『目と目が逢う瞬間、好きだと気付いた。 あなたは今、どんな気持ちでいるの? 戻れない二人だと、分かっているけど、少しだけこのまま、瞳そらさないで』
―――如月千早「目が逢う瞬間」より
眠り、という行為が、心身の活動を休止させて無意識になることを指すのであれば、眠っているわけではなかった。
目を瞑り、横になった体を静止させていても、不死川心の五官は絶えず周囲に開かれていた。
絶頂期を過ぎたとはいえ未だ冷めやらぬ羞恥と激怒で揺れ動く思考を切り離し、周囲から漏れ聞こえる喧騒に耳を欹て、戦況の把握に努めていた。
後ろ手に手首を縛っている拘束具は麻縄の類だろうと食い込む感触から想像ができたし、噛まされているプラスチックの猿轡は、舌触りからして、いかがわしいネット広告で流し見たギャグボールなる玩具であることも理解していた。
舌を噛まれて自傷されることを予防するため、というよりは、むしろ、被拘束者の恥辱をより煽るためのものであろうと確信する。
呼吸するたびに、怒涛の勢いで罵詈雑言のボギャブラリーを使い果たそうとするたびに、ぴゅうぴゅうと、ずぶの素人が篳篥に息を吹き込んでいるような音が口元から鳴る細工に気づいた時には、すぐさま鼻呼吸に切り替えて、沈黙したまま握った掌に爪を食い込ませる以外に、烈火の如き腹立ちを抑え、屈辱に耐える方法が無くなっていた。
猿めが、猿めが、山猿めが。
南東の森丘に設置された朱雀軍司令部にて、虜囚の身に甘んじている彼女が思いつくのは悪態ばかり。
無礼かつ無作法かつ失敬かつ不行儀かつ尾篭かつ失礼かつ非礼かつ無遠慮かつ粗野かつ粗暴かつ伝法かつ不躾かつ慮外かつ聊爾かつ無骨かつ横風かつ驕傲かつ猪口才かつ不遜かつ僭越かつ生意気かつ嵩高かつ威丈高かつ驕慢かつ大柄かつ小癪かつ傲慢かつ破廉恥かつ下劣かつ靦然かつ僭上かつ野面皮かつ野風俗かつ厚顔かつ暴慢かつ増上漫かつ不埒かつ不届かつ専横かつ大風かつ無恥かつ無知かつ厚皮かつ浅短かつ浅墓かつ軽忽かつ軽率かつ遅鈍かつ愚癡かつ梼昧かつ愚陋かつ迂愚かつ愚蒙かつ愚劣かつ愚鈍かつ愚盲かつ愚昧かつ魯鈍かつ頓馬かつ滑稽かつ莫迦な、汚らわしい庶民の手が。
雅かつ風雅かつ高雅かつ優雅かつ閑雅かつ典雅かつ寛雅かつ都雅かつ文雅かつ雅馴かつ上品かつ風流かつ清淑かつ優婉かつ高潔かつ高邁かつ清高かつ優美かつ美妙かつ端整かつ華麗かつ佳麗かつ流麗かつ端麗かつ純麗かつ鮮麗かつ繊麗かつ婉麗かつ典麗かつ秀麗かつ壮麗かつ絶佳かつ瀟洒かつ鯔背かつ小粋かつ明媚かつ甘美かつ艶美かつ嬋媛かつ愛嬌かつ無垢かつ清浄かつ清純かつ無邪気かつ勝絶かつ秀逸かつ出色かつ絶妙かつ無双かつ最上かつ最優良かつ最優秀かつ真盛かつ極致かつ十全かつ大全かつ完全かつ至高かつ至極かつ崇高かつ神聖かつ繊細かつ華奢かつ初心かつ温柔な、それはもう究極的に麗しく奥床しげな此方の尻を。
実に六分二十七秒もの間、電波を介した不特定多数のピーピングを許しながら、情け容赦なく蹂躙し凌辱し尽した、という現実。
尻である。
臀部である。
乙女の聖域である。
もはや不死川心レベルにもなると女神の寝所、ある種の“神域”とも呼べる領域である。
その絶対禁猟区に何の臆面もなく手を伸ばし、淑やかな起伏を弄り撫でると、そこからは高橋名人も真っ青の連打攻撃である。
アメリカで言うところのスパンキングであり、フランスで言うところのパンパンチュチュであり、つまりは日本で言うところのお尻ペンペンであり、ニコニコ的に言えばケツドラムである。
比較すればスカイツリーすら爪楊枝に見えてしまうほど高いプライドを持つ彼女の精神、高貴なる生娘の自我は、尻が一割増しほど肥大したところで臨界点を突破し、フロイトの言うところの精神の防衛機制が働く前に、不安発作とパニック発作を併発。
呼吸性アルカローシス――過換気によって血中の二酸化炭素が排出され、血液がアルカリ性に変質し、意識は混濁。
失禁しなかったのは奇跡と言って良い。
平たく言えば人事不省に陥り、流れるように気絶し、つい先ほど簀巻きにされて転がった状態で覚醒した次第だった。
ルール上、本来であれば既に審判員、川神院から派遣されてきた僧達に保護され、戦場外の傷病人スペースに収容されている筈の立場なのだが、一向に彼らがやって来ないところを見るに、心の事情よりも優先しなければならない、審判員を総動員しなければならない、つまり絶えず負傷者が溢れ出る、それだけの激戦が何処かで繰り広げられているということなのだろう。
矢車直斗が、そしておそらく九鬼英雄を中心にした二年S組の有志が、この小雨の中、泥だらけで奮戦している姿を想像した心は、それを鼻で嗤ってみせて、すぐに息苦しさを感じて、それから誰にも気づかれないように、ちょっと喉を鳴らすようなさりげない咳をした。
口腔にじわじわと、しょっぱさが広がっていった。
無駄な足掻きである。 自分はそれを嫌って、賢しく潔く敵方に降った口なのである。
……だが、果たして無駄であっても、真実、無様であるかどうか。
どういう扱いを受けるかも想像しないまま、安易に利口ぶった結果、この大戦で、もしかしなくても矢車直斗に次ぐ格好の晒し者となった身を横たえながら、心は考えた。
許容範囲を越えた負荷に晒され痙攣を起こし、ついには現実から乖離して、それでもまた性懲りも無く出戻ってきた情けない精神に、多少を問わず面識のある様々な人影が横一線、後ろ向きに並んで浮かび、一人また一人と知り合った順に消えていく。
当然、最後に居残った者は、蒼き羽織を身に纏い、背中に誠の一文字を刻んだ、およそ風雅とは最も懸け離れた出で立ちだった。
――――彼奴のせいじゃ。
彼奴のせいで、此方はこんな目にあっているのじゃ。
源流を辿れば遥か飛鳥の時代に遡り、かの社会科教師と同列に語られるのは甚だ癪ではあるが、家格は綾小路家と同じく皇の血も混じり、日本三大名家の一つとして数えられるほどの名門中の名門――――如何してその由緒正しき不死川家の当代息女が、十羽一絡げの蛮族どもの餌食となって辱められ、幾匹蚯蚓が這いずり回ったか知れぬ湿気た生臭い土壌に全身を擦り付けて、尺取虫同然の格好で決着を待たなければいけないのじゃ。
……そんな責任転嫁の思考が延々と頭で渦を巻く中で、しかしその薄い胸板を隔てた奥では、自分の醜態が、玄武軍の更なる離反を呼び込んだ事実も省みることができた。
その時間はたっぷりあった。 そうする余裕も生まれていた。
うつ伏せに転がされた状態では苔むした地面しかほとんど見えなかったし、すぐそばで簡易椅子に座りながらパソコンを操作する者の妙なプレッシャーさえ意識しなければ、好きなだけ思索に耽っていられた。
監視の目を注いでいる見慣れぬ人物は、心も高校の進学先として川神と秤にかけた事がある天神館からの助っ人で、名を、オオムラ・ヨシツグ、というらしい。
外見の印象としては、思い出すのも忌々しい二年F組の、確か、大串、とかいう常にアニメのプリントTシャツを愛用しているらしい陰気臭い長髪眼鏡と酷似している。
自らを“虚弱体質で喘息持ちから吸入薬と菱形マスクを手放せない西方十勇士の情報収集役であり策士”と称し、率先して後方支援、端末による情報伝達を手伝う姿もみせてはいるものの、感情を爆発させた後特有の賢者の如き冷静さと観察眼を獲得していた心は、“擬態”という言葉を頭から追い出せずにいた。
痩せぎすの外見にはどこか不釣合いな尖った気配、なにより、意識してそれとわかる動作を見せていないにもかかわらず、明らかに心の覚醒を感知している。
凡庸ということはありえまい。 少なくとも、この司令部の中では抜きん出て強いモノノフである。
……他の十勇士の面々が一分と保たず矢車に撃破されたとの一報がもたらされ、腰を浮かしかけた際の、下半身の強張り。
今にも飛び出していきそうな、相当の弾力を秘め隠す筋肉が一瞬隆起したところを目聡く確認した心は、自分の推測をまた一つ確信に変えてゆく。
――――俺は、お前に言った。 どんなに穢されようとも、綺麗なまま残るものがある。 また再び輝けるものがあると!
