「春見さん……、春見さん……? 起立って言われてるわよ」
身に染みるような寒さに、ふと目が覚める。
いや、原因は寒さではないのかも知れない。寒さなんかじゃなく、温かい呼びかけが私を覚醒させたのだ。
少なくとも、そう思えるくらいにはそれは眩しいトーンだった。
「マミ……?」
目を開けば、そこには中学生の頃にどこかへ失踪してしまった友の姿。
黄金色をした髪はくるりと優雅に渦巻くようにパーマがかけられて、優しげで優雅な顔立ちにわずかに面倒そうな表情が浮かんでいる。本人はそのつもりはないだろうが、私にはわかった。だって、しっかりしていそうに見えて意外と脆くて、ちょっとずぼらな彼女だから。
華奢な体に清楚なイメージのある私服。少なくとも最後に見た中学三年生の頃は超・中学生級に盛っていた胸囲もなく、ただただ清楚な少女がそこにいた。
今の今まで高校生やってたのに、いきなり小学生の時のマミがそこにいる。
そして、私に優しく呼びかけてくれる。
それも、朝優しく起こすお母さんみたいなシチュエーションで。
「なんだ、夢かぁ」
私は胸に手を伸ばしてさわさわとまさぐった。
「ひゃっ!?」
あの中学の頃のふかふかむにゅむにゅとした感触でない、ぷにっとした適度におさまりのいい、安心出来る感覚。
どうせ泡沫の夢だ。電車の中で寝入ってしまってそこから悪夢を見てたとかいうオチに違いないのだから、
「んー、このくらいが安心……、爆乳マミちゃんよりも身近……にゃむ。」
「寝ーぼーけーてーなーいーでー……」
きりりとマミの右手が弓のように引き絞られ、そして振り下ろされた
「起きなさいっ!」
「あてっ!?」
ごかんと脳髄に衝撃が来て、ようやく意識がまともに浮かび上がる。ついさっきまで訳のわからない世界の中で、バケモノに襲われていた高校生の私。でも今いるのは見滝原小学校の体育館。
さっき殴られたように、痛みもあるし冬時なのか寒々しいと皮膚が感覚を伝えてくる。
小学生、中学生を過ごしてきた記憶の存在。しかしその最後の現実味の無さ……。
――客観的に見て、どっちが夢かなんて一目瞭然だよね。
違和感は未だ残る。だがいくら頭がよろしくない(バカとは言わない。悲しくなる)私であろうとどっちが現実的なのかは流石にわかる。
そうさ、父さんと母さんが離婚する? マミが中3で行方不明になる? そんなのただの夢だ、悪夢だ。あの頭のおかしい世界くらいに悪夢だ。
私はちょっぴり長い夢を見ていたんだ。だからもう、現実に帰ろう。
「ごめん、寝ぼけてたよ。で、今いつだっけ?」
「いつってあなた……」
「そんな目をされるいわれはないと思うんだけど」
マミが夏の終わりに地面に落ちてるセミでも見るような目で私を見つめてくる。
私は別にかわいそうな子でもなんでもないのに、優しそうに見えて相変わらず微妙に毒がある。でもそれが陰湿にならず、お茶目に、ないしは相手によってトゲトゲしてるように見えるのはやっぱり磨き上げた容姿のせいだろうか。
アネキというよりお姉さま的といった雰囲気も、自らそうあろうとする意思によって演出された努力の結晶であり、私みたいに泣いたり喚いたりしない強さを持っている。
忍耐は得意でも自分を飾る気にならない怠け者の私とは、大違い。
「はいはい、お馬鹿なこと言ってないで、早く教室帰るわよ」
「ほーい」
ガラス玉のアクセサリが落ちてたけど誰か持ち主はいませんかー、などと大声で聞いて回る先生の声をBGMに、差し出されたマミの手をとって立ち上がった。
――ついさっきまで高校生やってたような気分だった私が、ついつい甘えたくなってしまう。
やっぱりマミはすごい友だちだよなぁと再確認した。
「で、今っていつさ?」
教室まで歩いても、結局そこだけはわからなかったのだった。
小学校の時は毎月朝礼があった気がするので、そのどれだろうとは思う。でも、それ以上はちょっとわからない。教室に行っても、黒板には日付が書いてなかったし――日直の書き忘れだろうか。
昔友だちだった――いや、今もか。夢の中と混同しすぎだ私――子に聞いてみたけど、「そんなに楽しみなの?」とか笑われてしまった。
