『友達が道を踏み外しそうになったら、止めてやるのが正しいだろうが』
―――風間翔一(真剣で私に恋しなさい! リュウゼツランルートより)
丁度、身をかがめて鈍らの目釘を改め、柄巻きを締め直し終えた頃だった。
「十ッ」
帯元に鞘を収め、左手首をその上に置く。
「九ッ」
戦端が開かれるその直前、あくの強いオリーブカラー、いかにも軍用とおぼしきヘリが山間を抜け出たことを視認する。
朱雀の陣地にて、明らかにヘリボーン(ロープを伝っての懸垂下降)推奨の高度から、非常識にも宙にその体一つのみ投げ出し、ムササビの如き滑空で敵陣に降下した影は三つ。
一人ひとり順々に降下するごとに、それぞれから独特のプレッシャーが発されてくる。
不穏の予感は確信に変わる。 ……うち一つの“氣”には覚えがあった。
瞬間、脳裏に奔るは、鮮烈な既視感と、その苛烈な記憶をより深く呼び覚ます強烈に過ぎる悪寒。
「八ッ」
……自衛隊という組織について、俺が持ちうる知識で説明するならば、何より“受身”の一語が先立つ。
別段俺は、武術を嗜んでいても、祝日に黒塗りの街宣車を乗り回して国歌やら軍歌やらを垂れ流す危ない感じの人たちの側に大いに進んで味方する気はないし、さりとて、ヘルメットを被ってデモ行進を企画しながら“――粉砕!”なスローガンを大学の壁に貼ったりしている人間の側にも立っているつもりはないし、これから立つ気もない。
ただ、事実として、撃たれる前に撃つということが出来ない集団、それが自衛隊だという認識を俺は持っている。
たとえ相手が明確な敵意をもって攻撃してこない限り一切手を出してはならないという防衛行動の趣旨が、先制攻撃を受けた後も被害を被った側の戦力が生残するという極めて希望的な観測を前提に成り立っていることを知っていても、たとえ強大な破壊力を持つミサイルと絶対に的を外さない射撃システムによって、“その初撃が全てを決してしまう”近代戦の現実を知っていても、“撃たれるまで無抵抗”を貫くというのが、自衛隊の限界であり、至上の美徳であり誇りの筈だ。
ターゲットをロックして発射ボタンを押せば、放たれた攻性兵器は間違いなく目標を殲滅する。
“容易に全面戦争の引き金を引いてしまうがゆえに、その使用には慎重を期さなければならない”
そういう論理の一方で、“最初に撃った側が勝つ”という揺ぎ無い論理も存在するという、至極当然な、闘争における先手必勝の有効性。
それをあえて放棄した人間が、自衛官の筈なのだ。
『だからいいかげん専守防衛に徹しとけよ一佐殿――――ッ』
『ほう、毒づく余裕があるか。 存外しぶとい。 ……聴こえるか。 サキ、お前も混ざれ』
(諒解しました。 では二十秒後に)
『ふざっ、っェッ――』
『フン、そうつれなくするな。 一歩間違えれば、私か、あの男の部下となっていたかもしれんのだろう?』
『その一歩は間違わずに済んだんだよいいから――(ポイントシグマに到着。 スリーカウントでそちらに斉射を開始します、一佐)だから反則っつってんだろ―――』
『やかましい、ただでさえ貴重な有給使って来てやってるんだ。 あいつのストレスの発散にも付き合え』
「七ッ」
と、紐解かれたのは、セピアに色づくにはまだ早い、ほんの数週間前の“加害授業”である。
同じ宮仕えの時期があった、という縁からか、現役の自衛隊員、それもしばしば特殊作戦群にその身を置かせる彼女らを釈迦堂によって数日あてがわれたのだが――。
「六ッ」
「五ッ」
「姉上ェ……」
空気読めよ、と言外に大いに匂わす英雄の呻きは、俺が感知した気配と同種のものを敵陣から受け取った証左に他ならなかった。
さてにもお前、さっき俺にこの上ないほど男前なこと言っておいて、なんだ、その顔は。
「他の二名も同等の遣い手かと」
努めて冷静を装いながらも、苦虫を噛み潰したような声音は隠し切れないメイドの声が、後に続いた。
そんな、刹那のデジャヴと小耳に挟んだ会話によって、現旧合わせ、武道四天王、計四名の戦地入りが確定する。
また、最後に降下してきた身元不明の一人も、それに順ずる実力者と見受けられる。
川神百代、黛由紀江に加え、橘天衣-タチバナ タカエ-、九鬼揚羽-クキ アゲハ-、……もうひとりは、一瞬視界を過ぎった黒髪から天衣の部下、水守紗姫-ミズモリ サキ-かとも推測したが、判然としない。
