『もしあなたが約束の時間より早く着いたら、あなたは心配性である。 もし遅れてきたら挑発家、 時間どうりに来れば強迫観念の持ち主。 もし来なかったら、知恵遅れという事になる。』
―――アンリ・ジャンソン
6月3日(水)
「まーしゅまーろ」
「はい」
ヒョイ
はふ。
「まーしゅまーろ」
「…はい」
ヒョイ
はふ。
「まーしゅまーろ」
「……ん、はい」
ヒョイ
んぐ。は、はふ。
「まーしゅまーろ」
「……ふ、…ふぁい、」
ヒョイ
ん、んんぐ、ははふ。
「おいおい、そんな本気で付き合わなくったっていいんだぞ?」
隣で見ていた井上準が、生暖かい視線を送りながら言う。
「を、おあいりょうふえ」
「その意気その意気ー♪」
片手には、弾力菓子の凶器。
「ユキ、苦しいのわかっているなら止めなさい」
右掌を菩薩のように構えながら、坊主頭は彼女を嗜めた。
「え~」
口を尖らせ、八の字眉。
それでも尚、かわいらしいと思えるのは、並以上に整った彼女の容貌のせいだろう。
「そうですね、ユキ。 彼はなかなか他人の厚意を断れない人柄のようですから」
そして、俺のすぐ横に居座る葵冬馬も、援護射撃。
おかげでやっと、頬が、げっ歯類のように膨らむのを止めることができた。
にしても、近いです。 息がかかりますよ葵さん。
「フハハハ、仲良くなって何よりであるな!!」
従者を控えた、俺をここ、二年S組に引っ張り込んだ張本人である九鬼英雄は、仁王立ちで腕を組みながら、一人、うんうんと頷いていた。
あの屋上の件から、早、幾日。
九鬼が、行く先々で、ひっついてくるようになった。
強引に昼をご馳走になることが多くなり、今では、こうして昼休みはS組で過ごす事がほとんどで。
贖罪である気配が、ないようでもなかった。
正直、複雑な心中ではあったが、これで彼の気が済むのであればと、惰性で付き合っている。
それに実際、F組の輩より、彼のほうが、なんというか、話しやすいというか。
精神年齢の差、なのだろうか。
幼稚とは決して言わずとも、よく言えば、歳相応の言動が目立つF組は、居心地は決して悪くは無いが、それでも良いとは言い切れず。
一応、歳はこの学年より二つ上に当たるから、この差は結構大きく感じたりするのだ。
比較して、九鬼。
学年次席の秀才にして、九鬼財閥商業部門を率いることはあり、頭の回転が違う。
こちらの伝えたい意図、意志を的確に読んでくれ、それに次ぐ素早いレスポンスが、何とも気持ちが良かった。
流石に「殿」づけは、頼んで止めてもらったが。
俺は、そんな上等な人間じゃない。
まあ、唯一気になるのは、やはりS組の他の面子。
才能の上に努力し、勉学のみならず運動にも、実績を残し続け、それを自負してやまない彼ら(特に着物娘)のあけすけな蔑視線が、どうにも気になることぐらいか。
どうもF組と言うだけで、彼らの敵意の半分を掻き立ててしまうようで。
同じことは、S組と言うだけで罵詈雑言が飛び交う、うちのクラスにも言えるのだが。
でもそれを、機敏に察知して、話しやすそうな友をあてがってくれる所が、優秀な経営者の証なのだろう。
彼としても、自身の親友を紹介したかったのだろうし。
自身の唯一の支えであり、誇りでもあった野球の道をあの事件で失った九鬼は、それでも、湧き上がる絶望を抑え、自身の身代わりになった者の事を深く悔いながらも、懸命に王道をひた走ろうと、並々ならぬ努力を重ねてきたらしい。
だが、やっと十代になったばかりの彼に、人生を賭して、追い続けていた夢を捨てなければならないという事実は、やはり酷が過ぎるものであったのだ。
