『その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、 悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、 これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、 真心を尽くすことを誓いますか。』
―――挙式内宣誓より
「―――という事だ。 理解してくれたかね? 少尉」
先頃導入した有機ELの大画面から、一昨日のとある学園の監視映像が消えた直後だった。
KSK、コマンドー特殊部隊訓練施設地下最下層の執務室、唯一のデスクに座り、顔前に両掌で拳塊を作って、微動だに幽鬼の表情を崩さない上官の冷徹な声が、マルギッテの耳朶を打つ。
「……は、はっ」
頭蓋の中で幾つもの「何故」が錯綜する最中であっても、そう応える以外にすべき返答が思いつかなかった。
むしろここでは刷り込みというべきか。
マルギッテは無言でフランクの能面を真正面に捉え続ける。
先んじて机上で「件の騒ぎ」を見た際に、創られたのだろう。
執務用に備え付けられた小型端末の液晶を貫通し、床を抉り取っている無数の弾痕が、マルギッテが久方ぶりの司令室に入って最初に目にしたものだった。
机上に置かれたワルサーから香る硝煙の匂いが、アロマフラグレンス代わりかと思えるほど濃厚に、部屋に充満している。
「数週間前の君の報告には、彼に関して『脅威対象になりえず』という評価以外の記述が見られなかったのだが、どうやら違ったようだな」
「も、申し訳、ございません…」
「いや、責めているわけではない。 君と彼が演じた大立ち回りは、他の部隊員からも聞いている。 あからさまに手を抜く、か弱い演技をするなどという余地が入らないものだったと。 彼の人間性についても同様だ。 クリスの話を聞いた事もあるが、概ね、彼の両親の息子たるに相応しいものであると」
ここでしばらく言葉を切り、「それが何故、ああなったか……」とひとり独白するように、フランクは目線を心持ち上げて、虚空に言葉を飛ばした。
「ご命令があればっ、直ちに」
「フ……。 その気概は買うが、その必要があれば、こんなところに私も留まっていない。 今頃はタイフーンを飛ばして彼に対地ミサイルをけしかけていただろう」
張り詰めていた糸が切れたかのように突如、力なく失笑して椅子から腰を上げ、フランクは零れていた薬莢を拾い始める。
「君も前後不覚の心持と見えるが、では今のところ、ディスプレイ越しに鉛玉を直撃させる程度で私の癇癪が収まっている理由を、推察できるかな?」
そうして上官の鷹の眼が大画面に流れるのを見て、先に脳裏によぎった疑問の一つがその答えである事を、マルギッテは閃くのであった。
「……わざと張られたと、中将はお考えですか?」
控えめに鼻を鳴らすのは、肯定の意を示す事をマルギッテは承知していた。
僅かに頭を傾け、故意にお嬢様の平手をその頬に受け止めたと思えたのは、やはり自分の気のせいではなかったようだ。
「前後の彼の並外れた動作を見る限り、彼にとってクリスの一打を見切る事は容易い事だったと思える……が、それをしなかったというのは」
自身でさえ理解不能の衝動を押さえ込めずに、「なにか、この挑発行動には裏があると?」と思わずマルギッテは先回りすると、未だ温い熱を放っているだろう銃弾の名残を片手で弄んでいた上官は、その語気に僅かに目を見開いて考察を続けた。
「無論、根拠はこれだけではない。 ……この戦いは詰まる所「川神百代を巡って」という争いから端を発しているようだが、彼の行為の数々は川神百代を得るには逆効果、それを難化させるものでしかない。 日頃、彼女が自らと対等である男なら是非もないと豪語しているとの報告を信じるなら、大和君を引き合いに出すまでもなく、直接、いわゆるサシで彼女を認めさせるのが最善手。 大和君が気に入らなければその後で、どうとでもすればいい話だ。 そのあたり、彼の中での優先順位が不可解でな。 まあ、恋敵というものは、えてして憎らしく見えるもので、こうなる事も理解はできるのだが、それでも大戦を開く理由、大和君以外の人間にここまで悪感情を沸き起こさせるよう振る舞う理由には窮する。 もしこの振る舞いが内に秘めていた本心からのものであれば、尚の事、クリスに平手を打たせた意味は何だ、という事にもなるのだし……」
マルギッテも、概ね同意見であった。
一歩引いた目線から傍観したせいもあるだろうが、どうも矢車直斗は川神百代よりも、直江大和に執着しているように感じられるのである。
「恋は人を盲目にすると言うが、どう成就させるか少なからず計算を働かせるのも常だ。 その点で言えば、この件の表面下には色恋以外の要素が絡んでいるのではないかとも、疑ってしまうのだよ」
「はい……」
裏を返せば、彼を信じたいというフランクの言葉だった。
彼が現在の役職に着く遥か以前に閨閥結婚によって悲恋を経験した事が、一時、部内で噂となった事がある。
上官の鋭い考察と怒りの自制は、このあたりの経験から来ているのかもしれない……と迂闊にも想像してしまったマルギッテは、下世話な妄想だと瞬時に断じて、自分を戒めるよう、後ろ手に握った掌に爪を食い込ませた。
「それに、彼自身に関しても気になる点が多々出ている。 パーソナルデータを含め、この七年の足跡がいやに不明瞭で、それについてあの九鬼グループも動いていたらしいとの事、それと両親を亡くした際に彼自身は日本にいたようなのだが、まったくの同時に妹も不幸な事故で亡くな―――」
「なッ――?」
その狼狽に「……初耳かね? 彼からてっきり聞いているものかと」と眼鏡を持ち上げ、意外そうにフランクは部下を見る。
