『千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。』
―――宮本武蔵
川神院に住み込み始めて、一週間が過ぎた。
川神院の朝は早い。
門弟に連なる者は皆、午前五時前には起床する。 例外はいるがそれは後ほど。
冷水で身体を無理矢理起こし、道着に着替え、広間に座して整列。
一日の修練は、どの者も座禅から始まり座禅で終える。 他の寺院のように後ろで精神棒を持つ輩はいない。
その必要がない者が、此処川神院で研鑽を積む事を許されているのだから。
施設でも、座禅は日課として行っていた。 暇をつぶす手段でもあったのだが。
不動、流転、無明、無想、無我、色即是空空即是色。
川神院では何を思い、何を基盤として座禅を行うかは個々人に任せられる。
求められるは、自らの武へ還元されうる「型」
俺は自分の型を、一念、と名づけている。
無明の如く、心を、空にすることは俺にはできない。 本当の達人であればできるものらしいが。
だから心を何か一つのみで満たすことで雑念を払う。
旋風、土塊、林木、流水、火炎、鳥獣、拳撃、蹴撃、剣戟、etc...果てに昨日の晩のメニューまで。
日によって、満たすものは変え、あらゆる状況に応ずることの出来るよう備えるというもの。 どれほど武に還元できるかは、才次第、なのだろうが。
<手には鈍ら-Namakura- 第三話:才覚>
座禅が終われば朝食。
精進料理まがいかと思えば、そうではない。
一応、寺院なのだろうが、肉、魚ともにふんだんに使われている。
力=肉は不変であるらしい。 否定はしないが。 美味いし。
野菜もあることにはあるのだが、いかんせん門弟も調理人も何故か男ばかりで栄養に偏りが出る。
主に動物性タンパク質に。
一度それを口に出したら、「ならば」と隣に生姜焼きを二切れ取られることになった。
てめぇハゲ、デフォルト住職が。つかハゲ多すぎだろ川神院。
という悪態を、名残である肉汁にヒタヒタと漬けられたキャベツと共に、噛み込んで飲み込む。
だいたい半分以上の頭は剃り上がっている。 派閥が、あるようだった。
川神院に来てからの懸念ベスト3に入ってた「…頭は、丸めなきゃいけないのだろうか?」という疑問への答えは、強制ではないという事で落ち着いた。 甲子園とかでも思うのだが、頭丸めて、やたらめたらに球が速くなったり、打てるようになるなら別だけれど、規律という名目で皆五厘刈りとかどうよとか思うわけで。 つうか頭守るために毛はあるわけで。 防御力下げてどうすんのよみたいな。
………入所中は毎日思ってましたよ、ええ。
半年前は、俺も剃っていたもの。
生えるうちにお洒落したいやん、という心の声。
僧兵とか、カッコ悪いと思う年頃である。
閑話休題。
朝食を取り終わると、門弟はそれぞれ修練に励む。
師につく者、独りで努力する者、様々であるが基本は皆同じ川神流の技を学び、研鑽する。
川神流独特の「武の演舞」というものを最初に叩き込まれ、あとは勝手にせい、と総代は言い残し去った。
まあそのあとは結局ウザそう…もとい、世話好きそうな兄弟子にみっちり仕合でしごかれたのだが。
かなり個人の修練における自由度は高いのにもかかわらず、この流派が武の最高位に古来から位置していることで、いかに川神流がしなやかで、柔軟性のある武術流派であるかが垣間見える。 個人の才能も現れているのだろうが。
午前は基礎体力強化、午後は体術、夕に剣術と決め、基本は個人で鍛錬する事にした。
基礎体力、特に足腰を鍛えた後にどなたかに師事しようと思ったからである。 たまにルー師範をはじめとした兄弟子に指導を受け、同輩と組み手をかわすことはする。 というかこれは強制なのだが。