野球を通して周りにできた取り巻きは、同情の目を向けつつも、彼の元にはもう集まらず、当たり前のように、陽の下で白球を追いかけ続ける。
何をするにも億劫で、親にも捨て置かれたと、感じ始めたとき、同じ学校の葵冬馬だけは彼の元を離れなかったと言う。
トーマのおかげで今の我があるのだと、大声で宣言して憚らない所を見れば、相当に、元気づけられたのだろう。
「なるほど、一子さんを慕われているのも、そういう事情が?」
その話を初めて聞いたとき、咄嗟に声に出してしまった。
人の恋路に口を挟むのは迂闊だったかと、言ってから思ったが。
後ろに控えていた、従者から、負の気配が匂った気がした。
「おお、やはりそう思うか? まさにそれが理由でな」
だが、九鬼は良くぞ聞いてくれたと言わんばかりに、饒舌さを増した。
「あのひたむきな鍛錬の姿勢は、かつての我とかぶるのだ。 川神院の師範代を目指すと言えば、メジャーリーグで球を放ろうとするよりも、数段、難しいだろうに…」
目を閉じ、傍から見れば、まさにいい夢を見ているかの如き表情で、彼は続ける。
「我には夢を果たせなんだが、彼女には果たして欲しいのだ」
―――そうか。 真剣、なんだな。
と、今まで彼へと抱いていた、ストーカーに向ける気持ちと大差ないソレは、その時、掻き消えたものだった。
「きょーだい、きょーだい」
痛たたた。
頭皮への痛撃で、物思いから現実へと戻る。
そんなに、同じ髪色なのが嬉しいのだろうか。
彼女も地毛らしい。
もっとも、俺と違って、生まれ持ってきたモノだと言うが。
「ユキ、人の髪の毛を引っ張っちゃいけません!」
井上は、どうやら、ユキこと榊原小雪の母親代わりのようだった。
「だって、もう、準の髪の毛ないんだもん♪」
「お前が剃ったんだろうが!!」
いいね、好きだなこういうノリ。
掛けられた時計を見る。
「では、そろそろお暇しませんと……」
やんわりと、彼女の手を払い、俺は立ち上がる。
「今日もおいしいお昼を、ご馳走になりました」
一礼する。
「なんのなんの。いつも通り、口にあって何より」
「ああ、もうこんな時間ですか? 楽しい時間は過ぎるのが速いですね……」
と、ごく至近距離で爽やかな笑顔を向け、俺の肩に手をやる学年首席。
そろそろ、首筋を侵されそうで怖い。
「もー、こっちに来ちゃえばいいのにさー」
ぶー、と、小雪は不満がる。
こっち、とはS組のことだろう。
美少女にこう言われて、悪い気はしないが。
「そう、ですね。 だいぶ英語が堪能の様子ですし。 こちらに来るにも、そこまで負担ではないでしょう?」
冬馬は、首を傾げつつ言う。
「いえいえ、川神院での生活もあるものですから、なかなか厳しいかなと」
F、にいなければ、学園にいる意味もないのだし。
「すみません、次は世界史の授業ですので」
担任の授業は、遅れられん。
「あ~、あの鬼小島か。 んじゃ早く戻ったほうがいいな。 もっとも、お前は滅多な事では、鞭で叩かれないだろうが」
井上準は、苦笑した。
コジーマ、イズ、ゴッド。
では、と、ぐずる彼女を尻目に、俺は教室を出る。
あわただしく各々のクラスに向かう者達と同じく、俺も自分の教室へと急ぐ。
―――――丑三つッ、川神院ッ。
「!?」
殺気を加えられた、ドスの聴いた声が、背後から耳朶を打った。
「……、ど、どうかしたのか?」
突然振り返った俺に、すれ違った生徒は、驚き問うた。
この声では、ない。
「い、いえ何でも。 すみません」
怪訝な表情を浮かべた同級生を背に、俺は足早に歩を進めた。
はて?
