<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

その他SS投稿掲示板


[広告]


No.25343の一覧
[0] 手には鈍ら-Namakura-(真剣で私に恋しなさい!)[かぷりこん](2013/08/25 17:16)
[1] [かぷりこん](2011/07/09 17:24)
[2] 第一話:解放[かぷりこん](2011/07/09 17:27)
[3] 第二話:確認[かぷりこん](2011/07/09 17:34)
[4] 第三話:才覚[かぷりこん](2011/07/09 17:52)
[5] 第四話:降雪[かぷりこん](2011/07/22 22:57)
[6] 第五話:仕合[かぷりこん](2012/01/30 14:33)
[7] 第六話:稽古[かぷりこん](2011/07/09 18:32)
[8] 第七話:切掛[かぷりこん](2011/07/09 18:59)
[9] 第八話:登校[かぷりこん](2011/07/10 00:05)
[10] 第九話:寄合[かぷりこん](2011/12/19 22:41)
[11] 第十話:懲悪[かぷりこん](2011/07/10 00:13)
[12] 第十一話:決闘[かぷりこん](2011/07/18 02:13)
[13] 第十二話:勧誘[かぷりこん](2011/07/10 00:22)
[14] 第十三話:箱根[かぷりこん](2011/07/10 00:26)
[15] 第十四話:富豪[かぷりこん](2012/02/05 02:31)
[16] 第十五話:天災[かぷりこん](2011/07/10 00:29)
[17] 第十六話:死力[かぷりこん](2012/08/29 16:05)
[18] 第十七話:秘愛[かぷりこん](2011/08/20 09:00)
[19] 第十八話:忠臣[かぷりこん](2011/07/10 00:48)
[20] 第十九話:渇望[かぷりこん](2011/07/10 00:51)
[21] 第二十話:仲裁[かぷりこん](2011/07/10 00:56)
[22] 第二十一話:失意[かぷりこん](2011/07/06 23:45)
[23] 第二十二話:決意[かぷりこん](2011/07/09 23:33)
[24] 第二十三話;占星[かぷりこん](2011/07/12 22:27)
[25] 第二十四話:羨望[かぷりこん](2011/07/22 01:13)
[26] 第二十五話:犬猿[かぷりこん](2011/07/29 20:14)
[27] 第二十六話:発端[かぷりこん](2011/08/11 00:36)
[28] 第二十七話:哭剣[かぷりこん](2011/08/14 14:12)
[29] 第二十八話:幻影[かぷりこん](2011/08/26 22:12)
[30] 第二十九話:決断[かぷりこん](2011/08/30 22:22)
[31] 第三十話:宣戦[かぷりこん](2011/09/17 11:05)
[32] 第三十一話:誠意[かぷりこん](2012/12/14 21:29)
[33] 第三十二話:落涙[かぷりこん](2012/04/29 16:49)
[34] 第三十三話:証明[かぷりこん](2011/11/14 00:25)
[35] 第三十四話:森羅[かぷりこん](2012/01/03 18:01)
[36] 第三十五話:対峙[かぷりこん](2012/01/25 23:34)
[37] 第三十六話:打明[かぷりこん](2013/11/02 15:34)
[38] 第三十七話:畏友[かぷりこん](2012/03/07 15:33)
[39] 第三十八話:燃滓[かぷりこん](2012/08/08 18:36)
[40] 第三十九話:下拵[かぷりこん](2012/06/09 15:41)
[41] 第四十話:銃爪[かぷりこん](2013/02/18 08:16)
[42] 第四十一話:価値[かぷりこん](2013/02/18 08:24)
[43] 平成二十一年度『川神大戦』実施要項[かぷりこん](2013/02/18 07:52)
[44] 第四十二話:見参[かぷりこん](2013/07/17 08:39)
[45] 第四十三話:戦端[かぷりこん](2013/03/31 11:28)
[46] 第四十四話:剣理[かぷりこん](2013/05/11 07:23)
[47] 第四十五話:手足[かぷりこん](2013/08/20 08:47)
[48] 第四十六話:膳立[かぷりこん](2013/08/25 17:18)
[49] 第四十七話:鞘鳴[かぷりこん](2014/02/05 18:46)
[50] 第四十八話:咆哮[かぷりこん](2015/01/11 10:57)
[51] 第四十九話:決斗[かぷりこん](2015/11/29 14:16)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[25343] 第三十八話:燃滓
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/08/08 18:36
『や、つうかよ? 赤とか白とかそんなことにこだわってるから、何か色々面倒臭えことになるのかも知れねえな。 要するに、俺が勝ちゃいいんでよ。 とどのつまりは、俺個人の問題なんだ。 な? うん。 よし、解った―――、今日から俺のことは「ピンクさん」と呼べ』

―――平清盛 『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』

























お嬢様には絶対に近づかせてはならない領域だ、と。 

乱立する雑居ビルの一棟から放たれる淡紫のネオン光の下、マルギッテ・エーベルバッハは認識を深く深く改めた。

そのマルギッテの足元には、一人の男が時折ひきつけを起こしながら伸びている。

見るからに不衛生そうな茶髪を伸ばし、ピアスに代表される大量の貴金属を装った、いかにもこの土地の住人然とした風貌の男である。

体格は雑踏の中でも頭一つ飛び出るであろう相当な大柄で、つい先ほどまでは屈強な体躯が常人よりかは幾らか大きな威圧感を醸し出していた。

その風体に違わず顔相は強面そのもので、それを押してか数人の子分を囲っていたらしいのだが、今は影も形も見当たらない。

何もこちらから気を引いたわけではないのだが、どうもこの男と男の率いる集団は、初対面の外国人女性の肌に遠慮なく触れようするほどには酷く劣情を催していたようで、マルギッテは煩く付き纏われたあげく、恐らくは手下連中の仕業だったろうワンボックスカーに退路を塞がれ、スライドドアの滑擦音を背後にして、やむなく実力を行使したところであった。

大衆向けの男性用香水にアルコール臭が混交された濃い馨りが意識せずとも嗅ぎ取れる距離まで接近されたところで、触りたくもないといった表情を隠しもせずに、ぴんと関節を伸ばした人差し指と中指で茶髪の肩の付け根をマルギッテは小突いた。

押しどころを得た突きに、茶髪は粘っこい笑みを顔に張り付かせたまま簡単にバランスを崩して仰向けに転倒した。

なまじの護身術や格闘技とはレベルの違う、人の肉体の構造を知りぬいた者にのみ可能な急所への針の一突きによって開戦の狼煙が上げられたのだった。

初撃に生じた集団の隙を突いて、可及的速やかにこの場を離脱し追っ手を撒いて目的地を目指せばよかったものを、戦闘の長期続行をも意味する開戦という言葉がマルギッテの頭をいっぱいにしたのは、「最後の一兵となっても勝つことを諦めない」兵士育成の一環として教え込まれた無手格闘術が、危機に対処し終えるまで対象に背を向けることを許さないからだった。

