『「いま」が唯一の現実であり、過去と未来は幻である。』
―――エックハルト・トール
職員室からでも、多馬川の黒い流れを見ることは出来た。
土砂に濁った川は、河岸に溜まった様々なゴミや水草を一瞬だけ外界に晒して水中に引き込み押し流し、どうどうと力強く流れている。 次いで、水捌けが良いといっても、それでも限度というものはあると教える校庭の水溜りを目に入れながら、本日一杯目の玉露を啜る。
うまい。
これくらいの雨なら、他の私立なら間違いなく休校ですよとぼやく宇佐美巨人を無視して、同時にリモコンの右端を押し、不必要な多さで並ぶゴムの突起をもてあそんで、天井から釣り下がる液晶画面に雪宏 某 というテロップが映し出され、このチャンネルの朝の顔がその上にあるのに安堵すると、川神鉄心は茶をもう一啜りして革張りの背もたれに身を任せた。
幾分外見に「ふれっしゅ」さが薄れたと噂されて早十数年、彼女が朝7~8時台の天気予報コーナーに今も留まり続けているのは、彼女自身の人気のせいもあるが、彼女以外が起用されるたびに、毘沙門天の鬼面をかたどった雲海が向こう一ヶ月間、収録中の社屋上空に広がり続けたという十年前の摩訶不思議な出来事が尾をひいている証左でもあった。 が、それはまた別のお話である。
しかし、とにもかくにも受け持つクラスがない鉄心とて暇なわけではない。 これから教鞭をとる教師陣にも示しがつかないこともあり、終日川神市は豪雨、時折雷にも注意だと聞くと、名残惜しげに亡き妻の生き写しに別れを告げてテレビを消し、立ち上がってペタペタとスリッパを鳴らし第三学年の年間予定表が一面に広がる壁に近寄ったところで、
「むっ……んぐぅッ」
どくんっ、と唐突に大きな波が来て、次いで早鐘を打つ心の臓。
その鼓動の速さを知覚する前に、鉄心は砂袋が落とされたような音を聞いた。
「……が、学長っ!?」
切羽詰まったルーの声が続く。
幾人かが席を立った音、椅子のキャスターが放つ回転音が鳴り終わる前に、鉄心の周囲の人口密度が高まる。
どうやら、床の上に転げたらしい。
薄く開かれた視界からそう頭で理解し、立ち上がろうと手を床につけた刹那、全身が粟立ち、胸は沸騰する。
先ほど目にした濁流が、血管という血管に流れ込んできたかのようであった。
「げッ、は……――カぇぁっ!」
自分でも心底汚らしいと思うジジィの咳き込む音を他人事のように聴いた鉄心は、しかし、それをこらえる余裕もなく、肺が捻じ切れそうな胸部の痛みに苦悶の声を上げ続けるしかなかった。
原因を、痛いほど理解しながら。
「ここに至って」とか「思い違いじゃないのか」とか、そんな想いはなく。
ただ「そうか」と、「これがヌシの答えか」と。
驚きは、さほどない。
薄々感づいてはいたのだ。 直江大和の気質に底暗いものがある事を。
何処となく、閉じられた風間ファミリー、それを象徴するような、あの廃ビルの秘密基地。
だが、だが、それでも尚、信じようとしたのは、誤りじゃったかのッ――
学長ォッ―――
き、救急車を呼ぶでおじゃる―――
それよりも川神院の方に連絡をしたほうがッ―――
私は校医の―――
だが、だんだんと遠くなる外界の様相を前に、鉄心はそれでも伝えなければ、と身を起こす。
「る、ぅ」
先ほどから声を掛けながら背を擦り、前後不覚に陥っていても癒功の手を止めようとしない愛弟子の襟を右手で掴み、彼の注意がこちらにそれると、左手で天井を指し示した。
もんどりうって倒れる最中、窓越しに、雷音と豪雨に混じって降り注ぐ輝晶を鉄心はしかと見ていた。
この痛みの原因と、全くの無関係とは思えなかった。
「…ッ!?」
