「やっぱり、一度の偶然じゃなかったみたいだね……」
二回目の時間遡行、そこからの帰宅、そして家族団欒。
夢のように楽しいクリスマスパーティーは終わってしまった。
またもやあの異空間の出現によって……。
燃える干しぶどうの眼が爛々と輝き、私を睥睨して焼き尽くさんと迫り、ウミウシが水面を跳ねて紫電を放つ。
袋から抜け出たつのつきの仮面が私を貫くために殺到する。
私は為す術も無く貫かれた。恐ろしげなその容貌に憎悪すら生まれる。
骨髄を切り剥がすような絶望的な灼熱感に次いで襲う、体中の内臓が抜けていくような破滅的な悪寒に身を震わせ、それでもぴくりとも指を動かせず、私は空間の中で事切れた。
「春見さん……?」
マミの声で覚醒を迎えるのも、ありかにとってはもう三度目だ。――いや、逆行していない初回を数えれば四回なのか。
痛みも悪寒も何もなく、ただ冷えた体育館の中で揺すり起こすマミの手の感触を感じるだけの安らかさ。
――また死んでしまった。
まだ動揺から抜け切れているわけではないが、胸を突き破って飛び出すほどに嘆きが湧いてくるでもない。
「うん、起きてる。今立つよ」
だから、余計な心配をわざわざマミに掛ける必要もなかった。
突然しっかりとした反応が帰ってきたことでマミは狐に摘まれたような顔をしたが、彼女としても起こす手間が省けたことに文句はない。
「随分と寝起きがいいじゃない。本当に寝ていたのかしら?」
「ううん、起きてた。超起きてた。実はマミにお姉さまごっこをさてあげるためだけに寝たフリしてた親友の私に感謝するといいよ」
「いーらーんーうーそーをーつくなっ!」
「いひゃいひゃ、ひょうはひゅうひはふひひゅうひゃんひひどひょうひへひゅうひょうひひほはいひゅうはっへわはっへうほん」
頬をつねるマミを無視して「いやいや、今日は12月23日土曜日で終業式の最中だってわかってるもん」と冷静に言ってやった。
ほっぺが言う事を聞かなくてもこれだけいえるところから、春見ありかがいかに冷静でクールな女なのかがわかるはずだ。
――友人に抓られても冷静な鉄の女、春見ありか。
今度からはそう名乗ってみようか、なんてアホなことを考える余裕すらある。
ふとありかは、今まで自分がこの終業式を落ち着いた気持ちで迎えたことがなかったことを思い出した。
一回目はもう記憶にない。小学校の頃の記憶なんて、とっくに時の彼方だ。
二回目は、一回目の時間遡行のとき。高校生のときにわけのわからない声に願ったのが原因だ。夢と言われて、どうにかして自分自身そう思い込もうとしていたことを覚えている。
三回目は、バケモノに焼き尽くされて殺されて、気がついたらここにいた。死んだ時のショックがあまりにも大きすぎて、相当取り乱してマミに迷惑をかけた。
四回目にしてようやく死ぬのも慣れてきて冷静になってきた。
冷静になれたら、あとはいかにしてあのバケモノどもに殺されないようにするかを考えねばなるまい。
まずは前回までで、わかったことをまとめてみる。
ひとつ、帰宅してしばらくすると化け物が現れる。
ふたつ、死ぬと体育館での終業式に戻される。
みっつ、母さんの料理はおいしい。
前ふたつは1回目、2回目の共通点からわかったこと。
一回目で殺されてもなお愚かなことにも家に帰ってしまったのは、あれは偶然であって何度も起こることであるとは確信できていなかったからだ。
でも偶然も二回起きれば偶然とは言えない。テストの選択問題を決めるときの最終兵器、えんぴつくんと同じ原理だ。あ、どうでもいいけどえんぴつくんを湯島天神でいつか調達しないと。
みっつめは、2回目――即ち前回で料理を口にして思ったことだ。
主観数年ぶりに口にした母の料理、しかもクリスマス仕様の気合の入ってる好物尽くしなのだ。不味いワケがない。
泣きわめいたりして余計な時間をかけなければ、食べ終わらないまでも各料理一口くらいは食べる時間があったことを前回実証させてもらった。
ここからあのバケモノの登場は、私が料理を食べようとするという条件付でなくて時限式であることが判明した。
で、私としてもそう何度も死にたくなんてない。
死ぬのは痛いし、時間が戻れば一瞬で余韻ひとつ残さず消え失せるとはいえあの体の芯から冷たくなっていくような喪失感はそう何度も味わいたいものでもない。というか味わいたいなんて人がいたら変態だ。
今のところ考え得る手段としては、完全に家に近寄らないことだろうか。
あのバケモノがいる世界に叩き込まれるときに、私以外の人間は絶対に入らないようだ。
これは過去三回――沢山の乗客がいた電車の中、父さん母さんの眼の前で消えたのにあの中では誰も見なかったところからしてほぼ真実だろう。
となればあとは、あのバケモノが居座るのかあの時間にだけあそこにいるのかを見極めなければならない。
いい加減痛みを感じてきた頬の肉を引っ張り続けるマミの手を外して、私は言った。
「マミ、私、今夜は帰りたくないにょ」
「……」
噛んだ。頬が痛くて上手く口が回らなかっただけなので、私に責任はない。
「マミ、私、今夜は帰りたくないの」
「い、言い直すのね……、そこ……」
あいにく私は諦めが悪い。
だから、そこに可能性がある限り何度でも手を伸ばし続けるのだ。――いま私、ちょっとかっこよくなかった?