<手には鈍ら-Nmakura- 第十八話:忠臣>
1日を2時間ごとに区切り、干支(深夜12時から午前2時までが子の刻。以下、丑の刻、寅の刻…と続く)で表現する方法が始まったのは戦国時代である。
ただ、時間の最小単位が2時間では何かと不便なので(待ち合わせなどするにも大変不便)、1時間を指す時は上刻、下刻で表現していた。
このやり方だと、例えば「丑の上刻」であれば、午前2時から午前3時までの間になる。
江戸時代に入ると「数呼び」という新しい方法が出てくる。
これだと、深夜12時が九つとなり、2時間ごとに八つ、七つ、六つ、五つ、四つと一巡し、お昼の12時に再び九つとなる。
1時間を表現する場合は「半」という文字を付ける。つまり、12時が九つ、1時が九つ半、2時が八つ、といった具合である。
江戸時代にもっと細かい時間を言う場合は、干支を使った呼び方を用い、干支と干支の間の2時間をさらに3つに分けて(戦国時代は2つだった)、上刻(△時00分~40分)、中刻(△時40分~80分)、下刻(△時80分~□時00分)と呼んだ。
これだと、例えば、「丑の上刻」と言えば、午前2時から2時40分までの間になる。
「草木も眠る丑三つ時」などと言う時は、干支と干支の間の2時間をさらにさらに細かく4つに分け、丑一つ(2:00~2:30)、丑二つ(2:30~3:00)、丑三つ(3:00~3:30)、丑四つ(3:30~4:00)となり、丑三つ時は午前3時から3時半ということになる。
なお、子の刻を午後11時~午前1時とする説もある。広辞苑ではこちらを採用していた。
この場合は丑三つは午前2時~2時半の間ということになる。
6月4日(木)未明。
おわかりだろうか。
俺は、今、誰とも知れぬ者の為に(大体の見当は、ついているが)、午前2時から川神の巨門で待ちぼうけをくらっている次第である。
もう、待ち続けて四、五十分は軽く経過していることから、やはり三時からの丑三つだったかと、寝呆け眼を擦りつつ、思案していたところである。
総代には話を通しているので、翌朝に咎められる事は無いであろうが、それでも朝の鍛錬を休める筈は無く、気が重くてしょうがない。
きっと、鍛錬の時間には、寝不足から身体も重くなっているだろう。
三時間の仮眠をとって、それからはここで立ちんぼ。
道着に襷を巻きつけて、木刀片手に凝った肩を回す。
来ると予想される者に対して、決して敵意を持っているわけではないが、相手がどうだかはわからない。
なんにせよ、草木も眠る丑三つ時というが、こんな深夜に無手では心許なかった。
篝火も用意してみると、あら不思議、まるで時代劇のワンカット。
ねずみ小僧が、喜び勇んで忍び入ってきそうで。
クリス嬢が、目を輝かすのが容易に想像できた。
「さて」
―――来た。
気配は、背後からだった。
右手で弄びつつ、地に切先をつけていた木刀の柄を、瞬時に逆手に握り、そのまま後ろへと振り向きざまに斬り払いをかける。
だが、手ごたえは無く、視界には、ただ扉の木目が一面に広がるのみ。
そう、理解し、木刀を持った右手を腰元に下ろした瞬間。
下顎に、鋼鉄特有の冷たさを伴ったモノが、ピタリと押し当てられる。
目だけを、真下に動かせば、中腰のまま、俺の胴に触れるか触れないかの距離まで密着し、小太刀を握った片手を、まるでアッパーカットのように突き出したメイドの姿が、あった。
あれだ。
昔見た、国民的巨人が変身中に、拳をテレビ画面に向けつつ急接近してくる場面。
まさにそんな光景である。
ジュワッチ。
なるほど。
かがんで攻め手を避けつつ、視界から姿を消したわけか。
彼女の口元が、動く。
テラテラと、篝火に照る唇が、嫌に艶かしかった。
「……いきなり、物騒じゃねぇか? あん?」
間違いない、この声だった。
「殺気は、貴女からでした」