やはり、七年のブランクは大きい。 まずは体をどれほど速く、且つ無理なく動かせるか、限界を見極め、伸ばさなければ。
他人の動きを見切る才は、他の弟子よりあるみたいだった。
これは兄弟子同士の組み手を観戦して他の者と話し合えた時分に気づいた。
その唯一誇れる自分の才も、動きを見切れても、そこから攻め手を回避したり受け流したり出来るほどの、技術や瞬発力が圧倒的に足りない事実に霞む。
そのための基礎、足腰の強化である。
地道地道に努力する。
いつか、父母の強さと肩を並べられるように。
そして、彼らの志を継ぐ。
これが俺が川神院に戻った数ある理由の一つでもある。
無論、これだけではないが。
夕方、剣術の鍛錬に移る合間の休憩時、小笠原屋で飴を買う。 これはほぼ毎日。
小笠原フリークに半ばなっているようだ。 甘し美味し。
今日はなんか時代錯誤なガングロが店員と話し込んでいた。 ちょっと、下ネタに引いた。
あまり、関わりたくはねぇ。
玄関にまで戻ると、長い橙髪の、瞳の大きな少女が学校から帰ってきたところだった。
「お帰りなさい。 一子さん」
「あ、直斗君、お疲れっ!」
今日も半袖ブルマという、眩しい格好。
「……ああ、先ほど買ったんですが、飴、要りますか?」
「あ、もらうもらう」
笑顔から元気が振り撒かれるようだった。
下校途中で鍛錬をしてきたのだろう。 半袖の胴の部分に真新しく横一本、茶色いラインが入っていた。
麻縄の跡だ。
タイヤ引きとか、スポ根の古典的王道だよな。
「そちらこそ、毎日学校行きながら鍛錬とは、恐れ入ります」
「あはは。 本当は学園で勉強するより道場とかで体動かしたいんだけど、友達と遊ぶの楽しいし、おねーさまも学校行きながら最強になってるしね」
アレは、なんかもう生物学的になんというか、種族が根本的に色々違う気がするが。
「私の目標は、おねーさまだから」
ズビシッと俺を指差して宣言。
眩しい、本当に。
天真爛漫ってこういう事なんだとほのぼのとする。
その純粋さ。もうねえよ俺には。
というか、仲見世通りをその格好で突っ切ってくるなんて、相当の勇気がいると思うのだが。
……話題を変えよう。
「今日は、いつもより、お早いお帰りですね」
ちらりと掛け時計を見る。普段なら後一、二時間ほど遅いのだが。
「……ぁぁ、いや、その、」
なんだか言いにくそうだ。
「何か、あったのですか?」
「うーん、なんかちょっと河原で鍛錬やりづらくなっちゃって」
多馬川の河川敷は様々な人が様々な目的で集まる。大方、草サッカーなんかが近くで始まったのだろう。
「そうですか」
―――悪い人じゃないのは、わかってるんだけどねー。
そんな言葉が聞こえた気がしたが。
「じゃ、私着替えて出かけるまで道場でもう二汗くらいかいてくるね!」
と、ハヤテのごとく廊下を走っていった。
落ち着かない子だ。
と思ったら、また戻ってくる。
慌しい。
「あ、後さ、今思ったんだけど別に敬語使わなくて良いよ。 私の方が年下なんだし。 おじいちゃんの孫娘だからっていうのも、アタシ的にピンとこないのよね?」
養子らしいことは知っていた。
しかし、それとは無関係に、自分の実力を将来認めて欲しい事の表れだろう。
「すみません、でもこれは俺の癖ですから。 ……努力は、しますが」
「うん、努力が一番だよね!!」
そんなやりとりをして、別れる。
直すつもりはさらさらなかった。
あいつらとの線引きは、必要だと思うから。
夜、食事を済ましてまた剣術の鍛錬のために、境内へ赴く。
まあ剣術といっても今は足腰の鍛錬しかやらないんだが。
玄関から外に向かおうとすると、ハスキーボイス。
「ただいまー」
武神と鉢合わせる。
「あ、お帰りなさい、百代さん。」
「おー、新入り、だったか?」
「おねーさま、直斗くん!!」
&その妹。