――――生れ落ちてから、たかだか十数年。 こんなところで早々と負けるわけにはいかないッ
――――戦う自由を放棄して、見下ろしている者たちの言いなりになるわけにはいかないッ
通信機器に繋がれたスピーカー越しに、音の割れた絶叫を聴いて、胸に奇妙な痛みが走るのを感じていた。
捕虜とされてから、ときおり感じていた痛みよりもっと鋭く、もっとはっきりとした痛みが全身に広がり、血の巡りを活発にしてゆく。
じわりと発した熱が、冷え切った胸を溶かすのを知覚した心は、後ろ手に縛られた拳をぎゅっと握り合わせるばかりだった。
一時間前の言葉が、しつこくしつこく耳奥で鳴り続ける幻聴が、心の心を揺さぶり続けていた。
――――全力を出し切って、死中に活を見出す。
――――今は、そうすることがたったひとつの方法なんだ。
――――見切りをつけられない今の俺がッ、今の俺たちがッ、大切なものを失わずに済むためのッ……。
もとより不死川心は、本心的に、どちらの味方でもない。
そこに戦いがあるから――そんな理由で参戦を決めたわけでもない。 彼女は武家ではなく公家である。
高貴な血統は、せせこましい腰巾着も、泥臭い浪人者も、等しく気に食わない存在である。 どちらも碌でもない世間の場所塞ぎとしか思えない。
ただ、今、間違いなく言えるのは、取り戻さなければならないものが戦場にできてしまったということ。
自分の高邁なる沽券。 自分の失態の払拭するだけの価値あるもの。
不死川心にしかできない不死川心なりの矜持の清算。
それが、今の心にとっての“大切なもの”……。
“ここから、出なければならない”
その意識が急速に膨れ上がり、心は伏せていた目を動かして、それとなく人の配置を再確認。
僅かな気配を敏感に察したのか、オオムラの体勢がこちらに向こうとした。
その瞬間だった。
「モモワープッ♪ からのッ、星留めッ!! からのッ、川神流ゥッ、無双正拳突き乱れ撃ちィ――“夏草の彩り、致死蛍を添えて”ェエエエエエエエエエエッ!!!」
ェエエエエエエエエエエッ!!!の部分で、朱雀軍司令部は壊滅状態に陥った。
ただただ破壊的なばかりの創作奥義が、空を裂いて、地を割って、周囲一帯を料理する。
発生源を辿れば、空間を真っ白に暴き立てるハレーションの如き輝きが、女の腕先に浮かんでいた。
今、ワープって言い切りやがったかこの女、とか。
乱れ撃っているのなら、もはやそれは正拳じゃないだろう、とか。
そもそもお前、朱雀軍の筈だろう、とか。
恐らくはそのような情調が錯綜して、三十余りの人間が瞬く間に飛び散り果てていった。
心が覚えたばかりの事物の配置は、すぐに意味を為さなくなった。
軍旗も矢盾も三脚も、地図と駒が載った文机も、その一切合財が、藤がはこびる藪の向こうへ消えていた。
拳圧か気功波か、ともかく正体不明の見えない力で、悲鳴を上げる間もなく、心の五体もまた陣幕の裏まで吹き飛ばされ……。
<手には鈍ら-Nmakura- 第四十八話:咆哮>
「……ねえさん」
「いいよな!? 答えは訊いてないけどッ、いいよな!?」
「…………揚羽さん達は」
「たおしたッ!!」
それはまるで。
苦手なピーマンもトマトもレタスもニンジンも、ぜーんぶ完食したから、だから、だからアイスクリーム食べて良いよねっ、と子供が親に強請るような。
「ふふッ、こんなにも血が沸いて、体が疼いて疼いて仕方が無いのは何時振りだろうッ? ふふふッ、この気分を伝えるとすれば、そうだなッ。 高級フレンチのデザートがッ、ヤサイマシマシニンニクマシマシカラメアブラオオメだったような感じだッ。 ……ああッ、もちろん褒めているんだぞッ? この充溢する強烈な気配といったらどうだッ? 喰い応えがあり過ぎだろうッ!? そしてまさかアイツだとはなッ。 ふッ、ふッ、ふふふッ、ふははははッ、私は今ッ、最ッ高に愉快で愉快でしょうがないッ!! んふッ、ふふふふふふふふふふッ、ふはははははははははははッ♪」
“おかわりをくれ”と。
ニタリと歪んだ唇が、全身でくの字を表しながら腹を抱えている様が、川神百代が狂気の入り口に差しかかりつつある事を教えていた。
「……ねえさん」
が、それに対する直江大和の反応も異常といえば異常だった。
現段階において、朱雀軍の優位は確固として揺るがぬものの、なにかしらの不気味な力が玄武軍に作用し始めていることは明白であり、是が非でも可及的速やかにそれを打ち崩さなければならない局面が今だった。
そのための何重にも張り巡らせていただろう謀略のプランを台無しにされた直後にして、この落ち着きぶりだった。
敵味方の見境無く、ただただ自分の満足の為、猛者強者に襲いかかる姉貴分の変貌に対し、陰のある苦笑いを浮かべこそすれ、その表情に焦燥はみられなかった。
代わりに、なんというか、二日ほど貸し期限が過ぎたレンタルCDの存在をつい今さっき思い出したような、妙に希薄な悔悟の情が浮かんでいる。
確かに、百代の力を借りずに仇敵を打倒したい、という意地もあっただろう。
その上で、姉に自分の価値を今まで以上に認めてもらう、という目論みもあったことだろう。
なにより、『さっさと、百代を連れて来い』という矢車直斗の催促に、死んでも乗って堪るか、という傲慢も間違いなくあった筈だ。
僅かな間、寝そべりながら大和の言動に耳を傾けていただけの心にも察することが出来るほど、大和はひしひしとその念を熱く強く滾らせていた。
「…………ああ、」
しかし、それらの感情を覆い尽くしてしまうほどの、別次元のレベルで、この男は諦めてしまっているのだ、と心は直感した。
「半日もしないで、結局、これか。 ……こういう言い方は、協力してくれた人たちには申し訳ないことこの上ないんだけどさ。 ――――俺のサプライズは、つまらなくなかったかな?」
“そういう生き物”
“姉さんはそのままでいい”
そう言い聞かせて、第一の目的は矢車直斗の撃破、それ以外は二の次、と考えを改めさせるほどの、百代の精神に対する諦観が、大和の声色には潜んでいた。
この姿に魅入られる者は、この女の本質に惚れる者は、きっと皆こうなのだろう。
目前の女の化生性を認めることを前提として、直江も、矢車も、彼女を愛しているのだ。
……直江のように身を粉にして尽くして立ち振る舞うか、それとも、矢車のように善き好敵手足らんと抗い悶えるか。
アプローチが違うだけで、“川神百代が川神百代として在ることを死守とする”という点は共通している。
そう。
矢車直斗もまた、諦めているのだ。 乾き切っているのだ。
“誰も、彼女の修羅を変えようとはしていない”
それが良いことか悪いことか、辛うじて意識を失わずに済み、寝転んだままその会話を出歯亀した格好となった不死川心には判断がつかなかったが、その認識がしこりとして、胸に残った。
そうして姉弟の幕内でのやり取りから目を離した心が、一も二も無く手近な岩に身を縛る麻縄を一心に擦りつけ引き千切ったところで、
「さて、状況が状況だが、逃がすわけにはいかんな」
「くッ!?」
「どれほどささやかな戦果であろうと、一つくらいは立てねば、十勇士の名が完全に折れ切ってしまう。 ちょうど人目も無くなったことだ。 今ならば、少々私がまともに立ち振る舞った所で、周囲の連中は武神の威容に目が眩んでいることだろうしな。 凍てつく氷河の中にいようと、身を焼く炎の中にあろうと、心に誓ったことを翻しはしない。 力の攻めに遭おうとも、守らなければならないもの。 ――――人、それを『尊厳』という!」
十メートル先の立木の傍で、ついに馬脚を現し、薄い殺気と共に囁いた大村ヨシツグが、口元を覆う菱形マスクを脱ぎ捨てながら心を睨み据えていた。
喘息持ち特有の掠れた咳も、痰の絡んだような声質も既に無く、目にはただただ冷然とした光がある。
心が立ち上がって態勢を整えるために足腰に力を入れた瞬間、その眼光が身震いするほど近くまで寄って来た。
先手の必勝を期し、一挙動で間合いを詰めた大村は、勢いそのまま右の掌を心の頸部に流し入れた。 尋常なる空手の立合いであれば、一本を示す赤旗が文句なく審判の頭上ではためいたことだろう。
手足が噛み合う、教本通りの完璧なナイフハンド・ストライク。
がくん、と正面に細い首を垂らした心の体を樹木に預け、新たな麻縄を手に取り強度を確認しながら、束の間脱力した大村は誰にともなく呟き始め、
「……まったく、敵も味方も余計な手間を掛けさせッ――――!?」
“華のある格闘技”と訊かれれば、心にとって甚だ口惜しいが世間一般では柔道ではなく、まず間違いなく最初に“プロレス”という名前が挙がることだろう。
なにぶん品の上下で言えば、それこそ言わぬが華であり、不倶戴天の2-Fにはその筋の関係者が在籍していることもあいまって、表立って言及することは無かったが、興業レスラーの研鑽された技術に関してのみ、柔を嗜む心もそれに一目置いていた
マッチメイカーが作成した台本に従って進行される、予定調和のバトルショウ。
ただの演技と侮るなかれ。 試合展開、決着方法、そのすべてが計画通りにいかなければ、団員には上役の鉄拳制裁が控えている。
場外乱闘の移動ルート、パイプ椅子での殴打回数、ゴングからフィニッシュまでに至る時間。
それらすべては観客を魅了し続けるために厳密に設定される。 数々の努力の末に履行されるは魂のエンターテイメント。
……その中で、より長く、より華やかに、より魅せる格闘として成立させるために、自然と編み出された技術として“バンプ”と呼ばれる受け身がある。
どれだけ派手な技の使い手といえど、相手のバンプが拙くては、目の肥えたファンの観賞に耐え切れるレベルで技を繰り出すことなどできはしない。
バンプの効きが不足すると、技の迫力が伝わらない。 逆に過剰であると、かえって技が嘘くさく見えてしまう。 防いで終わり、というものではないのだ。
投げ技に対しては、投げられる者は相手の投げ上げの動作を補助し、技の威力をそれとなく底上げする。 リフトアップが必要な技では、観客に気づかれぬよう飛び上がる受け身を取る。
そして、この場面、大村が放ったような打撃技に対しては、打撃と同時に自らダウンする。
打撃と同時に打撃された箇所を打撃方向に移動させ、衝撃を受け流すという受け身を取るのである。 ……あたかも、技が完璧に入ったかのように脚色して。
身体的ダメージを軽減しつつ、それを諸に受けてしまったように見せかける。
技をかけた当人すら騙しおおせる、即興で誂えながら、その実見事に嵌った芸術的な“バンプ”によって、不死川心は相手の勝利を演出し、油断を捥ぎ取ったのであった。
一眼、二足、三胆そして四力となぞりながら、その場で膝立ちになった不死川心は、ついに無防備を晒した大村を抑えにかかった。
抜け目なく男の膝関節をかくりと折らせ、相手の態勢を崩した心の頭がぐっと前に出る。 腰のベルトを手掛かりに、襟を引き摺り下ろして引っ掴む。
着物の裾から露わになるニーブレス。
それを装備した膝小僧を軸にして繰り出される、
「絢爛なる竜巻背負いッ――――!!!」
団子頭を経由して、決意の横顔が大村の目の前に沸いて出た。
一瞬のチャンスを逃さずに襲い掛かり、まだ死んではいない誇り高き柔道家の力量を示した女の顔だった。
より冷静な側に有利が働く、という戦闘の鉄則に従うならば、この時の心は圧倒的に優勢だった。
理性の線は切れていたが、この上なく冷静であり、ここまでの敵の動きを正確に読み取ることができた。
「――――味な真似をッ!!!」
だが、それに対した大村もまた、不敵な色を宿した瞳を翳らせはしなかった。
鉄則などという縛りに囚われていては、“壁”を超えることなどできはしない。 いずれその境地に昇り詰めるべく、精進してきた者こそ心の相手だった。
ここからの大村に呼吸は無かった。
息を詰め、密林の虚空を流れる自らの全神経を集中し、相手の死角を突くことのみを念頭に、次の動きを模索していた。
そう、彼自身の呼吸は必要なかった。
視界の天地が完全に返されるその直前、背筋を収縮し、下半身を海老反りに、背中が叩きつけられるよりも早く、両の踵だけ先んじて着地する。
発勁に必要な呼吸は、そこから生み出される勁力は、既に十分すぎるほど不死川心自身が貯めてくれていた。
ただ、流せばよい。 逸らせばよい。 返せばよい。
天罰覿面因果応報、是れ我が流派の奥義也。 ――――人、それを『縁起』という!
