『人間一度しか死ぬことはできない。』
―――ウィリアム=シェイクスピア
川神院に身を寄せてから、半年ほど過ぎた頃、総代から声をかけられた。
他流派への武術研修に行かないか、というもの。
初めは、辞退しようと考えた。
川神院ほど武術の鍛錬に向いている場など、他にないと思っていたからである。
弱い武術流派との武術交流は大切ではあろう。あくまで「川神流」にとっては。
武の頂点と自負する処を他流派に見せつけ、彼らを焚きつけ、武術社会全体の更なる発展を鼓舞する目的で行うのだから。
だが「俺」にとって、それは益にはならない。
武を広めることは、俺が為すことではない。
自らのみ強くなることこそ、今の俺に課せられた使命なのだ。義務なのだ。
他人を強くして如何する。
他の門下生から、身勝手と思われるかもしれない。
川神に抱えてもらっている者として、相応しくない考えであると非難されるだろう。
だが、これは譲れない。俺の沽券、俺が武を学ぶ根本の目的に、関わるから。
だから、断ろうと考えた。
研修先の流派の銘を、聞くまでは。
「マユズミ、ですか?」
「そうじゃ」
自らの私室で、川神本家は応える。
「…マジで?」
「真剣で儂を信じなさい」
「……本当に?」
「くどいぞ」
「失礼」
平伏する。
……驚いた。
幻の黛十一段、黛大成といえば、剣道つまり道場剣術を嗜む者でも、実践剣術を齧る者でも、知らぬ者は居ない「剣客」である。
剣道の段数は本来十段まで。
だが、その卓越した技量から、人間国宝の称号と共に、十一段の銘を与えられた剣客。
「剣客」の文字通り、日常にて、刃引きされていない、本物の業物の帯刀を、政府から許可されているのである。 日本が誇る芸術の一つに、彼の剣技が数えられているのだ。 常に血生臭い刀剣界において、このような例は他にない。
だが反面、この流派が武術流派として圧倒的に栄えることはない。 なぜならば、黛流は血縁者以外に自らの剣を決して「語らない」剣術流派であるからだ。
一説によれば抜刀の感覚が、黛の血を持つものは常人とは異なるので「黛以外は黛を理解できない」から、らしいのだが、定かではない。
どちらにせよ、語れないという事らしい。
川神の血を持つ一部の者が、異様なほどに「氣」を操ることが出来るのと同じようなものなのかもしれない。
才悩(NO)人を自負する俺には、関係ないが。
話を戻そう。
以上の理由から、黛流が武術研修生を呼ぶ事は、ほぼ無いに等しいはずなのだ。
「何か、理由があるのですか?」
余程の理由だろう。
「うむ。 無論、訳アリの依頼という奴じゃ。 ……黛大成には娘が二人居ての」
「はあ」
「特に姉の方は才に溢れているという噂じゃ。 一子より一歳年下にして、父と同等、あるいはそれ以上の段階にいるらしい」
「それは」
化け物、だろ。
「つまり、百代さんと同じというわけで?」
あのレベルの戦闘狂をどうにかしろとでもいうのなら、自衛隊の一個小隊、中隊くらい引っ張ることを進言しよう。
「いや、まあ、あやつほど戦いに飢えている訳ではない。 ただ少し、こちらがより重症と言うべきか」
「は?」
「少しばかり、対人関係が不得意らしくての。 まあ黛の箱入り娘じゃからな、生来の気質となかなか一般人と話す機会も無いのが相俟って、ということらしい」
………ありうる話だ。
人間国宝の父がいて、相応の才覚も持っているということならば、周囲の人間が敬遠してしまうのも無理は無いだろう。
「その娘も来年、儂の学園に入学する予定での。 このままでは学園でうまくやっていけるか不安だと、親のほうから言ってきおった。 そこで、誰か歳が近い者を川神院から見繕って、引き合わせられないかということじゃ」
「なるほど、つまり彼女と友達になれと」
「ま、平たく言えばな」
しかし、俺でよいものか?
「ああ、それと、もうおぬしに決めたと言っておいた」
―――は?
「何故?」
「む? 不服か?」
「……いえ、むしろ適任なのは百代さんではないかなと」
強さ的に。 あと誠に失礼ながら、性癖的に。
「力量は既に四天王の域なのでしょう?」
「うむ……。 百代には二、三歩及ばぬが、この間、橘天衣が負けたと聞いた。 四天王レベルではなく、もはや名実共に武道四天王じゃ」
事も無げに言う鉄心である。
―――なんと、あの橘天衣を破ったのか。 血族に平蔵をもつ、現役自衛官。 音に聞く最速の四天王を!?
些か、驚愕する。
「ならば尚更、百代さんと、武術で切磋琢磨させて仲良く、というのが最善かと?」
百代にとっても、一番の方策なのではなかろうか?
