『もう、パーフェクトもハーモニーも無いんだよ。 …………どうせ俺なんか。』
―――矢車想 「仮面ライダーカブト」
2001年、10月下旬
日に日に秋めき、冬に近づいていく乾いた空の下、川神院の境内では、まさにその季節の風物詩といえる行為が行われていた。
極彩色の紅葉がひとところに集められ集められ、その赤と黄のまだらに色づいた小山の周りには、固い絆で結ばれた子供達の姿。
パチパチと葉の中に混じる枯れ木の爆ぜる音が響き、燻された樹木の香が流れ、焚火の熱が少年少女達の身体を温める。
「……なあ、もう、そろそろだろ? 俺様限界近いぜ」
つくつくと、落ち葉と落ち葉の隙間から顔を出したアルミホイルを棒で突っつきながら、彼らの中で頭一つ分大きな体躯を持つ腕白少年(もっとも肌は浅黒い)、島津岳人が辛抱たまらないといった風情で眉を寄せていた。
「まだまだだ。 ……生焼けが良いんだったら好きにすればいい」
にべもなく、もう一人の少年が言う。
厭世観にかぶれる直江大和は、自らが憧憬を抱く太宰の小説本を読みながら、ときおり空を見上げて、「フッ……」と溜息をつく作業に明け暮れていた。
ようするに暇を持て余しているのである。
「そうだぜ、ガクト。 まだ焼き始めたばっかじゃんか。 大人しく軍師の言う事聞いとこうぜ?」
発起人である、翔一も同意する。
だがそういう彼とて、先ほどから島津と同じく葉の大群を小枝でかきまわしているのだった。
「でもよー」
「ジジイが言うには、一時間くらいは待てって話だ。 芋埋めてまだ十分も経ってないだろ、ガクト? ……こら、ワン子もだっ」
「う……」
そろりそろりと外縁へ芋を転がしていた岡本一子を、後に姉となる百代がたしなめる。
「ははっ……、それにしても、ホントに焼き芋できるとは思わなかったよ。 川神って、焚き火しちゃいけないって昔じいちゃん言ってたのに」
そう言ったとたん、煙にむせたのは師岡卓也だった。
「野焼きは大体のところで禁止だからな。 俺もキャップの思いつきがこんな簡単に実現するとは思わなかった」
「ふふん、私のおかげだな」
「川神院でやれるかもって言ったのは大和だろ? 別にモモ先輩のおかげじゃ」
「冷えてきたなー、さすがにもう晩秋だ。 ……どうだ、お前も芋と一緒に暖まってみるかガクト?」
「じょ、冗談だって。 い、いやー、もう神様仏様百代様って感じ!?」
「まあ姉さんの口利きはあったしね。 落ち葉も他から持ってこなくても良いくらいあるし、我ながら良い勘してたとは思うけど」
宗教上の野焼きなら、法律の規制は受けない。
東北のとある神社で行われる「どんと祭」なるものについて、学校の総合学習の一環で調べた事のある大和は、だめもとで百代の祖父、川神鉄心に頼んでみたのだった。
塀に囲まれ人目につかない事と、修行僧を始めとする大人が多くいるという、万が一への安全対策も考慮していた。
「さすがは死神大使。 見事な策略だ」
そう言って風間はびしっと指を軍師に向ける。
満更でもない顔で「よせよ」と片手を振り、大和がまた自分の世界に没頭しようとしたところで、この寺院の主が大門から境内に入ってくる。
「ほう、順調そうじゃな。 何より何より」
「あ、どうも、お邪魔に、あとお世話になってます」
代表して大和が礼を言う。
「……そりゃっ」
すると、ずいっと眼前に、後ろ手に隠されていた何かが広げられたかと思うと、たちどころにモノクロの色彩が大和の視界を覆う。
「うわっ」
「お、おいジジイ?」
突然呆けたように、一枚の新聞紙で鉄心が大和の頭を包むのを見て、一同は怪訝な表情を向けた。
「ん、いや、焼けた後は随分熱いじゃろうからの、これで芋をくるむがよかろう」
弁解するように大和から身を離すと、鉄心はほいほいと一人一人にそれぞれ新聞を配っていく。
「この調子なら、中の熾き火はそこまで燃え上がらんじゃろうが、まあ火の番はしておくに越した事はないからの……。 焼き上がるまでの暇潰しに読んでてもよかろう」