「お帰りなさい、一子さん。 今日は金曜集会とやらで?」
「ああ」
百代は答える。
「小学生の頃からの仲良し達と、愉快な会議だ」
……楽しいん、だろうな。
双眸が、それを語っている。
「それはなによりです。 食事まだでしたら夕飯、冷めると悪いのでお早く」
「そうだな。 お前も鍛錬、頑張れよ」
凛とした眼差しが俺を射抜く。
内心、どきり。
正直に言おう。
この瞳に、俺は惹かれたのだ。
飾らない、心の映し鏡のような瞳に、俺は昔、恋をした。
「はい」
顔を背け、返答して足早に玄関を出る。
今は、この感情は邪魔になるだけだと言い聞かせて。
実際そうなのだから。
残念なことに。
本当に、残念なことに。
来年、俺は確かめる。
そしてその後の行動の選択肢を、「そのままにしておく」以外の選択肢を創るために、俺は小細工のない純粋な強さを得なければ。
彼女と、肩を並べるほどの。
境内の端に到着。
「うッしゃァ!!」
無意識に、気合の声が弾けた。
矢車直斗の、川神院の誰よりも、強い意志と鬼気を伴った修練は、こうして約一年間続いていくのだった…。
数週後の夕方、川神院玄関にて。
白髭の老翁と、黒髪の孫娘の会話があった。
「行くのか」
「ああ。 例によって金曜集会だが、ワン子も私も夕飯は大和たちと食べるから」
「そうか。 ……あまり遅くなるなよ?」
「基地で食べるだけでお開きみたいだ。 風間が寿司もらってくるらしい」
トロは誰にも渡さんと孫の目が語る。
「……贅沢な高校生じゃのう」
やれやれ、仲が良いのは結構なんじゃが、と内心呟く。
このままでは不味いぞ、おぬし等。
唐突に。
「なあ、ジジイ」
少し、孫の声色が変わる。
「何じゃ?」
「…この前、うちに来た矢車って奴、なんで門下生に混じってるんだ?」
まさか、彼奴について聞かれるとは思わなんだ。
「…む?」
「あいつ、世辞にも川神院入れるほど、才能あるってわけじゃないだろ。 体捌きが、お粗末に過ぎる」
「……まあの」
「ワン子みたいに、努力の才能認められたってとこなのか? あの意地の悪い試練で」
「……そうじゃなぁ」
「……ふぅん。 いや、なんとなく気に懸かっただけなんだが」
なんとなく、本当になんとなくなのだが、何処かで会ったような。
そして、何故か、五月に最初に会ったとき、血が滾った。 強敵だと、体躯が告げた気がした。
まあ、組み手したら呆気なく数秒でぶっ飛ばせたのだが。
ただ、眼、だけは自分の動きを見切っていた節があった。
それだけといえばそれだけなのだが。
ただ偶然視線が技の軸に重なっただけかもしれないのだし。
それから何度も組み手をしたが、もう一つ気になったのが、表情。
普通、院で組み手を始める時、またはその最中、相手には必ず怯えが見えるのだ。 顔もそうだが動きにも顕著に現れる。 特にこちらの攻め手が入る直前に。 これは門弟最下位でも師範代でも変わらない。 むしろ技が見切れる分、ルー師範代は、より怖れが顔に出る。
だが奴は、組み手の最中、まったく顔色を変えない。 技を見切れているのにもかかわらずだ。 こちらの拳を受けるとき(勿論クリーンヒットで)、「ああ、ここまでか」と冷静に分析し、観察しているような顔さえ見せる。
まあ、相変わらず私はおろかルー師範代にも全く勝てずにいるのだ。
何も考えていないと思うのが妥当かもしれない。
ワン子と、やっといい勝負なのだし。
祖父の表情、返答から、なんだか煮えきらないとも思ったが、いずれにせよ強くならなきゃ自分には関係ないなとも思い直し、百代は廃ビルへと足を向ける。
今日は舎弟を、どう弄ろうかと考えながら…。
孫娘が去った後。
翁はひとりごちる。
「何かしら、感ずるところがあったのかのう?」
いつか、九鬼揚羽以上に対等に、対峙するかもしれない者に。