それなりの距離が開いているため、顔までは確認できなかった。
野戦服に身を包んでいたのは間違いなく天衣だろうが、ならば同じく水守もそれに倣うはずで、そこが引っ掛かる。
「四ッ」
背が低いこともそうだが、最後の一人は、うちの学生服とみられたからだ。
「三ッ」
……さて、しかし現時点で判断できるのは、それを考えても埒は明かないということだ。
そう内心で自戒して、ついに鈍らの鯉口を押し上げる。
当然と言えば当然だが、あちらの助っ人枠は上限いっぱいまで切られるだろう。 つまり大和の手勢は、ここまで俺が確認したものだけではあるまい。
そもそも、想定外を覆してこその川神大戦だ。 そのための切り札だ。 天衣にも、それらは一枚とて見せてはいなかった。
山篭りの最中、彼女に遣っていれば、この時点で詰んでいたが、万が一の想定と用心が功を奏した形だ。
――相手が武士であるならば、確実に屠り切ってみせようともさ。
「二ッ」
さあ、今こそと。
遥か前方に展開する朱雀軍から、ゆらと戦気が立ち昇る。
轟、と気合いが大地をどよもし、大気を圧して飛んでくる。
それに当てられた形で、ようやく玄武軍も臨戦態勢に入る。
「往くぞ、皆の者ォ―――――!!」
朱雀畏るべし。 後手の怖気の伝播を掃ったのは、二年S組委員長の怒号だった。
切り替えの早さは流石、天下に名だたる九鬼家の快男児というべきか。
葵冬馬の補佐を受け、即席即興で整えた陣形の真ん中で、いま限りなく高らかに、九鬼英雄は居並ぶ隊士の行く先を両腕で振り示す。
北方玄武軍・三百余名によって作り上げた“鋒矢-ホウシ-”の陣は、中央を突出し、それを補強するために後続を左右に展開する“魚鱗”の陣よりもなお、攻撃的な布陣である。
“鋒矢”は“魚鱗”に似た突破陣形だが、中央に縦隊で戦力を集中するため、左右により幅のない陣形である。
行軍隊形や既に展開した敵陣を突き破るのに用いられ、寡兵による奇襲にはうってつけのものであった。
先陣を切るは、刺又部隊。
長柄の先のクワガタで次々に捕捉した敵を、速やかに後列の弓兵部隊が超至近距離から確実に撃ち抜き、その流れ作業を繰り返し、敵陣奥へと一気呵成に踏み入る構えであるらしい。
心得のある人間を別とすれば、一般人にとって、戦闘能力の剥奪の手段として、人を気絶させることは容易ではない。
こと川神大戦に限れば、敵兵を排除する手段として、剣や槍を頼みに意識を刈り取るより、弓で射抜いて戦地から退場させるほうが、よほど容易で効率的であるのは言うまでもない。 弓の扱いは多少の慣れが必要とはいえ、固定した一、二メートル先の的を狙うくらいならば誰でも簡単に出来る。 少数ながらも連弩(クロスボウ)の類も貸与されていることだし、ここに提示された戦法は、戦術としては最善手であることに間違いはなかった。
少なくとも一般生徒にとっては、殲滅戦ではなく大将首を獲ることが最終目的であるからして、突撃中、たとえ後方あるいは両側面から挟撃を受けるとしても、大将が控える最奥に突き進めば必ず勝機がある、と、開き直れる所でもある。
ちなみに発射手段として投擲が禁止されているのは、誰も彼もが吸盤付の矢を片手に標的を追い回すシュールな絵づらを回避するためであろう。 この縛りの意図からすればグレーゾーンすれすれの戦術ではあるのだが、脇に控える審判員諸氏の様子を見れば、どうやら許容範囲であるらしい。
「一ッ」
真上の曇天に向けられた、刺又の切っ先が一斉に降りる。
槍衾、というのはこういう光景なのだろう。
これだけの人数が揃って同じ得物を持つところは、院に在籍した中でも見たことはなかった。
最低限の安全策として刃先穂先が潰されようとも、その威容だけで、大抵の者は尻込みしてしまう筈だ。
劣勢に立たされながらも、九鬼英雄と葵冬馬が立案した作戦は、十全とはいかずとも、それなりに機能するものと思われたが。
「……そうは問屋が卸さないよな」
残念だが、英雄。
こういうのを指を咥えて見ていられるほど、俺に対して甘くはないだろうさ。
「川神大戦、開戦ッ」
我らは北方玄武軍。 当然、侵略方向は南である。
――玄武軍A組有志、B組有志に通達ッ
いつまでたっても刺又が、北を向いたままなのだ。
――裏切りの時は、今ッ、繰り返す、裏切りの時は、今ッ!!
