『飢えた犬は肉しか信じない。』
―――チェーホフ
ドイツ連邦共和国南西、バーデン・ヴュルテンベルク州、カルフ。
国内最大の内海であるボーデン湖、密集して生えるモミの木によって暗色で塗り潰された黒き森、そして温泉地バーデン-バーデンなどがあるほか、ホーエンツォレルン城などの古城や中世の古い街並みが多く残るこの地に、ドイツ陸軍所属コマンドー特殊部隊、通称、KSKの本部は存在する。
ドイツ連邦共和国には、もう一つ、同様の任務を行うGSG-9、第九国境警備隊なる特殊急襲部隊が存在するが、この隊は警察機関に分類され、基本的に国内での作戦に従事するのに対し、KSKの主戦場は海外であり、その任務内容は本分である邦人保護救出以外にも、潜入襲撃、戦略偵察、対テロ作戦、PKO、墜落機搭乗員の救出、軍事的危機の抑止作戦、領土防衛と多岐にわたる。
その任務の多様性の為に、主力中隊は、地上浸透、空中浸透、海上浸透、特地浸透、偵察狙撃の五つの専門小隊(フォーマンセル)を持ち、これに対応している。そして、この第一から第四主力中隊を核とし、支援中隊、情報中隊、補給中隊、衛生隊が周りに固められている。
世界に名だたる特務部隊、英国SAS、米国デルタフォースにも引けをとらないこの部隊を率いるのが、現陸軍中将、フランク・フリードリヒ、その人である。
そして彼はまた、KSKの司令官に任命された准将時代、各隊から更に選りすぐった兵士からなる司令直轄の部隊、通称、狩猟部隊を組織した。
当初、これは私兵ではなかろうかという軍内部の反発もあったが、現在は尋常ならざる戦果が、ソレを覆い隠している。
世界の特殊部隊の中でも最長の、三年にも及ぶ過酷中の過酷なる入隊審査と訓練。
フランク自身の戦場経験が反映されたそのカリキュラムによって、かの戦果が挙がるのは、ある種の必然でもあった。
そして、その訓練施設に併設された、本部内の司令執務室。
狙撃対策のため一切の窓が無い代わりに、海外支部に繋がる幾つものモニターが、壁面に設置されている。
それらの無骨な調度品の中に不似合いな、愛娘の写真が置かれたデスクが、現在のフランクの戦場である。
「入りたまえ」
先のノック音にそう答えた後、視線を机上の資料から、入室した最も信頼の置ける部下へと向けた。
「お呼びでありますか、中将閣下」
未だティーンエイジャーと言っても十分通用しそうな風貌の、赤髪隻眼の年若い女。
軍服を纏った彼女は脱帽敬礼後、直属の上官にそう言った。
狩猟部隊の指揮官たる彼女の眼は、獲物を狩るハウンドの如く鋭利で、気高さを帯びている。
「来たか…。 実はな、君にまた、日本国に飛んでもらいたい」
眼前で手を組みながら、彼はそう告げた。
「ハッ!!」
踵を合わせ、マルギッテ・エーベルバッハは裂帛の声を上げた。
「フ、相変わらずだな少尉。 任務内容も聞かずに、承諾とは」
「どのような任務でも、中将閣下のご期待に沿えると確信しておりますので」
ある種、傲岸ともいえる眼光を湛え、そう言い放つ。
「うむ。 その、自信に満ち溢れる姿、正しく私の理想の戦士像だ。 ……さて、そこでの任務なのだが、やはりクリスの件だ」
「……お嬢様の身に、何か?」
更に鋭くなった猟犬の双眸をいなすように、フランクは右掌を相手に向ける。
「いや、特にこれといったことは無いようだが、軍人たる者、まだ見ぬ脅威に備える事は決して、怠るべきではない」
「ハッ、仰る通りと存じます!」
「うむ。 して、この資料に目を通してもらおう」
そう言って机上にあった資料を彼女に手渡す。
「……これは」
マルギッテはその紙束に、ざっと目を通す。
それは数十名分の、本人が書く履歴書よりも、事細かな個人情報が記されたものだった。
氏名、住所、電話番号、家族構成は序の口、身体的特徴、生い立ちから嗜好まで網羅されている。
