そのニュースを見た時、御名方四音は――――納得したように、嗤った。
異人ミナカタと風祝 第五話 皐月(早苗月)
私と早苗の一日は、ハードだ。
まず朝、境内の掃除をする。大体が庭の手入れだ。夏は雑草を抜き、秋は落ち葉を払い、大雪の日は雪かきをする。ほぼ毎日、一年間の中で三百六十日以上は欠かさずに行う。私達が朝の掃除をしないで済むのは、学校行事などで遠くに宿泊している時と、客が多くてそれどころじゃない年末年始くらいだ。
お陰で、私も早苗も寝覚めは異常に良い。時間が有れば幾らでも眠れる私だが、それでも朝の七時には休日だろうと必ず目が覚める。下に恐ろしきは日々の習慣だ。
午前九時に、神職も含めた全員で、朝拝、朝礼を行う。最も普段のこの時間、私達は普通に学校に行っているので、出席できない。休日に出る事で、祖母達には大目に見てもらっている。
その後。午後四時半から再度掃除をして、午後五時半に終了、なのだが。
この八時間から九時間という時間の中で、巫女は何でも行う。
参拝客の案内から、社務所の雑務から、宮司や祖母達の手伝いから、郵便書類を裁くことから。暇があればお札を作るし、祭事が近いと神楽舞の確認がある。備品を運び、手順を確認し、会計報告もしなくてはならない。そして私達には学校生活が重なるのだ。
平日はまだ良い。昼間は学校だし、私達以外の巫女さんがいる。しかし――。
「お姉ちゃんー。疲れたよー」
「紗江ちゃん、頑張って。もうすぐ終わるから」
休日に仕事に駆り出されれば、疲労困憊は免れない。……いや、まだ私は体力有るから大丈夫だけど。でも、可愛い同行者がそろそろ限界だ。やっぱり同伴は止めるべきだった。そう、心の中で反省する。
晴天の下、春風を全身に感じながら、私は大社近辺を只管、歩き回っていた。神社広報のお手伝い(紗江ちゃん付き)である。
「さっきも、もう少し、って言ったよう」
ぐったりした声だ。疲れるのも無理はなかった。この近辺を、かれこれ二時間は歩いている。
大社を出発した時は“お姉ちゃんと一緒に行く!”という元気な声に許可を出してしまったけれど、しっかり説明して止めさせるべきだった。
「うん、ごめんね。……でも、後、二件だけだから」
そう言って、手を引いて歩く。
私が今しているのは、洩矢のポスターの配布と回収だ。神社祭事のお知らせを貼付したPRの広告を、指定された店舗に届けて、代わりに古い物を回収する。それだけの仕事。相手先も、もう昔からお願いしている顔馴染みの人達ばかりなので、事情を承知してくれている。
ただ、問題が一つ。店舗は神社周辺の各所に散らばっていて、方向や距離がばらばらで全部回ると非常に面倒くさい。しかし、車を使うには道幅や距離が厄介極まりない。何時もは自転車で回っているのだが、残念ながら紗江ちゃんは自転車に乗れなかった。二人乗りをする訳にもいくまい。
結果、歩く羽目になる。私には特に支障がないけれど……小さな紗江ちゃんには、やはり荷が重すぎた。説得して、神社に残しておけば良かったのだ。最初に絆さて連れて来てしまった私の責任だった。
広告なんて他の人に任せれば良いじゃん、とか思うだろう。しかし、そもそも紗江ちゃんが行える仕事が少ないのだ。緋袴を履かせて巫女仕事をさせるにも早い彼女とーーv――本日の仕事で、唯一、保護者と同伴で行える仕事が、ポスター張りだったのだ。
「分かった。……頑張る」
何とか返事を貸してくれた紗江ちゃんだったけれど、不満そう。当然だ。
昨日の午後、しっかりと遊んでしまった代わりに、今日一日は仕事をする。そう決めて。紗江ちゃんもそうしようと言った。だが、仕事の内容は吟味すべきだった。
『人の視点で考える事が出来ない時がある』。
それが私の悪い点だ。昔から注意されていたけれども、今も又出てしまった。幼馴染の早苗には、そして現在の紗江ちゃんには、それでどれだけ迷惑をかけているか。
いけないなあ、と自戒しながらも、何とか。その後、全ての店を回る事は出来たけれども、その時にはいよいよ、紗江ちゃんは限界だった。大社まで一キロ強。まだ太陽は高い、とはいえ歩くのは無理そうだ。