「…は……、恥ずかしながら、三日であの国を後にする体たらくでしたので……」
「ふむ。 いや、こちらにも少々含むものがありそうでな。 追って連絡するが……、そうだな。 まずは少尉」
俯けていた佇まいを正して、フランクは部下に正対した。
「どんな事情があろうとも、娘にあのような真似をされて、このまま黙っていられるほど私は寛大な人間ではない。 そこで病み上がりに申し訳ないが、次の公式出動まで、君に特務を任じようと思う」
半ば条件反射でマルギッテが了承の意志を裂帛の声に乗せると、フランクはその内容を通告する。
「この大戦が開かれる理由の全てを詳らかに調査、報告して欲しい。 もしそれが先ほど見た映像通りの、とるにも足らないものだとすれば、それなり以上のペナルティを彼に与えようとは思うが、叶うならば、この任務が私に「武士道」を信じさせてくれる結果となるよう期待している。 ……それから」
そこで一旦言葉を切ると、年輪の刻まれた顔に、黒い真摯な瞳をフランクは光らせた。
「正義とは何なのか、と。 彼に打ちのめされている筈のクリスは考えているかもしれない。 私という父親を恥じている事も然りだ。 ……情けないことに、正直に言うと、これがあのような辛い目にあったクリスの顔を見に行く事ができない理由の大半だよ。 どのツラで、娘の目の前に立てるかという話だ」
表情筋を痙攣させ、お嬢様に限ってそんな事はないと即座に否定をしようとしたマルギッテの言を片手で遮って、ドイツ陸軍中将であり、ひとりの娘の父親でもある男は続けた。
「正義とは、各々の感情に従うものだというのが、私の持論だ。 戦場に正当性など求められない。 階級が上下しようとも軍人の圧倒的多数は自分だけは死にたくないと考えるものだし、人を殺す絶対の正当性というものが確立される事が不可能である時点で、我々が利己的な理由で戦っている事を否定できる筈もなく、むしろ積極的にそれを肯定すべきだ」
言葉を切って、目端を揉んで、それでもと言わんばかりにフランクは続ける。
「だが、だからこそ兵士は、自らが世界を破滅させないよう、その心が「他者に対して善く在り続ける」ように、人生の経験を積んでいかなければならないと、私は思う」
「利己の中に、より多くの利他を形成する精神を養う。 そしてそれを守るために闘う……、いや、これでは、おためごかしだな。 ……守るために、命を奪う覚悟を決めて行動し、そこで初めて正義が成るのだと思う」
汚濁の中に頭まで浸かり、過酷な現実と渡り合うために信条を切り売りしてきた者が、己の尊厳を守るために最後の一線で踏み止まろうとする姿だった。
「クリスを日本に滞在させているのは、異国の地で逞しく、先に言った精神を育てて欲しいという願いからだ。 最も求道的存在たる大和国の古の戦士の心を、理解して欲しいがためだ。 だから、武芸で名高い川神院ゆかりの、あの学園に編入させた」
熱を帯びた男の瞳孔は、自分の姿を捉えて離さない。
「少尉、頼む……。 クリスを支えてやってくれ」
腰を折る、日本式の懇願。
マルギッテは鈍りに鈍っていた自らの四肢に、血が注ぎ込まれ巡ってゆくのを感受した。
<手には鈍ら-Namakura- 第三十四話:森羅>
「お前、自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
一口、ダージリンを啜り終えると、開口一番に険のある声が返ってきた。
七浜の奥まった高級住宅街、青々とした生垣が花々の色彩を引き立てる庭園に広々としたロータリーを備えたお屋敷。
その中の一室。
人払いが為された応接間にて、中央に位置する格調高い長テーブルの両端で向かい合い、俺はこの館の主、久遠寺森羅と対峙していた。
百代の美貌にクリスの気性を合わせたような彼女は、見るものに畏怖を感じさせる凛とした気品を漂わせ、厳しい目で俺を捉え続ける。
その視線から逃げず退かず、俺は「承知しています」と慇懃に回答を送る。
「……簡単に言ってくれるな」
不機嫌そのものの顔つきというほどではないにしろ、決して愉快そうではない表情で久遠寺の当主は続ける。
「久しぶりに来たと思えば、山を貸せとはな……」
川神学園が敵に回る。
そうなるよう仕向け、当たり前にわかっていた事だが、だからといって攻略の難易が変わる筈もない。
情報戦とやらは、もう始まっているのだろう。
恐らくは今頃、せっせと学園の裏サイトなんぞに俺が援軍を頼んだだの何だの適当な事を書き込み、カチカチカチカチ携帯の上で親指を動かし、敵意悪意を束ね集わせ、着々と勝利への包囲網を構築している最中か。
想像すれば、ひどく滑稽な話だ。
そんなものに関わるつもりはない俺からすれば、大和側の勝手な一人相撲である。
はなから独力で全員の相手をする覚悟を為している俺にとって、必要なのは事前の対外折衝や兵站戦略ではなく、本当に水際の、対多一撃必殺的迎撃戦術であった。
自他共に戦闘力は蚊トンボ並みと認める敵大将はともかく、その周りを固めるは武道四天王二人組に天下五弓が一人、集団戦術に秀でるだろう軍門の騎士、次いで先述した面々と比べ地力は劣るが川神院内弟子には違いない薙刀使い、スピードスターにマッスルガイ、アウトローデビル等々、思いつく限りでもそうそうたる顔ぶれ千二百人。 そしてこれに外様の助っ人が数十加わる。
F組と不倶戴天の仲であるS組A組の連中は高みの見物を決め込むと思われるが、まあ、大和の手腕次第ではどうなる事かわかったものではない。
焦りはある。
現状の俺の実力は、百代はおろか由紀江にも及ばないだろう。 ルーや釈迦堂にも、恐らくは。
解呪によって身体感覚、操体能力が格段に向上したとはいえ、全ての天分を取り戻したわけではない。 これからの修練で幾らかは思い出していくのかもしれないが、感覚と記憶と照らし合わせ、自覚はできている。 もう復元できない才があるのだという事を。
