『サムライたる者、名誉に重きを置き、それを持って己の価値とすべし。 自らが下した決断と、それらがいかに成し遂げられたかが、己の真の姿を映す。 己自身から決して逃げ隠れすることはできない。』
―――「武士道」 新渡戸稲造
九鬼英雄はしかし、事前にどれほどの覚悟を固めようとも、それが如何なる砦にもなり得ない事を知った。
語られたのは、そういう話であった。
―――だから、間違っても俺の味方になろうなんて考えるな。
「ふざけるなッ!」
乗車する揺り篭が頂点を過ぎ、五度ほどずれた地点で、英雄は沸き起こる激情のままに立ち上がった。
反動で密室全体が揺れに揺れるが、そんな事に頓着できるほどの冷静さは吹き飛んでいた。
「お前はっ、お前達はっ、どこまでっ!?」
果敢なのか。 律儀なのか。 愚直なのか。
命の恩人の姿をも重ねて、怒鳴り散らす。
行き場を失くした熱が胸の底で膨れ上がり、はち切れそうな痛みが迫り来る。
「何故、お前が……、お前がそこまでせねばならん義務など、何処にもないだろうっ!?」
手を出すなと、散々言い含めておいた癖に手を出し始めた従者の制止も振り払って口角泡を飛ばし、猛りにがなる《・・・》自分の口元をそのままに、差し向かいの席に座す、諦めたように肩を落とした直斗の襟を掴み上げ引き上げ、無理矢理に視線を絡ませた。
これまで、英雄の前で幾度となく謎めいた態を醸してきた彼である。
その不穏にして不透明の気配が、一挙にその醜悪な《・・・》正体を晒した瞬間が、このときであった。
しかし、いま、自らの言葉で語った直斗はなぜだか、意識してその謎を明かしたというふうではなく、むしろ無防備になりすぎていて、本人は意識しなくともその姿を覗き見ることができる、というような、一種おかしな雰囲気を英雄はその顔貌に見出してもいた。
「……大和が、真守を殺したわけじゃない」
刹那、密封されている筈の空間に風が吹いた気がして、英雄は、信じられないという恐怖の表情に似た顔を直斗に隠さずにみせる。
まるで胸に拳大の大きな穴がぽかりと空いて、そこを虚ろな音を上げながら冷たい気流が吹き抜けていく心地がして、続く言葉がごっそり抜け落ちた。
「大和が、真守を殺したわけじゃない」
経句のようにも呪句のようにも言い募ったその姿に、心胆寒から締められる。
胸倉を掴まれつつも、表情を殺し、こちらに向ける目一つ眉一つ輪郭一つすら動かさずになされる機械的な繰言が、その言霊と共に彼が過ごした時の重みを証明していた。
それは怨念を飼い殺し、しかして殺し切れずにいる自らを、内心の極限の極限にて、必死に繋ぎ止めてきた歴史そのもの。
生活という言葉を遠ざけ、息を止めるようにして生きてきたのであろう一年前までが、確かに存在した事を示していた。
「大和が、真守を殺したわけじゃない。 だから」
だから、
だから、
だから?