(……しかし、困ったな)
今更ながら、自分の考えなしに腹が立つ。
一番良い方法は、多分、徒歩と自転車の併用だった。紗江ちゃんが問題無い範囲で歩き、一回神社に取って返して自転車で行動する。こうすれば彼女は手伝う実感を得れ、私は仕事を終わらせられる。
もう少し労わってあげるべきだった。保護者として万全とは、とてもではないが、言えない。後悔する。
(……背負うか)
でも、後悔しても神社はやって来ないのだ。自分たちで辿り着くしかない。間の悪い事に、携帯電話は充電を切らしてしまった。……公衆電話は見当たらない。探せば有るのだろうけれど。
私の運動能力なら、紗江ちゃんを背負って神社まで戻る事が出来る。電車の駅は遠いし、タクシーのお金は無い。家に帰って祖母には盛大に叱られるだろうけれど、謝るしかない。
そう判断して、背中においで、と紗江ちゃんを呼ぼうとした時だ。
「おや、古出じゃないか」
ふと、沿道から声をかけられる。
聞き覚えのある声だった。
「如何した? 何かあったか?」
メタリックカラーの高級車から顔をのぞかせるのは、水鳥楠穫先生だった。
●
「……成る程。お前の親戚か」
車の後部座席。冷たいペットボトルのジュースを飲む紗江ちゃんを、バックミラー越しに見ながら、先生は笑う。
色は少し地味だが、内装から乗り心地まで、一目で金が懸けられた超高級車に、私達は乗っていた。車には詳しくないが、恐らくヨーロッパ製。マニュアル車で、しかも左ハンドルだ。自在に乗りこなすその姿は、まるで何処かの凄腕エージェント。安月給の教師には見えない。
学校に通勤してくる時は国産乗用車なので、きっと複数台を所有しているのだろう。
「そう言われてみれば、少し似ているな、雰囲気が」
敢えて説明をするまでもないと思うけれども、一応、言っておく。
現状を手短に説明した所、先生が神社まで送って行ってくれる事になったのだ。
疲労で一歩も動けなかった紗江ちゃんは、自販機で買ったジュースを飲んで、ご満悦である。
「そうですか?」
むしろ、私は余り似ていないと思う。
早苗と紗江ちゃんは、なんとなく似通っている気はするけれど。
「ああ。形では見えないが、私はそんな印象を受ける。正反対に見えても、同じ血が通っているという事じゃないか?」
皮肉気に笑いながら、先生はハンドルを操る。その手つきは熟練さを感じさせる動きだ。
高級すぎて諏訪の土地には不釣り合いにも思える車は、軽快に道を進んでいく。入り組んだ道を避け、一回広い道に出るらしい。大通りに出れば、神社まで五分も必要ないだろう。
「まあ、個人的には。早苗と、お前。後ろのお嬢ちゃん。其処に――――家の問題は知らないが――――私としては、四音を入れてやって欲しい物だがな」
「……ええと、それは」
「気にするな、別に責めている訳じゃない」
唐突に出た御名方さんの名前と共に、思わず口を閉ざしてしまった私を見て、先生は微かに笑う。今度は皮肉気な笑みではない。もっと別の、何か遠くを見る様な笑顔だ。
この先生は何時も、顔にチェシャ猫にも似た笑顔を浮かべ、真意を見せない事が多いけれども……。どうも、御名方さんが関わると、少しだけ真剣になる。今のように。学校でもそうだ。生徒会メンバーを除外すれば、唯一、この先生だけが御名方さんに付き合っている。
その視線が、御名方四音に向けているのか、あるいはもっと別の誰かに向けているのかは、不明だけど。
「アレも中々、難儀な奴でな。四音に問題がない訳じゃあない。というか、随分と問題はある。――――だが、取り巻く環境が最悪的だ。治る物も治らないし、治させる事も出来ん。それにだ。戻った所で、直ぐ歪むだろう。出来る事なら私が解決してやりたいが、それも出来ないんだ。悲しい事に“出来ない理由”がある。だから、せめて縁戚関係に当たるお前達に頼みたいが……」
中々、それも難しい。アイツの態度も悪いしな、と先生は笑った。
常の如く、皮肉気な笑顔だった。けれど、その瞳が僅かに悲しい色合いを帯びていたのは、気のせいではない、と思う。
其れに対して私が何かを言う前に、ウインカーと共に左折。大通りに出て、そのまま加速していく。その勢いに押され、私は言うべき事を忘れてしまった。
