『“廻光反照”って言葉、知ってるか? 蝋燭が消える直前、輝かしく燃えるのを指す言葉だ。 蝋燭ですら、こうしてすべてを燃やすことで自らの証とするんだ。 人間様があんな悪魔野郎一人にブルブル震えてちゃ、みっともないだろ? 勝てる可能性は、やはりゼロだ。 それでも、すべてを燃やしてやるんだ。』
―――文秀(漫画「新暗行御史」第六十八話「廻光反照 Part2」より)
雨が、薄く細かく降り始めていた。
辺りに燻り始めた水煙を裂いて、いの一番、決河の勢いで敵手に接近を試みたのは誰あろう、石田鉄鋼が御曹司、西方十勇士を統べる男、石田三郎その人だった。
ぞぶり、と相手が針によって頸部を自傷した瞬間、視覚が聴覚が嗅覚が“異常”を感知するやいなや、石田は前方へ駆け出していた。
知識の蓄積こそ、人間に許された最大の武器である。
経験という前提こそ、人間を育てる最良の師であり友である。
なかでも、身を以って味わった実体験こそ、いついかなる状況でも真に己を支える土台に他ならない。
彼は知っていた。
鍋島正の“本気”を、既に石田三郎は体感していた。
同じ気配を放つ者を、彼は本能に近いところで記憶していた。
彼らを前に、手を拱くまま待機するのは、忌避すべき一番の悪手であることも身に沁みていた。
だからこそ、体に巻きつき静止を強いる怯みの糸をすぐさま断ち切ることができた。
常識の埒外の実力を、いつ如何なる時にも放つことができる者。
古来、武に生きる者達は総じて彼らを、曰く“壁を越えし者”、“超越者”、“功夫”、“達人”、“ギフテッド”、“マスタークラス”……と言語翻訳の都合か、呼称は多岐に渡るが、ともかく同じニュアンスの語彙を以ってカテゴライズしてきた。
天下に勇名を轟かすに、これほど相応しい立場は無い。
いずれは件の者共と同じ階梯に上がるべく精進を続ける石田であり、ゆえに師と仰ぐ者も相応の者を見定めた結果、天神館高校に入学したのだった。
現在、十勇士を監督する立場にある鍋島正が、それに当たる“規格外”だ。
西日本で一齧りでも武の薫陶を受けた者に対して、その誰何を問えば、一万円札に誰の肖像が記載されているかを答えるのと同じ要領で返答が為される――――それだけ高名な人物であり、噂に違わぬ異次元の力量を湛えた傑物である。
入学当初は、一太刀打ち入れる所か、触れることすら叶わず、ただその挙動に戦慄するばかりだった。
死を容認し、観念すること。 それが、入学時に執り行われた力試しの決闘後、石田が最初に訓じられた詞であった。
薩摩武士の刹那的な死生観。 一撃で殺せねば、潔く斬り捨てられるべし。
土地柄に影響を受けたか、示現流の教えも汲んだ鍋島の指導は、徹底してスパルタだ。
裏を返せば、鍋島につきっきりで教鞭を執らせるほど、極めつけに優秀な武術の資質を石田は保持していた。
無論、世界有数の鉄鋼企業である石田の実家の後押しを受けられることも、私塾の理事を一手に引き受けている者として魅力的なものであったが、それはあくまで状況に付随する事項でしかない。
婦女子が台頭し始めた日本の武林において、久方ぶりに四天の玉座に届くか否かという“男児”を、この手で育成することに、並々ならぬ気炎を鍋島は上げていた。
そしてその熱意に応えてきた石田は、やはり俗に言う“本物”だった。
九鬼揚羽の再来とも呼ばれる、財と才を兼ね揃えた、輝ける西方の至宝。
だからこその、
「光龍ゥッ覚醒ェエエエ――――――ッ!!」
人智と神秘の狭間で生きるのは、何も“壁”を越えた者のみにあらず。
致命的に変質した空気に気圧されながらも、そうほくそ笑むだけの余裕が石田には残っていた。
目前の男、矢車直斗は驚異的な脅威と成りつつ――――――今、成った。
……なるほど、確かに十勇士に助勢を頼ませるだけのことはある。
だが、常識を覆す秘策なら、石田三郎にもまた、ただ一枚の切り札があった。
師である鍋島をも圧倒してのけ、武神だろうと容易に破れぬだろうと自負できるほどの、とっておきの切り札が。
風を切って身を投げ出しながら丹田に活を入れ、懐に潜めた超常の大権能を解き放つ、その用意を石田は整えた。
――――光が、集う。
沸々と滾らせた闘気が体外に滲み出て、竜巻のように渦を巻き、徐々にその速度を増してゆく。
戦闘機のアフターバーナーよろしく、ジェット噴流が後背に流れ出し、石田の疾駆もまた加速する。
それは、まさしく“変身”だった。
「オォオオオオオオオオ――――――ッ!!!」
旋風の中心で弾ける雷光が全身を照らし、山吹色の具足と化して飾られてゆく。
一歩一歩、足を踏み出すごとに、輝きが輝きを呼び、周囲の大気は更に更にと束ね上げられる。
吹き上げる電磁氣が頭髪を逆立て、色素は抜かれて黄金に染まる。
常よりいっそう吼え猛る龍の因子が、更なるエネルギーを地形から吸い上げ、丹田にて濃縮してゆく。
もとよりこの御業は、川神流“生命入魂”なる象形奥義の雛形だ。
この決戦場――――川神流開闢の祖たる川神初代と縁を結ぶ、霊験あらたかな丹沢聖山の中にあれば、地磁気の相性も抜群に良く、大地に流れる気脈の加護も絶大なものである。
川神学園全体に対する過剰に過ぎる石田の挑発の数々は、奥義の発動前から感じた、自らの常に無い絶好調のコンディションに増長したことも遠因だった。
金色の曙光を身に纏い、稲妻に具現を果たした彼の猛気は爆ぜに爆ぜ、周囲の空間を蜘蛛の巣状に裂いてゆくばかり。
握られた一刀に篭められる紫電の漲りは、誰の目にも明らかだ。
有名有実。 決して、安易な親の七光りを以って、西で指折りの猛者共を率いているわけではなかった。
その眩く絢爛な威容こそ、危急の刻のみ顕れる“十勇士最強”も認める、石田三郎の類稀なる将器に他ならない。
……もとより石田とて馬鹿ではない。
相手の全力を引き出すべく煽るような言動を弄したものの、だからと言ってこちらも全力を注ぐなど愚の骨頂と断じていた。
川神の妹が打ちのめされる頃合までに見立てたところ、矢車直斗は、“壁”を超えてはいない。 それが石田の結論だった。
実力的に言えば、石田と同等か一段下か、というところである。 その推測は間違っていなかった。
万全を期すためと臣下の忠言を受け入れたが、単純にこの八人懸かりで囲い込むというのでさえ、こちらの戦力過多と感じていた石田である。
四天の一角たる黛由紀江を落とした技量は見事の一言だが、もう一度同じ決闘が試行されたなら、まず間違いなく結果は真逆な筈だ。
所詮は奇襲で勝ちを拾ったようなものだ。 ……直斗が危惧していた通り、その事実を看破するだけの眼力を石田は備えていた。
大口を叩いた手前、目前の矢車直斗を先頭とする一団を殲滅することに変わりはないが、この川神大戦への参戦は、天神館にとって、あくまで過程の一つに過ぎない。
鍋島が実施に向けて奔走中である東西対抗戦こそ、十勇士にとっての本戦である。
もとより、今臨んでいるこの戦いの発端は、大将同士の恋の鞘当てから始まったものと聞き及んでいた。
そんな幼稚な事情に付き合って、こちらの手札を詳らかにひけらかすというのは馬鹿のやることだ。
能ある鷹は爪を隠すものであり、その上で川神側の戦力を偵察し、且つ、消耗しきった朱雀軍の最終目標を撃破することで、戦場の内外に“十勇士ここにあり”と認知を促す。
それが石田の狙いだった。 そうするだけのゆとりがあった。
後に控える東西対抗戦にも備え、秘中の秘たる“尼子の瞬間移動”、“十勇士最強の男”、そして何より“己の最終奥義”の正体を、この場で晒すつもりは毛頭無かった。
特に、ほんの僅かとはいえ寿命に関わる自身の特技に関しては、厳重な自制を強いていた。
……その自制を解かざるをえないほどの、桁違いに強烈な殺気が襲ってくるまでは。
さてにも、経験則に基づく第六感で感知した理解不能の恐怖に飲まれてなお、前後不覚の一歩手前で踏みとどまり、素早く冷静に状況を分析し、自らに課していた奥義の使用制限を破る英断を瞬時に下し、気配を豹変させた直斗の体勢が整う前に間合いを一挙に詰め終えた石田は、流石に武林で名を馳せる兵なだけのことはあった。
――――光が、奔る。
袈裟懸けに振り下ろしたのは“稲妻刃”。
事実、稲妻の速さで放たれた一撃を、武装も解除され、片腕の自由も利かない直斗が、どうして阻めようものか。
繰る得物が本身の真剣であれば、兜割りすら難なくやってのけ、たとえ模造刀だろうと相手が無防備であれば、太刀風を浴びせただけでも脳震盪を引き起こす。
直斗の頭部を覆う鉢巻が衝撃を如何に分散しようと、まず失神は堅い。
先手の必勝を期し、狙い定めた極光の一刀は、果たして何にも阻まれることも無かった。
直斗の頭蓋へ、その光芒が一閃した後、
―――――――しかし、直斗の佇立の姿勢が崩れることも、また無かった。
打突の瞬間、心持ち首がかしげられ、生まれた傾斜が直斗の正中線を湾曲させて、石田の必殺の機を逃させていた。
剣は、相手の額の皮と鉢金の布を擦過するだけに留まった。
曲面で構成される人間の頭骨は、生命維持に不可欠な脳を守る為、衝撃の有効角度を狭めるべく球形に定向進化してきたという説がある。
防弾具が懐に巻かれている場合を除き、実戦射撃の原則として、ヘッドショットが忌避される所以だ。
たとえば、観葉植物の葉が鉄の銃弾を弾く。
あるいは、劣勢に立つボクサーが苦し紛れに放ったひ弱なパリングが、渾身の拳を送った相手の肩を運良く脱臼せしめる。
直斗を救ったのは、そのような事例に代表される非常に稀有な“間の良さ”。
運命の女神の悪戯を疑うべき絶妙な“噛み合わせ”。
――――なれど偶然では断じてないッ!?
