破られてしまったことを意味していた。
「ふん、だれが人間との約束など守るものか。それにこの村の者たちは可愛い孫をいじめてくれた。なら何の遠慮がある?」
まるで紫織に言い聞かせるように大獄丸は笑みを浮かべながらそう告げる。だがその言葉が体のいい嘘、言い訳であることは誰の目にも明らかだった。紫織の母は自分ではもうどうすることもできないと悟り、その場に座り込むしかない。同時に百鬼蝙蝠たちが再び村人たちを襲おうと動き出す。どうやら長である大獄丸が現れたことで戦意を取り戻してしまったらしい。それをさせまいと再び珊瑚が動き出そうとするが
「それ以上邪魔はさせんぞ、小娘!」
それを阻むかのように大獄丸がその巨体をもって珊瑚へと襲いかかる。どうやら自分を抑えることで他の百鬼蝙蝠たちを攻撃させない狙いらしい。このままでは村人に被害が出てしまう。この村人たちに思わないところが無いわけではないがそれでも自分は退治屋。そして百鬼蝙蝠たちの凶行を見過ごすことなどできない。
「飛来骨っ!」
珊瑚は自らの全力を持って飛来骨を投げ放つ。もちろんその手に乗っている紫織を巻き込まない軌道を描きながら。そしてその飛来骨がその威力を持って大獄丸を切り裂くかに思われたその瞬間、
飛来骨は赤い膜の様な物によってその攻撃を弾かれてしまう。
「なっ!?」
その光景に珊瑚は驚愕する。それは結界。赤い球体の様な結界が大獄丸を守るように張られている。自分の全力の一撃を防がれてしまったこともだがそれを張っているのが紫織であることに珊瑚は驚きを隠せない。そしてその隙を狙うかのように大獄丸の攻撃が珊瑚を襲う。珊瑚はすぐさま冷静さを取り戻し、それを何とかかわすもその顔には焦りが浮かぶ。紫織のこともだが自分の攻撃が通用しなかったのは予想外。このままでは追い詰められてしまう。だが一刻も早く大獄丸を倒さなくては村人たちに被害が出てしまう。
「どうした、さっきまでの意勢はどこに行った!?」
そんな珊瑚の姿を嘲笑いながらも大獄丸はその追撃を緩めない。その結界もいまだ張られたまま。珊瑚はその攻撃を避けながら打開策を模索するしかない。しかしそれが見つかる前にさらなる窮地が珊瑚を、いや七宝たちを襲う。事態が悪化したことを悟った七宝が何とか紫織の母をこの場から引き離そうとしていたところに百鬼蝙蝠たちが襲いかかろうとしていく。今の百鬼蝙蝠たちはもはや紫織の母を襲わないという取り決めすらその頭には残っていなかった。大獄丸もそのことに気づくもあえて見逃すことにする。あの母さえいなくなれば紫織が人間たちに縛られる理由もなくなる。そう判断してのもの。
「くっ!」
何とか七宝たちを援護しようとするも大獄丸を相手にしている珊瑚には為す術がない。七宝たちは自分たちを襲おうとする百鬼蝙蝠たちの姿にただ目をつむることしかできなかった。だがその瞬間
「かあちゃんっ!」
叫びと共に紫織が大獄丸の手から母の元へと飛び降りる。同時にその結界が紫織の母と七宝を包みこみ、百鬼蝙蝠たちをはねのける。その光景には珊瑚はもちろん、大獄丸も驚き、動きを止めてしまう。当たり前だ。あの紫織が、大人しく自分の殻に閉じこもっていた紫織がそんな行動に出るなどこの場の誰ひとり想像することなどできなかった。
「紫織………」
「かあちゃん……うち……かあちゃんと一緒にいたい……」
紫織は目に涙を浮かべながらそう母に告げる。それが紫織の答え。きっと自分はこの先も差別を、迫害を受けるだろう。この村でなくてもきっとそれは変わらない。でも、それでも構わない。自分が愛する母と、自分を愛してくれる母と一緒に暮らすことが自分の望み、願い。これが紫織が自分自身の『強さ』を身に付けた瞬間だった。