「……古出。この連休中は、忙しいか?」
先生が再度、話を振る。
「ノルマを終わらせる必要はありますけど……。今日帰ってからと、土曜日を使えば、終わる筈です」
昨日の半日の付けを払う必要があるが、紗江ちゃんのお陰で随分と余裕が出来た。
学校が無い分、神社に駆り出されるのは当然。そして、登校日に行えなかった雑事を行うのも当然。この山積みともいえる課題の量は、修業も兼ねているので……後に回しても、結局何時かは、やる羽目になる。だからもう、素直に諦めて取り組むしかない。
「そうか。ノルマ消化は大変か?」
「……決まってる事ですし」
大変か大変ではないか、と聞かれれば、……楽ではない、としか言いようがない。仕事とはそういう物だ。世の中には趣味を仕事に出来る人もいるらしいが、少なくとも私は違う。
生まれた時から、私の将来はほぼ決定していた、と言っても良い。その事実に不満が無い、訳ではない。
けれどもだ。私は大社を継ぐ事以外に気概がない。アレがしたい、コレがしたい、そう思っても実行に移すだけの覚悟も無い。というか、大きな夢も無い。
「何だ。嫌なのか?」
「いえ、嫌じゃないんです。……少し乗り気に、成れないだけで」
いや、本当に神社を継ぎたくない、関わりたくもない、というならば其れは有りなのだ。本当に嫌な事をやらせるほど、私達の保護者は薄情ではない。
事実、私の姉は、祖母と喧々諤々の白熱した議論の末、神社の関係者から外れる事を選んだ。自分で貯めていたお金を使い、外国の大学の奨学金を得て留学してしまった。色んな意味で、私には出来ない所業だ。
取捨選択をして、今迄の歩みを振り返れば、きっと将来は洩矢大社を受け継ぐのだろうと思っているだけだ。積極的に信仰出来ない私を、果たして神は許してくれるのだろうか。
「……そうか。ま、お前はまだ若い。高校一年生で、時間は有る。自分なりの結論を出す事だ。大きくなってしまうと――――色々と、自由に動けなくなるからな」
恐らくは先生の経験なのだろう。しかし、そんな様子を一切見せず、彼女は私に言ってくれた。
この教師は謎だが、しかし信頼と信用の度合は非常に高い。あの御名方さんが、そばにいる事に文句を言わない、この事実だけで、十分過ぎるだろう。
「で、だ。話を戻すが。私としては、四音と関わってくれると嬉しいんだ。古出玲央や東風谷早苗の個人としてでも、『東風谷』や『古出』としてでも構わないから」
「…………」
むう、と黙ってしまった私に、考えてくれればいいさ、と苦笑いを返して、先生は車を止めた。
ふと気が付いて周囲を見れば、洩矢大社の階段近くだ。それも、私達が道に注意する必要が無いように、無料駐車場だった。慌てて、紗江ちゃんを促して降りる。
有難うございました、とお礼を言った私達に、助手席の窓を開けて先生は。
「それじゃあ、また連休明けに会おう」
颯爽と、帰って行った。
……さて、如何した物だろうか。
●
翌日。つまり、連休のど真ん中である金曜日。
私は水鳥先生の言葉に少し考えさせられた事もあって、紗江ちゃんと早苗と共に、御名方四音の家に行ってみる事にした。説得された訳じゃないけれど……あの先生が其処まで言う以上、少しは聞き入れた方が良いのかな、と思ったからだ。
(……お好きになさい、か)
因みに、祖母はそう返してくれた。以外な事に。
さりげなく話題を振って確認してみたのだが、祖母自身としては、御名方四音には何の感慨も抱いていないらしい。殆ど顔を合わせた事もない、縁戚の少年、という認識でしかない。だから、私や早苗が会いに行く事を知っても咎めはしなかった。
『……けれども、気をつけなさい、玲央さん』
しかし祖母は同時に、『御名方』という家に連なる者達には、非常に懸念を表していた。
私の四倍は生きているだけあって、彼女は色々と知っている。そして、その知識の中には『御名方』と関わったばかりに、余計なトラブルに巻き込まれた者についても、あった。