言ったきり、沈黙が永遠に続くように思えた。 胸元を吹き抜ける風も、そのままに。
収縮、硬直した肩の力が抜け、そこにある古傷がじんわりと熱を持ち始めたのを感受しつつ、英雄は半ば無意識に直斗の体を手放した。
重力に順じ再び座席に収まった直斗は、ほとんどひっくり返るようにそのまま背を持たれて、仰向けの顔を、背後の暮れなずむ陽に晒した。
「……俺さ。 嫉妬したんだよ。 実の妹にだぜ?」
暫時の静寂を破ったのは、顎が引かれて、ようやっとの事で形作られたという様子の、妙にさばさばした顔と口調だった。
直斗は自分の手の平を、まるでそこに過去の痛みが全て埋まっているかのように擦り、撫で合わせる。
そこに全ての因果が、凝縮され内包されているかのように。
「笑っちまうよな。 ただ、俺も混ぜろよって言えば済む話だったのにさ。 なんか腹立たしくて、気恥ずかしくて、それを気づかれるのが、もっと嫌で嫌で。 それでもっともらしく言い訳して逃げて……。 俺は、あいつについて行かなかった」
直斗の言う事をまとめれば、誰もが一度は持つ感情が、たまたまというには残酷すぎるタイミングで起こったに過ぎないのだ。
それのどこに責められる要素が秘められているというのだ。
「俺は、向き合わなかった」
英雄の眉をしかめた表情に、しかし、直斗は左右にかぶりをふった。
ゆっくりと、ゆっくりと、まるで子供に言い聞かせるように。
穏やかに耳朶をうちながらも、英雄にはそれが血を吐く言葉と聴こえた。
「あの瞬間だけ、俺は、兄として負うべき当然の責任を放棄した。 ……大和だって結局は所詮、他人だ。 その意味で言えば、責めがあるとしても、それが俺より大きいなんて事はないんだろう。 約束をすっぽかす事だって、予測できた筈だった。 俺は行くべきだったんだよ、英雄」
どんな虚勢を張ろうが、どんな平然とした態度をとろうが、それで心身に負った傷の深さが隠されるものではない。
淡々と自分を語る眼前の男は、血まみれになって床を這いつくばりながら、「俺は平気だ、無傷だ」と叫んでいるようなものであった。
「やめろ」
「俺が、最後まで見守らなきゃならなかったんだ」
「……やめろ」
「だから、俺が」
「今一度、言う。 ……ふざけるな、戯けがッ」
我を取り戻した英雄は、再び猛り、叫び、喚いた。
「自己犠牲が常に尊いと思うな! 救われた我が言える事ではないが、それでも死んだお前の、矢車真守だって貴様が自ら傷つこうなんて事を、望んでいると思うか!? それでもお前が戦うというのなら、我はお前の側に立つっ。 お前だけを苦しませてやるものかっ。 十分、お前は、これまでも独りきりで耐えて耐えて、自分と戦ってきたんだろうが!? 何故この話を我にした? 何故過去をここでひけらかした!? 本当はお前だって、助けが欲しかったのではないのか―――」
「黙って聴け、この分からず屋っ。 お前に話そうと思ったのは、これ以上、久遠寺に迷惑をかけたくなかったからだ!」
英雄が矢継ぎ早に言の葉を並べたてた途上で、ここで初めて直斗は声を荒げた。
「どうせ誤魔化しても、俺が今、久遠寺の世話になっている事は自明だろうから、早晩お前が押し掛けてくるのは想像するに容易かったっ! 森羅に負担をかけたくはない、ただそれだけの話だ!! 加えて、お前の家柄上、俺がいた『施設』についてはいずれ知ることになるだろう。 お前自身に、世間様に話して良い事と悪い事の分別くらいはあると踏んだからこそ、俺は此処にいるっ!」
「違うッ、さっきお前は言ったろうッ? 言い訳して逃げた事、それを清算するための川神大戦でもあるのだろうが! 今のお前はなんだ? また言い訳して助けを拒んでいるではないか! また同じ事を繰り返すつもりか!?」
「見損なうなァッ!!」
半ば声を裏返した途端、直斗は、今度は怒気と共に、弾かれたように自らの足で立ち上がった。
「俺は加害者だ! 良心を殺して俺が悪を為すのに、それを助けられていい道理はないッ!」
英雄の肩を強く掴みながら、直斗が強く、真正面から王を叱責した。
「俺がこれまでどんな目にあってきたのかも、俺に悪気がほとんど無かったのも、他でもない『俺』は分かってる! だが、今の俺は被害者じゃない!」
この世の穢れ全てを映し続け、その光景全てを吸い尽くした後のような朱黒く濁った双眸に射抜かれて、英雄は吐きかけた息を飲み込み、暫時呼吸を忘れた。
「俺は加害者だッ!! どんな理由があったにせよ、俺は数多の人間の信頼を傷つけ、矜持を奪い、失わせた! そしてこれからもそれを継続していく。 その事実から、俺は逃げられないッ!!」
激しい形相と言葉の厳しさとは裏腹に、この時、直斗が掌の力を微かに、しかし確かに緩めたのがわかった。
気持ちは嬉しかったと、そう言っているように英雄は感じた。
だがそれでもと、歯の間から搾り出すように、直斗は心のうちを曝け出す。
いいか、英雄、忘れるな、と。
絶対に、忘れるな、と。
「たとえ、お前や俺がどんなに酷い目にあった事があったとしても、可哀想な人間だったとしても、奪われてきたとしても、虐げられてきたとしてもなッ―――」
この世の涯《はて》に立ち、過去、絶望に塗り込められていく自分のいる世界を目にした男が、万感の想いを燃やして叫びを放つ。
――――それがっ、俺達が、何か悪い事をしてもいいっていう免罪符にはならないんだよッ!!
