あの日から、ありかはただ死体のように動くだけだった。
何かを欲しがるでもなく、何かに取り組みもしない。
憂鬱な気持ちを強引に震わせながら、マミは病室の扉を開いた。
「おはよう、春見さん」
「ああ、おはよう」
いつも通りの挨拶。
もともと細かった肢体は更に痩せこけ、ショートボブの髪も手入れを怠ったか栄養が足りていないか、はたまたその両方が原因か、光沢を失っている。
力を失った腕はだらりとベッドに垂らされ、病室の中でただ白く横たわるだけのありかは、もはや挨拶を必要としているとは思えないほど無気力に答えを返した。
――ことわざというものは、大抵なにかあったときにひとつくらい引用できるものがあるものだ。
弱り目に祟り目、泣きっ面にハチ。今回はこの二つ。
ひとつめは、ありかの両親の死亡。……それも、お互いがお互いを殺そうとして、相打ちの形で致命傷を与えたまま意識を亡くし、死亡。
きっかけはわからない――警察では『痴情のもつれ』ということになっていて、あのありかを挟んで仲のよさそうな二人が浮気を巡って殺し合うなどと、にわかには信じられなかった。
それでも、起こってしまったからには信じないわけにもいくまい。
そしてさらに悪いことは続く。事件の後二ヶ月強でありかの指が麻痺で動かなくなった。
それからは、治らないどころの話ではない。病状は日を追うごとに悪化し、今では腕も動かなければ足も動かない。
まだ動かなくもない程度にマシな腕に人体工学に基づいて作られた杖を固定してようやく動ける。
その程度まで運動能力が落ちたまま、しかしありかは泣き言すら言わなかった。
言ったのはただ一言、「私は父さんと母さんを見捨てた。だから、これはただの報いだよ」
「調子はどう? 少しは……」
「うん、いつも通りだよ」
「そう、なの……」
ここ最近は悪化の一途を辿っている友の言葉の意味に、マミは嘆息した。
悪ノリする娘ではあったが、それが負の方向を向いたときにはここまで際限なく悪化するというのは知らなかった。
そんなありかの今まで知らなかった一面に頭を痛めつつ、いい加減慰めることが無駄だと
「それで? お医者さんからは何か言われてないのかしら」
「完璧に匙を投げられたようなものだよ。完全に原因不明の意味不明、何が起こってるのかすら現代医学じゃわからないとさ」
手のひらを上に向けて肩をすくめようとして失敗、ありかはそのまま
魂が抜けたように腕が動かなくなる。生命が吹き飛んだように足が動かなくなる。
脳を調べても正常で、神経への命令も正しく機能しているはずであり、神経を伝って電気信号が飛び交っているはずなのに筋肉がぴくりとも反応しない。皮膚感覚もない。
電気ショックを与えてようやく反応するものの、神経からの電流にはまるっきり反応がないというまさしく現代医学の敗北である。
「逃亡の代償ってやつよ、当然のペナルティだ。私はきっと、死ぬまでこのままなんだよ」
もっとも死ぬのもそう遠くはないだろうけど、と諦めたように空虚に笑みを浮かべるありかに、マミは戦慄した。
もはやありかは自分の死をなんとも思っていないのだろうか。ありかという時計は、お父さんとお母さんの死で大切なネジが外れて完全に壊れてしまったのだろうか。
もう幼き頃からの親友が、ありかとは違う別の物質に変わってしまったのではないかと寒気すら覚える考えが脳裏をよぎった。
「元気を出しなさい、ね? あなたが死んだら悲しむ人だっているんだから、簡単に諦めちゃだめよ」
そんな考えを振り払うかのように明るく焚きつけたが、その言語は果たして、本当にありかに向けてのものだったのだろうか。
ひょっとしたら、ありかのことをいい加減に見限ってしまいそうになる、自分自身への励ましだったのではないだろうか。
マミはそんな風に、自分で自分の発言を再び咀嚼した。
そう、あきらめちゃだめよ、マミ。
だが、返し刀は残酷だった。
「おばあちゃんもいるにはいるけど、駆け落ち同然だったせいでほとんど縁は切れてる。父さんと母さんももういない。学校の友達だって、どうせ転校していく人たちと扱いは大差ないよ」
ただ変わって、忘れていくだけ、とありかは笑ったまま言った。
「じゃあ、誰が悲しむの? いつまでも変わらない誰かの唯一に、私はなれるの?」
「私じゃあ、駄目なのかしら。私がずっと覚えているだけじゃ、駄目なのかしら?」
「駄目だよ。友達はあとから変わるんだ。代わってしまうし、変わってしまう」
意外にも友達というものは替えが効く。効いてしまう。
たとえ一時悲しもうとも、しばらくすればそれはナニカに上書きされてしまう。忘れてしまう。
「いくら喪失感に苛まれようと、友達は一人で終わらない」
家族のように、完全に足跡が残るようなものではない。
友という轍は、常に新雪によって装いを新たにして連綿と積み重なっていく。
いつかマミだっておばあさんになって死ぬだろう。そりゃあ、人間なのだから仕方ない。
その時、傍らに泣いてくれる人がいるとする。けれど数日は泣いていたとしても、また他の友を背に立ち上がり、存在は変質し、消えていく。
だから家族がいる。家族はずっと家族であり、英雄でも愚者でもない。
ありかは語った、変わらぬ存在が欲しいと。
自分のことを正しく認識する人間が欲しいと。