この男は、意図的に、打撃の有効角度を最小限度の動作で逸らした。
その直感が確信に変わるまでに、石田は更に三つの打ち下ろしと二つの逆袈裟の剣路を要した。
猛然と大気を裂き鳴らし、踊り狂う雷刃の繚乱。
退かず進まず、満身創痍の五体をその渦中に飲み込ませながら、あくまで直斗の挙措は緩慢なままだった。
まるで百戦錬磨の千両役者が、万日の稽古を積み終えた演目を舞っているかのような、自信に満ち溢れた足の運びと手の配り。
動きの全体を喩えるならば、それは立ち昇る狼煙の一条だ。
飛び交う刃が吹かす風に、ただ煽られる煙のように悠揚と身を捻り、綽々と体を流す。
「――――――馬ッ、鹿なッ!?」
たったそれだけの僅かな体勢の変化によって、唸りを上げる太刀風の一陣も、刃上で爆ぜる稲光の一筋さえ、彼の身に触れることすら許されなかった。
一撃目を除けば、既に掠る事も叶わなくなっていた。
速さでは明らかに石田が勝っている。 にもかかわらず的を外す理由は、一つしか考えられない。
弛緩した全身の中で唯一強張っている箇所、鬼気迫る直斗の眼光をついに直視して、石田はようやく合点する。
遅きを以って速きを制す。 軽きを以って重きを制す。
そんな真似が許される場合とは、つまり。
読まれている。 どうしようもなく読まれている。
全くの初見である筈の自らの動きが。
超常の呪いにより、倍速以上で繰られる四肢の動きが。 先の先まで。
絶句する中で、それでも石田は閃いた。
――――ならば、己以外の動きは? それとすり替えたなら?
片腕が封じられたまま大胆不敵にも、ついに無手の間合いに踏み込む気配を見せた直斗に先んじて、思考に先んじた脊髄反射が石田の謀略を既に実行へと移していた。
殺気の金縛りの直後、もしくはその最中である。
定めておいた手信号に反応できるか、それは彼個人の力量に懸かっていたが、石田は彼に全幅の信頼を置いていたし、その判断は正しかった。
間もなく、奥義の発動により常より気息が充溢した状態にある石田の知覚は、無二の相棒が声を上げる愚を犯さずに、沈黙を保ったまま、そっと砂利を踏み締めた靴底の音を聴き分けた。
主従の絆は、ここでようやく恐懼に打ち勝った。
次に石田がすべきは、直斗の注意を逸らし続けること、その一点。
即ち、陽動である。
「――――呵ァッ!!!」
気合一閃。
一歩後退して直斗を惹きつけた次の瞬間、酷使される横隔膜の痛みを堪え、鋭い吐息とともに放つ“御雷纏”……自らの身に過剰な電光を更に一斉に集わせ、半秒の間だけその身を閃光弾と化す、目潰し・目晦ましの発勁である。
目に見えてそれと判る予備動作に、直斗が光源から顔を背けるのは想定の内。
その隙に付け込んだ石田の袈裟懸けの一閃が、真後ろへのバックステップで避けられるのもまた想定の内。
前方へ飛び上がりざま、発勁を解いて直斗の目が己の身に戻ったことを確認した石田は、敵の背後にちらと視線を流した。
警戒対象を絶えず目まぐるしく切り替えさせ、混乱を狙う手である。
直斗は釣られて視線を動かすようなヘマを踏まなかったが、逆に釣られまいと身構え、上空の石田に意識を集中し過ぎるミスを犯してくれた。
――――かかったッ!
石田が稼いだ隙にあやかり、地面すれすれに身を屈め、全速力で戦場を迂回しながら潜行し、道程の三分の二を消化し終えた島右近もまた同じ想いだった。
槍使いにここまで接近を許せば、攻撃圏外への脱出はまず間に合わない。
十勇士でも三位の力自慢である島の剛槍は、片腕で捌けるほどヤワな代物でもない。
助走の勢いも付加された、高速で迫る横薙ぎの最大範囲攻撃を跳躍して避け得たとしても、“真空雪風巻”の後手は四通り。
仮にそこで討ち漏らしたとしても、真上で緩やかなホバリング下降を続ける石田が、すぐさま捕捉する。
身動きの取れない空中ならば、稲妻と旋風の加護を受ける石田の独壇場だった。
いまさら直斗がどう動こうと、回避は叶わぬ相談だ。 まさしく起死回生のコンビネーション殺法である。
「覚悟ッ!!」
……野太き叫びとともに真横から猛然と迫る島の槍柄に、だがこのとき、直斗が信じられない動きで応じる。
無防備な頭を上段に残したまま、観念したように首を竦め、地に膝をつけ、自分自身を掻き抱くように両腕を前で組んだのだ。
あれほどの生き汚さを晒した男が、である。
油断を誘う卑劣な一手か。 それとも単に伏せて避けるための拍子を取り違ったか。
いずれにせよ、島の全力を振り絞った打擲は、陸亀よろしく縮こまり、ちょうど撃ち頃の高さにあった直斗の片肘を、過たずに撃ち抜いた。
それが、誤りだった。
「――――はッ!?」
「ッ!? 下がれ島ァッ!!」
攻め手の二人が共通して、意識の内から締め出していた項がある。
位置を外した、直斗の左肩の存在である。
油断を捨て去るために、敢えて考慮に入れていなかった片手の不自由という直斗の不利が、今ここで彼らに直斗の狙いを明らかにする。
島がそれに思い当たったのは、悲しいかな、着撃の瞬間。
直斗が右足の踵を滑り止めのアンカーとして地に突き立て、すべての衝撃のベクトルが左上腕骨頭と関節窩の接触部に集約されるよう期された末のことであった。
身の毛の弥立つ鈍い音を十数メートル先まで響かせ、まんまと他力で肩を嵌め直した直斗をしかと見て取った石田の胸中には、何よりもまず怒りが先に立っていた。
小癪に立ち回る直斗への怒り。 手の平で踊らされた自らの不甲斐無さへの怒り。
姿勢を整えながらも、石田の降下から一向に身を翻す素振りを見せない直斗を、石田は殺気を孕んだ視線で舐り上げた。
――――十勇士を、嘗めるな。
今しかない。
一瞬で沸騰した感情に押し流されながらも、眼下の状況を空中で余さず知覚できた石田は、頭の冷静な部分で悟っていた。
直斗の両腕が完全に繰られる前に、このまま上空から完膚なきまでに圧し潰す。
こちらの策は半ば破られたが、この瞬間の奴の状態も、万全なものとは言い難い。
関節が接着直後である今、最高潮に達している筈の直斗の左腕の痺れやら痛みやらが消える前に、なんとしても勝負を決してしまう必要を、石田は先読みしていた。
あれだけ強引な整体である。 神経が巻き込まれ、機能不全に陥っている可能性もゼロではない。
今が、唯一無二の勝機だ。
だからこそ直斗の意図を察した瞬間、石田は巻き添えを食わさぬよう島を下がらせ、乾坤一擲の一撃を放つにあたっての後顧の憂いを払ったのである。
大上段に太刀を構え、瞬時に地面への逆噴射を解いて背に気流を吹かし、ワイヤーアクションさながら、一瞬の無重力状態を利用して体を反転させ、落下の最中にもう一度体を反転させ、反転させ、反転させ、反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転――――――――――――。
「るうぅぁあああああああぁぅあぁぅあぁぅあぁぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅ――――ッ!!!!」
ドップラー効果に浸かりゆく気合いが、山間に木霊する。
その断撃の全貌を形容するには、ギロチンという表現すら生ぬるい。
鼠花火のように火花を散らしながら全身を垂直回転させた石田は、あらゆる固体をバターのように切り裂く、巨大な電動カッターにその身を変えた。
丹田の螺旋を辿り、全身を巡りに巡る“氣”に蹂躙される彼の肉体は、今、人であるための機能を忘れ、断空する刃の駆動装置、その一部品一回路と成り果てる。
……この石田の処断は与えられた全ての情報を統合した上で下したものであり、やはり的確な処断だった。
しかし、ここにただひとつ、彼には知り得ず、知っていれば、少なくとも、彼らの生き残りを彼ら自身が左右できただろう事実があった。
それは麻酔代わりのベルセルク効果が、先の薬物投与によって直斗の体に作用していたことだ。
