――泣かないで、ねぇ、きっと大丈夫。
――なんとかなるよ。
「春見さん……?」
ふと目を覚ます。眠りというにはあまりにも起動が速やかすぎる、最適化でもされているかのような奇妙で慣れ親しんだ感覚。
そして真っ先に耳に入るのは、ついさっき絶交の宣言をしたその人、他ならぬマミの呼びかけ。
まるで奇跡。リセットされた人間関係に感謝するのは初めてだ。
日常的に過ごす上で、馬鹿話をするならば逆行はそこまで問題にならない。
しかし、何か打ち明けようが友情を深めようが、相談されたこと自体を完全に忘れてしまうので意味が無い。この呪いをありかは何度憎たらしく思ったことかわからないほどだったが、今回ばかりは感謝していた。
そろそろ千に届きそうなほど繰り返したというのに、感謝したのは父さんたちを見捨てた三回目とこれの二回分だけ。感謝を捧げるにはとてもじゃないが割に合わない……。
(そうでもないか)
本来ならば修復できそうにもない溝を、発生ごとまるまる一瞬で巻き戻すのだ。
そうそう起こるような奇跡ではない。
まあもとから不随意に起こったものだから、都合がよければ奇跡、悪けりゃ呪いだなんて勝手に名付けているだけなんだけど。
多かれ少なかれ、人間ってそんなものだろう。
つまり、あの日常が帰ってきたってことだ。
今度こそ上手くやって見せる。
そんなふうに思いながら、ありかは手元の水晶を握りこんだ。かれこれ数百回は共にしている相棒だ。
いつもこれを握ると、どことなく自己が確立するような――
――瞬間、感じた怖気に水晶を振り払った。
「なに、これ……」
水晶なんかじゃない、これは。
濁りというのだろうか、真水の中にどろどろの重油を突っ込んで全体に拡散するまで強引にかき混ぜたように、黒いナニカが水晶の檻の中を飛んで舞っている。
大切な何かを汚されたような感覚に吐き気すら感じたが、しかしそれはありかの大切な相棒であり強力な武器だ。どんなに徹底して動きを効率化しようと、鍛えられていない小学生の素手でどうにかできるほどバケモノたちは甘くない。
持ち手を利用して遠心力で叩きつけるだけならば釣に使う鉛の錘でも十分だろうが、水晶を叩きつけた時の衝撃効率は対バケモノとしては最高だ。
結局それを手放すことは出来なかったものの、なるべく目に入れないようにいそいそとスカートのポケットに突っ込む。
今までループの中、この水晶だけは例外となっていたのは薄々気づいていた。回を繰り返すたび前回より少しだけ薄く曇って見えたため、何か有るんじゃないかとは何度か考えた。
だが、この惨状は一体なんだ? 檻にたまる澱のように不気味で、自分の体がぶよぶよと腐っていくようなおぞましさを感じるこの"穢れ"。
いつもならば身につけているだけで感じるはずの安らぎが感じられず、今あるのはただ喉に爪を立てて掻き立てるような不安だけ。
「「なので冬休みに入るにあたりー、皆さん我が校の生徒たちには以下のやくそくごとを守っていただきたいのです。これはなにも――」」
それでも、数カ月ぶりにありかは校長とシンクロを始めた、いつも通りマミが向ける怪しいものを見る目を軽くスルーしながら。
二度目のボスキャラ殺しは簡単だった。
前回と同じ最短ルートを通り、ぶんぶんと振り回した濁り水晶を迷うこと無く液体の巨人の顔面に叩きつけ、仲間を呼ぼうと吠えかけてもなお殴り続け、擬似マウントポジションで100も殴らないうちにぐちゃぐちゃになってはじけ飛んだ。
一度やり方さえ覚えてしまえばカンタンなもんだ、と今までのループは何だったのか虚無感すら感じる。
おかしな世界が罅割れ、砕け散り、欠片も残さず宙に溶けた瞬間、得も言われぬ本能的な安堵が湧き出してきた。
