――あなたは、誰?
私は広がっていた。
――そんなに必死な、あなたはだぁれ?
私は広がり、たゆたっていた。
――だいじょうぶ、もうだいじょうぶ。だから落ちつこう?
私、なにやってるんだろう。
――私? 私はね……
「ん……?」
意識が覚醒するのはもう見慣れた光景。生徒数の割にはだだっ広く寒さの際立つ体育館。
そんな中でマミに肩を揺らされて意識に火が灯るのももう慣れっこだ。
「――誰か、私を呼んだ?」
それでも、誰か知っているようで知らない声に呼ばれたような気がした。
「そりゃ、さっきから私が起こしてるからに決まってるわよ」
それもそうだった。
時を越えたありかを起こすのはマミの役目。これは今までの時間旅行――ループにおいて不変のことがらであった。
誰か別の人に呼びかけられたような気もするが、きっと気のせいだろう。
「……あれ?」
自分がループしたのはなんとなくわかる。死ぬと巻き戻るはずの時間は間違いなく巻き戻っていたが、それでも私は自身の死因を覚えていない。
前回はあのバケモノから逃げ出して、それから……。
「ペナルティ、アリなんだ……」
逃げ出したペナルティっていうのがあるらしい。
最後の記憶は珍しく曖昧だが、その状況に行き着く過程には心当たりがあった。
「何をいつまでも寝ぼけてるのよ。校長先生の話だってさっきから言ってるでしょ。……ちょっと、どうしたの、まさか具合でも悪いの?」
私は前回、父さんと母さんを見捨てて逃げ出した。見殺しにした。
そうしたらある日突然、体に魂が行き届かなくなるように、末梢から動かなくなっていき、そして最後には――
「心臓麻痺でもしたかな?」
「いきなり死んでる宣言された!?」
なんで校長先生の話聞くと心臓麻痺するの、などとマミがわめいていた。
「何言ってるのさマミ、心臓麻痺なんて起こったらまず死ぬに決まってるじゃない。私が死んでるように見える?」
「自分から言っておいて流石に理不尽じゃないかしら!?」
なるほど、どうやら私の脳からこぼれた独り言がマミの話と妙な形で噛みあってしまったらしい。
なんとも不思議な偶然もあるものだ、と少し笑った。なんというか、笑うのもちょっと久々な気がする。
「ああ、気にしないで。ちょっと考え事してただけだから」
「私はちょっとした考え事で心臓麻痺なんて言葉が出るような友だちを持っていたの!? と言うか春見さん、人の話は聞きましょう!」
確かにふと出る言葉が心臓麻痺というのもちょっと考えさせられるものがある。
何度も死ぬ目に合うような異常な状況でもなければ、ひょひょいとは出ない言葉だろう、きっと。
――それでも。
人間の命は脆い。交通事故で失う。バケモノに食われて失う。簡単に殺しあわされて失う。
それが私や家族、マミの両親だけでなく、マミにだっていつでも起こり得ることだけは、忘れてはいけないだろう。
勿論、本人が念頭に置いて行動しておくに越したことはないだろう。
「心臓麻痺なんてよくあることだよ。日本中のどこででも起こり得る。
――いや、世界中で起こることだね。だからさ、その可能性を日常に埋もれて考えもしない日本人がおかしいんだ。平和に包まれて、バカになっちゃってるんだ」
「心臓麻痺について突っ込んだと思ったらなんか思った以上に正論が帰ってきたわ、日本人全員に向かっての否定付きで!」
「おお、倒置法かぁ。あとさ、校長先生の話の時に大声出しちゃ駄目だと思うんだ。人の話は聞かないと」
「……すみません」
ものすごく釈然としなさそうな顔でマミは黙って、無言で睨んでいた校長先生に視線を戻した。
くるくるとパーマのかかった髪を揺らして、あとで覚えてなさいよと言わんばかりにありかへ振り返りながら話が終わるのを待った。
なんとなくやり込めたような形になってしまって申し訳なく思わないでもなかったが、今は校長先生のお話を聞くのが先だ。
あ、そうだ。
この話を覚えて次回以降ハモって言えるようにしたら、ちょっとした生き甲斐になるんじゃないだろうか。
人生生き甲斐がないと駄目だ。だからこれからは校長先生のお話を気晴らしがわりに聞くことにしようと考えた。
『なので冬休みに入るにあたりー、皆さん我が校の生徒たちには以下のやくそくごとを守っていただきたいのです。これはなにも君たちの自由を奪おうという意地悪ではなく、あくまで校長先生がきみたちに元気で健やかに冬休みを過ごし、新年もまたはつらつとした姿で私たちの目の前に現れてくれるよう――』、
体をまさぐるが、特にメモに使えそうなものもなかったため、空で覚えようとありかはがんばってみるのだった。
「いてっ」
話が終わり、体育座りで座ろうとしたところでありかは尻に痛みを感じた。
高校生から成長途中に逆戻りしたためだいぶ軽く感じるお尻をどけてみると、そこには妙なガラス玉。
篭のような意匠をした金色の地に包まれた、無色透明なガラス玉で、カーテンから漏れる陽の光に透かしてみるときらきらと反射させてちょっときれい。
惜しむらくは中にちょっと濁りが見られるところだが、それさえなければホンモノの宝石みたいで、なんとなく手放すのが惜しくなる。
きっと高校生までそういったものに縁のなかった私にとって憧れるものがあるせいだろう。
――そういえば、これって持ち主が見つからないんだよね。
ふと今までのループを思い出すと、3回とも結局持ち主が見つからないで放置されていたものだったはずだ。
それにそれに、よくみると水晶にも見える(見分け方なんて知るはずもないが)この宝石だ。
パワーストーンなんて信じてもいなかったが、時間旅行にバケモノまであるこのご時世、ちょっとくらい奇跡やご利益にすがってみるのも悪くない。
うん。悪くない。小学生の私ではちょっと背伸びしてる感はあるかも知れないが、少しくらいいいよね?