既に直斗は痛みに怯まないどころか、五体を十二分に駆使できる環境にあったことだ。
幾筋もの稲妻を刃に帯びながら、超速回転で肉薄する人間メタルハーベスター。
真っ向からそれを迎え撃つ直斗の体勢は既に、元川神流師範代・釈迦堂刑部が直伝、“夢幻の構え”に移っていた。
繰り出されたのは――――、
『オイコラ、薄目開けてんだろ?』
『だから、得物を見てんじゃねぇってんだよッ。 テメェ、それを千人相手にいちいちいちいちやってたら、ホントに目玉が皿になっちまうぞ?』
『動くのを認めてから獲りに行った所で、間に合わねぇに決まってんだろう? 見るな、感じろ、馬鹿が』
『百代はものの三分で仕上げたぞ、三分で。 しかも、八年も前のガキの頃だ』
『今回は、得物の種類も素材も質感も、あらかじめ解ってんだぞ? この程度の初歩に何時間かけるつもりだよ、ぇえ? さっさと片付けちまえ』
『チッ。 ……ったく、しゃあねぇなぁオイ。 どけ、もう一度見せてやる。 相手しろ、アミ』
『あ~あ~、やっぱテメェ向いてねぇわ。 使えねぇ』
『これ以上は徒労だな。 黛の娘っ子あたりにゃ良いカードになりそうだったんだが』
『はいはい、もうやめやめ。 つーことで、スパッと忘れろ。 一応、裏奥義扱いだからな、コレ』
追憶の走馬灯が流れる先で、繰り出されたのは――――、
川神流 “無明白刃取り”
―――――絶技、ここに開眼。
パン、というありがちな音さえ立てずに、直斗は閃いた白刃を両掌で挟み止めた。
その両手を基点として生じた風圧は、その光景から一拍遅れて、見守る者たちの下へやってきた。
衝撃に微震する大地。
空中に舞い散らされる砂埃。
重力に反逆して弾け飛ぶ雨の粒。
包囲壁から漏れ出た疾風は、奥にあったコメツガ林を一斉に震撼させて余りあった。
緩い衝撃波に巻き上げられた粉塵が、濛々と戦場に立ちこめる。
挟まれた刃が脇に逸らされると、そこからは早かった。
体勢を低くして、腰丈の高さにたゆたう砂塵の煙幕に直斗が紛れた後の行動は、まさに電光石火の早業だ。
姿勢を崩した石田の脇に、渾身の内廻し蹴りが叩き込まれ、強引に上体が浮かされる。
輝ける龍の加護はこれを最後に仕手を見限り、光の鎧は露と消え失せ、石田虎の子の切り札は破られた。
戦いの趨勢に内心の唖然を隠せず、棒立ちしていた島の真横に位置を変え、石田と島の中間点にぬっと姿を現した直斗は、ダブルラリアットの要領で二人の首元へ両手首を滑り込ませる。
すべてが彼らの認識を超えていた。
いったい何処で手を誤ってしまったのか、それすらも解らない。
胸に抱き寄せられるようにして、瞬時に膨れ上がった直斗の上腕二頭筋が絡みつき、慄然と首を竦めた両者の頚動脈へと鮮やかに決まる。
ここで初めて石田三郎は理解する。
自分の知覚した何もかもは、全て囮だったのだと。
最小限の労力で最大の結果を得るべく誘い込まれ、まんまと勢いづいた所を逆手に取られたのだと。
ここで初めて島右近は理解する。
今、自分たちは生ける肉の盾となっているのだと。
万が一に飛来してくる毛利と大友の飛び道具を封じるべく懐に取り込まれ、案山子同然の牽制役として、これ以上に無い無様を周囲に晒しているのだと。
最後の意地を見せるように揃って腕に手をかけた石田と島だったが、それぞれの首と直斗の両腕の間には、爪の先さえ入れる隙間も無かった。
ドーピングにより脳内のリミッターを外された筋骨は、どこまでも強靭で頑なだった。
彼ら二人に共通して幸せだったことは、この次の瞬間昏倒してゆく中で、苦しいと思う暇も無かったことだった。
意識を失うのは、とんでもない快感だ。
何も見えない暗がりのなかに堕ちてゆく。 心は安らぐばかりで、とても気持ちが良い。
舫いが解き放たれた精神は、忘却の海を漂流し、やがて溶けゆく運命だ。
何を思い煩うこともない。
苦痛も不安も憤怒も心配もない。
自身と母校の面目が一瞬で丸潰れした事実も、思索の埒外だ。
当然、川神大戦や東西対抗戦の行方も、後方に控える同志も、取り囲む川神の有象無象も、武道四天王も、直江大和も、川神百代も、すぐそばで夢枕に立ち会う矢車直斗さえ、関係が無くなる。
酸素を断たれて意識が途切れるその瞬間には、未来などゼロなのだ。
くっきりと明るかった風景の色が、淡く薄れて消えゆくだけだ。
“死ぬのがこの調子なら、悪くない……”
最後に去来した感慨もまた同じくした石田三郎と島右近の両名は、こうして限りなく穏やかに、そして速やかに大戦から脱落した。
彼らが砂利の上に体を投げ出したのとちょうど時を同じくして、山間を奔る微風に土煙は吹き散らされ、僅かながら勢いを増しつつある小雨がそれを治めて、傍観者達の視界が仄かに晴れ渡る。
霊山を覆う雨雲の下に残っていたのは、今日というたった一日に、魂の全てを焼き付けゆく、一人の戦士の孤影だけだった。
<手には鈍ら-Namakura- 第四十七話:鞘鳴>
最高の覚醒感が続いていた。
一挙に大将と副将を失った天神館の残党が、ここでようやく動きをみせる。
半ば自棄に駆られて突貫する側、慄きながら一旦その場を退いて反撃の機会を窺う側。
そのどちらに別れようと、このときの俺には彼らの表情が明瞭に見えていた。
力みからか、茹で蛸のように全身を紅潮させた長宗我部宗男の、肘先に奔る油の一滴一滴も、全て鮮明に見えていた。
焦燥からか、梳いたばかりの紙のように顔を白くした毛利元親の、牽制の一矢を放つ瞬間のトリガーの動きも、嫌に緩慢に見えていた。
一粍も負ける気がしなかった。
今なら、たとえ世界中を敵に回したとしても勝てる自信があった。
虚飾、痛恨、重圧、不和、打算、欲望、憤怒、悲哀、楽観、孤独、そして血統。
世界を捻くらせる全ての要素を斬り裂き、穿ち抜き、抑圧から解放するだけの力が、今の自分には備わっている。
支配している、と思った。
自分を取り巻く世界も、自分の肉体が持ち得るポテンシャルも、その全てが自分の意志の支配下にあると。
こうして背中を向けていても、黒ずくめの乱破者が投じた暗器の接近を余さず捉えられていた。
八時の方角。 右も左も敵だらけの状況で、何故その一人が最初に動くと予想できたのかは分からない。
ともかく、揺れた風の音が、踏まれた砂利の音が、最も強く『お前を殺す』と告げていた。
それに対する防禦が、次手として最善手であることも、併せて。
*
鉢屋壱助が覚えていることは少ない。
このとき、果たして直斗は動かなかった。
結果、延髄へと過たず迅速に奔らせた三本の苦無は、寸前の虚空で忽然と掻き消えた。
ただ一人、投じた当人たる鉢屋のみが、凶器の行方を見届けた。
もとより待ち受けていたかのように、首の裏に唐突に差し出された敵の右手、必殺必中の三本はその指間に、文字通り吸い込まれるようにして、収まってしまったのだ。
そう。 肩から先の動作を除けば、直斗は微塵も動かなかった。
次の瞬間、そっくりそのまま得物を投げ返され、迫る二条の凶器の軌跡を見切り、回避に体を捌いた鉢屋の眉間に、残る一本が冷酷に突き立つまでは。
*
また一つの“波”が、首筋から這い上がってきた。
「――――ぁ」
これは大きい。
思わず発した呻き声は、風に掠れて自分の耳にすら届かない。
体の底で、何かが鋭く破裂した。 一点で弾けた力が体中に、指の先まで。
これは拡散か、それとも集中か。
エネルギーの流れが余りに速すぎて、どちらなのか区別がつかない。 あるいは両方。 そうだ、循環だ。
全てを飲み込む竜巻のように、渦を巻いて身の内に充満し、夜空に瞬いては消える大輪の花火のように、体外へ発散してゆく。
その繰り返し。
音が更に一気に遠のき、脳髄が冴え渡った。
馳せる自分の姿を、もう一人の自分が俯瞰しているようだ。
呼吸が急に楽になった。
降り注ぐ水の粒子が、その一つ一つが、ひどく鮮明に視界を過ぎる。
この感覚はなんだ?