狂気の空間から元の居間に戻ったせいだろうか、と、そこまで思考が及んだ瞬間ふとこの感覚にデジャブ。かつて、もう思い出せないくらい前に感じた"何か"に似ているような――
「ホント、なんなのさ、これって……」
まさかと殴り倒した後の水晶を見ると、そこには曇り一つ無い澄み渡った結晶が台座にはまっていた。
振り捨てたくなる致死の猛毒のような濁りは消え、昼下がりの太陽にきらめくパワーストーンはその存在感を遺憾なく発揮してありかの心を鎮める。
握ったままでいると自己が保証されたような気持ちになって、細かいことはどうでも良くなった。
なんというか、これを持っているだけでアイデンティティが確立されるというか、この世界に存在していることを許されたような、そんな気分。
なにはともあれ、このバケモノ殺しの作業が終わってしまえばあとはモラトリアムの始まりだ。
思う存分のんべんだらりんと冬休みを過ごして、マミと遊んで、学校の宿題を解いて……、
それから、マミを交通事故から守って絶交すればいい。
――ああ、それでいい。
ありかはみんなを守りたいのだ。だから自分とマミとの関係なんてものに囚われて、マミを助けないわけにはいかない。
それに――と、ありかは考える。どうせ助けても、助けなくても関係はここで終わるんだ。助けたら前みたいに、助けなければこの時間の檻に入るその前みたいに。
だからありかはもう恐れない。気がつけば時間が巻き戻っていても受け入れるし、ただ今だけを楽しく過ごせればそれでいいじゃないか。
だって父さんも母さんも、こんなに穏やかな顔をして眠ってるんだから。
昼下がりのリビングで、あのバケモノが現れた瞬間に気を失ったのかテーブルに突っ伏したまんまで寝息を立てている。
さっきまでこの居間に怪物が巣を張っていたなんて誰も思わないような平和な光景。自分たちなりに悩みもあるだろうけど、命がうんぬんなんてありかみたいなのとはほど遠いだろう幸せな悩み。
それに悩めることがいっそ羨ましいくらいだが、二人は平和に過ごしてくれていればそれでいい。それが今、この瞬間に戻ってきた私の存在理由なんだろうから。
☆
そしてありかは車を壊す。今度は趣向を変え、ボンネットをこじ開けてそこにあったゴム製のベルトを切断したり液の溜まったタンクの底を包丁で切り裂き漏れさせてみたり、電線っぽいのを切り取ったりしてみた。
それで結局車が壊れてマミたちの家族ドライブは中止、週明けには学校で会い、特に感慨もなくマミの愚痴を聞き流す。
――だって、どうせすぐに壊れるんだから。
肩を怒らせ、ぎろりとこちらを睨めつけるマミを見て思う。そらきた、と。
「最近のあなた、一体なんなの!? いっつもここじゃないどこかから見下してるみたいに、まるで仕方なく付き合ってやってるみたいな!」
私たちは道端の石ころじゃない! なんて言われても、ありかは困るしかない。別に自分はそんな風に思ってないから。
あのありかはどこへ行ったの!? なんて言われても、ありかは困るしかない。だってあのままのありかだったら今頃バケモノに食われてお陀仏だから。
ありかとしては十分に友を大切にしているつもりだ。自分の生活を犠牲にしてもまずマミの身を守ろうとしてきたのはその表れだし、恥じる行為を行った記憶もない……最初のループ以前を除いて。
少なからず覚悟を決め、千回近いループの中で成長したことは認めよう。
それが仮にありかの罪だったとしても、この守りきった時間のマミに言われる筋合いなんてない。その結果マミの両親を守れたわけなのだから、この成長を捨てることなどできない。
だから、ありかには自分がどうすればいいかなんてさっぱりわからなかった。
でも――
「運命だったんだ」