拾いあげてスカートのポケットに突っ込んでみると、なんとなく心が安らいだ気がした。
なんというのだろう、まるで長い間分かたれていた母さんに再び会えたときにも感じたような、暖かな感覚。
たかが石ころでこんなにも変わるのか、パワーストーンというのはなかなか侮りがたいものがある。
「ここまできたら、徹底的にオカルトで対抗してやるんだから!」
水晶にパワーがある。じゃああとは?
神社で買ったお守りでも投げつけるか? 塩でも撒くか? それとも般若心経でも唱えてやろうか? もちろん知らないけど、適当に南無阿弥陀仏だの南妙法蓮華経だの唱えておこうか。
それで駄目なら殴ってやる。学校の金属バットでぶん殴るし、それで駄目なら包丁で刺してやる。それでも死なないようなら打ち上げ花火でも水平発射してやる!
とにかくありとあらゆる手段を使って、あのバケモノをぶっ飛ばす!
――そして、何としても父さんと母さんを守る。
ぐっと、また動くようになった拳を握り締めて、自分の魂に約束を交わした。
そうだ、負けてなんてやんない。私はあのバケモノどもに抗って見せる。
例え刀折れ矢尽きようとも、ぶん殴ってぶち殺す。
――だって私には、いま、握れる拳があるんだから
そういった理由で、ありかは生まれて初めて盗みを働いた。
時間を逆行しているとか、そういった屁理屈を一切無視しての初めてだ。
盗んだ品目はただの一品、その名も金属バット。一本で叩くぶつ殴るの三つの機能を備えたミズノ製の一品だ。
学校の体育倉庫の奥にしまわれている品で、少し錆びて相当前から使われていないことが推察できる。
実際、暴力事件の発生より小学生に鈍器を持たせるのは危険なのではないかというPTAの突き上げで体育倉庫の奥深くに封印され、もう長いこと陽の目を見ていないモノであった。
何もしてないのに、レッテルだけで放逐された悲劇の一本。
なんとなく、自分の境遇とかぶって見えてありかは笑ってしまった。
もっともバットは物で、ありかは人間だ。バットが何もしない事に罪はないが人間が何もしなかったらそれは怠惰となる。
バットを持ってこっそり帰宅し、ただいまと挨拶してリビングに入る。
「お帰り、あり……何でそんなものを持ってるんだい?」
バットを手に持って家に帰ったら、父さんにそんなことを言われた。
それはそうだろう。小学生の娘が突然クリスマスの日に金属バットを持ってきたら、客観的に見て怪しい。
しっかり教育しようとも思うだろう。
「ちょっとさ、処分品ってことで処分される前にもらってきたの。ほら、暴力事件のアレ」
「ああ、あれで……」
いかんなあ、バットまで禁止するなんてそれは違うんじゃないか、などとぶつぶつと呟きながら、父さんは納得したように頷くと、それはそれとしてと区切った。
「じゃあ早く玄関に置いてきなさい。母さんもありかのことを待っていたんだよ」
「ありかちゃんは揚げたてのチキンが好きだもんね」
「うん、今置いてくる」
玄関に金属バットを置いて、ニ階の子供部屋に荷物を置き、居間に戻って母さんの料理を待つ。
パーティのお昼ごはんは美味しかった。記憶どおりにからっと揚がったチキンに香り豊かなスモークサーモンのマリネ、にんにくの香りが食欲を掻き立てるガーリックパン。
食べ終わってごちそうさまを言う前に割れて、サブリミナルで割り込む異界。
でも、バケモノ世界に飲み込まれた後に玄関に金属バットを取りに行ったらまず玄関自体が存在しなかった。
「食らえ、ありかパーンチ!」
私は死んだ。
そういうわけで、ありかは今度は時間ギリギリに家に入ることにした。
バケモノが現れるのは経験上2時ごろになる。
これに遅れるとたぶん父さんと母さんが死んで、それに満足したのかバケモノは撤退する。
そしてこいつを逃がすのはきっとルール違反なのだ。見捨てれば私は現代医学では説明のつかない不思議な力で死ぬことになる。
装備はお守りの水晶に金属バット。こんどこそ、あのバケモノどもをぶっ飛ばすのだ。
『~♪』
携帯のアラームが鳴る。セットされていた時間だ。
『帰ってくるのはまだなの?』などのメールを黙殺したまま電源を切り、なるべく音を立てずに玄関の戸を開いた。
この時点ではバケモノはまだいない。
何か異常はないかなぁと探ってみるが、特に無い。
「まだかしらありかちゃん。遅いわねえ……」