「それも考えたんじゃがな……。 モモには、あと軽く二、三ヶ月は武芸者の相手の予約が入っていてな。 おいそれとキャンセルできんのじゃ。 それに、同じ剣術を習っている者のほうが、何かと会話が進みやすいと思っての」
なるほど。
悪くはない、いやむしろ身に余る光栄ではないか。
それに、黛の剣、一度はお目にかかりたかった次第でもある。
「わかりました。 こも身に余るかもわかりませんが、その件、お引き受けいたします」
「そうか。 それはいいの。 ……しっかり、技を盗んで来い」
「ハッ」
条件反射で平伏して、細々とした指示を受けた後、彼の私室を辞した。
<手には鈍ら-Namakura- 第五話:仕合>
というわけで今に至る。
今、俺は加賀の豪邸の応接間にて、正座で黛家当主を待っている。 勿論、畳上である。
由紀江さんとの一悶着の後、なんやかんやで本邸にお邪魔できた。
正直、第一印象は最悪だったが、悪い子ではないのは、話してみれば、よく解った。
彼女は不器用なだけなのだ。
ほら、今だってお茶を俺に汲んでくれている。
(ヘーイ、そこのボーイ、早くもまゆっちの魅力にメロメロか~い? 視線がまゆっちに突き刺さりまくりだぜ)
「……失礼」
「あうあう~」
……少々、一人遊びが好きなようだが。
いっこく堂って、今は何をしているのだろう?
しばらくして、奥の襖が開いた。
「いや、すまない。 遅れてしまった。 少し遠くまで出張っていたもので」
中からは、体格のいい男性が現れた。
簡素な作法衣に身を包み、その左手に細長い布袋。中身を問うのは愚問だろう。
目が合う。
「おお、君が矢車君か」
素早く礼する。
「はっ、川神院より武術研修に参りました、矢車直斗と申します。 名高い黛十一段に御眼にかかれるとは、光栄の極み」
「いやいや、そんな硬くならんでくれ。 これから二週間弱、共に寝食するんだ。こっちまで肩が凝ってしまうよ。 ほら、顔を上げて」
明るく快活な声が返ってきた。
幾分、フランクな性格らしい。
「それより、ここまで歩いてくるとは。 なかなか根性がある」
「いえ、足腰の鍛錬にはもってこいということで、御本家の指示もありましたし。 雪の上なら尚更との話で」
「ふむ」
当主は座卓に着く。
次いで、淹れてあった茶をすする。
「…………」
「…………」
「…………」
(…………)
いきなり、この沈黙である。
誰か喋れ。 この際、馬でも可としよう。
秒数にして15.2秒、音の無い世界が続く。
その間、彼は俺をじっと、見つめていた。
俺も、それを両眼で受け止め続けた。
ふと何事か、思いついたように、彼は顎に手をあてる。
「……由紀江」
「は、はいッ」
突然、父に娘は話しかけられた。
「道場の掃除は?」
「つい先ほど、済ませました」
今度は澱みなく答える。
そして大成は、顔を俺に向けた。
「ついてきなさい」
「……はっ」
何事かは解らないが、当主にならって立ち上がる。
由紀江もそれに続いたが。
「ああ、由紀江、お前はそのままでいい。 ここで待っててくれ」
「え、あ、はい」
渋々、といった感じに彼女は座り直す。
え、何?
もしかしてこれからサシ?
部屋を去り際、黒馬の声が響く。
(Battleの予感、ビンビンビ~ン)
うぜ。
*
川神と幾分似た、素朴な道場。そこに俺は案内された。
何畳あるのだろうか、それなりに広い。 無論、川神よりは狭いが。
その丁度中央で、立ち止まる。
「少し待っていてくれるかい?」
「は」
そう言うと、奥の物置のような部屋に足早に行ってしまった。
状況からして、ここで仕合をすることは明白だった。
木刀でも取りに言ったのだろう。
高鳴る鼓動を、呼吸法で落ち着け、待つ。
「さて」
三分ほどで彼は戻ってきた。
予想通り、木刀を携えて。
「これから、まあ、君も想像ついてるだろうけど、打ち合いを行う」
俺は黙礼する。
「君はこっちだ」
手渡された。
彼の、左手にあったものを。
誠に失礼ながら、断りもなく、俺は布袋の中身を改める。
「………」
モノホン。
その言葉のみが、心中に浮かんだ。
「……失礼ながら」
「うん?」
「真剣同士で立ち会うのですか?」
「いんや」
黛流当主は、見つめ返す。
「君が真剣で、僕が木刀だ。 それで君が僕から一本取れたら、君に「黛」を教えよう」
舐められている、とかそんな感慨は浮かんでこなかった。
ただ、どうしよう。という困惑の極みである。
そして、
―――――――――――立ちなさい
殺気が渦を巻き、剣気が宙に駆け巡る。
―――これが、剣客の眼力か。
無論、断れる筈がない。
*
容赦無き、剣閃、剣圧、剣舞。
俺は無様に、避け回っているのみである。 効率の良い足裁きなど、意識している間もない。
「どうした? 川神院では攻めの手を教えないのか?」
攻めの手を打たせない連戟を殺到させて言われる。
「ほら、次は左足、いくぞ!」
実際は右足を打たれる。
「いつまで、動く砂袋でいるつもりかい?」
……貴方が叩き疲れるまでだと本気で叫びたい心地だった。
「人生、避けてばかりじゃ、後々苦労ばかり。 だから若いのに、頭に白いのが多いのでは、ないのか、ねッ!?」
言葉でも蹂躙してくる。 本当に待ったなしである。
俺には喋る余裕はない。
「ほら、さっさと剣を抜けぃ!!」
そう、俺はまだ刀を抜いていないのだ。
俺には、無理だ。
木刀で武装しているとはいえ、それに真の凶器で立ち向かうなど。
無理だ。
無理だ。
無理だ。
次第にかわすのが難しくなる。
剣速が速まっているのか、こちらの動きが鈍くなっているのか。
おそらく前者だろう。
避ける事と、こんなしょうもない判断にしか自分の才を使えないとは。
なんて無力。 なんて脆弱。
腹立たしさのみが、心を占める。
仕方ない。
こんなこと、したくないが。
―――ガゥン!!!!