どうやら日頃楽しみにしてるような日ではあるらしい。
だが、ここで私の頭がひらめく。この寒さと嬉しいこと……、きっとクリスマスに違いない。そう、きっとそうだ。
寒いのが好きじゃないこの私が、冬時に喜ぶようなイベントなんざ3つしかなかった。走りまわって遊ぶ雪の日とお年玉が貰えたお正月、それとなんか楽しい気分になるクリスマスだ。
前ふたつはありえない。よく考えてみたらそもそも正月前は学校ないし、雪の日は降ってみるまでわからない。
そして特に意地汚い私は昔、クリスマス近くの休日に行われるホームパーティを心待ちにしていた。お父さんとお母さん、私の三人が集まって家族みんなでささやかなパーティを開く……ことにもちろん興味なく、そこで出される、何かいいことがあった日にしか作らないお母さん手製のごちそうを食べんがために舌なめずりして休日を心待ちにしたものだ。
――今考えれば、お父さんとお母さんがいたから意味があったのに、そんなことも気づかぬまま。
いや、今考えればとかそういうことじゃないんだっけ。ずいぶんと頻繁に、さっきの夢のことを思い出してしまう。現実と夢の区別は付けようね、じゃないと年寄りに「これだから最近の若いのは」とか言われることになるんだから。
冬休みの注意事項なんてもののくどくどしたお説教を終えて、ようやく放課後。たった今から冬休み。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
結局のところ、私の推理に狂いはなかった。
あれは冬の終業式で明日からは冬休み、オマケに今日は土曜日で帰ったらそのままパーティっぽいときた。
マミと私の通学路は同じ方面だ。だから一緒に帰るのは日課であった。
夢を見た以前のことが思い出せないが、朝から今までの私の狂喜っぷりはきっと凄まじいものがあったろう。
そして記憶にある私は、このころマミとつるんではアホな話をしたりイタズラしたりでやりたい放題だったような。
つまるところ……。
「マミ、いつもうるさく迷惑かけてごめんね」
「あら、熱でもあるの?」
「ひどっ! ただちょっとしみじみといつもヒドいことばっかりしてるなぁっって振り返っただけなのに!」
「まあ、そうね。休み時間になるたび私を引っ張って池の鯉まで連れて行ったり」
「そんなことしてたっけ……?」
「とぼけても無駄よ、無駄」
いや、ホントにそんなことしてたっけ、と常緑樹のたくましい通学路を歩きながら思い出す。
どっかしら連れ出してたことは覚えてるし、あじさいの中に突撃したりひまわり畑に突撃したり腐葉土作りのための落ち葉溜めに突撃したり……突撃してる記憶しかないね。不思議。
というかいくら頭悪いとはいえ、流石に小学校の頃の私、落ち着きなさすぎじゃあるまいか。
「まあ、いいか。明日から、マミはどうするの?」
「どうって、休みを満喫するわよ」
「昼まで寝てたり?」
「私はそんなに怠惰じゃありません」
すっぱりとマミには否定されるが、慎重ではあっても意外とずぼらというか大雑把というか、刹那に生きてるフシのあるマミのことだ。怪しいところだと見ている。
「かっこつけるために紅茶の淹れ方の練習したり?」
「なぜ私の最近始めたことを知ってるのよ!?」
私は知っている。
別に趣味でもないのに、お姉さまっぽい行為をするために一時期紅茶に走っていたことを。
しかもその内、自分で自分に淹れるのが楽しくなってきて日常化してきてしまったことを。
更には理想のお姉さまノートなるものが存在して、10個くらい項目のあるうちの最初の方にある「紅茶を淹れるのが上手」のチェックボックスにマークが入ることを。
――夢で。
いや本格的にダメかもしんない、私。
起きてからいくら経っても、”自分が高校生である”としか認識できないし、寝る前の記憶が浮き上がってこない。
――あれは、本当に夢なのだろうか?
父さんと母さんが離婚し、たまたま呼んでいた友だちから話が広まっていじめが数年にわたって横行する。
――そんなのを、ただの悪い夢で済ましていいのだろうか?