小賢しい『演技』を打ち破るに、これほどの皮肉はあるまい。
投げによる脊髄への衝撃を躱し切ると同時に、両足で震脚を踏み、勁の行く末を再訂し、脚力の威を上乗せして、密着した心の薄い胸に頭頂部を飛び込ませんとした。
――――バーニングヘッドッ!!!
凝らした技巧の名を胸中で叫ぶ。
「にょァッ!?」
爆音のように土の地面が打ち鳴らされ、雅な悲鳴を掻き消した。
予想だにしない角度からの反撃に顔色を失った心の鎖骨に向けて、噴石の如き大村の頭突きが放たれ。
「――――富士砕き」
…………着撃するその間際、大村の胴体を流れていた勁力は、彼の腹筋ごと圧潰した。
二者の空間に捻じ込まれた巌の如き右下段突きが、起死回生を果たした大村の命運を、羽虫をはたき落とすような気楽さで、跡形も残さず粉砕した。
左斜方の地べたに吹き飛ばされた大村の体は海豚のように跳ね、藁屑のように舞い、コメツガの一木に叩きつけられる。 受け身など望むべくもなかった。
*
「常勝無敗完全無欠のディフェンディング・ヘタレクイーンと見せかけて、なかなかどうして根性があるようだな、不死川?」
やにわに足元へ転がってきた手榴弾が、いきなり爆発したようなものだ。
すぐ真横にいた人間の顔面が、対物ライフルの流れ弾で唐突に掻き消えたようなものだ。
不意の喪失感に遅れて、極寒の戦慄が心の総身を奔り抜く。 胃の腑が反り返りそうになる。
固めた拳の先で、味方であった筈の者を無力化した感触を確かめるように、武神――川神百代は緩慢に残心しながら、餓え猛る獣の眼をこちらに注いでいた。
中腰のまま、ただひとり、背負い技を半ばで途切れさせたその位置で、心は身じろぎ一つできずに体を凍りつかせていた。
動かなければならないと重々承知していながらも、一歩でも足を動かせば脱力して跪いてしまいそうだった。
戦士としての勘が告げていた。 今のこの女に、敵味方の区別など既に無いのだと。
一歩間違えれば、大村と自分の立場はそっくり入れ替わっていたのだと。
位置関係と気合の吐き具合――――“どちらがより猛者たりうるか”という基準で、大村が優先されただけ。
この女は、ただただ強者を相手に満たされたいだけなのだ。 暴れ回りたいだけなのだ。
その瞳に心を捕捉したまま、ゆっくりと、獲物を定めた獅子の如く百代は歩み寄ってきた。
残忍な鳶色の双眸は、乾いて間もない血痕を連想させる。
アレから、目を逸らすわけにはいかない。
いかに恐懼で脳漿が凍ろうと、膀胱が緩みかけようと、それだけは理解できた。
今、目を逸らせば、命は無い。
今、百代の不興を買えば、心の明日は無い。
そう思わせるだけの殺気が、呼吸も同然に、見上げる顔面から放たれていた。
新入りの亡者をどう持て成そうかと愉しげに思案する、地獄の鬼の貌だった。
「…………丁度いい。 お前、先触れになってくれるな? 今のが礼の先払いだ」
「さ、さきぶれ?」
「ああ、そうとも。 もう少ししたら、私はメインを獲りに往く。 邪魔が入らぬよう、ゆっくりとっくりオードブルを堪能してからな」
「た、たんのう?」
意味を斟酌するゆとりもなく、ただただ彼女の言葉を鸚鵡返す。 満足に頷くこともできない。
ひしひしと感じていた。 川神百代と不死川心の間に、談判はおろか、戦闘という交渉すら存在できない。
沿岸の村を襲う津波であり、山麓の村を襲う溶岩であるものに、どうして問答が通じるものか。 どうして拳を交え、その襟元を固め、組み合いを仕掛けることができようか。
「備えておけよ、と伝えるんだ。 迎える支度をしておけ、とな。 …………早く行け」
足元が割れた。
家鳴りのような乾いた衝撃音が遅れてやってきた。
「どうした? 早く、」
行け、という言葉が再び耳に入る前に、心は全力で真横に飛び退いていた。
一瞬前にいた所が、畑の畝のように掘り返されている。
その一角だけが、超小型の直下型大地震に見舞われたかのように、薄く円形に抉られていた。
ただの“気当たり”が、物理的に害を及ぼすその様を一目見て、不死川心は脱兎の如く踵を返して逃げ出した。
「ほらほら、急げ急げ。 ――――――ふふっ、ふふふふっ、んふふふふふふっ♪」
その姿は確かに、狩猟者に追い立てられる好餌のそれに他ならなかった。
二つ、三つと、同様の炸裂音が背後から追いかけてくるのを聞きながら、森を抜けて崖際に辿り着く。
張り出した木の根に足を取られ、頭から倒れこむ。
振り返る。
空気が爆ぜる。
木の根が弾ける。 粉微塵に砕ける。
飛び散った木片が顔に飛び、出来たての擦り傷に直撃する。
殺気の塊が頭のすぐそばを掠め飛んでゆく音を聞きながら、心は転がるように斜面を下って行った。
這い茂る蔓草や張り出した石礫、あるいは自分の裾を踏んでは何度も転び、滑りながら、迷彩色の斜面を駆け下りた。 もはや全身が打ち身の百貨店と化していた。
せめて、次第に緩んでゆく帯をきつく縛り直したかったが、少しでも立ち止まれば正確に足元の土を穿ってくる不可視の鬼道が、心にその間を与えてくれなかった。
それは、巣穴に逃げ帰る蟻を一匹ずつ潰していく類の遊戯だった。
百代が意図して的を外し続け、怯えて逃げ惑うばかりの自分に対して歪んだ愉悦に耽っているのは明白であったが、さりとて、それに期待して疾走を緩められるだけの精神的余裕など、心には既に無かった。
息せき切って、ひた駆ける。
川神百代は伝言を送る相手をついぞ教えはしなかったが、それは状況が状況だけに明白であった。
その目的意識だけが、恐慌状態にある心の心の、唯一の拠り所となっていた。
*
「さてと。 まずは周りの大掃除からだな。 モロロの手当ての方は任せた。 後で謝っておかないとな。 ふふ、まったく今日は、どうにも拳のノリが良すぎて困る。 なかなかに………………ああ、それと大和。 さっきの問いの答えだが、言っただろう、高級フレンチと。 よくぞあれだけの面子を揃えてくれたものだ。 実は、お姉ちゃん、あれな、かなり見直したぞ? だからそんな、母性本能を程よくくすぐってくる顔をしないでいいんだ。 ……安心しろ。 忘れてはいないさ、これがお前の誇りを示す機会なのだということを。 おかげさまで今の私は良い加減に加減が効かん。 だがな、だからこそ、超時空要塞にでも乗ったつもりで待っていろ、“軍師”直江大和。 この私と直斗の相手を一手に引き受けたここまでの雄略、誠に天晴れだ。 今度は私が、この抑えようのない、胸を焦がして頭を煮え滾らせてやまない狂おしいリビドーを駆り尽くして、お前の勝利を念押ししてくるさッ! ふふふ、ふはははははははは!!!」
*
――――アタシには、そんな悪い子には思えなかったけどねぇ。
――――よっぽどの理由ていうのがあるんじゃないのかねぇ?
――――ほら、大和君は昔っから、少し擦れた所があったじゃない? 今じゃ、あの小生意気さは見なくなって久しいもんだけどさ。
――――そうは言ってないだろ? 聞いた限りじゃ、一方的に因縁つけられたらしいし、あの子が悪いって事に異議は無いよ。
――――首根っこ踏み抜かれるところだったって? ハァ…………アンタ、ほんとにアタシの子かい? それぐらいでギャーギャー喚くんじゃないよ、みっともない。
――――何のためにジムに通ってんだい? そういうときのためだろ? 相変わらずの女漁りにうつつを抜かしてるからそうなるんじゃないのかい?
――――ま、アンタたちがカッカするのも仕方ないとも思ってるさ? アンタたちのケンカだ。 アンタたちで好きにやんな。
――――けどね。 その無駄にデカい図体で殴りかかる前に、必ず目を見な。 思い知らせるんだよ。 相手にも、アンタ自身にもね?
