「春見さん……、春見さん……? 起立って言われてるわよ」
うるさいなぁ……。
キュンと締まった寒さに、春美ありかの意識が覚める。
とても、とても長い夢を見ていた気がするが、なにぶん染み込む冷気に抵抗するためか、意識が覚めても身体が醒めない。
「あとごふん……」
「ああもう、なんで朝礼中にここまで熟睡できるのかしら。いっそ感心するくらいよ……」
それでもしばらくうだうだと小学校の制服のぬくもりに身を浸していると、急に背筋が寒くなった。
校長先生のおはなしが始まるという拡声器を通った声が聞こえるけど、まぶたは開かずおでこは前に組んだ膝の上。全然起きる気にもならない。
寒い……でも何か疲れてるんだ、だからもう少し……。
「そんなことを言ってる娘には、こうよ!」
「ひぃゃあぁぁぁぁあ!?」
背筋に入れられた氷のような冷たさにありかは跳び上がった。わけもわからず周りを見回せば、思いっきり周りから刺さる冷たい視線、視線、視線!
体育館の空気に触れて冷やされたマミの手が、緩められた襟から突っ込まれたせいだ。
恨めし気にマミに視線をやると、頬を赤くしながら素知らぬ顔で校長先生の方を向いていた。逃げる気だなコノヤロウ。
ずだんと音を立てるほどに踏み込んで、変な声を出しながら起立したありかに集中する視線を、何とかする方法……あった。
―― 校長先生のおはなしのための時間で問題が起きたのなら、あたしが校長先生になればいい。
―― だから力を貸して、『私』――ッ!
『いや、アホかい『あたし』は』
そんな風に呆れながらも、膨大な知識が頭に流れこんでくる。
風の流れ、呼吸、そこに込められた意思、この体育館に存在する万象の移ろい全てが……!
「おはようございます、みなさん。元気ですかー? ……はい、校長先生は元気です」
……校長先生のお話についての。そっくりそのまま声マネしながら言ってやりました。
マミは口をぽかんと空けて見てるし、みんなも突然のことに目を点にしている。中でも校長先生が一番驚いてたけど、言いたいこと先取りしてたらそうもなるだろう。
「なので冬休みに入るにあたりー、皆さん我が校の生徒たちには以下のやくそくごとを守っていただきたいのです。これはなにも君たちの自由を奪おうといういじわるではなく、あくまで校長先生がきみたちに元気で健やかに冬休みを過ごし、新年もまたはつらつとした姿で私たちの目の前に現れてくれるように祈りたい先生の気持ちなのです」
体育館中の視線を独り占めだった。先生も生徒も区別なく、根こそぎ注意を奪ってやった。
と言うか普通に校長先生が話すよりも、むしろあたしが話した方が注意が集まったんじゃないだろうか。
だってぜったい聞いてない人とか多かったろうし、何より校長先生がエラそうな話してもエラいんだからありがたみってものがない。あたしならいつもアホで通ってるからギャップですごくありがたい話に聞こえたことだろう。多分。
「――元気で過ごしてください。それでは、校長先生のお話を終わります」
ぱちぱちぱちぱち、体育館中に響き渡る拍手喝采。
胸を逸らして鼻息を漏らしながら、悠々と着席してやった。音程に呼吸するタイミングに息を払うときのクセ、全部まるごと真似してやったんだ、モノマネとしても価値が高いだろう。
――どうだ、みんな。『私』は凄いだろ? あたしはそんなでもないけれど、酷い未来から頑張り続けた『私』はこんなにもすごいんだ!
ちょいちょい、と肩が突っつかれた。振り向いてみると、にこやかに笑った先生が唇をぱくぱくと動かしている。
唇の形を見てみると……
『あ・と・で・しょ・く・い・ん・し・つ・ま・で・き・な・さ・い』
やっば、怒られる!?
