里から少し離れた森の中に二つの人影がある。その人影たちは両者とも距離を開けたまま睨みあっている。だがそのうちの片方は肩で息をしており、疲労してしまっている。それは鎖鎌を構えた琥珀。その体は汗にまみれており、顔は苦悶に満ちている。だがその眼はまだ戦意を失っていなかった。
対照的に冷静にそれを見つめているのが犬夜叉。だがそこには全く疲労は見られない。いや息一つ乱していない。その眼はまっすぐに琥珀を捉えている。そのまま両者の間に沈黙が流れる。そしてそれがずっと続くかと思われた時
「……今日はこれくらいにしとくか。」
犬夜叉がそうぽつりと呟く。その瞬間、先程まで犬夜叉が纏っていた冷たい空気が霧散していく。それは犬夜叉が戦闘態勢を解いたことを意味していた。
「……はい、ありがとうございました、兄上!」
それを肌で感じ取った琥珀は一気に緊張が解けたのかその場に座り込みながらもそう大きな声で礼を述べる。それがいつもの琥珀と犬夜叉の修行の風景だった。
「随分様になってきたんじゃねえか、琥珀。」
犬夜叉はそう言いながら手を伸ばし琥珀をその場から立ち上がらせようとする。琥珀も慌ててその手を握りながら立ち上がるもふらついてしまう。どうやらまだ疲れが残っているようだ。そう判断した犬夜叉は琥珀が落ち着くまで少し待つことにする。
「そんなことないです……まだまだ兄上や姉上には程遠いし……」
琥珀は息を整えながらもそう口にする。それは嘘偽りない琥珀の本音。そして琥珀が目指している目標でもあった。
先の奈落の罠による依頼。自分はそれにまんまと嵌り、操られてしまった。そして後一歩で姉を、父たちをその手に掛けてしまうところだった。そのことを思うと今でも背筋が凍る。だがそれは覆された。目の前にいる半妖の少年、犬夜叉によって。自分がそれを知ったのは姉からの話。あの姉が敵わなかったという半妖。それだけでも十分に気になる存在だった。それがこんな形で出会うことになるとは想像もできなかったが。そしてその強さは本物だった。自分を救ってくれた時、そして里を襲ってきた妖怪の大群。そのどちらを取っても犬夜叉の強さは自分の想像をはるかに超えたものだった。それは姉や父の様な磨き上げられた力とは違う、純粋な強さ。それに自分は恐れを通り越して憧れを抱いてしまった。そして何よりも気になることがあった。
それは何故初対面である自分たちを救ってくれたのか。その理由がいくら考えても分からなかった。だがどんな理由があったとしても自分たちを救ってくれたことには変わりない。そう思い、里の無事を祝った宴の席で琥珀は犬夜叉に向かって礼を言いに向かった。だがそれを犬夜叉は無下に扱い、そのままその場からいなくなってしまった。その態度と雰囲気から想像以上に怖い人なのではないかと琥珀は思っていた。その証拠に犬夜叉は村の者たちにも自分と同じようにどこか冷たい態度をとっている。琥珀はそれが原因でしばらくは犬夜叉に近づこうとはしなかった。だがそれが大きく変わる転機が訪れる。
それは七宝。犬夜叉と共に旅をしていたという子狐妖怪。犬夜叉とは対照的に人懐っこい妖怪であり、加えて子供であることから年齢が近い自分に親近感を持ったらしくよく遊ぶようになった。そしてその中で犬夜叉がどんな人物なのかを聞き及ぶことになる。それは自分が思っていた犬夜叉のイメージとはかけ離れたものだった。だが七宝が嘘を言っているとは思えない。琥珀は迷いながらもあることを犬夜叉に頼みに行くことを決意する。それは修行をつけてもらうこと。琥珀は先の依頼で自分がどんなに弱いかを身をもって味わった。同時に同じぐらいそのことが悔しかった。もう二度と同じことを繰り返したくない。そのための強さが欲しいと、そう琥珀は決意する。犬夜叉との修行ならそれを得ることができるのではないか。そう考えての物。しかし勇気を振り絞ったお願いは犬夜叉に一蹴されることになる。
