静まり返った森の中、一人の少年が木の上に寝そべったまま何をするでもなくただずっと空を眺め続けていた。その視線、瞳に何が写っているのかは分からない。だがその目にはここではないどこかの景色が映っているのではないか。そんな風に思える雰囲気が少年、犬夜叉にはあった。
そんな誰にも犯すことができないような空気の中、突然犬夜叉に向かって何かが投げつけられる。それは一直線に犬夜叉に向かって放たれてくる。だが犬夜叉はそれを見ることなく、その手で難なく掴み取る。犬夜叉がその手の中に目を向ける。そこには果物がある。それが先程投げつけられてきたものの正体。そしてそんなことをしてくるのは一人しかいない。犬夜叉はどこか気だるそうに体を起こしながらその眼下に視線を向ける。そして
「またお前か、珊瑚。」
面倒臭そうな仕草を見せながらそうぼやく。だがそんなことなど全く気にせずに樹の下にいる少女、珊瑚は犬夜叉の姿を見上げたまま話しかけてくる。
「悪かったね、でもまともな物食べてないんだろ?こっちに下りてきて一緒に食べないか?」
その言葉に犬夜叉はどこかやりづらそうな表情を見せる。どうしてこんなことになってしまったのか。一週間前に初めて珊瑚と出会い、戦闘を行った翌日からこんな光景が日常になりつつあった。自分は先の戦闘で珊瑚に力の差を見せつけるために戦った。それは面倒事を避けるため。そして自分の記憶にある珊瑚の強さなら今の自分でも追い払うことができると言う確信もあったから。そしてそれは間違いなく成功した。そう思っていた。だが見誤っていた。
それは珊瑚の負けず嫌い、いや執念と言ってもいいもの。それを自分は刺激してしまったらしい。その翌日、珊瑚は自分の前に再び姿を現した。だがその姿は戦装束ではない普段の着物姿。そしてその手には様々な食べ物が抱えられている。珊瑚はそれを自分に向かって勧めながら話をしようとしてくる。そこには全く恐れも怯えもない。つい先日自分に殺されかかったというのにこの態度は何なのか。驚きと同時に呆れを抱きながらも珊瑚は自分に接触しようとしてくる。だが犬夜叉はそれを頑なに拒否し続けている。それはある意味意地の様なもの。それに屈すれば何かに負けてしまうような気がしてならなかった。何よりも餌付けされているようで癪に触るのが一番の理由だった。
「そんなに意地張らなくてもいいじゃないか。ちょっと話がしたいだけなんだから。」
そんな犬夜叉の態度を見、どこか楽しそうにしながら珊瑚はそう告げる。それは犬夜叉の態度がやせ我慢であることをここ一週間の間に感じ取っていたから。
先日の戦闘。その強さは本物であり、自分はそれに敗北してしまった。それは今すぐ再戦しても覆せる実力差ではない。それは珊瑚の退治屋としての冷静な、客観的な判断。ならばそれ以外の方法で自分はこの依頼を完遂しなくてはならない。そのためにはもっと相手のことを知る必要がある。そう考えた珊瑚はお土産と言う名の餌付けを開始することになる。犬夜叉がまともな食事を取っていなことを見抜いたのもその理由。だが任務だけならここまでする必要もない。だが珊瑚は知らず、犬夜叉に興味を惹かれていた。それは様々な理由があった。その一つが
「おお、また来とったのか、珊瑚!」
「七宝、お邪魔してるよ。」
自分の目の前にいる小さな子狐妖怪、七宝の存在だった。それを知ったのは犬夜叉と初めて出会った日の翌日。珊瑚は何とか犬夜叉と話をしようとするもそのすべてをあしらわれ、途方に暮れるしかなかった。だがそんな時、目の前にいる七宝が現れた。初めはこの森に住んでいる妖怪かとも思ったがそれは違っていた。七宝は犬夜叉が連れている仲間であったらしい。本人はそれを否定して、勝手に付いてきているだけだと言っていたがそれが照れ隠しであることは誰の目にも明らかだった。その姿はまるで兄弟の様。そして七宝は犬夜叉とは違ってかなり人懐っこい妖怪であり、人間である自分にもすぐ懐いてくれた。もっとも自分が持ってくる食べ物につられてしまっているところも大きかったようだが。
「今日は何を持ってきてくれたんじゃ!?」
「これは近くの村でできたリンゴだよ。今年はできがいいみたいだからね、きっとおいしいよ。」
「ほんとか!?犬夜叉、早く降りてこんか、御馳走じゃぞ!」
「ふん、俺はいらねえ、勝手にしろ。」
はしゃぐ七宝とは対照的に犬夜叉はそう言い放った後、再び木に寝そべってしまう。どうやら引っ込みがつかなくなってしまったらしい。まるで反抗期の子供の様だ。