戦略目的より戦術目的を優先してしまうマルギッテの気質、軍人としての課題が浮き彫りになった瞬間であった。

猟犬とは、もとより的確な指示を飛ばす狩人が傍で使役することで初めて真価を発揮する生き物なのだ。

……ともあれ、非公式な上司の頼みとはいえ、一応は隠密任務と内心で銘打って、服装も常の正装でも迷彩服でもなくダウンパーカーに中古のデニムのジーンズで身を固め、シァネル柄なのに何故かジッパーがYKKのハンドバックを肩から吊るし、適当に見繕ったハンチング帽で赤毛を隠して伊達眼鏡もかけて、つとめて一般人(仕送りの足りなさに住居を治安の悪さで有名な歓楽街近くの安アパートしか確保できず、日々の服装もフリーマーケットで買い集めざるを得なかったが、それでもめげずに深夜のレンタルビデオ屋でのアルバイトへ出かける、ドイツから家出同然で留学してきたちょっと陰ある苦学生二十一歳)を演じきろうとしたのだが、もはや後の祭りである。 普段通りの服装のほうがその威圧感から声をかけられることもなかったのでは、と脳裏によぎった閃きはこの際無視である。



Hasen jagd



倒れた茶髪の鳩尾に容赦なく爪先を打ち込んで追い討ちをかけ、条件反射で危険を察知するよう苛め抜いた五感が、直近の次なる相手の胸元に潜んでいた奇妙な膨らみをバタフライナイフのものと即座に認めて、習った通りに腕が動いて足が動いて、数瞬後にその対処を完了させる。

「うわ」とか「ひえ」とかそんな取り立てて特徴もない悲鳴を聞き流し、直上に回転しながら風唸りをあげて飛び上がった刃物を難なく指先で摘み取って、誰に投げかけようかと逡巡した瞬間、対峙していた誰の目も捕食者のそれから被食者のそれへと変貌し、我先にと子分どもは親分一人残して、それぞれ細かな路地へ三々五々と散って行った。

なんの昂揚もない勝利の心地であった。

むしろ無駄な時間を過ごしたという苛立ちしかなく、大きく舌打ちしたい衝動に駆られたが、この地帯ではそれはまたしてもいらぬ面倒に巻き込まれる原因にしかなりえないことを承知していたマルギッテは、代わりに鼻を小さく鳴らして、まばらに集まり始めていた野次馬の遠慮のない視線にうんざりしながら、帽子を目深に被り直して、通称を親不孝通りと呼ばれるその町のメインストリートを再び歩き始めた。

午後十時過ぎ。 淀んだ水溜りから発するような饐えた淫靡な空気を漂わせる堀之外町が、その個性を際立たせ始める時間帯だった。

川神という市がクリスの当面の生活環境となるにあたって、この地域を川神院とは別の意味で最重要警戒区域としてマルギッテは頭に刻んでいた。

調査というものは情報収集能力の問題ではなく、そこから昇華した認識力や想像力の問題であるとマルギッテは士官訓練中の座学で教わったものだったが、ことこの町についてに限っては、情報を整理したうえで言えば、認識も想像もしたくもなくなる、というのがマルギッテの偽らざる本心だった。

性風俗企業が何十何件だの、その規模は関東では吉原に次ぐものであるだの、最近の法改正から風俗店はソープからマットヘルスに形態が移行してきているだの、それらをより深く認識して何になるのか。

周辺を束ねる飲食組合に非加盟だった外人娼館もついこの間まで営業していたという情報から、ああ、もしかしたら自分はそこの従業員に間違えられたのかもしれない、などと考えてしまうあたり、日本に伝わる「知らぬが仏」という言葉はよくも言ってくれたものである。

そんな無益この上ない考察をしている間に、思考とかけ離されてほとんど自立的に動いていた足は、目的地周辺にマルギッテを運び終えていた。

競馬場へと向かう道と交差する十字路を曲がって、六つ目のビルの四階。

隣のビルの、今も営業しているのかは定かではなく甚だ如何わしそうな韓国エステの照明の切れた袖看板を一瞥して、梅雨明けの生暖かい外気を深く吸いつつ、これから利用しようと目を向けたエレベーターの扉に故障中の張り紙を見つけて、心底憂鬱に滲んだ息を吐き出すと同時に外付けの螺旋階段を上っていった。

すっかり出来あがった中年のサラリーマンが千鳥足で下ってくるのとすれ違い、こびりついた反吐の跡を跨いで、二階の雀荘、三階の居酒屋を目端に流して通り過ぎて、目的の階数に到達した。

宇佐美代行サービス㈲の文字が、入口扉の磨りガラスの中に浮かんでいる。

まるげって、と。 

本人としては洒落っぽく言っているつもりなのか、独特の発音で時折自分の名を呼ぶ、一応はマルギッテの担任教師である男がここに居る筈だった。












<手には鈍ら-Namakura- 第三十八話:燃滓>














「所長、えらい美人さんがご依頼に……」

そんな声に、私立川神学園特設学科「人間学」講師にして、有限会社宇佐美代行サービス代表取締役の彼が反応しない筈はなかった。

視線避けの為の衝立の向こう側で折り曲げたスポーツ紙を顔に被り、それをアイマスク代わりにソファの上で仮眠を取っていた宇佐美巨人は、新聞が床に落ちるのも構わず勢いよく上体を跳ね上げると、サイドテーブルの上に飲み残していた缶コーヒーを急ぎ呷り、「おう、ちょっと待たせてもらってくれ」と年季の入ってくたびれた安ジャケットの襟を正した。

もう一方の職場に一途に口説き落としたい対象がいるとはいえ、それが他の女性に色目を使うことへのフィルターになることは、この男に関してはありえないのである。

『代行屋』、実態は万事屋として、彼がこの社屋を構えてからもう十数年になる。
設立当初と比べ客に困ることはなくなったとはいえ、月々の帳簿を見れば赤字黒字を行ったり来たり、自転車操業一歩手前の現状維持が精一杯である。
ペットの捜索、ゴミ屋敷の処理、興信所ばりの浮気調査から近所の不良退治というような荒事まで、依頼される様々な仕事を代行し請け負うアウトローならではの職であるが、漫画のように格好をつけても所詮は小間使いの延長と言われればそれまでで、白黒入り混じったグレーゾーンの仕事には往々にしてある事だが、一つ一つの案件に対する成功報酬の格差は激しい。 相場と比べて比較的安い手数料で依頼人と契約することもあり、とても安定給を見込めるものではなかった。

人間誰しも大なり小なりワケアリの事情を抱えているもので、日々の仕事には困っていないというのが救いであり、従業員を絶えず入れ替えての24時間営業と、学園でエリート相手に教壇に立つ見返りに貰うそれなりの額の月給のおかげで、日に一箱の煙草を買えて月に二度は"厄落とし"と称して近隣の泡風呂へ通うことのできる生活を宇佐美は保ってきている。