そう言って、からころと下駄を鳴らして本堂の方へと、現人神との呼び声も高い川神院総代は歩いていった。
「なんだあれ?」
大和はわさわさと張り付いた新聞をはがし、百代は先月から覇気の無い祖父の後姿を見ながら首を捻るが、それはともかくとして、他にする事はないファミリーは仕方なしに渡された新聞に目を通す――が、
「これ、一ヶ月も前の奴じゃねぇか」
ガクトが持つ第一面には一月と少し前の、何度もテレビで見た飛行機がビルに突っ込んでゆく、作り物のようなのっぺりした光景が写された写真があった。
世間の大人たちは、随分これを前に大騒ぎしていたし、事件が起こった翌日にはクラスもこの話で持ちきりだったが、まあ、それきりと言えばそれきりである。
目の前で飛行機が落ちてきたでもなし、現実感もなければ別段、一ヶ月後に同じ話をしようとも思えない。
一番に新聞から顔を上げて、またも溜まっていく唾液を飲み下しながらを芋を突く作業に岳人は戻っていったのだが、その動きは次の一言で停止するのだった。
「……モロロ? お前、何で顔赤いんだ?」
「…え……、い、いや別に」
唐突のファミリーの姉貴分からの指摘に慌てふためく師岡は、本人にとって迂闊にも、舐めるように目を見開いて読んでいた記事を素早く後ろ手に隠す。
表が競馬競艇の着予想なら、裏に何が書いてあるのか、それは中年の秘密というやつである。
「何よモロ、何か面白い事書いてあるの?」
「何だ何だっ、俺のなんかよくわからん政治面だったんだぞ。 見せろよー」
その不埒な記事内容とは真反対な爽やかな笑顔で、詰め寄る二人。
「う、い、いやだからたいしたものじゃ……」
「モロ、俺様のと交換だッ!」
幼稚園時代からの付き合いのガクトは幼馴染が何を見ていたのか直感。
瞬間、手にした木枝を放り出し、生まれながらのジャイアニズムを沸きあがらせた。
言い終える前に握っていたはずの記事は奪取され、代わりにクシャクシャになったビル群が足元に転がる。
「あっ、ちょ、ちょっとッ」
「アタシにも見せなさいよ!」
「ここは先にリーダーだろ!?」
「いや年功序列という言葉を思い出すべきだろうッ」
少年達は、思い思いに駆け回った。
一人を残して。
こめかみから噴き出し、頬を流れ顎を伝った汗が滴る。
野火に当てられたからではない。
記事を掴む手がじっとりと濡れ、胸の脈動が不規則な乱打に変わり、喉の奥から何かがせり上がってくる。
突っ伏して吐きたい衝動を必死に押し留め、強張り震える足の指を、靴中で何度も何度も曲げ伸ばす。
―――十二日午前五時二十五分ごろ、川神市多馬川下流、三角州近くにて、身元不明の女児の遺体が川底(水深約1・3メートル)に沈んでいるのを付近にいた釣り人らが発見した。 川神署によると女児の年齢は小学校高学年程度で、目立った着衣の乱れも外傷もなく、死因は水死とみられる。 なお、県内に住む児童たちの中で、捜索願が出されている者はいないため、神奈川県警は情報提供を広く求めている。 現場の状況検分から当該女児は誤って河川に転落、上流から流されたものとみられ詳しく調べられており、また、現場は私立川神学園高等学校の西、約二百メートルの河川敷付近で、県警によると、県内で子どもが犠牲になった水難事故は今年初めて……―――
―――――――嘘だ、
冗談だろ、 死んだ? まさか、
こんな筈は、 そんな筈は、
違う、
俺じゃない、 違うッ、
あいつじゃない、
俺に限って、 人違いだ、 そうだ、あいつだという証拠は、何処にもない、
というか、俺は放っておいただけだ
だから、 本当に?
いや、 でも、 十二にち、 ひ、日にち、
そう、放っておいた
ただそれだけ
日にちは、 偶然、 偶然に決まってる、 そうでなきゃ、
そうでなきゃ、
そうでなきゃ
おれのせいだ、 うそ、 いや、 いやだ、
俺の、せい…………?