「何を思い知らせろってんだよ、ったく……」
ひとりごちる。
川神を出発する前の晩、嫌に小五月蠅かった母親の節介焼きを、何故かこの場面で島津岳人は思い出していた。
寮監という立場から、学園の運営関係で川神院と意思の疎通を図ることが多い島津麗子は、息子の想像以上に院の内弟子たる直斗と親交があったようで、まんまと直斗の外面に騙されたままでいるらしい。
「があッ!」
……再度、なよなよとした拳が胸元に肉薄したことで現実に引き戻される。
避けるまでもない、虫一匹も満足に殺せないような拳速である。
エキスパンダーで鍛え上げた広大な胸筋に受け止めさせると、そのまま細腕を掴み上げ、ハンマー投げの要領で五メートル先に打ち捨てる。
岳人の直近の十分間は、この作業の反復に割かれていた。
「だぁあッ!」
「ッ――――、しつけぇぞッ、いい加減ッ! 色の悪ぃ生長不良の豆モヤシみてぇなお前がッ、俺様に勝とうなんざッ、百万年早ぇんだよッ!!」
「ごッ!?」
何度打ち倒しても打ち倒しても追い縋ってくる男は、自分にとって、甚だ不足の相手だった。
彼奴こそ“魍魎”が怨敵、“エレガンテ・クアットロ”が一柱。
道を歩けば擦れ違った十人中十二人が振り返る、さしもの岳人も認めざるを得ない、魅惑の魔貌。
更に自らをバイセクシャルと公言し、もはや存在自体が男女兼用の投網のような褐色小悪魔系、眼鏡美男子。
人中の呂布ならぬ、貴公子中の葵冬馬と覇を競い合うというのは、学園の女性陣に島津岳人の男性的魅力を説くに相応しい、待ちに待った絶好の機会である筈なのだ。
……だが、拍子抜け。 その一言に尽きる。
あれだけ大和が“同類として”警戒していた男である。
学園一の頭脳を持つことは、岳人とて承知していた。 それは明々白々であった。
“一位 葵冬馬 ○○○点”の文字を、学年掲示板で何度見たか分からない。 賭場で何度カモにされたか分からない。
あの涼しげな顔に、組対抗のイベントで何度F組が煮え湯を飲まされたことか。
そんな2-Sきっての参謀役が、岳人の前へ、単騎で特攻して来たのだ。
何らかの策が凝らされていると見るのが妥当だった。
たとえば、起伏の激しい戦場を鑑み、玄武軍のゲリラ的な攻勢を予測した大和は「恐らく“釣り野伏せ”が仕掛けられる可能性が高い」と風間と岳人が率いる黒の団に言い含めていた。
戦国史にさほど詳しいわけでもない岳人であったが、この古流戦術には馴染みがあった。 何を隠そう、九州の雄・島津義久が考案し実践した戦法である。
どこぞのフィギュアスケート選手同様、自分が大名の末裔であるらしいとの母の言は正直に言って眉唾物ではあるのだが、昔の時分、ピンポイントでローカルな学習漫画を読ませられたためにそれを知悉していた。
部隊を複数に割き、囮部隊である“釣り”と、伏兵である“野伏せ”に分ける。
敵軍中央に突撃して頃合を見計らって敗走を装いながら後退する“釣り”。
それを追撃した敵部隊を、あらかじめ左右に伏せておいた“野伏せ”の部隊を波状に繰り出し、包囲殲滅する。
――――それが、大軍を寡兵で破るべくして編み出された“釣り野伏せ”である。
こう説明すればただの伏兵戦術のようであるが、実際に行うには、第一に釣り部隊が敵が本気になるほど奮戦し、第二に完全に負けたと思わせる敗走をし、第三に追撃させるほど相手の判断力を落とす、という幾つもの段階を踏まなければならない非常に高度な戦術であり、指揮官の高いカリスマ性・采配が求められ、軍師の腕前が試される用兵術である。
なるほど、確かに「俺だったらそうする」と大和が言うだけのことはある。 いかにも大和好みのそれであり、葵冬馬にとっても同じだろう。
仮に釣り野伏が仕掛けられているとすれば、この場面、“釣り”は冬馬一人であるという計算だ。 なんという豪胆さか。
……だが、それは万に一つもあり得ないのだ。
なぜなら“野伏せ”はどこにも存在しない。 岳人を囲うは岳人の味方以外に無いのである。
七千対二十万で勝利を捥ぎ取れても、一対二十ではそもそも策自体が成り立たない。
一は、それ以上分けられない。
「ぐぅうううう!」
「…………らしくねぇぞ。 本当によぉ」
呻きながら藻掻きながら、肉が震え、骨の軋む音さえ聞こえてきそうなほど痛々しい様子で立ち上がるのは、これで二十三度を数える。
思えば、包囲を潜り抜けてきたところから様子が常とは違っていた。
罅の入っていた、いかにも高級そうな眼鏡は既に戦場の土煙の中に消え、飄々として掴み所の無い甘いマスクすらかなぐり捨てて、長髪を振り乱し、我を忘れた面持ちで遮二無二突貫し続けるその姿は、普段の葵冬馬と余りに懸け離れていた。
それに全く怯まなかったといえば嘘になる。 だが、冬馬がいくら叫ぼうと、いくら拳を伸ばし蹴りを飛ばそうと、ひたむきに五体を鍛え上げた岳人との力量差は歴然であった。
もとより、闘犬に愛玩犬が喧嘩を売っているようなものだったのだ。 もはや勝負は着いている。
多対多の乱戦が当たり前の、味方集団から独り逸れればたちまち敵集団の餌食になるこの戦場において、冬馬がリンチの憂き目に遭わず、岳人との一騎打ちの体裁が整え続けられているのは、ひとえに“それが十分にリンチである”という黒の団全員の認識の一致が理由にある。
これ以上痛めつけるところは無い。 その必要は無い。
もはやそのあたりの、運動部の補欠部員でも相手は十二分に務まるだろう。
岳人とて、雑魚にこれ以上かかづらっている余裕はないのだ。 そこそこのペースで走り続けたならば、今の状態の冬馬を撒くことなど容易いだろう。
水煙の帳の彼方に見た、矢車直斗の、どこか呪術的なものを感じさせる復活劇。 それを押し留めるに、白の団の手勢だけでは些か物足りないのは瞭然だった。
今はチャンスなのだ。
たとえば、苦境に立っている筈の年上美人、マルギッテ=エーベルバッハの前に颯爽と現れ、彼女の心を射止める、千載一遇のチャンスなのだ。
…………だが、
「……――――逃、げ……ぅ、な」
「テメェ……?」
目の前の自分に向かって言っているのか、それとも冬馬自身に言い聞かせているのか、その判断は岳人には着かなかった。
その判断は着かなかったが、横溢する涙を拭い切ったその視線に射竦められた途端、白い霧が吹き寄せてきたかのように、唐突な既視感が岳人を襲う。
――――椎名は、守ってやりたいと思った。 そうするには簡単だ。 ファミリーで守ればいい。 椎名京を、仲間に入れてやりたい!
――――ばっ、……ざけんな! 入れる意味がねーよ! 椎名を入れたら、ワン子とかまで何を言われるか分からねーんだぞ!? モモ先輩は1つ上だからいいかもしんねーけど! 俺様と大和は同じクラスなんだっつの! 冗談じゃねぇや!
――――そんだけでかい図体して怖いのかよガクト。
――――ああ!? 何えらそーに言ってんだ! 大和がこんな火種持ち込んできたんだろうが!?
――――俺の話を聞いて怒りを覚えねーのか!
――――そ、そりゃあムカつくがよぉ。 ……女子どもに嫌われるのは勘弁なんだ。
――――椎名を入れるのに反対だってんだな?
――――ああ、だいたい大和、椎名の事をイジメられるヤツに責任あるとか言って見下してたろ!
――――その事については、考え方を改めたとしか言えん。 ……もう、ニヒルはやめだ。……何にも解決しねぇ。
――――おお?
――――だから、そのことは忘れて頼むって言ってんだ。 女子の事は別にいいだろ? イジメから守ったから嫌いなんて言うヤツはこっちから願い下げだろ?
――――違うぜ! 話す機会とかも少なくなる!
――――……なーんか小せえなーガクトぉ。
――――ああん? 俺様が小さければ、大和、お前は何だゴラ! つーかお前、この頃おかしいぞ? なに強がってんだよ。 なにをそんなに焦ってんだよ。 この前の焼き芋ん時、酸欠で倒れてからずっとだ。 ぜってー、ヘンだ!
――――ツ…………ッ、うるせーよ! それは今関係ないだろ! キャップが居て、最強の姉さんが居て、俺が軍師だ! なんだって上手くいくに決まってる! お前以外、みんな賛成したんだ! いい加減、お前が認めりゃ全部丸く済むのが分かんないのかよ!
――――人に物を頼むヤツがなに舌打ちして誤魔化してんだよテメェ! ふざけてっと軽くねじ伏せっぞ! 舐めてんじゃねえよこの野郎!!
――――舐めてんのはどっちだよ。 ……今、軽くねじ伏せる、って言ったか? 俺をそうやって軽く見てたのか? 俺がおちゃらけて頼んでるように見えんのかよ!?
――――だから何だと?
――――ねじ伏せられねーよ! なめんじゃねーよ!!
――――上等じゃねえか! やるかコラァ!! ……ッ痛ッてェエエ!!
――――先手必勝だこの野郎!!!
――――ブッ倒れろや! オラァ!!
――――ぐはぁ!!
――――オラッ、俺様の勝、――――ッず、ぐ、がっ、噛みやがったな!?
――――なんでもありだろうがぁ!!
いつかの河原、いつかの草叢。
あの時の大和の目の色が、真正面にあった。
それは、椎名京を風間ファミリーに迎えた記憶を呼び起こす上で、避けては通れない、岳人個人の原風景。
あの決意の眼。
あの、何かを必死に埋め合わせようとする顔。
――――こいつも、変わろうってのか……?