『何で俺がそんなことしなきゃいけねえんだ?』
それはある意味当たり前の答え。いくら仲間になったと言ってもそこまでしてくれるはずもない。分かり切っていたことではあったがそれでも琥珀はそれに落ち込むことしかできなかった。だがこのまま何もしなわけにはいかない。琥珀はその日から一人森の中で鍛錬を積み始める。少しでも、少しでもあの二人の強さに追いつきたい。それは以前の自分なら考えられないようなことだった。そしてそれから数日が経ったとき、鍛錬を行っている琥珀の前に一人の人影が姿を現す。
それは犬夜叉。
いきなりのことに琥珀は驚き、動きを止めてしまう。だが犬夜叉はそんな琥珀の姿を一瞥した後、
『そんなことやってても強くなんてなれねえ、かかってきな。』
どこか投げやりな雰囲気を纏いながらそう告げる。琥珀はすぐに気づく。犬夜叉が自分に修行をつけてくれるためにこの場にやってきてくれたことに。それから琥珀と犬夜叉の修行の日々が始まった。その厳しさは凄まじく、父上や姉上から受けたものとは比べ物にならない程。だがそんな中でも犬夜叉は的確に自分に戦い方を教えてくれた。その心構えから、間合いの取り方、駆け引き。それはまさに実戦に即した命のやり取り。それに何度根を上げそうになったか分からない。だがあきらめるわけにはいかなかった。何よりも自分にわざわざそれを教えてくれている犬夜叉の厚意に応えるために。
その甲斐もあり、今自分はお頭に独り立ちを認めてもらうことができた。犬夜叉も退治屋の依頼で出かけることが多くなってしまったため以前ほど修行を着けてもらうことはできなくなってしまったがこうして時間があった際にはそれを行っているのだった。
「そういえば珊瑚の奴、どこに行ったんだ? 姿を見ねえが……」
いつもの調子でどこか不機嫌な様子を見せながら犬夜叉がそう疑問を口にする。いつもなら朝食で顔を合わせるのだが今日は姿を見なかった。だが依頼を受けたという話も聞いてはいない。一体どうしたのだろうか。
「姉上なら少し用事があるとかで朝出かけて行きましたよ。」
そんな犬夜叉の姿にどこか笑みを浮かべながら琥珀が答える。詳しい内容は教えてもらえなかったが何か調べ物をするために出かけてくるという話を琥珀はお頭から伝え聞いていたのだった。琥珀の言葉に犬夜叉はどこか考えるような表情を見せる。こんな朝から出かけるほどの用事があったのだろうか。自分や琥珀も連れずに出かけるような。何かいつもとは違う違和感を犬夜叉が感じていると
「全く、ちょっと珊瑚がいなくなったからといって寂しがってはいかんぞ、犬夜叉!」
そんな元気な声が犬夜叉に向かって響き渡る。振り向いたそこにはどこか勝ち誇ったような態度を見せている七宝の姿があった。どうやら二人の修行を見に来ていたらしい。
「七宝、てめえいい加減なことぬかしてると承知しねえぞ!」
だがそんな七宝に向かって怒りの表情を見せながら犬夜叉は詰め寄って行く。それは先の七宝の言葉が気に障ったため。自分だけならともかくここには琥珀もいる。あとでそんな言葉が珊瑚に知られればどんなにからかわれるか分かったものではなかった。しかし、そんな犬夜叉の姿を見ながらも七宝は余裕の態度を崩さない。
「そんなことを言っていいのか、犬夜叉? おらは知っとるんじゃぞ……」