まあそんな、世間様に辛うじて顔向けできる本当にギリギリの職業だが、たまに役得だ、と思える瞬間は確かにある。

それはロマンでありドラマだ、と言えば笑われるだろうか。

たとえば、何十年も前に埋められた行方知れずのタイムカプセルが何晩もの捜索の末に発見され、恥ずかしがりながらも互いに肩を叩いて笑いあう依頼人達の雑談に付き合った時。
たとえば、地下カジノでの代打ちで、相手のイカサマを密かに逆手にとって賭け分を総取って、左手の小指や薬指を詰めたお歴々御用達の、片言の日本語を繰り出す東南系の美女達に一斉に囲まれた時。

後にも先にも人生最大級の修羅場と間違いなく言えた博打のほうはもう二度と御免だが、二年三年に一度あるかどうかのそんなサプライズ……、これがあるから、腐れた孤児院育ちの元喧嘩屋でも人生を謳歌しようと思えるなにか、そう形容できる爽快感は、すっかり厭世的になったこの身でも何かしら感じ取れるものだった。

自分のように生きろと、代行業を継がせるつもりでいる忠勝に言うつもりはない。

ただ、侘しい灰色と毒々しい極彩色が入れ替わり、明滅し、混在し続けるこの街で生きていく中でも、真っ当な面白いもんには真っ当な笑いを表情に浮かべられるような、そんな男になって欲しいと宇佐美は思うのだった。




……さて、こんな夜更けに依頼とは、どのような案件だろう。 

先述したロマンというものは、たいていこういうシチュエーションから端を発するものだが、まずはどんな魔性の女だろうかと、十中八九、水商売系と当たりをつけて、衝立からひょいと宇佐美は営業用の顔を覗かせた。

そうして二秒後、声を寸時失くした宇佐美は寝起きの眼が未だ正常に稼動していないという錯覚に陥り、乾燥気味の指で目元を擦って目端を揉んだが、それで何かが変わるものでもなかった。

一点の染みのない白い肌、そこから滑らかに生じた目鼻、すっと結ばれた形のよい唇と、美人の平均というものがあれば明らかに上回ること請け合いの造作ぞうさくを見ているのだが、窓口で従業員と正対して立っている「えらい美人さん」は、世の男を惑わせかどわかす魔性というより、幾多の修羅場を掻い潜ってきた化生の女であることを宇佐美は了解していた。

「マ、マルギッテ? 怪我は……、ってよりなんだ、その格好は?」

常の濃紺の軍服姿とは打って変わって、これまた個性的な私服姿に狼狽する。

明らかに後から縫いつけられたとみえるデフォルメされたクマのパッチがパーカーの胸元に映えていて、ややちぐはぐな印象を受けるコーディネートに、唯一温かみを添えていた。

まるで現実感のない対面であるが「ここに来る事は、人には知られたくありませんでしたので」とすげなく応え、無造作にかけていた瓶底眼鏡を外したのは、やはり間違いなくマルギッテ・エーベルバッハその人であった。

「……なんです所長、お知り合いでしたか?」

ちろりと面白がっているような視線を向けてきた十年来の仕事仲間に「残念ながらただの教え子だ」と苦笑を送る。

「できれば外の、邪魔の入らないところで話したい」と言われて、改めてマルギッテに向き直る。

イエス・マムと。 そう言わざるを得ない底堅い瞳が、そこにはあった。















「夜回り先生の真似事やってくら」との社長の言葉に、従業員は「お医者さんごっこはナシっすよ?」と返す、そんな素敵な職場である。

苦言を呈そうとした瞬間、刃物ヤッパ――何処から入手したのか知れぬ悪趣味な髑髏を柄に誂えたバタフライナイフを仕事仲間の鼻先に突きつけ、猫の轢死体を見たような形相を浮かべたマルギッテを宥めすかして、外に出る。

学園ではなく、この事務所この時間帯にこの自分を訪ねてくるとなれば、よほどの人目を憚る事情があるのだろう。

「……オジサンの色気にやられて来ちゃいましたー、なんてのはないわな」などという冗談を言えばどんな返事が返ってくるのか知れたものではなかった。

そう賢明な判断を下した宇佐美は、とりあえず何件かある行きつけのスナックのうち、社から百メートルほど歩いたところにある一番寂れた店で用件を訊く事にした。

ほぼ一日中は開いているその飲み屋。 
アルコールがメニュー表の半分を占拠し、もう半分のページの冒頭には「あじの開き定食 450円」の文字が並んでいるにもかかわらず、頑なに『純喫茶』の看板を下ろそうとしないパンチパーマの無口な婆さんがそこの名物といえば名物であった。

ほぼ馴染みの客専門となっているのが逆に功を奏し、この時間帯なら誰も来店していないだろうという予測は外れていなかった。

こじんまりとした店舗の中、カウンターのほかには二つきりしかないテーブル席の片方に陣取りマルギッテも椅子につくと、いつ眠っているのか定かでない婆さんが常になく清潔に見えるお絞りを置いていった。

コーヒー二つと婆さんに注文した後、去り際に合わせた目に何故だか哀れみというか慈しみというか、「くじけるなよ」というメッセージのような、そんなものを汲み取った気になった宇佐美は、厨房に引っ込んでいくひん曲がった背中を一睨みし、心なし大きく咳払いして「復学のご挨拶ってわけじゃなさそうだが……」と会話の口火を切った。

「お久しぶりです宇佐美教諭、とまずは挨拶しておきましょう。 用件は他でもなく、一つ依頼をしたい。 ……その前に条件がいくつか」と尊大な口調で言ったきり膝元に視線を落としたマルギッテは、有名ブランドのパチモノと見えるハンドバックをまさぐり始めた。

一応という接頭語がつくとはいえ、担任教師相手に遠慮とか敬語とかいうものは、はなから存在しないようである。 

もともとエリート志向の強いS組連中に期待する方が間違っているといえばそれまでだ。 自分のような身分も定かじゃない枯れ始めのオッサンに敬意を払えと言われれば、昔の俺でも願い下げだろう。

テーブルの下で足を組み、流し目でマルギッテの挙動を見据えていると、湿気と油を数十年分たっぷり吸ってきたろう丸テーブルの上を茶色の紙袋が滑走してきて、ぽさりと宇佐美の膝元に落ちた。

「依頼を遂行する上での諸々の経費、手数料。 ちなみにこれはお前を指名する責任を負う私個人から。 最終的な報酬は結果を見て、中将のポケットマネーから応分の額を支払う」