一瞬の放心の後、こちらの意を汲み取ったルーは、驚愕と猜疑と焦燥が合わさった奇天烈な顔でこちらを見返したが、問いただす愚は起こさなかった。
即座に身を翻し、脱兎のごとく職員室の戸口を駆け抜けていく。
そうして「頼むぞ」と一声内心で呟いた鉄心は、再び剥きだしの痛撃の波浪に耐えねばならなくなった。
再び悶えて、地べたに倒れ伏す。
それでも、この痛みを和らげていた、ルーの掌を遠ざけて良かったと鉄心は思った。
これは甘んじて受けなければいけない代物なのだから。
この痛みの何倍もの辛苦が、激情が、今尚、あやつを蝕んでいるのだから。
どんな言い訳が立つにせよ、そう本人が望んだにせよ、孫可愛さに、わしはあやつの心を、魂を、救いのない所へ叩き落したのだから。
「す、ま……んッ――」
辰の字の封が、今、破られようとしていた。
<手には鈍ら-Namakura- 第二十八話:幻影>
百代が首にかけた手を緩め解いたのは、恐らくは拳士としての宿命というべき反応だった。
いかに指先で白刃取りが出来る凄まじい技量の持ち主であろうとも、突如として出現した刃圏という名の絶対加傷範囲、つまり目に視える予想外の反撃の発露から、瞬時に距離を置こうとする防禦体系―――「安全策」がその身に刷り込まれているからだ。 だが武神の名を戴く彼女の事、本来ならば剣を握る手首を掴み取って白刃取りならぬ無刀取りの実行、もしくは剣士にとって警戒が疎かになる足元への払い技を為したい所だったのだろうが、残念ながら首に接続する彼女の腕の長さの分も含め、狙撃箇所へはそれなりの間合いがあり、純粋な回避行動以外に確実に履行できるものがなかったのだろう。
ついぞ喉を握り潰す事がなかったのは、俺に対してまだ幾分か容赦があったか否か。
だが、俺にはどうでもいい事だった。
もはや、百代など眼中になかった。
由紀江が、どんな顔貌で俺を見ているのかも確かめなかった。
間もなく手にするであろう、空に踊る圧倒的殺傷能力に視線を送る事もしなかった。
いや、見えなかったと言ったほうが正しい。
百代の肩越しに見える標的以外に、どうして意識を向けられようか。
ようやく「これは尋常でない騒ぎらしい」という事に気づき始めたギャラリー達の奥、悲鳴と驚声が錯綜する狂騒の坩堝の最中で、幼馴染達に囲まれ庇われ、さぞ安堵している事だろう彼奴。
冗談じゃない
冗談じゃ、ない
庇われなければならなかったのは、断じてあいつではないッ
本当に庇われなければならなかったのは、断じてッ
あの時、呻き悶え、拒み絶望し、喉を震わせ胃液を吐き出し、視界が白濁で蔽われるまで血涙を流した末がッ
譲歩した末がッ、これなのかッ――――!!
そうなのかッ、川神鉄心!?
もしそうであるならば、あんたの目論見は失敗していたッ
あんたの言った教導は為されていなかったッ
この七年余りは、全くの無駄だったという事だッ!
むしろ、害でしかなかったッ!!
奴の胸に醸成された毒を、ただただ熟酵させる期間でしかなかったッ!!!
だが、そう感情を爆発させた刹那の間、仰向けに寝る直江大和の直上に位置する、一対の蒼き瞳と俺は視線を意図せずして交差させる事となった。
感情のうろたえが消え、明確な敵意がその蒼髪の奥に宿るのを見て、椎名京、と名が脳裏に浮かび上がった直後。
はたと、気づく。
―――前にも言ったと思うがの。 わしは、変わったと思っておる。 あれはあの後、いじめられていた者を仲間にいれ、友をたくさん作っておるし、進んでその輪を広げようと毎日努力しておる。 ………まあ、まだ風間ファミリーとやらは続いておるようじゃが。
あっ、と自分の大口が開け広げられるのを他人事のように感受する。
―――ギブ、アンド、テイク
まさか……、
―――まさかッ!?