「クリスの学友についての報告書だ。 なに、私も諜報部を私物化するつもりはない。 せいぜい、男子のクラスメート、三十人にも満たない者達の素性を調べ、幾日か観察してもらったくらいだ」
事も無げに中将は言った。
「…では今回の任務は」
「毎回ながら理解が速くて助かる。 その者達の監視、という事もあるが、どちらかと言えばクリスの警護、と言った方が適切かな?」
「……ッ!? ……ハッ! 了解致しました!!」
ついにきたか。
お嬢様の護衛。
これほど名誉ある、甲斐ある任務が他にあろうか、という心情が、真面目くさった顔に、ありありと浮かんでいた。
「通常通り、クリスに対し、一点でも害を与えると君が看做した者は、即時無力化して構わん。 見せしめにもなる。 徹底してやってくれ。 始末と責任は、私がとろう」
それは亡国の危機を目前にした、軍司令官の様相だった。
「ご配慮、痛み入ります」
目を伏せて、マルギッテは上官に敬意を表す。
「いや、本当ならば私が直に現地にて指揮を執りたいのだが、立場がそれを許さんのだよ。 任務初日は私も同行するが、すぐこちらへ帰還する。 これぐらいはさせてくれ」
口調に憂いを潜ませながら、それに、と中将は続ける。
「あの国には少し失望しかけている部分もあってな。 下手に長く滞在するとなると、権力の亡者共が護摩を摺って私と近しくなろうとする。 ほとほと呆れたよ。 …クリスとの見合い話まで持ってきた輩がいる。 そういう事もあって、早めに向こうでの任務を切り上げたのだ」
「それは……、許せませんね。 その者、狩ったほうがよろしいのでは?」
部下の眼光が一層、鋭さを帯び、深紅の髪が多少、逆立つ。
「いや、銃を抜いて威圧したら、頭を下げて逃げ帰ってくれたよ。 もう、会うこともあるまい」
そう言って、心無し、フランクは疲れた表情を見せる。
「なんと、慈悲深い。 失礼ながら、中将閣下には似つかわしくないほどに」
「……まだ私も、信じていたいのだよ。 日本という国、日本人という人、誇り高きサムライの末裔をな。 ……君に手渡した資料を見て、先ほど、その思いを新たにしたところだ」
次いで、厳格な上官の顔に微かな笑みが作られたのを、マルギッテは見逃さなかった。
「何か…?」
疑問に思い、再び紙束に目を落とす。
「……42枚目を、見たまえ」
厳かな声に、従えば。
「……は…ぁ…」
惚けた声を上げたきり、口を開けたまま資料に食い入る部下の姿が、フランクの可笑しみを誘った。
「ハハハ、その顔は初めて見るな」
「ッ!? 御見苦しいところを…」
どんな顔をしていただろうか。
少なくとも、軍人にあるまじき無防備な容貌ではあったのだろうと、慌ててマルギッテは表情筋を引き締める。
「もう、八年にもなるかね? 最後に会ったのは…」
それにしても、と唸りながらフランクは続ける。
「私としたことが。 一度、教室で会っている筈なのだ。 髪の色といい、外見が少々変わったとはいえ、気づけなかったとは」
軽く顎を撫で、あの時見た娘の教室の風景を思い浮かべた。
「これは、間違いなく……?」
常に事実確認を怠らないのは良き軍人の美徳ではあるが、その声色には、何故か歳相応の女性的な響きが混じっていた。
「生憎と、川神の保護下にあるようでパーソナルデータは最低限しか集められなかったが、恐らく、確かだ。 ヤグルマという姓は、日本でもそうそう目にしないらしいし、何より、川神の庇護を受けているというだけでも、十分な証拠だろう?」
彼の親御が川神出身であることは、双方とも把握していた。
「……そう、ですか」
部下の瞳が、淡い感傷の色の後、鋭く尖ったのを知ってか知らずか、フランクは口角を上げ、言葉を紡ぐ。
「本当に、惜しい人物を亡くしたものだと、今までは思っていた。 クリスに、この夫妻こそ真のサムライだと、紹介しようと思った矢先に、あのテロだ」