<手には鈍ら-Namakura- 第三十六話:打明>
それを、わかってて、と俺は続けた。
「それを理解しながら、それでも俺は背負う。 それだけの価値があると思うし、こうしなきゃ、……真守も」
妹の命が潰えても、未だ、彼女の為に守るものもあった。
それは誇りであり、生を全うした意味であり、絶対不可侵とするべき名誉だ。
俺の振る舞いは、ある意味では、妹の外面を取り繕う行為だろう。
だが、最後に残った名誉くらい、尊厳くらい、俺は―――。
それに、これは矢車直斗に課せられた罰でもある。
立ちふさがる千の猛者を、独りそれらを前にして、俺の過ちが、贖う事が至難中の至難を窮めるほどの罪だという事を思い知り、その揺るがしようのない事実を再認し、しかして少しでも報いようと足掻くという、罰なのだ。
お前はどうなる、と自失した様子の英雄は呟いた。
「それでは、あまりにも、お前に救いがないだろうッ――」
放った言葉自体が、救いを求めるような声だった。
「……ああ、俺も救われたいし、報われたいとも思うさ」
だから、返した答えは、あくまでも誠実とした。
「けど、俺がそうなる番は最後でいい。 もう覚悟はしたんだよ、宣戦の前に。 忘れた事を思い出させたからって、妹が望んだ人間性ってもんを、大和に根付かせる事はできない。 むしろ難化させる方策でしかない。 過去を提示したところで、あいつは長いものには巻かれろとか、そういうくだらねぇ思考と同列の考えに任せて反省のポーズを作り、結局、自分は悪くないと内心で結論する。 仕方なかったんだ、とか何とか言ってな」
数ヶ月の観察の最後の結果、俺が大和に対して、最も信頼できる部分が、ここであった。
「あいつが、ああ生きるようになったのは、あいつ独りが悪いわけじゃないんだろう。 でも、どうやらそういうふうに育てられたらしい。 親か友かが、そういうふうに生きる事が一番だって、刷り込んじまったんだ」
「直斗っ……」
そして告げる。
絶句し、憔悴し始めた英雄に更に追い討ちをかける。
低く低く、腹の底から氷の塊を取り出して、ぶつけるように。
「この闘いは、毒をもって毒を制していい闘いじゃない」
正確に言えば、『本質が真逆のものであっても、毒に見えるもの』をもって毒を制してはならないということだ。
それでは、最後に印象に残るのもまた、同じ毒なのだ。 相殺など、ありえない。
そうやって勝ったとしても、その毒にまた大和が浸かる。
……ああ、やはりだめだ。
毒という例えなど、何と自分本位な物言いか。
結局は俺の価値観を押しつける闘いなのだ。 だからこそ傲慢になるのは、大戦時だけに留めるべきなのだろう。
頭の隅でそんな事を考えながら、無表情を作り続ける。
「……大和は、どんな手を使ってでも勝ちにくる」
掴み続けていた英雄の双肩から手を離し、そう言って、俺は徐々に再び近づいてきた川神の町並みに目を移した。
丁度、街灯が点灯する刻限だったのだろう。 ガラス越しに、無数の灯火が眼下で点き始める。
「俺は大和とは違う。 直江大和の在り方を、俺は否定するために、戦う」
ルールの間隙を縫いに縫い、臆面もなく、俺を潰す為に手段は選ばないだろう。
「卑怯? 狡い? 褒め言葉どうも」と、いつものあの表情で、今の俺のように高いところから見下ろして。
だからこそ俺は手段を、勝ち方を、選ぶ《・・》。
いくらかは、戦術としての奇襲、騙し討ちの行使は、俺とてそれを辞さない覚悟だ。
だが、俺は味方を利用して切り捨てるような戦いだけはしない。
かりそめの毒――利用し利用されるだけの「知り合い」の仲間を、俺は認めない。