この感傷がいけなかった。
この思考がいけなかった。
この思索がいけなかった。
もとより極限まで剣の軌道を見定め、最速最短最高効率で柄を掴みにゆくべきだった。
第三者の介入があったのだ。
第四者の介入もある、と考えてしかるべきだったのだ。
「コスモミラクルアタァック!!!」
銀河の如き渦を巻いた旋風脚が百代の頭上から振り降り、白刃を弾き飛ばして、俺のこめかみを狙い穿とうとしていた――――。
*
もはや躊躇は許されなかった。
川神院ただ一人の師範代、ルー・イーは差し迫った師の命と生徒達の危機に、全霊を篭めた脚技を放つ事を、階段を上り切って視界に次期川神院総代と、黛流剣術後継者を捉えたところで決意する。
直斗を失神すら許さず痛めつけている、加虐の猛り溢れるその背中を瞬時に見取ったルーは、思わずして心を昂ぶらせる。
―――祖父を殺す気カッ!?
そうなる事情、そうなる因果を百代は知らずとはいえ、その絶叫が漏れそうになった。
―――お前が傷つけるたび、彼の怨嗟が膨らむのがわからないのカ!?
今の直斗の意識が保つ事が、鉄心の寿命を削り取る事に他ならない事実を知悉しているルーは、しかし、そんな自身の恐怖と動揺を適度に抑え、戦闘時の平常心を維持した顔つきへと変貌し、地を蹴った。
四天王二人が揃い踏みする場までの十数間(一間:約二メートル)の間合いを詰める中で、ちらとこの原因となった「彼ら」が横目に映ったが、そんな事に頓着しなかった。
残り五間のところで、驚くべき事に剣が宙を舞った。
―――不味イッ!!!
だが、その過程に驚愕するよりも、恐ろしさがルーの心に先立った。
その下に位置する、天まで届けとばかりに伸ばされた腕が誰のものであるか、認識したからである。
あれを取らせてはならなイ
あれを取らせては、彼は真実の修羅となルッ――――
血という血、腱という腱、筋という筋を弾ませ収縮、血流に流れる氣脈を捻り、全てを解放。
跳躍する。
「アチェァアアアアアアアアアッ!!!!」
つい先日会得し命名した、渾身の二連回旋足技を百代の頭越しに、剣と彼へと叩き込む。
――――コスモミラクルアタァック!!
悪いのは直斗ではないと、理解する頭は吹き飛ばせないままに。
すまなイ、耐えてくレッ!!
*
刃が弾き飛ばされても、絶望したのは一瞬だった。
百代の拘束が外れたのを感知したからでもあったが、突撃してきたルーの眼光を受け止めた事が、その理由として最も大きい。
その瞳の奥に耐えろの三文字が浮かんでいるのを見て、先ほど扉の枠に叩きつけられた時に刻まれたのだろう額の裂傷から脈拍ごとに溢れ出る新たな血が、眉をぬらし睫毛に絡まるのを感じつつ、腹の底で熾火のごとく燻り続ける熱い塊が、沸々と再燃するのを着地と共に確認する。
――――これ以上、何に耐えろというのか!!
本能的に顎を上げ、紙一重でこめかみへの一打を避ける。
身代わりになった鼻頭はひん曲がり、血がそこからも噴出したようだが、痛みは感じなかった。
「ッ!?」
見開かれたであろう瞳は、もう見ない。
深緑の中国服の裾が上空によぎるのを見て、剣に向かって伸ばしていた五指十四関節のそれぞれを鳴りに鳴らす。
感情の箍が外れた音。
憤怒に炙られた魂魄を血肉に繋ぎ止める楔が、微小な裂傷をその身に刻み始めたかのような、そんな乾いた音だった。
時の流れが緩慢になった刹那、先ほどの百代のように、肉食獣の顎を模した俺の右掌が師範代の脚に取りつく。
「オ゛ッぁぁあ゛あ゛あ゛あアアアアあ゛ああアアアアアアアッ!!!!!!!!」
およそ自分の声とは思えない、獣の絶叫が口腔で弾けた。
―――代わりに椎名京を救って、真守を忘れて、楽になったか!?