*
直江に向かい、そして孫娘達に向かい、「ここからが、正念場じゃぞ」と心のうちに呟いたあの秋の日を、川神鉄心は思い返していた。
首をちょいと後ろに巡らした時、あの子は、直江はそのまなこを見開き、確かに震えていたのだ。
だから、信じた。
自らの過ちを悔いた事を。
それを糧として、これからを懸命に生きる事を。
そう。 直江大和のあれを罪と言うのなら、誰もが同じものを背負っているに違いない。
少年の時分は、誰も彼もが間違い、誰も彼もが罪を犯す。
子供に罪はないと、そういう言葉すらある。
……しかし、だからといって、許されるというものなのか。
誰もが、同じ罪を持っている。
だから償わなくていいと、背負い続けなくていいと、そのような理屈が通っていいものなのか。
断じて、否。
このような事を考える事こそ、罪悪だろう。
ばれていないから、皆同じだからと許される罪など、あっていい筈がない。
まして自覚しながら、死を独り善がりの等価交換で忘却するなど、言語道断も甚だしい。
罪を自覚し続けてこそ人は成長し、過ちから己を律し、同じ過ちを忌避するべく、本当の意味での賢しさを手に入れる。
歳若ければ、尚更これは当てはまる。
儂は、そうなると確信していたのじゃが、の……。
「椎名が加わったのは、そういう事じゃったか」
仮に、真実の過去が露わになった時、忘れていた過ちが解き放たれた時、あやつらは何を想う――――
「御本家」と、低く呼びかけられた声に、はっと我に帰る。
瞼を上げて視界が開かれたと思えば、引き戸の板一枚を挟んだ先に集まる若人達のざわめいた雑言も耳に入ってくる。
だが、弛緩した空気に突き立つ刃の切っ先の声が、それを再び遠くに祓った。
「遅く、なりまして」
振り返った眼前に現れたるは、修羅となり果てし以来、刃金の白に憑かれ続ける弟子が佇立する姿だった。
彼我の過去も罪も、その一切合切を内奥に秘匿する道を選び、それを終生貫く覚悟を据えた男の相貌が、周囲に猛気を漲らせる。
……そう。 もはや、封は解かれた。
今度は孫達ではなく、此奴を信じる番なのだ。
此奴を信じ切れなかったこれまでに、報いるためにも。
最初から、こうすれば良かったのやも知れぬという苦い悔悟が胸一杯に広がる前に、このところ父兄相手に板についてきた鉄面皮で、「うむ」とだけ直斗に返し、嫌に重たく感じる広間への扉を、鉄心は諸手で一気に開け広げた。
<手には鈍ら-Namakura- 第三十話:宣戦>
生徒全員が、講堂と兼用される体育館に集められていた。
「直江ちゃん、あ、あの……」
「大丈夫、委員長。 もともと俺の失言からだろうしさ……」
頭を掻き、苦笑の表情を形作って、さも困っているように見せて、俺は委員長に応えた。
「それならいいんですけど……、やっぱりお姉さんとして、ケンカの後はきっちりしてほしいですし。 よろしくお願いしますね?」
そのどうしようもない矮躯を懸命に大きく見せようと、片手を天井に向けて掲げながら、委員長も同じ表情で眉を寄せて頼んできた。
「皆さんも、矢車ちゃんがまたF組に馴染めるように……」と続いた言葉を聞き流して俺は思った。
体躯云々はともかく度量に関して、つまり人としての器では、この学園の生徒では誰一人彼女に及ばないだろうと。
「まあ、別に俺は直江がやられるとこ見てないから、さほど悪い印象は持ってないんだが。 ……そんなに酷いもんだったのか?」
ケータイのピンク色に染まった画面から目を離さず、幾分気だるそうにスグルが呟くと、ヨンパチがそれに答える。
「そうそう。 つーか、俺はむしろモモ先輩に首絞めくらってんのが凄ぇグロく見えた」
「……ちょっと、そんな言い方ないんじゃない? 大和の前で」
「いいさ、モロ。 今も言ったが俺が蒔いた種だって」
今日はあれから数えて、一週間以上になる。
もう俺の怪我も全快していた。
集会が午後一番にあると言ったきり、そのまま何やら納得のいかぬ表情で朝のHRを切り上げてしまった梅先生だが、何の集会かと聞く愚をF組の面子は起こさなかった。
