『エヴァ、ワック、エンリケ、サンドラ、フリッツ、アントニオ、レイシェル、ジョハン、ミラピクス。 ――――必ず……っ、必ず助ける……!!』
―――アドルフ・ラインハルト(漫画「テラフォーマーズ」第三十三話「THUNDER STORM 第五班の雷電」より)
――難しいことは知らねーが、こんな赤の他人を大勢巻き込んだ戦争なんざ、絶対間違ってるに決まってんだろ!?
――俺は大和を信じる!! 考えるのは大和の仕事だし、ダチだからな。 だから俺は、迷わねェッ!! 後悔もしねェッ!!
大事なものを一度も失ったこともないような輩が。 女を好くということの本質も意味も知らぬ輩が。
どれだけ、直斗がこの戦いに心を砕いているか知らぬお前が。
どれだけ、直斗がお前たちを観察してきて、身を切るような痛みに耐えてきたのかを知らぬ、他でもないお前達が。
直斗に対して何をほざく? 何故、そうまで爽やかに、直斗の非のみを謳い上げられるのか?
……ああ、答えは判り切っている。
真実を知らないということは、ときに幸福であり、ときに罪悪でもあるのだと思い知る。
少し前までの自分も実際そうだったのだと、曇りなく爛々と光っていた風間翔一の瞳を眺めて、改めて気づかされた英雄だった。
あの鈍ら刀に篭められた重さも。 装束に縫い付けられた誠の一文字に潜む因縁も。 そのどちらも、この男は知らない。
そして英雄にとっては何より遣る瀬無いことに、直斗に言わせれば、知ってはならない立場にいる一人だった。
――期待を、裏切ってはこないか。
がらんどうの洞を吹き抜ける風のような声は、今も耳に残っていた。
開戦直後、寝返りの姦計を目前にして漏れた、あの虚ろな響きを聴かせてやりたかった。
あのときの、ドライアイスのように冷たく乾いた微笑みを、直視させてやりたかった。
そして、問い質したかった。
“こんな優しい戦争が何処に在るのか”と。
何処に殺意があるというのだ? 何処に心を引き裂くような痛みがあるというのだ?
傷ついた者は総て、速やかに隔離され慰安され、そうしてただの傍観者となることを許される。
擦り傷ひとつ分の対価で、目の前のアトラクションを無責任に眺められる立場を与えられる。
“その優しさを膳立てしたのは誰か、わかっているのか”と。
そもそも、全存在を懸けて戦っているものは、孤独を気取った、ただ一人だけだというのに。
本当の戦場を、英雄は知っていた。
爆風で手足をもぎ取られ、壊れたマネキンのように転がっていた彼らを、英雄は知っていた。
最後まで主の盾として命を全うし、目の前で瞬く間に殉職した従者たちの姿を。 母性に抱かれて嗅いだ、あの焦げた髪の香を。 捨て鉢に命を放り投げかけた己を叱咤した、あの埃だらけの肩を。 一生忘れないと英雄は思う。
……息子は、いま、いつ果てるとも知れぬ闘争に身を置き続けたままだ。
――難しいことは知らねーが、こんな大勢の赤の他人を巻き込んだ戦争なんざ、絶対間違ってるに決まってんだろ!?
――俺は大和を信じる!! 考えるのは大和の仕事だし、ダチだからな。 だから俺は迷わねェッ!! 後悔もしねェッ!!
それは自分も直斗に対して抱くものと同じと感じながらも、それと全く矛盾する別の感慨が湧き上がってくるのも事実だった。
風間翔一が言ったそういう“割り切り”が、この事態を引き起こしたのではないかと。
自分がやらなくてはならないことに、他人の適不適、自分の得手不得手を持ち込む、その姿勢こそが、この戦いの根源にあり、それを打破するために直斗は戦っているのだと。
苦悩が無いことを、人は苦悩すべきだ。
後悔が無いことを、人は後悔すべきだ。
間違っているという意識を、人は間違わずにいるべきだ。
そんなふうにも、彼、九鬼英雄は考える。
もう、球児として、アメリカンドリームは掴めない。
“才”はあるのだからと、“覚悟”を二の次にした慢心から、利き肩を失った。 以来、やるかたなく商才を磨くこととなった。
挫折に一度膝を折ってしまえば、人間はどこまでも自分に甘くなることを知った。
矢車夫妻と別れ、直斗に許しを請うまでの自分も、今にして思えば、ただ逃げていただけとよくわかる。
これだけ辛いのだから、これだけ頑張ってきたのだから、だから楽になってもいいだろう、と。
功と賞、罪と罰、理論と実践、過程と結果、努力と実力。
それらは対になっていたとしても、関係が深かったとしても、一方の出来が他方の出来と、いつもそのまま比例の関係にあるわけではない。
最小の努力で最大の結果を得る輩もいて、その逆もある。 悲しくも、川神姉妹がその好例だ。
これだけのことをしたのだから、これだけ自分が悪いと思って謝っているのだから許してください、などというのは、無論大事なことだが、勝手な自己満足である面もある。
……ただひとつ、万人に共通しているのは、それでも、“やってみるまでは判らない”ということだけ。
全力を出して、出来ないことがあるかもしれない。
何もせずに、今までどうしても不可能だったことを達成してしまうかもしれない。
それが人生や世の中というものの真実で、理不尽なところで、面白いところだ。
いま、九鬼英雄が考えていること。
泣き尽くし、
悩み尽くし、
狂い尽くし、
苦しみ尽くし、
足掻き尽くし、
藻掻き尽くし、
そうしてなお、固く絞り上げた誓いを貫きたいとする友人が今、とてつもなく巨大で堅牢な壁に、捨て身の体当たりを仕掛け続けている。
それを助けたい。
これは真実で、曲げようがない。
助けられるか? 救い上げることが、果たしてできるのか?
それは判らないが、大切なのは、助けようとする意思と意志、そして救うためにしている行動だ。
自分が一人足止めすれば、少なくともその一人分に割く体力と気力を、直斗は“最も向けなければならない者たち”に費やすことが出来る。
自分が、冬馬を直斗のもとに送り届ければ。
自分が、あの、他人に頼ることを極力も極力に避けたい男が、ついに懸けてくれた期待に応えることができれば。
自分の行動で、僅かでも、直斗が支払う犠牲が回避されるのなら。
それで十分という事は決して、誓って、金輪際、絶対に無いけれど。
だがしかし、彼に対し、それが自分にできる精一杯かつ唯一の行為ならば。
――――――最後まで、果たし抜かんわけにはいかんだろうッ?
そう。 もし後悔が無ければ、いま、この場面で、すっくと佇立し得ている筈がなかった。
風間との最後の拳の交錯の後、きっと自分は干からびた蛙のように、情けなく地べたに倒れ伏したままだった筈だ。
気持ちよく暴れられた、そんな手前勝手な自己満足に浸って。
もし、あのとき、震える足腰を叱咤できていたら。
もし、あのとき、矢車夫妻の背も肩も借りずに、ビルの崩落から逃れられていたなら。
もし、あの事件のとき、自分の足で窮地を脱していたなら。 もし、自分が、脱出の足を引っ張っていなかったなら。
そうして彼の、どちらか片方の親でも健在だったなら。
直斗は、もっと違う、もっと今より報われ甲斐のある人生を、生きてこられたのではなかったか?