もっとも全てを取り戻したところで、この七年の停滞がなかったものにはなるまいが。
……無いものねだりをしてもしょうがない、話を戻そう。
それらの事実を鑑みて尚、先に挙げた戦力を相手取り打倒するため、俺と釈迦堂が共通して得るべきとしたのは、地の利だった。
この一ヶ月で自らの心身を川神大戦そのものに同期、最適化するのである。
丹沢限定環境利用闘法の会得、といえば大層なものに聞こえるが、言ってみれば、戦況を想定し慣れる事だ。
それに加え、世界最強に勝つのに世界最強になる必要はないという事。
ジョーカーにはスペードの3、というように「技法」は必ず存在する。 武術とは、そのための弱者の闘技に他ならない。
その戦闘術の下地となるべくの、地の利、なのだ。
そして川神大戦の舞台は、霊験あらたか、川神初代の聖地として院内では知られる丹沢の山間深部。
季節は残暑厳しい晩夏。 加えて地形は、東西の山を分かつよう南北に渡って中央河川が流れている。
無意識に涼を取ろうとする生き物の傾向から、主戦場は碁盤上における天元の位置、スペースもある中央河原となると予想され、とりあえずはその一帯における基本戦術を構築する必要がある。
だが、公平公正な勝負とするために、当日までは実際の戦地への立ち入りが許されない事を知ったのが、つい先日のこと。
そして、よく似た地形を持つ北隣が久遠寺家の所有地である事を知ったのも、つい先日のこと。
「で、借りる理由も言えないと」
淡々とした口調で、またティーカップに一口。
「……一応、レンはともかく、ベニにも教えてない私の秘密だったわけだが、そのへんは大佐からか?」
その精悍な風貌から「大佐」と称される忠実な老執事の名を出すと、溜息混じりにやれやれといった風情で肩を竦められた。
「相談に乗っていただいたのは事実ですが、失礼ながら、俺がしつこく聞き質した結果です」
「では、私が何のために方々の山を買い取っているか、聞いていないわけはあるまい?」
七浜フィルハーモニー楽団専任指揮者、久遠寺森羅。
非業の死を遂げた天才音楽家、久遠寺万象の長女にして、ロシアの巨匠、ミハエル・プルシェンコに師事。
国内最年少で興行交響楽団の指揮を任された実力もさることながら、その美貌から、出版する写真集も軒並み増刷必至。
芸術の表現能力というものはある種の共通性を秘めているのだろうか、海外留学時のエッセイもついにはベストセラー入り。
最近ではアニメーションや劇場映画の主題歌、劇中曲の作曲にも力が入り、昨年度はレコ大作曲賞、審査員特別賞をダブル受賞。
そんな、芸能人高額納税者ランキングの十指には間違いなく入るだろう彼女が、島や山地などの不動産を購入する理由は、地価上昇予測による利潤獲得や税金対策などという卑しいものでは決してなかった。
「ただの自然保護……。 まあ自己満足といえばそれまでで、私ほどの力でも焼け石に水である事に変わりはない。 が、私は心から、ありのままの緑を守りたいと思っている」
この人は昔から、花鳥風月に対する感性が並外れていた。
外に出るたびに見られた、その時々の気候季節を愛でる視線と仕草が印象に残っている。
「夜が明ければ木々に朝露の玉が飾られ、真昼には野花と蝶の鮮やかな色彩が風とともに揺れ、夕暮れになれば一斉に鳥達が陽に向かって飛び立っていき、夜には月光が川面の魚飛沫に降りかかる」
夢見心地で語られる幻想の景色が、俺を包む。
「そういう光景はな、直斗、人間が生まれるずっと昔から繰り返されてきた原始からの営み、それこそ原風景なんだ。 だから、人間がおかしな事をしないように守ると、私はそれなりに気張っている。 ……まあ、その自然を柵で囲って、人間の開発がおかしな事かどうか、私という人間が判断しているという矛盾はある。 開発そのものが自然であるという話もある。 エゴなんだろうなぁ、これも」
前にあるのは自己の正しさを否定せず肯定もしない、真の賢さを持った大人の姿だった。
「だが、エゴだからこそ、自分の本心から来る望みだからこそ、この気持ちは強い。 ……約束できるか?」
足を組み直し、彼女は確かめるような目を、穏やかな微笑とともに俺に向けてきた。
「その場所の環境に、敬意を払い、決して汚さないと―――」
「できません」
そして不可の言葉で目前の表情を切り裂いた。
完璧な保全など出来る筈がない。
どんなに注意深くしても、人の手が入る限り、ヒエラルキーは脅かされる。
だいたいにして一ヶ月、あのアウトロー共と閉じ込められるのだ。 荒らされるは必定の事。
むろん、無用な損壊殺生は極力しないよう気をつけ、他の動向にも目を光らせるつもりではある。
が、結局それこそ焼け石に水。
それを踏まえて貸せと言うのだ。 迷惑千番な話だと思う。
だが、だとしても言葉を濁して誤魔化さない。
事後報告なんて糞だ。
それは最も忌避すべき、不敬千番な行為だ。
「……そうか」
やはり、どことなくむつくれてそう言うと、すくっと立ち上がった。
当然の反応である。
人類最大、その称号を川神本家から譲渡された「現代最強」、橘平蔵氏
時の内閣総理大臣、名実ともに天下に名を轟かした狙撃の名手、麻王太郎氏
才能発掘人材育成の鬼才、西の名門学園「天神館」設立者にして学長、鍋島正氏
彼らと並ぶ川神の高弟であり、久遠寺では唯一事情を心得ている老執事、田尻耕氏とは幾らかは面会していたが、縁浅からぬとはいえ、彼女とは七年間の音信不通から数ヶ月前に再会したばかり。
これは縁故を頼った、図々しく厚かましい願いに他ならないのだった。
電話で断られなかっただけ、御の字というところだ。
「……少し考る。 今晩は泊まって行け。 部屋は用意させておく。 明日には結論を出そう」