他の四家から拒絶される宿命を負う『御名方』の家。悪しき風習として壊せない法則だ。風習が悪意を生むのか、逆に悪意が風習を形造ったのか。それは不明だが――――『御名方』の家が、隔絶されている事には変わりない。
『貴方に何かがあったら、娘に顔向けが出来ませんからね』
そう言って祖母は、許してくれた。早苗や紗江ちゃんの所も同じだったようだ。
早苗の話では、多分、誰もが『御名方』に負い目を感じていて、しかし行動出来なかったのだという事だ。娘達が行動してくれたのを、これ幸いと許したのだろう。
負い目だの、過去の業だの、大人としての立場だの――面倒な事を、と。正直、私はそう思う。けれども相手と付き合うのに考えなければいけない、洩矢大社の歴史を感じ取った。
古からの習慣は、例え止めた方が理解していても、崩せないのだろう。崩して何が起きるのかが、分からないならば、なおさらに。
そんなこんなを感じつつ、私達は三人で仲良く連れ添って、御名方四音の家に向かったのだ。
以前、入学したての頃に調べていたのだが、彼の家は神社の北東に置かれていた。
学校まで歩いて数分の、広い敷地を持つ建物だ。前々から、割と黒い噂で有名だったため、特に迷うことなく辿り着く事が出来た。
諏訪という地方の特色上、昔ながらの建物も残っているのだが、彼の家は断トツで怪しい。古びた木造建築の物件、というだけではない。どことなく、危ないオーラが立ち上っているのだ。恰も、御名方四音という人間の持つ気配を、家も保有したかの様に。
「……あの、お姉ちゃん達。本当に、この家なんです、か?」
「うん。……多分」
震えた声で不安げに、紗江ちゃんが聞くのも、無理はない。
どこからどう見ても、悪霊が取り付いた化物屋敷そのまま。牡丹灯籠とか、番長皿屋敷とかに登場しても違和感がないだろう和風邸宅だった。なまじ建築費用がかかっていそうなだけに、不気味だ。
何が不気味かと言うと、普通に見えるから不気味なのだ。暗雲立ち込める古城とか、廃墟と化して久しい建屋とかではない。夜の学校や、良く似た別の世界の様な怖さ。
庭に雑草は生えていない。屋敷も古びてはいるが壊れてはいない。窓は綺麗だし屋根の上に烏が止まっていたりもしない。鼻を擽る匂いも普通の木の香り。唯の少し時代が経った一軒家。しかし。けれども。何かがおかしい。何かが――――奇妙。見えない何処かに、見てはいけない何かが隠れている気分になる。その奇妙さが、どこから来るのかが分からない。だから、怖いのだ。
「建物は合ってるようですね。表札が出てますし。……大丈夫でしょう」
視線を家壁に向ければ、門柱に『御名方』と名前が載った表札が確かに嵌めこまれている。
早苗は、尻込みする私達を尻目に、あっさりと敷地内に足を踏み入れる。……この中で最も、精神力(というか胆力か)があるのは早苗。とはいえ、此処まで躊躇なく踏み込めると、逆に何か勘繰ってしまう。
まあ、そんな冗談はさて置き、彼女は自然に玄関扉の前に立ち、迷う事無くチャイムを押した。
「御免下さーい」
ガラ、と横に滑る扉を開けて、中に声をかける。
返事は、返ってこない。
「先輩ー? 来ましたよー」
大きな声で、中に呼びかけた早苗だったが。
「……あれ」
声が響いて、静まり返った後、何も音がしない。広い、伽藍のような建物の中。無味無臭の筈なのに、辛気臭い匂いが漂う空間は、何の反応も伝えて来なかった。耳に届くのは、コチコチ、と壁にかかった大きな時計の秒針が刻まれる音のみだ。
昼前なのに薄暗く、古びた木は一層の暗さを演出し、まるで私達を中に誘い込む様に、ぽっかりとした黒い空間。こんな所に、良く住める、そう思う。
「……留守なの?」
「いえ、靴は出てますし、いると思い……」
――――ギシリ。
遠くで、そんな音が、聞こえた。
微かで、注意深く聞かなければ耳に入らない、家鳴りにも似た音だったが。
――――ギシリ。
ゆっくりと、淡々とした音が、確実に此方にやって来ていた。
『御名方』家の玄関口は、扉を開けると土間が有り、玄関口で靴を脱いで上がると、そこで一回左に曲がる。その先が廊下で、各部屋に通じているらしい。音の発生源は、土間へ続く廊下から迫っていた。
やがて、ヌウッ、という擬音が付きそうな形で。