――――――そんな悔悟がなければ。
悩ましくて、悔しくて、悲しくて、自分という自分が憎らしくて。
それを原動力として、観覧車での一件以降、五体を鍛え抜くということもしなかっただろうし、
「これしきで、王たる我がッ、挫けるわけなかろうが戯けェッ!」
この啖呵を切ることもできなかった筈だ。
後悔を抱き続けることこそ、いつだって不透明な未来への、唯一無二の対処法だ。
自分の人生で最強の日がこれまでにあったのだとしたら、間違いなく今日、西暦二〇〇九年、八月三十一日がそうだろう。
過去、まだ強くなかった時代の自分より、今の方が多く悩んでいる。 迷っている。 分からずにいる。
だからこそ生きている意味があると、英雄は、苦しむことから逃げることをやめた。
……こんな独白を、いま、誰かが聞く必要はない。
いつか九鬼の次々代を担い、自分の全てを託そうと思える人物が現れたなら、そのときには話すやもしれん。
だがそのときは間違いなく、いま、ではない。 それは確かで。
直斗が、過去を開示することを決して許さないことも、また間違いのないことだ。
だから、言える事は、ただの一つきりの、歴然とした事実のみ。
「我とお前ではッ、九鬼英雄と風間翔一ではなッ」
――矢車直斗と直江大和では。
その句は胸中でのみ滾らせて、つい今しがた、己が自身の拳で下して昏倒せしめ、地面に身を投げ出した赤頭巾に叫びかけた。
「潜ってきた修羅場が違うのだぁああああああッ!!!」
その大喝は、どこまでも。
その両脚は、留まることを忘れたかのように、戦場を駆け渡る。
左右に首を廻し、冬馬の片腕を引っ掴み、半ば引き摺るように先導し、向かい来る次なる敵を見定める英雄の眼光は、猛り狂う獅子のそれだった。
<手には鈍ら-Namakura- 第四十六話:膳立>
少女は、姉を追うために生まれてきた。
きっと、名も顔も知らぬ母親の胎内にいたときから、少女は姉を夢に見ていた筈だ。
こんなにも惹かれるのだから。 こんなにも焦がれるのだから。
きっと、出会う前から、血縁すら超えうる何かしがの宿世が、姉との間にあったに違いない。 だから、本当の家族にもなれたのだ。
姉は、尽きる事のない憧れだ。
だから、やがて少女が、姉と同じものを求めるのは必然だ。
それは、お揃いの髪型を目指して頭髪を伸ばそうと決め、怒られると半ば自覚しながら、赤毛のアンよろしく黒く毛を染め抜いたときのように。
行けるかもしれない、という想いこそが、少女を見果てぬ場所へと駆り立てる。
同じ景色を見たい、その景色の中に自分も入りたい、という願いこそが、少女を姉の傍らへと追い立てる。
だから少女は、その武道に入る。
お小遣いを貯めて、内緒で仕立ててもらった道着を纏って、祖父に直談判。
健康教室に毛の生えた程度の修行など物足りず、戦士としての指導を請い願う。
渋々といった風情で行われた厳しい入門試験を、持ち前のド根性をいかんなく発揮して、ギリギリで突破する。
……あはは、実はアタシ、才能があるのかも。
筋肉痛が抜けた、その次の次の日。 夏休みの前日だったことでよく覚えている。
合格祝いに貰った、些か身の丈に合わない薙刀をなんとか両手で支えて、洗面台の前でいっちょ前のポーズを取る。
ゾウはおろか、シロナガスクジラが踏んでも壊れないほどの靭性を持つという得物は、自分が何倍も大きく、強くなったように見せてくれた。
明日からは学校も休みだ。
毎日、毎日、この相棒を振り回す日々だ。
やってやる。 やってやる。 やってやる。
休みが終わる頃には、自分より先に習い始めた門下生の誰よりも上手くなって強くなって、みんなの度肝を抜いてやるんだ。
次の日が待ちきれない。
その夜。 何度も何度もラジオの天気予報を確認する。
地図を広げ、頭の中で朝の走りこみのシュミレーション。
読みこまれてボロボロになったお古の教書を、もう一度だけと復習する。
脇にあるのは月刊死合マガジンのカラーグラビア。 そこに映る姉の険しい顔を眺めて、眠りについた布団のなかでも、夢は翌日の修練の風景。
……最初はもちろん、何事も上手くいかない。
前日に、まあ、流石にいきなり“オーギをキワめる”なんてのは無理かな、と。
ちょっと現実を見たつもりで、それでもこれくらいは出来るだろうと決めてかかっていたことの、十分の一も、出来ない。
そんな本当の現実の前に、膝を折る。
体のあちこちが痛む。
下手をすれば、修行初日で救護院行き。 絶対安静何週間、なんていうケースもある。
のろのろと夕食を終え、とぼとぼと自室に戻る。
何も言うまいとする祖父や師範代、姉の心遣いが、小さな胸を締めつける。
なんて、不甲斐ないんだろう。
その日だけで相当に傷ついた薙刀に油を差し、壁に立てかける。
そして頭から布団を被って眠る。 紛う事なき、不貞寝だった。
……さあ、翌朝こそが、少女と武道をわかつ最初の分岐であり、最大の関門だ。
起き抜け一番、嫌でも目に留まる傷だらけの薙刀、皺だらけの道着、涎のかかった死合マガジンを頑固に無視して、友達付き合いに熱中するか。
それとも、やはり相棒を脇に抱えて外の稽古場へ裸足で駆け下りてゆくか。
――少女は、兎跳びのまま、友と遊ぶ道を選んだ。
気が遠くなるほど繰り返される型の練習。
石畳の階段を駆け登り、指定された猶予より少しでも遅れたなら、薙刀を抱えて駆け戻り、また駆け登り。
切れ切れになる息、膝小僧の小さな怪我、そして時には大きな怪我。
「昨日よりも深く、高い速度の世界へ入ってゆくため、そのための新しい筋肉ができているっていう証明なんダ」
……師範代からそう刷り込まれながら耐えるしかない、夜ごと苛む筋肉痛、腕の攣り、足の攣り。
汗も涙も血も反吐も、体内から外へ流すものは全て、普通の三倍は流した。 そんな自負だけが募ってゆく。
先輩たちから与えられる助言の山は、才の未熟な少女にとっては、大抵矛盾し相反していると感じられるため、なかなか自分のものにはしにくい。 直属の師範代のものとて、その例外ではなかった。
素直にそのまま彼女の糧となるものは、姉の笑顔と、友の眼差しと、養護施設からの手紙の数々だ。
夕暮れ、走りこみ途中で仲良しグループに遭う。
曇り顔の兄貴分のお小言。
次のテストがヤバいと、次の次のテストがヤバくなくても中学なのに進級がヤバい。 イコール、みんなと同じ学校の受験もヤバい。 という危機。
仕方なく畳に座り、机に向かう。
問題集の一ページも終わらないうちに、睡魔が瞼を引っ張り下ろしにくる。
うつらうつらとしていくうちに、夢のなかでも夕日に向かって姉と走りこみ――。
『俺ァな、ワン子。 「報われなかったのは、頑張りが足りなかったから」っつー考え方に納得がいかねーんだよ。 才能や実力の底が見えてる人間に、到底たどりつけない目標をくれたまんま頑張らせるってのはな、そいつの人生を不幸にするもんだって、俺ァ思うのよ。 ルーの奴は、自分が運良くできたから、他の奴もできるだろうって変な勘違いしてるがよ。 ガリ勉の優等生気取ってたって、才能が飛び抜けてねーことも無かったってのは、爺様だって認めてんだよ。 ヒヒッ、まあ、もっと凄いのが俺なワケだが。 ……お前の修行が全くの無駄だって言いたいワケじゃねぇんだ。 ただよ、それよりもっと向いてるコトがあるかもしれなくて、見切りを着けるのは早いほうがよくて、報われなかったからって、絶望する必要はねーって話だ。 お前がマジで自分に向き合ってりゃわかってることだろうが、百代にとっちゃ武道は娯楽で、お前にとっちゃ武道は苦行だ。 そんでな、老い先が長かろうが短かろうが、人生ってのは結局、愉しんだもん勝ちなんだよ』
…………誰もが最初から、窮まっているわけではない。
その多くは、地上から固く絞り込まれて、濃縮され、遥か高みにまでようやく達する階梯に、日々に流す汗と、血の匂いと、涙が乾いた跡と、院のおみくじで何十回か連続で大吉を引けるくらいの幸運を、嫌になるほど染みつかせて、そして時には足元を崩され、また地面に叩き落とされながらも、一段、また一段、そしてもう一段と、昇っていかねばならないのだ。
少なくとも少女は、そういう泥臭いことを、だれよりも多くこなさなければならない類の人間だった。
そう自覚せざるをえない日々を耐え抜いてきて、実際、まだその真っ只中に居る。
更に言えば、世に渡る武闘の諸流諸派の中で、こと川神流に至っては、努力神話はまさしく神話でしかない。