がくりと項垂れて、「馬鹿じゃないのあなた?」と言いたそうなマミの視線に後ろからちくちく刺されながら終業式をすごすことになった。
まったく、どうして覚悟を決めた端からこんなことに……。
『そりゃそうでしょうよこのアホ……』
頭の中でぼそりと、呆れたように呟く声が聞こえた気がした。
****************
放課後を迎えるまで長かった。
と言うか、ちょっと寝てた後にお茶目しちゃっただけで一時間もお説教した後反省文書くまで帰さないとかやめてほしい。
文字通り"命がかかってる"んだから、そんな反省文に裂く時間はもうないんだ!
もともと高校生やってたっていう『私』に聞けば早くできるだろうけど、正直なところもう全速力で走って帰って、"バケモノ"の出現に間に合うかどうかってところになっている。
――だから、廊下で先生が見張っている中で取れる最善手をとることも仕方ないってもんだ。
4階にある教室から、窓を開けてまずはベランダに踊り出る。無駄に晴れ晴れしていて空気がうまい。
見下ろせば一際大きくて立派な杉の木と、その近くに何本か並び立つモクレンの木が見えた。そこから少し行ったところにある校門では、寒い中で手をすりあわせて待つマミの姿まであった。
さすがにお説教で待たせるのも忍びなかったのでマミには先に帰っていていいと言ったんだけど、まだ校門にその姿が見える。しかもありかの姿を見て手まで振って来るんだから申し訳なくて仕方がない。
それに、あんまり時間がないから一緒に帰れないのに……。
とん、とんと軽く踵を打ちつけて助走をつけ、
「てぃっ!」
「ってちょっとありかあああああああぁぁぁあ!?」」
ちょいとマミに手を振り返してから、そのまま柵を飛び越えた。悲鳴が聞こえた気がするがきっと気のせい。
3階の壁を蹴り飛ばして方向を修正し、まずひときわ背の高い杉の木の側面に着地した。その幹を蹴り飛ばして、今度は2階のバルコニーについているポールに手をかけてくるりと一回転、モクレンの木まで突っ込んで蹴り飛ばし、速度を殺しながらその根元の柔らかい地面に着地した。
「ぶいっ!」
「ぶいじゃないわよ、大丈夫なの!?」
「大丈夫だけど、ごめん! 急ぎの用事があるの! 決着ついたら連絡するから待ってて!」
泡を食ってぱたぱたと駆け寄ってくるマミにひらひらと手を振って無事を伝えながら、そのまま校門へと駈け出した。
「あ、ちょ、ありかあ……」なんて寂しげな声が聞こえてくるけど、でも今はごめん。一大事なんだ。
駈け出しながら校庭の大時計を見れば、もう走っても間に合わなさそうな時間になってしまっていた。
――『諦める? 次の周にでも回してみますか、『あたし』さん?』
――冗談ッ!
間に合わないなら、強引にでも力づくだって、死んでも間に合わす!
道を走って間に合わなければ獣道を走るまで。それでも間に合わなかったら自分用の道を作り出す!
――速く――もっと速く――間に合うように助けるために、ココロに決めてイノチを懸けて一直線にぶっちぎる!
金網に足をかけて跳び上がり、家屋の壁を蹴りつけ屋根まで登り、そのまま屋根を伝って一直線。
まるで忍者か何かのように屋根から屋根へ跳び移り、家へのルートを最短距離で突き進む。
そうしてやれば程なくしてもう屋根が見えてくる。
少し――あと少し!