しょうがないなという溜息をついて、再び柔らかく笑い、しかしこちらの発言を封じるように言うと森羅は応接間を辞そうとする。
彼女の言葉に俺が慌てて反応し、そうやって丁度席を立った瞬間だった。
「うわわわわわッ」
「うおおおおおッ」
ミシリと軋んだ音と、バキンと折れた音はほぼ同時だった。
廊下と唯一繋がる締め切っていた観音開きの扉が、明らかに正しい使用方向ではないと思われる開き方をなす。
古今東西、向かって縦から倒れこんでくるタイプの戸は、無くは無いだろうが非常に珍しい部類だろう。
次いで真横のフローリングを揺るがした暴力的な打撃音に、目を閉じる。
「……お前達」
片手は腰に当て、もう片方は顰めた表情の皺をどうにか元に戻そうとするかのごとく眉間に当てて、森羅お嬢様は呆れたように呻いた。
蝶番が引き伸びて痛々しく引きちぎられ、接地したドアにへばりつくのは、「ア、アハハハ……」と、への字に形のいい眉を変形させた薄桃色の髪をたなびかす今をときめく女子大生に、「す、すみませっ……」と、蛇に睨まれる蛙の如く萎縮しつつも、瞬時に正座した当主専属の若執事のお二方である。
正直気配は察知していたが、それを黙していた理由は、俺としては特別秘匿するような会話会談でなかったというのが、ひとつ。
人払いという気を回した森羅の立場を尊重したかったというのが、もうひとつ。
「ごめん、その……、どうしても気になっちゃって」
個人的に、ここ七年で一番変化成長があったと感じられた久遠寺家の三女、久遠寺夢の弁である。
一方は音楽家、もう一方は実業家兼発明家として輝かしい人生を着実に歩んでいる二人の姉と自身をどうしても比べてしまい、自分の没個性を嘆いているらしい彼女だが、無理に自分を作らなくても十分な見目カタチである。
こういうドジを踏む素の部分が、彼女の誰にも真似できない可愛らしい所でもある。
「構いませんよ、夢お嬢様。 別段、隠すような事を話していたわけではありませ、…………あぁ、いや」
森羅の追及から避難させるために咄嗟に出た言葉ではあったが、山林所有の件は密事であったなと思い当たる。
気まずく森羅の顔を振り返った。
「ああもう、まったく……。 いいさ、直斗。 レンは知っているし、私としてもいずれは皆に話そうと思っていたものだ。 とんだフライングだがな」
仕方なしの森羅の溜息に、夢が慌てたようにフォローを入れる。
「で、でもシンお姉ちゃん凄いよ。 あんなに稼いでたら私なんか漫画とかゲームとかにつぎ込んじゃう自信アリアリだもん」
「……ふふ、お前にとっての娯楽がそうであるように、私にとっての娯楽が自然保護だったというだけの事だよ。 夢」
「あ、あぅ~。 なんかもう器が違いすぎてヘコむー」
「あーあー。 ま、そんな事よりだ、夢。 さっさとその膝の下に敷いているものを片付けてしまおうか」
「あっ! そ、そうだ、ごめんなさい」
「いいさ、悪気はなかっただろうし、だが……レン?」
「は、はいぃ」
「人払いで立ってたお前がどうして夢と一緒に盗み聞きしていたのか、ぜひともその海より深く山よりも高いだろう理由を知りたいところだな?」
「申し開きもございませんッ」
主曰く調教済みらしい、久遠寺森羅専属の世話役、上杉錬は活力溢れる声で頭を下げた。
ただ、彼に関しては仕方のない部分があると思う。 これからの、彼の立ち位置から考えれば。
「仕置きは後として、直斗の前でクオンジティータイムを発動させたくなければ、速やかに失点を取り戻せ。 いいな?」
それに応えて「はいッ!!」と弾かれたように立ち上がると、彼は脇によけ俺に一礼し、慎重に倒れた戸を夢お嬢様とともに引き上げ、廊下へとせかせかと出て行った。
説教の声を荒げないところから、俺が思っていた事は当然ながら森羅の方も理解しているようだ。 彼をフォローする必要はないだろう。
「すまんな、騒がしくて。 住人の元気と仲が良いのはウチの自慢ではあるんだが……、他に何かあれば、相談に乗るぞ?」
嘆息の後の苦笑、しかし破顔には違いない表情が、眩しかった。
「俺に気遣いは無用です。 っと、そうですね。 あと一言、申し上げなければならない事が、……森羅お嬢様」
「ふふ、どうした? また改まって。 ああ、それと、私もそろそろお嬢様と呼ばれるには恥ずかしい年頃だ。 一応、私は当主だぞ?」
困ったように、くすぐったそうに言って髪留めを揺らす彼女の挙措に何時かの懐かしみを覚えて癒され、しかし、別れるわけでもないのに切なさに似た感情が喚起される。
以前にはなかった温かく柔らかい……、大人びた心の余裕、とでも言うのだろうか。
大佐――、田尻さん曰く、先の若執事によって成されたというそれを垣間見ているせいなのだろう。
親父達や久遠寺夫妻が健在だったあの頃、緑が青く茂る庭先で五人でじゃれ合ったあの頃は過去でしかなく、もう二度とやって来ないのだなと、実感させられているようだった。
今でも昨日のように思い出せる、全員が等しく無垢だった時代。
七年の停滞があったからこそ、そして、もはや取り返しがつかないからこそ、それは年を経るごとに鮮烈さを増していく。
……だが、彼ならばきっと、あの不器用ながらも実直な青年ならばきっと、久遠寺を護ってくれる――、という祈りというより確信に近い感傷が、今現在の俺の胸を満たしてもいた。
「御婚約、おめでとうございます」
*
午前二時。
部屋の隅に備え付けられた浴室から響くシャワーの水音が、嫌に大きく木霊する。
一人で寝るには広すぎる寝台の上で、上杉錬は窓から天井へと入射する月光をぼんやりと眺めていた。
月光の筋が見えるのは空中に塵や埃がそれなりに浮いているという証左で、屋敷の雑事を司る執事としては喜べない話ではあるのだが、先ほどまでの行為を振り返れば仕方ないと、一笑できる神経からして、俺は執事としての一線を完全に越えてしまっているのだろうなと自覚する。
