『絶望は、人を過激にする。 とくに、生まじめで思いつめる性質の人ほど、容易に過激化しやすい。』
―――塩野七生
6月28日(日)
体育祭翌日、午前。
縁側のサッシを開けて寝たのが悪かったのだろう。
纏わりつく湿気の不快感に起床し、洗面、朝食を他の皆と済ませ、一旦ゲンさんの部屋に頼み事をしにいってから、自室へと戻る。
おもいっきり体を動かすのは、箱根でのクリスとの勝負以来だったため、やはり腿の裏や肩の周りあたりに軽い筋肉痛が出ていた。
ただ、それほど深い感慨も沸かなかった。
昨日の帰り際、同じクラスの連中の顔を見ても、不完全燃焼というか、燃えてすらいないというか。
直斗も、明らかに準備に疲れただけだって顔だったしな。
「昨日の体育祭は盛り上がらなかったね、あんまり」
京がいつものように俺の部屋に鎮座しつつ、呟く。
「そう、だな……」
いかんせん、生返事となる。
今日は特に急ぐ用はなかった。
のんびりとそこそこに予習して遊んで寝て、という日にしたかったが、かぶりを振ってその思考を追い出した。
長く、本当に長く引き伸ばした彼女への返事。
それをいつかは行わなくてはならないという事に、はたと気づいたから。
もう、姉さんへの想いは固まったのだから。
部屋では、足を崩して黙々と本を読む京と二人きりだった。
都合よく、今、寮には俺たち以外に誰もいない。
ゲンさんは仕事。
キャップは漫遊。
クリスは買物。
まゆっちも買物。
麗子さんは実家。
クッキーは警邏。
時折、京と肩が触れあう。
はたから見れば、この状況に羨む男がいるとは思う。
……だけど。
「どうしたの大和? 何か、様子おかしいよ?」
やっぱり、けじめはつけないといけない。
「……京。 心を落ち着けて、聞いて欲しい」
「うん……」
嫌に早い返事と共に、神妙な顔で京は頷く。
俺の声色が、真摯さを帯びたのを聴き取ったのだろう。
または俺の部屋に来てから、こうなる事を予測していたのかもしれない。
主人の部屋にヤドカリがいない事を指摘してはこなかったが、それに気づかない彼女ではない。
それでも、何かしら大事な話が切り出されるのだなと、一応の覚悟をしていたが未だし切れていない、という心情が、心許ない目つきに顕れていた。
彼女が正座に座り直したのを見て、対して俺は、大きく深呼吸する。
そして――
「俺、姉さんと付き合ってみようと思う」
告白する。
「―ぅ―」
ピクリ、と身じろぎ。
僅かに眼が見開かれ、無表情が凍る。
膝の上に握られた拳が、ぎゅうっと握り直される。
内心、苦渋が満ちる。
だけど、何倍も辛いのは京の方で。
それでも付き合う前に全て言っておかなければ、もっと彼女は傷つくから、俺は言葉を搾り出す。
「結構、さ……。 気になってたんだ。 ……その、もういっそ付き合ってしまおうかなと」
「――」
「だけど、告白する前に、お前にだけは言っておかないとって思って」
何年も前から、俺に並々ならぬ好意を示してきたのだ。
ある種、裏切りととられるかもしれないし、実際、俺の胸中に罪悪が全くないという事はなく、むしろ六割方、申し訳なさが占めている。
だが、それでも好きなものは好きなのだ、という開き直りが存在するのも確かで、そいつが今、俺に胸の内を語らせている。
それにしても告白前に、付き合うことが確定している、なんて、ちょっと妙な話だ。
だが自信はある。
少なくとも俺は、誰よりも姉さんに近い男である筈だ。 そんな俺が、姉さんと付き合うのは自然だろう?