頭の中が蜂蜜入りの炭酸水で充たされたよう。
熱狂と紙一重の静寂。 ひどく矛盾に満ちた体内感覚。
視覚と聴覚と嗅覚と味覚と触覚が、丸々ひとつに纏められて、大量の情報に脳が溺れかかっている。
*
こちらにつつり。 あちらにつつり。
千鳥足で間合いを幻惑しながら回避を続け、特製連弩の装填のタイミングを読んだのか、ついに敵は毛利元親の前へ一直線に突進してきた。
残弾はゼロ。 大友の援護は、彼女の武器の特性と現在の位置関係からして、望み薄。
傍目に見れば、絶体絶命の窮地である。
しかし実際は正反対。 毛利にとっては、己の脆弱を敢えて曝け出して油断を誘えるこの瞬間こそ、絶好の勝機だった。
弾込めの美技とは即ち、極めて滑らかな装填。 そして滑らかさの秘訣は、驚異的な速度と直結する。
スプールを引いて、中折れ機構を露わに。
血振りするように銃身を落とした勢いそのまま、空弾倉を弾き出し。
それと同時に、もう片方の手に用意していた新弾倉をラックに滑り落とし。
再び銃身を撥ね起こして薬室を閉鎖し、ドローパウンド80ポンドの重弦を手早く張り終える。
所要時間は、ジャスト0.50秒。
その道のプロ御用達の最高級ガンオイル、歴戦の汗を吸い取ってきた馴染みの胡桃材の銃把に、なにより毛利自身が積んできた技の“功”。
以上の三要素が合わさってのみ成せる、熟練の手捌きだった。
直斗は拳打にまだ三歩遠い。 直斗の回避は間に合わない。
その手には、もはや防ぐ術など皆無だ。
――勝った。
生死が定まる刹那の、なんと甘美なことよ。
慈悲だ。 その屈辱に塗れる胸に、瀟洒な勝者の名を刻むことを許そう……。
一発でも被弾すれば即退場。 その状態の直斗が銃口に目を見張る気配にほくそ笑みながら、毛利は三点バーストで確実に獲物を屠りにかかった。
……だが、彼が最後に見た景色は、失意にうずくまる敗者の背中などではなく、ただ一面のダークブラウン。
勝利への確信から転じた恍惚に、ついぽっかり口を開けたことが仇となり、毛利は生まれてこのかた初めて、土の味というものを大いに噛み締めることとなった。
毛利が思考した通り、直斗の手には、もはや防ぐ術など皆無だった。
椎名の遠的矢や、鉢屋の放った苦無などとは話が違う。
発射直後の、初速は銃弾と大差無いクロスボウから射出された鋒矢を、その手で余さず摘み取る芸当なども出来る筈が無かった。
確かに防禦の術は直斗の手には無かったが、…………しかし足には有った。
拳打の間合いニ歩手前、麗弾の射手がトリガーを引き絞る寸前の拍子を正確無比に見計らい、足元の土砂を直斗は蹴り上げていた。
湿った砂を盛大に被って怯んだ毛利の顔には目もくれず、瞬時に間合いを詰めて飛び道具のアドバンテージを潰すと、その手首ごとクロスボウを手刀で地面に払い落とし、鳩尾に拳を一発。
ゲッと体を折った毛利の足をすかさず払い、長髪に左の指を絡ませる。
右手は脚絆のベルトを掴んで固定し、気絶した彼を持ち抱えたまま肉壁とした直斗は、次なる敵のもとへと足を向ける。
中国の麒麟児、その流麗なる外見は既に、美と対極の位置に貶められていた。
*
視覚よりも尚明晰に。
聴覚よりも尚鋭く。
嗅覚よりも尚敏く。
味覚よりも尚著しく。
触覚よりも尚直感的な。
一切の死角の無いダウジングマシーンと化した精神は、全天球シアターのように周囲一帯の全景を映し出している。
自分の行くべき道は、ほんのりと赤く輝いている。
こちらに向かって躍り掛かってくる人々の未来位置と、彼らがそこに至るための経路は、残像まで余さず緑色に染め上げられている。
その二色にのみ色分けされた世界に、いつの間にやら没入していた。
まるで万象を予知するカーナビが頭に積まれたみたいだ。
目的地周辺です目的地周辺です目的地周辺です目的地周辺です目的地周辺です――――。
……ああ、これは。
このまま帰ってこられなくなりそうなほど、気持ちがいい。
なんという官能。 なんという愉悦。
恐いぐらいだ。 赤く輝く光のほうへ、たったひとりで押し流されてゆく。
誰も邪魔をしないでくれ。 このままでいいんだ。 このままがイイんだ。
このままイけ。
もっともっと遠くに遠くに。
光に焼き尽くされても構わない。
ほら、もう少しで果てが見える。
あの朱の綺羅星まで、あと、もう少し――――。
*
「無鹿咆ッ――――」
哮ォッ、と叫び終えるのに先んじて砲声がどよもし、大友焔が抱える一門の大砲の筒先から霧吹状に射出された手矢の群は、必中射程にある万物尽くを針鼠にするべく猛然と裂空する。
撃ち終えたならもう一門。 撃ち終えたならもう一門。 景気の良い爆音の無限連鎖が、仕手と仲間の不安を纏めて吹き飛ばす。
恐るべきはその攻撃密度。
扇形に広がる散弾道に加え、壁際に後退し、尼子晴の手勢を借りて壁外からの弾薬の補給線を引く事により、機動を犠牲にしながら包囲網内の四半分を間断なく弾幕で覆い尽くす一手は、下手に動くより余程効果的な戦術であった。
絶えず山間を木霊する砲撃の音色は、かつて無鹿の河口にて島津の大軍勢を脅かした頃と、些かも変わっていなかった。
―――直江、大和、か。
心の隅の、そのまた隅のあたりで燻る淡い憧れも糧にして、激烈な発射反動と放熱ジャケットの熱気に耐え、今一度とダーツの雨霰。
目視可能領域、その全圏を、トリガーを引き絞る数だけ蹂躙し続ける。
恋花火と言うには、余りに硝煙の香りが効き過ぎていた。
「うおおおおおおおおおおッ!!!!」
その弾雨の中で、際限なく自由自在に動けるのはただ一人。
全身にオイルを塗れさせ、鏃との摩擦係数を限りなくゼロに等しくした、被弾知らずの長宗我部宗男のみ。
雲を衝く巨躯。 その皮膚に流れ張られる油膜は、さながら鰻や鯰の粘膜のように、接触した万物を逸らしに逸らす。
そうして生じる跳弾の行方を、ある程度指向することも、長年の鍛錬を積んだ彼には可能だった。
本場トルコの油相撲に揉まれ帰国して数年。 どれだけ色物武術と貶され、どれだけうら若き婦女子に気味悪がられても、彼は自分の流派を誇り続けてきた。
“俺流”を標榜する鍋島学長の眼鏡に適い、西方十勇士に数えられるまでに自分の技術を磨き上げてきた。
―――オイルレスリングこそ至上にして最強。
いつの日か、そう世に知らしめることで、棟髪刈りに加えて二時五十分丸出しの格好の自分を、敬遠の素振りすら見せず、温かく受け入れてくれる瀬戸内の故郷の人々に報いるために。
「そういんさんかいして、あいずにて、いっせいとつげきっ!」
武者震いを両腕の鉤爪を擦ることで誤魔化した尼子晴は、後方に控える自らの親衛隊たる尼子兵二十余名に檄を飛ばし、覆滅の円陣を組ませる合図を送った。
やんぬるかな、もはや特攻も已む無しだ。 大友と長宗我部の奮戦後、弱ったところを仕留める役どころとはいえ、半数以上の犠牲は免れないだろう。 それだけの剣の遣い手だ。
黒い碁石のような瞳を部下に向けて、そう黙したまま伝えれば、常と変わらぬ威勢の良い返答が、首肯と共に全員の口から飛び出した。
曰く、
――我ら尼子兵団ッ
――――恐れ多くも西方十勇士が御一人ッ
――――――尼子晴閣下の影を自任する者共ッ
――――影を踏まれて誰が痛みッ
――誰が悲しみましょうやッ
――――我ら総員揃って意気軒昂ッ
――――――諸共に報仇の決意に燃えッ
――――彼の奴輩に断固たる鉄槌を下す覚悟ゆえッ
――己が死番も厭わずッ
――――同胞の死に花に羨望を抱きッ
――――――敵地に屍を晒してこそ至上の勇気ッ
――――これぞ大いなる名誉と心得ッ
――尼子兵団の心意気と存じッ
――――死中に団の“活”ならずともッ
――――――我らが主の“勝”を見出しッ
――――御届け申し上げる所存ッ
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「尼子閣下に光あれッ!!」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
事前に示し合わせたわけではなく、ただこの瞬間、彼ら彼女らの胸中が渾然一体であったことで、一人一人が吐き出した一つ一つの文節が、更なる意味を織り成して連なった。
どこまでも真摯なる紳士淑女の集まりであった。
部下達の頑と揺るがぬ決意を素直に受け止め、純真な胸が高まると、思わず尼子は、その集団に混じる血を分けた妹に目を向けた。
自分と瓜二つの身元を黒頭巾ですっぽりと隠した双子の片割れは、微かに、そして確かに頷き返してきた。
*
立ち向かう彼ら彼女らにどれだけの想いがあり、どれだけの願いがあり、どれだけの誓いがあったとしても、この身を阻むには及ばない。
今回は、ただそれだけの話だ。
そうできるだけの代償を積み上げた末の結果を、迎えるばかりだ。
実に容易いことだった。
――毛利の五体を盾に、大友が降らせる矢雨の射程に入る。
一瞬の弾幕の切れ目を見て、針鼠あるいは生ける剣山と化していた毛利をすぐさま投棄。
――真横に現れた長宗我部の腕を潜り抜け、その顔面を右袖で払拭。
ただでさえ呼吸によって油が薄まり乾き気味だった、鼻の下の絶対急所を確認。
無防備同然となった大男の人中へ、すかさず左腕の裏拳を叩き込んで無力化。
――ストライド走法で間合いを幻惑しつつ大友に再接近。
向けられる筒先。
砲塔を昇拳で撥ね上げ回避。
そのまま股下に踏み込んで、丹田への追い突きで制圧。
――残心の最中、四方八方から圧し包むように飛び掛ってきた二十二名。
意よりも先に動いた背筋が、腹筋が、腰筋が、四肢の腱が、大友の大砲を奪いながら、地を這うヤモリの如く全身を沈み込ます。
仰向けの体勢になった瞬間に上空に向けて引き金を引いて即応即殺。
――跳ね起きざまに待ち受けていた尼子と黒頭巾による鉤爪乱舞。
左右で一対の双爪を備えた二人が前後から挟撃を仕掛けてくるところに、手持ちの空大砲を振り回して五秒の間だけ応戦。