迂遠な物言いなど一切なく、簡単明瞭な単語の羅列で話をどんどん進めていく教え子である。

「……依頼内容は学園関係?」

だが宇佐美も負けてはいない。

浮気の疑惑が確かとなった腹太の人妻の泣き言を聞いているより、こういう、常なら大和とやりあうような、立て板に水と形容される会話の方が遥かにいい。

耳にしたパトロンの名前と、手にしたユーロ袋の重さから漂うきな臭さ、そしてなにより―――この時期。

宇佐美の瞳は鈍い光を灯し始めていた。 ああ、これは、と。

ひとつ頷いたマルギッテは「もうひとつの条件は、それをお前ひとり、宇佐美巨人個人の独力で完遂して欲しいという事……」と続けた。 意味するところは一つである。

「誰にも、ウチの社員にも、カク秘で事を運べってことだな?」

「それ以外の意味はありません。 ……この二つの条件を飲んでくれさえすれば、内容を明かします」

それこそ内容による、と返答したいところだったが、封殺されれば一瞬黙考せざるをえなくなった。

これは飛んで火にいる……というやつ、なのか……。

代行業を営むうちに研ぎ澄まされた宇佐美の勘は、社屋でマルギッテの双眸に射抜かれたときから頭の中で関わるなと警鐘を鳴らし続けている。

加えて言わば、ゴールより先にニンジンをぶら下げて見せびらかす、というこのやり口である。 宇佐美が最も忌避する依頼者の態度の見本だった。 そういう輩に関わると大体にして仕事に“けち”がつくことが多いというのが、宇佐美の経験則だった。

だが一方で、ここ数ヶ月間、矢車直斗という男の前に教師として、F組の教壇に立った後に紫煙で燻すことで騙し騙し折り合いをつけてきた胸中の感情が鉛の重石になって、宇佐美が席を立つことに待ったをかけていた。

もしかしたらこの時、煙草を社に忘れてこなかったら、宇佐美はマルギッテを、または自分の感情を文字通り“煙に巻いて”、この話題、この依頼から早々に退散したかもしれない。 怠惰の言い訳に、それが一番利口な生き方だと、心中で繰り返し嘯いて。

だが、現実はそうならなかった。 

そうはならなかったのだ。 

「実力を行使する場合にのみ軍人は動く。 となりゃ、俺達……、おっと失礼……『俺』は、その前の斥候代わり。 言葉遊びじゃねぇが、斥候の斥候。 そういう役回りと仮定しよう。 自慢じゃないが、本職のアンタらより良い仕事が出来るとは到底思えないが?」

「お前が学園内部に食い込んでいるという事実。 それと、今のように多少は使える頭があれば十分務まると見ている。 他にも理由はあるが、出来れば『地下』の情報も欲しいと、そう思いなさい。 こちらに来て日が浅い私では、そのあたりは調べ切れないでしょう」

猟犬の鼻も、堀之外の腐臭の前には機能不全。 そういう事らしい。

「ちなみに断った場合……」

「おいおい、三流映画みたいな沙汰にはならんだろうな?」

「まさか。 断れば、その手数料が口止め料に化けるだけのこと」

こちらの大仰な身振り手振りを交えた呆れ顔に、にべもなく淡々と事実を通達して、後はお前次第だと言わんばかりにマルギッテは試すような目をこちらに向けてきた。



……覚悟の、決め時なのかもしれない。 

これは降って沸いてきた、もしかしたら自分が無意識に望んでいたかもしれぬ“きっかけ”だ。

しかしそうした内面の感情の行き来をおくびにも見せず、宇佐美は僅かに細めた目を唯一の反応にして、大儀そうに背を反らせて安椅子にもたれかかった。

「……ハッ、生徒の金をパクって逃げんのは流石にな。 俺にもそれくらいの了見はある。 考えさせてくれって台詞は短気なお前は嫌うだろ? いいさ、謹んで受けよう、その依頼。 大体の予想もついてる。 ……矢車さん家の直斗君。 ずいぶんと中将殿の娘っ子を苛めてたからな?」

凝った首を鳴らすと、宇佐美は温いお絞りで顔を拭いながら、ふざけ半分、何でもないように了承の意を表した。

すると「茶化すのはやめなさい」と本日二度目の据わった目が今度はこちらを向き、その絶妙なタイミングで厨房の暖簾が割れてコーヒーが運ばれてきた。

常よりもコクのあるエスプレッソを啜りつつ、ここ数年通って一度も聞いた事のなかった猫撫で声で応対し続ける婆さんが再びカウンターの向こうに消えるのを待って会話を再開する。

「察している通り、調査を頼みたいのは他でもない矢車直斗についてだが、お前には特に、奴と風間ファミリーとの関係を調べてもらいたい」

「……モモ先輩恋しさにトチ狂って、ってわけじゃないのか? 今回の大戦のきっかけってやつは」

「様々な可能性が考えられる。 それを調べるのがお前の仕事だ」

「ん~。 いやなぁ、あの即断即行が信条みたいな中将が、麗しの愛娘にひっついた虫をさっさと戦車で消しにかかんないってのは、かなり疑問なんだが、そのへん――」

「それはお前には関係ない。 さて、また後日詳細を連絡するが……ああ、そしてもうふたつほど耳に入れる事がある」

「……あのね、オジサンも探偵紛いの事をするからには、何かしら手掛かり的な情報が欲しいもんなのよ。 そんで、好き勝手に言うだけ言われて、ハイ了解お任せくださいって胸叩けるほど有能じゃないの。 少しはこっちの質問に答えてもらえんもんかね?」

困ったように自分の額を指でとんとんと叩いて、これより雇用主となる相手に宇佐美は愛想笑いを浮かべた。

「後日詳細を連絡すると言った。 ……心配するな、今から言うひとつ目はまさにそれだ。 2001年9月初旬、矢車直斗が日本を初めて訪れた時期」

「……ん」と眉をひそめて唸った宇佐美に、それにもとりつくしまのないマルギッテは、また鞄の中に手を入れた。

電子端末を取り出して語り始めた相手に応じて、こちらは昔ながらの人工皮革にあしらわれた黒手帳を胸内から取り出して、誕生日に息子から貰った万年筆を走らせる。

「お前の調査の中で、なかんずく我々が欲している情報というのは、その時期に矢車直斗に起こった、風間ファミリーとの間の出来事、それに尽きる。 この事案――川神大戦の端緒が額面通りのものでなかった場合、矢車直斗が川神に再来する以前に風間の一党、または直江大和との因縁が芽生えていたと考えるのが一番しっくりくる。 恐らくはそこに全ての根がある。 一家が離散した事も関係するやもしれない……」

「離散?」

「9.11で両親を、直後の水難で妹を、それぞれ亡くしている。 ……それから六年。 一年前に川神の庇護下に置かれるまで、奴の足取りは不明瞭」

「……なかなか際どい人生送ってんだな。 まあ、いい。 んでその、不明ではなく不明瞭ってのは?」

どうやら、この質問はそれほど的外れではなかったらしい。 些か見直したようなマルギッテの視線がこちらを向いた。

「……そうだ。 海外に渡航していただの、現地の日本人学校に転入しただのという記録自体は確かにある。 が、例えば学校の職員の証言に一部齟齬があったり、あるいはアメリカ・イギリス・フランスの三国に同時に存在していたり……」