「……そう、なんだ…」
俺が前述の言い訳めいた思索に耽っていた十数秒の後、しばし無言を貫いていた京は訥々と語りだす。
「そんな気がしてたけど。 ……改めて聞くと、ショック」
向けられていた双眸が逸れる。
雫がそこに溜まっているのをちらと見、俺もまた、京から顔を背ける事となってしまった。
「京……。 その、わかって、くれるか?」
先ほどまでヤドカリのいた空間をぼんやりと見つめながら、確認を取る。
自分でも間抜けで、無遠慮な、節操の無い言葉だなと、言ってから自覚する。
ただ、何を言っても、どう取り繕っても、結局の所は言い訳に聞こえるだろうし、事実その通りなのだ。
だから、この場だけは、自分の心をそのまま口にする。 それが誠意だと、信じて。
「わかるも何も、大和の想いだもん」
だが、返されたのは思いのほか冷静なものだった。
「認めるしかないよ」
「……そ、そうか」
淡々と紡がれる言葉に、いささか拍子抜けといえばそうであり、京らしいといえばそうでもあった。
「それに、相手は大事な仲間のモモ先輩……。 認めざるをえない」
……予想より、全然話を聞いてくれている。
正直なところ、もっと暴れだすかと思っていた。
その為にヤドンとカリンだけはゲンさんの部屋に避難させて、後は気が済むまで叱責も狼藉も受けとめようと、心の準備だけはしていた。
「……でもね、大和。 私の想いは、変わらないの」
「うん?」
「大和が誰が好きでも、私が大和を好きなのは、永遠」
―――貴方を、想い続けます。
「……それは、それはお前が辛いだろ?」
やはり、そう簡単には諦めてくれないか……。
こういう事を言う事自体、京を更に傷つけるとわかっている。
わかっているが、それでも……。
「私は大和の想いを止める事ができない。 妨害も、邪魔もしない。 ―――それと同じように」
京は淡々と、しかし語気を強めて続ける。
「大和も、私の想いを止める事ができない」
ついに断言される。
「……」
「私の想いは、これからの大和にとって、重石になるかもしれない。 でも、でも何かあった時、それを思い出してみて?」
言い終えるやいなや、彼女はすくっと立ち上がり、襖を開け広げたまま、部屋から出て行った。
すん、と鼻を鳴らす音が、嫌にこだました。
「……わかった」
そしてこの承諾が、今の俺に出来る最大の誠意だった。
もっと早く、言っておくべきだった。
最初に好意を醸された時に、はっきりと。
これまでの優柔不断さが、京を傷つけたに他ならなかったから。
だが、これで準備は整った。
後は―――
<手には鈍ら-Namakura- 第二十六話:発端>
6月29日(月)
朝のHR前。
気分が悪いと訴えるような、空の唸りが耳に入る。
体育祭まで持ちこたえていた天気が、一気に鬱憤を振りまく雨模様。
ただ、あのような体育祭であれば、雨天中止でも構わなかったなと、自分の席でぼんやり考え、雨が収まるまで姉さんへの告白はお預けだな、とも思い直す。
告白は、晴れの日の夕方、あの想い出の場所でと決めていた。
机に突っ伏したまま、記憶に浸る。
―――お前がすごく気に入ったぞ、大和?