四つの凶器から繰り出される怒涛の連撃に耐えかね、生身を晒す寸前で武装を解除、ホールドアップ。
二方向からとどめの双撃が放たれる間際、顎先を上げ、視線を空に向け、注意を喚起。
まさしく急転直下。 尼子衆の迎撃に筒先から放たれたのち、的を逸して振り落ちてきた矢の存在に意識を割かせる。
下肢の運びは間に合わず、そのまま構わず首級を獲るか迎撃するかの二択を迫られる二人の戦士達。
次手に詰まった尼子の不覚を見逃さず、手首を絡め取っての旧式一本背負い。
上空に背負い上げた尼子の五体によって矢雨を払ってやり過ごし、用済みの獲物はそのまま打ち捨てる。
――残った鉤爪の頭巾が解かれる。
同じ顔――――――、その愕然の隙に喉元へ撃ち込まれる三本爪。
分身か、変わり身か、瞬間移動か。 仕留めた筈の尼子と瓜二つの顔だった。
事実ここで対処が遅れたが、“そういうこともあるのだろう”という達観が、己の驚愕のみならず、相手の得物の速さに打ち勝った。
体勢が崩れるのも構わず限界まで反りかえって回避し、そのまま一転して膝立ちに起き上がる。
仕切り直し、完全に間合いの外と見せかけ、腿力の伸びを利かせて一気に急所を突く。
遠慮も呵責も無い。
一切の遊びなく咽頭を掴み、圧迫し、昏倒させて、奇襲の意趣返しを完了。
……実に、容易いことだった。
――――――そうか。
ふと、思いついたことがあった。
もしかしたら、これは普段、川神百代が体感している世界なのだ、と。
ああ、なるほど。
確かに此処は死ぬほど気持ちが良くて。
確かに此処は死ぬほど侘しく淋しい場所だ。
風の音がうるさいほどに耳元で鳴り、あらゆる景色が一瞬で過ぎ去ってゆく。
この世の何を犠牲にしても絶対に手放したくない。
そう思ってしまうほど心地良いが、この随喜を分かち合えることは極めて稀で、その殆どはたったひとりで味わうしかない。
そんな彼女の世界が、これなのだ。
百代が、武道家としても、ときに行き過ぎと思えるほど“闘争”に固執し没頭する理由を、まざまざと思い知らされている気がした。
こんな速度で手足を繰ることを許されたなら、こんな精度で世界を観測することを許されたなら、確かに中毒のように耽溺してしまうだろう。
現に、今の自分がそうだ。
もっと速く、もっと美しい瞬間の世界を。
生と死が、勝と敗が、建と崩が、剛と脆が、無限に連なり交錯する世界を。
それらをもっと見て、観て、視て、診て、最期まで看て取りたいと、そんな欲求ばかりが高まってゆく。
…………だが、危うすぎる。
生身の肉体で挑むには、余りにも苛酷な、華麗に過ぎる世界だ。
俺は今、禁忌の外法に手を染めることで、一時的に、その世界へ至る狭く小さな門を、目前の広大な壁の中に見つけたにすぎない。
もしかしたら、いつかの俺は、あの“向こう側”に行った事があるのかもしれない。
もしかしたら、今の俺は、“戻ってきた”というべき状態なのかもしれない。
だが、もはや俺は、二度と、あの奥の間に行く事は叶わないだろう。
きっと届かない。 この身は既に、理想郷を打ち建てる代償に蝕まれつつある。
どんな禊ぎも、どんな祓いも、この身の汚濁を完全に濯ぐことは不可能だろう。 それだけの過去も併せ持つ身だった。
極めて綺麗で健全な肉と、ただひたすらに貪欲で純粋で真っ直ぐな魂を併せ持つことこそが、あの扉を通るための唯一無二の資格なのだ。
俺は既にその資格を放棄した。
積み重ねてきたものは、今日で、全て終わりだ。
そうしようと決めたのだ。
瞬間の美と昂揚を目指し、心身を日々研ぎ澄ますのではなく、どんな汚辱に塗れても、人の中で筋道を通して生きる術を顕す。
彼の為に。 あるいは、彼女の為に。
“道標”となる道を、俺は既に選んでいた。
慙愧も、反省も、膨大にある。
だが、これが今は最善だ、ということだけは解っていた。
……しかしそれでも、ああ、なんという爽快な気分だろうか。
ときおり後頭部を襲う灼熱の津波が脳を蕩かし、心までもが何か他の生き物に変態してゆくような、そんな野性への不可逆的な堕落の最中に抱くのは、単純な嬉しさ。 雄としての憤激というべきか。
最後の最後に、この速さを、この美しさを味わえて良かった。
己の全てが闘争に特化されつつある今、余分な機能が全て削ぎ落とされつつある今、表情筋すら自由に操れない無様にあっても、確信できることがあった。
今この瞬間の自分は、きっと心の底から笑えている、と。
なあ、百代。
あまり遠すぎるところまで行ってやるなよ。
お前が目指す終点は、あの真紅の明星は、たしかに美しい場所だろうが、同時に、死ぬより辛い孤立が待っている不毛の凶星だ。
だから、たまには振り返ってやれ。
お前を地上に結びつけてくれるものを、どうか忘れてないでやってくれ。
人間としての生活、人間としての喜びと苦しみのなかに足をつけ続けてこそ、いつだってファミリーの傍へ。
いつだって、未来のあいつのもとへ。
“誠”を沁み付けた直江大和の隣りに、お前は戻ってこれる筈だから。
*
我に返れば、後の祭りだった。
打ちひしがれた川神一子の介助と戦場からの離脱を手伝うという名目で、一旦は現場から身を退き、身内に猟犬の役を任せ、藪に隠れて獲物の消耗を待つ狡猾なマタギよろしく、尼古兵の陰に潜みつつひっそりと漁夫の利を狙っていたのは宇喜多秀美である。
その彼女がふと周りを見回せば、既に味方の気配らしい気配は跡形も無くなっていた。
頭の中で無機質に鳴るバーコードリーダーの断続的な読み取り音と共に、現在の戦況を整理、分析すること約二秒。
直後、脳裏にレジ鈴を響き渡らせた宇喜多は、
「ほな、毎度おおきにッ! サイナラ~♪」
似非関西弁を吐き出しながら繰り出したのは、兵法三十六計すら凌ぐとの呼び声高い、珠玉の一手。
見た目を裏切る意外な敏捷性をここぞとばかりに発揮し、一目散に戦地に背を向けて退散しかけた宇喜多だったが、彼女もまた、豹変した矢車直斗の実力を見誤っていた。
見誤らずにいれば、無駄な全力疾走をせずに済んだし、手早く白旗を掲げておけば、十勇士内でも最大の負傷を負わずに済んだのだが、それは結果論というものだろう。
表面上は飄々とした態度を取り繕ってはいたものの、遁走に最も不必要だろう超重量の大槌を置き捨てる判断もままならなかった彼女に、冷静な状況判断を期待する方がそもそも間違いだ。
彼我の距離は十五歩以上。
まずは絶対の安全圏と、宇喜多がたかをくくっていたその間隙を、玄武軍の白い悪魔は僅か二息三歩の“活歩”の歩法で詰め寄った。
そして、もう一歩。
何の足捌きも見せずに地面を滑走してのけた直斗は、ついに疾走する宇喜多秀美の幅の広い後背に追いついた。
忍び寄る殺気に、本能的に顔だけ背後に振り向けてしまった宇喜多が、意識を失うその直前。
秒針にして一目盛りにも満たず、宇喜多の脳内では無限に等しいその時間。
「……………………」
彼女の目を捉えて離さなかったのは、敵手の懐で礫岩のように握り固められた必殺の拳と、溢れ出た淤血の雫を垂らす歪んだ口端と、暗く昏く燃え滾る双眸の光。
即ち、悪鬼の嘲笑だった。
防ぐことも避けることも叶わない永遠の一瞬、宇喜多は生まれて初めて、金銭では決して購う事の出来ない“時の流れ”の残酷さを思い知った。
直斗の右拳が宇喜多の肝臓の真後ろを捉える。
踏み込みと間合いも完璧。
大地から足腰、肩と腕の関節を経て、手首まで加速された極大の勁力。
それは宇喜多の内臓に浸透するのみならず、その丸々とした巨体の外観を歪に変形せしめ、まるでゴム毬のように撥ね飛ばした。
*
……PTSD――Post Traumatic Stress Disorder、心的外傷後ストレス障害の主要症状に、“過覚醒”というものがある。
絶えず危険を予知するための、極度の不安状態である。
別名を覚醒亢進とも言い、精神に強い圧迫を受けた場合に生体防御反応として起こる緊張が、ストレスが解除された後も持続し、皮膚に代表される感覚器、筋肉に代表される効果器の閾値が大幅に下がり、刺激に対して過剰なほど敏感になっている状態である。
不眠症、原因不明の苛立ち、極端な躁状態、過度の警戒心、些細な物音に飛び上がって驚愕する、などという症状が、一般的にそう呼ばれている。
直斗が現在陥っているものは、これと基本的に同じだったが、ひとつ異なる点を挙げるならば、並べて万象を余さず知覚しながら、彼の精神は凪いだままだった。
否、事象に対する種々の感想はある。 膨らむばかりの負の感情が“達観の膜”に覆われる上で、通常の一千倍の処理速度で思考が働いているというべきか。
とかく焦燥とは無縁であった。 むしろ安寧がどこまでも続いているように思えた。
覚醒を促進する薬効を並立させつつ、安楽を強制させる魔調製を施された妙薬は、その名の通り“極楽”へ被験者を旅立たせる。
今の直斗は、有り体に言えば、居眠り運転のまま、エンジンが焼き切れるまでアクセルをベタ踏みしている状態だった。
常人の精神を超人の境地に、悟りを開いた覚者の心地に置くべくして誂えられた麻薬は、人体の中枢神経を汚染して、感知した万象を快楽に変換する回路を構築する。
――――“達観の膜”が“絶望の棘”に刺し抜かれるまで。
「……んで、トドメにメペリジンとスコポラミンぶっこんだ。 まぁ、あれよ、天。 大別すりゃ、ダウン系に見せかけたアッパー系。 お前にやった興奮剤の超々上位互換と思えばいい。 アゲ過ぎて逆に自分を他人みてーに見ちまうところまで、頭ン中キメキメにさせたってワケよ」
「…………」
西丹沢自然教室ビジターセンターに設置された観客席から戦場を挟んだ、ちょうど反対側。
切り立つ崖の頂上に、人影が幾つかあった。