「ふはは、さっき見た夢に出てきたのだよワトソンくん!」
そんな不安も振り払い、私は笑った。
「そんな魔法みたいな話、私が信じると思ったの? はーなーしーなーさーい!」
「わひゃ、ちょ、やめっ……!」
実は結構知られたくなかったのか、羽交い締めにされてくすぐられる。
「あ、だめ……! そこ私弱いんだって……、あははははははははは!」
「言ーいーなーさーい!」
「いや、ホントマジだってマジマジ! 夢に見たんだよーぉあははははははひゃひぃっ!」
結局信じてもらえなくて、振り払ってダッシュで家に逃げ帰った。
「ほらさ残念また来週ー!」などと大声で捨て台詞を吐きながら家の扉を開けて飛び込んだのだった。
「たっだいまー!」
「おかえり、ありか。早く部屋に荷物を置いてきちゃいなさい」
居間の扉を開けて飛び込むと、整頓された綺麗な居間。
テレビの上には塵一つなく、窓際では赤みがかった葉っぱの観葉植物が元気に枝を伸ばし、出窓にはサボテンが四つも顔をそろえて並んでいる。
そんな片付いた部屋の中で、父さんがテレビ脇にある室内用のクリスマスツリーの電飾をいじっていた。
LEDがぴかぴか光る電飾なのだが、いくつもあるLEDの中のどれか一つでも不調だとほとんど全部の電気が消えてしまうのでやっかいなのだ。
お父さんがお酒の臭いもさせずにそれを直している。
なんというか、それだけで瞼の裏から熱いものが込み上げてくる。
たかが夢でなんとも大げさなことだ。私のことながら呆れてしまう。
そんなもので泣いてしまうなんてバカげている。私は強い子だ、何があろうと泣いてなんてやらないって決めたんだ。
「おかえりなさい、ありかちゃん。チキンは今から揚げちゃっていいわね? ありかちゃんの大好きなスモークサーモンのマリネもできてるから、ちゃんと手を洗ってくるのよ」
キッチンから母さんが顔を出した辺りで、ついに決壊した。
涙がぼろぼろとあとからあとから、止めどなく溢れてくる。
何年も、何年も会えなかった母さん。
止めようにもどうにも止まらないそれに、母さんも父さんもあたふたとして、こっちに駆け寄ってきた。
「どうしたんだい、ありか? どこか痛いのかい?」
「ええと、お腹痛いの? 風邪? あ、料理に虫が止まってたのバレちゃったかな?」
ううん、違うの。ただ、ふたりがいてくれるだけ。それだけが嬉しくて、泣いちゃってるだけ。
そのうちもう止めることすら馬鹿らしくなってきて、そのまま両方の顔をだきよせて(というよりもしがみつく形になっちゃったけど)思いっきり泣いた。
泣いたのが十年ぶりにも感じるくらい、長い間泣いていなかったような気がする。
父さんも母さんも、わけもわからず突然泣き出した娘に原因を聞くことは諦め、顔を合わせて苦笑してからそのまま二人で揃って抱き上げた。
「そういえば、こんなふうに二人でありかを抱っこするのは久しぶりだな」と父さんは感慨深げにつぶやいた。
「そうね、あなた。この子が赤ちゃんのころに戻ったみたい」母さんはふふっと笑いを漏らして抱きしめる手の力を強めた。
そのあと、何時間泣いたのかはわからない。
5時間くらい経ってた気もするし、十分と経ってない気もする。
それでも、泣きに泣いて泣きつかれた頃には、もうお腹がぺこぺこだった。
「それじゃあ、昼ごはん兼パーティ、始めちゃいましょうか」
「うん、みんなで食べよう!」
心がすっきり晴れ渡り、もう何も憂いなんて残ってなかった。
手を洗い、うがいをしてから居間に戻ってくると、もう揚げ終わったチキンがほかほかと湯気を立てていて……
――がきり。
空気が、凍った。
天井が、床が、壁が。
観葉植物がサボテンが父さんが母さんがキッチンがテーブルが料理がクリスマスツリーが――ありとあらゆる風景が奈落へと突き落とされる。
空間がのたうつようにすげかわり、夢のなかで見たキュビズムの世界に塗り変わっていく。
ツノのついた干しぶどうが青く燃え盛り、蝋でできた足場を焼き崩す。
ぶんぶんと羽音を立ててバスケットボール大な髭面のトンボたちが部屋中を飛び回り、世界を切り裂くのは破壊を許された水の踊り子。なめくじのように舌で這いずり回り、背中に浮き出た赤い発疹から緑色の刃が突き出て、空間を切り刻んだ。その狭間から袋詰めになった苦悶の仮面がぼとぼとと滴り落ちる。
蝋で出来た島の周りを覆うのは、ブランデーでできた海だ。中を漂う電気ウミウシが時折その粘着質な翼を打って飛び上がる。
ミルク色の風がびゅうびゅうと吹いてブランデーに波を作り、波があぎとを開けてトンボたちを噛み砕く。
「はは……ははははは……」
――夢?
高校生になった夢を見た。
――あれが夢?
電車でわけのわからない世界に巻き込まれた夢を見た。
――否。
「現実って、摩訶不思議」
もう一言も発することが出来ず、私は乾いた笑いを上げ続けていた。
干しぶどうが私を焼き尽くすまで