今と、毛ほども変わらぬ好意の表情だった。
――――私に、どこまでもついてこい。
遠い遠い、いつかの夕方、いずこの河原。
夕焼けの陽だまりの中で、俺達は向かい合った
言われて、差し出された手を、それを、確かに握り返した筈だった。
……こんな過去もあるのだ。 勝利は、約束されたも同然だろう。
一人、机上に向かってほくそ笑み、慌てて朝からなんとだらしない顔をと思い返し、教室を見回して誰も目撃者がいない事を確認し、左に目をそらす。
窓から、未だ登校途中の生徒を顎を机に乗せながら、見下ろす。
グラウンドを背景に、いくつもの傘が水玉模様を作っていて、季節の趣が感じられた。
まともな写真部がいれば、いい感じにこの様相をフィルムに収めるのだろうが、あいにくと、ウチには女体専門カメラマン志望のヤツしかいない。
十分ほど前から、一段と激しい降雨となっていた。 薄霧の中、早足で行こうとリーダーに進言して正解だった。
少し、京と話しづらい雰囲気だったためもある。
合流してきた姉さん達との挨拶もそこそこに、提案した俺を受けたキャップの「競走だッ」の掛け声とともに、変態の橋を疾駆して登校。
おかげで、モロと俺は随分と朝から息が上がったもので、そんな経緯もあって、机に突っ伏す男三匹。
もう一匹は、仕事場から直接こっちに来たという、ツンデレ労働者。
「うぃーっす……と、大和、少し時間いいか?」
ダルそうな声に顔を上げれば、高スペック残念男。
「これはこれは、井上じゃないか? どうしたSクラス」
ハゲと、体を起こして相対する。
S組とはクラス全体として確執があるが、コイツとは話が弾むのですぐに仲良くなった。
「ま、頼みっつーかよ。 ……モモ先輩に連絡して、次の休みは自分のクラスに戻るよう、メール打ってくんねぇか?」
こいつが手を合わせる様は、なかなか堂に入っている。
「ん? なんで?」
「いや、あの人、奔放すぎて決めた場所に現れたためしがねぇんだわ」
眉をへの字に曲げて、やれやれと言わんばかりに井上は頭を振る。
「……あ、もしかして、校内ラジオ関連?」
というより、コイツと姉さんの関わりといったら、それぐらいしかない。
「そうそう。 今日の放送分、軽く話しておかないとよ。 体育祭の話題とか結構今回キツキツで」
「……しっかし、ハゲとお姉様がパーソナリティってのもアンバランスよねぇ?」
隣で話を聞いていたらしいワン子が、今更実感したかのように呟いた。
京のノートは、無事写し終えたようだった。
「俺は放送委員だから、義務みたいなもんだけどよ。 モモ先輩は人気投票で選ばれてっから」
嫌な顔一つせず、気さくにワン子に返答する井上。
やはりS組といっても、こういう親しみやすいヤツがいる事は確かではある。
大多数は気に入らないが。
「おお、流石お姉様。 ブッチギリの一位だったってわけね?」
したり顔で頷くワン子に、井上は苦笑しつつ答える。
「いやいや、それが結構デッドヒートかましてたんだよ。 ……ウチの若とな?」
「あらら」
つられたようにワンコも眉を寄せて、はにかんだような笑み。
「まあ、ただ相方が俺っつーと、流石に女のモモ先輩じゃなきゃヤバイって話になって」
「アハハ、それは、まあ、なんとなくわかるわ」
姉さんじゃなければ、今よりだいぶリスナーは減っていた事だろう。
葵の女子からの人気は凄まじい。
姉さんの男子からの人気も、同じほどある。
だが、葵は姉さんほど、同性ウケはしないだろう。
時折、俺にその片鱗を見せる、特殊な性癖を除けば、あいつが悪いわけではないだろうが、いつの時代も、モテる男が同性から好かれやすい事はない。
そんな考慮が働いたせいで、井上が随分と苦労しているのだろうが。
「メールよりかは電話の方が繋がりやすいから、今からかけるが、お前番号知らないのな?」