まあ、「森羅様の世話」というものの半分近くは一線を越えざるを得ないようなものだから、こうなるのは仕方ない。
そうだとも。
仕方ない。 ……異論は認めるが、爆発はしない。
家出同然の境遇から、愛する姉と共にこの屋敷に拾い上げられて、もう二年以上。
この間の自らの人生に起こった激動は、森羅が言うとおり「人生わからん」で形容されうるものだった。
父親の暴力からほうほうのていで逃げ出してきたと思えば、いまや自分は、日本の至宝とも名高い麗人の夜伽相手→恋人→夫(予定)と順調にランクアップし、コトが終わった気だるさをキングサイズのベッドに任せる身分である。
何の不満があろうかと、世の男の大半は俺を糾弾するだろう。
だが事実、俺の胸には小さなしこりができているのだった。
「やっぱり、なんか違ぇよ……」
たまらず、ひとりごちる。
言わずもがな、我が主のことである。
常と変わらないと、同じく森羅付のメイドたるベニ公は、従者会議にてさり気なく訊いた俺の言葉を一蹴したが、やはり俺にはそうは思えない。
塞ぎこんでいるというわけではないが、数時間前の晩酌の間にかけては、鬱と空元気がちぐはぐに合わさったような妙なテンションで、いつもより酒量も三割増し。
彼女にとっては一層力の入ることだろう、地元で行われるサマーチャリティーコンサートが目前に控えている事もあり、俺としても最低限の分別はある。
すぐ隣で寝るとしても、今夜はいわゆる「閨を共にする」つもりは欠片もなかったのだが、何かからせっつかれるように自身を求められれば、応えるしかないのが俺の立場で。
やりきれない想いのまま愛する人を抱くというのは、こんなにも空しいものなのだと初めて感じ入った。
冷水が歯に沁みる時のような、ヒリリとした痛みが心臓にある。 周囲をじんわりと腫れ上がらせ、熱を持っているような痛みが。
日常茶飯事である入浴時の世話を断られてから、今、はっきりと自覚するようになった。
……彼女がああなっている原因といえば、想像は容易いのだが、それを認めたら、なんだかこれまで積み上げてきた全てが崩れ落ちてしまいそうで、結局、当の森羅には何も声をかけられずにいるのだった。
だが、明らかに調子をおかしくしている彼女をこのまま放っておける筈もなく――
「……レン」
鬱屈とした堂々巡りの思索から我に帰り、天井から目を下ろすと、しとどと濡れた髪をそのままに、湯気がもうもうと沸く浴室の前で、タオルやバスローブを巻きつけもせず佇立する主の姿があった。
「お待ちを」
すぐに起き上がり、準備していた純白のローブと、洗濯時にほどよく柔軟剤に揉ませたタオルを手に、彼女の傍に寄る。
タオルを受け渡し、十分に体を拭いてもらってローブを羽織らせてやる。
「ありがとう」
礼の言葉を呟かれたが、しかし、むしろここからが世話役の仕事の本分である。
楕円に縁取られた鏡台の前に、いつものように座ってもらう。
入浴後の髪の乾かし方次第で翌朝のスタイリングが決まる。 よって、乾かす時の第一段階となる拭き方はとても重要なポイントだ。
ハンドタオルを形の良い頭頂部にかぶせ、上から両手で頭をつかんで、優しく円を描きながらマッサージし、次いで髪を両側から挟むような形で水気を吸わせる。
動物を撫でるように柔らかく、水分をタオルに移すようなイメージがコツだ。
それが終わり、少量のトリートメントを手に取り薄く両手に延ばしたところで、しばらくの沈黙が破られ、「……なあ、レン」と呼びかけられた。
思わず髪に下ろそうとした手を止め、鏡面越しに聞き返そうとした時である。
「恋人の腕の中で他の男を想う女は、花嫁失格かな」
何気なしに放られた言葉に、思考が停止した。
臍の奥が軋み締め付けられる感覚が俺を襲い、不意に胸に飛び込んだ衝撃が、それに追い討ちをかけた。
*
ついほろりと内心を言葉にした直後、自分のした残酷な仕打ちに強烈な罪悪を覚えて、気づいた時には椅子を蹴飛ばし振り返って、レンに抱きついている自分がいた。
「……しん、ら?」
「すまん――」
「い、いえ……」
「まず、前提として宣言しておく。 私は、お前を愛している。 好きだ。 この世で一番、な?」
顔を相手の胸にうずめたまま、自分の気持ちを確かめるように言った。 くぐもった自分の声を他人のもののように聴いた。
頭は、とても上げられなかった。
「一月前、お前からプロポーズされた時、本当に嬉しかった。 本当に。 あと半年近く先のことなのに、式が待ちきれない自分がいる」
これは紛れもない本心だ。
「私はな。 今、これ以上にないほど、幸せなんだと思う。 父母はもう亡いが、代わりに大佐がいる。 可愛い妹達がいて、賑やかな従者が付いている。 七フィルの楽団員も気の良い奴ばかりだ。 そして、きわめつけはお前だ、レン……」
「……はい」
底意を見せない、こちらを慮った穏やかな返答に胸が温まる。
より一層、強くなった抱擁の気配が伝わる。
ああ、やはり私はこの男から愛され、この男を愛しているのだ。
だが、その幸福を自覚した分、背に重くのしかかってくる感情があって、続く言葉をどもらせた。
「だけど……そ、そう思うとな、 あいつは、どうなのかと、 直斗は、どんな気持ちで、今を生きてるんだろうって、幸せなのかって、私はッ――」
祝いの言葉を投げかけられた直後から、表面張力もぎりぎりで押し留めていたものが、喉から溢れ出してきた。
たぶん、初恋、だったのかもしれない。
幼少期は五線紙に没頭するばかりの毎日で、友達付き合いというものはあるにはあったが、あくまでも「それなり」のレベルで、同年代の異性と交流を持つ事は窮めて稀であり、そういう背景からか、親同士の付き合いで顔を合わせたときから、ずいぶんと彼の妹よりは意識していたと思う。