「全く、犬夜叉は子供だからのう、やはり大人のおらがしっかりせねば!」
そう言いながらも七宝は一心不乱に目の前にあるリンゴにかぶりついていく。その姿はまさに見た目通りの小さな子供そのもの。犬夜叉のことを偉そうに言えるような姿ではなかった。だが七宝が誰よりも犬夜叉を信頼していることは間違いない。それは七宝から聞いた話。
七宝は雷獣兄弟と呼ばれる妖怪によって父親を殺され、その復讐をするために四魂のカケラを手に入れようとしていたらしい。だがそれを持っていた犬夜叉に呆気なく返り討ちに会い、途方に暮れるしかなかった。だが犬夜叉はそのまま何を言うでもなく雷獣兄弟を倒してしまう。そのことに感動した七宝はそれ以来犬夜叉について回っているらしい。犬夜叉曰く、それは雷獣兄弟の持っていた四魂のカケラを手に入れるためだったらしいがそれが嘘であることを七宝は確信していたのだった。
珊瑚は夢中でリンゴを食べている七宝を微笑ましく見つめた後、その視線を犬夜叉へと向ける。どうやら先程のやり取りが気に障ったのか不貞寝をしてしまっているらしい。だがそんな姿とは裏腹に犬夜叉が本当はかなりのお人好しであることに珊瑚は気づき始めていた。それは先の自分との戦闘や、村人たち相手にも手加減をしていることからも明らか。それ故に珊瑚は何とか話し合いで解決できないものかと考えていた。
そしてその視線は犬夜叉の首に掛けられている四魂のカケラに向けられる。珊瑚としてはそれを何とか渡してほしかったのだが残念ながらそれは叶いそうにない。だがそれでもいいかもしれないと珊瑚は思い始めていた。それは犬夜叉が四魂の玉を使う気が全くないことを悟ったから。七宝から聞いた話によるとそのカケラは全て犬夜叉が自分で集めたものらしい。確かに犬夜叉の強さなら四魂のカケラを手にした妖怪にも後れを取ることはないだろう。だが犬夜叉は自分の力に満足していないらしい。
『強くなりたい』
それが犬夜叉の口癖らしい。しかし今でも十分な強さを持っているのではないか。そう珊瑚は考えるも犬夜叉の目指す強さはそんなものではないらしい。だがそこには大きな矛盾が存在する。
強さ。それを手に入れるのであれば四魂のカケラを使えばいいのではないか。実際、その力を求めて多くの妖怪が四魂のカケラを探し、奪い合っている。加えて犬夜叉が持っている四魂のカケラの大きさは凄まじいもの。恐らくはそれに見合うだけの力が、妖力が手に入るはず。だが
『こんなもんで強くなっても意味がねえ』
珊瑚の疑問を犬夜叉はそう吐き捨てるようにして答えた。その言葉に珊瑚は驚愕するしかない。四魂の玉は妖怪であれば喉から手が出るほど欲しいもの。それをまるで何の価値もないガラクタであるかのように言い放つなどありえるのだろうか。だが犬夜叉が嘘を言っているようには見えない。いやそれどころか四魂の玉自体に強い嫌悪を抱いているのではないかと思えるほどの感情がその言葉には込められていた。
だがなら何故四魂のカケラを集めているのか。その理由は単純明快。それは四魂のカケラを持っていれば妖怪が自分を狙ってくるから。それが強くなるためには手っ取り早い、効率がいいため犬夜叉は四魂のカケラを首に掛け、集めているらしい。そんな本来の用途とはかけ離れた四魂のカケラの使い方に珊瑚は呆れを通り越して感心すらしてしまう。
そして同時にその強さへのこだわりに驚きを隠せない。確かに妖怪であれば、いや妖怪に限らず皆、強さを求める。だが犬夜叉のそれは明らかに異常だ。それは何かの強迫観念に囚われているのではないか、たった一週間しか関わっていない自分がそう思ってしまうほどのもの。だがその理由を犬夜叉は決して語ろうとはしない。それは七宝も知らないらしい。だが気になることを七宝は聞いたことがあるらしい。
それは『時間が無い』という犬夜叉の呟き。それが犬夜叉が焦っている理由らしい。だがその意味が珊瑚はもちろん七宝にも分からない。妖怪の寿命は人間よりも遥かに長い。半妖であってもそれは同じだ。そして犬夜叉は人間でいえばまだ十五歳前後の少年。まだまだ焦る必要などないはず。