――ぞわり。
脊髄を悪寒が走り抜けた。魔法少女としての感覚がそいつを捉えて、絶望を伝えてくる。
この世を恨む負の意志力が空間をねじ曲げ、自分の心をシェルターに、新しい世界を想像する不協和音が響く。
……結界に、今頃両親ともども取り込まれて絶望を与えられており、じきに夫婦で殺し合いを始めることだろう。それはループの記憶でわかっていることだ。
『間に合わなかったみたいじゃん』
うるさい、黙れ。
行く手の家のリビングで闇が膨れ上がり、父さんと母さんが引きこまれていくのが見える。見えてしまう。
……それがどうした。結界の中に閉じ込められようと、"アイツら"に取り殺される前に父さんと母さんを救い出してやれば死ぬことなんて無いんだ。
無色透明で、曇りなく透き通ったソウルジェムを指輪の形態から起動状態まで持って行き、屋根を走りながら掲げ持った。
光が身を包み、小学校の制服を分解して新しい衣装を構成してゆく――変身完了。
モノクロを基調とした魔法少女装束を翻し、魔法を併用して風を切り裂きオーバーブーストだ。
ぎしぎし軋んで痛みを伝えてくる肉体を魔力で補填し、弾丸のようにすっ飛んだ。
もうご近所に見られようと知ったことか! ありかは咆哮し、踵に希望の光を集めて打ち出した。
飛び蹴りの体勢でリビングのガラスごと割り砕いて家の中に突入する。そのまま家の中に着地したと思ったときにはもう、舞台は甘ったるい匂いの異界に変わっていた。
「――父さん」
牙を剥いた仮面が成人男性めがけて飛来する。
常識を遙かに越えた事態に、情けなく悲鳴を上げながら地面を転がることしかできない。
「――母さん」
アルコールで身を包んだ干しぶどうに袖口を燃やされ、必死に消そうと振りほどく。
悪趣味なことに燃やした当の本体は嬲るように宙を揺らめき、火傷をこさえる女性を嘲笑っている。
「――助けに来たよッ!」
怖いだろう。そいつに何度も何度も殺されてきた少女をあたしは知っている。
熱いだろう。そいつに何度も何度も燃やされた少女をあたしは知っている。
――だったら、助けて一緒にクリスマスを祝おうじゃない!
既に異界と化した家の中ではもともとの広さなんて気遣いはないらしく、間合いは15メートルはある。
けれど、そんなのはもう問題にすらならない。踏み込むだけの意思と勇気があるか否かということだけが魔法少女の世界では肝要であって、物理的な事象なんてものは――
「――捩じ伏せるモノっ!」
――透明な鎌の刃が光となって煌めく。
脳を犯すように甘ったるいクリームの匂いの中で一陣、清冽な風が吹いたかと思えば、既に周囲に存在する"バケモノ"たちは砕け散っていた。
蝋でできたありものの浮島で、ブランデーという非日常の海の上に立ち、静まり返った悪意の園を見渡した。
『これが私の絶望だよ』
"見ること"自体は初めてだけど、存在自体は知っていた。
騒ぎを、自分から動かずに何者かを求めようとするワガママな悪意の怪物を。
――すなわち。
"春見ありか"の絶望が、時空に希望が現れると同時に剥離してバケモノになり固定化した、言わば魔獣に対応する"魔女"だ。
ループを続ける時間軸上に固定された"春見ありか"の絶望だけが分離した魔女が、結局のところ今までありかを苦しめていたモノの正体だった。
「大丈夫だった……?」
だからこれはきっと、マッチポンプになっちゃうんだろうね。
父さんと母さんに手を差し出しながら、ありかは心中で苦笑した。
「ぅ……」
両親揃って呻き声を上げて、地面に倒れたまんまだ。
と、ようやくここまで至って気づいた。そういや治療してないや……と。
自分のアホさに苦笑をますます強めて、魔法を使う。春見ありかの魔法少女としての本質は『過去にしがみつくこと』だ。怪我をする前の状態に二人を復元することもカンタンだった。
ついー、と指で撫でるようにして傷口に光で線を描くと、火傷は消えて傷口は元の血色を取り戻す。息使いも苦痛にあえぐような荒さからゆったりと眠るような穏やかさに変わった。