「おいおい。 ちょっとしたホラーだろ、そりゃ……」

「別段珍しいことではない。 諜報の世界なら、と前置きがつくでしょうが」

「あんたらとは事情が違うでしょうが…………っと、いやいや、まて……、これは、そういう話●●●●●なのか?」

とても信じられないという声音を響かせた宇佐美に、マルギッテは失笑を返した。

「あれが、どこぞの間諜だったとか、そういうふうには私も考えないが、何かしら国が動いたのは確実だろうと中将はみている。 川神の庇護からして、状況証拠は十分だろう? 限りなく黒に近い白は、外からは白としか断じる事ができないというのは、こちらの世界では常識だ。 完璧な経歴で偽る事は、万一ボロが出た時には如何ともしがたくなる。 いくつか曖昧な“穴”を開けておいて、後から都合の良い過去を捻じ込めるようにしておくのがセオリーだ」

直斗と知己であるという現在の首相が川神院の高弟であり、過去に公的記録の改竄が出来る位置……防衛相、外務相を歴任しているという事実をも付け加えられると、

「……どうもきな臭いと、お前がウチを訪ねてきたときから思ってたが、凄まじく壮大かつ物騒な話になってきたなぁ、おい。 正直、俺の手に余るぞ?」と食傷を起こしたような顔を宇佐美はマルギッテに隠さなかった。 

「心配しなくてもいい。 そちらの足取りのほうは中将や私が攻める。 お前には矢車直斗が姿を消す前、どのようにして風間ファミリーと、直江大和と知り合ったのか。 それだけを調べてもらいたい。 ……お前が日頃、直江大和と茶道部の部室で将棋を打っている事は把握済みだ」

それが出来るのは、夏休みまでのあと二週間しかないという事も把握しているのだろうか。 

宇佐美はそう言い返そうとも思ったが、宇佐美には宇佐美の思惑と感傷があった。

「あとひとつのほうだが、言わずもがな、この調査を直江大和に気取られないことだ」

「だろうな。 ……あれに警戒されたりすると、こっちも色々やりにくくなるのは承知してる」

変装を施してまで、事務所に直々に出向いたのはそういう理由らしい。 恐らくは直前に会社を出発した忠勝の姿を見計らっての訪問だったろう。

忠勝には元々、川神妹と同じ養護施設で子供連中の纏め役だった過去がある。 本人は頑なに認めようとしないが、他人の為に働く事を好む性格だ。 それは真実代行業向きの素質で、それを買って養子として引き取ったのだが、しかしそれが甘さとなっている部分もある。 業務、依頼内容の秘匿に関しては昔から口を酸っぱくして宇佐美はそれを厳命してきたが、仲の良い直江に情報を売り込む可能性は、恐らく低くはないだろう。 万全を期したマルギッテの判断は正しい。

そういう調子でコーヒーを啜りながら二三、これからの接触、連絡方法について確認した後、

「いいだろう」

そう言って宇佐美は踏ん反り返っていた上体の体勢を正し、右手を前に突き出した。 

契約成立時の握手は、月並みだけれども、代行業の看板を掲げて以来変わっていない宇佐美が守るべきジンクスだった。

依頼人が俺には居る、その実感を思い出させてくれる生身の感触。

一刹那の接触でも、それは仕事を遂行する上の矜持となり、また教示にもなるのだった。

「……意外だな」

鍛えられた、女性にしては大きな手に自分の手が取られている間に、マルギッテは疑問を投げかけてきた。

「お前は、川神鉄心に雇われている」

そう。 明らかに真実を知っているであろう川神鉄心が、調査に当たっての目下の懸念である事は間違いなかった。

「言っとくがな、職を失うリスクまで負うつもりはねぇ。 だから、お前が期待するほどの成果は保障できない。 ほどほどに、学長の機嫌窺いながら、目の届かないところで分相応にコソコソやるつもりだ」

「断りはしないまでも、お前の事だ。 もう少し、ゴネる……。 フン、例えば、危険が迫った場合の身の安全の保障とか、最低報酬の指定ぐらいはしてくると踏んでいたのだが?」

S組が自分をどんな人間と思ってるか端的に示してる言葉だったが、それに目くじら立てて反駁の言葉を上げられるほど、宇佐美は若くなかった。

「俺はお前の担任だ。 受け持つ生徒相手にそんな駆け引きしねぇっての……と、こう言えりゃ俺も理想の教師なんだろうが、何年か前にはあった、長いもん相手でも、そいつに巻かれずに対等に張り合ってやろうじゃねぇかっていう気骨が、オジサンから抜けてきてんのが実情よ。 少尉殿●●●?」

昔は俺もこのあたりで鳴らしたクチなんだがねぇと、年寄りの愚痴めいた言葉を吐きながら、お茶を濁す。

横滑りの入り口の扉から顔見知りの客が婆さんを呼ぶ声がする。 そろそろ宇佐美も会社に戻らなければならない時間だった。 

「俺も一応、勤務中でな。 どうぞごゆっくり」

安コーヒー二杯分の注文が記された伝票を片手にとって立ち上がって、おばちゃん、お勘定と言い、一歩二歩とレジに足を進めて、





「矢車真一」

そしてこの、背後からの一突きである。

予想外の、自分にとってはとどめの打撃となる言葉を浴びた心臓がひと跳ねして、少々引き攣った顔を浮かべた宇佐美は立ち尽くしたまま、後ろのテーブル席で未だ椅子に腰掛けたまま確かめるような表情を向けているに違いないマルギッテの続く言葉を聞いた。

「あれの父親がこの区域の出身である事は調べた。 知り合いであればと思ってお前を雇ったという経緯もあるのだが」

「……さあな」

気を取り直した宇佐美のはぐらかしの言葉は、再び鳴った出入り口のドアが開く、錆びついた鈴の音に紛れて掻き消えた。 

「誰のことだか、さっぱりだ」

陳腐な台詞をぼそりと呟いて、どうやら今言及したあたりの事を本当に当てにしていたような様子のマルギッテのほうには、ついには振り返らず、レジで首を傾げ始めた婆さんへの挨拶もそこそこに、宇佐美は店を出た。

























初夏の夜空の下、纏わりつく湿った生温い風を肩で切りながら家路を辿るのは、一仕事を終えたばかりの源忠勝である。

彼は丁度、多馬大橋――通称“変態の橋”の、一つ目の橋梁の真上にさしかかったところだった。

この橋の下を流れる水流。 山梨、東京、神奈川の一都二県に渡る河川水系の本流たる一級河川、多馬川が、この川神という街の清濁を二分する境界なのではと、忠勝は勝手に思っている。 清きの象徴の川神院が鎮座する向こう側には安穏、対するこちら側は岸に寄って学園があるとはいえ、すぐ傍の駅を越えれば堀之外の混沌がひしめいている、と、そんな按配の彼の考察だった。