<手には鈍ら-Namakura- 第四十三話:戦端>
「期待を裏切ってはこないか」
特別驚きもしなければ、諦観も遠い。
こうこなければ、そもそも川神大戦など起こりえないのだ、という現実。
依然として終生、自分は、風間ファミリーにとって、このような手管を弄するに値する“賊”である、という現実。
それらは、既に噛み締めた後だった。
開戦直後、浮き足立った瞬間を狙っての、最前列の寝返りである。 奇襲としては最も効果的なタイミングの一つだ。
が、少なくとも葵冬馬には、こうなる予測も幾らかついていたのだろう。
だからこそS組は陣の中心、中核を担う箇所に集められ、A組B組は外縁部に配置されたというわけで、だからこそ前列のみの裏切りで済んでいる。
内通者が其処此処に存在する事態だけは避けられたようだ。
だが、それは周囲をほぼ包囲されるというデメリットと引き換えであるわけで、どちらにせよ玄武側の突撃の足は止まり、気勢は削がれに削がれた。
それだけでも、あちらの寝返りの策は大戦果を上げたと言ってもいいだろう。
他方、先に述べたこちらの策については、何をか言わんや、というもの。
「……どんなときでも、S組の誇りは手放すな。 いらっしゃいませ~♪」
「おいおい、のっけからクライシスなフラグを立てるもんじゃないぜ、ユキ。 こういう最初からクライマックスな場面こそ、燃える台詞をだな。 …………我ら、来たれり――」
「言っとる場合か!? それも最終的に全滅するじゃろっ!!」
「あ、でもこれよくよく考えたら朱雀じゃないとカッコつかないじゃん。 かといってなー、零式だと玄武は魅せ場ないしなぁ。 狂った大将だけ生き延びて…………、って、あれ、これフラグ?」
「……確かに玄武というのは四神のなかでも、なかなか不遇だね。 本来は五行思想において水を司る獣なのだが、日本の一般的な創作物の中だと、イメージに合わないだとかで青龍にお株を奪われがちだ。 武の神として祀られてもいるから、軍の名としてこれほど相応しいものはないのだが。 ビジュアル面はいかんともしがたい、といったところかな」
「ああ、わかりますわかります京極先輩。 竜、鳳凰、虎ないし麒麟ときて、なんで蛇と触手プレイ中の亀ェなんだよ、って話ですよね。 ベイブレードでも、そりゃあ酷い扱いだった。 アニメじゃ毎回、「GO、ドラシエルッ…………OH、ドラシエルゥ~」って、外人に言われ続けるお約束の噛ませ犬。 俺はあの六角八角の角ばったデザインは好きだけど」
「聞けぇーお前らーっ、いい加減にんにょわ矢ぁああッ!?」
時折、喧騒と土煙に紛れて散発的に矢群が振り撒かれる中、現実逃避の究極幻想に平安貴族の周章狼狽が応えるやりとりを耳に挟みながら、矢車直斗は用意していた“対マロード用の処方”に思考を巡らせていた。
……この状況、百代まで間に合わせるには、その前に四天王級一人以上は、素面で始末をつけねばなるまい。
では即断して即行だ。 ポーチからデジタル腕時計を取り出し、左手首に当てた。
――しッ、一番手柄、川神一子!
――いちば……ッく、次番手柄、クリスティアーネ!
なかなかにペースが早いものだ。
前線の様子を見る限り、武装改めの件もあり、朱雀側が敵軍友軍をすぐさま見分けられるほどの指標を、“元玄武側”の人間は持ち合わせていない筈だが、このスピード。
つまりは問答無用、寝返り要員諸共、見境なく片っ端から仕留めているのは明白だった。
果たして、この事実を正義の騎士はどう受け止めているのやら。 まあ、おそらくは自軍の策の全貌を知らされていないのだろう。
ああ、まったく巧いやり口だよ、本当に。 遺恨は確実に残るだろうが、それを向けられるのは、来年には故国に帰るクリス自身か彼女が率いる軍団だ。
自分が撥ねた泥すら被らずにとは恐れ入る。
一旦はS組に組したとはいえ、そんなに信用ならない奴らだったのだろうか。
確かに友を売ったことに変わりないだろうが、それでも、この丹沢が戦場となった瞬間に、最も敵と近接することを善しとした彼らは。
純粋にそう思ったが、俺がそれを口にできる権利はない。
“裏切る”という点では、俺のほうがもっと酷いことを為したし、為しているし、為すだろうからだ。
……どうあれ、朱雀の正規の第一陣が此処、玄武の中枢まで進攻するのに、残り数分とかかるまい。
吹き荒れる気合いと悲鳴に掻き消されぬよう、口元に手をやり、声を指向して呼びかける。
「英雄、情けなくも早速だが、最初で最後の頼みがある。 聞いてくれるか!?」
「ッ!? フハハハ、その意気や心地良しッ、嬉しい限りよ。 よい、遠慮なく申せ!」
「三十六計、逃げるに如かず。 さっき立てた策の逆をやれ。 包囲はされたが今なら後ろはまだ手薄だ。 一点突破で北へ全軍退却させろ」
「…………それで?」
「黛由紀江、橘天衣、それと、お前の九鬼揚羽。 これから俺は三時間以内に、この面子の中から一人以上の首級を挙げ、なるたけ他の戦力も削ってくる。 それまで、この場にいる全員を率いて、北の山中を逃げ続けろ。 自陣からは一歩も出るな。 南にはどんな罠が張ってあるか、わかったものじゃないからな」
「フハハ、馬鹿を申せ。 我は普通に承服しかねるぞ? その先はもう言わんで良い。 ――いやいや待て、口を開くな、待て待て待て」
「待たん。 ここからが本題だからだ。 お前は、冬馬を護れ。 三時間後、合流したところに葵冬馬がいなければ、この策は愚策以下に成り果てる」
「……なんだそれは? どういうことだッ!?」
「いずれ判る日が来る、……いや、この策の意味を解す日を迎えたければ、言うとおりにしてくれ。 都合のいい事に、お前の横には寡対過のスペシャリストもいる。 密林内での撹乱戦なら十八番の筈だよな? 田尻さんから武勇伝は聞いてる。 逃避行に一役買ってくれないか?」
流れ飛ぶ矢雨を油断なく払いながら、主の手前、言外に「何をやらかす?」と視線で問うてきた忍足あずみに、「冬馬を護る英雄を護れ」とだけ付け加える。