「今風に言うと、ゾーン、ってやつか? テレビやらで、たとえば滅茶苦茶なビハインドからの逆転劇場積み重ねて、一気に勢いに乗って甲子園制覇しちまうチームってのは“持ってる”だの、“そういう運命”だの、“ビッグになろう”だのうんたらかんたら理屈こねられるけどよ。 突発的に神懸かった状態に至るってのは、珍しいことじゃねぇんだよ。 カイエン買ったり青山で土地転がす人間ほどヤバイもんでもねぇ。 本場のシャーマンとかはテメーでトランスのオンオフができるしな。 要はタイミングだ。 一旦でも、周りの状況と“絶好調”を隙間なくハメちまえば、あとはフィーリングでなんとか間に合わせられる。 …………その程度の才能は奴にも残ってた」
無垢裸身の男女に与え給うた禁断の果実。
その紛い物というべきモノについて、長々と講釈を垂れていたのは、確かに蛇のような油断ならない男だった。
顔貌に狂笑を張り付かせた様は、契約者の魂を取り立てに舞い降りたメフィストフェレスと形容したほうが適当か。
「リスクは超々々下位互換もいいとこだが。 最期には…………ヒヒッ、ヘビーローテンションって奴だな♪ ただ、そこがまた格別でよ? あいつにとっては、それが最強の突破口と成り得るっつーわけで。 いやー、これ思いついた瞬間、マジで俺って天才だと思ったわ。 ヤッベ、俺ヤッベェ、これッベェな、マジッベェな。 マジヤッベェ、俺マジッベェだわ。 ……でも心が痛すぎて見てらんないわー、だってあれ俺の弟子だもんよー、取り返しつかねー形になってるもんよー、手遅れだもんよー、マジ辛いわー、辛すぎて昨日八時間しか眠れなかったわー、いやー中途半端すぎてマジ辛いわー、レム睡眠の切れ目ズレちまってるからなー、マジ体重くてダルいわー、頭も上手く働かないわー、灰色の脳細胞がマゼンタブルーになってるわー、しょうがねぇよなー、八時間睡眠だもんなー、九時間睡眠取れないとかッベェな、冗談抜きで」
「ペチャクチャ、ペチャクチャ、ペチャクチャ、ペチャクチャ~。 カッコカワイイ釈迦堂さんマジリスペクトッス。 …………師匠さぁ、」
「あん?」
「案外、単純だよな」
奇妙に多弁になり、常より半オクターブほど声の音程が高まり、寒気がするばかりの軽口や冗談を過剰に強引に織り交ぜる。
表に出してはいけないと内心を縛り、感情を押し殺し、自分は平気だと偽ってみせる人間のごくごく典型的な姿だった。
そういう大人の姿は、嫌というほど見てきた板垣天使だった。
借金に首が回らなくなるばかりか、その埋め合わせに後ろに手が回りそうになる真似を繰り返す親を見て育った娘だった。
……そういう自分も今、ギャグ漫画をなぞるようにして冗談に付き合っていることには、触れないおく。
「師匠にはガッカリッス、ふぅ、あとこの前貸した豚丼代返してください。 …………いや、つーかマジで大盛480円+とろろ130円分返せ」
「俺が単純だと? まったく、馬鹿も休み休み言え。 今日び俺ほど屈折した乙女座のセンチメンタリズム溢れる奴ァいねーよ。 ここんところの山篭りでバイトも出来なくて、煙草の量も減っちまったからイライラ倍増で一ヶ月過ごして、逆に気分爽快だよ畜生」
「それただ健康になっただけじゃねーか! お勤めご苦労様でしたって言われる側の台詞としちゃ間違ってねーような気がするけど! …………あと510円!!」
「チッ、こいつ案外チョロくねーわ。 そんでもナチュラルに繰り上がりの足し算できてないところはやっぱりチョロいわ。 …………うえ~、挨拶するかしないか、微妙なラインの人が来たわ~。 いつも迷うわ~。 けどシカトかます覚悟はいつも一瞬で出来るんだなこれが」
「?」
「上から来るぞ、気をつけろっと」
天使が上空を仰ぎ見た瞬間に、叩きつけられる猛気怒気。
周りの山林の色に溶け込むような深緑の繭紬。
その長拳服に、取り立てて特別なところは無い。
だがそれを纏う七三分けの圧力たるや、衣自体が皺という皺を伸ばさずにはいられないほどの苛烈さを醸していた。
「これはこれは、川神院きっての気功派拳士。 天下に名高いルー・イー師範代じゃねーか。 いつまで経っても“師範”になれる気配の無いズブ甘の、それはそれはお優しい大先生様が、こんな野良犬風情に何の御用で?」
「……そうやって卑屈に世を忍んでいれば、ワタシもお前の前に現れることもなかっただろウッ。 やはり仕込んだのはお前だったカッ!?」
「昔に叩きのめして流派から追い出した同輩に偶然ばったり出会っちまってキョドってテンションおかしくなってんのなら、無視の方向でいいぜ? ツキノワの親子にでも遭遇したと思いねぇ。 俺も正直、これ以上お前と喋るの面倒で敵わねーわ」
「よくモ、…………お前、よくモッ!」
「だから、そう猛るなよ、ルー。 今日ここで、熱くぶつかりあうのは弟子の役目だ。 四十絡みの俺たちはクールに行きたいところだァな」
「事と次第によってはワタシは」
「“百薬の長”を以って俺を下したのは何処のどいつだったか、忘れたとは言わせねーぜ? ……お前にだけは、何を言われる筋合いは無いんだよ」
「――ッ…………昔からお前はそうだったナ。 昔から、お前は“限度”というものを知らなかっタ!」
「たりめーよ。“限界”に縛られてる奴に負ける気はしねぇし、何を言っても無駄だからな。 そこに行くと、たとえばこのチンチクリンの貪欲さ加減と来たらどうだ? 欲望こそが限界を喰い破って人間を育てるんだよ。 結果は火を見るよりも明らかだが、試しにコイツとそっちのワン子あたりをぶつからせてみろ。 キャリアの積み重ねと正味の実力なんざ、大して関係はねぇのさ。 …………っつー話を昔どんだけしたことか。 天、肝に命じとけ。 俺と出会えてホンキで良かったってな。 でなけりゃ、目の前の杓子定規で世間知らずな素人童○みたいな野郎共に、お前は矯正させられるところだった。 自分のナカに“限度”を作らされちまうところだったってな。 にわか教師ってのは、これだからいけねぇ……」
「いいや、不幸な弟子だネ。 一度は薫陶を受けた川神流を、諦めるのならまだしも、その教えを捻じ曲げ、助けを乞うてきた弟弟子の五臓六腑を劇薬に漬けル。 おぞましさすら感じる豹変ぶりダ。 それだけの代償がある筈。 ――――ふざけるんじゃなイッ! 更なる暴力の為に、そうまでして同輩と流派を辱めるお前に、語らせるような川神流があるカッ!? ……直弟子を新たに取っていたとは知らなかったヨ、釈迦堂。 “師範”の免許取得が無ければ、院外に分派を創る事はできなイ。 何より、お前は破門の身。 この川神初代の眠る丹沢にも禁足令が出ていル。 これで粛清の大義が出来てしまっタ。 お前こそ“掟”を忘れたわけではあるまイ?」
「あーあー、お前って奴ァ、本当に、能書きばかりが達者だな? つくづく反吐が出る。 くだらねぇ。 掟だァ?内規だァ?師を敬えェ?心が乱れるゥ? そんな御題目に顕現があるっつーのなら、是非とも見せてもらおうじゃねーか? つーかそれなら尚更、この死合を最後まで黙って見届けろや。 あの馬鹿を止めにもいかず、俺にかまけてる暇があるってことは、ジジイに大戦中止の上申を断られたからだろ? いいねぇ、あの明治生まれもようやく現実が解ってきた頃合か。 強さこそ正義、力こそパワー。 命を懸けるってことは、どれだけ尊いかってことだ」
「……尊さだト? 尊さだトッ!? あそこまで追い込んだのは他ならぬお前だろウッ!!」
「確かに、最後の一押しは俺だ。 だが、俺に至るまでの道程を進ませたのはお前ら川神院で、俺はそれに応えただけだ」
「他のッ――――」
「じゃあ何故、先の先まで縛っといた? あと三年早く、いや、一年でも良い。 川神に戻った頃合にでも、あれを解いとけば話は別だった。 ……俺のやったことなんざ可愛いもんさ。 奴の才能の伸び白をブッ潰したのは、お前らのほうだろうが。 お前らのやったことの方がよっぽど外道じゃねーか。 それがあいつにとっての平穏だの幸福だの、手前勝手に決めつけて言い聞かせて、奴に“限界を作った”結果、こんなことになっちまってんだろうが。 他にも理由はあっただろ? 百代可愛さに、…………いや違うな。 百代をお前らの理想に近づかせるために積ませる経験としちゃ、相応しくないから、お前らはあいつを隠してきた。 龍封穴なんていう、ご大層な名前の便所の水ん中に、七年も沈めたまま飼い殺しだ。 そりゃあ、文字通り抜き身のナイフみてぇだった才能も腐るわな」
「……その言い分には異論は山ほどあル。 だが、そのどれもが、今のお前に言っても無駄なものだナ。 それでも、一つだけ反論するとすれば、七年前、百代も直斗も、人間として未熟だっタ。 元服の歳にすら達していない子供だっタ。 誰かが導き、誰かが落とし所を見出さなければならなかっタ。 総代は、彼らの心を――」
「ほら見ろ、出やがった、ぬるま湯・川神院の使用推奨ワード筆頭。 “心を育てる”ねぇ? 俺も一つ訊くが、それなら、教え育てる側のお前らは、あいつらの“心”ってやつに向き合えてるのか? まあ、百代の方は爺様が共感できるとしてもだ。 お前に解るのか、直斗が? もし本当に“心”が解ってんなら、あいつを狂わせてやるべきだった筈だ。 …………ドブ川の水で妹の股座を掻き洗った兄貴の“心”なんざ、誰も想像したくも無かっただろうがな。 だからこそ、あのジジイも呪いを剥がさなかった。 とどのつまり、信用してなかったんだろ? あいつを」
「――――」
「俺の教えに限度が無いってんなら、お前の教えには説得力がまるで無い。 入門の審査でも、席次の選り分けでも、おんなじことを何遍も何遍も言ってきたよな。 …………才能の不足を努力で補うのは良いのなら、しなくてもいい努力を才能で補えてるところの何が悪い? 勤勉家が汗と涙と血便を垂れ流す前で、天才肌が惰眠に耽るのが何故いけない? いいじゃねーか。 ほっとけよンなもん。 テメェの鍛錬はテメェ自身の満足の為にやるもんで、他の人間には何ら関係のない行為の筈だ。 楽できてて羨ましいからか? 他の人間に示しが、規律がつかないからか? 俺に言わせりゃ“持ってねぇ奴”の嫉妬にしか聴こえねぇんだよ、お前の言い分は」