「モモ先輩、基本男には教えないみたいよ? ……美少女専用ダイヤル、だそうだ」
肩をすくめられた。
「お前か川神妹、あとは居候の直斗なら、知ってそうだと思って来た次第」
「……苦労してそうだな、井上?」
「だろう? ま、俺なんつーの? ジョーシキ人、だからよ」
そう言って歯を見せて笑ったが、直後、挨拶してきた委員長に過敏に反応する姿が、説得力を損なわせた。
「……あ、ホントだ。 2-Sのヤツがいるぜ?」
「ノコノコとよく顔を出せたもんだな」
「あ、超2-Sじゃん。 マジムカ、マジムカッ!!」
そしてそれが注目の発端となり、一斉に険を含んだ視線が井上に殺到する。
「……おいおい、周囲の目が超ー痛いな」
クラス中から注がれる敵意に、些か辟易として顔を顰める。
「そりゃそうだと思うけど? 自業自得でしょ」
冷淡に小笠原さんが言い放った。
少なからず思いを寄せる葵冬馬と近しい彼とはいえ、S組の一員に変わりはなく、敵として認識しているのだろう。
まさに四面八面楚歌。
俺はといえば、完全に見に徹し、中立を貫く。
下手にS組を擁護しても、あまりメリットはない。
これからS組を目指すというならまだしも、あと何ヶ月もこのクラスで生活していくのだ。
井上には悪いが、同じクラスの連中を敵に回そうという気は起きない。
まあ、柳に風、といったふうに罵詈雑言を受け流す彼に、気遣いは無用とも思えた。
F組で彼の味方といえば、直斗ぐらいだろうが、未だ自席に姿をみせていない。
ひと頃に比べ、学校に来るのが随分と遅くなった感がある。
そうそう、彼の事だが、このところ、鍛錬にもハリがないらしい。
いや、サボっているわけではなく、金曜集会でワン子が言っていた事には、一人で何かを考えている事が多いのだそうだ。 心ここにあらず、というところか。
朝の座禅も最後まで居残って、朝食を抜いてくる事もしばしば、しーばしーば。もう8は見ない。
顕著になったのは、マルギッテとの対戦のあたりのようで、「姉」弟子として心配なのだという。
マルに負けたっていったら、二人がかりでようやく本気を出させたアタシや京の立場はどうなるの、と、苦笑しつつ発破をかけたらしいが効果は知れない。 曖昧に相槌を打たれれば打たれたで、それ以上どうしようもないという事だった。
「仲良くしようぜ? お前たち?」
男前な声で我に返る。
異様にセクシーなのはさて置いて、聞きやすい声ではある。
放送委員会でも競争率が高いであろう姉さんの相方を任せられ続けているだけはあった。
「ざっけんなッ! お前のクラスの奴ら、ひたすら俺たち馬鹿にしてんだろうが!?」
「行き過ぎた誇りは傲慢でしかない。 うざいぞS組」
「なんかアンタらのクラスの女子、アタシとか見るとヒソヒソ話して失礼なんですけどー?」
「……それはまぁ、良いとしよう」
「良いわけないでしょ!? オタは黙ってゲームやってなさいよ!!」
「ハッ! 言ってくれるなスイーツ脳が! ただ人が死ぬだけの話に涙して金を搾取されて!!」
「ッ! アンタらのゲームだって同じようなもんじゃない!?」
「馬鹿がッ! 例えばこのPCゲーム、オータムッ! いわば俺の人生……、そんだけ高尚なもんなんだよ!!」
しかし井上の言葉に篭められた誠意は、全く受け付けられず、内輪もめをやる始末である。
朝型低血圧であったり、くだらない理由からの寝不足のせいで、即座にヒートアップする言い争い。
正直、聞くに堪えない。
「……井上、今のうち」
そう言って、廊下の方を顎でしゃくり、促す。
「そだな……。 俺達、ずいぶんと恨まれてんだなぁ……」
ギャアギャアと騒がしいBGMを背後に、引き戸を潜り抜けながら、井上はぼやく。
如何に温和な性格でも、悪意に対して気落ちするのは、誰でもそうだ。
それに彼にして思えば、身に覚えがない、まさに難癖だろう。 こいつや葵は、それほどF組に悪感情を持っていない事は知っていた。