あの時の、大和のように。
「…………ああ、チクショウ。 あの女もこの女もどの女もピンチそうで選り取り見取りだってのに、選りにも選って、一番いけ好かねー男なんかに付き合おうなんてな、どうかしてるぜ俺様はよぉ。 ――――しゃあねえな、おい! 粉々にされても恨むなよッ!!」
「がああああッ!!」
無論、岳人とて、意地がある。
向かってくる相手に背中なんぞ二度と見せられない。
夏季休暇の直前、直斗に造作もなく床に転がされ、蛙が這いつくばる格好で恥辱に塗れた背中を全校に晒した者こそ自分だった。
その意趣を返し、一泡吹かせてやるダンコたる決意は、ここまで些か揺らぎもしていなかった。
いいだろう。 必ず目の前の相手を屈服させ、その次は、兎にも角にも直斗の番だ――。
“勝った方がハンサム”と、おちゃらけていた初期の空気は既に無い。
これから両者が臨む戦いは華々しいものでもない。
一般に言う無様であり、ちっぽけな、泥臭い素手喧嘩である。
しかし、だからこそ、そこには遠慮も呵責も程遠く、何一つ混じり気のない雄々しさのみが場を支配する、男と男の真剣勝負と言えた。
冬馬がか細くも精一杯の気を吐いて喉を震わせれば、岳人の大雑把な胴間声がそれに応えて叫びを重ねる。
それはどこまでも熱く、どこまでも清々しい、不撓不屈の訴え合いだった。
*
一心不乱。
包囲壁を破った後も、彼は無言のまま動き続けていた。
雲霞の如き敵軍の中にあって、鮮烈な蒼の羽織のはためきは一向に休まる気配がなかった。
固化し、流転し、増幅し、減退し、湾曲し、連鎖し、交差するひたむきなチカラとチカラ。
その狭間を縫うように、口元の静寂を保ったまま、直斗は森林方向へと足を速めた。 逃走を開始する数人が視界の隅に奔ったからである。
景色を塗り分ける赤光と緑光が全てを導いてくれていた。
次にどこまで体を運び、何人を同時に相手取る羽目になるのか、どの方向から斬りかかり撃ちかかり突きかかってくるのか。 それがわかる。
さながら予言者、或いはタイムリーパーの心地。
一度受けた学力試験をもう一度、解答冊子を真横に並べて受け直しているような気分。
「ぐがッァ!?」
「げへッゥ!?」
「くふッィ!?」
前方の赤色は消えた。 つかのま緑一色となった正面方向。
意識は後方へ。 逃げる者もいれば追う者もいる。
振り返る必要はない。
――――川神流体術が一芸 “三角龍” にて。
川神一子が躍動する姿を幻視し、その動きを早送りでなぞるようにして。
――――まずは地の一角。 一歩目の踏み切りは斜め前方。
体を後ろに傾けながら一気に林端の一木に向かって加速し飛び上がる。
――――続いて中の二角。 重力に準じる直前、そこから続いて幹を蹴り、跳躍、飛躍。
川神流を数年でも修めれば、重力の束縛からもある程度脱することができる。 垂直であれ逆さであれ、腿力を篭めて踏める足掛かりさえあれば、それだけで事足りる。
――――とどめの天の三角。 呆然と見上げるばかりの敵を眼下に見据えながら、今や姿勢の天地を逆転させた直斗は一気に枝を踏み込んだ。
樹海の中に逃走を許したかと思いきや、およそ同じ人とは思えぬその動きで逆に攻めかかられる事となった追っ手は、完全に虚を衝かれることとなる。
飛龍の如き影法師が音も無く地に踊った。
予想だにしない三次元的な挙動、真上からの奇襲に、振り仰いだ敵の視線が恐怖に凝る。
「んなァッ!?」
「ぎぃッ!?」
「はうぅッ!?」
「うごッ!?」
滑空中に一人の脳天をしたたかに打ち据え、二人目は着地後に胴を払い、勢いそのまま駆け抜けざまに三人四人。
外に外にと逃げながら、前触れをみせずに、内を内をと苛烈に攻め入る。
多人数を相手にする際の基本戦術が、無意識のうちに計られていた。
「マルさんッ!!」
「お嬢様ッ!!」
そしてそれが一切通用しない、半径百メートル以内で最も厄介な者たちが再び押し寄せる。
クリスティアーネ・フリードリヒと、マルギッテ・エーベルバッハ。
この二人の挟撃だけは何としても避けなければならなかった。
長年連れ添い合い、切磋琢磨を共にしてきた彼女らの超速連携は、今の己の状態を鑑みても脅威であることに変わりはない。
あの石田三郎と島右近、尼子兵らのチームワークなど比較にならないほどの難敵であった。 それはつい数分前の初顔合わせで骨身に染みていた。
先ほどと同じく間合いを稼ぐ。 活歩の脚捌きで迷わず後退に移る。
縦列のまま追い縋る二つの人影。 もろともに一方向へ馳せるばかりなら、挟撃に持ち込めない筈だった。
他の兵卒との乱戦に紛れながら、各個撃破こそ最善手。 脳が断じたその瞬間、目前の朱色の領域に翡翠が混じり、毒々しい濁りの渦が生まれた。
初めての事だった。 怪訝に思ったときには全てが遅かった。
もとより直斗の目論見を看破していたかのように、相手は直斗の最適戦術に即応してみせたのだ。
猟犬の上体が前傾すると同時に、金糸雀の翼が空へと舞い上がる。
挟撃は何も、左右に回り込んで仕掛けるばかりではない。
“お前も今しがた同じものを仕掛けただろうに……”――――閃いたマルギッテの犬歯がそう語っていた。
後続のクリスが大きく地を蹴って、先行して駆けるマルギッテの肩に飛び乗り、そこを足場に、更に高々と宙に身を躍らせたのである。 ――――下がる直斗の頭上を飛び越えて。
もとより直斗に飛び道具の用意は一切無く、鞘一つ剣一つを擲ったところで、上空の敵に動きを封じるまでの深手を負わすことは不可能だった。
……もはや間に合わないと観念した直斗は、やがて訪れる破滅の連環を万全な状態で迎え撃つため、クリスが背後へ滑空する隙、マルギッテが直進して距離を詰める隙に、先読みの能を最大限に生かすべく、更なる注射筒を首筋に突き立てる他なかった。
進むもならぬ。 退がるもならぬ。
「どうだッ!」
「お嬢様が御訊きになっている。 ……感想ぐらい聞かせなさいッ!」
それは既に無理な相談だった。
舌唇の痙攣は更に更にと悪化の一途を辿っていた。
ことさら口を利こうとせずとも、口端を緩めるだけで狂声を発しそうな塩梅だった。
それだけではない。 薬が切れる合間に実感できる“本来自由の利かない筈の箇所”が次第に広がっているような気がしていた。
腕と掌が動かなくなれば、薬効の切れた瞬間のインターバルに注射筒を打つことができなくなる。
己の命運が窮まる時が来るならば、其処だろう。 限界の限界が、近づいていた。
――――だが、燃え尽きたその時こそ。 その時こそ、きっと、全てが報われている筈。
「せいやァッ――――!!!」
「Hasen Jagd――――!!!」
姉妹の叫びが重なる。 凛々しく獰猛な気合が前後から叩きつけられる。
容器内に針を収納し、中身の無くなった注射筒をクリスに投げつけて牽制し、左手で再び鞘を抜く猶予を作る。
もう何度かけただろう自己暗示をよすがに、依然沈黙を保ったまま、直斗は終わりの見えない死線を掻い潜り始めた。
伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽ッ―――――。
颶風の如き双棍の連打に蛸殴りにされるか、流星の如き突剣の連穿に膾に刻まれるか。
逃れようのない挟撃の結末。 それを堰き止め続ける右剣と左鞘。
彼女らほどの技量ともなると“渦潮”による同士討ちも見込めない。
三本の得物に二本の得物での対抗である。 もう一本腕が欲しいところだった。
必定、防戦に徹するしかない。
凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝ッ―――――。
「……本当に、見事なものだッ」
「ええ、まったくもって、度し難いッ……」
切れ目ない剣戟音の向こうから、苦り切った感嘆と揶揄の声が届く。
右と左の半身を、それぞれ別個にくねらせ続けるにも限度があった。
事実、クリスと比して手数の多いマルギッテにはじわじわと肉薄されつつあった。
動きのレパートリーはそう多くなく、このままでは後手に慣れられ、先手を取られ、調伏させられるのも時間の問題であった。 であれば仕掛けるのは乾坤一擲の――――。
「矢車ァアッ―――――――――――!!」
第四者の金切り声が、この鬩ぎ合いに分け入ってきたのは、そのような時分だった。
最初に反応したのは、呼ばれた当人に他ならなかった。
極限の集中下、視覚聴覚共々をこちらに指向していたクリス達とは対照的に、直斗は色覚を除いて人体器官の知覚機能を全て拡張し、なべて万象を俯瞰していたが故に、不死川心の接近と頓呼に、いち早く気づくことができてしまった。
受け流す衝撃を直斗は殺し損ね、順手に構えられていた鞘が下胴に押し込まれる。
応じて左腕が開いた。 間隙が直斗の左半身上部に降って湧く。
見逃すクリスではなかった。
レイピアの尖鋒が半円を描き、胸梁の向こうに剣柄が刹那に戻される。
瞬時に総身を弓弦と化し、矢を引き絞るように剣柄を引いた構えから、迅速の刺突が繰り出された。
刃引きされたフェンシングフォイルが箒星のように空間を貫き、一撃必倒の急所たる腋の下を抉り穿たんと迫り来る――――。
*
ああ。
「お嬢様ッ!?」
拙速だった。
姉貴分の警醒の声に先んじて、クリスは自覚していた。
何故なら、この形である。 自分は一度、この手に敗れている。 それも、同じ人物に。
――――レイピアは基本的に突きしか攻撃手段がありません。 だからああいう芸当を試そうとも思ったんです。 でも模擬剣でなく本物であれば大抵のレイピアの側面も良く切れます。 死合であれば実力からいって、こちらが負けていました。
――――……しかし、肉を斬らせて骨を断つ覚悟なら、結局同じことなのでは?
――――そう言いたい所ですが、残念ながら俺は真剣を相手にしたことが無いので、多分焦りと痛みで捌き切れずに終わるかと。
川神学園に転入した初日の会話を思い出す。 彼と初めて剣を合わせたあの日の言葉。
一度敗北した相手と再戦するのであれば、当然、前回の敗因を吟味することになる。
同じ手は食わぬと固く誓って、時機を窮めに窮めて、結果がこれである。
大和によくからかわれるが、その指摘の通り、自分というのは本当に、猪武者の典型なのだなとつくづく実感する。
……しかし、いったい誰が想像できたというのだ。
突剣の勢いに呑まれた鞘が胴に落ち、そのまま取り落とされる。 そこまではいい。
――――そこから、左足によるリフティングで再び鞘を打ち上げ、
――――クリスが狙い定めていた左腋に嘲笑うように到達させ、
――――鯉口を、鞘の口をクリス側に向けたまま、根元を左腋に挟み、
――――クリスの放った白銀の閃光を、暗黒の墓穴に呑みこませる。
片手間にマルギッテの相手をしながら、そんな所業を成しうる相手に、対処の術などあるものか。
直斗の鞘は寛容だった。 野太い直剣を包むべくして誂えられた鞘には、細身の突剣を収納するに些かの差し当たりも無かった。
基本的に“引いて突く”ことでしか、敵手に有効打を与えることのできない文字通り愚直な得物がクリスの武器だった。 そして、もはや剣を“引く”ゆとりはない。
レイピアの刃圏、その内側に接敵を許すことは、すなわちこちらの敗北を意味する。 突剣の遣い手は、なによりもまず、この事実を念頭に置いて戦闘術を行使しなければならない。
そして納剣が為されたということは、クリスの武装解除が完了したと同時に、その間合いが詰められたということ。
……彼ではなく、彼女自身が、詰めてしまったということ。 彼女に働く慣性が、彼女自身が引き起こした地面の反作用が、その場から彼女を取り逃がしはしないということ。
直斗の腋が再び開かれ、もはや用済みになった鞘の僅かな重みが突剣を通じてクリスに伝わる。
「がはッ――――――――――――!!!」
直後、遠慮も容赦も呵責もない、物言わぬ地蔵の左拳がクリスの脇腹に突き立つ。
衝撃は体内に残留して内臓を七転八倒させる。
地獄の苦悶。
腹部打撃の特徴は、頭部打撃と違い意識を奪いにくいことにある。
感覚を飽和させるだけの威力に及ばぬ限り、意識はむしろ鮮明となり、苦痛をより強烈にする。
たまらず体をくの字に折り曲げた。 前屈みの体勢。
自然、最も上体から突き出ることになる部位、西洋人女性特有の細い顎が直斗の前に差し出される。
そこに見舞われた無骨な左手甲の正確無比な一撃が、クリスの頭蓋を揺らし、脳を震わせた。
かくん、と手足の関節が一斉に折れ、視点が落ちる。 泥細工のように世界が溶ける。
クリスティアーネ・フリードリヒ個人の戦いがここに終着する。
――――正しいやり方と言ったなぁ、クリス?