本格的な留学は親の死に目に立ち会ってからだが、その前にも両親に付き従い、観光半分勉強半分の要領で幾度も欧州に渡っていて、その際には欠かさず矢車家を訪れていた。
年下のあいつは、格好の玩具だった。 物凄く思い切り、いじめてやったと思う。
何かと理由をつけて蹴り倒したあいつの背に腰掛けて、抵抗しないのをいい事に、コロコロ笑い転げる妹を尻目に何度も茶をしばいた筈だった。 クオンジティータイムの起源はここからである。
あいつが日本にしばらく留まる事を聞いたときはもう、動悸が止まらなくなり、オタマジャクシの羅列になかなか手がつけられなくなったほどだ。
何を言うにも、何を願っても、彼はいつも断らず、期待に応えようとした。
私のほうが年上だったとか、親の立場的にそうし続けざるをえなかったとか、私がとても可愛らしい上に性格が良くて振り払うには相当の自制心が要される美少女だったとか。
たぶん、彼の振る舞いはそれらの事とは関係なく(後半はどうか知らないが)、彼自身の本性の表れだったのだと思う。
あれほどの我侭に彼が付き従っていた当時を思い出すと、自然とそう思えるほど、彼は純粋で親身だった。
武術の心得があるとのことだったが、私と接する時にはその片鱗すら見せず、まして私のいたずらへの制止に腕力を用いることなど全くなかった。
人を気遣い想うという一点において、彼ほど敏感な男に、以降、出会ったことはない。
全力で誰彼とも真摯に向き合うあの姿勢を、いつまでも「男があるべき姿」だと印象深く胸の奥に残していたから、私はレンに心を奪われたのかもしれない。
……無論、レンにはレンの、直斗が及ぶべくも無い良いところが沢山ある。
隠したい過去に、親への恐怖という呪縛に、最後には真っ向から挑んで闘った数年前のレンは、それまで見た誰よりも凛々しく雄々しかった。
だから、私は一生のパートナーとして受け入れたのだ。 むしろ、そうあるようにこちらから願ってもいた。
思い出補正も、直斗のほうには多くかかっているだろう。
過去を美化できる。 それが人間の悪しき特権だという事は理解しているつもりだ。
だが、それでも、消えない記憶というものはある。
唐突に、別れは訪れた。
というより、語弊があるかもしれない言い方をすると、別れというものはなかった。
一度、この館に遊びに来て以来、彼は忽然と消えたのだ。
あの爆破テロ。
いつかの秋の早朝にその知らせを聞いて、嫌な予感がした。
背中で黒い液体が這い回っているような、そんな感覚が自らを襲い、テレビを呆然と眺める妹達を尻目に、一も二もなく父母に噛みつかんばかりの勢いで事態の説明を求めた。
彼の両親が件の国の、件の都市を訪れていた事を、彼から直接耳にしていたからだった。
大佐から巻き込まれた可能性が窮めて高いという絶望的な観測がもたらされると、いてもたってもいられず、それは蒼白した表情を隠せずにいた両親も同じだったようで、怒涛の勢いで流れ込んでくる情報の錯綜氾濫に追い立てられるように、私たちは川神へ飛んでいった。
まだ寝巻き姿の妹達もついてきたがったが、着替えを待つ時間を構えられるほど誰の心にも余裕はなく、彼女らと従者に留守を任せ、大佐と両親と私の四人で隣町へとロールスロイスを走らせた。
何もわからず、考えられず、ただあの兄妹を孤独にしてはいけないという想いが、道中、誰の胸にも滞留していた。
アスファルトを切りつけたタイヤの擦音を慌ただしく響かせ降り立った一軒家には、こちらから何度も電話して、いつまでたってもコール音が鳴り止まなかったから予想できた事だったが、出窓から覗くカーテンは締め切られ、人の気配はなかった。
それでも直斗くん真守ちゃんと父母が何度も呼びかけるのを聴きながら、押し潰されそうな胸を抱いて私も矢車邸の門をくぐった。
築十年前後と見えるその家は、中流の上あるいは上流の下といったクラスの家々が並ぶ一帯では、特に目立つところもない二階建ての家屋だった。
門扉と家屋の間にある前庭の潅木の茂みから、決して照明が必要なほど暗くはない午前七時半の朝露に、LED電球の目映い光が反射していた。
玄関の鍵はかかっておらず、庭の外灯のみならずリビングの明かりも灯されたままで、音量が絞られていたとはいえテレビも点けっぱなしのまま放置され、その空々しいぼそぼそとした音が、かえって不気味さを演出していた。
そういうものが積み重なって起こされた不規則な動悸に、息苦しさが募り続けた結果が、人生最大の不覚を生んだ。
これが彼との再会に七年もの月日を擁する事になった原因である。
最後に覚えているのは、瞬き震える画面の中の、鬼の形相で街路をひた駆ける灰塗れの男の姿。
会うたびにいつも妻の尻に敷かれている印象を受けた、コミカルで優しい、私にとっては親戚同然の人物。
今にも崩れる事がもはや定められてしまった塔に向かう、彼らの父親の後背を、私は見てしまった。
呼吸が凍った。
それは一瞬の事に過ぎなかったが、心中にて、さながら絶壁の淵に立たされていた私をその谷底へと落とすのに十分な衝撃であった。
だめだっ、と最後に叫んだと思う。
しかしそれは届くはずのない願いだった。
もうその映像は何時間も前のもので、ここから何千キロも離れた遥か海の向こうの岸辺を映したものだったのだから。
そうして床に体を投げ出し意識を手放し、後になって屋敷で再度それを取り戻したときには、全てが遅かった。
―――しばらく、会えなくなりましょう。
それが直斗の消息を掴んだ大佐の、第一声だった。
それも、唐突も過ぎる矢車真守の訃報を携えての事だった。
*
あの後、どこだかに保護された彼と大佐は面会したらしい。
わけがわからなかった。