「なんだか、すみません……」
「一ミリたりとも気にしていませんッ!! ご安心をッ!!!」
申し訳なさに目を伏せて、廊下まで謝りにきた委員長に、即座に平伏しそうな勢いの彼を見れば、さほどダメージは受けてないように思えるが。
「……じゃあ、まあ、姉さんには連絡しとくよ。 三年F組、姉さんのクラスに集合って言えばいいんだろ?」
「ああ、よろしく言っといてくれ」
頼む、というふうに肩を叩いた後、そのまま片手をスッと軽く上げて「んじゃな」と、小走りに自分のクラスに井上は帰っていった。
S組とF組、か……。
元々、仲は良くなかったが、最近は特に目に余るものがある。
険悪な雰囲気になったのは、三月の新学級オリエンテーションの時だったか。
「早速、連絡しますか」
一秒もかからず、尻ポケにあった情報端末の画面を開く。
バイブが鳴れば条件反射で、さながら銃士のクイックドローのように携帯を取り出せるようになって幾星霜。 情報はナマモノってね。
姉さんに電話できるという立場に、この頃、優越感を覚えるようになった。
好きな人に好きな時に連絡できるというのは幸福な事だと、月並みに感じる。
「……うわ、結構メール溜まってんな」
メールは四件ほど。
登校中は一度も携帯に触れる機会もなかったし、いつもなら起床した時に連絡が来るヤツも、雨だからか、だいぶ遅れていた。
先にこっちを片づけようと決める。 姉さんとは少しでも長く話したい。 別にメールに締め切りがあるわけでもないが、メールを送った側は返信が早ければ早いほど、気分は良いだろう。
何度も携帯を確認する手間も省けるのだろうし。
二件目の返信を送ったところで、言葉をかけられる。
「大和、お前、しょっちゅう携帯を弄っているな?」
「……クリス」
「よくそんなにメールを出す相手がいるものだ」
皮肉を言っている口調ではなく、関心半分、不審半分といったところ。
俺の様子を見ていたのだろう。
彼女は自他共々へ率直過ぎる嫌いがあるが、あまり人の悪口を好む方ではない。
耐え切れず、廊下に出てきたクチか。
「ああ、まあね。 知り合いは多いほうだから」
「うん。 転校初日から感じていた事だ」
顎に手を当て、首をかしげる。
頭上に?マークが出てきそうな不思議顔。
俺には姉さんがいるが、大抵の男共ならコロリといってしまいそうな仕草だ。
これで空気読めれば、完璧なんだがな。
「見たところ、積極的に友達を作っているな?」
「そうだよー。 その方が悪巧みしやすいでしょう?」
……いかん。 どうしてだか、コイツには天邪鬼になってしまう。
ただ、姉さんに電話するイベントが待ち受けている俺としては、この会話に時間をとられたくなく、少々面倒臭さに苛立ちがあった事も付け加えておこう。
「……お前な……友達をそんなふうに…」
液晶画面を見ながら飄々と、悪びれるふうもなく語る俺に、彼女の正義感はむらと呼び起こされたようだった。
「じゃあな。 俺忙しいんで」
経験則から、こういう場合は流すに限る。 教室の方へ体を向けた。
「おいっ、ちょっと待て大和」
「あらら、ナオっち。 二股はよくないよ♪」
手首をぐいっと掴まれたところで、ガラリと開いた扉から小笠原さんが出てくる。
この人は本当に、こういう類の話題が好きなようだ。
だが、ここは乗らせてもらおう。
「いやいや、クリスが俺に気があるみたいで、やたらと絡んできて困ってんのよ」
「かっ、絡んでなどいない!!」
「あーはいはい、お熱い事で~」
そう言うと、小笠原さんは、さっさか手洗いに旅立っていった。
否定のために、クリスもそれに続こうとすると思ったのだが。
「おい……」
握力が、より強まった。
レイピアの突貫に接続される彼女の右手は、尋常でなく鍛え抜かれているのが、身に沁みる腕に沁みる。