「もうそれで何度目だい? 母親としてありかを信じてもう少しどしんと構えて待っていたらどうなんだ」
「なによ、別に誰に迷惑をかけているわけじゃないんだからいいじゃない。器のちっさい男ねぇ」
「僕に迷惑をかけていることがわからないのか? まったく、体重ばかり増えてぜんぜん精神的に落ち着かないんだなきみは」
「なんですって! あなたこそ心にゆとりが足りないと思わない? 頭の毛根と一緒に心臓の毛まで死んじゃったのかしら?」
「何だと隠れ肥満!」
「何か違うって言うの毛生え薬浪費家!?」
……居間の空気が最悪なことを除けば。
というか、小学生の頃から割と仲悪かったんだ。私がちょっと遅れたらここまで喧嘩が発展するなんて。
逆行する前の小学生時代も、自分がいないときはこんなだったのだろうかとちょっとありかは遠い目であらぬ場所を見ていたが、それもそう長くは続かなかった。
――ぴきり。
空間が音を立てて罅割れる。
割れた中からは極彩色の輝き。閃光を放つウミウシが笑顔の仮面の咆哮に乗って、ミルク色をした風を逆撫でる。
火の玉が八本足を生やしてふよふよとなにものかを探して彷徨う。
――そう、そこは気狂い玩具箱
「はっ、上等よ」
上唇をぺろりと舐め、粟立つ皮膚をごまかして無理やり笑みを形作る。
死ぬ覚悟ならダース単位で決めてきた。
今のありかを完全に殺せるものなどありはしない。魔女だろうが魔王だろうが天使だろうが神さまだろうが、ありかの時を巻き戻すトリガーにしかならない。
――自分で決めた約束を忘れない限り、私は無敵だ。
「てやああああああああああああ!」
なにぶんありかは我慢強い性質をしている。
金属バットを両手で握り締め、近くにいた火の玉目がけて殴りかかった。
ありかが何をしているのかわからないのか、全く無反応でバットはバケモノの真芯を捉えた。
手応えアリ。足をもつれさせて地面に倒れ込んだ炎のバケモノに向かって、再度振り上げたバットを再び振り下ろした。
ぐしゃり。
腕が確かな感触を伝えてくる。もういちど。
ぐしゃり。
そうだ。
ぐしゃり。
そうだ。そうだ。
ぐしゃり。
その気になれば、バケモノなんて屁でもないんだ!
そのまま数度殴りつけると、バケモノは弾けて忽然と消え去った。
煙も肉片も残さず、まるで最初からいなかったかのように消えてなくなってしまった。
そいつが存在した痕跡はただ金属バットに残る確かな熱のみ。
「はぁ……、はぁ……」
乱れる呼吸を正すと周りにはまだまだ同じような奴らが一杯だった。
『uoradnnannnan』『ubosaubosa』『adukokuohinamasaako』『adukokuo』『inamasaako』『adukokuohinamasaak』
――見られている。
包囲を狭めるようにやってくる火のついたレーズンみたいなしわしわのバケモノたち。
金属バットを掲げて、やつらを威嚇するようにぶん回す。
さっきまでの振り下ろしで大分腕が疲れていたが、この際そんなものは関係なかった。
殺らなきゃ殺られる。
殺られても次があるし、いい加減死ぬことにも慣れてきたが、そうそう無駄死を繰り返したくはない。
かと言って逃げたら父さんが死ぬ。母さんが死ぬ。
ならば取るべき手段は特攻のみ!
「らああああああああああああああああああああ!」
バットを引きずりながら駈け出して、そのまま一閃。
こちらの行動に無関心に寄ってきていたバケモノをジャストミート。50ヤードはふっ飛ばした。
返す刀でその隣を歩いていたバケモノに振り下ろす。
地面に焦げ跡を付けながら蝋の島を転がってブランデーの海までホームラン。
そのまま振り返って背後のヤツを――
ぶん殴ろうとして、手からバットがすっぽ抜け、地面に空虚な音を立てて転がった。
小学生女児の握力の限界だ。
「そんな……」
鈍く輝く金属のバットは子どもが殺人的に扱うには重すぎたのだった。
無手になったありかはそのまま、転がるようにしてその場を離れようとしたが、それでもあまりに無謀だった。
げじげじとした繊毛の生えたバケモノの足が、ありかの行く手を遮ったのだ。
「ファッキン、バケモノ」
炎に抱かれるように、緩やかに肌を包みこんでいく嘔吐するほどの灼熱感。
もう数度目にもなるそれに焼かれていき、ありかは再び絶命した。