「…心中、お察しいたします」
マルギッテも、全く面識が無いわけでもなかった。
「だが、まだその血脈は絶えていなかったのだなと思えて、嬉しかったのだよ」
珍しく向けられる穏やかな目に、少し逡巡しつつも、彼女は相槌をうった。
「では少尉。 任務の成功を、祈る」
「ハッ」
現地の部隊員やセーフハウスの情報を口頭で伝えられた後、敬礼し、対する答礼にも応えると、踵を返してマルギッテは司令執務室を出た。
扉を閉め、カツリコツリとブーツを鳴らしながら数歩進み、そして思い出したように彼女は立ち止まった。
「………ヤグルマ、ナオト」
久しく目にする事も耳にする事もなかった名を、人気の無い廊下にぽつりと漏らす。
片手にしていた文書を、また掲げて彼の者の欄へと視線を走らせる。
かさかさと紙の摺れる音か、嫌に反響した。
思いもよらず、四センチ四方の写真の枠内で再会することになった彼の面構えは、何故だろう、あの頃の彼とは別人のモノと思われるのだった。
頭髪が白く染まったことを差し引いても、良く言えば大人びて、悪く言えば「彼らしく」ない、というか。覇気が無い。
彼は、もっと、強き光をその眼に宿していた筈だった。
この私が、初めて打ち負けた者とは、到底、思えなかった。
かぶりを振って、コツリとリノリウムのタイルを鳴らしながら、また歩を進めた。
会えば、そう、会ってみれば、わかることだ。
脳裏に映し出すごとに、憧憬と嫉妬を抱いた、あの精強さが健在であれば、何も言うことは無い。
無意識に、腕部に潜めた旋棍を握っていた。
弄らずには、いられなかった。
<手には鈍ら-Namakura- 第十九話:渇望>
6月8日(月)
朝のHR前。
「いやぁ~。 良~いですな~」
所々の母音を伸ばしながら、島津岳人は春爛漫といった顔で鼻を伸ばしていた。
……俺の横で。
教室の最後列、窓際に位置する俺の席周辺は、絶好のビュー・ポイントのようだった。
「まぁ、いいよねー」
その横にいる師岡卓也も、満更でも無い様子である。
「おい、直斗。 どうよ? ウチの衣替えは?」
緩みきった顔に苦笑しつつ、俺は答える。
「……ええ。 やはり男子よりかは、華やかになりますね?」
白が基調なのは変わらないが、やはり露出がなかなかに…
制服というものに、あまり縁がなかったからか、俺には衣替えというイベントは新鮮に思えたのだった。
「あの、ナンマメカしいボディラインを魅せる事に成功した夏服職人を、俺様は尊敬するぜ!!」
小さく拳を振り上げ、ガクトはそう囁いた。
「ホンット、そうだよな~」
いつの間に、このクラスに入ってきたのだろうか?
二年S組の井上準が、会話に混じってきた。
「あん? なんでまた、2-Sのお前がここにいんだよ?」
早速、喧嘩腰のガクト。
「夏服の良さを語り合うのに、クラスの壁は関係ない。 そうだろう、直斗? いや、兄弟?」
アイデンティティーたる坊主頭を光らせ、肩を組んできた。
「…ホンット……、いいよな…ハァ、…ッハァ」
速攻で身を捩って、耳元にかかる息吹から退避。
彼の目線の先には、我らがF組委員長、甘粕真与の姿があった。
一部の偏愛主義の方に、なんと言うか、もんの凄く定評のある、小柄な体躯の露出具合に、彼は釘付けのようである。
「……そろそろ、御自重、なさった方が……」
控えめに俺は言う。
垂涎が、今にも床に落ちかかりそうであった。
「それには僕も激しく同意するよ。 完璧犯罪者だから」
と、師岡氏も。
「お二方ぁ~、何をおっしゃられる? 可愛いは俺の正義。 これはアレだ。 俺は自分の信じる正義を貫くRPG的な」
それ現実で貫いたら、主人公よろしく地下牢行きだからね、とモロのツッコミが入る。
俺も、そんなユーリ・ローウェルは願い下げだった。