最終的に火に油を注ぐ結果に相成ったようで、なかなか策略というものは、よく練らなければなと感じさせられる。
要約すると『ほんとにメンドいな、この女』
「はぁ…」
軽く気づかれない程度に嘆息をついた後、決心する。
「説明しろっ! さっきのはどういう…「俺にも、こだわりがあってさ」
彼女の非難に言葉をかぶせた。
……やっぱり説明しとかないと、ずっとつっこまれそうだ。
姉さんには、ホームルームが終わってからでも間に合うだろう。
いざとなればメールすれば良い。
周囲を見回し、未だ俺の腕を放さずにいるクリスを引っ張りながら、比較的死角となっている屋上への登り階段付近、そこの窓辺へと身を滑らせる。
外の雷雨が、良い音消しになってくれている。
これからの話は、あまり聞かれたくない。
「俺が知り合いを増やしているのは事実だけど」
緩んだ彼女の手をやんわりとどかし、俺は彼女と真正面から相対し、その眼を見つめる。
おふざけはない。
これは、俺の誇りと直結する話だ。
「友達を増やしている自覚は、ない」
一段と、降りしきる雨の音が大きくなる。
「……どういう事だ?」
「俺が携帯とかでやり取りしている方々はね、一緒に遊んだりはするけど、あくまでギブアンドテイクの連中なの」
―――いいか、大和。 顔見知りを多く作りなさい。
「何か情報あげるから情報よこせ、アイツ紹介するからコイツ紹介しろ、とか、そんな感覚」
―――――持っている人脈は、いずれそのまま、力になる。
「だから、友達とは思っていないと?」
怪訝な目で問われる。
あまり、好意的なものでない事は確かだった。
「少なくとも、俺はね。 相手がそう思うかはそれぞれの勝手だし、構わない。 ……どこまでが友達で、どこまでがそうでないかなんて、それこそ人それぞれだろ?」
「まぁ……、それはそうだが」
ある種、開き直りに近い論理だが、これは真理だと思う。
だからこそ渋々ながら、お堅いクリスも頷いている。
「例えば、俺はそいつらが大ピンチになったら出来る範囲でしっかり力になるけど、我が身を犠牲にしてまで助けようとは思わない」
―――――その人たちは、お前が本当に困っても、助けてくれない。 当てにしちゃあダメだよ。
「その逆を言えば、俺がピンチの時、相手もそんな感じだろう。 身を削ってまでは助けてくれないさ。 ……だから、俺の定義では友達に入らない」
―――だから、その人たちが本当に困った時、助けなくていい。
「ふーむ」
「……俺にとっての友達は、風間ファミリーだけだ」
「例えば、モロやワン子の身に何かあったら、こういうクサいのは俺の趣味じゃあないが、最悪、我が身を犠牲にしてまで助けると思う。 また、あいつらも、そうしてくれる確信はある」
「……」
「と、まあこんな感じだ。 俺のポリシーってやつは」
「うーん。 確かに、確かにキャップ達への思いやりは感じたが……」
「何?」
「いや、困った時に他人が我が身を挺して助けに来ないと、決めつけるのも寂しくないか?」
……だが、世の中そういうもんだ。
だからこそ、父さんは海外に。
「熊飼殿や、それこそ矢車殿なんて、恐らくは……」
まあ、それに否定はしないが。
「頼らないようにしているだけさ。 ほら、何か起こっても俺にはこんなに大勢の仲間がいるから安心さ、とか油断しないように心がけてる」
薄く笑って、さらりと返答する。
「……なるほどな。 ……なら、無理に知り合いを広げず、ファミリーの友達と遊べば良いんじゃないか?」
真摯に考えてくれている事がクリスの、今の雨空のような曇った表情から理解できる。
間を空けて、十分に俺の言葉を咀嚼して考えを言ってくれるのは、実際嬉しい。
それにまた、懇切丁寧に意見してこそ、俺の誇りは確固たるものになるからだ。