七宝はどこか楽しそうな笑みを浮かべながらそう告げる。その雰囲気に思わず犬夜叉は気圧されてしまう。だが犬夜叉には七宝が何を言おうとしているのか見当がつかなかった。だがその先を言わせてはいけない。そんな直感により犬夜叉が七宝を何とか黙らせようとするがそれよりも早く
「犬夜叉、昨日、珊瑚の尻ばかり見ておったじゃろう!」
そんな爆弾発言を口にした。
「なっ……!?」
犬夜叉はそんな七宝の言葉に言葉を失う。同時にその顔が真っ赤に染まる。それは七宝の言葉が紛れもない真実だったから。
昨日、少年は夢を見た。それは記憶の中の犬夜叉の旅の記憶。だがそれ自体は珍しいことではない。これまでも何度も見ていることでもある。だがその内容がいつもよりも鮮明だった。恐らくは珊瑚たちの仲間になったことで今まで以上にその記憶が鮮明に蘇ったのだろう。その夢の中で少年はある光景を目にする。
それは弥勒が珊瑚にちょっかいを出す姿。正確には珊瑚の尻を触り、平手打ちを食らっている光景。それはある意味お約束、日常の光景。だが少年はその光景に目を奪われてしまう。それは疑問。何故弥勒はあんな目に会ってまで珊瑚の尻を触ろうとしているのだろう。確かに弥勒はスケベであり、女性にちょっかいを掛けるのは日常茶飯事。しかし珊瑚に手を出せば平手打ちが返ってくるのは分かり切っているはず。それなのに何故懲りもせずにそれを繰り返すのか。それほどの魅力がその行為にはあるのだろうか。ある意味で純粋な少年はそう疑問に思わずにはいられなかった。そのため昨日は知らずその視線が珊瑚の尻に向いてしまっていたらしい。
だがそれをまさか七宝に気づかれていたとは思いもしなかった。ある意味でもっとも知られたくない奴に知られてしまったと言ってもいい。それが珊瑚にばれるのだけは絶対に阻止しなければ文字通り命にかかわる。犬夜叉が焦る気持ちを何とか抑えながら七宝に詰め寄ろうとするが
「ほう、そこに目をつけるとは流石だな、犬夜叉。」
それを遮るかのようにそんな声がかけられる。そこには先程までいなかったはずのお頭の姿があった。どうやら自分たちの修行の様子を見に来ていたらしい。だがその表情は楽しげだ。まるで面白いことを見つけたと言わんばかりの表情。犬夜叉は悟る。七宝のほかにもう一人知られてはいけない奴に事態が露見してしまったことに。
「安心しろ、犬夜叉。珊瑚の奴は母親と同じく安産型だからな。」
「あんざんがた? なんじゃそれは?」
お頭は嘘か冗談か分からないようなことを口にし、事態を楽しんでいる。七宝もその言葉の意味は分からないもののどうやら犬夜叉をからかえる言葉であることは理解し、それに聞き入っている。そこには退治屋の里のお頭の威厳も何もあったものではない。ただのセクハラ、エロ親父だった。だがそれらの行動の結果が自分に降りかかってくるのは火を見るより明らか。
「てめえら……いい加減にしろよ……」
犬夜叉はその額に青筋を浮かべ、その拳を鳴らしながら二人に詰め寄って行く。自分たちが調子に乗りすぎてしまったことに気づいた二人はそのまままるで蜘蛛の子を散らすかのように逃げていく。そしてその後を叫びながら犬夜叉が追いかけていってしまう。そんなある意味いつも通りの光景に琥珀は苦笑いをするしかない。
今日も退治屋の里には平和な日常が流れているのだった―――――
退治屋の里から遠く離れた森の中で、一人の少女が一人、佇んでいる。それは珊瑚。だがその表情はどこかいつもとは異なっている。まるで何かに目を奪われている。そんな雰囲気を放っている。そしてその視線はある物に向けられていた。
そこには大きな一本の御神木の姿があった。
(これが、犬夜叉が封印されてた御神木か………)