わけがわからないなりに、わけを問えば、話せないと返された。
断片的に受け取ったひとうひとつの情報。
瞬間的に湧き起ったひとつひとつの感情。
そのどれもが大き過ぎ、失ったものがあまりに大切に過ぎ、それを認められないまま頭の中が飽和し続けた。
とりあえずの現実逃避に、私室にひきこもり、ひたすらに譜面を貪ったのをぼんやりと覚えてはいる。
ミューや夢が大声を上げて泣いている声が響いてきたが、それにつられることもなかったと思う。
……いや、もしかしたら、本当は泣いていたのかもしれない。 自分でもよくわからない。
酷い事故にあった人は、その前後の記憶を忘れる事があるのだという。
事故の瞬間はもちろん、そこに至る記憶もなくして気が付いたら病院にいるというあれだ。
人間の頭にリミッターのようなものがあって、耐え難い恐怖、衝撃、痛撃の記憶をオミットする機構が備わっているのなら、あの頃の私はまさにそれを作動させていたに違いない。
あの後の、直斗に会わせろという幾度もの懇願も、久遠寺で執り行ったはずの真守の通夜も、たしかに経験した筈なのに、どうしても思い出せないのだ。
―――あやつは今、闘っておるのです。
かろうじて思い出の空白の中に差し込まれているのは、大佐の血を吐くような肉声の響きだ。
―――何に、と聞かれれば返答に窮してしまうほどに唯一にして数多、矮小にして巨大な、確かに存在するのに掴みどころのない、それは恐ろしいものと対峙しておるのです。 ……私とて、許される事ならお嬢様と引きあわせたいっ
自身、承服しかねるという憤怒に似た想いを滲ませながら、どこか悲しいと感じさせる声音だった。
―――貴女以外の一体誰に、あやつとまみえる権利がありましょうっ。 真実あやつは今、孤独なのです。 すべてを失くしたのです。 なにゆえ傍に居てはならないのでしょうっ。 なにゆえそこで支えてはいけないのでしょうっ。 たしかに、たしかにあやつは許されない事をしたかもしれないッ、しかしそれはッ……
感情を爆発寸前で押し殺そうとして、しかし全く殺し切れていない大佐の吠えが、歯切れ悪く止まった。
それを不思議に思ってそれまで俯けていた顔を上げて双方の潤んだ眼が合うと、決まりが悪そうに逸らされた。
窓の外に瞳を向け、小さく深呼吸すると、大佐は自分に言い聞かせるように、それでも、と震える言葉を継いだ。
―――それでも独りで乗り越えると、そう申しておりました。
実年齢よりもひとまわり老けこんでしまった風情を醸した大佐の、ふぅっと体中の空気が抜けてしまったような溜息がその会話の終止符となり、私の追及の意欲が急速に薄れた理由になった。
*
暫時腕に抱かれた後、互いの顔に向き合って会話できるほどに回復すると、共にベットに腰掛けて話を続ける。
「いつか、いつかお前に「鉄骨になりたい」云々とか、むず痒い世迷い言を話した事があったろう?」
「……あの時は、その、出過ぎた真似を」
「いいんだ。 お前の言ったことは事実だった。 あれはお前が正しい。 私が意地になっていただけさ」
その後、レンと出会うまで、張り詰めた弦のように厳しく、孤高に生きてきた。
直斗との別れがそうさせたのか、それとも自らの内に隠されていた性向か。 ……恐らくは両方だろう。
私も乗り越えてやろうと、強くあろうと決心したのはいつからだったか。
短すぎる人生の領収書のような、生者の名残が感じられないひどく小さな真守の骨壷を目の前に置かれた時だったか。 それとも、後に福知山で親がミューを庇って死んだ時だったか。
理屈ではなかった。
そうでも思って生きていかなければ、いつかまた彼と巡りあった時、目を合わせる事すらできなくなるだろうという強迫観念に駆られ、自分を磨きに磨いていった。
万事に耐え、決して折れぬ、一度として曲がらぬ、久遠寺家の柱になろうとしたのだ。
それをみなとみらいの海際から見える工業団地の鉄塔に例えて、まだ使用人として日の浅かったレンにツイート、その結果、互いに気持ちをぶつけ合ったのが今話題に上がった共通の経験である。
今から思えば業腹ものだが、当時のレンに抱いていた感情というのは愛玩動物に向けるそれであって、彼の私をおもんばかったための「否」の返答に、主の秘めた領域に土足で干渉してきたと、飼い犬如きに随分と自分を安く見られていたと見当違いも甚だしく逆上し、解雇一歩手前まで事が進んだというのがそのあらましだ。
「悲嘆や期待からくる重圧をヤスリに変えて、心身を研磨させるのは悪い手段じゃない。 そこには美しい刃を志向して薄く鋭く研ぎ澄ます、刀芸のような物的芸術にも通じるものがある。 だが、剣を人の心に置き換え、それを永久に行う事は、綱渡りが糸渡りになる事に等しい。 研ぎが鈍いと曇りの如き焦りが生まれ、反対に磨き過ぎれば呆気ないほどに折れてしまう。 常に中庸を意識せねばならないから安定はない。 ……人の心にやり直しは効かず、目に見えて客観視できない不確かなものをすり減らしていく事は危険に過ぎると、教えてくれたのはお前だった」
「……そう気づいたのは、森羅様ご自身ですよ」
「褒めてるんだ、そう謙遜するな。 傲慢だったんだ、私は。 ただ、ああして自分を追い詰めていた原因というのは、「直斗はもっと辛い」と、無意識に思い続けてからなんだと思う」
本当の意味で心身の力を抜く時間を取るようになったのは、レンの想いを受け止めてからだ。
呵責がなかったといえば嘘になる。 それまでの自分を否定したくはなかったし、楽になろうとする事は怠惰だという価値観がそうそう捨てきれるわけではない。
ただ、外圧に耐えるだけの無機的な金属柱ではなく、大事なものを包み慈しみ、また逆に慈しまれる大樹のような生き方のほうがよっぽど魅力的で、甲斐あるものだと思え、そう生きてゆく方が、記憶の彼方にあったあいつに再会したとき、より暖かく迎え入れられるような気がしたのだ。