さて、今日も今日とて、その猥雑な堀之外の空気にどっぷり浸かってきたつもりの忠勝である。 

からかわれる事は火を見るより明らかなので直江や風間には絶対に言うつもりはないが、食器の触れ合う音やテレビの音が何処からともなく漂ってくる、そこに日常的に住む人しかいない、と決め込んでいるような島津寮周辺のゆったりとした空気が、仕事の終わり際には恋しくなるものだった。 

兄弟というのは、家という空間とはああいうものなのだと、忠勝は養護施設を離れた今も教えられ続けている。 むしろ、育てられた施設以上にそれを学んでいると思う。 

一度“本来居るべき家”から生まれて間もなく放逐されたらしい自分にとって、同じ境遇である一子たちと知り合った収容所はかけがえのない場所だとは思うけれども、遊び道具だけでなく愛情や友情をも奪い合う生存競争の場でもあって、本能に任せて喧嘩に参加するより指導員と共にそれを治める役に回ることの多かった自分が、正しく“我を通して”生活していると感じるようになったのは、島津寮に入ってから、風間や直江を筆頭とする風間ファミリーに関わってからだった。 このあたりの自覚が、先日起きた騒動の発端や詳細云々以前の話として、忠勝が風間や直江に肩入れする理由になっているのかもしれない。

高校に進学する前、つまり宇佐美巨人に引き取られた頃、入寮費などを気にして、宇佐美のように社宅というより会社の物置然とした空き部屋に住み込んで、そこから学園に通う旨を伝えたこともあったが、それを「お前に心配されるほど落ちぶれてない」と飄々とした口調で却下した養父は、島津寮が自分にとってどんな位置を占めることになるのか、それを見越していたのだろうか。

恋愛以外における洞察力は直江と同等とみえる男であり、彼自身も孤児院の出だ。 その答えもまた、火を見るより明らかだった。

家業の要領も覚え、日々の生活費くらいは自分で稼いで、ほとんど自立したつもりでいる忠勝にその心遣いは少し癪ではあったが、生きているうちに絶対にこの人にだけは受けた恩を倍付にして返してやるという覚悟、それを腹に据える根拠を、より強めるものとなるのだった。



「よぉ。 お疲れだなぁ、忠勝~」

……やはり、似合わない事を考えるものではなかったか。 噂をすればなんとやらで、当のご本人が登場である。

いつからそこにいたのか、橋の中間点で手すりにもたれかかりながら口端を上げて、ひらひらとこちらに手を振っている。

「親父、」と言いかけた忠勝は、欄干にひとつぽつんと置かれた缶ビールを見咎めて、やれやれと溜息をついた。

「一人で酒盛りって……。 なにやってんだ、こんなとこで。 最近、この辺この時間帯、中年狩りがぶり返してんの知ってんだろうが」

しかし、妙であった。

酒を呷る事にはザルを通り越してワクである養父だ。 飲んでも飲まれる事は滅多にない。

へべれけとは言わずとも、少々呂律の回りが怪しい感がある養父の様子は、忠勝にとって珍しいものだった。

「いや、久方ぶりの風呂の帰り………ああ、至って健全なサウナのほうだからな? 勘違いするなよ?」

「そこまで聞いてねーよ。 それに健全つっても、肌に紋々彫った連中御用達だろうが、あそこは。 だいたい、こっちは会社と逆方向だろ。 何しに――」

「オジサンにも、夜風に当たって黄昏たいときくらいあんの」

忠勝はその口調に、それ以上自分を立ち入れなくするような恣意を漠然と感じ取った。 

大人の顔色を見ることに関しては一家言あると言える少年時代を送ってきた忠勝だ。 そういうところも、直江と気が合う部分ではあるのだが、ひとまず置いておこう。

欄干の酒から改めて養父の方を向きなおした。

詰問を遮って、苦笑したその目の奥は笑っていないように見えた。

「……親父?」

「まあ、お前も、ほれ、ちょっと付き合えよ」

そう言いながら足元のコンビニのレジ袋から、少し前に大衆用に新発売された『カップ川神水』を差し出してきた。

反射的にそれを受け取ってしまった事で、親子二人水入らずの雰囲気ができる。 それを破れる忠勝ではなかった。

仕方なしに忠勝も宇佐美の隣の欄干にもたれた。

堀之外の濡れたコンクリやアスファルトから放たれる淀みのある湿気とは別の、河原の草花の瑞々しさを含んだ微風が肌に心地よかった。

いまだ世間的にも夏休みに入ったわけでなく、ちょうど日が変わる時刻にあって、橋を渡る車も今のところ皆無だ。 彼方から届く車の音を除けば、夜気を乱すものもない。 

堀之外の喧騒から帰還してきたばかりの忠勝にとって、夜というのはこんなにも静かなものだったか、と考えてしまうのも無理からぬ事だった。

橋に沿って点々と立つ水銀灯が頼りない明かりを黒い川面に落としこんでいると思えば、さすがに星の数まで違うという事はなかったが、夜空から降る欠けた月の光は、やはり堀之外で見上げるより明るく感じられる。

現在の養父との微妙な距離感も含めて、風流といえなくもないシチュエーションだ。

それでも真夏日――八月に入れば、ここにたむろするようになる碌でなし共に関わるような依頼も増えるんだろうなと、僅かに眠気とアルコールが回り始めた頭でぼんやり考えた後、下の水流へ俯いたまま全く喋らない養父の様子に忠勝は痺れを切らした。

「親父何か、」
「実はなぁ、」

そして見事に重なった口火の切り口である。

そのままこそばゆい感覚でモゴモゴと出しかけた言葉を口内にしまう忠勝と対照的に、愉快そうに更に口を歪めた宇佐美は続けた。

「面倒な仕事、引き受けちまってさ」

しみじみとした、さほど深刻そうでない口調事に少々の安堵を覚えた忠勝であったが、秘密を打ち明ける悪戯っ子のような、そんな年甲斐のない表情を浮かべる宇佐美をやはり怪訝な目で見つめた。

「それ、やばい話かよ?」

「いんや?」と、宇佐美はぐいと缶を呷り、残りの雫を舌に垂らして、すかさず空いているもう一方の手で袋の中を物色して同じ缶を欄干に置くと、器用に片手でプルトップを上げた。