だが――それは、幼馴染では駄目なのだろうか。
子供の頃から一緒にいる、幼馴染で無二の友では駄目なのだろうか。
「だって、私はそうだったもん」
何かを懐かしむような、遠いどこかを見つめるありかの瞳。
「もしマミがある日突然死んだとする」
「……突然、なによ」
「まあなに、冥途の土産だと思って聞いてみなよ。私がしゃべれるのはもう最後かも知れないしさ?」
二重の意味で縁起でもない仮定だった。
マミもありかも、まだまだ若い。寿命なんていくらでも残っているはずだ。こんなところで死ぬなんて、あっていいはずがない。
「もしさ、マミがいなくなっても、私はすぐに忘れるよ」
唖然。マミには口を開くことすらできない。
「マミが消えてもね、私はただ、何日か泣くだけなんだ。それが終われば日常が戻っちゃうんだ」
さらりと言った。今まで同様の薄ら笑いにはどこか嘲るような香りが混じって胸を突付く。
「そんなの、なってみなくちゃわからないでしょう!?」
「わかるよ」
真顔だ。ありかの表情が一瞬で抜け落ちた。
「私が一方的にクズなだけかもしれないけれど、それでも私、自分のできないことで他人を信用できないんだ」
――深い。
目の前に立ち塞がる自己嫌悪の断崖にマミはめまいすら覚える。
今、この瞬間に理解した。
ありかはずっと、自分が死ねばいいと思っていた。
お父さんやお母さんが死ぬくらいなら自分が死んだほうがいい、そう思っていたからここまで泣き言ではなく、自虐のみを行ってきたのだ。
己を嘲笑し、あの日に外泊したらしい自分の浅慮を呪い続ける。それがライフワークとなって、己が死を今か今かと待ち望み続ける。
「まるで亡霊ね……」
マミは呻くように呟いた。
縁起でもない、と気づいた頃にはもう遅い。何がツボにはまったのか、ありかは大笑いして昏い光を眼に宿らせていた。
「そうだよ、私は亡霊なんだ。もう終わっちゃった”春見ありか”の亡霊なんだよ!」
だらりと垂れ下がった腕を掲げて高らかに哂う。
「だから、早く成仏して消えてしまうべきなんだ! 馬鹿みたいな化け物どもを連れてさ」
朗々と読み上げるように、ありかが哂う。
「ごめんなさい、あなたは亡霊なんかじゃないわ。謝るからそんなことは言わないで……」
「いいんだよ! どうせ私はあく……かはッ!?」
「ありか!?」
突如、世界の終りが来たかのように顔を歪めて倒れた。
あばらの浮き出るほど痩けた胸を力の限り掻き毟ろうとして力なく叩き、身体を丸めようともがいて足が動かず体勢を崩して地に落ち、転がる。
「あかっ……くは……っ!?」
「ちょっと、冗談言ってる場合じゃないわよ、質の悪い冗談はやめてよ、ねえありか!?」
息をしていない。肺が上下していない。
マミはただの小学生だ。奇跡も魔法も見たことないし、医療知識があるわけもない。
けれどありかにだいぶ前に言われていたこともある。
――麻痺が進行したら、肺まで届くかも知れない
「ねえ、死なないで!」
肺が麻痺すれば死ぬしかない。
急いでナースコールを叩きつけるように押すと、白目を向き始めたありかを仰向けにして平手を構えた。
息が止まったら心臓マッサージ
ドラマでもよくあるシーンだ。
人工呼吸だか心臓マッサージだかはよくわからないが、どうにかしなければありかが死んでしまうことは間違いない。
今まさに、目の前で魂が抜けていくように消える命を、何もせずに放っておけるものか。
「看護師さん、早くッ!」
子どもの力では足りないかも知れないと、腕を高く振りあげて……
「あれ? 私、どーしてこんなとこに?」
突然だった。苦しみも絶叫も、すべてを置き去りにして、我に帰ったかのようにありかがきょとんと目を瞬かせた。
目を見開いて硬直するマミを置きざりにしたまま、くるくると左右を見回して、右手でこめかみをぐりぐりと捏ねて、おもむろに立ち上がって窓際に寄り見滝原の街並みを見渡してから首をかしげる。
「マミ、どゆこと?」
「ありか……あなた、体が……?」
動いている。たった今まで命が抜けていくように麻痺の進行が止まらず、働きを止めた肺に苦しんでいたというのに、けろりとその動きを健常者のそれに戻してみせた。
もう、奇跡や魔法というほかないだろう。一周回って悪魔の業かと疑うほどに、それは唐突な快癒だった。
だというのに、ありかはほへっと顔の造形を崩して笑うだけ。
「マミ、名前で呼んでくれるのは久しぶりだね。なんか呼んでくれなくなってからちょっと寂しかったもんだから……」
「今はそんなこと言ってる場合じゃ……」
気づいた。
ありかの瞳にはもうあの破滅へ突き進む光は無かった。
それこそ憑き物が落ちたかのように素直で、とぼけて騒ぎながら一緒に登下校をするありかが戻ってきていた。
動きももう昔のありかで、今はお腹を鳴らしてはお腹すいたーごはんーだのとふらついている。
そこで、ぴたりとありかが動きを止める。
うーん? と顎を揉み、首を傾げ、耳を指で伸ばし……そんな和やかな動作につい、マミが気を緩めていると、
「ああああああああ!?」
「な、なに!?」
思い出したかのようにありかが絶叫した。
さっきまでのありかがまた帰ってきたかと身構え、そして
「クリスマスパーティどうなった!?」
事件が起きてから全ての記憶が消えていることに、マミは気づくことになった。