「マミ、私、今夜は帰りたくないの」
「ああもう、わかったわよ! 何でベッドシーン前のセリフに影響されてるのーとか、あれだけ楽しみにしていたパーティはどうしたのーとか聞いてあげればいいんでしょう!?」
「さっすがはマイフレンド、話がわっかるー!」
マミ、大きく嘆息。
ため息をつくと幸せが逃げるというし、悪いことをしちゃったなとも思う。
特にここ数年、客観的に見てたぶん不幸な目にあいまくっていた私に対してのため息だから、余計に縁起が悪い。
「で、ダメ?」
「わからないけど……、そうね。お母さんに聞いてみるわ。難しいとは思うけれどね」
――脳髄を冷気が突き抜ける。
そう、そうだった。完全に忘れていた……。
ついついマミに親がいないことが当たり前とでもいうように話していたが、マミにだって当然両親がいる。
――私の知る限りでは、今度の建国記念日あたりまで。
もうあと三ヶ月とせずに、自動車事故からマミが奇跡の生還を果たす。
奇跡というからには、それは非常に低い確率なわけだ。果たして三人の家族が乗っていて、みんながみんなただで帰れるだろうか?
――それどころか今度はマミすら死んでしまうかも知れない。
私は少なくとも一度高校生まで生きているのに、あいつらはまるで私の時をこれ以上進ませるものかとでも言うように執拗に私を殺しにやってくる。
こうして今、そんなことを考えるのも過去とは違う私だ。
だったら、奇跡が何度も同じように起こる保証なんてどこにもない。
――でも、私には気にしている余裕がない。
考えなければならないことではあるけど、正直なハナシ現状ではどうしようもない。
注意しようにもその頃にもう私が死んでいたら直前に呼びかけの一つもできないし、どうせ時間が巻き戻るのなら呼びかける意味もない。
それ以前に、友の親より我が身が大事。自分が死ぬことと友だちの親が死ぬこと、どちらがマシかと言われたら真っ先に友だちの親の死をとる。
嗚呼そうだ、認めよう。春見ありかはもう死にたくない。死を恐れて、全力で逃げようとする臆病者だと。
「私ってクズだなぁ……」
迷いなく自分の身が可愛いという結論を出した自分に、嫌気が差した。
「いや、お泊り頼まれたくらいでそこまで卑下されても困るんだけれど……」
突然宿泊を頼んだと思えば落ち込んだありかを見て、マミは反応に困る。
お泊りくらい何度もした仲だし、お互いのお母さん同士もよくお茶する仲だ。
ただちょっと急なだけで、そこまで自己嫌悪に走るほどでもないだろうに……。
マミとしても、そこまで言うなら久しぶりにありかと一緒に寝るのも悪くないかな、なんて思っているのだからそんなことは言わないでほしい。
「今日はお父さんも帰ってこない予定だし、お父さんに迷惑をかけないだろうからたぶんいいって言ってくれるわよ」
「え、それマジ?」
ありかの眼が希望に輝く。現金だなあなんて思いながら、マミは苦笑した。
「お母さんから春見さんのお母さんに連絡が行けば、きっと大丈夫。久しぶりに手をつないで寝ましょう」
「わかった、やっぱりいい」
ありかの表情が一瞬消えて、マミの夢想は砕かれた。
「あ、ごめんね? ちょっと今日は用事があるの、忘れちゃってたのを今思い出したの。その気にさせちゃってごめん!」
言っては悪いが、ありかはあまり勉強のできる方ではない。でも、頭の回転は悪くないのだ。
そして、コストの天秤を揺らして釣り合うかどうかを測るときには、いつものふざけた表情が一瞬消える。
本人は気づかれていないと思っているようだし、実際に長い間付き合わなければ見落とすくらいのごく短い時間だろう。
だがそれを見せたということは、あのふざけているような調子のお泊りは何かしら事情があってのことだったということだ。
それも、恐らく親に連絡が行くとマズいのではないかという条件付き。
喧嘩してプチ家出でもする必要があったのかも知れないけれど、そう考えるとそのままでいるのは友だちとしてよろしくないだろう。
「お母さんと喧嘩でもした? それなら早く謝ったほうがいいわよ」
「ああ、違う違う。心配ない心配ない」
手をひらひらとさせながらいうありかを見て、違和感。
――この娘、こんなに切り替えるの上手かったかしら?