「天才は99%の努力の上に生まれる」という言葉の本当の意味は、「人間には努力ではどうにもならない1%がある」ということだ。
……だが、“それでも”と。
歩んだ分だけ露わになる自身の凡才ぶりと数々の艱難辛苦を前にし、“それでも”と呟き続けられる性質が、彼女を院内で中堅所と呼ばれる席次にまで押し上げていた。
やがて少女は、少女でいられる道を破棄しなければならない。
初心者だからと許されてきた幾つかのルール違反も、大目に見てもらえなくなる。 人々に指を差されるようになる。
実家に参詣し、稽古や演舞を見物に来る彼ら彼女らの顔はどれも、かつて少女が顔いっぱいに貼り付けていた憧憬だ。
そろそろだな、と大人たちが言う。 おまえなら早すぎることはない、うん、いってこい、と。
相手は、アフリカ育ち、“太陽の子”ニャニャ。
サバンナで鍛えこまれた脚力が武器の、少女と何処となく特徴が似通った同世代のインファイター。
近所で行う、ちゃちな喧嘩や野良試合じゃない。
川神の名を公式に背負って立つ、正真正銘、正式な仕合を組んでくれるかもしれないのだという。
日取りはまだ調整中デ、場合によっては一年以上待たされるかもしれないガ、それまで精進しなさイ――。
“彼”が、久方ぶりの新弟子として川神院に入門してきたのは、そんな頃だ。
この頃は、前述した他流仕合が発表されたこともあって、多少、少女は気が大きくなっていた。
入門直後の彼との仕合に圧勝したことも相まって、姉の気分というのはこういうものなのか、などと得意げになり、慣れない先輩風を吹かせて彼に余計な世話を焼いたことも、最初の数ヶ月はしばしばだった。
というか、そういう真似が続けられるくらいに、彼、矢車直斗が、それだけの好漢ぶりを発揮していたこともあるだろう。 何者をも邪険にあしらわず、見せる笑顔はいつでも、秋空のように濁りなく涼しかった。
……初めて土をつけられたのは、正月の三箇日が過ぎた、年明けの稽古始めのとき。
ルー師範代と姉が吉例の型を演じてみせ、一瞬の対応を誤れば骨を砕かれかねないほどの、川神拳士の誰もが息を呑む迫真の技の出し合いに、やおら興奮が冷めやまなかった少女は、お屠蘇代わりに一献した川神水の勢いもあって、境内の裏手にある修練場に彼を誘った。
北陸の方に一時研修に行って、しばらく手合わせを休んでいた彼の成果を確認したかったこともある。 ……正直に言えば、誰かより自分のほうが強い、ということを示して、正月気分をより気持ちよく味わいたかった部分もあった。
そうして、忘れもしない一本勝負。 木刀を撥ね飛ばし、武装を解除させたところで少女に生まれた余裕。 そこから見事に意表を突いた柔技による逆転劇。 最後は組み技で足を固められて、渋々ながら降参して終えた筈だ。
必殺と息巻きながらの“大車輪”を外した、あの時の気恥ずかしさったら、もうない。
寝技のような、男女の体力差を利用できる典型的な局面に持ち込まれれば、そのときの少女に為す術はなかった。
だが、それでも相手は入門して半年余りの新入りも新入りである。 加えて無論、筋力の量や質ではなく、内勁で関節に働くトルクを増大し、より滑らかに五体を駆動させることこそを武の真髄とする川神流においては、性別の違いが強者弱者を隔てるものではないとされる。 それを議論すること自体、馬鹿馬鹿しいとされる風潮であった。 特に、姉が生まれてからはそうなのだろう。
つまりは、己の身に積んだ“技量”は直斗より幾許か高いものと自負できるものの、もともとの“素養”というものを上乗せすれば、もはや必ずしも同じ結果に至るわけではないのだと、明確に示された一戦だった。
息も絶え絶え、拾い上げてすぐ、自分でもどうかと思うくらいの動揺から、再度ぽとりと愛用の薙刀を取り落としてしまった自分に、すみません、と追い討ちのように声がかけられる。
悪戯っ子が浮かべるような微笑を見て、武士の情けも無いものかと、このときばかりは彼の言葉に身勝手な苦々しさを感じたものだったが。
――俺も良い所、見せたかったですから。
そう言われて、少女の背後が暗に視線で示され振り返れば、いつからか、ほろ酔いの姉が、柱にもたれながら縁側の床に立っていたのだ。
長寿の象徴として尊ばれる白鶴に、百花の王と讃えられる花牡丹、幾多の試練を乗り越え雄々しく茂る松など。 四季を飾る麗しい花々を描き上げられた絢爛な和装を身に纏っていた。
おう、と手元の盃が掲げられ、慎ましげに呷られる川神水。
衣擦れの音、微かに紅潮する肌、ほどよく紅が差された唇、悩ましげに動く喉、陶酔の色を隠さない二つの瞳。
一服後の艶かしい吐息を吹かしながら上座に立ち続ける姉を、改めて下座たる庭の土から、ぼうっと眺める。 平均女性に比べればそれなりの高身長であることも相まって、どこかのファッションショーの一場面を切り取ってきたかのような、ため息がつかれるばかりの華やかさ。 同性としても、見惚れぬ者は皆無であると断言できる。
巫女として境内で働かなければならない特殊な家柄上、川神姉妹、ひいては風間ファミリーにとっては一月四日からが正月本番であった。
姉に比べれば馬子にも衣装レベルだろうとも、自分も早いところ同じく着替えて、院の正門で待つことだろうキャップ達のところに行かなければなと、我に帰ってもう一度、彼のほうに向き直る。
俯くように姉と少女に礼を返し、背筋を立て直して、踵を返して去ってゆく後ろ姿。
垣間見えた穏やかな横顔には、僅かながらに朱が足され。 口元から漏れる白い吐息が、ことさらに映えていた――――。
*
それが、今はどうしたことだろう。
目の前の男の全貌に、悲嘆とも同情とも悔悟とも言いがたい、恐らくはその全てが綯い交ぜになった感情が、川神一子の胸を満たしていた。
脱水で乾き切り、血の気が失せ始めた肌は白蝋の如く青褪め、膝は軋み、足は震え。
襤褸布となりつつある羽織の蒼穹は、砂塵にくすみ。 幾多もの斬突との肉薄に、腹部から覗くサラシは擦れにも擦れ。
空手のまま、だらりとぶら下げられた片方の腕は、もう肩より上には持ち上がらない筈だ。
あれは自分が為した業だ。 自分が“顎”で負わせた傷だ。 あの左肩の脱臼は、矢車直斗の最も重篤な消耗として、他でもない自分が刻んだものだ。
同門同士の一騎打ちは、既に“仕合”ではなく、一子にとって甚だ遺憾なことに、“私刑”の様相を呈し始めていた。
万全の状態で、隙の無い一撃離脱戦法を散発して繰り返す一子に対して、同所に留まり、受けの一手で尚も凌ぎ続ける男の末路を見届けようと、二人を取り囲む誰も彼もが、注意をこちらに向けていた。
鼻息荒く上体を震わせ、受身に一歩退歩するだけでも足を縺れかける直斗には、もはや軽捷な剣の套路など見る影も無い。
だが、そぞろ哀れを催す風体なれど、酷使を重ねられた彼の右腕は、剣を青眼に置くことを止めようとはしなかった。
まるで自ら百舌鳥の早贄にあやかることを望むように、貝のようにぴったりと口を閉ざして、迫る全てを受け入れるように、その都度に剣訣を結び、姉弟子が繰り出す苛烈な攻めを耐え抜いていた。
驚くべきことに、この状況にあっても、彼の意識は、目の前にいる一子ひとりに絞られたわけでもない様子だった。
最も近い敵手に段平の切っ先を向けながらも、絶えず首を廻し、疲弊も露わな表情で索敵を怠らずにいる。 あらぬ所からの襲撃に備えている。
獲物を求めて彷徨う餓狼というより、天敵たる猛禽と牙獣の両方の気配に気づいた小動物のような、外界の全てを警戒し切る挙措だった。
自分がまともに相手にされていないようで、それが悔しくて、そう感じてしまう自分が、一子は堪らなく情けなくて、嫌だった。
「…………どうしてよ」
直斗と同じく、ロダンの彫像のように固く閉ざした筈の自分の口から漏れ出でた、震える声。
決着まで何も言うまいと、その心算で感情を留めていた内なる堤は、ついに決壊の目をみる。
動くどころか立っていることさえ、何かの間違いとしか思えない。
そんな消耗し切った彼を、更に打ち据え倒すべく、歴戦を共にした薙刀を構える一子の顔は、一目に判るほど苦痛に歪んでいた。
「何とか言いなさいよッ……!」
ぴくりと相手の肩が震え、一組の目が揃ってすっと細まったような気がしたが、それきりだった。
なんの反撃を受けたわけでもなかった。
なんの言葉を発されたわけでもなかった。
それでも、自分が一撃を打ち入れるたびに痛んでゆく、この胸の奥底にあるものは何なのか?