起きては来ないけど、もう大丈夫。そう判断してありかは立ち上がった。いつまでもこんな気持ち悪いところにいたら、気分が良くなるものもよくなりやしないだろう。
だから根源を絶ちに行く。
鎌と鎖を取り出して、右足を振り上げて地面に叩き付けた。爆発的な加速で一気に浮島を4つほどショートカットし、ずんずんと奥へ進んでゆく。
右足を叩きつけて前へ。左足を叩きつけて右へ。両足を叩きつけて上へ。最短経路を通ってゆけば、いくら迷路のように曲がりくねった魔女のダンジョンとはいえボス部屋まではすぐだ。
そして、ブランデーでできた巨人ことボスにだってすぐさま辿りつくというモノである。
「ハロー、そしてさようなら。あたしの未来の為に消えてくださいな」
『唐突かつクレイジーな宣言だねこれは……』
もう一人の自分が既にただのツッコミになっているような気がするが、そんなことは気にしない。
頭の複眼を光らせて、アルコールのスライムみたいな肉体を大きくしならせて打ち込まれる拳に合わせてその上体を駆け上がる。
春見ありかの絶望たる魔女は、頭を抑えられれば何も出来ない。必死に頭だけでも水面に出して抗えるうちは最強だが、溺れてしまえば容易に折れる。同じ"春見ありか"から生まれているからよくわかった。
腕を蹴って体勢を崩させながら登ると、刃に魔力を湛え、鎌を逆手に握る。
思い起こすのは一度"見た"マミの出した必殺技だ。身体を限界まで捻り、弓を引くようにして物理的なエネルギーを溜め込む。
――今までありかの使ってこなかった、一撃に全てをベットして最大のリターンを求める手法。魔力を思いっきり注ぎ込んだ、ありとあらゆる魔獣を葬り去る必殺の一撃――。
「アルテマァ……」
捻り切った上体が、空気を巻き込むようにして元に戻ってゆく。
鎌の先端が空気を切り裂く前に魔力で切り裂くことにより空気抵抗を無効化し、音速すら意に介さぬ最速の――最強の一撃。
――そう、その斬撃――
「スラッシャぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
――無窮の閃光!
激音が轟き、魔女の頭から股間までが真っ二つに分断された。
何が起こったのか、それすら理解できずに、魔女は咆哮を上げて消滅したことだろう。
その結果に達成感と同時、どこか虚しさを覚えながらありかは地面に降り立った。
絶望だなんだと言っているが、そこから生まれたバケモノはこんなにも脆い。
それに引き換え、希望を持ち続けてその果てに至っていた"春見ありか"はどれだけ手強かったか……。
最後の最後で命を燃やそうとしたのか、アルコールランプが燃えるような匂いが鼻をくすぐった。
魔女の消滅と共に現れた、行く宛のない欲望に染まった黒い立方体が地面に落ちると同時、限定されたおもちゃの箱庭の崩壊が始まった。
空間が歪み、在るものが在るべきものへと戻されていく。観葉植物の青々とした色彩に、暖色系の安心感もたらす家具配置。
マリネの置かれた食卓に、椅子に座ってテーブルに突っ伏すように寝ている母さん。ソファで横倒しに寝ている父さん。
――そして、割れて砕け散った窓ガラスの破片と土足でリビングに転がり込んだありか。ついでに風が吹きこんで寒いリビングの空気。
「これ、どーしよ……」
『いや、生きてるんならどうでもいいでしょそんなの』
おい、『あたし』って馬鹿じゃねーの? とでも言いたそうな気だるげな口調だ。
それでもきっと、怒られてしまうだろう。
カーペットもフローリングも汚してしまったし、窓ガラスだって壊してしまった。
――でも、それもいいかも知れない。
あとでいくらでも怒られてやろう。
父さんにげんこつ喰らってもいいし、母さんに正座させられて延々説教されてもいい。
――だけど、今だけはこう言っておこう。
「ただいま」
って……。