「なんつーか、タイムリーでなぁ」

「あん?」

新鮮な空気を体内に導き入れる、溜息のような深呼吸が行われるさまを忠勝は見つめた。

「……お前の仕事、今日、青空闘技場のほうだったか?」

「……」

脈絡のない話題の選択である。 

しかしテキトーに見えて、実は適当。 
何事も論理的かつ合理的に、どこか悟ったように語る養父だ。 何かしらの意図があるのだろうと察した忠勝は曖昧に相槌を打った。

青空闘技場。 
地元民にはそう称されるが正式名称は堀之外町歩行者天国と言い、堀之外の中心部の十字路にどでんとボクシングのリングが横たわっている地帯である。

体力を持て余すばかりの、日がな毎日惰性で生きている連中の暇潰し場所。 それが忠勝が件の闘技場に持つ印象である。

川神院の者のように、己を練磨するべくあのリングに立つ者はごく少数と聞く。 

魑魅魍魎が跋扈する堀之外町内会からの委託で、忠勝は他従業員数名とともにそこの清掃業務に従事してきたところだった。

「もう二十年かそこら、あそこは現役で居続けてるんだがな。 その前はどんなだったと思う?」

「いや、どんなだったって……、みんな路上で馬鹿騒ぎやってたんじゃねぇのか? 警察が煩くなって、んで、妥協案として商店街のカンパで、あれが作られたって聞いてるけどよ」

周囲に広がる様々な店舗と同様あそこも、いわゆる“ガス抜き”の場である。

風俗業も商売だ。 たかだか一度ひとたび数万円の本能欲の発散で、商売道具を疵物にされることがあってはかなわないだろう。

性欲以外のものの発散の為に、風俗店に代替する施設を取り揃える必要があったというのが忠勝の洞察である。

「半分正解。 ……昔は、地下闘技場ってのがあって、それが法に触らんくらいマイルドになったのが今のアレ。 青空闘技場ってガキ臭ぇネーミングは名残っつうか、その皮肉だよ」

もっともこの町の古株連中にしか通じないがな、と付け加えて、

「お察しくださいってやつだが、今の“青空”と違って組の連中が元締め胴元で、賭場になってたんだな。 素寒貧で地元飛び出して、世の中の日陰って場所に馴染み始めて、喧嘩師ってのが板についてきて、二年くらい幹部の雇われ用心棒やってた俺も、飛び入りで金網ん中に何度か出された。 勝ったのが二、三度。 勝たされたのが一度」 

「親父が、昔はそれなりに強かったってのは聞いてる」

現在も代紋背負ってる連中をはじめ、様々なところに顔の効く宇佐美だ。 何か一芸に秀でていなければ可笑しな話であり、組の武闘派で鳴らしたとあれば納得である。

「それなりに必死だった。 オッズもカッチカチ。 ヤクザってのは面子が命の稼業だ。 直参の懐刀が鈍らじゃ、兄弟分にも子分にも示しがつかねぇだろ? ……まあ、そんな中でもな、楽しくやってたよ。 話せる奴も何人かいて居心地も悪くなくて、飯も三度三度食えたし。 ただ、信じられんかもしれんが、組の仕事がな、どうしても好きになれなかった。 今じゃ人生のもえかすみたいな俺にも、ウブな頃があったもんで。 特にクスリとか、女売り物にするシノギとかは、まるで動物園だ。 猿山の猿の方がよっぽど頭良いだろって思ってた。 だから先輩方にゃお前はもっと上いけるって、親子盃だ兄弟盃だ散々勧められてたが、ずっとお偉いの弾除け、猿山ピラミッドの一番下に陣取ってた。 悪党のてっぺんなんざ、たかが知れてるってな。 ……そう思ってたときに、出会った奴がいた」

そこでしばし言葉を切った宇佐美に先を促したい気持ちはあったが、それまでの養父の述懐の内容もまた忠勝の心に重くのしかかっていた。

自分や一子のように里親が見つからなければ、この国の養護施設は、だいたいが十八で収容する児童を独り立ちさせる。 放り出して、あとは野となれ山となれというのは流石にない。 入居時や大学入学時の保証人になってもくれる。 

だが、それでも二十歳になるまでの二年は法的制約が多く、就職は難航必至。 血反吐吐く思いして学費稼いで勉強する気のない奴は、タコ部屋、フリーターで食いつないで二十歳になったらまだ条件の良いハケンに切り替え。 そしてやっぱりそこから血反吐吐く思いして将来の元手を稼ぐ根性があるかないかで、他の業種に手を出せるか、極貧から抜け出せるかどうかが決まるのだ。 それが、俺達みたいな親のない奴らの大多数が送る人生だ。 だから、その中でも自分は特別恵まれているほうである。

しかし目前の養父の場合、生活していた施設が潰れ、引き取り先は肌が合わず、ひとり出奔して、そのまま裸一貫で川神に流れ着き、受け皿となったのが……、という救いのない話である。 その中でも人の道という一線を守り通してきた男の肩を横目にして、忠勝はそのまま耳を傾け続けた。

「さっき言った、勝たされたって試合の相手だ。 そいつの場合は家を飛び出してきた口らしくて、親の顔も知らねぇ俺としちゃ最初は気に食わなかったんだが、なんつーか、賑やかな奴だったよ。 話好きっていうのかね」

「その言いようだと、ダチになったって感じみてぇだが?」

「……ダチ作るって事が、その他大勢とそいつを引き離してテメーの都合の良いように区別するもんだったら、俺は、誰とも付き合わんよ」

「あん?」






「そう言われたの、俺ァ思い出したのよ。 あの時、直江に向かって、そいつの息子●●●●●●が、啖呵切った時にな」

















酔眼を開け広げて絶句するしかない忠勝に構わず、静かに、しかし何かに憑かれたように呟き続けて、宇佐美は三缶目を空けた。

「笑っちまうよ。 だったら何をもってダチって言えんのかって話だ馬鹿野郎が、」

「親父……」

「まあそんな事思い出したって、俺の何かが変わるわけでもない。 変わってたまるかよ。 俺だって日銭稼ぐのに必死で、そのために生きてて、生きるために働いてきた。 狂犬みてぇなゴロツキから、俺ぁ立派に生まれ変わったんだ。 せいぜい賽銭代わりに忠勝引き取って、たまにタイガーマスクの真似事やって……横から見た他人のロマンに手ぇ叩いて、酒の肴にして……」

息子に向けた語りが、いつしかだんだんと自分自身に言い聞かせるような口上になっていった宇佐美の手の中で、アルミが軋む音が鳴った。

「俺はもう大人なんだ。 愚連隊上がりの爺さん共も一声かけたらチビって腰抜かした、抜き身のギラついたナイフみたいな俺はもう居ない。 堀之外じゃそういう、肩いからせてカッコつけた生き方してた奴らは残らず消えてった。 どうにもならない世の中に慣れて、不自由に慣れて、我慢に慣れて、どんどんどんどん少なくなってく選択肢の中から一番楽で効率のいいもん小狡く選び取って、余った時間は女の尻追っかけて、それでも溜まってく鬱憤は場末の居酒屋で皺くちゃの婆さんに愚痴言いながら無理矢理飲み下して―――、それが大人の生活で、だれでもやってる『仕事』ってもんだって。 ……そう、そう思ってたときに、」