もう、終わりにしたい。 早く、早く倒れて欲しい。
その一心で得物を振るいに振るい、こちらが紡ぎ出した武技の全ては余さず必殺を期している。
だがそれを阻む、無造作に振られるように見えてその実、絶妙な運剣で決着を拒み続ける鈍らが、憎らしくて憎らしくてしょうがなかった。
――――今回はアタシ、お姉様の妹ってことじゃなくて、直斗くんの姉弟子って感じで、戦おうと思うのっ。
英雄によるラジオジャックが行われた際に兄貴分達に伝えた、この決意は少しも揺らいではいない。
だからこそ、彼に援護が期待できないように、一子も自らの援護を断っていた。 大和にも京にも、ここからの手出しは無用ときつく言い含めておいたのは、誰あろう川神一子自身だった。
身内の不始末を片付ける。 誰にも言えない事だけれど、その事後処理を買って出たことに、ある種の誇らしさがあった。
自分も、栄えある川神院の一員なのだと、そう示せる機会だったから。
それに、他のファミリーの面子と比べて、危機意識が希薄だったのかもしれない。
矢車直斗は、きっと、誰もが納得するような理由で対峙していて、誰もが最後には笑い合えるような素敵な顛末を用意しているものだと、心の底で決め付けていた節があった。 祖父や師範代が直斗の行動を半ば黙認していることもあったし、好みの女を奪うとか、そういう、ひどく我儘で即物的な目的は、そもそも彼にはそぐわない。 生活を共にした日々は決して長いものではないけれど、そう確信できるだけの無償の信頼が、自分と彼との間に生まれているものと感じていた。 過程は知るよしもないが、自分と同じく実の家族を失っていながら、それでも走り込みの最中、道端に止まる霊柩車を見れば、無意識に親指を隠すようなところを一子は知っている。 真の実力が隠されていたことも含め、どれだけその正体が不透明であっても、その良識や優しさが、形だけのものではないことを、彼の近くで共に鍛錬を積んできた一子は知っている。 ……由紀江と同じく、直斗に希望を持ち続けていたのである。
だから、ひとたび得物を合わせれば、たちどころに相手と自分の意志がつぶさに通じ合って分かり合う、そんな漫画みたいな奇跡を、夢に描いていたのかもしれない。
……しかし、心滴拳聴の域に達するほどの才と練を、両者とも持ち合わせていない。 今のところ、それがこの対決で判じられる全てだった。
この場を御膳立てする交換条件として、大和から受けた作戦とはいえ、初手に背後からの騙し討ちを敢行した自分に、心を開く筈はない。
今更ながらにそのことを自覚した一子が、直斗のために、自身を苛み続けるもどかしさを解決するためにできることは、せめて自らの手で大戦の幕を速やかに下ろすこと。 それ以外に道は無い。
真実の追求であれ、和解の道の模索であれ、全てはそこから始めればいい。 それは、わかっている。
「何とか言いなさいよ!! ここまで来たんだから……こうなっちゃったんだからッ、もう恥ずかしく思えることなんか何も無いでしょッ!?」
だが、腹の内で打倒の決心を着けても、説得の言の葉を重ねてしまうのは、少女が少女であることの証だった。
変わらず、応答は無い。
結局、無責任に抱いた希望ほど翳りやすいものは無いということを、噛み締めるばかりだった。
「直斗くんの話なら、アタシ達、なんだって聞くわよッ!!!」
それがこのときの直斗を傷つけるに、最も効果が覿面な精神攻撃なのだと知らぬままに放った一喝は、吸血鬼に叩き込まれる銀の杭のように、過たず標的の心臓を穿ち抜いた。 ぐらりと男の体勢が傾いだのは、山間を奔る突風に煽られたせいではなかった。
一瞬頭の中が真っ白になった後、対処の術を即断したのは一子の意識ではなく、弛まぬ鍛錬によって武術に馴らされた手足だった。
我を忘れ、一挙に突貫して、兎にも角にも間合いを詰める。
使い物にならない左腕が重石となり、平衡感覚が僅かに狂っていたことも災いしたのだろう。 転倒を予防するために下に逸れた直斗の視線を避け、薙刀は上段に構えられ、死角から首元を狙い打つ。
自然、それは再び“顎”なる奥義が衆前で披露される形となった。
未完成ながら、今日この日のために研ぎに研いできた、“大車輪”を超える、一子が擁する最強の矛である。
「セァッ――――!!」
「い゛ッ――」
凝ィッと背筋を逆撫でる騒音を響かせて、薙刀と噛み合う鈍ら。
頭上への目視が間に合わない中、第六感の導きのみに頼った直斗の迎撃だった。 意地で防いだ、という表現が最も適切だろう。
だが、柄からの膂力を伝えやすい鍔元で受けられたとはいえ、片手持ち、無理な姿勢、なにより不測の事態への恐慌という三重苦が、鍔迫り合いの勘所を直斗に忘れさせていた。
あっけなく右手から打ち落とされ、振り払われる男の得物。
猛虎の下顎を模した、撥ね返しのニ撃目として、寸暇なく下段から掬い上げる薙刀の銀光。
右脇に直撃が決まり、直斗は目に見えて息を詰まらせ、尻餅をついて寝転がる無様を晒さないまでも、膝を衝いて蹲った。
取り囲む朱雀の隊員達が目にする場面は、皮肉にも、正月の決闘の再現となる。
前回は腰を崩され、引き倒されて膝関節を極められた一子である。 同じ轍を踏むまいとする用心深さは備わっていた。
近きに過ぎず、遠きに過ぎず。
相手の動きを見切るに最適な距離を保ち、足さえ払われなければ、と下半身に意識を集中させながら、依然顔を伏せたままの直斗に、一子は真っ直ぐな目を注いだ。
「直斗くんの話なら、アタシ達は、なんだってッ――」
些か遅きに失しながらも、ついに決着の刃を突きつけた一子は、もう一度、その言葉を言いかけて。
「――――――――――――ふくッ」
ぞっとするほど冷ややかに、耳に忍び込んできた、呼気の抑揚。
一子だけに聴こえた、冷笑、失笑、苦笑、憫笑、それらに類するナニカにして、決定的に異質な嗤い。
鉄面皮は崩れずとも、口元から発されたのは間違いなく直斗の情念に相違なかった。
その理解が及んだ途端、言いようのない悪寒が一子を貫いた。
一子の警戒の気配を一顧だにもしないように、突如として直斗の五体は、羽虫に一閃を浴びせる蝦蟇の舌の如く、真っ直ぐに一子の上体へと伸び上がってきた。
両腕をぶら下げながら地を蹴って、鋭さばかりを追求した浅慮も窮まる頭突きを、直斗は繰り出してきていた。
凝った技芸が含まれない分、制圧速度は増していた。 一子十八番の対空技、“鳥落とし”は間に合わない。
咄嗟に真横へ体を捌き、背を反らせながら肘を折り、柄頭を引き寄せ、一子が突き放ったのは“蠍撃ち”。
直斗の左外に回り込んだのは、左腕の不能を見込んだ上で、右腕による追撃を封じるためだ。
だが、肝臓の真上を抉る一子の一撃は、跳びかかる直斗の勢力を減衰させたものの、もとより肉斬骨断の覚悟だったろうその意志を挫く事は叶わなかった。
被打面に接する筋繊維を限界まで捻くらせながら、再び直斗の両脚が地面を踏みしめた時、その右手には薙刀の柄の先端がしかと握られていた。
一髪千鈞を引く驚愕と逡巡の瞬間。 その隙こそ、直斗の求めるものだったらしい。
微振の伝播をもって、一子の両手の強張りが確認されると、すぐさまその得物を手掛かりに強引に転進され、無手の間合いに一気に踏み込まれる。
感情の表し方を忘れたような、引き攣った薄笑いが急速に迫って、すぐに消えた。
腕力の不足を補うべくの一回転。 遠心力で加速し、威力を底上げした直斗の裏拳は、しかし寸前で虚撃となった。
素早い判断で得物を手放し、顎先への一撃を避けるそぶりをまんまと見せた一子の気勢を削いだのは、そのフェイントからの顔面への掌打である。
「ン、ぐッ――!?」
顔の下半分を覆った手は、濡れた布のようにぴたりと張り付いたまま、離れない。
合気に必要な最低限の呼吸もままならず、突然の過負荷に足は縺れ、巴に投げることも叶わなかった。
突進の勢いそのままに地面へ押し倒され、隆起を繰り返す胸の上に乱暴に跨がられ、両脚で両腕を組み固められ。
顎は直斗の右手に上方へ押し込められて、一子の見る天地が逆転した後も、その頬への緊縛の度合いは緩むことは無く、気道は塞がれたまま。
*
「どうして」と、顔面いっぱいに問い叫ぶ一子の表情が、とどめだった。
馬乗りになったまま組み敷いて、思わずその顔を見返した俺は、即答できない自分に絶望して視線を伏せ、林檎飴のような髪留めの装飾を目の逃げ場にした。
覚悟していても、し切れるものではなかった。