珊瑚はそう考えながらもその御神木に目を奪われる。自分はこの御神木の由来も何も知らない。だがそれでも何か不思議な気配を感じずにはいられない、そんな力があるのではないかと思ってしまう何かがこの御神木にはあった。そして珊瑚は思い返す。それは先程の村人たちの様子だった。
今、珊瑚は一人、犬夜叉が封印されていたとされる御神木と、襲ったと言われる村を訪れていた。それが今回、一人で里を出てきた理由。犬夜叉の事情は父上から聞いた内容しか分かっていない。そしてそれは恐らくは真実なのだろう。何度かそれを犬夜叉自身に問いかけたとこもある。だが犬夜叉はそれには何も答えようとはしなかった。だがその反応からそれが本当であるのは自分にも分かった。
だが自分にはどうしてもその違和感が拭えなかった。何か確証があったわけではない。だがそれでも言葉に表せないような感覚を覚えずにはいられない。そしてそれを犬夜叉は隠している、いや自分たちには話そうとはしない。だがどうやら七宝は何か事情を知っているようだ。以前、そのことについて何か口を滑らせそうになり、犬夜叉に怒られているのを見たことがある。その後、七宝にこっそり聞こうとしたのだが結局七宝はそれを教えてはくれなかった。あのおしゃべりの七宝が言わないのなら何か理由があるのは理解できる。だがそれは抜きにしても珊瑚は自分自身でこの地を訪れる必要があるとずっと思っていた。
犬夜叉を裏切るような後ろめたさが無いと言えば嘘になるがこればかりはどうしても譲れない。お頭も事の真偽を確かめる必要があるとのことでこの任務を珊瑚に与えていた。今頃は犬夜叉の足止めをしてくれているはず。
そして自分はこの村にやってきた。流石に御神木の正確な位置は分からなかったためそれを村人に尋ねることにする。だがその際の村人たちの態度は予想外のものだった。
『犬夜叉』
その言葉を出した途端、村人たちの態度が豹変する。顔は険しくなり、口数も少なくなる。まるでそれに触れることはタブーであるかのような態度。その視線と態度に思わず珊瑚も言葉を失ってしまう。確かに犬夜叉は五十年前にこの村を襲ったらしい。だがここまでの態度示すのは明らかに異常だ。
それはまるで五十年前のことに対する態度とは思えない。まるでつい最近のことであるかのように村人たちは犬夜叉について決して語ろうとはしない。そのことに驚きながらも珊瑚は何とか御神木の場所を聞き出すことができ、今に至っていた。
珊瑚はそのまま再び、目の前にある御神木に目を向ける。その幹には一部分だけ色が違うところがある。恐らくはそこに犬夜叉は封印されていたのだろう。だが村人たちの様子から考えるにその封印が解けたのは最近のことの様だ。でなければあんな態度は取ったりはしないだろう。だが何故五十年間解けなかった封印が解けたのだろうか。そんなことを考えていると
「………お主が犬夜叉のことを聞いて回っているという娘か?」
そんな声が珊瑚の後ろから響き渡る。驚きながら珊瑚が振り返った先には
隻眼の老婆の姿があった―――――
「そうか、お主は退治屋だったのか……」
隻眼の老婆、楓はお茶を入れながらそう口にする。今、珊瑚は目の前の老婆、楓の家に招かれていた。楓はこの村の巫女。そして自分が犬夜叉のことを聞いて回っていたことを耳にし、自分を探していたらしい。だがその姿もだがその雰囲気は他の村人たちとは異なっていた。
それは態度。犬夜叉のことを話題に出しているにもかかわらず、楓は村人たちの様に差別、忌避するような態度を見せていない。いや、それどころかどこか懐かしんでいるような気配すら感じる。そのことを不思議に思いながらも珊瑚は考える。この人物からなら犬夜叉のことが聞けるのではないのかと。