―――それとも忘れるために、椎名を救ったのか!?
この確信を、直感だ、当て推量でしかないと諌める事など出来る筈はなかった。
「投擲物」に働いていた慣性を捻じ伏せ、肩の軋みを振り切って、あらん限りの膂力で正面へと投げ飛ばす。
それは本能から来る狡知だった。
「なァッ!?」
「―――ッお前!?」
咄嗟に師を受け止めに入った百代に、横をすり抜ける俺を止める術はない。
かくして血路は開かれ、死地から脱出した俺は、有象無象の野次馬達の中に飛び込んだ。
ひしゃげた鼻先で風を切るたび、人ひとりを掻き分けるたび、拳が硬く、重くなるのがわかる。
……そうさ。
確かにお前と同じ考えを、教条とまではいかなくても、持っている奴らは他にもいるのかもしれない。
認めるよ。
その生き方だって、別に間違っちゃいないだろう。
どんな奴だって多少は無責任で、日和見で、利他より利己に走るもんだ。
だから、開き直ってそいつを利用しようって考えは、出て当然なのかもしれない。
「他人を救う奴は、他人を救う自分が好き」
こんな言葉が横行するのは、実際にそれが真実だからだ。
驚愕と好奇と恐怖の視線の錯綜の中を、ひた駆ける。
制止の手がそこかしこから伸びてくるのを払って、息を吸い込む。
墨の香りが鼻腔に広がり、湿気を含んだ外気が肺に満ち、他の四臓六腑に行き渡る。
壁や衝立に貼り出されていた書初めが、和紙の大群が、前触れなく流れ込んだ強風に剥がれ落ち、廊下中に散り、舞い、降っていた。
墨字の乱舞のその先には、
風間がいて、
一子がいて、
クリスがいて、
師岡がいて、
島津がいて、
椎名がいて、
大和が、いる。
……けど、だけどっ、目の前に仰臥して助けを求める奴。 だれでもいい。 とにかく必死で自分を世界に繋ぎ止めようとする人間が、眼前の赤の他人のそいつらが救いを求めてたら、後先考えず咄嗟に全力で手を伸ばしちまうのが人情ってやつじゃないのか? そういう気持ちは、誰だって多かれ少なかれ……、お前だって持ってる筈だろ!?
対価だの等価だの打算だの合理だの効率だの立場だの、そんなもん吹っ飛ばしちまう矛盾だらけの「正しい感情」が、どんなやつにだってある。 俺が今、こうしてるのが、その証拠さッ。
それに忠を、それに“誠”を尽くしてこその、人っていう生き物じゃないのか?
一見賢しげに相利共生だの片利共生だのやってる動物と一線を画して、「共感」できるのが人の真髄だろ?
相手をおもんばかるのが面倒だから、真剣で向き合うのが面倒だからって片付けて、一度お前は、間違いを犯したんじゃないのか?
その自覚も、もらっただろう!?
そういうお前が、どうしてそんな閉鎖的な考えが持てる!?
“誠”を否定するような生き方を、どうして選んだ!?
だったら真守は何だったんだよぉッ!?
だったら俺は何でここにいるんだよぉッ!?
何で百代に剣を振り上げなきゃならねぇんだよぉッ!?
何で、そこまで堕ちたか、って目を、あいつから向けられなきゃなんないんだよぉッ!?