津波のように胸に押し寄せるだろう苦衷を想像しながらも、そうせずにはいられない衝動と感情に付き従った結果は、予測を遥かに超えて無残なものだった。
――――圧し掛かりによって相手の抵抗を封じ込み、体重を乗せた右の掌底にて敵手の顎ごと口を押さえ込み、人差し指と中指で鼻孔を塞ぐ。
窒息を狙う、明らかな禁じ手である。
いくつか自分の脳裏に浮かんだ選択肢のうち、頸部の圧迫に次ぐ残虐なものを俺は摘み取っていた。
……そうしなければ、
「貴様ァッ―――――――――!!!」
「がゲォッ!?」
そうしなければ、こういう輩がやって来ない。
そうしなければ、川神一子と俺の距離を躍起になって引き離そうとする人間を、誘き出せなかった。
来なかったら来なかったで、審判の介入という保険も掛かっているのだが、ただただ、自分に嫌気が差し、ただただ、この瞬間、自分を突き飛ばし、胸骨に皹を打ち入れた人間に感謝するばかり。
真に警戒するべき敵を履き違えていた俺にとって、激する情を包み隠さず、心のうちを吐露して挑みかかる一子は天敵中の天敵だった。
直斗くんの話なら。
……他でもない風間一家の仇敵となった俺に対して、それでも信じようとしてくれた一子の絶叫に、俺が抱いたものは、少なくとも一つは下衆の勘繰りだったのだ。
聞き違ったわけでも、単なる言い間違いや言葉の綾ですらなく、追い詰められて自己本位の思考に侵された耳が、悪意を以ってその言葉尻を捉えたに過ぎない。 状況が状況だ。 彼女に、矢車直斗への心配以外の他意は無いことも判っていた。
そう自覚してはいても、堪らず、むらと沸き上がったものは、
――――俺なら、というのなら、他の誰かなら、どうしたというのだ。
という、怨讐の念と、
――――しかし、全ての人間を等しく尊ぶのならば、それは誰も愛さないことだ。
という、真逆の達観。
渾然一体となった二つが、我が身の均衡を崩し、痛撃を齎されるに至った。
……どこまでも中途半端な自分の在り様に呆れ、疲れ、嘲笑ったのは一瞬。
死線において動揺すれば、即ち活路を見失う。 心頭滅却、鏡水の如き心で気息を整えて、初めて武術は冴えを纏う。 己の精神、己の根幹を常に揺るがされながらの戦いに、徐々に活路は狭まるばかり。 しかし彼女を退かすに、由紀江を下した奥の手は使えない。 位置を外した左肩がそれを許さない。
以上を了解していた俺が、現状を打開すべくして思いついた方法は、酸素を求めて声も無く喘ぐ少女の顔を目前にしながら無視する、という外道中の外道であり、あえて水入りの直撃を受けんとする下策中の下策だった。
全身を駆け巡る痛みは、もう許容外の感覚だ。 あまりに痛すぎて目から火が出るどころではない。 触感は断裁され、痛覚だけで眼球が燃えている。
闖入者と十歩ほど離れた地点で仰臥しながら状況を整理し、顔を傾け、涙にぼやける目の焦点を、前方で蠢く影に合わせた。
「とくと味わったか“真空雪風巻” ――――無事かッ、川神の!?」
野太い声が分け入ってきたのは、一子の気道を塞いで十秒も経たないうちだった。
てっきり源忠勝あたりが仲裁に入るものと思っていたが、同じく色黒とはいえ、いくら若く見積もっても三十台前半の男性が彼に代わっていた。
こちらの胸を穿った剛速の一撃は、その手に配された長槍からのものだった。
「それがし、助っ人として駆けつけた天神館、西方十勇士が一人、島右近と申す者。 同学年、それも同じ長物を振るう者として、これまでそちらの奮迅を拝し、胸を躍らせておりました。 ……誠に勝手ながら、今より助勢させて頂くッ」
外見は外見でしかないということらしい。 白髪と後姿だけを遠目で見られれば、自分も壮年の人物と捉えられても可笑しくない身の上であることを思い出す。
遅れて壁を擦り抜けてきた忠勝に一子の身柄が引き渡されると、親の仇とばかりの視線を投げかけられる。
「矢車と言ったな。 どれほどの蟠りや戦力差があろうが、いたいけな女子相手に、非道千万にも程があるッ。 どこまでも見下げ果てた奴よ。 剣を執れ、下郎ッ。 慈悲だ。 その性根、歪な剣ごと叩きのめしてくれるッ!」
その口上は、いつか聴いたクリスの糾弾を思い起こさせる。 見目に違わない義侠心の篤さが気合いから滲み出ていた。
槍の猛威を受けた胸が、いっそう痛むのを感じながら、受身らしい受身もとれずに転げた体を緩慢に起こしてゆく。
弾き飛ばされた鈍らの所在には、まだ意識を割かなかった。
亜脱臼した肩も、相変わらずじくじくと違和を訴えかける中、動かせない左腕の手首を、首を廻して覗き込む。
――今、何時だ?
*
「……東国武士は軟弱軟弱と、しつこいばかりに繰り返される大友の言葉も、このままでは正鵠を得ていると言わざるをえんな。 まさか、そこな手負いの男一匹に、これだけの人数を割いておいて、これほど手こずるとは。 個々人の技量の程度はどうあれ、総合力ではやはり、我が天神館に軍配が上がると見た。 ……それにしても島よ、お前にしては珍しい激高ぶりだ。 久方ぶりにお前の内なる所を垣間見た思いだが、まず落ち着け。 ふん、まったく、これでは常と役目がアベコベではないか?」
「申し開きもございませぬ、御大将。 恥ずかしくも忘我し、主君を差し置き先行したことは、それがし、後ほど如何様な処分も承りまするが。 ……この男だけは」
「どれほど強靭な堪忍袋の緒も、切れることはあるという事か。 よい、島。 俺はただ、慌てるなと言いたいだけだ。 もうそろそろ、機も熟すようだしな」
「む? 御大将、それはどういう……」
「ワタシの美技を披露する間も与えずに打ち倒そうとしたことについては、謝ってもらってもかまわんのだぞ?」
「アホッ、それやったらウチが先や、ナルシスト。 敵大将の首ィ獲ったら、報酬が倍付けになる約束、忘れてへんやろなぁ?」
「さっそく、すきをみはからっているところにわるいが、そういうことらしいから、はちや、いま、やみうちのたぐいは、みかたからのぶういんぐが、すごそうだぞ」
「…………まったく、気が削がれる。 それがしは最低限のリスクから勝利と生存を掠め取る暗殺者であって、うぬらのように五分の生死を懸けて真正面から競い合う矜持など、はなから持ち合わせてはいないのだがな。 ではせめて、後ろに控える尼子兵の一団に紛れるとしよう」
「それでも得意の火薬粘土の大方は使えるのであろう? 文句を垂れるでないわっ。 比べてこの大友は、手足をもがれておるのも同然なのだ。 炸薬の量を制限するとは、砲術も何もあったものではないわ、たわけ。 ……まあ、今回の所は特製ショットボウガンの二挺立て。 ほどほどの中火力で我慢しておいてやろう。 戦力不足は気骨で補うのが、西国武士の流儀ぞ!」
「ガッハッハッハ、その点で言えば、やはり鍛えぬいたこのボディこそが、如何なる局面にも対応しうる最高の武器よ。 オイルレスリング無双の到来だなッ!」
「……フッ。 山中の環境に配慮して手持ちの自家製の油は没収され、純度の高い植物油以外の使用許可が下りず、さきほど泣く泣くトゴで宇喜多に金を借りてまで、目当てのものを買いに一目散に山を下った男の台詞とは思えんな?」
「い、言ってくれるな島よ。 決して手元不如意であったわけではないのだが、サラダ油では粘度が足りず、唯一売れ残っていたこの市販のエクストラバージンオイルが、徳用と銘打たれていたとはいえ、あれほど高価だとは知らなかったのだ。 おかげでしばらくは、徳島の実家から送られるナルト三昧の食生活よ」
一子に肩を貸しながら後退した忠勝と入れ替わるように前へと踏み入って、戦闘態勢を整える、尋常ならざる遣い手たち。
気の抜けるような調子外れの会話を行いながらも、一分の隙も無い陣形が展開され、直斗を覆い始める。
“一輝当千”石田三郎。
“豪槍馳走”島右近。
“天下五弓”毛利元親。
“大槌銭鬼”宇喜多秀美。
“鉤爪瞬刹”尼子晴。
“魔道乱破”鉢屋壱助。
“華々大火力”大友焔。
“油浴怪人”長宗我部宗男。
胸に秘めたる京都以西の誇りゆえか、あえて東の武力の最右翼たる川神の本格的な薫陶こそ受けずにいるものの、元武道四天王にして存命する数少ない川神流の免許皆伝者たる鍋島正の子飼いであるところに違いは無い西方十勇士のうち、いずれも劣らぬ面々八人。
詳細なパーソナルこそ知る由しもない直斗だったが、その並外れた力量だけは、目前にして理解することができた。