「はい、何でも最近封印が解かれたという噂を耳にして……」
珊瑚はそう言葉をつないでいく。だがその中には嘘が含まれていた。珊瑚は自分が四魂の玉を狙っていた犬夜叉が封印から解かれたと知り、それを確かめに来たという嘘をついた。それはこの村の様子を見たからこそ。もし自分たちの仲間に犬夜叉がいるとなれば無用な争いやいざこざを生みかねない。そう悟った珊瑚の判断だった。
「そうか………」
楓は入れ終わったお茶を珊瑚に出した後、真っ直ぐにその視線を珊瑚に向ける。珊瑚は驚きながらもその視線を合わせる。楓はそのまま何を言うでもなく珊瑚を見つめ続ける。一体どうしたのだろうか。そんな疑問を珊瑚が抱いていると楓はその視線を下げ、深く目を閉じてしまう。そしていくらかの時間が流れた後、楓は語り始める。
それは半年前、犬夜叉の封印から解けた時からの出来事。
封印が解かれた犬夜叉はそのままこの村で暮らしていたこと。
だが半妖であるということで差別と迫害にあい、森で暮らすようになったこと。
それにより犬夜叉は弱っていってしまったこと。
淡々と楓は事実を話し続けていく。だがその姿にはどこか悲哀が後悔がにじみ出ている。それは楓が犬夜叉のことを気に掛けて、いや心配していたことが伺える。だがその理由が珊瑚には分からない。犬夜叉は封印されていたとはいえこの村を襲った半妖。そして先程聞いた話では犬夜叉を封印し、殺された巫女である桔梗は楓の姉であったらしい。そうなれば犬夜叉はいわば楓にとっては姉を殺した仇でもあるはず。だが今の楓にはそんな恨みも憎しみも感じられない。そんな違和感を覚えながらも珊瑚は口を挟まず、話しを聞き続ける。そんな珊瑚の姿を確認し、一度大きな溜息をついた後、楓は再び話し始める。
そんな扱いを受けながらも犬夜叉は村の用心棒の様な仕事を行っていた。だがそんな中、ある妖怪がこの村を襲ってくる。
それは逆髪の結羅と呼ばれる妖怪。
結羅はこの村にあると思われる四魂のカケラを狙ってやってきた妖怪であり、その髪を使って村人たちを操り始めてしまう。それを防ぐために犬夜叉は結羅に立ち向かっていく。
だが結羅の操る髪は普通の人間には見ることができない物。犬夜叉は為すすべなく追い詰められていってしまう。楓もその霊力で対抗しようとしたがその老いにより力が衰えているため犬夜叉を援護することもできない。そして犬夜叉は結羅の攻撃によって絶命してしまう。いや絶命したかに見えた。
だがその瞬間、あり得ないこと起こる。間違いなく死んだと思われた犬夜叉が復活する。その姿はそれまでの犬夜叉の姿とは大きく異なるもの。それはまさしく妖怪の姿。そして犬夜叉は一瞬で結羅を八つ裂きにしてしまう。そのあまりの強さ、光景に村人たちは呆気にとられるしかない。だがこれで妖怪は去った。村は救われた。そう村人たちは安堵する。だがそれは一瞬にして崩れ去る。犬夜叉の手によって。
暴走した犬夜叉は今度はその矛先を村人たちに向ける。その爪で村人に襲いかかり、村を破壊していく。それはまさに悪夢のような光景。だがそれでも一人の死者が出なかったのは奇跡と言っていいだろう。それは村人たちには知る術はなかったが犬夜叉に人の心が残っていたからに他ならなかった。そして犬夜叉は暴走が収まった後、目にすることになる。
それは自らの手で破壊してしまった、傷つけてしまった村の姿。自分に恐怖と怒りの目を向ける村人たち。
その日を最後に犬夜叉はこの村から姿を消してしまったのだった―――――