「これが首尾良く運ばれたその時こそ、秘密兵器の出番というわけだ」
腕に巻き終えた時計をちらつかせて、怪訝な表情はまるで抜けない主従に、
「ハッタリじゃない。 強がりでもない。 やりたくない事、出来ない事は言わない。 ……ちょうど良いタイミングだな。 もう話をする暇も無い。 選択の余地を与えるつもりもない。 ここは総大将特権を使わせてもらおう。 ――忘れるな、三時間後に、葵冬馬共々合流だ」
ひょうん、ひょうん、と。
抜き身の刃が風を撫で切る音が近づいていた。
大陸から日本海を渡る寒波が空を裂く音に似て、それは激しく、寂しく、侘しい。
「行け。 ……大丈夫だ。 こんな序盤で終わってたまるか。 もう一度しつこく念押しするが、三時間後だ。 また会おう」
*
「質問してもいいか?」
「どうぞ」
「さっきから南の方で、樹が折れる音やら土砂崩れの音やらが何の自重もなく響き渡ってきているのだが。 ……誰が俺の獲物に手を出している?」
「大和さんの指示で、九鬼揚羽さんと橘天衣さん、それと、来学期関西から転入してくるという松永燕さん。 この三人がモモ先輩を止めている筈です」
「…………なるほど、俺が倒れるまでの時間稼ぎか、はたまた俺と当たる前にあれを倒し切ろうって判断か。 ふん、失敗したかな。 変なところでプライドが高いことを、もう少し織り込んでおくべきだったか。 いや、お前の言い方じゃ、後者は無理なように聞こえるし、そうだろうな、俺もそれは身に沁みて理解している。 消耗はせずとも上手い具合にウォーミングアップにはなるだろうから、遊ばせておいてもいいか。 その意味じゃ、お前もいいところに来てくれたな?」
「私からも、ひとつ、いいですか?」
「うん?」
「私は、今でも友達ですか?」
「貞淑内気な裏日本女より、勝手自侭な核爆弾女のほうが好みだから、俺はこの場に立っている」
「…………」
「最後の忠告だ、由紀江。 松風の口を閉ざすくらいには警戒しているようだが、“武士である限り、お前は俺には勝てない”――その意味を、よく考えることだ」
*
切り札をこうも手早く切ってくるとは、やはり妙だ。 確かに奇策というものは、更なる奇策を果断なく積み重ねることで効果が増すものであり、由紀江の出現も寝返りに追い討ちを掛けるようなタイミングではあるものの、“おいしいものは最後に残す”のが直江大和の気質だ。 もったいぶる、というか、一定の余裕を保ち、様子見を重ねて、じっくりコトコト煮込むように、粘着して事に当たるのが奴のスタンスだ。
潔すぎる。 よって不可解。
それが、由紀江の接近の気配を察し、真正面から対峙するまで抱いていた感想だったが、それも半径二十メートルをぐるりと、八百は下らない人数に包囲された際には露と消えた。
――なるほど、黛由紀江は、試金石である。
それが真実だと確信するに十分な状況証拠が、この状況だった。
矢車直斗と黛由紀江の逢瀬を見守る彼らは、しかし手を出してくる様子は微塵もない。
そのまま単騎で押し潰せれば良し。 敵わなくとも、武道四天王の一角を落す敵大将の脅威を友軍に知らしめることで、大多数で少数を圧すことの罪悪を紛らわす事は出来る。 単純に、敵の消耗も狙える。 どちらに転んでも、朱雀にとってはデメリットは少なかろう。
そう、あえて造語を作るならば、これは“宣撫戦”と呼ばれるだろう立合いだった。
――いざ尋常。
こちらは刀を右肩に担ぐ、武者上段の構え。
本来ならば鎧士の扱う、兜による防禦を前提とした構えであるため、これを頭部が露出したまま、素肌剣術で遣う者は、ごく少数だ。
しかし破壊力に関しては言うに及ばず。 刀の重心を利き腕に引きつけた分だけ、渾身の一打を容易に予感させる凄みを醸す。
対する由紀江は、やはり青眼の太刀取り。
実戦剣術、ならびに日本剣道においては基本中の基本。 その存在は、もはや技術の範疇さえも超えて、象徴の趣きさえある。
剣の道を志すならば、初めに習得すべきとされる典型中の典型、王道中の王道。 攻防避全ての“端”が集約された無謬の剣形である。
一合目。
ともすれば風に溶けゆくかとさえ思える自然の態に、先に猪突し打ち入れたのはこちらだった。
上段から肩を撃ち、一撃にして相手の得物を取り落とさせる意図を持った得意の剣だったが、由紀江は軽く退き、それを受け流す。
返す刃で接近を牽制し、柄を引き戻して二度、三度と前述の変化技を用いた太刀を繰り出すが、彼女は「もはや、」とでも言いたげに、二太刀目は先ほどよりも浅く退歩して避け、三度目は巻き技でいなす。
飾りなく軽妙にして精密。 四天の名は伊達ではない。 まったく、贅沢な物差しがあったものだ。
抜け目なく小手を狙われるが、隅をかけて斜めに後退する事で彼女の刃圏から逃れ、双方、剣を構えたまま膠着に入る。
一呼吸、二呼吸、さんてんごッ――
拍子を外し、踏み込み、下段から斬り上げの二連。
それを左右に身を沈めながら回避する、彼女の呼吸は乱れない。
また後退。
いまだに決定的な隙を両者とも見せず、また、見せた時が決着であろうと予期している為に、より慎重にならざるを得なくなる。 こちらの手中の鈍らも、彼女が今この戦いで扱う模擬刀も、刃先を潰されているとはいえ、本気で突かれれば皮膚は裂け、骨にさえ皹は入る。 それだけの力量を互いに持ち合わせていることは、このニ合で了解し合えた筈だった。
いま一度、必殺を期して構え、摺り足で間合いを詰めてゆく。
長期戦の様相が脳裏によぎるが、それは避けねばならない。
これは、俺一人の武士の一分さえ立てばよい、という闘いではない。
あの黛を相手に、ああ、あいつは頑張ったよ。 そんなことをただの一人にも思わせてはならない。
完全なる勝利に固執しなければならない。 この“合戦”に勝利しなければならない。
すべからく勝たなければ何も生まれないのだ、取り戻せないのだ、伝えられないのだ。
そう、決意を改めて固める。
―――ふしッ!!