本気で、英雄は心配してくれているんだろうとは思う。
目端にたまる水滴は、本当の感情の発露なのだとは思う。
俺を利用してやろうなんて、それこそ露ほども考えていないだろうさ。
……けれど、こいつが俺に組すれば、大和からしてみれば、それみたことかと、お前も俺と同じじゃないかと、そう思われる事が一片の可能性でもある限り、許容はできないのである。
―――だから、いかなる味方も作らない。
「馬鹿なっ、無謀が、過ぎるだろうがッ……」
声を振り絞り、顔を俯けた英雄だった。
「いいんだよ、それで」
あやすように言ってやった。
謀りが無い。 そう書いて無謀と読むのだ。
大和とは、正反対のやり方で、俺は戦わなければならないのだ。 大和が、最も非効率と思う戦い方で。
妹の望んだ、矢車一家が全世界に希求した誠を、ちっぽけな戦場で示すために。
全身全霊の全力で相対する、剥きだしの一つの命、一つの感情そのものに、俺はならなければならないのだ。
確かに、全員が、全員に誠実でいる事は不可能だろう。
俺だって、そういう現実は知っている。 夢物語だってことぐらい、俺だって。
でも、たとえ不可能だとしても、そういう気構えを、「そう在ろう」とする意志を誰もが持てた時に、救いとか報われとかが芽吹くんじゃないかと、俺は思う。
俺はたとえば、嘘をつくなとか、そういうことを言いたいんじゃない。
ついたっていいさ。 つかなきゃいけない時だって、そりゃあるだろうさ。
でも、嘘をついた後に開き直って「しょうがない」と片付けて欲しくはないだけだ。
それを臆面もなく行使する事は許される事じゃない。
本来なら決してやっちゃいけない事だと、そう自覚して、し続けて、苦しむべきなのだ。
いつかの七浜の墓前で、耐え続けるだけの人生など……、と独白したが、だからこそ、それを避けるために正直に殉じるべきなのだと俺は思う。
優しい嘘、人を守る嘘。
どんなにその本質が清廉であっても、嘘は誤魔化しであり、ありのままの真相を遠ざけるものなのだ。
忘れてはいけないのだ。 正道はあくまで正道であり、邪道はあくまで邪道である事を。
どだい、相手が多かれ少なかれ裏切るだろうから自分もそういう気構えでいるとか、「なんか違う」とも思う。
……こう思える、こう思えないの境目が、そのままそっくり、俺と大和の立ち位置を分けているのだろうな。
俺の言ってる事は、綺麗事だ。
けど、綺麗事だからこそ、胸を張って言える。
必要悪が先んじて横行し、綺麗事を声高に言えなくなったら、それこそ、世の中終わりだと俺は思う。
だから、
だから、
だから――――、
「チャンスだぜ、英雄。 一子に良いとこ、みせてみろって。 一発くらいなら、殴られてやるからよ?」
最後に相好を崩して、軽口一つ残して、俺はスライドして開き始めた戸に手をかけた。
風に乗ってきた潮の香が、つんと鼻腔を刺激した。
そのひとつひとつに人の生活があり、百万の喜怒哀楽を、生の感情を照らして揺れる街の灯火を瞼の裏に焼きつかせて、俺は九鬼の主従と別れた。
*
コスモワールドから運河沿いの堤防を下り、国際橋をくぐって数分も歩けば、新港地区の一画、運河と海の両方に面した立地が特徴なだけの、緑地にベンチをいくつか並べた簡素な公園にたどり着く。 名前も、そのままの味気なさで新港パークとある。
観覧車を降りた後、英雄は足の赴《おもむ》くままにという風情で、ふらふらとそこに辿りついたのだった。
揺り篭から飛び降りるように出て、首に締めていたネクタイを解いて、それを無造作に回して片手に巻きつけながら悠然と去っていった直斗の背に声をかけ追う気力はもはや無かった。