「はじめに言ったように、悪巧み云々はともかく、人脈広いと有利じゃん。 今の世の中」
そう。 全てはここに、集約される。
―――そうさ、大和。 損得勘定の付き合いさ。 ギブがなければ、テイクはこないよ。
「俺は今、結構いろんな人たちにギブしているほうなの。 だから、俺に何かあれば、そこそこのテイクはしてくれるさ」
「ううーん…。 いまいちよくわからないな。 そこが」
舌打ちを頬の内側に隠す。
「例えばさ、生徒会長に立候補すれば投票はしてくれそう。 俺の策通りに動いてくれそう。 ……そんな感じ」
「……否定はしないが、それはどうにもなー」
お嬢様は、腹に据えかねる様子だ。
「じゃあ、クリスの好みの行動基準は?」
「“率直で正直”ッ!!」
間髪をいれずに答えるさまに、軽く頬を緩めた。
「だろ? ま、納得しなくても否定しなけりゃ俺は満足さ」
「ああ……」
なにやら諦めたような目でこちらを見始めたので、少し、慰めよう。
「……それから、一つ言っておくが」
これだけは、伝えないとはいけない。
が、正視して言うには少々荷が勝ちすぎる。 窓の向こうの、川神の景色に目をそらす。
「うん?」
「……当然、お前も俺の友達の中に入ってるからな?」
「………へっ…? ……あっ、ああ?」
不意に自分に向けられた幾ばくかの好意に、明らかな狼狽をみせるクリス。
案外チョロいな、と思う一方で、悪くない、と微笑ましく感じられた。
「そ、そうか…、ふむ…」
自分を半分納得、半分落ち着かせようと、呼気を整えると、また凛とした声が俺の耳に入る。
「自分も、大和に何かあれば助ける!」
……そうかい。
「ただ、とはいえ自分の好きな言葉、“義”は人の道……」
少々、俺には眩しすぎる言葉だ。
「自分は、友達以外でも、困っていれば力になるがな!!」
「俺だって力にならんわけじゃねぇって」
「どうにも薄情に聞こえてしまうからなー」
「……いつになったら認めてくれるかね?」
「一生、ないかもしれんな……、さて、戻るか。 もうクラスも落ち着いた頃だろう」
少し歩み寄った気配があったが、結局は平行線か。
金髪をたなびかせ、教室へ戻っていくクリスの後姿を見ながら、俺は吐息を漏らす。
邪魔にならなきゃいいさ。
彼女を見ると、時折、自分は没義道を進んでいるのではないかと思う事がある。
―――不正が、不実がバレた事が罪。 隠し切れない能力を持つ者は、愚か者は、淘汰されていく。
そんな教えの種も、俺の中には芽吹いていて、それを自覚しつつも排そうとしないというのが、俺の精神。
だけど、心がまるでない鬼畜になりたいとは思わない。
だから、時折、彼女を振り返り、自分の立ち位置を確認できればいい。
幾分、黒歴史に戻ったような思索から、脱却し、開けっ放しだった携帯の画面を見る。
午前8時17分。
……うし。
あと一件は返事出せ―――------
「、ま…」
ゲ、と踏んづけられたかえるのような声が自分の口から飛び出し、咽頭が灼熱する。
一刹那の恍惚の後、携帯画面を映していた視界が瞬く間に暗転し、鈍い音が脳天を突き抜ける。
「やま、と…」
わけがわからない。
床に打ち据えられたろう後頭部の激痛の中、必死で喉部を掻き毟る。
早鐘を打つ鼓動を遠くに聴きながら、目を開けることすら忘れて、ただひたすら酸素を求め、首にかかる万力を、人の指に違いないソレを解き放とうともがきにもがく。
その努力も虚しく首の拘束は強まるばかりで、今度は上方へ引き上げられる感覚。
次いで前方にぐらりと、まるでタメをつけたよう引っ張られたのを知覚した俺は、これから我が身に起こる惨劇を直感し、声にならない絶叫をあげる。
硝子の甲高い破砕音と共に。
「あ゛ッあ゛あ゛あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
白夜叉の咆哮が、雷雨を切り裂いた。