――――お前がそれを語るなよ? 正義大義の為に人を殺す、その報酬で人並み以上に養ってもらってるお前がッ!!
――――大体どうでもいいんだよ。 何かが正しいとか正しくないとか、間違ってるとか間違ってないとか。 ……問題は、俺が許せるか許せないか、だからな。
――――俺は自分に“率直で正直”でいるだけだ。 お前、それが好みなんじゃなかったっけ?
――――それが出来ねぇ“士道”なんざ、そこらの犬猫にでもくれてやるよッ。 ……わかったか、お嬢様?
意識が沈む間際、幻聴がまた耳朶を打つ。
宣戦の日、学園が二つに分かたれた日、他ならぬクリスに突きつけられた糾弾。
クリスは自分の正しさに絶対の自信を持っていた。
それがあのとき、直斗の頬を張ってやるに十分な理由だとして少しも疑わなかった。
だが、直後の直斗の嘲弄に何も言い返してやれなかったのは、その嘲弄が一方で正鵠を得ていると察したからに他ならない。
……同じことだと悟ったのだ。 風間ファミリーにおける廃ビルと。
――――わからないだろお前にはッ!? この場所がッ! この空間がッ! どれだけッ、どれだけ大切なのかッ!!
――――だからこんな新参者を入れるの嫌だったんだッ!
――――壊すべきッ!? よくもそんな事この場所で言ってくれたなッ!? 何様だと思ってやがるッ!!
いつの日かの、京の激高を思い出す。
社会の善悪がそのまま自分の好悪と通じる人間など存在しないことを、クリスは学んでいた。
それはクリスにとって、ファミリーに入るうえで、ある種の通過儀礼の意味合いを持っていた。
意思を尊重すること。
善悪と好悪に折り合いをつけること。
それぞれの人間にそれぞれの逆鱗があること。
是非も正邪も曲直も、どんな良不良も、結局は個人の尺度であること。
それを知ったばかりだったゆえに、クリスは思考を止めてしまったのだ。 自分が、果たして直斗を処断できる立場にいるのかと。
仮に、今の自分の立ち位置に間違いはないと、そう言い切れるかと問われれば、平然と頷いてみせるだろう。
だがまた仮に、その葛藤に終止符を打てていると、そう言い切れるかと問われれば、返答に窮するだろうというのが、彼女の偽りのない本心だった。
――――正義は、必ず勝つのだから。
そうだ、だから、勝った方が正義なのだと、そう説き伏せて、大和はクリスをこの場まで導いた。
……直斗にやり込められた形になったクリスを、しかし予想に反して、大和はそれを出汁に嗜めようとはしなかった。
直斗の嘲弄に憂いていた所に、ただの論理のすり替えだと、慰めの言葉さえくれた。 青天の霹靂であった。
彼は優しかった。
いつものごとく何か企んでいるのかと邪推するのも億劫になるほどの、柔らかい態度。
もうファミリーなのだからと、その理由を京はクリスに耳打ちした。
クリスや由紀江が思う以上に、大事な“仲間”として認知されているからと、キャップは後を引き継いだ。
不足はねぇだろ、それでと、豪放にガクトが笑った。
戦力として期待しているからだと、直後に顔をそむけた大和に、愛いやつめとモモ先輩がヘッドロックをかけた。
――――そう、とどのつまりは、直斗の言った通り、正しいか正しくないかじゃなく、“許せるか許せないか”だったのだ。
それが正しいとか間違っているとか、その以前の事柄として、クリスはそんなファミリーを好いた。 好いている。
憧れてやまなかった、この日出づる国で、世間を知らない自分を面白おかしく導いてくれる彼ら彼女らが、クリスは愛おしくてたまらない。
だから、矢車直斗の、大和とファミリーに働いた暴挙は見過ごせないし、許せない。
だから、朱雀軍に与したクリスの決意に一点の曇りも無い。
ここまでの自分の選択は、他ならぬ自分を納得させるに足るものだった。
その納得とは別に、矢車直斗への疑念と当惑が、相変わらず胸の内にあるというだけ。
この戦場に赴くまでに、一子と違い、クリスは自分の感傷に粗方整理を着けられていた。
――――でも、それでも。
……悔しいと思うことに変わりはない。
あのとき、何か反論できれば。
何かひとつでも、彼に言葉で示すことができれば、こうは、ならなかったのではないか。
クリスは知っていた。
あの宣戦の場で頬を張り、顔を突き合わされ、結果的に最も彼に近づいたクリスは見ていた。
あのとき、彼以外のすべてが彼の味方でなくなったあのとき、極め付きに底意地の悪い笑みを浮かべながら、彼は泣いていた。
自分と同じく、彼もまた、目を濡らしていた。
そう思い出した。 あの宣戦布告に想いを馳せるごとに、情景の細部がクリスの脳裏に蘇ってやまなかった。
その段になって、自分の行いを恥じたからか。 自分の行いに酔い、腹が捩れることに我慢できないほど愉快だったからか。
判断はつかないが、…………どちらにせよ、彼は“クリスの返答が無かったから”泣いたのだ。
――――自分は未熟だ。
努力しなければならない。 研ぎ澄まさなければならない。
いつか父の後を追い、軍に所属する願いを持つ以上、あの直斗の弾劾と同じものが、あれ以上に凄絶な問責が、何度も何度も自分に降りかかることだろう。
それに打ちのめされるばかりではいられない。 父に慰められ、姉貴分に守られるばかりでもいられない。 自分の跳ねた泥を被らずにもいられない。
抑止力という守り手に救われる人間は、救われない人間よりも圧倒的に多いのだと、大切なのだと、厚顔に破廉恥に宣言し、それでも自分なりの正義を貫いてゆく。
自分の選んだ道というのは、それなのだから。
どれだけ人に非難されようが、自分が正しいと思い、自分が好ましいと思った生き方なのだから。
――――《光灯る街に、背を向け》
――――《我が歩むは、果て無き荒野》
――――《奇跡も無く、標も無く》
――――《ただ、夜が広がるのみ》
――――《揺るぎない意志を糧として》
――――《闇の旅を進んで往く》
この地に伝わる、はるか太古からの口伝。
これが川神魂。 これが、風間ファミリーの在るべき姿なのだから。
ああ……、よくよく考えれば、まるで今の彼のようだな。 ――――という、その思惟が最後だった。
しな垂れかかる鮮黄の髪房が、頬をなぞる雫に煌めきを添えかけて、それを合図に、クリスの五体から一切の力が失われた。
*
もはや手遅れながらも、不覚を取ったクリスに注意を促してしまった。 その隙を、そのまま衝かれる。
すぐさま組み打たれて、紅の狩人は呆気なく地球の引力に準じ、仰向けに沈まされた。
全身が痺れて思うように動かない。 全ての神経が丸ごと抜かれてしまったかのようだった。 頭部か脊髄か、どこにダメージを受けたのかも、すぐには判然としなかった。
マルギッテの視界に、矢車直斗の姿は既に無い。 変わらず在り続けるのは、無秩序な陰影を孕んだ曇天と、鬱陶しく頬を叩き続ける驟雨のみ。
悲鳴と、金属が打たれ合う音と、土嚢が地面に落ちるような音。
再びその三拍子が飽きもせず繰り返され始めたのを聴いて、それきり現状への興味を捨てた。
マルギッテ・エーベルバッハは軍人だ。
水入りの声すら味方につけて劣勢を覆す手腕に驚愕こそすれ、悔悟は皆無だった。 軍人とは常に、来たるべき未来の闘争に備えて思考を割くべき生き物である。
直斗の実力をマルギッテは知っていた。 おそらくこの戦場の誰よりも早期に、“本気の彼”と拳を交えている。
そしてこの戦いに、島津寮で再会した時以上の興奮は覚えなかった。
フリードリヒ中将の懇願は、彼女に何か特別な力を付加することはなかったが、彼女の精神状態を一段階上に引き上げ、大局を見据える眼を備えさせていた。
だから、この決着も想定の範囲内だった。 自分でも不思議なほどに落ち着いていた。 泰然自若こそ今の彼女の名前だった。
脳の震えが止まり、自らの敗北に見切りをつけた冷徹な武官の思索は速やかに、大戦が終わった後の行動の吟味に移っていた。
さしあたっての処置を決定して、
「……このツケは、高くつくぞ」
低く呟き、誓いをまた深める。
必ず突き止める。 お前の正体を。 お嬢様の苦悩の根源を。
……いずれ、お前は後悔する。
この闘争の後、どのような結果を迎えようが、お嬢様を傷つける以外の選択をしなかったお前は、最後に、どうしようもない泥濘に足を取られることだろう。
偽装が剥がれたその時こそ、膝を屈し、慙愧の涙を湛え、無様に総身を震わせて、お嬢様の慈悲に縋りつくがいい。
――――そうなれば我々も、お前を許さないでもないぞ、矢車直斗。
それはマルギッテ・エーベルバッハの絶対意志。
マルギッテとクリスを打倒したことでついに確定した、直斗の不可避的未来。
努めて無味乾燥に胸中で呟いた後、強打した後頭部の鈍痛の拡大に精神を解体される前に体を捩り、眠り姫のように隣で横たわるクリスの横顔を撫で、濡れた指先に温い吐息の感触を確かめながら、目を閉じた。
*
突剣を抜き取り、鞘を腰に戻す。
およそ雅趣とは程遠い声色で呼びかけてきた不死川心の元に寄るまで、追撃を一通り鎮圧した直斗は、改めて目の前の少女の姿を視認した。
逃げる者を優先的に排除していったからか、いまだ数多く残る朱雀兵たちも無理に進撃せず、かといって野山に散ることもなく、一定の距離を保って中央戦場に待機したまま、こちらの一挙手一投足を窺っていた。
それにしても大和の指示はどうなっているのかと訝しんだ途端、薬効が切れ始め、二色の視界が再び元に戻りつつあった直斗の眼には、正面に揺れる桃色の和装がひどく優しいものに映った。
つい先ほどまで継続していた全知全能の感覚が、嘘のように消えていた。
転ぶようにその場にしゃがみこんで、本当に転びかけて、不躾にも愛剣を杖の代わりにして身を預ける。
丈の短いナマクラは、そうするのに非常に都合が良かった。
柄頭が、柄巻が、鍔下が、およそ柄という持ち手を構成する全てが、両手を固定するにちょうど良いところに存在していた。
疲労困憊の、満身創痍の、息も絶え絶えの、今の自分のような仕手を再び立ち上がるために、これは造られたのだと、そう確信する。