楓はそのまま顔を俯かせたまま黙り込んでしまう。珊瑚もそんな楓の姿に掛ける言葉を持たない。だがこれで納得が言った。何故あれほどまで村人たちが犬夜叉を敵視していたのか。何故犬夜叉があれほどまでに人間嫌いだったのか。自分たちと関わり合いになるまいとしていたのか。
だがそれ以上に納得がいかないことが多すぎる。まず何故犬夜叉が村を守るようなことをしていたのか。そんなことをする必要は犬夜叉にはないはず。
次に結羅と呼ばれる妖怪との戦い。確かに見えない髪は厄介かもしれないがそれだけであの犬夜叉が後れを取るとは考えづらい。それほどまでに強力な妖怪だったのだろうか。だが楓の話からは犬夜叉が手も足も出なかったらしい。
そしてもう一つ。それは楓の言葉。
楓は話の中で犬夜叉のことを時折、『少年』や『あの子』と呼んでいる。それはまるで犬夜叉ではない誰かのことを指しているかのよう。
珊瑚はそれが今まで感じてきた犬夜叉への違和感の正体なのではないかと悟る。だが問いただしても楓はそれには答えてはくれなかった。まるでそれは自分が話すべきことではないと。そう告げるかのように。
「ありがとう、おかげで助かったよ。」
珊瑚はそう言いながら立ち上がり、その場を後にしようとする。もうすっかり遅くなってしまった。あまり遅くなると犬夜叉たちも心配するだろう。今、森の中で雲母が自分を待っているはず。それに加え、自分があまり長い間ここにいるのは楓にも村にとっても迷惑になるはず。聞きたいことはもっとあったがそれでもここに来た意味はあった。珊瑚がそのまま礼を述べた後家を出ていこうとしたその時、
「珊瑚とやら……もし、犬夜叉に会うことがあったら伝えてはくれまいか……『すまなかった』と……」
楓がどこか寂しげな表情を浮かべながらそう告げる。その姿に珊瑚は悟る。楓が自分と犬夜叉が近しい関係であるということを見抜いていることに。
「………ああ、会ったら伝えとくよ。」
珊瑚はそう答えることしかできない。だがその約束を守ることはできないだろうと。そう思いながらも。だがそれは楓も分かっていること。そして
「それと………」
楓はさらに何か自分に伝えようとしてくる。だがそれを言いかけたところで楓は口を噤んでしまう。それは先程自分が答えられない問いをした時と同じ姿。
「………いや、何でもない。気をつけてな。」
楓はそう言いなおし、珊瑚を見送る。珊瑚もそれ以上聞き返すことなく楓の家を、村を後にしていく。だがその胸中はある疑問に満ちていた。
それは犬夜叉がどうして封印から解かれてしまったのか。
それに楓は触れなかった。いや、意図的に避けていた節があった。
何故そんなことをしたのか、それを珊瑚は遠からず知ることになる―――――
楓は珊瑚を家から見送った後、家に戻りながら大きな溜息をつく。先程の珊瑚と言う娘。恐らくは犬夜叉と近しいものだったのだろう。
どうやらそれを隠そうとしていたようだが自分の話を聞いているその姿からそれは明らかだった。
そしてその姿から犬夜叉のことを大切に思っているのであろうことも。故に自分は告げることができなかった。
それは一人の少女のこと。
本当ならそれを伝えてもらうべきだったのかもしれない。だがそれはできなかった。今の犬夜叉、いや少年はもう新しい、恐らくはここにいるより遥かに幸せな生活をあの娘たちと送っているのだろう。ならばそれを壊すようなことをするべきではない。
もし何かが少し違っていればこんなことにはならなかったのかもしれない。
だが自分たちはあの少年にそれだけの仕打ちをしてしまった。例えそれが悪意が無かったことだとしても。
楓はそのまま後悔と罪悪感を胸に抱きながらも、少女が戻ってくるであろう家に明かりを灯し、唯その帰りを待ち続けるのだった―――――――