あの後、結局もう一周、七浜の街を観覧することになった。
日が暮れて、極端に街灯の少ない薄闇の中、人力車を引いてくる従者の忍足あずみを、英雄は待っていた。
「ここに、いましたか」
街灯の明かりを反射して、青白く光るベンチに腰掛けて一分もしないうちに、若い男の声が響いた。
「トーマ、か」
芝に向けて俯けていた頭を上げ、ちらと見上げれば、自らの横に誰あろう親友たる葵冬馬が、うっすらと笑みを浮かべて立っていた。
「どうも。 偶然ですね、英雄」
時刻は七時過ぎ、しかも休日とあっては人の目は前方の水平線に浮かぶ眩い街の明かりにこそひきつけられ、特に見るべきものもない公園内に視線を向けるものは皆無だろう。
散策を楽しむには遅すぎ、人目を忍ぶ男女が出没するには早過ぎるこの時間、公園にいるのは夜釣りとしゃれ込んでいる老人くらいである。
未だ最終曲目にすら至ってはいないだろうコンサートを聴き終えての散歩の最中に遭遇、というには些か苦しいシチュエーションだ。
なるほど、恐らくはあずみが気を利かせたようである。
「すまんな。 我の慰安の為だったろうに、途中で抜け出るような形になって」
葵紋病院ゆかりの三人に誘われ伴われ、七浜フィルの管弦の音色にここ数日の心労を癒されようと赴いた次第であったものの、榊原小雪が偶然にも、まるで九鬼の使用人のような格好に扮した直斗を遠目に発見した事で、その予定は変更を余儀なくさせられた。
芸術に並々ならぬ感性を持つ小雪が演奏を楽しみにしている事は承知していたので、三人組を残し、自分とあずみだけがみなとみらいホールを後にしようと半ば強引に言い置いてきたが、こうなってみると彼らもそのまま途中退場したのかもしれない。
しかし、それを冬馬は特に気にした素振りも見せず、
「いえいえ。 ……ここで、どうでしたかと訊くのは、残酷ですか?」と少々の苦笑いを返してきた。
「フハハ…、もう問うているではないか?」
しかし忌憚の無い、そのあけすけさが、かえって心地よかった。 少しばかり、舌が滑らかとなる。
「あやつとの会話は、お前にも話せる内容ではない。 ……すまん。 これは、どうしてもだ。 ただ、な」
「ふむ?」
――誰からも憎まれ、疎まれ、後ろ指を差される。 そんな闘いが待っているかもしれない。 勝利の道は数少なく、果たして、何を持って本当の勝利と言えるかどうかすら、俺自身に確証はない。 そんな戦いをする俺について来いなんて、口が裂けても言えるわけもない。
先の対話の中、自分が感情を爆発させる端緒となった直斗の言葉を、そらんじて聞かせてやった。
「あやつが、そんな事を人に言える人となり《・・・・》だという事は、お前にも知っておいて欲しい」
そう言って、英雄は疲れきり重くなった自分の全身を叱咤して立ち上がらせた。
ややあって「……どう思いましたか?」と質問される。
それに被さって、ナイトクルーズ用の民間機だろうか。 ヘリの、空を叩きつけるような羽音が近づき、冷たい夜気を微震させた。
「む?」と、よく聞こえなかったニュアンス半分、問いの意味がわからないとのニュアンス半分で英雄は聞き返した。
「彼を、ありのままの彼を見て、聞いて、英雄はどう思いましたか?」
改めて顔を向けて見返せば、久方ぶりに見る親友の鉄面皮が宙に浮かんでいた。
だが、その仮面は完全ではなく、たとえば何かを溜め込んでいるような瞳がそこにはあり、口元にはそれとわからない程度に苦渋の色がみえた。
この数ヶ月の中で、冬馬にも特別な感慨が直斗に対して沸いていたのだろうか。 ……それにしては、あまりに声色が切実に過ぎてはいなかったか。