これでよかった、こうするしか。 先の状況よりはマシの筈だ。 あのままでは心が折れていた。 ……ざわと騒いだ全身の神経を、自己暗示を重ねて必死に押し留めながら、ただでさえ満身創痍である男は独り、より注意深く敵の観察を続ける。
救わなければならない者たちが、この夏のうちに増えていた。 最後の一手はまだ弄せない。 彼らの目前でなければ意味が無い。 島なにがしの言動から推定するに、どうにか肩を入れ直したところで、“双燕”も“邪燕”も見切られるだろうことは想像に難くなかった。
何処かに抜け穴が無いか、何処かに活路を拓く端緒が結ばれていないか。 だが、見れば見るだけ、考えれば考えるだけ、目の前の難関がより堅固なものに思えてくる。
ここまで、その身に余る苦境という苦境を越えてきたさしもの直斗ですら、絶望せざるを得ない、それは荘々たる面子の揃い踏みであった。
「さて、矢車とやら。 あの川神百代を屠らんとする貴様の太刀。 業腹ではあるが、是非にも一つ、指南を賜ってやらんでもない。 とはいえ……」
勿体をつけた石田の口上に、居並ぶ戦士達の幾人かが失笑を漏らす。 これより始まる戦いが、一方的な誅戮に終わるだろう事は、誰の目にも明らかだ。 “指南を賜る”など聞いて呆れる。 もとより石田は、その傲然とした口調を隠しもしていなかった。
「いかにこの俺が世故と保身に長け、より拓けた出世街道を好むと言えど、流石に八対一とは、こちらとしても、フッ、非常に心苦しいところではある。 もとより我ら十勇士が参戦したのは、殊勝な百代の舎弟に平に乞われたからでもあるが、貴様ら川神学園を筆頭とする、東のモノノフ共に、己が武勇を示すため。 我が天神館こそ、同じ御三家とされる川神と竜鳴館すら凌いで余りある、天下第一の学府であると世に号すため。 お誂え向けに、テレビも新聞屋も来ているとのことだしな。 抜かりなくこちらの広告塔も解説席に捻じ込んだわけよ。 まさに今、この場は西方十勇士の檜舞台に他ならんっ」
上空を飛行する川神TVのロゴが入ったヘリを一瞥をくれながら語る石田は、確かに現在、誰の耳目も集めた主役であった。
「話を戻すが、……まあ、これだけの人数を割いて攻めかかりながら貴様一人に勝負を決め切られずにいる雑兵共の無様を見れば、このまま刃を交えても、我が十勇士の精強さは十分に市井に魅せつけられるとは思うが、な。 こちらとしても、少しばかりは歯応えが欲しいものだ。 この舞台を用意してくれた返礼もせねばならんし、よってだ。 祭りの最後の華として、そちらのささやかな戦力の集中を許そうではないか」
ここまでの展開は、直斗にとって予想の埒外であることに変わりはなかったが、それは朱雀軍を束ねる大和にとっても同じことだった。 わざわざ遥か遠方の、それも川神学園に対し一方的な敵愾心とも言うべき対抗意識を抱く天神館高校の精鋭に大和が召集を掛けたのは、この戦いの“後”を見据えた上での行動であった。
南条・M・虎子を代表とする現生徒会の面々から話を引き出した所によると、この先、もう一度、早ければ来春あたりに、この川神大戦と同種の東西対抗戦が、天神館との間で共催されるかもしれないのだという。 今回の大戦でさえ、煩く口を出してきたPTAの癇症を直前までぶり返させぬよう、水面下で学長同士が交わした密約(渋る川神側に天神館側が強引に押し切ったと言う方が真相として正しいらしいが)の存在を知った大和は、既に自らが会長職に就いた後の催しの為の策を打ったのである。
待機中からこれまでの、いかにも知ったる顔にて東を小馬鹿にしくさった天神館の論評。 実態として明らかな虚勢であるところもしばしば察されたが、特に、S組にもおさおさ劣らぬ石田三郎の傲岸不遜さは、十分すぎるほどに川神学園の生徒全員の心に刻まれたことだろう。 ここで育まれた天神館に対する共通の意識は、次回の戦役にとってプラスに働くだろうことは間違いない。 期したところは大方達成できた、と確信する大和ではあったが、少なからず誤算も生じていた。
十勇士の気を良くし過ぎた。 それに尽きる。 初対面にて、参戦を促すために下手下手の態度に出たのが、全くの誤りとはゆかずとも、その匙加減が少々甘かったらしい。
「斥候の腕そのものは隠行を齧る鉢屋に譲るが、奥義の副産物として得た、デンキウナギのそれと原理が等しい並外れた“定位(ある事物の位置を一定にとること)”も、俺が十勇士の頭を張っている由縁でな。 そろそろ来るぞ? ……備えておけよ、壁役共。 どれほど無力であろうが、せいぜい無粋に道を塞ぎ、背に傷を受ける無様だけは晒さぬことだ」
戦力の分散と各個撃破の方針も、出撃のタイミングも伝え、あるいは申し合わせた筈だったが、彼らには彼らなりの目的があったことを大和は失念していた。 学校の所在からして田舎者と揶揄される日々を送っていたこと、その反動として持ち上げに弱く、目立ちたがる習性を戦況を変えうるファクターとして重く見積もるべきであった。 いかに礼を尽くされても、あくまで予備戦力としてという待遇に、彼らが満足する筈は無かったのだ。 虎視眈々と漁夫の利を攫うに最適なタイミングを計っていたのだ
合図も何も無しに、勝手な判断で乱入した十勇士に顔を顰め、大和がそれを援護・対応する戦術を構築し直すその隙に、黒の団からの緊急連絡が入る。
気づいたところで、もはや後手に回らざるを得なかった。 直斗を包囲する誰もの意識は内に向いており、既に勝負は決着しかけているという油断から、外敵への警戒の目は格段に緩んでいた。
まさか、選抜された精鋭中の精鋭たる黒の団と白の団という、野に放たれたニ倍もの数の討ち手の執拗な追跡を振り切りながら、多くの犠牲を出したその決死行の直後に、更に数百人もの軍勢に両手で事足りる手勢で馬鹿正直に突撃を仕掛けてくる、そんなドンキホーテのような傾き者が居ようとは、誰も想像だにしていなかった。
金属を打ち付ける音、再び鳴り出した地鳴りのような大勢の足踏み、とある一角から徐々に近づいてくる喧騒の正体を察して、直斗の心は苦もなくその状況を迎え入れた。
さして驚くこともなく、しかし安堵も遠く離れていて、ただ“本領”を発揮するための条件がクリアされた事実だけが、明瞭に頭に浮かんでいた。
「わっほ~~いッ! 到着到着ゥ♪」
二重の意味で“壁”を超えうる技量の持ち主は、玄武軍の残党にも一人残っていた。
気楽な言動とは対照的に、その凄烈な腿力で、人という人を人とも思わぬ体式で捌きに捌き、肉の壁を抉じ開け、とどめに金網の一枚を蹴破った榊原小雪を先頭に、包囲網をただの力技で突破してきたのは、僅か十名足らずの小隊だった。
「骨折り大義である、ユキッ! 大戦が終われば、我が九鬼家の誇るレストハウスで存分にもてなされるが良い!」
「ははー、御意に御座いまするー」
忍足あずみに代わり見事に露払いを果たした小雪の働きを労い、下界を覆う曇天に見事な裸体を晒して立つ益荒男がそこに居た。
無事な右手を支えにして膝を折り、蹲踞を崩したような姿勢の直斗を、仁王立ちのまま真正面から覗き込んでいる。
英雄の手がずいと突き出され、それに合わせるように流れてきた風が、澱んだ熱気を掻き混ぜ始めた。
「許せ。 約束より、随分遅くなった」
差し出された手の平の先に、こちらを見つめる視線があるのに直斗は気づいた。
声を荒げもせず、無理矢理引き起こそうともせず、ただ、そこで待っている瞳。
これ以上のことはできないし、するつもりもないと言っている眼光に、直斗は射抜かれていた。
「あわや、といった場面のようだが、頼みは果たした。 この後は任せろと、お前は言ったな?」
捨て鉢になりかけていた心身が、肌を炙る外気の炎熟とはまた違った、確かな温もりを持った手に引っ張られる。
天佑というものの存在をこのとき、これ以上に無く実感しながらも、その感慨だけでは到底上塗りできない自分の歩んだ道程と踏みしめた陰惨も思い出して。
沈黙を強いていた口を、おもむろに直斗は開いた。
*
正対する男の惨状を、まざまざと英雄は見せ付けられていた。
酷使に酷使を重ねた体は、腱や筋骨が断たれていないとはいえ、動作を奪うには十分なほど痛めつけられていた。
陸に打ち上げられた魚のように呼吸は荒く、固く噛み締めた口元からは血の泡が覗いていた。
「……俺は、」
ひどく掠れた声を英雄は聴いた。
一呼吸置いて再度、俺は、と直斗は呻いた。