慎重に、口を極力、動かさないよう答える。
注意しないと、顎が切れる。
それにしても、この豹変振りは、なかなか。
こちらが、本性か。
「ハッ、ま、ちょっとした仕返しって奴だ」
悪びれもせず、獰猛に笑い、彼女は獲物を納める。
次いで、スッ、と彼女は離れて、扉に背を預ける。
「こんな夜更けに、何か御用で?」
本題を、早速、俺は問いただす。
九鬼からの使い、というわけではなさそうだった。
「……それ、やめろ」
不機嫌そうに、腕を組んだ彼女は答えた。
「は?」
「うざってぇ。その敬語」
「……」
「素じゃねぇだろ?」
「……」
「わかんだよ、アタイもこんなだし」
ふむ。
致し方、ないか。
このままでは話が進まないようだ。
ガンつけが、半端無い。
「……わかった。 ただし、今だけだ」
久方ぶりに、自分の本当の声を、聴いた気がした。
「それで、何の用だ?」
今一度、聞く。
抑揚はつけない。
対する彼女は、それでも無表情に、俺を見返す。
「……お前、今まで、何してた?」
能面のような顔から、紡ぎだされた問いは、些か抽象的で。
「今まで、とは?」
ゆったりと話しつつ、とりあえず、惚けてみる。
「この七年の間だ」
間髪入れず、彼女は言った。
「おかしいんだよ、色々と」
「……」
「何でかねぇ? 」
大仰に、さながら欧米人のように首をかしげ、肩を竦める。
だが顔は、無表情。
「テメェの親は、英雄様の恩人だ。 そして、その英雄様に救われた、アタイの恩人でもある。 だから、その息子が脛にどんな傷持ってようが、それをほじくりたくはねぇ」
囁くように、言う。
「ただ、まあやっぱり気にはなるわけだ」
「……もう、調べたんだろ?」
調べない、筈がない。
「ああ、調べたさ。 だけど何でかねぇ? ここ七年の、あのテロからの足跡が、全然、納得いかねぇんだ」
「……」
「大体が、ありえねぇんだよ。 あのテロから、何年もかけて、英雄様はテメェをお探しになられてた。 正真正銘の日本国籍を持ってる、お前の行方を探す事は、普通、造作もない筈なんだ」
勢いこんで、彼女は続ける。
「海外の日本人学校を、インターナショナル・スクールを転々としてた、なんて、この前、都合よく出てきた資料を見たがな?」
「……じゃあ、それ、信じてくれよ? 見落としてた、そっちの落ち度じゃないの?」
極めて愛想よく、俺は答えた。
「あれ、偽造だろ?」
すぐさま、切り捨てられる。
「……根拠は?」
吐きかけた溜め息の代わりに、そう問う。
「二週間、十人単位の特派員、飛び回らせた。 結果、お前が居た、いや、居た事になっている何処の学校にも、お前を教えた覚えがある教師は誰一人いないらしい」
……金使いすぎだろ九鬼財閥。
「まあ、全くのデタラメじゃないだろうが。 あのテロ以前には居たっつー学校もあったし」
赤々と燃える薪の音が、嫌に響いた。
「英雄様は、この事実を捨て置けっておっしゃったがな」
不意に、今度は彼女の指が鳴った。
「……ッツ!?」
何処に潜んでいたのだろうか。
生垣、路地裏、商店の屋根から、音もなく滑りこんできた者達は、俺を中心にして、円を描くように、取り囲む。
言うまでもなく、皆、メイド服。
こんな状況でなければ、喜んで囲まれたのだが。
「アタイには、義務がある。 主を護る、義務が」
それらの首領たる彼女は、心なし高らかに宣言する。
絶対の誇りが、透けて見えた。
「九鬼家従者部隊、序列壱位のアタイには、主の敵を、未然に、無力化する権限が与えられてる」
忍足あずみが、再び小太刀を構える。
瞬間、彼女を含めた十数人からの、先ほどとは比べ物にならない濃密な殺気が、へばりつき、各々の得物が音もなく、月明かりの下に晒された。
身構える余裕が奪われるほど、大気が重く、重く、のしかかる。
全員が全員、俺より同等かそれ以上の、手練とみえた。
これは、不味い……ッ!!