だが、夜空を見上げて冬馬への返答を考えるうちに、それを斟酌する余裕は薄れていった。
自分の苦渋を噛み締めるだけで、手一杯となったからだ。
「我は、奴の味方だ」
それだけは揺るぎようもなく、だが、何故だか吐き棄てるような物言いになったのは、それだけの理由があった。
「しかしな……あやつの、その、思想、というべきものか? ……我は、」
ぽつりぽつりと要領を得ずに語る英雄は、普段の英雄ではなかった。
「……我は、奴を恩人だと、借りをいつか返さなくてはならない相手だと、出会った頃は思っていた。 そして、今は、今は掛け値なしに我の心になくてはならぬ友だと思っている。 たとえ、あやつが我をどう思っていようがな。 ……むしろ、あやつから全てを聞いて、利用する利用しないの関係をどこまでも考え通す、あの姿勢をみると、」とまで口を動かし、しかし英雄は、ここではっとなって言葉を切った。
ぺらぺらと直斗の真意を吹聴する事は、拙いと思い出したからであった。
しかし二、三秒逡巡して、話している相手は他でもない親友なのだからと気を取り直して、また言葉を付け足した。
「いや、正直なところ、我は……、『理』は直江大和の方にあると、どうしても考えてしまう。 ……これは我が経営者だという事もある。 商売というものは常に疑いを持たないとならんからな。 それに、誠意で優しくとか、守るなどと直斗は言うが、人間はそれほどやわではない。 守られる事が必要ない人も物もある。 九鬼は人材の宝庫だからな、そういう強い人間を我は見慣れている。 そして、『必要がない』という事を、無駄だと我は思ってしまう」
そう考えた方が、直斗もきっと楽になれるのではないかとも、英雄は思えるのだった。
「人間というものは、いつも一貫して同じである必要はない。 その場に応じて、変色龍《カメレオン》のように外面を変えてゆく事も、生きていく中で大切な事だ。 ……心理学の用語で言えば、『ソーシャルスキル』というものだな。 自分をうまく演じ分けられるこの能力を持ち合わせていることで、周囲の評価が高まる場合は多い」
ゆっくりと、しかし舌がもつれず語る事ができているのは、心の底では日頃からそのように自分も思っていた証左であった。
「実際、皆が無意識に行っている事だろうよ。 それを直江大和は自覚的に操作しているだけとも言える」
しかし、されど……、
「我の考えも直江の考えも、ようはバランス感覚に重きを置いている。 善か悪か、損か得か、好きか嫌いか、モラルかインモラルか、それらの価値観を使いこなしてこそ、世で生き残れるというものだ。 だが、だがもし、何の他意のない、まこと親しい者が、その機構によって苛烈な犠牲となるのを、も、目前にして、それに耐え切れるかと訊かれればっ……」
一族の居住区をとてててと走り回る妹の、九鬼紋白のあどけない笑顔を脳裏に映して、思う。
――――無理だ、と。
結果、直斗が、どう《・・》なったか。
そして体験した悲劇を消し去るために、これ以上生み出さないために、万人に平等対等な誠を捧げようとする姿勢を、直斗は求めている。
「我は、」
もはや何を言いたいのか意味不明の、支離滅裂となった語りに疲れ、ぽたぽたと、汗も涙も頬を伝い落ちた。
経営者として、直江大和の、そのスタンスというものは、正しく見習うべきであるのだ。
しかし、そう考えていられる自分、素直に矢車直斗に共鳴して同じ信条を抱けない自分が、まこと悔しかった。
「我は、どうすれば良いものかなッ……」
ひどく散文的で、脈絡なく語り続ける英雄の内心は、つまるところ此処に集約するのであった。