「――――ッ、百―――ゃッ、き――――か!? も――――!!」
やんごとなき身分と意思疎通を図るに相応しく、天を仰ぐように直前の少女を見上げる。
目の前の貴人も随分な修羅場を潜ったらしい。 面構えに余裕のよの字も垣間見られなかった。
先ほどから何かを訴えかけてくれているらしいのだが、申し訳ないことに全くその内容を捉えることができずにいる。
よく動く少女の口元に、音声が全く追いついていない。 その意味を考えようとする頭の働きも止まりかけようとしていた。
ただ、どうやら、“モ”という発声のための形に、頻繁に唇が変形しているらしいと、ぼんやり察することしかできなかった。
「しっ――――百――――ぃ、―か、――お――も―ょが――――じゃッ!!」
またしても続く“モ”のために口元が動いた刹那のうちに。
ソレは、来た。
「空から美少女、登ぅッ場ッ――――!!!」
どん、と鳴る筈の音は、すぐには聴こえなかった。
音より早く到達した衝撃波が肌を粟立たせ、大地を波打たせた。
隕石や落雷ならば一応の納得はつく。
だが、身長173センチ/バスト90・ウエスト58・ヒップ88/体重65キロの日本人女性が着地する際の一般的な様子、と言われれば、誰もが一笑に伏すことだろう。 この現実を見なければ。
……ああ、そうか、不死川心。 なるほど、これのことか。
ああ、うん。 これな、知ってる。
わざわざ姿を眼で確認するまでもなく、背後から伝わってくるのは総身に怖気を走らせる闘気。 茫然自失に耽る暇は許されないようだった。
「……………………………………ふふ♪」
川神百代は、これまで相対した中で間違いなく最高に最悪で危険な状態だった。
餓狼を思わせる双眸が爛々と貪欲に輝き、全身から禍々しくも不可視なナニカが沸々と噴出し、陽炎のように背景を揺らめかせている。
人間として残る、彼女の中の精一杯の、武士娘としての“誠”が、彼女の欲望にブレーキを掛けてくれていなかったなら。
闇討ちを不義とするモノノフの作法を強制させていなかったなら。
光栄にも、その“礼”を尽くす相手として矢車直斗を個別に認識してくれていなかったなら。
言葉を交わす間もなく問答無用で襲い掛かられていたに違いない。
「ふふ、ふふふふふ、ふふふふふふふふふっ♪」
いつの間にか、この体はすっくと立ち上がっていた。
本能的な反射だった。 この女に弱みを見せてはいけない、という絶対の戒律が、それだけの活力を肉体に搾り出させていた。
首から上だけ振り返る。
「はははははははははははははははははははッ!!!」
目と目が逢う瞬間、殺気だと気づいた。 あなたは今、そんな気持ちでいるらしい。
三十メートル以上は離れる間合い。 しかし既に“彼女の距離”だった。
指を折り曲げた女の両掌が、鮫の顎を模して、前面に展開する。
「か・わ・か・み波ァ――――――――ッ!!!」
……爆圧に歪んだ空気が彼女の全身から発されて、激震する大地。 葉を振り落とす木々。
直前に薫った明らかな凶兆に、ナマクラから手を放すのも構わず、反射的に不死川心を抱き寄せ庇った直斗の真横を眩い光の束が通過した。
轟ッ、と押し寄せた猛気が肌を炙る。
彪ッ、と吹き荒んだ烈風が耳目を閉鎖する。
武神から放たれる極太の光条は、空を裂いて、地を割って、不死川心を抱えて立ち竦む直斗を十二時の方向に残したまま、一時から二時、二時から三時へと、ゆっくりと射角を変えていった。
百代の座標をその中心に据え、刻々と扇形から円形を目指して広がりつつある掃射の範囲。
その現場は阿鼻叫喚の渦そのものだ。
「は――?」
「ぐぉッ!?」
「ひぃィッ!?」
「なに、こォッ!?」
「キャアアアアッ!?」
「ああ、あああああ、ああああああ――!!」
「き、来てる、なんか来るっ、来るっ、なんか来る嫌よ嫌よ来ちゃうィヤアアアアア!!!」
「ううう嘘だろウソだろうそだろ、な、ななな、なんだよなんなんだよこここのグラビーm――――ッ!?」
「おい、おいおいおいおいおいおいッ、たたたた、頼むから助けッ、ギブミー回避距離ィ―――――ッ!!!」
狂乱が狂乱を呼ぶ。
極限の恐怖で鮮やかに脚色された悲鳴と喘鳴が、徐々にその音量を増してゆく。
それが臨界を迎えると、途端に声という声が戦場から消失した。
その代わりに、どじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃっ、と。
土石流の只中に巻き込まれたらもしかしたら聴こえるのかもしれないような、そんな音が続いた。
朱雀軍も玄武軍も見境なく、周りの人という人が泡を吹きだしながら次々と地面に倒れ伏してゆく。
悪夢としか考えられない死屍累々の地獄絵図が、ノストラダムスの大予言が、矢車直斗と不死川心の目の前で展開されていた。
「~~~~~~っ、あ~、スッキリした♪ ……お~い、ジジイ、あとルー先生、後始末お願いしまーす!」
……あれは斥力の河。 辰気の激流。 威圧の波動。 意識を刈り取る死の嵐。
呑まれれば最後、生きとし生けるものの気は絶し、どんなに強固な戦意も粉々になって、その粉も磨り潰されて、跡形も無くなる。
川神百代は自己を中心として、円形状の広範囲に脳活動へ影響を及ぼす特異な重力波を放散したのだった。
“波”を受けた人間は、直接肉体的に加害されるわけではなかった。
百代のこの技は、いわゆる催眠に近い。
脳に、“途轍もない殺傷力過剰な打撃を受けた”と錯覚させるだけのものである。
本来であれば気の発散による威圧、すなわち虚仮脅しとして用いられる小技である筈の“川神波”。
無用の争いを避けるために編み出された戦術的積極性の薄い奥義を、相手を気後れさせるどころか、全力で退歩転倒させ昏倒まで至らしめるまでに昇華させたものが、“かわかみ波”と呼ばれる技術の正体であった。
……だから、何かが焦げ付く匂いがするのは、きっと気のせいだろう。 泡と共に煙を吐き出している生徒がいるのも見間違いだろう。
ともかく、この、相手の意思を丸ごと砕き割って屈伏を強要する絶対征服術によって、優に七百以上の命が、川神大戦における規則上の“死”を一斉に宣告された。
矢車直斗が戦場から除外せしめたおよそ三倍の人数が、この出鱈目な外気功の発散によって容易く手折られた計算になる。
戦場で錯綜する想いは、どれほど強固な目的意識であれ、ほんの一部の例外を除いて、すべてが一度、無に帰し、脱魂した生身の保護を審判員に委ねることになる。
ついに動作不良を起こし始めた右腕を庇いながら、尚も荒々しく進撃し続けていた九鬼英雄も。
あと幾許かで脱落するところで意識を取り戻し、逆襲を胸に志して快足を飛ばしていた風間翔一も。
矢の腹を足先で蹴飛ばし続けて狙撃を防ぎながら、相手との距離を詰め続けていた榊原小雪も。
毎秒二発ペースの射撃の手を緩めず、バックステップで間合いのアドバンテージを稼ぎ続けていた椎名京も。
無鉄砲に体を投げ出し、捨て身のクリンチでついに目の前の大男に組み付くことができた葵冬馬も。
歯で噛みつきかけてきた痩身の背後に回り、体格に物を言わせたフル・ネルソンを強引に仕掛けようとした島津岳人も。
一向にレバーブローの効果が表れない目前の大食漢の顔面に、渾身の右ストレートを撃ち込む態勢を整えた井上準も。
飢餓状況に自らを追い込んで育てた極限のストレスを、腹の肉をしつこく穿ち続ける禿頭に向けて全解放しかけた熊飼満も。
何事か文言を呟きながら扇子を上下左右に振り回し、鼻息荒く向かって来る敵を闘牛士のように幻惑し翻弄していた京極彦一も。
言霊部部長を引き倒して全身余さず堪能しようと動き回るも、巧みなトランス誘導によって逆に自分の体の自由を奪われつつあった羽黒黒子も。
商魂ならぬ精根逞しく、肉薄する槍も剣もなんのその、怪しからぬアングルから被写体を追い続けていた福本育郎も。
学校一の美男子が、粗暴で野人的な気性を露わに取っ組み合う姿に絶句する小笠原千花も。
北方での陽動作戦を切り上げ、見事中央戦場に雪崩れ込むことに成功した南条・M・虎子も。
散開した弓兵部隊の行方を探して、矢筒を山盛りに抱えて涙目で右往左往していた甘粕真与も。
有象無象に揉まれながらも、せめて一太刀と必死に抵抗していた仲村透も。
――――その光に呑まれた者は、誰一人として、帰ってこなかった。
「これで外野は粗方片付いたな? お望みどおり、今の私はお前に釘付けだ。 だから、言うまでも無いが、お前も愛しい私に全てを向けろ。 な?」
蜃気楼の向こうに、熱に浮かされた、闘争の自由に欣喜する顔が揺らめいていた。
「しかしお前も余裕なもんだ。 ド本命の女を差し置いて、他の女とまさかの薄櫻鬼プレイとは見せつけてくれるな? ……まあ、誰役であれ、うん、明らかにオチミズ飲んだ後の雰囲気っぽいから、そろそろラスボスタイムだよな?」
そう言われて、視界を覆い尽くした惨禍に未だ絶句したままの不死川心に目を向ける。 目が合う。
抱き締めたままの彼女からなにかしらお約束のリアクションをくらう前に、腕の拘束を解いて、両肩の付け根をとんと押す。
大和からの通告を思い返せば、色々と失墜しかかったらしい彼女の名誉のためにも、これ以上ここにいるのは得策ではないだろう。
百代に弄ばれるのは目に見えている。
その役目は俺でいい。 その役目は譲らない。
「にょッ!?」
「すまんが、おぬしにも退場してもらうとしようかの」
有無を言わさぬ声色だった。
あわや仰向けに転倒するところの心を抱きとめたのは、川神流総本家、川神鉄心その人である。
こちらに視線を投げかけた気配がしたが、応えず無視した。
話すべきことは話したし、答えるべきことは答えた後だった。
彼女と立ち会うのに、だれにも介在されたくもなかった。 やっと、ここまで来れたのだ。
無数の担架が審判員によって運び込まれ、周囲に散らばる要救助者を乗せて場外に去ってゆく。
カチャカチャと、小石が踏まれて弾ける音だけがしばらく響いて、そして終わった。
*