しかし今のところ、合わせて、凌ぐほかない。
近く、機は、必ず来る。
そう断じ、退くと見せかけて足を踏み換え、目晦ましの刺突を繰り出しながらの繋ぎで、蛙よろしく両足跳びで踊りかかる。
実を言えば、一対一の戦いに持ち込めている現在、目前の剣の申し子を下す段取りは、何を取り零すこともなく、着実に進行していた。
型通りの川神剣法の中に差し挟んで、ペテンの種を撒きながら、食虫花の如く陰湿に、必殺の時を待ち構える。
その種の芽吹きは、この前哨戦の終わりを告げるものになる筈だ。
そのときまでの、この綱渡り。 せいぜい渡りきってみせるさ。
*
心神の機微は、一先ず置いておこう。
五手までは見逃し、そこから一挙に攻勢に転じた由紀江は、それでも決定機を掴み切れずにいた。
苦戦しているわけではなかった。 むしろかなりの優勢にある。
確かに矢車直斗の技量は、目を見張るものではあった。 昨年、実家に研修に来ていた頃、常に三手以内で彼を道場の床に沈めていた日々を思えばこそ、目下の彼の善戦はたちの悪い冗談としかこの瞳には映らない。 戦端が開かれる前の挑発的な物言いとは裏腹に、躱し、流し、撥ね返し、迫る白刃を受けに受け続けるその迎撃姿勢。 腰はよく粘り、背筋は甚だ強靭にして、一枚の柔軟な壁を相手にしている錯覚すら沸いてくる。 由紀江が得手とする剛剣を阻み続ける、その果てしのない防禦の剣は、まさに秀逸の一言だった。
……が、一転して攻めるとなると、途端にその未熟が露呈する。 どうにも奇妙だった。 過剰な跳躍からの先ほどの大振り。 今も、鍔迫り合いから小手を狙わず、下段に剣を落すという非効率極まりない手落ち。 このように、攻防一体の連環套路という迎撃剣の極意に反するちぐはぐさが、幾度も垣間見えてしまうのだ。 無論、そこを攻めない道理はない。 しかし後一手、後一手が遠い。 ここぞ、という場面の尽くで、下段から掬い上げるように、左、右と二連の打ち上げがこちらの必殺剣を間一髪で妨げる。
この連撃こそ、あるいは直斗の必殺剣なのかもしれなかったが、これで五度目だ。 油断はならないが、軌道に見切りはつけた。 最も自信のある太刀だろうが、それでも当たらないものは当たらない。
名のある流派の奥義とされていても不思議はない鋭さがある。 油断のならない太刀筋である事に変わりはなく、事実、それが剣戟の名手たる由紀江をして最後の詰めを過たせ続けている。 しかしむしろ直斗にとって命綱同然のそれは、完成形の連携に無理矢理組み込まれているようにも見受けられるのだ。 その結果、付け入る隙が生じているのであればお粗末この上ないが、これが恣意的なものかは判断がつきかねた。 まさか、この戦いのなかで試行錯誤、トライアンドエラーを繰り返しているわけではあるまいが。
どうあれ、攻めあぐねている由紀江とて、ただ手を拱いたまま、漫然と打ち合いに付き合っているわけではなかった。
――武道四天王級に対して弄しうる俺の奥の手は三つ。 そのうち、攻の手は全て剣技の騙し討ち。
男が鈍らを引き抜き、構え終えた時には既に、少なくともその正体のひとつに、誰よりも早く当たりをつけていた。
自らの実力を卑下する傾向が過分にある由紀江であったが、彼女ほどの戦士にもなれば、それは自らの伸び白を自覚できているということで、つまりは主客問わずの正確無比な眼力が備わっていることを意味する。
……なるほど、確かに紙一重の騙し技である。
*
由紀江が直斗のもとに参じたのは、やはり大和からの指示によるものではあったが、それは彼女自身の志願に端を発したものである。
直斗が巻尺代わりと判断した彼女の役割は確かに存在していたが、それはむしろ、一番使い勝手の良いカードを出し惜しむ周囲を納得させるための方便の意味合いが強く、大和が後付け的に補強した理由の一つに過ぎなかった。
大和が由紀江の意を飲む代わりとして彼女に与えた注文は、矢車直斗と玄武軍の分断だ。
無論、大和には大和なりの打算があったのだろうが、彼との一騎打ちを望む由紀江にとってもそれは在って無いような条件だった。
一旦体勢を立て直すべく退却したのだろう敵軍の思惑も手伝ってか、由紀江自身が何ら骨を折ることもなく、いとも容易く都合よく状況が変遷した今となっては、それも思索の埒外だ。
――鏘ッ
打ち付けた太刀は、幾度となく同等の質量で阻まれる。
鋼と鋼が喰い合い、微量の鉄粉を空に撒く。 二振りの剣が交差した形で彼と我は凝固する。
太刀合わせの開始から、どれほどの時間が過ぎただろう。 この死合と遜色ない仕合は、時の流れを濃密に感じさせた。
一呼吸一呼吸が、五体を揺さぶり始め、ようやく温まってきた。
ああ、何かを伝えなければならない、問わなければならない。
言葉は、そこに間違いなく確かに在る筈なのに、一向に喉から出てこない。
打ち合いが始まってしまえば、剣士としての本能に身を委ねるだけ。
大事なものを護る為。
黛流はその為に在り続けると、父たる黛大成は述べる。
その為に受け継がれた天稟だった。 その為の修練だった。 その為の奥義だった。 その為の、その為だけの――――剣だった。
ならば、それは今、目の前にいる人を護る為に機能している筈だ。 ……機能していなければならない筈なのだ。
だって大事だから。
だってこの人、“友達”だから。
――友達が道を踏み外しそうになったら、止めてやるのが正しいだろうが。
キャップさんはそう言った。
止める、すなわち叩きのめす。 それが、この人を護る術だと。
それが正しい、かは判らない。 キャップさんの宣言が他人事のように聴こえたのも事実だ。 実際、そうなのだろう。
――まさしくまさしく。 殴る必要があったから殴り、きちんとその理由も話した。 悪い事だと思ってもいないと釈明した。 そうであれば、あやつとしては謝る必要もなかろうな。 うむ、筋道立っているであろう?