すると、
「英雄。 私からも知っておいて欲しい事があります」
最後はかすれてしまった声を、あえて無造作に遮ったような冬馬の語りだった。
「私たちは、今、モラトリアムの最中なのですよ? ……英雄は、それは立場が特殊でしょうから、あまり実感しにくいかもしれませんが、それでも、あなたは、学生です」
涼やかな声色が続いて耳を撫でた。
「あまり、こういう風間君のような言い方は好みではないのですが」
そう言われてて片手で襟をつかまれ、「学生らしく、ここで、考えてはいかがですか?」ともう片方の手が拳を作り、それで心臓を押される。
その様に呆気にとられ、英雄は冬馬の顔をまじまじと見つめた。
だだだだ、と規則的なディーゼルの音を鳴らして、岸のすぐ先を屋形船が通り過ぎ、どこからか海の風が遠い警笛の音を運んできた。
些か間が抜けた対峙の直後、日頃の彼とのギャップからか、何故だか可笑しさがこみ上げてきて、つい吹き出してしまった。
涙腺の水分も同じくこみ上がってきていたようで、その雫も唾とともに霧となって冬馬に降りかかる。
ウッ、と猫の毛づくろいのようにそれを拭う姿も、いつものスマートな彼の立ち振る舞いとかけ離れていて、それがいっそう腹の笑い虫を掻きたてた。
「笑うところですか?」と冬馬も笑っていた。
それをよそに、英雄はしばらく声を殺して腹を揺すった。
ひどく久しぶりに動かした頬に血が通い、全身がほんのり温まるのを感じながら、そう言えばここ数日は一度も笑っていなかったと気づかされた。
「ふふ、ふは、フハハハ……」
ともすれば尻切れ蜻蛉になる笑声を、腹筋を無理矢理使って補強する。
「くフッ――、フ、ハハ、フハハハハハハハハ、、ハハハハハ、ハハハハハハハハハッ!!」
そうして今の今まで全身を押し包んでいた重苦しく、分厚い負の被膜を、底からの哄笑で乱暴に引き剥がして吹き散らす。
そうだ。
されども《・・・・》。
されども《・・・・》、最初から、どう行動するかなど、心中で決まりきっていた。
何を恐れる事がある。 何を躊躇う事がある。
我は直斗とは違う。 育ってきた環境そのものが違うし、志は全くといっていいほど異なるだろう。
だからこそ、違う物事の見方ができる。
―――『必ずしも直斗が望む事が、直斗の目的に直結しているわけではない』と。
そう、今の、冬馬と対する我のように、やはり、「持つべきものは友なのだ」と。
我は、王道を往くのみと。
*
「どうよ、若? 大将、随分と弱ってたみたいだが」
従者と再会した英雄が人力車で公園を出た後、植木垣の影に潜んでいた井上準は芝生を静かに踏みしめて冬馬のもとへ近づいた。
「自分ができないことを人に助言するのは、心が痛みます」
放った言葉とは裏腹に、あっさりした口調でそう言って、先ほど英雄の襟裏から回収した、大豆大の機器を眼前に摘み上げてみせた。
はじめて見た時は、呆れるほど小さなものだなと感想を抱いたものである。
大豆大というよりは、ほとんど豆そのものの見目カタチで、平らな円形状の本体から、芽のようなアンテナ線をちょろりと出している。
内蔵電池は一週間は持ち、集音有効範囲十五メートル、二百メートル先まで電波を飛ばす事が可能のBUG、正真正銘の盗聴器は先日、板垣姉妹の名義でネット通販から購入したものである。
使用するにあたっては、一見しても判らぬよう、英雄の衣服に馴染むよう金の塗料を吹きつける徹底ぶりであった。
「……俺は好かねぇなぁ」とポケットに手を突っ込んで、準は今更ながらぼやいてみた。
中に潜ませた受信用の携帯無線機が、いやに腿を圧迫していた。