「ふん……やはり貴様は奴の子供だ……あの愚か者、月夜丸のな……」
紫織の裏切りにどこか冷めた、冷酷な視線を向けながらも大獄丸はそう告げる。まるで紫織に、紫織の母に聞かせるかのように。その言葉を二人はただ聞き続けることしかできない。だがその気配、まるで自分たちを絶望させるような何かがそこにはある。それは
「人間などに誑かされおって……素直にわしの言うことを聞いていれば死なずに済んだものを……」
自分たちの大切な人を目の前の存在が奪ったのだという、残酷な事実だった。
瞬間、紫織の母はその場に崩れ落ちる。それを支えながらも紫織はその眼を持って大獄丸を睨みつける。それは怒り。自らの父を奪い、そして母を傷つけた大獄丸に対する。
「お前の様な子供一人で何ができる。もういい……お前も父親と同じところに行くがいい!」
その言葉と共に大獄丸は小さな玉の様なものを取り出す。それは血玉珊瑚と呼ばれるもの。百鬼蝙蝠に代々受け継がれてきた宝玉であり、その妖力がその玉には込められている。その力によって大獄丸の体が再び結界に包まれる。それは紫織の結界を遥かに凌ぐ力を持っていた。大獄丸はその力を持って紫織たちに襲いかかる。珊瑚がそれを助けようとするが間に合わない。だが紫織はそれを見ながらも決してその場を動こうとはしない。母を守る。その絶対の意志が、決意がそこにはあった。そして大獄丸の手が伸ばされたその瞬間、凄まじい衝撃が大獄丸を襲う。
「何っ!?」
大獄丸はそのままその衝撃によって吹き飛ばされてしまう。結界によってダメージは負っていないもののその衝撃は凄まじく自分の巨体を吹き飛ばすほどもの。紫織が驚きながら顔を上げたそこには
まるで自分を庇うように背中を見せている犬夜叉の姿があった。
犬夜叉は一度振り返り、紫織を見つめた後、そのまま大獄丸に向かって歩き始める。まるで言葉は必要ないと。そう告げるかのように。
そして犬夜叉は駆けつけた珊瑚と視線を交差させる。だがすぐにどこか居心地が悪そうに視線を外してしまう。それは気まずさ。先日の八つ当たりと言ってもいい自分の姿をさらしてしまったことへの。だが
「遅いよ、犬夜叉。何やってたのさ。」
その感情は珊瑚のその一言によってかき消されてしまう。それほどまでの信頼が、想いがその言葉にはあった。
「………ふん! お前だっててこずってたみたいじゃねえか。」
それを感じ取りながらも気恥ずかしさから犬夜叉はそんな言葉を口する。そんないつも通りの犬夜叉の姿に珊瑚は安堵する。やはり犬夜叉はこうでなくてはいけない。これでこそ張り合いがあるというもの。だがそれも今は目の前の大獄丸を倒してからだ。
「また邪魔者が一人増えおったか。どいつもこいつも人間などに骨抜きにされおって。」
犬夜叉の一撃によって吹き飛ばされはしたものの、結界によって傷一つ負っていない大獄丸は悠然とその姿を現す。だがそれを見ながらも全くひるむ様子を見せず犬夜叉は大獄丸に対峙する。そして
「関係ねえ………」
自分は自分を差別した人間を、そしてこの村の人間を憎悪している。その事実はなくならない。そいつらのために戦う気なんてさらさらない。ただ
「俺はてめえが気に食わねえから戦う……それだけだ!!」
その言葉と共に腰にある鉄砕牙を地面へと投げ捨てる。その光景に珊瑚たちは目を奪われる。当然だ。刀を構えるならまだしも何故それを捨てる必要があるのか。
それはこれから犬夜叉が行おうとしていることにはそれが邪魔になるからに他ならない。文字通り犬夜叉の奥の手、切り札と言ってもいいもの。それを使うためのものだった。