「総じて、運が悪いんだ。 こういう、なにかの瀬戸際で、土壇場で、鉄火場で、腹切場で。 一か八かってときに、とびっきりの地雷を全力で踏み抜きまくって、……だから、此処に居る」
痛みからか疲労からか、その肩は上下することを止められずにいた。 切羽詰まった声で、尚も続くのは、
「今回もそうだ。 また、そういう場面が、今で。 ……でも、なんか知らねぇけど、いつも独りだったのに、隣りにはお前が居る」
それは、およそ考え得る限りにおいて、矢車直斗という男が絶対に口にする筈のない文言だった。 “頼る”ということを決して忌避はしないが、恥と等しく思う男が直斗である。 それは、おそらくは直江大和のスタンスへの嫌悪も影響しているのだろう。
決して自分には齎されぬと諦めた言葉だった。
……なのに、
「いつか聞いたが、風間翔一には“激運”と評されるものがあって、そしてお前には“天運”ってのが付いて回ってるんだろう、英雄? …………この俺に、懸けてくれるか?」
それが、今日、冬馬の件を含めれば二度目である。
続いた問いかけに、つかの間言葉を失った英雄は、瞠目しながら、それでも、前方で忠勝の介助を受けながら何事か喘鳴する一子の悲壮な顔を見て、ようやく勘づいた。
ここまでの道程。 直斗にとってそれは、重い、ひどく重い前哨戦だったのだろう。
純粋な憎悪にあらずとも、質を問えば、その感情にほど近い、執念という剛力で回る直斗の中の歯車を、止めてしまいかねない重さ。
いまさら投げ出せる筈もない。 立ち止まったその瞬間から、追い求めたものは無になる。 支払った代価も、積み上げた犠牲も、全て無価値に崩れ去る。 何を躊躇う。 何を惜しむことがある。 清算のときは今この瞬間にも流れているのに。 ……その確信は胸を占めて余りあるだろう。 ……しかし、それでも、
――――間違ってしまったのかもしれない、と。
正邪の観念を超えたところに身を置いたつもりでも、その想いは、確実に直斗を絡めとりつつあったのだろう。
当然だ。
この男は今の今まで否定されてきたのだから。
“否”という名の白刃の海を、ただの独りきりで泳いできたのだから。
“自らの心に、目にする万人に、誠実であれ。” ……そう伝道するために、どれだけ自分本位な人間として祭り上げられ、そうなることをどれだけ本人が望もうが、際限のない罪悪を永遠に受け流せるほど、直斗は剽悍な男ではない。
秘めた過去と信念を覆い隠すため、この一年の間に被り続けた純朴と温和の仮面は、しかし間違いなく彼の本性であるのだから。
今ここで初めて英雄は理解した。
生涯最大の戦いを前にして、この男は掛け値なしの限界に晒されているのだと。
心の底で待ち望み、この一年で生まれて初めて育むことができた家人以外の数多の信頼を踏み躙り、その苛烈にすぎる理想を遂げるに及んで、どうしようもない彼の脆弱が露呈し始めているのだと。
それは、一度この戦地に立った以上、許されるものでもない。 犠牲に対する痛痒は、決して表に出してはならない。 “百代が欲しいという心に殉じ、勝利する姿”――を演じると定めた以上、一挙手一投足は全てその為に仕組まれねばならない。 ……その、彼自身が取り決めた筈の誓いが、今まさに砕けようとしているところまで来ているのだと。
それに対して自分がしてやれることも、ただ一つきりなのだと。
「……ああ。 全額どころかこの全身全霊、余すところ無く懸けるともッ」
ただ、その背を前に押すこと以外に、何の処方も英雄は持たなかった。
余談だが、九鬼英雄は大戦後、この場面での自らの浅はかさを深く悔いることになる。 このとき、他の言葉を投げかけていれば、未来は変わったかもしれないと。
英雄は見誤っていた。 直斗がここで顕した恐躯は、後悔からだけではなかったのだ。 直斗の恐れは過去と同じく、ほんの少し先の未来にも向けられていたのだ。
合流できた、という安堵が、直斗に残された最後の一手に対する猜疑を上回っていた。 これで少しは直斗も楽になる、という思いが、根拠の無い自信を生んでいた。
まさか、本当の意味で、これ以上に身を擂り潰す真似ができようなどと。 到底、想像も出来なかった。
……だが、それはあくまで余談だ。 今、この瞬間に比べれば、何ら取るにも足らない後日談だ。
このとき、何よりも重要な事実を一つだけ挙げるとすれば。
それは、発するどんな言葉も嘘になりそうなほど、ただ自然に沸き上がる全幅の信頼が英雄の胸の内にはあったということ。
直斗にも、それがわかったのだろう。
そうか、と向けられた鉢金の下の瞳は、氷魚の眼のように、既に頑なな色を取り戻していた。
「どこかそのあたりに、俺の得物が転がってる。 親の形見なんだ。 ……少しの間、預かっててもらえるか?」
*
無手のまま、英雄の返事を待たずに一歩前進して、中腰になって十勇士と再び対峙する。
動かせない左腕は前方に投げ出すようにだらりとぶら下げ、右は後ろ手に構える。
朱雀軍本隊、ひいては直江大和のリアクションが皆無なのは、やはり由紀江のときと同じ理由によるものだろう。 高みの見物を決め込むようだ。 大和の気質を考えれば、さもありなんである。
「打ち合わせは済んだか? まだ、良いのだぞ? 存分に粘ってくれる策を練るがいい」
十勇士が律儀に此方の会話が終わるのを待っていてくれたのは、単なる侮りもその理由に含まれただろうが、置き捨てた武士の情けというものを、他でもない俺に味わわせる魂胆だったのかもしれない。
視線を英雄から十勇士達に移すと、待ちきれなかったように、流血の予感に昂ぶる言葉が石田から浴びせかけられた。
九州からわざわざ関東くんだりまで招かれた挙句、待ち望んだ出番はついには与えられず、天幕は下ろされようとしていたのだ。 そこから一挙にこの局勢まで状況を転がし得たのだ。 悦に入るのも当然と言えた。
想像するに、俺が大和の手勢で敗北を喫した際には、百代に纏めて当てられる予定だったのだろう。 ……もしかしたら、彼らにはそのほうが幸福だったかもしれない。
そのほうが彼らの面子は保たれた。 武神を相手取っての敗北は、健闘を讃えられこそすれ、その無残を嗤われることはないのだから。
まさかここから、目の前の死に損ないの愚かしさ加減が上限いっぱいに達して、その真価が発揮されようとは夢にも思わなかっただろうし、“ソレを計る巻尺代わりとして”喧伝されてしまう不名誉を被ることを、彼らは決して望んでいなかった筈だ。
腰のポーチから慎重に、銀白色の細い筒を取り出す。
柄全体が金属で覆われた筆記具のようだ。
その小さな銀筒に容れられた液体が、もしかしたら起こり得た未来の中で、どれだけの人間を魅了し、不幸の底に貶めたことだろう。
益体の無い想像に頭を割きながら、腕時計の文字盤側面に指を添える。
アラームセット。 短く響く電子音。
そして、
「…………見てるかッ? マロードッ!!」
不意を突いて、からからの喉を震わせて、残存する最後の活力を搾り出し、場の空気を止める。
視線はただただ、真下の足袋に向けるばかり。
ぎょっとなった英雄は無視し、その後ろで息を呑む当人達にも頓着しないで、ただ、ありのままの想いを触れ散らす。
「俺は、お前に言った。 どんなに穢されようとも、綺麗なまま残るものがある。 また再び輝けるものがあると!」
意地という名の鞴が、消えかけた丹田の火に、更なる焼灼を嗾ける。
手放しかけた魂の尻尾を巻き戻すように、ぐるぐるぐるぐると、動く方の右肩を廻しに廻す。
「数多くの試練が俺たちを待ち受けている。 今も昔も変わらない。 どんなところにだって、服従を強い、魂を信念を絡めとろうとする者たちが見下ろしている。 どんな強者でも、寄ってくる年波には決して敵わないように、いつか、屈服の時が来るのかもしれない。 それでも、生れ落ちてから、たかだか十数年。 こんなところで早々と負けるわけにはいかない。 戦う自由を放棄して、見下ろしている者たちの言いなりになるわけにはいかないッ」
別に、ズルだって腹芸だって、たまには必要だろうさ。 だけど、それを開き直ってしまったら、だめだろうよ。 そんなに殺伐とした人生が、そんなに楽しいってのか?
イカサマとゴマスリを誇りにしてる極楽蜻蛉野郎に、百代を託してたまるかッ。
“手を汚すのに、そいつがやるのが一番都合が良いってことと、そいつがやらなければならないってことは、全くの別物だ”――って判ってない奴が、どうして百代の望む“誠”を示せるって言える?