「釈迦堂さんが、どうにも口を割ろうとしませんでしたからね。 やむをえない措置、ですよ?」
それでも、居場所を聞き出してこうして画策できるあたり、マロードの面目躍如というところか。
一方でそんな複雑な思いを抱きながらも、
「そう割り切ってはいたけどよ……、なんか、ああいうマジモンの話聴くとよ。 結構キくわ」と準は重ねた。
なんなのだろう、これは。
腹の中で蛇を飼っているかのような、どろどろとうねる不快な感覚があった。
「それは、準の少女趣味もあいまっての事ですか?」
「んなの関係ねぇっ、人として、だよ。 ……そうだと信じられるさ、今はまだな」
「……そうですね。 今は、まだ」
まだ、決定的に取り返しのつかない外道を行ったわけではない。
策略には完璧主義を標榜するマロードである。
いまだ「決起」の下準備が完了していない事を理由に、思い切った行動を取っていないだけであり、水面下ではかなりの権謀術数を重ねているのではあったが、やはり決定的に極悪人になったわけではなかった。
「……彼と一席、設けてみたいですね」
「え?」
「ああ、勘違いしないでください。 別に彼の善性に当てられたとか当てられたいとか、そういう意味ではないですから。 ただ、潰したいな、と」
「若、」
「ええ、潰したい。 ……実際、川神大戦はカーニバルに支障をきたすでしょう。 八月三十一日までにカーニバルを起こすには現段階では無理がある。 そうなると当然九月以降に計画は持ち越しとなるのですが、大戦でより強固に培われるであろう大和君のネットワークは非常に厄介です。 育まれる前に切り取るべきでしょうね。 ……だいたい、矛盾だらけだ」
くつくつと喉を鳴らす低い音が、ほどなく笑い声に変わった。
初めて表情らしい表情が出て、顔に嘲りの色が浮かんだ。 だが、いつもは恐ろしいと思うその顔色が、この時は何故だか酷く薄っぺらいものに感じられた。
「人を無条件に信じろ正直にいろと言いながら、真実を明かした場合の直江大和の翻意を信じられないなんて、お笑いも良いところだ」
「……」
その饒舌な口ぶりは、言い訳を並べ立てているようにしか井上準には聴こえなかった。
それは冬馬の内心を逼迫する何かが、どのような理由をつけても未だ明確な悪行を為すのを躊躇わせ押し留めている何かが、未だ在るのだという事を証明していた。
「本当に邪魔だ。 ……本当に、邪魔だ」
唐突に笑みが消え、苦々しげに憎々しげに、マロードの歯が剥かれる。
それはマロードにとって邪魔なのか、葵冬馬にとって邪魔なのか。
内心、そうはっきり問えたならばと俯いた井上準は、しかし、ただ拳を握り締めるのみだった。
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皆様、ほんっとうにお久しぶりです。
スランプとアサシンクリードとまじこいSと今年新展開をみせるエウレカとギアスの復習のせいですごめんなさい。
Sプレイしましたが、G線の堀部がでるとは思わなかったぜぇ……
マルさんルートでは、えちシーンであれだけ爆笑できるとは。
あと攻略不可キャラがいちいち魅力的で……、プレミアムの枠を林沖にすりゃよかったのに。
人気投票では林沖2葉桜1の黄金比が俺のジャスティスでした。
さて今回のてになま解説です。
どなたかの感想でご指摘いただいたのですが、ええ、ルルーシュVSシャルルな感じです思想的には。
まあ直斗くんはやり過ぎない感じで纏めてますが、まあ、どっちも悪いところはあって、それをどれだけ考えられるかがこれからの命題ですね。