瞬間、凄まじい力、妖気が辺りを襲う。そのあまりの強力さに大獄丸はもちろん、珊瑚たちすら身動きを取ることができない。それは本能。大妖怪に匹敵する妖気を浴びたことによる。特に妖怪である大獄丸と七宝はそれにあてられ体が震え始める。それは大妖怪と妖怪との絶対的な差によるもの。
同時に犬夜叉の姿が大きく変わっていく。目は赤く染まり、頬には紫の痣、その爪はさらに鋭く尖っていく。珊瑚は悟る。それがまさしく『妖怪』の姿であることを。
『妖怪化の制御』
それこそが少年の切り札。正確に言えば未完の切り札。だがそれを使わざるを得ない程の力が大獄丸には、その結界にはある。先の一撃は自分の全力。それが通じなかった以上これを使わざるを得ない。できればそれは避けたかったがこの状況を打破するにはそれしかない。
妖怪化した犬夜叉の姿を前に、大獄丸の時間が止まる。そして犬夜叉はその力を解き放った。
瞬間、大獄丸は我を失う。一体なのが起こっているのか分からない。目の前にいた筈の犬夜叉の姿が消えている。いや違う、それがまるで瞬間移動したかのように目と鼻の先にいる。それは犬夜叉の速度を大獄丸の目が追いきれなかったから。そして犬夜叉はその爪を振るう。そう、ただそれだけ。何も恐れる必要はない。その攻撃を自分は先程結界で防いだ。なら何も問題ない。だがその爪はまるで何もなかったかのように結界を破り、その体を切り裂いた―――――
「なっ……!?」
その光景に珊瑚は言葉を失う。自分の飛来骨が全く通用しなかった、そして恐らくは犬夜叉の全力の散魂鉄爪すら防ぎきった結界を今の犬夜叉はいとも簡単に切り裂いた。その動き、力はまるで獣のそれ。とても犬夜叉とは思えないようなその姿、動き。全てが珊瑚の常識を超えている。それは決して触れてはいけない力なのではないか。そう感じてしまうほどの何かがそこにはある。それは『恐怖』それを自分は犬夜叉に抱いている。仲間であるはずの犬夜叉に。その事実に珊瑚が身動きができないでいる中
犬夜叉が息を切らせながらまるで縋りつくように捨てた筈の鉄砕牙を手にする。その瞬間、犬夜叉の姿が先程のものから普段のものへと変化していく。その妖気も霧散していく。まるで刀によってその力がなくなっていくかのように。
(くそっ……やっぱり無理があったか……)
呼吸を荒くしながら犬夜叉は何とか意識を取り戻す。その顔は苦悶に満ちている。それが妖怪化の代償、そして未完の切り札である所以だった。瞬間的に妖怪化し、一撃で相手を葬る。それが自分の切り札。だがその制御は困難であり、今は一瞬、一撃が精一杯。それ以上維持しようとすれば間違いなく意識を持って行かれてしまう。ほとんど実戦では使っていなかったため不安はあったが何とかうまく行ったようだ。
「犬夜叉っ!」
犬夜叉の姿を心配した珊瑚が自分に駆け寄ってくる。どうやらそれほど今の自分の姿は疲労しているように見えるらしい。だがこれで何もかもが終わった。そう犬夜叉が安堵しかけたその瞬間
「貴様……よくもこのわしを………」
地に響くのではないかと思えるような声が辺りを支配する。そこには傷つきながらも怒りによって憤怒の化身と化している大獄丸の姿があった。その姿に犬夜叉は驚愕するしかない。それは油断。まさか妖怪化した一撃を結界を張っていたとはいえ耐えきるなど考えもしなかった。
「もう容赦はせん……貴様ら全員皆殺しだ!!」
咆哮と共に大獄丸がその全力を持って突撃してくる。犬夜叉はそれを見ながらもその場を動くことができない。
「犬夜叉っ!」