そんな、折り。
本能と経験に裏打ちされた五感が、突然、警鐘を鳴らす。
「ん?」
ひとしきり興奮していたロリコンは、急に窓の方を向いた。 禿げ頭の反射具合が変わる。
ほう。
意外にも、井上の方も同じ気配を察知したようだった。
「……少し、出てきます」
俺は席を立つ。
纏わりつく感覚からして複数か。
似たような殺気を、数日前浴びせられたばかりだった。
しかし、あそこまで濃密な死の気配ではない。
例えるなら、獲物を待つ食虫花のような、ジメジメした、さりげない殺気。
見晴らしの良い場所が、とりあえずの目的地。
恐らくは、総代の入校許可が下りている者達ではあろうが、万が一には備えるのが、川神院門下生としてあるべき姿だろう。
途中ですれ違った、手洗いから教室へ戻る賢者然としたサルの顔は、見なかった。 事にした。
急ぎ、屋上へと上がれば。
「これは」
そうそうたる顔ぶれが揃っていた。
さほど、驚きはしなかったが。
「おお、お前も来たか」
「あ、矢車さん」
「……フン」
上から順に、百代、由紀江、そしてメイド。
彼女らもまた、この気配に呼応して来たのだろう。
「む、ワン子は、来なかったか」
少々、複雑そうな次期総代。
「……何か違和感は感じていたみたいですけど、これがどんな類の気配なのかは、なかなか気づきにくいと思いますよ?」
フォローは入れよう。
事実でもある。
この気配に瞬時に反応し、即座に最善手を打つには、相当な修練と才能、それに幾らかの修羅場をくぐる事が必要だろう。
動作の先読みに通じるため、武の基本といえば基本なのだが。
「ま、そうだろうが。 にしてもお前は、よく気づいたな」
つい最近、これより壮絶なモノを、当てられましたので。
ジロリと、横目でメイドを眺める。
あれから数日は、僅かな人の気配にも感覚が鋭敏になっていた。
過剰であると言っても良い。
それくらい、あのドッキリが効いているようで、良いんだか悪いんだか。
もう二、三日すれば、元通りになるとは思うが。
「日頃の鍛錬の、賜物です」
そう、当たり障りなく答えると。
「おお、流石、気づく人は気づくネ~」
ルー師範代だった。
俺の背後の階段から、屋上へと登ってきたところだった。
「川神学園が、何者かに囲まれています」
百代がルー師範代へ言葉を投げかける。
「うン。 私も詳しい事は、知らないが、恐らく2ーSへの転入生と関係があるんじゃないかナ?」
そう言って肩を竦める。
「学長が動かないところを見ると、さほど、心配することはないとは思うけれド」
「で、でも、この訓練された気配からして……」
どもりながら、遠慮がちに由紀江は発言する。
「軍隊、だな。 アタイにとっちゃ、懐かしい気配だ」
ぼそりと、あずみが補足する。
少々、眉間に皺が寄っていた。
王の守護者は、苦労が多そうであった。
「む…2-Sに、転校生…。 どっかで聞いた……、あ。」
思案していた武神は、一転して獰猛な空気を身に纏い始めた。
「ゴールデンウィークの…、あの軍人娘か!?」
そう言って、ひとっとびでフェンスから飛び降りようとする所を、慌てて師範代が留める。
「も、百代、落ち着きなさイ。 どっしり構えテ。 その後始末をするのは、直斗くん達だと言うことを忘れないで欲しいネ?」
「…ッ……わかりました」
不満そうな顔や悪態めいた舌打ちを隠そうともしなかったが、百代は引き下がった。
「……由紀江さん?」
どうも背景がわからないので、訳を聞くことにした。
「は、はいぃ?」
「いえ、その、例の箱根旅行で、何かあったのかなと」
詳しい話は、聞いていなかった。
「あ、ええと、クリスさんの御身内の方々とお会いしたりして…。 多分、編入してくる方はマルギッテさんという女性だと思いますが」
(ギラギラした姐さんだったぜぇ~?)