「ワタシはッ」
「違うんなら教えろ。 掛け替えの無い時間を犠牲にした努力が、生まれ持った天賦の才能に勝つのは良いんなら、どうしてその逆は駄目なんだ? そいつにとって命、存在証明とも呼べる“才能”。 努力の代わりに、掛け替えの無い“自分自身”を擂り潰して、真っ白い星を掴む。 そのシナリオのどこに問題がある?」
「それでは、究極的に、勝者も敗者も共倒れさせるだけダッ! ……釈迦堂、お前のやり方は勝者を生まなイ。 勝利とは、勝者が生き残ってこソ。 確かに、ワタシに対するお前の指摘は正鵠を得ていル。 それは認めよウ。 だが、矛盾しているのは、お前も同じだろウ? 勝利の為だと言いつつ、お前は、勝利から最も遠いところに弟子をひた走らせていル」
「……死に体になっても掴み得る“勝利”がどんなものか。 あいつは見せると言った。 お前の言う通りなら、あの馬鹿は負け、しかしその上で、因縁の仲良しグループとはお手々繋いで万々歳なハッピーエンドが待ってる筈だ。 なら、それでいいんじゃねーか? 回り道こそ近道だ、頑張った奴は報われる、挫折だって無意味じゃない。 ……世の中、そういう風に都合がついてるんだろ? 大器晩成を信じ込んでるお前ら自称“努力家”連中の頭の中ではな。 そして、これまた信じられねぇ馬鹿具合だがな、奴も言い切りやがったよ。 理屈じゃないところで、正しいのはお前らで、間違ってるのは俺らなんだとよ。 つくづく可愛げがねぇ。 そんなに地獄が見たいんなら、勝手にしやがれってんだ。 ――――――――遠慮なく嗤ってやるよ、直斗。 最後に這い蹲る無様をな。 せいぜいそれまでも愉しませろや。 お前の真価はこんなもんじゃねーんだから、な? だから、さっさと過去に浸っちまえ。 正気に勝機は万に一つも無ぇってな? ヒヒッ♪」
*
宇喜多が空中での錐揉み回転を終え、壁に激突して墜落した頃合に直斗が拾い上げたのは、いずれも主人に取り残された二つの得物だった。
右手の島の長槍、左手の一子の薙刀に意識を移す。
本来、竿状の武器というのは一振りを両手で扱うのが常道。 その原則に例外はない。
片手で二本の長物が万全に繰られるのは、神話や創作物の中だけだ。 無論、この真似には作意があった。
翼竜がその両翼を広げて威嚇を試みているような、腕を掲げた大きな構えを取る。
そこへ、壁外から再度、猛然と全角全方位から撃ち放たれる土砂降りの矢の瀑布。
錯綜する吸盤型の赤い鏃の残像が、壮大なレース編みのように上空を彩り、包み込んだ。
紅蓮の弓矢が、黄昏状態の身体に緋を穿たんと飛び込んでくる。 その瞬間、得物の一方を逆手に持ち替えると、足は勝手に動いてくれた。
前へ、前へと動いて、溜めをつけられた右肩の筋肉が躍動し、“投げる戦闘”に特化した人類の骨格が、いかんなくそのポテンシャルを発揮する。
一閃。
射出された長槍はしかし、迎撃目的ではない。 着弾地、そして着地位置への牽制目的である。
前へ進む足は止まらない。 もとより退路ではなく活路を切り拓くための進撃だ。
垂直高度五メートルもの囲いを越えるための助走である。 十勇士の相手をする中、じりじりと壁が内側に押し込まれたことで、英雄達が飛び込んできた進入路は既に封鎖されていた。
槍の投擲後、息つく間もなく吹き寄ってきた霧雨のような矢の大群。
提示されるのは、空間の弾幕密度と自分の移動速度、そして運気という乱数が加わった摩訶不思議な方程式。
半秒ごとに切り替わる最適解を、薬漬けの感性理性によって絶えず弾き出し続け、姿勢を変え、足を捌き、ついに踏み切りの時を迎える。
左手に残された薙刀。 疾走の中で握力を緩め、その刃の付け根に左掌を移す。
物干し竿を水平に起こしたならば、右手を添えて更に角度の調整を図る。
上体はやや前傾させ、腰を高く。 膝を高く。 腿を高く。
地面を蹴り飛ばしながら、機関車の連結棒のように動く肩で拍子を計る。
見定めた地点に石突を突き刺したなら、取っ手を引き寄せ、柄を湾曲させ、反発力が最大に膨れ上がった一瞬を逃さずに足を踏み切って、空に昇る。
鯨が踏んでも折れることのないという柄の靭性を頼りに、慣性に身を任せ、たわんだ薙刀が元に戻った瞬間を見計らって両手を離す。
空中前転の最中に足を引き寄せて腕に抱く。 体の表面積を最小に整え、弾幕の狭間を一直線に飛び抜ける。
上昇。 刹那の無重力感覚が全身を包んだのち、滑空。
すれすれに飛び違う矢の風切音が耳を嬲る。
まんま棒高跳びの要領で壁を乗り越え着地した先には、十点満点のプラカードの代わりに振り上げられる武器暗器の数々。
先立って投じられ、見事に大地に突き立っていた島の長槍。 それを取り巻くようにして立つ朱雀兵たち。
押し包まれて動きが束縛される前に、傍らの槍を引き抜いて周囲の敵手を蹴散らし、一定の間合いを確保、更に牽制しながら一挙に後退する。
取り回しが利き難い長槍の使い心地から、馴染みの得物の再取得に自然と体が動く。
頭に浮かぶは、金色の背広と額の十字傷。 次いで、褐色の素肌と物憂げな双眸。
手にする長槍を、今度は先ほどと真逆の方向へ投げ飛ばし、壁の内側に自分の現在位置を知らせる合図とすると、鉄パイプで骨組みされた包囲壁へと自分も逆走する。
地面はぬかるみ始めて滑りやすかったが、転倒に対する恐れは、スピードの快感の前に、少しも頭をよぎらなかった。
榊原小雪に呆気なく蹴破られたことを鑑み、壁の横の結合はそれほど頑強ではなく、またキャンパス台のように支えが外部の柱に依存する構造のためか、外側からの破壊工作には滅法脆弱であるという数秒前の推測を、現物を目測し、確信まで昇華する。
壁の支柱と衝突する直前、渾身の震脚を踏んで上半身を捩り上げる。
見様見真似の川神流“鉄山靠”――――幾度となくこの身に受け止めた板垣辰子の動きを、今ここで記憶野が許す限り緻密に転写する。
原理は、宇喜多秀美を下した拳の一撃と大して変わりはない。
大地を踏み締める両脚の腿力に、腰の回転、肩の捻りをも相乗し、全身の瞬発力を総動員、左背面へと収斂せしめる。
擬音で表すのも困難な、鋭すぎる破裂音が、金属柱の真芯で弾け鳴る。
耳を聾さんばかりの轟音に怯まなかったのは、地を這う意識なき脱落者と、その一芸を扱った仕手だけだ。
正式名称は“鉄式貼山靠”――――八極の奥義を昇華させ、川神本家こと川神鉄心が編み出した、近接戦闘における体当たりの究極型。
窮めれば一撃で生木を砕き割るという貼山靠。 その発展秘技の威力は、“鉄”の一文字から推して知るべしであった。
支柱が折れ、連結部の蝶番が螺子ごと弾け、包囲網を形成する壁の一枚がやおら傾き始め、同志達の脱出口がついに拓かれるのと時を同じくして、――――――狙撃手に六時を取られる。
それは、極めて致命的な位置取りだった。
放った勁力の大反動に痺れた体を傾け、倒れこんでくる鉄骨や金網に巻き込まれぬようスウェーバックして距離を置き、無防備に背中を晒したその一瞬を突いて、椎名京の殺気が飛んできたのだった。
顔を振り向ける暇も無かった。
暇があったとしても、考えるより先に万物の判断を下す今の精神状態が、無駄な抵抗を手足に許したかどうか。
「…………」
このときばかりは動けなかった。
この無防備を強いるだけの術技の放出だった。
乳酸が溜まり切り、解糖は不能に陥っていて、筋肉が言う事を聞いてくれない時機だった。
声を上げる暇もなかった。 もとより上げられる筈もなかった。
言語野中枢まで侵すよう調製されたユートピアの薬効は、注入された瞬間から容赦なく矢車直斗の発語能を奪い去っていた。
もはや口に出せるのは、喃語めいた呻きだけ。
舌は縺れるどころか根元から動かず、味覚も麻痺したままだ。 血の味がしない。
代わりに肌の触覚が異様なほど過敏になっている。 特に圧点と痛点がひどい。 発汗にすら痛みが伴う。
掘り出されたばかりの石油のような、どす黒く凝縮した血液が鼻孔から垂れる。 呼吸経路の一つは完全に遮断されていた。
唾液腺の働きもどこかおかしい。 赤く染まった粘液が大量に口端から垂れてゆく。
急発進と急停止を繰り返し、加重に苛まれた目の潤みが治まらない。 眼圧は上がるばかりで、あと少しで目玉が飛び抜けそうだ。
……だが、その全ての副作用を合算しても、戦闘には全く支障が無かった。
むしろ、勘を途切れさせない程良い具合の負荷、とすら感じられていた。
圧倒的な薬理的優位性を獲得する傍らで、失われる体機能は、確かに“無駄なく”膨大だった。
投与後から数えて150秒足らず。 87分後に来る筈だった限界が、すぐ間近に迫っていた。
神明の如き閃きが脳裏に奔っていた。
天啓を受けるような感覚で、鉄山靠を打って震えた身体がそれを確信していた。
薬効耐性が皆無のフラットな状態でも、“三分も保たない”。
それはつまり、第二射、第三射の効果時間も順繰りにそれを下回ることを意味する。
下り幅がどの程度かも未知数。
釈迦堂に訊いた所では、連続投与は、おおよそ直前の制限時間の四分の三ほど延長させるとしていたが、その言をそのまま恃みとするには、所定の三十分の一にも満たなかった限界時間の事実現実が重過ぎる。
果てしなく絶望的な要素が顔を覗かせた中でも、脳の活動は鈍らなかった。
対処はある。
要は勝つまで打ち続ければ良いだけだ。 もとよりその戦法に変更は無い。 ただ少し、ほんの少し、投薬間隔が短くなっただけ。
百の銀筒で膨れる腰のポーチの重みを再確認していた、このとき。
このときばかりは動けなかった。 ……だが、動く必要もまた無かった。
「だ~から、マ~ジで、立、ち~向かえ、乙女っ♪」
必殺を期した椎名の矢に到達されるよりも、僅かにして確かに早く、真白の長髪を棚引く美少女と擦れ違う。
背後から、ぎゅっと、降り積もった雪が踏まれるような音がしたのは、その直後だった。