そんな男を、他ならぬあいつが待ち続けていたなんて、そんな馬鹿な話があってたまるかッ。
――――俺の中の何を犠牲にしても、大和は、変わらなければならない。
その一心で、俺もここまで来た。
「全力を出し切って、死中に活を見出す。 今は、そうすることがたったひとつの方法なんだ。 見切りをつけられない今の俺がッ、今の俺たちがッ、大切なものを失わずに済むためのッ……。 そうとも、マロードッ。 お前がやろうとしたことは、救われようとしたことは、全部が全部、間違いなんかじゃない。 一歩間違えれば、きっと俺もお前のようになっていたさ」
狂気こそが救いの揺り篭。
獣であれば迷わない。 迷わなければ苦しまない。
苦しみが無ければ何も望まれず、何も託されない。 理性を無くせば、理性の痛みは後世に持ち越されない。
ああ、いっそ畜生に身を窶したならば、あるいは、この無念を晴らせるのではと。
長きに渡る歳月に、もはや記憶には決して薄くはない忘却のヴェールが纏わりついているが、そう考えた時が、確かにマロードと同じく、俺にもあった筈なのだ。
顔を上げ、空を仰いだ。 冷たい液体が鼻頭を流れ落ちる。 ぽつりぽつりと降り注ぐ雫が頬を叩く。
ちっぽけなこの身を押し込めるように、四方から雨音が迫ってきていた。 水を吸って重くなる装束が湿布のように、首、肩、背と順々に、痛んだ肉を冷やし始める。
何をとち狂ったかと、周囲は唖然と見ることだろう。
追い詰められた、頭が可哀想な、惨めな男の意味不明の世迷言と、いずれ誰も彼もがこの場面を片付けることだろう。
それで構わなかった。 たった一人、彼以外には、それでまったく構わなかった。
だから遠慮なく、総力を以って狂おしく、咽頭から奇叫を吐き散らす。
「それでもだ、マロード。 俺はお前を認めたうえで、証明してやる。 お前は俺に言った。 こんな汚い世界にこのまま生き残り続けたって、苦しみが待っているだけだと。 そして、俺はお前に言った。 どんなに穢されようとも、綺麗なまま残るものがある。 また再び輝けるものがあると。 ……本心だよ。 汚いものからだって、紛いの無い綺麗なものを創り出せるって。 俺は、本気で思ってる。 それを、“この場で証明する”と、俺はお前に言った。 ああッ、約束したともッ!」
遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。
それは、策と言うには余りにおこがましく。
無頼に堕ち切った身にこそ最も相応しいだろう、矢車直斗、正真正銘、最後の鬼札。
守るべきを守り、排すべきを排すための、他の誰でもない己自身の選択だった。
大和を変え、百代を下し、マロードを救う、その全てを果たすために、俺は武道から永劫、脱落することを選んだ。
英雄に伝えた“秘密兵器”というものは確かに存在していたが、英雄に課した三時間という時限に、特段の意味は無いし、ましてや、葵冬馬の在不在は、朱雀と玄武の勝敗を分かつものでも何でもない。
英雄に頼んだのは、つまるところ、冬馬の真なる救済の機会だった。
そのために、より多くの刃傷を負うことになろうとも、それ以上の価値が、“この場にマロード一派が揃っていること”に含まれていると思ったからこそ、今この時機が来るまで、冬馬の守護を英雄に託していたに過ぎない。
久しく存在を忘れていた、スタンガンを納めるアンクルホルスターの感触に一瞬意識を移し、その出番が未だ果てしなく遠い事を再度確認して、
「今から見せるのがその証明だ。 汚泥を啜りながら前に進み続ける、本当の人間の力ってのを見せてやるッ。 そうして掴み取る綺麗なもんは、何物にも代え難いもんだって、嫌でも思わせてやるよッ。 …………俺はあの時も、今も、まるで諦めてない。 希望と呪いは紙一重ってことも身に積まされて知ってる。 これからほんの少し先の俺も、もしかしたら望みを棄てかけるかもしれない。 けど、少なくとも今の俺は、そんなこと、微塵も思っちゃいないッ」
何故なら戦端を開いたのは俺で、だから、いちばん傷つけなければならないのは俺で。
だから、いちばん傷つかなければならないのも俺で。
頭の高さまで銀筒を掲げ、辺りに示す。
「この手にあるのは、お前が溜め込んだ、ありったけの悪意だ。 この夏にお前が解き放ち損ねた、ありったけのキタナイものだッ!」
それは全部、飲み干してやる。
だから戦えなんて、俺は言えないし、言わない。 ギブアンドテイクの強制は、大和に対する俺の戦い方に相応しくない。
だけど、せめて。
「――――見ていてくれ。 そして、どうか見極めてくれ。 俺の言葉が病葉かどうかをッ! 本当のッ、最後までなッ!!」
あのコンサートホールで伝えられなかった懇願を、厚顔ながらにやっとのことで言い切れて、緊張に早鐘を打つ心臓は、少し和らいでくれた。
何をしでかすか悟ったのか、背後で狼狽する三人組の気配が真実、小気味良かった。
まさか、と口走ったのは冬馬か、井上か、はたまた小雪だったか。 精神は限界手前まで張り詰められていて、誰の声音か判ずる余裕も失われていた。
膳立ては整った。 とくと御覧じろ。 お立合いだ、この野郎。
「年越しをッ、流動食で祝いたい奴だけ懸かって来い――――ッ!!!」
握った銀筒を睨め据え、一挙動で逆手に持ち替え、所定の引き金を、強張る親指でまずは初段まで絞りこむ。
きしゃしゃん、と。 この上なく無機質で甲高い、金属同士が擦れ合う生理に反する鋭利な滑擦音が耳を劈く。
肌が粟立ち、剥き出しにされた背骨を一気に舌で舐め上げられるような心地を覚えながら、しかと直斗は凝視した。
筒先から噴出した針の尖を。 気泡を押し出して先走る、乳白色の飛沫を。
信じるぞ、釈迦堂。 そう胸の内に言い添えて、注射筒を握る手に力を篭め、首筋の所定の位置に、素早く針を突き立てる。
――――キチガイ水で理性トバして釈迦堂さん追い出しておいて、「心が大事」なんて平気な顔で百代に教える欺瞞だらけのあんたにッ
いつか、そんな暴言をまた別の師範代に吐いたことを、ここで思い出す。
何たる皮肉だろう。 まったく大したことに、結局俺も、ダブルスタンダードを使わずにはいられなかったらしい。
ようやっと、あの時のルー・イーの苦しみの一端に触れた気がしたが、だから何だということもなかった。 もう止められない。 もう諦められない。
妥協が服を着て歩いているような男を、払った犠牲に相応しく、今を生きる彼女に似つかわしい人間に変えるために。 決して断じて、諦める姿を認めさせてはならない。
そして、たとえ自滅に等しい愚挙を犯しても、それと引き換えに、彼女を僅かな間でも正気に繋ぎ止めるものが得られるのなら。
……ぎゅっと眼を瞑って、ブツリと皮膚が喰い破られる刹那の痛みを噛み殺し、これからしばらくお去らばとなる痛覚に別れを告げて、指にかけたトリガーを更に引き絞る。
ガス弁が外れ、封入されていた圧搾空気が瞬く間にピストンを押し出して、最後の切り札を血流に送り込む。
“一本目”――――予想薬効限界:90分。
自分がかつて持っていた適性は、果たして“武神”の名を冠す彼女の足元にさえ及ぶものだったろうか、それは判らない。
はっきりしていることは、与えられた天稟が同等だったとしても、かたや七年もその輝きが増すよう磨き続けた者と、かたや研鑽を怠け、ここ二月三月ばかりの突貫工事で削り上げた者とでは、明らかな優劣が生じることは当然であることだ。
ならば、幾年もの停滞の成れ果てたる俺は、どうすれば百代に勝てるのか。 如何にして、この差を埋めればよいのか。
その答えを、もう出した後だった。
――――“これまで”という過去の時間を捧げて精進してきた百代を打倒するために、“これから”という未来の己の可能性を代償にする。
その解答の採点を待つ身だった。
真の強さとは、真の至誠とは。 それらを顕す代償として、今日限りで、様々なものを永久に失うことを善しとした身だった。
……同じ釜の飯を食った女に、年端もゆかぬ無垢なる少女に、ついさっき禁じ手を極めかけた浅ましい身だった。
今更、武道に、川神流に、自分の心身に、未練を残す資格すら許されない身だった。
懸けるは命、刻むは誠。 底無し沼に、また一歩。
今この瞬間に矢車直斗が造り出したのは、彼女が長きに渡り切に望んだ、戦士達の理想郷。
さあ、この身が朽ち果てる前に、早く来い、百代。
――――――お前のユートピアは、ここにある。
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いくら更新しても500InternalServerErrorが発動して今まで投稿できずにいました…。 舞氏の早期対応感謝です。
十勇士の異名を考えるの楽しかった
油浴怪人(ゆあみかいじん)が特にお気に入り
いつか2chでも書かれてたけど、ルー先生が精神論先行の熱血教師なら、釈迦堂さんは身の程に合った進学先を見繕うリアリストな塾講師っていうイメージ
多くのご感想ありがとうございました。全て拝見させていただきました。感想板にレス返しましたので、是非にもお立ち寄りください。
あと石田についてですが、奥義中の必殺技が電気技ぽかったんで、アドルフさんの特性も搭載させてます。テラフォはMJ連載時代から追っかけてて、単行本は全巻初版で集めてるくらいにはファンです。闇を裂く雷神と書いてデンキウナギと読ませる編集さんのセンスには脱帽。