雷光が閃く。
百代を突破した驚きに瞳を大きくしながらも、咄嗟に前に出て身構えた風間、次いで一子、島津が見えた。
右脚で踏んで跳んで飛んだ。 右拳を引いて留めて溜めた。
何で
俺はッ、
何で
俺はッ、
「何でッ―――――」
忘我の一拳が、放たれる。
その寸前、脇腹にちくりとした一抹の痛みが走ったのが最後だった。
風が肌を撫でる感覚が、触覚が、ぷつりと途切れた。
――――後ろから刺されるような真似だけはすんなって、言ったろうがッ
振り絞るような声が背後から続く。
やけに、耳が遠い。
そんな事を思っているうちに、視界は下へ下へと降りて、床が近づいてきた。
自明、激突。
全体重が左肩にかかり、そこから受身も取れずに墜落した筈なのに、まるで夢の中にいるみたいに、伴う筈の痛みは生じなかった。 冷えた床の心地さえ、肌に伝わらない。
先ほどからの気だるさが、全身に続くのみだった。
また視界が流れた。
だがそれは自分の意思で瞳を動かしたわけでなく、動かされた顔に付属した一対の水晶が、無機的に外の様相を映しとったに過ぎなかった。
視界一杯に、九鬼英雄の苦渋に満ちた顔面が広がり、端にクナイをもって立ち竦むメイドのしかめっ面が見えた。
瞳孔を散大せんばかりに瞼を瞬かせ、形のいい英雄の唇が絶え間なく動き始めたが、もう何も聴こえなかったし、実際聴きたくもなかった。
……やめろよ。
やめてくれよ。
なんでそんな目で見るんだよ。
そんなの、そんな顔、英雄の、ヒーローの顔じゃ、ないだろ?
感覚のない、棒切れになった両腕を精一杯に引き上げて、握りこぶしすら作れない両手を突き出して、抱き起こす英雄の胸を押し退ける。
そうして仰け反った英雄の顔の影から現れた赤いバンダナを見た時、何故だか一瞬、足元の感覚が戻ったのだった。
瞬間、遮二無二と両足をばたつかせるようにして、俺は床を転げながら、ひしと、ひしと風間の袖を掴んだ。
うろたえた風間が振りほどこうとも、横に控える島津が引き離そうとも、俺は、俺は、俯きながらも決して手を離さなかった。
―――お前なら良かったんだ。
この一心で俺の体は、一時稼動するだけの熱量を得たのだった。
両目から吹き零れる雫の熱さは、まだ感じ取れた。
そうさ。
野良猫一匹のために、何のけれんもなく我が身を川に飛び込ませるお前なら、百代を託せたんだ。
いや、それ以前に、最初に真守が話しかけたのがお前だったなら。
お前だったなら……か?
……いや、違う。
百代でもいい。 一子でもいい。 師岡でも、島津でもいい。
大和でなければッ――――
叫びたかったが、こみ上げてくる何かが邪魔をして、息苦しさが増すばかりだった。
そうして数秒もしないうちに、糸一筋ほどの活力も、俺の五体には送られなくなった。
ずるりと手が滑り、立て膝が即座に崩れ、うつ伏せに頭から倒れこんだ。
床と水平になった、赤に濡れる視界が、だんだんと狭まってゆく。
他人事のように、自分の感覚器官、運動器官の衰退を感受する。
世界が幻と消え、彼と我が断絶する。
……そう。 幻だったのかもしれない。
この一年、川神院で過ごした日々。
出会った人たちと触れ合い、確認しあった感情、優しさ、厳しさ。
七年前と、少しも変わらなかった百代の瞳の色彩。
雪原に囲まれた道場で見た神速の軌跡と、はにかむような笑顔。
王たらんとする男の、そのひたむきさが、一挙動にさえ立ち上るように感じられた礼遇。
いつかの決闘の後、鬼灯の野のような夕暮れの中に見た、大和の変化。
それを噛み締めて、過去を、未練を断ち切ろうとした自分。
二度と殺人刀を遣うまいと誓った自分。
すべては、俺の願望が見せた幻影だったのだろうか……。
一枚の和紙が、再び独りになった男の頭を掠めて、飛来した。
“言”が異様に大きく、書順すら定かじゃなかろう“成”の字。
それでも、二度書きなどという愚劣な誤魔化しなど、一切ない、その真っ直ぐな心魂が前面に押し出された、紛う事なき彼女の書。
最後まで視界に残る事になったそれが、ひどく滲んで見えるのが、悔しかった。