今日はいつもよりもこころなしか会話の流し方が上手いように感じる。
なんというか、いつもならもっとひとつのことにこだわるように思えるのだ。
ただの気のせいといえばそうなのだろうけれど、微妙に引っかかるものを感じた。
「ただちょっと、一方的にやることがあるだけだから」
――間違いない。
その爛々と輝く瞳に、マミは確信した。
今日のありかは異常だ。執念にも似た昏さと希望の輝きをごちゃまぜにした、得体の知れない光……、命懸けとでも言えそうな危うさが、しかし確固たる地盤の上に鎮座していた。
「それじゃあ、またね。あえたら冬休み中にも遊ぼ?」
「ちょ、ちょっと……!?」
それだけだった。たった一言、軽くそう言い残すと、呪いのような輝きを瞳の奥に押し込めて、そのまま通学路とは別方面へと走り去ってしまった。
唖然とするマミを尻目に、ありかは駆けてゆく。
どこへ? どこでも良い。一晩ほど過ごせれば、それでいい。
あのバケモノをやり過ごせれば、それでいい。
一晩で足りるかはわからない。できれば三ヶ月くらい家を空けてみたい――だが流石に一日以上何も食べないでいるのは辛いものがあるからやめておく。
もう痛いのは嫌だ。怖いのも嫌だ。
家が恋しくなろうと、あの恐ろしいバケモノが待っていると分かっている場所に帰るのなんて真っ平御免。
クリスマスパーティを無断で無視したことに罪悪感はあるし、あとで怒られるだろうし、もったいないとも思うが、それでもバケモノに食われるよりはマシな結果になることだろう。
駆けて、駆けて、胸が苦しくなって、だんだん足が上がらなくなってきて、そこでようやく立ち止まると、そこには公園があった。
家からは自転車で15分くらいの場所だったろうか、随分遠くまできたものだ。小学生が走って辿り着くのは相当難しい場所だったが、よほど走ることに熱中したくなるほどに破滅的な気分だったらしい。
「バカだよね、私……」
自分であっさりと見捨てるような考え方をしておきながら、今更自分自身に嫌悪するだなんて、何様のつもりだ。
そもそも最初からわかっていたはずなのだ、私が独善的な性格をしてることくらい。
周りの環境に言い訳して自分自身の環境を良い方向へ導こうなんてぜんぜんしようとしなかった、未来の世界なんていい例だ。
いじめの解消も諦めれば親子仲も諦め、父母の仲すら諦める。私がどうにかしようと本気で動いていたらどうにかなったかも知れないものが、こんなにも溢れて残っている。
ああ、そうだよ。いいじゃない。
人間、自分の命が一番惜しいのは当然のことだ。
一歩間違えるだけで――逆に間違いがなければ私が殺されるような世界で、他人の命なんてかまっていられるもんか。
――私は、私が生き残るためだけに行動する。
誰にも文句は言わせるもんか。
「君もそう思わない?」
「うにゃー?」
コンクリートの山で埋められた土管の上を歩いていた黒猫くんをひょいと抱き上げた。
ぐっと抱きしめて見ると、走り終えて火照った体にはちょっと暑苦しいほどに暖かい。
ふと脳裏をよぎるのは、黒猫が横切ると不幸が起きるなんていう迷信。
まあ、確かに黒猫なんて不吉かも知れない。
それでもこれからこの寒空の下で野宿することを考えたら、黒猫だって心強い味方なのだった。
*
――朝。
土管の中を吹き抜ける冷たい風に目を覚ます。すっかり冷え切った体が訴える寒さに身を起こし、そのまま土管から這い出た。空はまだ夜を引きずった紫色。
おまけに昨夜抱いて寝たはずの黒猫はどこかへと消えてしまい、ダッフルコートにくるまって寝ているのは私だけになってしまっていた。そりゃ、寒いわけである。
それでも生きて迎えられたことでか、何故か清々しく感じる朝の空気の中、うーんと伸びをひとつするとこの体がまだ小学生であることを実感する。
たったこれだけの体操で冷えた体が目を覚まし、お腹の底に熱が灯るのだ。活動用にギアの変わっていく体を感じて、若いっていいな、なんて思ってしまった。高校生が言うセリフじゃないとは思うけれど。