……理解。
なるほど。
つまり世界親馬鹿コンテスト、親馬鹿部門と馬鹿親部門の両部門で金賞受賞の方が、こちらにいらしている訳なのだ。
そして。
「(……マルギッテ、か)」
囁くように異国語で発音して、俺は、空を見上げた。
「問うぞ、クリス。 お前は大丈夫か?」
また、突然出てきたクリスの父親に対し、驚き半分呆れ半分の雰囲気がクラスの隅々まで充満した頃、彼は愛娘に問うた。
「はい。 皆と仲良くやっています」
もし、これと全く趣きが異なるの返答があったなら、この学園が戦場になるという事など露ほども考えず、クリスは答えた。
娘に害なす者あれば、ドイツ連邦軍主力戦車、レオパルト2-A6を引きつれ、その長砲身55口径の120ミリ滑腔砲を直接その者にぶち込むと父が宣言しても、いわゆる冗句として、受けとめているのだろう。
しかし彼女に少なからず好意を抱いている者に対しては、実際、尋常無き抑止力になっている。
「―――ならば良かった」
娘を疑うわけではないが、と心中で呟きつつ、いつもと変わらない一点の曇りもない瞳がそこにあるのを確認し、フランクは続ける。
「前に言ったように、マルギッテをこの学校に目付役として、建前上は生徒として、派遣しておいた。 何かあれば、彼女に言うがいいぞ?」
「わかりました。 ……父様は?」
「すまないな、私はすぐにでも帰らなければならないんだ。 これからNATOとの合同演習が控えているからな。 まあ、暇が出来次第、食事でもゆっくりしたいものだ」
「はい」
娘からの極上の微笑を受け取る。
これが、彼の戦場へ向かう活力の、源であった。
……何か、忘れているような。
別れの挨拶を済まし、教室の扉に手をかけ、娘の事から少しばかり心を離すと、その疑問が沸き起こった。
そして、すぐにその答えが出る。
「……直斗くんは」
「はい?」
振り向き、そう呟いた父に、クリスは聞き返し、戸惑う。
クリスだけではなかった。
意外な名が、彼女の父の口から出たこともあり、クラスの聡い者達は、再び耳をフランク向けた。
「矢車直斗という生徒は」
フランクはそう口に出しつつ、クラスを見回す。
「……直斗なら、ついさっきまで此処にいたけど…。 まだ、戻んないみたいっスね?」
十分前まで話していたガクトが、代表して答える。
ついで、クリスが問う。
「父様? 矢車殿が、何か?」
「いや、何年も前になるが、会ったことがあってな。 …この前に来たときには、見逃してしまったようだ」
顎鬚を片手で撫でつけながら、フランクは答えた。
「そ、そうなんですか!? …なら」
呼んでこようかと、ワン子こと川神一子をはじめ、幾人かが立ち上がる。
ところが、それを多忙な中将は手で制する。
「いや、もう流石に出国しなければ。 ただ…最後に、もう一つだけ、質問をしよう。 クリス」
「…は、はい」
再び父の声が厳かな色を帯びるのを、ひしと、娘は感じた。
「彼は、どんな人物かね?」
何を問われるのかと思えば、とクリスは身構えていた体勢を崩す。
きわめて、答えるのは容易いものである。
「矢車殿は」
それでも、幾らか間を空けて、編入後の決闘から抱く彼への印象を、胸に呼び覚ます。
単に美辞麗句で飾った、おざなりの回答は許されないと直感したから。
だからこそ、騎士らしく、凛と一言で形容しよう。
「彼こそが、侍、という人物です」
「お、退いてったみたいだな。 ……ったくウゼェ。 娘一人心配だからっていちいち戦隊率いてくるなっての! 軍費どうなってんだっちゅー話よねぇ」
このメイドは、主の御前でないと、愚痴を撒き散らすのに遠慮がなくなるようである。
ただ、確かにその言葉に頷けるのも事実ではある。
明らかな職権濫用だろう、これは。
子を想う一心でここまで出来る事に、ある程度、尊敬はできるが。
「むー。 包囲を解かれるのは残念だな~」
メイドとは対照的に、何らかのアクションが起こる事を期待していた百代は、完全にふて腐れた顔だった。
「特殊部隊と戦えると思ったが。 つーまらんッ」
「自重なさってください。 学園で戦闘になったら、貴女は良くても、他の大多数の方々のご迷惑となります」
「本当だ。 護衛のアタイがどんだけメンドくさい目に遭うと思ってやがる? 十中八九、KSKだぞ? 超一流の兵士どもだ」
「…わかったわかった」
人二人に諭されたからか、或いはそれが鬱陶しかっただけか、黒髪を無造作に掻きながら、そう返事をした。
「はいはい、じゃみんな、教室に戻って戻っテ。 授業、始まるヨ」
師範代は全くもって教師らしい台詞を放ち、自分はグラウンドへと金網を飛び越え、危なげなく着地。
一時限目から、体育はあるようだった。
「……死合、したいなぁ」
別れ際、ぽつりと漏らされた言葉が、彼女の闘争心が鎌首をもたげたままの証だったと俺が気づくのは、数時間後の事だった。