あの校内放送のときから、本当に道を踏み外しているというのはどういうことなのか、それすらも判らなくなってしまった。
でも、こうしてその人の近くに立っているだけで判ることもある。
サラシやファンデーションで、ここ数ヶ月で作られただろう大小さまざまな痣や疵が、なんでもないように覆い隠されていること。
ということは直斗さんはどうしようもない虚勢を張っていること。
ということは直斗さんは必死だということ。 ここでこの戦場から排さなければ、もっと必死になるということ。
そして、川神百代には現時点で誰も勝てないということ。
束になっても敵わない。 橘さんとの再会に決まりを悪くする暇もなかった。 あの人型の修羅を打倒しうる可能性を持つ者は、この戦場に存在しない。 それは現旧の四天王が一堂に会した瞬間、――それら極上の獲物を前にして、眠れる獅子が“起きた”瞬間に直感した、絶対の戦慄だった。
なんという不屈。 なんという卓越。 なんという凌駕。 なんという傑出。 なんという隔絶。 なんという、川神百代。
あの闘気は、言うなれば蒼く燃え盛る太陽。
小賢しい細工など接触前に焼き尽くされ、自滅の一途を保障するのみ。
日輪を斃す手段など、この地上に在りはしない。
なのに、あれを倒す? 何を馬鹿なことを。
もう一度言います、矢車さん。 何を馬鹿なことを。
……これ以上、無為な傷を負わせてはならない。
矢車さんがモモ先輩をどうとか、モモ先輩が矢車さんをどうとか。 そんなの、そんなの知りません。
そう、私は彼女から彼を護る。
この意志こそ、この独善こそが、私、黛由紀江が朱雀軍に所属する理由であり、絆を重んずる風間ファミリーの一員である事の、何よりの証。
終わらせるために、鍔迫り合った由紀江は刀ごと直斗を弾き飛ばして、自らも後退した。
着地の勢いそのままに“納刀”する。 企図するものはたちどころに知れたことだろう。
あなたがこの戦いを開いた理由が、やはり額面通りもので、ただひたすら我欲を満たすためだったとしても。
もしかしたら、何を犠牲にしても果たしたい、崇高なナニカがこの戦いに潜んでいるのだとしても。
――ハンデ代わりに色々サービスしようとは思うさ。 とりあえず、ためになる情報をいくつか進呈しようか。
――最後の忠告だ、由紀江。
自分は卑怯な手を使う、騙すから騙されるなと、憎まれ口を叩きながらも何度も警告してくれたあなたは、私の知っている律儀な矢車直斗だった。
(本当は、止められたいんじゃね?)
あなたもそう思いますか、松風?