昨日から着たきりスズメの制服のまま、公園の水飲み場の水で顔を洗って一口水を飲む。
恐らく昨日の朝以来何も食べていないお腹も再起動して食べ物を求めてくるが、この際仕方あるまい。小学生にご飯抜きはキビシかったということだろう。
――やっぱり、家に帰ろう。
ごはんもそうだが、それ以上に家の中が気になる。
やつらがいつまでも家の中にいて、私が入った途端に私を食い殺すのか。
それとも、いなくなって私はまた平穏に生活を送れるようになるのか。
――平穏か、死か。
二者択一の運命を、私は今目の前にしていた。
公園からゆっくりと歩き、滅多に見ることのない早朝の町並みを見物しながら家の前に着くと、まだ父さんも母さんも寝ているようだった。
まあ無理もないだろう。公園にあるパステルグリーンのペンキで塗られた時計を見たときはまだ、朝の4時だった。我が家が動き始めるのは7時ごろからで、たかだか自転車で十五分の公園を小学生の足で歩いたからといって3時間もかかる道理はないだろう。
お母さんたちは起きていないかも知れないが、鍵くらいならいつも用意している。
鍵を鍵穴に挿し込んでぐいっと左に捻り、違和感。
鍵を開ける方にひねっても、金属の噛む感覚がない。手応えがない。
まったく、夜に鍵を閉めるのを忘れたな、無用心な。娘が寒さに震えながら夜明かしする中、親は呑気に鍵もかけずにぐっすりか。
呆れるような、微笑ましいようなちょっと愉快な気分になりながら、音を立てないようにこっそり忍びこむ。
――こんな優しい気持ちで忍びこむのは初めてかも知れない。
時を遡る前はよく家に忍びこむように入っていたが、それは飲んだくれた父さんとの会話を厭っての怠惰の結果だ。
こんな、寝ている母さんたちを起こしたくないだなんてポジティブな理由じゃあなかった。
今思えばこの家の平和の象徴とも言えた母さんが居るだけで、こんなにも自分の精神に差が出るなんて、われながら現金だよねと苦笑する。
ふと、鼻が異臭を捉える。
廃工場に悪くなった牛乳をぶちまけたような、妙に生理的嫌悪を覚える臭い。
――暖かな気分が、反転する。
押し寄せる悪寒に足を駆け、リビングの扉を蹴り開けると、そこには、
父さんが寝ていた。
母さんが寝ていた。
赤黒い中で、喉から包丁を生やして寝ていた。
朝日の中で、観葉植物の鉢をばらばらに砕いて寝ていた。
真紅に輝く中で、何かを抱え上げたかのように腕を掲げて寝ていた。
鉄錆が匂う中で、何かを振り回したかのように腕を折り畳んで寝ていた。
揉み合った後のように寝ていた。
首筋に奇妙な形の痣を浮き上がらせて寝ていた。
「あは、あはははははは……」
――何が、平穏か死かの二択だ。
すっかり失念していた。
考えもしなかった。
――マミの親が死ぬ可能性があって、なんで私の父さん母さんが死なないと言える?
それはそうだ。やつらはバケモノなんだ。
バケモノなんだから、たとえ自分で手を下せなくとも父さんを殺せる。
バケモノなんだから、たとえ自分で手を下せなくとも母さんを殺せる。
父さんも母さんも、あのセカイの外であいつらに殺された。
「あーっはっはっはっは! やっぱり私はクズだよ!」
マミの親が死のうとも、知らぬふりができると豪語した。
自分の命が一番大事なのは当然だなんて、言い訳できた。
それでも、いざ自分の親が奪われればこんなにも心が破綻しかける。おかしくなる。
――沈黙
どれだけ笑い続けたろう。1時間かも知れないし、10時間かも知れない。
それだけ笑ったら、突然何も音が出なくなった。言葉が浮かばなくなった。
時計が止まってしまったかのように、何もやる気が起きなくなった。
静寂の中。
ただただ、私は時計の秒針の刻む音を聞いていた。
私の中では止まっているのにも関わらず、無関心に時を刻み続ける時計の音……。
かちこち。かちこち。
でも、いつまでもそうしているわけにもいかなくて。
「もしもし、警察ですか?」
ようやく私もかちこち動き出して、最初にしたことは110番通報だった。