そのことを瞬時に悟った珊瑚が犬夜叉を庇うように前に出ようとする。今の犬夜叉は疲労しきってしまっている。ならば自分がそれを助けなければ。そんな無意識に近い行動。だが犬夜叉はそんな珊瑚を押しのけるようにして前に出る。
「っ!?そんな体じゃ……!!」
大獄丸がその凄まじい速度を持って接近してくる刹那の間に珊瑚は叫ぶ。目の前にいる犬夜叉はとても戦えるような状態ではない。例え戦える状態だとしても大獄丸の結界を破ることはできない。ならせめて犬夜叉だけでも。だがまるでそんな珊瑚の考えを許さないように犬夜叉は珊瑚を庇うように前に出る。
「ごちゃごちゃうるせえ………」
自分の後ろには珊瑚がいる。避けることはできない。だが自分の攻撃は結界の前には通用しない。妖怪化ももう使うことはできない。いや、使うことはできる。大獄丸を倒すことならそれでできるだろう。だがそれだけ。そのあと自分は間違いなく妖怪の血に飲まれ、珊瑚たちをこの手に掛けてしまう。
どうしようもない状況、絶望に少年の時間が止まる。
どうすればいい、どうすればこの状況を打破できる?
これでは同じだ。ただ自分の弱さによって全てを失ったあの時と。
それが悔しくて、許せなくて自分は強さを手に入れた。なのに、それなのに俺は―――――
「俺が……お前を…………」
「…………え?」
その瞳に少女の姿が映る。こんな自分を信じ、想ってくれた少女の姿。自分を変えてくれた、共にいてくれた少女の姿。
それを守れないような、そんな強さしか自分は持っていないのか
力が欲しい―――――
それは願い。
力が欲しい―――――
少年が失ってしまっていたもの。
珊瑚を守れる力が欲しい――――――
大切な誰かを守りたいという想い。
「俺がお前を守るって言ってんだ――――――!!」
少年は初めて自分のためではなく誰かのための強くなりたいと願った―――――
瞬間、凄まじい鼓動が、熱が少年を襲う。
その手には鉄砕牙ある。自分には使えない、弱さの象徴ですらあった鉄砕牙。その声が、鼓動が自分に響いてくる。まるで今まで凍っていたものが解けてしまったかのように。
少年は気づく。鉄砕牙がずっと、ただずっと自分がその心を取り戻すのを待っていたことに。
少年はまるで導かれるようにその柄に手を伸ばし、一気にそれを引き抜いた。瞬間、凄まじい光が刀から放たれる。
それが収まった先に巨大な牙の様な刀身が姿を現す。それが鉄砕牙の真の姿。かつて犬夜叉の父が犬夜叉の母を守るために作った刀。人を慈しみ、誰かを守る強い想いが無ければ扱えない刀。
この瞬間、犬夜叉はついにその力を手に入れた。
「はああああっ!!」
咆哮と共に犬夜叉は鉄砕牙を振り切る。そこには先程までの疲労した姿はない。今、犬夜叉は自分の中に漲ってくる力に包まれていた。まるで鉄砕牙が自分の体の一部であるかのようにその力が流れ込んでくる。そして自分の力が鉄砕牙に流れ込んでいく。今の自分は誰にも負けない。そんな確信が体を支配する。それに呼応するように振り切った鉄砕牙の刀身から凄まじい風が放たれる。それはまるで大地を切り裂いてしまうのではないかと思える圧倒的力を持って大獄丸に襲いかかる。
それは風の傷。
一振りで百の妖怪を薙ぎ払う鉄砕牙の力。
長い眠りから覚めた喜びを示すように鉄砕牙はその力を持って主に応える。その力によって鉄壁であるはずの結界はかき消されその風が大獄丸を飲みこんでいく。後にはまるで地平の果てまで続くのではないかと思えるような爪痕が残っているだけだった―――――
「凄い………」