そんな、俺の思考をよそに。
「かかれぇッ!!!」
白き影が、俺に殺到した。
……なんてな。
酷薄な笑みが、俺の二、三メートル先で向いていた。
俺は、ペタリと、無様に尻餅をついていた。
少々油断すれば、失禁していたかもわからない。
カラカラと、重力に順じて倒れた、木刀が奏でる音は真実、間が抜けていて。
俺に殺到した影達は、上空にて、それぞれ駆け互い、丑三つの闇に飲まれていった。
「………おい」
立ち上がって、やっと声に出せたのは、そんな陳腐な抗議。
冷や汗で、道着が背にぴっちりと張り付いてる。
「ま、これもちょっとした仕返しだ」
飄々と言い募りやがる。
「ざけんな」
「ハッ、英雄様に殺気向けやがったんだ。 これでも軽い程度だっつーの。 大体、テメェ程度に、あんだけの人数かけるまでもねぇ事くらい、わかんだろうがよ」
グサリと、深々と、俺の真っ当な抗議は切り裂かれ、抉られる。
「それに会話の流れからして、テメェがヤられるのは理に適ってねぇだろうが」
殺気の流れからして、理に適ってたがな。
そんな心中を置いてけぼりに、腕組みする彼女は続ける。
「……ま、でも、なんでアタイが来たか、これで大体感づいたんじゃねぇの?」
まあ、ほぼな。
「……俺が、親の仇討ちの為に、これまで隠れてたって懸念が、疑念が、あったってとこか?」
そう思うのも、無理は無いだろうな。
従者なら。
そして、そうであった場合の為に、釘を刺しておくと。
ヤるなら、川神の御前では、やらん。
満足げな笑みから察するに、正解のようだった。
「あのテロがあってから姿が消えたんなら、それも、可能性の一つだと思ってよ。 どっかで親が命と引き換えに英雄様を助けた、なんて聞いてトチ狂ってても、不思議じゃねぇと思ったわけだ」
「そこまで、病んでねぇ」
「どーだか」
あの殺気はなかなか放てるもんじゃねぇぞ、と笑う。
一応、ホントの事は言っとくか。
「……偶然だよ」
「あ?」
「俺が、消えたっつー時期と、親父達が死んだ時期が重なってるのは」
「……つまり」
「俺が隠れてたのは、別に親とも英雄とも何の関係も無いって事。 それに、あいつが親と知り合ってたってのも、この前の屋上で初めて知った事だ」
真実そうなのだから、他に言いようが無い。
「隠れてた理由は言えんが、うちの総代が、仇討ちの為に人を匿うなんて事は無い。 それは、信じられるだろう?」
「……まあな」
顔からして、納得はできてないなと。
でもこれ以上、この件については何も言えないから、これで納得してもらう以外ない。
ふむ。
結局こいつら、俺の過去を知ることはなかったようだ。
まあ、当たり前っちゃ当たり前。
『施設』に関しては、余程世情に通じていて、政界に顔が利く奴らしか知らないだろうし、九鬼英雄も商業に携わっていても、所詮は未成年。
世の中の深い所は、未だ父親からも習っていないとみた。
そこに収監される者達についてなら、尚更。
……だが恐らく、あの綾小路とかいう教師は知ってるんだろう。
苗字から、恐らくあの大貴族の出と見える。
授業中、露骨に俺から視線をそらし続ける。
編入前に、PTAで騒ぎ立てたのも多分、ヤツだな。
「っつーか」
頭をガシガシと。
夜火に当てられた羽虫が、だいぶウザったい。
「俺、近いうちに消えるし」
そんなに心配せんでもさ。
「……は?」
予想外だったのだろう。
少し、声が裏返っていた。
「もう、目的は果たしたつーか、果たされたっつーか」
「……」
「総代からは、引き止められてるけど」
どちらかというと、俺も去りがたいんだけどね。
「……テメェを」
しばし黙考していた彼女が、口を開いた。
「テメェの事を、英雄様は、相当に気にかけている。 それにアタイも、今のでチビらなかった度胸を、それなりに気に入ったんだ」
ほう。
「光栄だな」
少々、ニヤけてしまったかもしれない。
「ふん」
彼女もまた、可笑しくも無い冗談を聞かせられたような笑みをたたえ、鼻を鳴らした
―――後ろから刺されるような真似だけは、すんなよ。
そう言うと、彼女もまた、瞬時に、深い闇へと駆けていった。
「……取り越し苦労だよ」
一人ごちて、俺も境内へと戻る。
さっさと寝たい。
夜更し特有のだるさが、どっと出てきたようだった。
あんな従者がついていれば、王も安心だ。
そんな安堵感も、混じった疲労なのかもしれなかった。