(勝手な妄想でも何でもいいけど、まゆっちは止めたいんだろ? んじゃ、迷うまでもないじゃん)
――ですよね。
居合い。
一刀必殺の意志の具現。
乾坤一擲、振らんとするは、黛流“最奥之太刀”。
彼にとっては待ち侘びた瞬間だろう。
瞠目を隠さず、瞬きを忘れた凝視が由紀江の全身を貫く。
何の脈絡もなく降って湧いたこの一幕に、直斗の警戒の気配が由紀江の脳髄を乱れ刺す。
彼我距離四間、八メートル弱。
双方とも、一瞬にして詰められる距離で、この戦いにおいて最も緊迫した時を迎える。
どちらが先に仕掛けるか、そんな駆け引きなど毛頭ありはしなかった。
こちらは待ちの一手、あちらは往きの一手。
それは少なくとも、彼のなかでは決まっていたことだ。
見立てが正しければ、ここで仕掛け――――――――――――――――――――――――――――――――――て来た。
薄皮一枚を針で穿つ、それだけの時刻だったか。
雲海に遮られる東陽が東陽とは呼べなくなる、それほどの時刻だったか。
待ちの合間は兎も角として。
唐突に肩が抜け、腕は下って、刃は落ちる。
やはり、引き摺るような左下段。 “要の刃先”は、袴の陰に。
正体、見たり。 逸る胸を抑えこみ、落ち着け、と松風の声で口の中に呟いた瞬間だった。
直斗の足がすっと前に出て、蒼く染め抜かれた羽織が、極楽鳥の飛翔の如く翻る。
たなびかれて迫る刃。 真鍮の輝きが目に眩しい。
再び抜刀態勢に移った由紀江は、右半身に殺到を吸収、待ち受けるのみ。
この、先祖伝来の秘剣を用いずとも、彼を切り伏せられる自信は十分にあった。
たとえば、相手と同じ構えでこちらも前進し、下段の“合撃”にて片を付ける手段も選択肢にはあった。
だが、それはしてはいけないことのような気がした。
――彼は、真剣だから。
――ならば私も、真剣でなければ。
三百六十度ぐるりと何百対もの耳目に囲まれているこの状況下、天下に名立たる流派の秘蹟を惜しげもなく披瀝せんする程度には、由紀江の心神は発達途上であり、しかしそれゆえの図太い胆力を持ち合わせてもいた。
そして年若い彼女の真価は、この内なる気性が現れる段になって初めて、しかと発揮されるものだった。
*
これまでの堅牢な防禦は擬態で、この男の本領は突撃にあるのか。
そう思わせるほどの思い切りのいい疾駆ぶりで、倒れこむように前傾しながら直斗は間を詰めた。
そして、地を踏み割らんが如き震脚。
収縮した各部の筋肉が一挙に解放され、低姿勢から一転、吃驚箱に潜むバネ仕掛けの道化のように、全身が伸び上がり。
――ついに、その太刀が始動する。
簡潔に言えば、“直刀による斬速の幻惑”。
切り結ぶ中で盗み見た彼の刃の特徴は恐るべきものだ。 それが、由紀江の看破の内容だった。
基本的に日本刀というものには“反り”がある。 ほとんど真っ直ぐな刃は珍しく、由紀江が鍛錬で慣れ親しむ木剣木刀の類でさえ、その特徴が見受けられる。 例外とされるだろう竹刀とて、その弾性から、打ち込む瞬間には“しなり”が現れる。 対象物をより少ないエネルギーで切断するために物理的に必要であるなど、反り形成の発端には様々な理由があるが、特に反りの強い太刀が主流だった時代には、この反りを有効に使う技が工夫されていた。 たとえば、相手と切り結び、刃と刃を打ち合わせた直後、鍔迫り合いの最中、すぐに反りを返して自らの太刀の峯側を敵の刃に合わせ、合わせたまま刃同士を滑らせる。 そのまま体を押し下げれば太刀の切っ先は相手の喉元へ食い込み、また自分の刃は内側に湾曲したレールとなって、敵の刃を脇に逸らす役割を果たす。
太刀の時代はすなわち甲冑戦の時代である。 薄い鋼、または練革でつくられた甲冑を切断するのは容易ではない。 格闘になる前に槍で突き通すのが理想だが、斬り合いとなった場合には合理的に隙を狙わなければならない。 脇や喉、脛、足先といった限られた急所を潰す技術は、そうした背景の下で培われてゆき、利用価値が多分に含まれる“反り”の存在理由も強まっていった。
余談だが、江戸期に流行した刀からは些か反りが少なくなる。 大きな戦が起き難い世にあれば、甲冑を活用しない素肌剣術が主流となる。 防具に関しては丸裸も同然の素肌剣術では、剣が速く相手に達することが何よりの要点となったのだ。
とはいえ、伝統として日本刀には反りが残っている。 由紀江が扱う刀も然りだ。 “先端になるほど刃の到達は遅く”その感覚は相手の攻めを避ける際にも無意識のうちに用いられている。
それを逆手に取り、直刀を用いることで、相手の予測よりも一刹那速く打ち据える技法こそ、彼が用意した策である可能性が極めて高いと由紀江は推測した。
その最たる理由、つまり直斗側の落ち度と言えるのは、初め、直剣の特徴を隠匿しようとしたことだ。 武者上段は得物を肩に担ぐ構えであり、必然的に刃全体が背側へ傾き、体勢の取り方によっては頭の陰に隠され、真正面から見れば“反り”の有無を判断しにくい。
だが、それがかえって由紀江の注意を引いてしまう結果となった。 彼女とて、この対峙を数ヶ月間に渡り思い描く日々を送ってきたのである。
たしかに直斗は上段を好むが、一撃決殺と初手から相手の上体を狙うより、先んじた相手の攻め手を上方から撃ち落し、二の太刀で胴を薙ぐというのが“彼らしい”戦術だ。 どの方向からの斬突でも等しく対応できる、青眼から剣を真っ直ぐ引き上げたのみの正調の位であれば、何ら疑問を抱かなかっただろうが、利き肩に引きつけた、いかにもな攻勢には、違和を感じずにはいられなかったのである。