改心して一年が経って、その判断が正しいと実証され、報われたのが数ヶ月前の事。
「雪のような真白に染まった頭には戸惑ったが、変な言い方になるが、やはり、あいつはあいつだった。 最初は随分、浮かれていたなぁ。 酒の席でも抱きついたりもしたか。 ……すまん。 あまり、お前は良い気持ちがしなかったろう?」
先ほどの失態にしたって、根はそこにあるのだろう。
婚約者が自分がよく知らない他の男と二人きりになっているのに平気でいられる筈がない。
「でもな、嬉しかったんだよ、レン。 少なくとも心から笑っている顔が見れたんだ。 真守の件に夢がドジって触れたときすら、陰のある匂いをさせなかった。 ああこいつ、乗り越え終わったのかって思えて……」
「ですが」
「……ああ。 どうやら、全く逆の趣きだったようだ」
さっきまで体にのしかかっていた虚脱感がぶり返してくるようだった。
四月の末に再会してから今日に至るまでになにがあったのか、訊くに訊けないまま、明くる日を迎えようとしている。
今日、否、正確には昨日、この屋敷を訪ねてきたあいつは、私には前と変わらぬように思えたのだが、彼を真っ先に迎えた夢付きのボディーガードの南斗星は、「気配が違う」と番犬のようにしばらくグルグルと警戒し、それをなだめる大佐も彼に眉を顰めた顔を隠さなかった。
神妙な顔つきは電話で聞いた「頼みづらい頼み事」のせいだろうと、私はたかをくくっていたのだが、理由はそれだけではないのだとようやく理解したのが、最後の祝言と共に投げかけられた、切実な双眸を受け止めたときだった。
「苦しそうだった。 ……とても」
まだ、闘っていたのだ。 彼は。
頬を伝う気配を見せた瞳の水滴に気づかれないように、すぐに背を向けて「ありがとう」と照れ隠しのように応えた。
取材を多く受ける身分柄、内心を内面に抑えるのは得意な方だったが、この時ほどその能力を総動員させた事はない。
「なんで、なんで、ああいう奴が、あんな優しい奴が苦悶しなくちゃならないんだろう……」
いつか大佐が口を滑らしたように、七年前、きっと何かをやらかしてしまったのだろう。
そして、これからも何か辛い事を成し遂げようとするんだろう。
彼の面前では白を切ったが、川神学園からとっくのとうに連絡は来ていた。 私有地近くで、大戦の名を冠す大喧嘩が花開くと(これの中心に関わっているとは思いもよらなかったが)。
けれど、きっと、それらは彼の責任ではない。
私は確信している。
彼は、きっと運命にその何かを強いられただけなのだ。
もちろん私は、事情の詳細はおろか概要さえ把握してはいない。 だが、知ったところで何が変わろうか。
私にとって矢車直斗という人物は、自分よりも他人に優しい、善人の典型のような男だった。 我欲を最後まで隠し通し、こちらがそれに気づいたら、それを無言で押し潰すような男だった。
――――絶対に、絶対に悪くないっ、 だから、だから苦しむなっ!
悔しくて、腹立たしくて、涙を零してそう思う。
誰よりも幸せであるべき男なのに。
それに見合うべき代償を、すでに支払い、またさらに捧げようとする意思すら持てるだろう男なのに。
半生の苦しみに見合うだけの喜びを、これでもかこれでもかと押し付けてしまえればいいのにっ―――。
……もとより、山の一つや二つ、島の三つや四つ、それであいつが幸せになるのなら、喜んで差し出してやれる。
景観保護など自己満足だ。 ただの私欲だ。 もっと大きな私欲に潰されるものだ。
「でもそうしたらっ、もっと辛い目にあいつは遭うんじゃないかって……」
あいつはいつも、自分が一番割を食う遣り方を選ぶのだから。
沸き上がった感情に、また歯を食い縛って、目を塞ぎ切って、恋人の、今度は肩に縋りついた。
だが、レンは受け止めるどころか、振り払った。
それに呆気にとられ、傷つく寸前の刹那、両肩をひしと掴まれる。
胴を捻った姿勢で、レンと私は目線を合わせて、正対した。
「今は、助けられるじゃないですか」
そのとき、心臓を射抜かれた心地を覚えた。
「昔とは違うんです。 今は、彼の傍に立つ事ができるし、支える事が出来る」
おまえ、と声を出した瞬間に抱きしめられた。
「勝たせましょうよ、直斗を。 他人の為に戦おうとするのなら、直斗の幸せは、そこにあるんだと思います。 ……俺もつまんない事に拘泥しないで、全力で手伝いますから」
力強い、どんな反論も跳ね返すような声が響いた。
後頭部を撫でつけられながら、そう囁かれて以降、それから言葉はなかった。
心の通いあった者同士に、それはもう必要の無いものだった。
お前が私に持ってくれたその感情は、決してつまらないものじゃないと、愛する事の裏返しなんだと、肩に額をうずめて、すんと鼻を鳴らして応答し、やっと私はその日を終えた。
ああ、私は幸せ者だ。
いつかお前にも、わたしにとってのレンのような存在ができたなら、その時は―――。
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明けまして、おめでとうございまじこい。
……ごめんなさい。切り時がなかなか決められなくて、だらだらになってしまいました。
いやあ、S発売まであともう少しなわけで、wktkしまくりです。
二週間前に仙台メロンの合同キャラバン行って来た際に、Sの予約と無印のビジュアルファンブックを購入してきました。
直前のムック本も三日前に買いました。 やべぇ、情報量多くて素直に嬉しいわこれ。特に無印、何故今まで買わなかった畜生……。
次回更新はいつになるか明言できませんが、頑張ります頑張ってます。
大戦までは結構遠い道のりだと地味に感じてきました。 なんとかあと三話くらいで大戦に移行したいなあ……