そう、きっとどれだけ繰り返そうと、マミと笑いあったまま未来を迎えることなんてできやしない。
奇跡なんてそうそうカンタンに起きるものでもない。だからきっとこれはペナルティ。最初からきっと決まっていた。
だからこれについてはすっぱり諦めてしまおう、とありかは思った。
マミと遊べるのは大事故が起こる週末まで。
それ以降は次のループまで待つ。
ありかにとってはそれだけで事足りてしまうのだ。
だって、どうせリセットされてしまうのだから……。
だから何食わぬ顔で自分の机からノートと教科書を取り出してありかは準備を始めた。確か次の時間は算数の授業だったはずだ。数学は比較的苦手でも、流石に算数で詰まるなんていくらなんでもありえない。
それでも予習を始めた自分に、何をやっているのかと笑い飛ばしてやりたくなった。
「あらお帰りなさい、早いわねありかちゃん」
「うん、ただいま……」
授業が終わった放課後、ありかは独りで家路についた。
いつもならマミとふざけながら帰ったり、他の友だちと遊ぶ約束を取り付けたりしながら帰る道を一人でまっすぐ帰るのだから、帰りが早くなるのも当然の話であった。
「お父さんも今日は早いみたい。せっかくだから、一緒にどこか食べに出ましょうか?」
「うん、それ楽しみ!」
マミとまた喧嘩別れしたからといって、せっかく楽しそうな父さんや母さんに水をさすほどのことでもない。ありか一人が暗い顔をしていたらきっと、ふたりは楽しめなくなるに違いない。
レストランに行って食べたパスタは灰みたいな味がした。
☆
マミとお互い、教室にお互いがいないものとして振舞う日々が二週間ほど続いたあたりで、ありかは学校に出なくなった。
なにも登校拒否というわけではない、単純に学校まで行けなくなっただけだ。腕も足も麻痺して動かず、そろそろ肺が麻痺する頃だろうことも感じ取れた。
「ありかちゃん、林檎でも剥こうか?」
「ううん、いい。別にそんなに食べたくないし」
「食欲がなければ父さんが摩り下ろしてもいいんだぞ? いっぱい食べて早く元気にならないとな」
「……わかった」
食べたくない理由としてわざわざ顎を動かすのが面倒だったことが大半を占めていたありかは、そこまで言われると断りきれずに渋々と頷いた。
……どうせ食べても無駄なのに。
母さんの介護を断り、父に押し切られながらも心のなかで呟いた。だがそれでも後悔は無かった。
ありかの母はあまり余裕が無いながらも、心の底からありかのことを看病したし、父も他の予定を切り上げてすらありかの下へ毎日駆けつけ、面会時間ギリギリまで家族三人で団欒。たまに祖父母が来たりもして、気づけば家族の時間は確かに増えて濃密となっていた。
ありかが倒れたことで危機感が生まれ、結果的に家族の結びつきが強まったというところだ。
これならきっと、二人は喧嘩別れなんてしないで済む。父さんも、あんな風に落ちぶれずに済む。最高にハッピーじゃない。
父さんと母さんに心配をかけてしまうことだけは心残りではあったが、もう満足だ。これだけの結末を迎えられたならば、もういいだろう。
「じゃあありか、また明日な」
「明日はありかちゃんの好きなマンガの発売日だったわよね、持ってくるわ」
面会が終了し、扉の向こうへ去っていく二人を見てありかはそう思った。
いままでどうにかして動かそう心臓に入れていた気合いを、解く。
――ごめんなさい。でも、ありがとう……
消灯時間でもないのに真っ暗になっていく視界の中、誰かの声が聞こえた気がした。
そうして今日も楽しい日々が始まる。
仲の良い幼馴染のマミとありかの、たのしくふざけあい、仲睦まじく手を取り合う日々が。
その胸元に、澄んだ水晶をきらめかせながら――