加えて、これまで繰り広げた近接戦闘において、この戦術の要である刃先は碌に用いられておらず、由紀江の五体を狙う刃は、物打かそれより下部の刃だった。 由紀江が現在対峙する鈍ら刀のような、中途半端に丈が短い、操作性の高い得物のみが為しえる“調節”である。 “通常の太刀と同じ按配の回避で構わぬ”――その意識を植え付けるため、直刀の優位性を頓悟させぬため、不調法の攻めを演出したと思われた。
進展のない鬩ぎ合いに痺れを切らし、苛立った相手が一旦距離を取って態勢を立て直したときにこそ、助走の勢力も併せることで直刀の幻惑を用いる腹か。
閃く。
なればこそ、そのときには十中八九、あの斬り上げ、逆袈裟二斬が来る筈だ。
要所要所で濫用され、阻みに阻み続けた、見極めのついた太刀筋だ。 ……というこちらの油断こそ、彼が持ち得る最も確度の高い勝機である。 不完全な剣路にも得心がゆくというものだ。
さて、“種”は判明した。 残るは打ち破る算段だが、
直斗の術中に嵌っている。 と自覚した時点で、もはやそれは破れている。
所詮は錯覚を利用した小手先の剣術だ。
対処は至極単純。 ――――ただ、真後ろに退くのみ。
脚の配り。
手首の備え。
ひたと留めた視線。
気配全てが次瞬の居合い抜き、迎撃相殺の姿勢を強く訴えていた中で、虚を突いた、“道に背いた”動作だった。
嗚呼、悲しい哉。 溜めに溜めた勢力を結集し、それを摺り上がる剣尖に向かわすべくした直斗渾身の震脚は、意図せずのブレーキとなって追撃を害するのみ。
直斗は留まる。
由紀江は退く。
一閃、空振り。
男が息を呑む音を、確かに女は聴き届ける。
“武士である限り、お前は俺には勝てない”――すなわち、勝つためにはセオリーを棄てろということ。
由紀江は、直斗の言葉をそう解釈した。
直斗の持つ鈍らのように比較的刃渡りの短い得物、小太刀や短剣類に対する至近格闘において、真後ろへ後退するというのは最も忌避すべき悪手である。 横への移動か斜め後傾姿勢(スウェーバック)、もしくは前に踏み込んで、敵の必殺の斬突を躱した後に反撃に転じるべきで、この一瞬が勝負の分かれ目であり、不用意に後退すれば相手に“挙動の自由”を与えてしまい、次の行動が予測できなくなる。 前進して敵に打ち込んでいく勢力を失うこともそうだ。 相手にしてみれば迎撃の恐れは無く、また体重が後ろに流れているとなれば防禦も踏ん張りが利かない。 圧し崩すに造作はない。
だがこのとき直斗の放った“二閃で一太刀”の大技は、震脚を踏み終えた後、咄嗟の判断で手早く前進に転じることはできない造りだ。 その時点で、前方への慣性は失われてしまっている。
そこに合わせて後退すれば、直刀の拍子云々の話ではなくなる。
左逆袈裟を打ち終え、二の太刀たる右逆袈裟を繰り出すため、一旦体を返して刃を廻して引き戻す。 遠心力の制御は難しい。 この間の無防備こそ、由紀江が擬する隙だった。 また、ここから次手の放出を待つのは愚策だ。 こちらの動きを察知した相手に、それは対応する余裕を与えるだけだ。
おそらく、先の左逆袈裟は相手の武装を弾き飛ばす役割を担うもの。 すなわち、刃に受け止められてもいいが、どうあれ、少なくとも相手に当てなければならない。 でなければ、半秒の無防備の間に、容易く喰われてしまう。
相手に打擲する、或いは阻まれるよう仕組んだ痛烈な初撃が避けられれば、途端に脆弱さを曝け出す。 この剣技の致命的な欠陥だ。 そしてそれを補うのが直剣による“かどわかし”だ。 回避されない工夫が施されて初めて必殺剣は完成を見る。
しかし、不可避の幻術が破れた今、魔剣は単なる大味な素振りへと、堕落の目をみる。
刃円から逃れれば、後は由紀江の独壇場だった。
直斗の腕が上方に引き上げられたままであるのを目視にて確認。 絶好の鴨。
退歩の着地は、そのまま踏み込みの予備動作に。 丹田を均し、乱れた腰詰めを整え、抜き付けながらの飛躍に移る。
剣で斬るな腕で斬れ、腕で斬るな肩で斬れ、肩で斬るな胴で斬れ、胴で斬るな腰で斬れ、腰で斬るな脚で斬れ。
この刀理を窮めたときにこそ、天下無双の剣刃は手中に落ちるのだった。
名門、黛一派の名に恥じぬ「気・体・剣」の緻密な一致が刹那、否、“阿頼耶”のうちに図られ、がら空きとなった直斗の懐に由紀江は突貫する。
猛気が薫る。
御返しとばかりの、凄まじい速度。 空恐ろしい勢威。
「キィぇぇぇぇッ!!!」
ヒット・アンド・アウェイならぬアウェイ・アンド・ヒット。
あえて攻撃を引き出し、相手を活かして斃す手妻。 まさしく鍛えに鍛えた活人剣の真骨頂である。
戦機を窮めに窮め、最速の剣、最短の太刀の馳走に臨む。
そうして、技巧ならびに信義の限りを尽くした時。
つまりは、黛由紀江が武士としての本能に立ち戻ったこの瞬間。
極意剣“阿頼耶”は、ついには抜かれず、彼女の命運は此処で尽き果てた。
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次回更新は……、FateEXTRAcccがどれだけボリュームあるかによります。
無印まじこいのロゴを見れば、反りの話はわかりやすいかもしれません。
戦闘場面ではお好みのBGMをおかけ下さいませ。