「ッツ!?」
わざと、横薙ぎをモロに喰らう。
骨が折れなかった事を天に感謝し、布袋を投げつけ目くらまし。
後方に、思いっ切り、跳ぶ。
……そして。
―――シュラァァァッ!!!!!!!
ついに、剣を抜いた。
*
それを見た、当主。
一度、腰に木刀を納める。
手を止めたと判断するほど、俺は愚か者ではない。
納刀からの抜き打ち、即ち、居合斬り。
黛ノ極意ハ神速ノ斬撃ニアリ。
その言葉を聞き及んだのはいつだったか。
剣の速度によって、かの奥義の名は変わる。
数の位がその名になっていたはず。
此処に来る前に、川神の書庫にて調べていたし、元からそれを噛み砕いたおおよその概要も御本家から聞き及んでいた。
瞬速、弾指、刹那、六徳、虚空、清浄、阿頼耶、阿摩羅、涅槃寂静
この順に速くなるらしい。
正直、木刀で瞬速出されても、今の俺は再起不能になるだろう。
……なんでこんなことを今、説明しているのか。
気迫、怖すぎて興奮物質ダダ漏れで、テンパり100%だからである。
―――どこの飛天御剣流だ、どこの天翔龍閃だクソッタレ!!
こちらに跳んで放つつもりだろう。
天下一と名高い神速の剣が、俺に牙を剥く、
その寸前。
俺は、自らに与えれられた刃を、首筋に当てる。
そう、自らの首筋に。
こちらに向けられていた殺気が、微かに緩む。
ここぞとばかりに、俯いたまま、俺は声を張り上げる。
「申し訳ありませんッ!!俺には無理です!どうか、どうか平にご容赦をぉおッ!!」
最後は、歌舞伎みたいになってしまった。
だが、これが、今俺に打てる最善の一手、全力の一手だ。
……情けない事、この上無い。いや、この下無いが。
その場に座る。
へたり込む、といった表現が正しい。かもしれない運転。
ちょっぴり涙目。かもしれない運転。
根性なしが、と罵られ、外にほっぽりだされる。かもしれない運転。
流石に外にいきなり放られることはないだろうが、どちらにしても、修行は受けさせてもらえられないと思われる。
申し訳ない、由紀江さん。
来年まで、友達はお預けだ。
―――ゴン
と、何かが床に突く音が聴こえた。
見れば、数歩先で木刀の先を床に置き、黛十一段が、立っていた。
先ほど会ったころの、優しげな眼差しをして。
「……合格」
確かに、そう聴こえた。
「な」
何故。
俺に、そう言う間も与えず、当主は続ける。
そして、その言葉は、俺を黙らせるのに十分な言葉。
「君は、人を、殺した」
文節を、存分に区切り、彼は言った。
「眼を見て、わかった。 なんて言えたらカッコいいんだが」
彼はまだ、こちらを見続けている。
「君を、うちで預かることになってから、川神本家、鉄心様に君の事を聞いた。 君の半生、というべきか。……君は、どうしようもない状況で、自らの武を振るった」
「だが私は君に、同情も慰めもしない。 ……私も人を斬った事がある。 だから、その必要が無い事はわかっている。 私は、ただ君の行為を侮蔑する」
穏やかな目で、抜き身の倭刀のような冷徹な言葉。
「戦士でもない者を、死ぬ覚悟をしていない者を、君は幾人も手にかけた」
事実。
それは、紛れも無い、事実。
「その事について、悪事、と認識しているのか。 私は確かめたかった。 そして今、確かめた」
「たぶん君はその行為に、その選択に、後悔はしていないだろう。 でなければ君は、川神院にいない。 その身に道着を纏って、武の道を踏む事はできない筈だ」
だが、と続ける。
「自分のした行為は、悪であると。 二度と、絶対に繰り返してはならない事である、と思っているのは解った」
俺は、黙って俯いたまま。
「顔を、上げなさい」
深く息を吐いて、言う通りにする。
「君なら、由紀江の第一の友に、相応しいとみた」
二週間弱だが、よろしく頼む。
そう、頭を下げられた。
―――――ぅ、ありがとうっ、ございまッ!!
震える口に出たのは、自らの本質への理解に対する、感謝の言葉だった。