今日、直斗の停学が解ける事はクラスの全員が了解していて、それについて何かしらの説明があるのだと容易に想像が出来たのである。
昨日の放課後に、梅先生が教室を出た後で委員長が「穏便に迎えよう」との旨を呼びかけていた事もあった。
無論、これに関して俺の了解は取り付けてあったのだが、実は逆に俺が委員長にそう言ってくれるように頼んでいた。
結論として、あれは俺が悪い。
学園内で本心を口にした。 それが迂闊だった事は否めない。
父さんが聞いたら、恐らくはそう言うだろう。 誤魔化せなかった、隠せなかった俺が悪いと。
いくらクリスの言葉が癇に障るものであったとしても、それは例えば基地や寮内や寮への帰り道の際に、諭すべきだった。
そして聞き様によっては、冷血漢と罵られても仕方のない言い方だったなと思わないでもない。
こうも神妙な気持ちになるのは、恐らくは直斗の生い立ちに多少なりとも触れてしまった事が影を落としているのかもしれなかった。
彼の立場に立ってみれば。
見返りを欲さずに慈愛を振り撒く親の教えを受けただろう彼の身になってみれば。
そう考えると、あの朧な視界で見た彼の激昂も、あながち過分なものではないとも思えた。
だからこそ、先週の金曜集会で京やモロを中心として吹き荒れた非難轟々の嵐を諌め、この件はもう無かった事にしたい、と俺はファミリーに頼んだのだった。
大和がそう言うなら、と京は意外にもあっさり引き下がったが、やはりというべきか、我が姉貴分はそれでも許せんと随分息巻いていた。
―――武士が一般人に手を出していい理由が、あるか!?
絶叫は今でも俺の耳にこびりついている。
ここで言う「一般人」とは、戦意無き者の事だ。
日頃チンピラの相手をしている姉さんだって、基本は専守防衛を貫いている。
武士として、そして同じ門下に名を連ねる者として、彼の行動は我慢ならないものだったのだろう。
あそこまで怒ってくれるというのは、俺への好意の裏返しとも思えて嬉しいと、ここで思える神経は異常かな。
……それはさておき、直斗だって、「話せばわかる」人柄である。 少なくともクリスよりは俺のスタンスへの理解は得られるだろう。
姉さんからは「真剣抜きかかられて、よくそんな冷静でいられるな……」と心配半分皮肉半分の言葉を投げかけられたが、それは直斗にとっては自己防衛だったんじゃないかと思う。
姉さんは自分の殺意を否定しているが、傍目から見れば、直斗も姉さんも同じ穴の狢と見えてしまったのが悲しく辛いところ。
ただ真に気の毒なのは、剣にすら置いてけぼりを食らったまゆっちで、集会では身の置き場がなさそうにしょんぼりと肩を落とすのみだった。
こちらはこちらで何とか、しないといけない。
その為にも、彼との関係を修復し、これまで以上に仲良くしていかなければ。
――――そして何よりも、斬って捨てるには惜しすぎる人脈の宝庫だから。
その本心を覆い隠して、決着の時を待つ事にしたのだが。
「にしても、全校集める必要あるとは思えないんだけどなー」
「キャップ」
ついにその金曜集会で、一言も口を挟まず、議論の趨勢を見守っていたファミリーの筆頭が俺に問う。
ファミリーを守る。
このためだけに命も張れると豪語するキャップが、何故か、あの時だけは塞ぎこんでいた。
何かしら、思う所があったのだろうか。
今も、いくらか物憂げな表情だ。
「殴ってゴメンナサイってやつじゃねぇのか? 俺様、そういうケジメの集会だと思うんだが」
「うん、だと思うけど……」
頭の後ろで手を組んだガクトの声に俺も同意しながらも、一縷の懸念が口に出てしまった。
「大和?」
「いや、それにしちゃ随分雑然な感じだなって。 整列も何も無しってのはさ」
そうなのだ。
昼休み後の授業一コマがこの集会に当てられるという事で、全校集合の号が各々のクラスでかけられたのだが、とりあえず体育館に来てみれば、なかなかフリーダムな空間となっている。