一面に広がる、主を失いし武器の原野を見渡す。
それからゆっくりと体を巡らせ、真正面から、立ち塞がる相手と正対する。
待ち受ける武神の威容をまざまざと感じ取る。 臍の奥が冷えた。
一語も交わさず、交わせず、避けられぬ死合の到来を感じ取り、この日もう何度目かもわからないが、いま再び自分の口が苦く歪んで、――――ふと、気づく。
俺は今から、俺自身が求めた闘争へ身を投じるのだ。
苦る理由がどこにあろうか。
渋る感傷がどこにあろうか。
違う。
これは決定的に違う。
こうではない。 こんなものではない。
戦い、戦い、そして戦い、ようやく彼女を迎えた戦いに臨むことができた俺がすべき顔とは。
直江大和から最愛の姉を簒奪せんと、数多の信頼を裏切り、数多の武士達を罠に嵌め続けてきた男がなすべき血相とは。
川神百代の全存在を咀嚼し、呑みこみ、味わい尽くさんと突き進んできた男が、そいつが浮かべるべき面持ちとは、もっと、より窮めて俗物的なものである筈だ。
これとこれとこれとこれとこれとこれとこれとこれと、愛が、載っていなければならない。 正直に殉じるというのならば。
だから。
顎を引き、
目を開き、
歯を剥き出し、
眉を跳ね上げ、
耳を律動させ、
口端から垂涎する。
「――くッ、ふふふふふ、イイ貌だ。 己に誠実なのが一目でわかる。 悪くないぞ、直斗。 実に殴り甲斐のある貌だ」
どうやら、こちらの期待以上に気に入ってくれたらしい。
彼女が満悦するのが嬉しくて、きっと嬉しくて、思わず熱くて塩辛い飛沫が顔面から噴き出した。
……ああ、ここまで、本当に永かった。
地に突き立った鈍剣を引き抜きながら、今の景色を網膜に焼き付ける。
思えばどれほど願ったことだろう。
会いたくて遇いたくて逢いたかった。
叶うものならもう一度。 焦がれていたものを、彼女のその在り方を、全身で浴びるように感じたかった。
そして今、意中の相手から嫣然とした微笑みが向けられて、夢の実現をまた深く思い知る。
やっと此処に来られた。
やっとお前と向き合うことができる。
烏滸がましいこと甚だしくも、今のお前を救おうと、心の底から思うことができる。
――――本当に、済まなかった。
彼女の狂貌を目の当たりにして、何よりも胸に先立つものは、恐怖でも哀感でもなく、深い罪の意識だった。
あれは、間違いなく俺のせいなのだ。 俺にあの時、龍封穴をかけなければ、川神鉄心は今日まで、百代の指導を手ずから十二分に務められた筈だった。
そうしていれば、少なくとも今のような状態に彼女は陥らなかっただろう。
本当に申し訳ないと思う。
俺は彼女から、彼女が最も欲するものの一つを、彼女より上位の存在を、憧れの祖父君を奪ってしまっていた。
全力を遠慮なくぶつけられる相手が、常に彼女の隣に居続けたならば。
俺が畜生道に堕ちなければ。 俺があの時、踏みとどまる事ができたならば。
他でもない俺が、俺の修羅が、彼女を苦しめたのだ。
あの風間ファミリーでさえ容易に癒せないほどの心の瑕疵を、俺が百代に負わせてしまったのだ。
――――だから、この戦いは当然だ。 全て自分で撒いた種なのだから。
そうとも。
通常では成し得ない救いを、自分の手に余る奇跡を成し得るのなら、相応の代価が必要になる。
このままでは、百代は近い将来、必ず、耐え切れなくなる時を迎えてしまう。
あれは、肉体的にどれほど優越していようと、現世の人間には等しく、決して堪忍できないもの。
“人としての生き甲斐を喪う”、という痛み。 あれは容易く百代の心を食い潰すことだろう。
かつての九鬼英雄、かつての葵冬馬、かつての矢車直斗と同様、彼女にもその危機が迫っている。
戦いたいという理想と、戦わせないという現実。 そのギャップが、百代の想いを、強大な自我を軋ませている。
膨れ上がる闘争心に適当な捌け口を見つけられず、日に日に理性を焼き焦がすばかりの彼女を見てきた。
理性より獣性に甘美を見出し、人としての均衡を失う日が、刻々と近づいていた。 川神に戻ってからの俺の一年は、その片鱗を察し続ける一年でもあった。
そんな彼女を救い上げるにしても、自分を守って、誰かを守る。 そんな贅沢なことが許されないとしたら。
いずれ来たる川神百代の破滅を阻止するために、誰かが、その席を代わらなくてはならないとしたら。
――――俺以外に、一体全体、誰が適任だというのだ。
腰元の巾着をまさぐり、次なる注射筒を、今度は片手で扱える分だけごっそりと抜き出す。
六本連続投与。
人体に作用する大抵の化学物質に対しては、肉体の負のフィードバック調節により、薬効耐性が形成され、結果、その都度の制限時間も絞られてくる。
薬効の制限時間をより長く保つには、時間一杯まで経過したその時々で、最低限度の用量でユートピアの補給を継続してゆくのが最も効率的ではあるが、それだけの隙があるかどうか。
出来る時に出来るだけの摂取。 その心掛けを置いた方が敗機は下がると思われた。
「――――ッぅが!?!?」
一息に刺す。
一息に圧す。
目玉が揺れる。
顔筋が痙攣する。
首筋の瘢痕が一気に六つ増え、圧搾空気が擦れる音とともに、全身の肉が隆起し、静脈が青黒く浮き上がる。
「――――っは、っは、っは、っは、っは、っは」
獣の吐息が漏れ出でて。
「――――じゅるじゅる、じゅるじゅる、じゅるじゅる」
気が付けば無我夢中で滴り落ちる涎を啜っていた。
かつて国を滅ぼした幻の美酒が、口内から際限なく湧き溢れてくるようだった。
嚥下に嚥下を重ねてそれを飲み込み続ける。
唾液はかつてないほど芳醇かつ爽快で、喉を潤す快楽は嗅覚、触覚、聴覚へと次々と伝播し、最後に赤緑の帳が視界に落ちた。
……発作が一段落し、珠玉の酩酊感が全身に隈なく行き渡った後、口元を拭って思い出したようにナマクラを右下段に備え、無形の位に入る。
「――――ッハハハハ、お前も大概だなァ、直斗ッ♪」
喜ばしげな百代の茶々を聴きながら、最後の瞬きの中で、刹那の間、今日じゃない未来に祈る。 その福音を希う。
この女の精神を、これから先、真の意味で癒してゆくのは矢車直斗ではない。
その役目は彼のものだ。
きっと変わってくれることだろう直江大和のものだ。
獲得した真なる誠実を以って、彼女と対等に立ち続ける男のものだ。
そして固い絆で結ばれたあのコミュニティこそ、彼女の安息を永劫守ってゆくのだ。
自分がそれらと同等の存在になることは不可能だ。 そんな役目を請け負えるだけの身体も性根も残りはしないだろう。
そればかりは、未来の展望が保証されている者たちに託すしかない。
だから、せめて。
せめて、“この瞬間”から、いつ来るかも知れぬ“その瞬間”まで、川神百代を充たそう。
これから繰り広げる死闘の記憶は、いずれ忘却されるまで、彼女の不満足を幾許か解消する筈だ。
それが俺のできる、最大にして、最も劣った贖罪だ。
その場凌ぎの延命術。 間に合わせの対症療法。 根本的には何の解決にも至らない、姑息な救済。
――――だが、やらずにはいられようか。
ありのままの彼女が求める、幸福のカタチ。
この上なく幸いなことに、今の俺にはそれを与えるだけの力があり、それを行使しなければ大和の下には届かない。
そしてそのためには自分の全て、細胞一片に宿る力まで放出し切らねばならない。 薬物の添加だけでは、まるで足りないのだ。
よって、心理限界を取り払い、自らの血魂骨肉に至るまで破壊する力を放出するべく、俺はそのための原始的手段の一つを実行した。
喉を震わせ、吼えたのだ。
こちらの気配に呼応したのか。 百代も同時に戦吼を轟かす。
魂の底から搾り出された裂帛の気合が二叫、周囲の木々川面をざわめかせ波打たせ、数百間は離れたところで激戦の疲傷を癒しながらも、スクリーンに大きく引き伸ばされた映像に釘付けになる人々の全身を、直接、粟立たせた。
……この場においては余談であるが、或る意味では核心を衝く件がある。
それは前夜。 今、此処で対峙し合う両者は同じ、完全に互いと一致した精神状態にあったということ。
どちらも浅い眠りの中で、じっと身を横たえていた。
どちらも薄く、鋭く、張りつめた、この上なく透徹なる眠りだ。
どちらも夢と覚醒の狭間で、それを感じ取る。
――――いいぞ、と。
最後まで残っていた無駄なものが削ぎ落とされ、一晩のうちに、タタカウための体と心に変身してゆく感覚。
彼女にとってそれは、やっと訪れてくれた、至福の予兆。
彼にとってそれは、ずっと忘れたふりをしていた、真成の闘志。
「覇ァ嗚呼阿阿阿阿阿阿阿阿――――――――ッ!!!」
女が燃やす、あくまで正道、武の気焔。
「祁ェ菟゛ぇ吽ンヴぇ゛吽云々――――――――ッ!!!」
男が散らす、あくまで邪道、大愚の喚。
……またしても余談であるが、この瞬間以降の、戦場各所に設置された百台余りの定点カメラによって撮影された記録映像は、末端価格251万円という破格の値が付いて、半年後の闇市場で売買が開始されることになる。
期せずして松永家の新たな収入源となる、川神流の真髄を余すところなく収めたその記録は、単独で武神と対峙するための最も著名な参考資料として、川神百代を打倒せんとする猛者達の手の中で、永きに渡り愛蔵されることになる。
川神百代と、矢車直斗。
理性を融かした姉は、弟の誇りを守り、己のれ自身を満たさんがために。
悟性を手にした兄は、妹の祈りを託し、対する彼者を飽かさんがために。
鏡合わせの二人は、やはり全くの同時に砂利を蹴り、相手の懐に飛び込んでいった。
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あけましておめでとうございます。
長期にわたる未更新状態、完全に私の不徳の致すところでございます。
本当に申し訳ありませんでした。
今回は、たびたび原作の過去回想シーンを挟んでおり、不自然に思える台詞の言い回しを改変しようか迷いましたが、ほぼオリジナルのまま挿入させていただきました。
何かございましたらお気軽に感想掲示板まで。