ぷは、と一気に麦酒を飲み切った宇佐美は口を手の甲で拭った後も、もう一口二口と呷る事をやめなかった。 

「その憎っくき仕事の野郎が、今の俺に当てつけてきやがったよっ。 楽して生きてく方法、学園で俺に教えさせたくせに、今度はその教えの結果を見ろってなぁっ!」

カンッ、と拍子木のような音を奏でて、欄干に並んだ空き缶は四つに増えた。

「面倒だよ本当に。 だけどな、ああ、そうさ、それでも断らなかったのがこの俺だ。 やってやろうじゃねぇか。 なんてったって仕事だからな。 生きてくための金が入るもんな。 それが、大人の義務ってもんだもんな。 だから大人舐めてんじゃねぇぞシャバ僧どもが」

「……飲みすぎだ。 さっさと会社戻って寝てろ。 明日も学校あんだろうが」

自分がどんな言葉を口にすればいいのかわからない時間が続いたが、ひとまず収拾がつかなくなりそうな養父にそう言って、ジャケットの袖を引っ張り、覚束なくよろめいた酔っ払いと肩を組んだ。

振り向いた赤く濁った目に、一発貰うくらいの抵抗をされるかと思えば、そんな事はなく、宇佐美の視線は弱弱しく下がっていった。

先ほどの気炎が嘘のように掻き消えて、しょぼついて充血しきった目が、ガムがへばりついた路面に向かっていった。

……この人はそうだ。 引き取られてからこっち、一度も手を上げられた事はないし、さりとて腫れ物に触るような歓待もなかった。

安易な同情だけではなく跡継ぎを育てるという打算があるということを、出会った初日に開けっ広げに語った宇佐美巨人という『大人』を、そういう大人だからこそ、なんだかんだで忠勝は尊敬していた。

「……そいつ、どんな奴だったんだよ。 親父」

それでも、道端で眠られた四十絡みのオッサンを背負いながら堀之外の大通りを歩く羽目になるのは願い下げだった忠勝は、相手の瞼を閉じさせないように会話を再開した。

加えて、知りたい、とも思っていた。

誰だって多かれ少なかれ、自分を殺して生きている。

あちらを立てればこちらが立たぬ、そんなもどかしさを淡々と受け流し、世相ってやつを受け止めている。

やはり養父と同じく、学生と会社員という二束の草鞋を履く日々の中で、そう理解し始めていても、そう悟り始めているからこそ、忠勝は興味があった。

自分を殺す事を止めたとみえる矢車直斗、その父親。 

宇佐美巨人が過去に出会った男。


「……」

「聞いた限りじゃ、風間みてぇな奴っぽいが」

うなだれたままの宇佐美に、忠勝はとりあえずわかりやすい例を挙げてみた。

「……そうだな、そうかも、……いや、やっぱ違う、か?」

「俺に訊くなよ……」

すっとぼけた声と相変わらずの適当さに脱力して、ほろ苦く笑った。 

「てめぇらの人間学を受け持つ講師らしく言えば……、そうさな、確かに風間とは似てるが、まあやっぱ違うんだよ」

「そりゃ、違うだろうけどよ。 雰囲気とかの話だって」

「なんてーか……、ほら、風間は、てめぇが気に入ったら、他の奴らの外聞も気にしないで生身のそいつと付き合える男だろう?」

「……ああ」

「多分、違うんだよ、それとは。 でかい図体武器にして世間を渡ってきてても、本当は気が弱くて、お人好しで、みんなが喜ぶとわかると貧乏籤でも進んで引いて馬鹿やって。 人間誰だって、敵味方って分けたがるけどよ。 あいつ、わかってたんだと思うんだ。 どっちもどっち。 人間誰も、大して変わりゃしねぇってこと。 そんな感じで、誰彼構わず仲良くなってって………、だから俺ぁ、わかる気がすんだよ。 あいつの息子が、なんであそこまでキレてんのか。 捻くれ具合じゃ、俺と直江は良い勝負だ」

「……直江は、」と反駁の声を上げかけた忠勝だったが、続く養父の声がそれを萎ませた。

「けどな、それでも、直江が悪いとか、誰かが悪いなんて事が、あってたまるかよ。 俺にだって意地はある。 多少卑怯で汚ねぇやり方でも、こうやって楽しく生きてる。 代行業にだって誇りをもってるさ。 清濁併せ呑んでの人生じゃねぇか。 固ぇこと言ってくれんなよ……」

「……」


そんな調子で堂々巡りとなった養父の論理がしばらく続いて、その会話が途切れてしまった後、忠勝は、残してきたポリ袋と無数の空き缶は帰りに拾えばいいと判断して、先ほど一人で来た道を、今度は二人で戻った。





契約書に念押しされているだろう、いやそれ以前に代行屋の看板を掲げる上での信念とすらしている守秘義務を、日頃は妥協の塊のような父がこれほど荒みながら、そこを曲げてまで自分に伝えたいものはなんなのか。

尋ねるようなことでもなかったし、訊くまでもないようなことのような気もした。

けれども、川神大戦までの間、その思索の中で何を思いついても、それを自分の胸に留めておく決心を忠勝は固めていた。 

親の最も隠したかろう恥を、痛恨を、ぺらぺらと喋るのは息子のやる事ではない。 そう思えるほどの成長を忠勝は遂げていた。

直江を、一子を、風間ファミリーを裏切ってS組につくなんて気も、また皆無だった。

どんな思惑や真実が明らかになっても、あの連中と築き上げてきた信頼や情熱が、いまさら消え去る事はない。 そう思えるほどの時間を忠勝は過ごしてきた。

その時間を与えてくれたのは、今横で低い声で唸っているグータラな親父だった。



「明日も、寝不足だな……」

源忠勝は漂う酒臭さに顔をしかめて、足を交互に動かしながらも器用に寝息を立て始めた父親の隣に寄り添い、仕方なく、昼と夜が逆転した街へと歩いていった。






























伊予ルートの分岐を見直したら、ジャイアンツって他球団ファンから本当に嫌われてんだなと改めて実感しました。
小学生の時の、マルティネスとか松井とか江藤とかの時代は好きだった。 今も悪感情ないけど。  

地元に犬鷲軍団ができたので、現在はもっぱらそっちのファンです。




さて、今作品での宇佐美の出番は恐らくこれで終わり。 
親父関係で主人公に話しかけようとしてたけど、なんか情けなくてめんどくさくてズルズルになっちゃったヒゲでした。

ヒゲの愚痴書いてたらいつの間にか文量がいつもの倍近くになっちまった……汗

展開が遅々としてて申し訳ないですが、今回はマルギッテさんとかちゃんと動いてますよ回、みたいな。

今回の更新にあたってゲンさんの内面に近づこうと孤児院やら養護施設やらの内情調べたけど、ほんと自分は恵まれてるな、と。

成立することも少ない養子縁組もいろいろあって、ワン子とかゲンさんとか、孤児としちゃ幸せな方なんだな……






前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.030257940292358