全校が集められるという事に少し目を見張ったが、実際、父兄宛のプリントが事後に配られるくらいの騒ぎではあったため、学園生全員の前で詫びを入れるという、パフォーマンスと言ってしまえば語弊があるが、ガクトの言うようなケジメがつけられるのだろうとは予測できる。
だが、仮にもそのような場となるのに、この今のオチャラけた雰囲気は何なのだろうか。
四月の終わりの、新学期第一回目の朝会には全世界的「喝っ」の声が響いたものなのに、生徒会はおろか、厳格な梅先生をはじめとする学園の教師陣すら何も言わず、各々まばらに壁を背にして佇んでいるのみだった。
そのおかげで風間ファミリーは一人も欠けずに館内中央、バスケットコートのセンターサークル内に陣取れているのだが、
「……………」
いかんせん周囲の様相とは裏腹に、女性陣の活気がない。
特に姉さんは、眼を瞑ったまま身じろぎ一つせず腕組みして仁王立ち、の状態をここに来てから崩していない。
こういうふうに皆が集まった普段ならば、俺や京、まゆっちにちょっかいを出しているのが常なのに、寡黙な出で立ちを貫くその姿は、静かな、しかし確かな迫力を醸していた。
俺の至近で黙々と小説を読む京はいつも通りに見えるが、時折出入り口に視線を巡らす所に強い警戒感が滲み出ていて、いつもなら寄るだけで言い争いや挑発の応酬を互いに繰り広げるワン子とクリスは、双方肩が触れ合うほどの距離なのに押し黙ったままで、まゆっちに至っては、眼を伏せ俯き加減で人形のように立ち尽くしているばかりかと思えば、急にそわそわと体を揺らしてまた元に戻るという連環を回し続けている。 松風は何も喋らない。
緊張の現れ方は人それぞれだなと不謹慎ながら感想を抱くが、姉さんに限って言えば緊張とは違うか、とも思い直す。
姉さんのあの振る舞いは、未だ収まりをみせない苛立ちと不満の発露だろう。
長い付き合いでわかるという事もあるのだが、憤懣をひとしきり聞かされてきた身としては、よりくっきりと彼女の心情のカタチが透けて見える。
―――本当に耄碌したぞ。 あのジジイ。
そう吐き捨てた後の話によると、川神院でも随分と直斗の処遇で揉めたらしい。
ルー先生と対を成していた釈迦堂とかいう師範代が破門追放となって以来、院内は年を追うごとに規律が引き締まっているのだという。 それは「内なる天稟こそ絶対の価値、その力こそ全て。 それ以外は些事、律など不要。 捨て置くのみ」という釈迦堂さんの思想を締め出し、精神修行に重きを置くルー先生の教えがそれになり代わっている証拠であるのだが、そういう状況下で、言い逃れできようがないこのような不始末だ。
高弟を含めた詮議では、破門という言葉さえ飛び出し、吟味されたほどである。
だが、その詮議の場には総代は愚か、当事者の直斗すらついぞ姿を見せる事は無く、それどころかルー先生のとりなしでなあなあで終わる気配さえあるのだという。
それが、姉さんには許せないらしい。
どうしても、なんにしても、許せないと。
ここからは何となくだが、これには被害者が俺だった事に加えて、また別の理由があると思う。
恐らくは、釈迦堂さんの沙汰の時の事を、これに重ねているのではないかと俺は想像する。
これがなあなあで終わるなら、どうしてあの時、釈迦堂さんは追い出されなければならなかったのか、そう憤っているのだと。
釈迦堂さんの追放は、門下の過半数が彼の教えに反発し、それを受けてルー先生が自分の籍を賭けて決闘を申し込み、結果が先生の勝利となったために決まった事だ。
これは川神の掟の通りに執り行われた為に、姉さんにはそれに関してどうこう言うつもりはなくて、「不満はあるが文句は言えん」という事らしい。
姉さんにとっては勿論、直接の師匠である釈迦堂さんが勝って欲しいとの願望はあったこそすれ、それは最強が川神に残ればいいという思想に基づいたものだった。
それは釈迦堂さん自らが豪語していた事で、ルー>釈迦堂の不等式がその時に成り立ってしまっても、唯々諾々とまで割り切れはしなくとも、少なくとも納得はしたのだ。