来る筈の衝撃が来なかった。 故に振り返らずとも、矢の柄と小雪の掌が擦れ合った音と知れた。
壁の倒壊が完全に収まるのも待ち切れず、傾斜によって壁と壁との間に生じた僅かな陥穽に体を滑り込ませ、隔離の状況から一抜けした榊原小雪は、それからいとも容易く俺を狙った飛矢を片手で掴み取ったのだった。
摩擦に焦げた手を吐息で冷ますと、射角から狙撃手の位置を割り出したらしい小雪は、脇目も触れずその場から走り去り、天下五弓の無力化に向かっていった。
駆け違った際に目を掠めた、常の白痴めいた表情とは違う、思えば初めて見る引き締まった横顔に、気を逸らしかけて、
「直斗ォッ!!」
絶叫が弾けて、後方にぼんやりと流れ始めていた意識が前へと引き戻される。
降って湧いた希望の声を正気を保つよすがにすると、小刻みに震え始めていた右手首を叱咤して腰のポーチをまさぐり、手掛かりを掴むとすぐさまに。
――――二本目、予想薬効限界:“限界が来たとき”
湧き上がるエンドルフィンに陶然とする脳幹部。
頭蓋の中身が倍に膨れ上がるような猛烈な多幸感。
俺は大丈夫だもっと行けるもっと走れる全身の細胞が熱い筋肉がはち切れそうに叫んでいる加速しろ限界を超えたその先へ――――。
自己暗示が半ば無意識の内に図られると、明度が低下していた視界が再び赤緑の二色に塗り分けられ、遠くに感じていた鮮やかな快楽の海が、自分の周りに戻ってきた。
――――行ける。
そう思ったときには既に、投げ渡された鞘込めの相棒は、再び手中に収まっていた。
星の巡りが良かったのか、それともそれを読んでいたのか、不思議とちゃっかり生き残り、俺との合流も果たしている言霊部部長、京極彦一と並走し、俺を挟み込む形で、英雄もまた隣りを過ぎ去ってゆく。
もはや、何を語らうべきも無し。
残る数人も続いていった。 今、視線をくれたのは確か、仲村、トオルとか、そんな名前だったか。
すぐに前方に目を戻す。
そう、この瞬間に限って言えば。
今、刻々と減じてゆく、貴重な薬効の持続時間をふいにしてでも、このまなこで射止める続けるべきは、他に居た。
あの鬱屈した優男がどんな思惑で俺に接触してきたかだとか、そういう前後の状況を抜きにしても、少しでも多くの“張り”が俺には必要だったこと。 それは事実だった。
自分の分の他にもう一つ、そしてまたもう一つ、誰かの人生を背負っている、そんな義務感ともいうべき“張り”。
それがなければ恐らくは、この選択はできなかっただろう。
たとえば、指定の戦場外に押し出せば、押し出された奴は武道脱落、失格となるのだから、上手く百代をそのあたりの措置に誘導して落とし込もうとか。
大真面目に、そんな卑怯を、現実を正視しない、何の解決にも繋がらない方法を吟味していたかもしれない。
逃げる道を、塞いでくれた男。
救われようと藻掻き続け、果てに悪性の泥に呑まれかけつつある男。
それが、今の矢車直斗にとって、葵冬馬という人間の全てだった。
自分を救うのはいつだって自分だ。 それは解っている。 だから救うのではなく、掬うと誓った。
救済のスタート地点。 踏み出すべき一線の前までは、引っ張り上げてやると。
それぐらいの贔屓は、許されたっていいだろう?
桐山鯉に聞いた、この男の身の上話は、この男が耐えてきた過去は、それだけの地獄だったのだから。
*
冬馬はゆっくりと瞬きした。
何度瞬きしても、目に映る光景は変わらない。
チャンネルが切り替わらない。 当たり前だった。 今、自分は丹沢の山中に居るのだった。
コントロールパネルを撫でて映像を切り替える。 いつもならそうだ。
チャイルドパレスの最上階。 革張りのソファーからモニターを眺め、人の営みというもの、たとえば風間ファミリーの奮闘の眩さに目を細め、所詮は幻想、所詮はおためごかしと冷笑して顔を背けて、視聴を打ち切る。
幾度繰り返したかわからないルーティン・ワークだった。
それが、今は許されない。 まざまざと見せ付けられていた。
これは幻想なんかじゃない。 これは間違いなんかじゃない。 現実だ。
それでも、頭のどこかで、こんなもの、本当であってたまるか、という声がする。 だって、ありえないじゃないか?
半身が引き千切られるような過去の痛みを身の内にとどめながら。
人間の醜さの権化、冬馬が街中に撒き散らそうとした“瘴気”を自ら首筋に打ち込み、快楽と苦痛の板挟みに心と体を乱しに乱しながら。
それでも、不完全であっても、人の善性は確かに、誰にでも在り、その誠実は尊く美しいのだと謳う。
今更、こんな阿呆が出てくるなんて。
取り返しのつかなくなるまで、自分を痛めつけることになっても、こちらに手を差し伸ばしてくるなんて。
こんな、真っ直ぐに自分と向き合ってくれる人間が目の前に現れるなんて、想像したこともなかったんだから。
「若。 俺、行くよ。 もう、俺は諦めたくないんだ。 ――――これ以上、背中を丸めて生きたくないんだよ」
隣りの幼馴染は、膝に固い拳を叩きつけ、開戦からの数時間の中で貯まり続けていたらしい鬱積をぶちまけていた。
あるいは冬馬と出会ってから、過去十数年分の鬱積が詰まっているかもしれないその拳は、鈍い音と共に両膝の萎えを叱り飛ばし、震えを止めさせた。
「もしかしたら、あいつに端から勝算なんて無いのかもしれない。 ……でもな、俺はずっと、しょうがないって言葉で自分を諦めさせてた。 何よりも許せないのは、若、俺は、アンタのことを諦めてたんだよ。 一番近くに居たのに、一番声を聞いていたのに、なのに、俺は、ただの腰巾着以上にもなれなかった。 悔しいんだよ。 アンタのことを一番理解してたつもりなのに、一番最初に見捨ててたのも俺だったんだよ。 今、やっと解った。 ――――本当に、腹が立つんだよなッ、ぽっと出の、あんな訳解んない奴にッ、訳知り顔で“先を越された”ってことがッ、“命を懸けられた”ってことがッ! どうしてもッ!!」
こちらに向いていた目を切って、俯いて、再び顔を上げた時、井上準は今まで冬馬が見たことのない表情を浮かべていて。
来るなら、来い。 今まで冬馬が聞いた事のない言葉を、その懸命な顔全体から立ち昇らせていて。
畜生、覚えてろよッ、と直斗に向かって吼えた途端、出口へと、突進していった。
それでも、冬馬はその場に突っ立っているままだった。
恥ずかしくて、情けなかった。
消えてなくなりたい気分だった。
上手く呼吸ができずに苦しかった。
排尿を我慢するときのように、下腹部がキリキリ痛んで仕方なかった。
本当は解っていた。
学校で擦れ違う英雄やあずみ、直江大和、風間翔一とその一党、面識の無い他の生徒達の顔を見るときにすら、喩えようのない息苦しさを感じるのは何故なのか。
帰宅途中、駅前で、いかにもこれから塾に行きます、たくさん勉強して期待に応えてみせますと、バックパックを背負った子供たちが自分の行く手を通り過ぎてゆく。
直視できず、感じる必要のない筈の引け目を感じて、目を逸らしてみたり、開き直りの藪睨みをしてみたり。
まるでその中に昔の自分が居て、見咎められるのを恐れるように。
数日前、あの大ホールで直斗と対峙した時もそうだった。
彼の目を碌に見返すことが出来なかった。
こいつは生きているが、自分は死んでいると、理屈抜きにそう感じた。
だけど、今の自分は――――、
――――シャキンッ、と。
全てが解き放たれる音がした。
世界が生まれ変わり、己という基点から、あまねく全てが始まってゆくことを知らせる号砲だ。
その瞬間、無意識に、今までの躊躇いが嘘だったかのように、冬馬は地面を蹴っていた。
乾き切っていた筈の目から、涙が滂沱と溢れ出る。
気づけば口はぽっかり開いていて。 自分は何かを叫んでいるらしい。
まるで自分の周りだけ酸素が濃いんじゃないか、そんな想像すらさせるほど、瑞々しく清澄な空気が、つっかえ気味の呼吸がなされるたびに気管を通り過ぎていった。
前を見れば、既に直斗は背を向けていて。
直前の視線をまともに受け止められなかった後悔と、ならば次の機会までに目の色を変えさせてやろうとする意地が、心の何処に隠れていたのか知れぬ生の感情が、次々と励起され。
直斗の手前には、女王蜂を屠り終えたか取り逃がしたかしたらしい紅の狩人と、好敵手の無念を晴らすべくして奮い立つ金の騎士が、各々の得物を手に、走り寄ってきていて。
その両方を迎え撃つために、直斗はまた再び上段の構えに移っていった。
砂塵にくすんだ背中の“誠”に、抜き身の刃の銀光がゆるりと添えられ、今一度と渾身の太刀が繰り出されたその瞬間。
葵冬馬はようやく、檻の中から抜け出した。
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毎度のようにお待たせして申し訳ありません。
思えば前回更新が東京五輪も決まっていない時期とか……。難産でした、ハイ。
ご意見ご感想、心よりお待ち申し上げております。
またこれまでご感想を頂いた方にはレスもお返ししているので、その方も是非感想板へお立ち寄りください。
鉄心さんを明治生まれに設定したのは、まじこいSで日清戦争のとき百代ぐらいの歳って言ってたからです。
そんな記憶が、確か……。 間違ってたらごめんなさい。
この頃はヤングジャンプが毎週楽しみすぎて辛い。
東京喰種アニメ化オメ。深夜枠だろうけど公共の電波でカニバリズムにどれだけ肉薄できるか見物。
個人的にカグネのウネウネ感も気になる。
テラフォは武器見せ回が続いてますね。ジョセフはよ。
あとブレイドで連載されてた村正魔界編完結しましたね。 最終巻出たら纏めて全巻買うつもり。
“続”ってなんやねん“続”って、と興奮した一ヶ月前であります。
……あの主人公の中の人が某恋愛SLGで「大将ッ」とか、言っちゃってる衝撃的事実を最近知った。
ぐだぐだ管巻いてすみません。 それではまた、次回の更新で。