加えて気にかかるのがその腰にある刀。先の闘いでも自分はそれが犬夜叉の武器なのだと考えていた。だがそれを結局犬夜叉は抜かなかった。もしかしたらそれを抜く必要もないと判断されたのかとも思ったがそれは違うようだ。何故ならずっと一緒に旅をしてきた七宝も犬夜叉がその刀を抜くのを一度も見たことが無いらしい。使えない、使わない刀を何故持つ必要があるのか。どんなに考えても珊瑚にその理由が分かるはずもない。
半妖と言う珍しい存在であると言うこともあるがそれ以外にも気になることが多い。そして一番の理由。それは二度目に会った時の犬夜叉の言葉。
『またお前か、珊瑚。』
それは端から聞けば何もおかしい言葉ではない。だがそれはあり得ない。それは『珊瑚』という言葉。それが犬夜叉の口から出てくるはずなどない。
何故なら自分はその時にはまだ一度も犬夜叉に名乗っていなかったのだから。
そのことを何度か問い詰めようとしたが結局はぐらかされてしまったまま。それが珊瑚が犬夜叉にこだわっている理由だった。
そんなことを考えていると、突然先程まで木の上で寝ていた犬夜叉が自分の近くに降り立ってくる。その姿に我に返った珊瑚は驚きながらも犬夜叉に視線を向ける。犬夜叉はそんな珊瑚をどこか呆れた目で見つめながら
「………俺の負けだ。これ以上纏わりつかれるのは御免だ。明日にはこの森から出ていく。それでいいんだろ?」
そう溜息をつき呟く。それは犬夜叉の降参宣言。このままではずっと纏わりつかれるのではないかという不安があったからに他ならない。
「……いいの?こっちの勝手なお願い聞いてもらっちゃって?」
珊瑚はそう驚きながら聞き返す。確かにそれは珊瑚が望んでいた結果ではあったがこんなに簡単にいくとは思わなかった。元々村側の一方的な依頼でもあったからだ。しかし犬夜叉はそんな珊瑚の姿を見ながらも淡々と言葉をつないでいく。
「ああ……どっちにしろそろそろ出ていこうと思ってたからな。この辺りの妖怪はほとんど倒しちまったし……」
それは犬夜叉の嘘偽りない本音。この森に住処を移してしばらく経つがもう自分を狙う妖怪は居なくなってしまっていた。ならばずっとここに留まる理由もない。先日珊瑚と闘ったのは一方的に言われてそのまま追い出されるのが気に食わなかったのが本当の理由だったのだがそれは言わぬが華だろう。
「そうなんだ、何だか悪いね………でもこれで安心して里に戻れるよ。」
そんな犬夜叉の胸中など知らぬ珊瑚はそう安堵の声を漏らす。何にせよこれで依頼はこなすことができた。少し後味が悪い任務ではあったが仕方がない。何より一週間と言う短い時間ではあったがどこか楽しい時間でもあった。いつもは妖怪と闘ってばかりの退治屋だがたまにはこういうのも悪くない。
「珊瑚は家に帰ってしまうのか……?」
七宝がそうどこか寂しそうに珊瑚に話しかける。短い時間ではあったが自分と接し、遊んでくれた珊瑚と別れることに寂しさがあるらしい。珊瑚はそんな七宝を優しくあやしながらも苦笑いしながらそれに答える。
「ごめんね……でもあんまり遅くなると父上や琥珀も心配するから。」
本当なら大ムカデの退治だけで帰るつもりが思ったよりも時間がかかってしまった。恐らくは心配をしている頃だろう。もう少し一緒にいたかったが仕方がない。だがもしかしたらまた会うこともあるかもしれない。その時には琥珀たちにも紹介しよう。そんなことを珊瑚が考えていると
「……………珊瑚、その琥珀ってのはお前の家族なのか……?」
突然犬夜叉がそんなことを尋ねてくる。珊瑚はそれに驚いてしまう。犬夜叉の方から自分に話しかけてくることは今までほとんどなかったからだ。何よりもその態度。それは真剣そのもの。いつもの不機嫌そうな、気だるそうな雰囲気は全く感じられない。
「あ、ああ。あたしの弟だよ。十一でね。もうすぐ初めての実戦に出る予定なんだ。」
そんな犬夜叉の姿にそこか気圧されながらも珊瑚は答える。何故そんなことを聞いてくるのだろう。自分は琥珀のことは何も話したことはないはず。ただ単に興味があっただけなのだろうか。
「………………そうか。」
犬夜叉はそのまま何かを考え込むかのように黙りこんでしまう。七宝もそんな犬夜叉の様子を不思議に思いながらもただ見つめることしかできない。自分もそれが何なのか気になるところだが日も暮れ始めている。そろそろ出発しなければ。
「じゃあね、犬夜叉、七宝!元気で!」
珊瑚はそう笑みを浮かべて手を振りながら森を後にしていく。七宝はそれを名残惜しそうにしながら見送って行く。
そして犬夜叉はそんな珊瑚の後ろ姿をどこか決意に満ちた目で見つめ続けるのだった―――――