感謝の念。
心のバランス。
正直、自分は一生それに理解を示せないだろうと思っていても、ルー先生の教条をいまだ正面きって拒絶できないのは、「掟だからな」
とその一言で俺に説明した事がある。
だがその掟を、武人と素人の境界にある絶対遵守の川神の掟を直斗は破り、あまつさえそれを取り締まる掟さえ、祖父は蔑ろにしようとしている。
これに姉さんは少なくとも好感情は持ちえないだろう。 この前の直斗の説教の反動もあいまって。
だから、然るべき処分でなければ決して認めないという顔だな、これは。
暑さとは関係なく、手が汗でべとつくのがわかる
処分について俺は何も言えないけど、今のファミリーの状態が良くなる事と、直斗との関係回復とが直結している事は火を見るより明らかだ。
そして多分、これは謝罪の場。
そういう確信に近い推測が自分の中に構築されていても、やはり、緊張する。
なにぶん仲直りなんてものは、久しぶりだ。
仲直りの手前にある仲違いを極力回避する人生を送ってきたのだから、当たり前といえば当たり前の話。
……さっさか片付けて、姉さんに想いを伝えよう。
夏はもう、すぐそこだ。
*
引き戸が滑り、止まる。
鹿おどしのそれに似た小気味良い音が響き、一瞬前のざわめきが嘘のように引き、辺り一面が静まり返り、体育館中の視線がこちらに殺到する。
御誂え向きと言って良いのか、館の中心にはあいつらが総出でいるのが氣配でわかる。
「直斗、」
左前方から聞こえてきた九鬼英雄の搾り出すような呼びかけを無視し、俯き、仙風道骨の痩身に纏いつく黒袴を追うように、俺は中へと進入を果たす。
解呪以来、過敏になっている五感が飽和するのを抑えこみながら、前へ前へと。
油断すれば十メートル先の唾を飲み込む音ですら、明瞭に聴こえ、耳の中で反響するのだ。 それが気分を害さないという事はないのだった。
視界に入れた袴の黒が、不意に横にずれた。
それは鉛の如き心を引きずりながらの緩慢な歩みが、ようやく終わった事を意味していた。
だが、だからといって顔を起こす気にはならなかった。
「直斗……」
遠慮がちに、あいつが言う。
何故だろう。
どうしても、それは涼やかな響きを幾分含んでいるように思えてならない。
「ごめん、俺が………悪かった」
布擦れの音が響き、あいつの腰が折られる。
何故だろう。
どうしても、それは潔すぎ、やっつけ仕事で適当にあしらっているように感じられてならない。
片手間で為すロジックパズルのように、先に「自分の非と他人から見える部分」を、喋くり鉛筆でさらさらと大和は塗っていく。
これまで少なからず好感を持ってきたこいつの挙動が、今は無性に憎らしくて仕方が無いのだった。
「その……、俺もちょっとドライに言い過ぎた部分があったけど、誤解しないで欲しいのはさ――――で―――、」
聴覚を遮断する。
何故ならそれはもう、必要ないから。
今、俺が対峙し感受する氣の色は、とても純粋なものではなかったから。
まるで堀之外のネオンのような、極彩色の口八丁で本心を塗り潰す直江大和が、哀しかったから。
「…――…ッ…―」
自らの足元に、雫が垂れた。
これは何の涙なのか。
これは誰のための涙なのか。
少なくとも大和のためとは、認めたくなかった。
だが、同時に込み上げる吐き気は、嗚咽の前兆でない事は確信できる。
やるしかないのだ、という決心。
やるしかないのか、という諦め。
同じ信念から来る二つの感情、それらがせめぎ合い反発しながらも、臓腑の中で混ざり合おうとしているのだった。
だが体外へ逃れでようとする、その合一から弾かれた双情の残滓が、ついに喉を通過してしまう。
「……くっ、くひッ、くひひっひひひ」
思わず、といった風情の奇声が零れた。
それは笑いであった。
ドブ色の情動を抑えきれず、腹から喉へと込み上げ漏れる、負のざわめきだ。
震える顎の勢いを借り、ついに顔を上げた。
呆けた顔の大和の足元に、握っていた龍の紋章を放り投げる。
狂いを繰る時間の、始まりである。