その言葉でしかこの状況を表す言葉が無い。珊瑚は目の前の光景にただ目を奪われるしかない。犬夜叉が持っている刀、鉄砕牙が普通の刀ではないことは知っていた。だがその錆びた姿からだれがこんな力を持っていることを想像できるだろうか。まさに桁外れの力が鉄砕牙にはある。あの大獄丸を一瞬で葬ってしまうほどの。何とか我を取り戻し、犬夜叉へと近づこうとするがすぐに珊瑚はその動きを止めてしまう。それは犬夜叉の姿。その眼がまだ戦いは終わっていないと告げていた。
それを証明するかのように風の傷の後からまるで怨念の塊であるかのような存在が姿を現す。それは大獄丸の持っていた宝玉、血玉珊瑚から生まれている。それは代々受け継がれてきた百鬼蝙蝠たちの妄執、怨念と言ってもいいもの。それが新しい持ち主を探している。そしてその矛先はその血を受け継ぐ紫織へと向けられようとする。だが
「これで終わりだあああっ!!」
その怨念を、紫織を縛る鎖を断ち切るかのように犬夜叉が鉄砕牙を振り下ろす。その刃がその宝玉を、怨念を断ち切る。それが長くに渡る百鬼蝙蝠の歴史の終焉、そして紫織の新しい人生の始まりだった―――――
「本当に良かったの犬夜叉? 紫織と話をしなくて……」
「ふん、話すことなんて何もねえよ。」
並んで歩いている珊瑚の言葉にどこか不機嫌そうに犬夜叉は応える。今、一行は村を後にし、里に帰ろうとしている道中。大獄丸を倒し、他の百鬼蝙蝠たちを退治した後、犬夜叉たちはそのまますぐに村を後にした。自分たちにできることはこれで終わりでもあったから。だがそんな中、紫織が犬夜叉へと近づいてきた。そして
『ありがとう』
そう一言告げる。それは本当にたった一言。そして犬夜叉もそれに何も答えなかった。だがそれだけで二人の間には十分だったのだろう。
結局紫織はあのまま村で暮らすことになった。百鬼蝙蝠の脅威がなくなったとはいえ決して紫織の置かれている環境が変わったわけではない。これからも辛いことや悲しいことが続くはず。だがそれでも紫織は母と一緒に人の世界で生きることを選んだ。誰に言われたわけでもない、自分自身の意志で。きっと紫織なら大丈夫だろう、そう思える強さがあの時の紫織にはあった。そんなことを考えていると
「全く、素直じゃないんじゃからな、犬夜叉は!」
いつの間にはいつもの調子を取り戻した七宝が犬夜叉にちょっかいを出している。それはいつも通りの光景。だが七宝も内心は犬夜叉のことを心配していたはず。それを考えれば似た者同士と言えるのかもしれない。
「お前にだけは言われたくねえよ……」
呆れながらも犬夜叉は鉄砕牙を手にしながら想いを馳せる。その脳裏にある言葉が蘇る。
『その刀が使えるようになったら俺の前に来い』
それは約束、そして自分が初めて強さを求めた理由。自分を救い、導いてくれた人との。
「そんなことを言っていいのか、犬夜叉……?」
知らず物思いにふけっていた犬夜叉に向かってどこか勝ち誇ったように七宝が話しかけてくる。その姿に何か強烈に嫌な予感を感じた犬夜叉がその口を閉じようとするが
「帰ったら里の皆に教えてやらねばの、犬夜叉が『珊瑚は俺が守る』と言っておったと!」
「なっ!?」
それよりも早く七宝の言葉が告げられ、その言葉の意味に今更ながらに気づいた犬夜叉は顔を真っ赤にしながらその口を封じようと七宝に向かって行くも七宝はそれを難なくかわしていく。まるで兄弟の様な鬼ごっこをしながら二人は里に向かって走っていく。
「全く……子供なんだから……」
ある意味いつも通りの犬夜叉の姿の呆れながらもどこか嬉しそうな笑みを浮かべ珊瑚もその後を追って行く。自分たちの家である、退治屋の里に向かって―――――