「……本当に、来ますか」
顔だけを、玄関前に覗かせた。
相変わらず、危ない印象が微塵も揺らがない――――御名方四音だ。
取りあえず、その死仮面を被ったような無表情さに、紗江ちゃんが怯えた声を発した事だけ伝えておく。
●
空間は、まるで呑み込むかのように広がっていく。まるでダンジョンの様だ。地底深くに築かれた洋館に侵入する感覚、といえば多少は伝わるだろうか。
建物は和風。ただ、内装のあちこちに年代物のアンティークが置かれていた。古いスイス製のオルゴールだったり、ゴシック衣裳の人形だったり、昔のピアノだったり。中にはガラスケースもあったが、これは暫く前に中身が消えてしまったそうだ。金髪に菫ドレスの少女人形だった、と彼は告げる。
「広い、家ですね……」
「……ええ」
思わず呟いた私の言葉に、御名方さんは静かに返す。そこに感情は込められていなかった。
敷地こそ広いが、こんな陰気な家に住んでいたら、嫌でも性格がねじ曲がっていくだろう。……逆か。余りにも家主がアレだから、こんな雰囲気に変わったのかもしれない。
私達は中に案内されている。
帰れ、と御名方さんが言わなかったのは、多分、彼にとっては興味がない事だったからだろう。……決して、早苗の正面からの“お願い”が功を奏した訳ではない。
「広いだけですよ。……実際に使っていない部屋も多い」
言葉少なに彼が語った所によれば、この家には元々、御名方さんと、彼の父親が住んでいたらしい。彼の父親とは――――前にも言ったか。私達が幼い頃、数回のみ遭遇した、御名方三司さんの事だ。三司さんが十年前に亡くなるまで、この家に二人で過ごしていたのだ。
部屋数は多いし、敷地も広い。ただ、親の私物や商売道具は片付いておらず、物置になっている部屋も多いのだそうだ。御名方さんが片を付けるに量が多すぎるし、そもそも普通に体を動かす事も周知の通り出来ないから、放ったらかしなのだという。
「……まあ、其れは、兎も角」
御名方さんは、唯一、使用された痕跡のある和室へと私達を案内した。
広い部屋だ。畳敷きの十二畳間。壁際には壺と掛け軸、棚の上には人形。そして空気の匂いが随分と薄い。上手く言えないが、奇妙な違和感が少ない部屋だった。
これは、客間という認識で良いのだろうか。
「水鳥先生が、使う部屋ですよ」
さらりと爆弾発言をして、しかし此方の驚きも気にすることなく、押入れから座布団を二枚引っ張り出した。既に置かれていた物と合わせて合計四枚。それを全員に配って、座るように促す。
固まっている私に、挙動不審な紗江ちゃん。素早く動けたのは早苗一人だった。すとん、と躊躇わずに腰を落として、あっさりと会談の席に着く。……胆力が有るというか、図々しいというか。
その行動に毒気を抜かれて、紗江ちゃんと一緒に腰を下ろした。習うより慣れろ、の言葉を思い出す。
「さて、何の用で」
針金細工のような細い体で、静かに正座する御名方さんは、感情が無いままに言ってくる。言葉だけ聞けば威厳があるのだが、可聴領域ギリギリなので背筋に嫌な感覚が走る。
この独特の威圧感を、正面から受け止めるだけで結構大変なのだが、そこは早苗と言うべきか。ごく普通に受け答えを始めてしまった。
「いえ。特別な用事、では有りませんけれど。……一応、私とレオ以外の『五官の祝』も、紹介しようと思ったんです」
貴方もその内の一人ですから、と、そう付け加える。
その単語に、く、と多分、笑って静かに視線を紗江ちゃんにスライドさせる。その腐った魚のような目線に、ビクリと彼女は震えてしまった。可哀想に。やはり、この視線は相当にキツイ。
「率直で。東風谷早苗。……で、彼女が?」
「はい。彼女が」
掌で紗江ちゃんを示して、そのまま勝手に紹介する。
「尾形紗江ちゃん。尾形家の跡取り娘さんです」
「そうか」
「はい」
そして、それきり二人とも黙ってしまった。
生徒会室でも時々目撃する事が出来る――――狐と狸の化かし合いにも似た、策士の対立を思い浮かべるような沈黙だ。簡単に言えば、腹の探り合い。
早苗は食えない笑顔。御名方さんは、無表情。腹芸が苦手な私にしてみれば、こういう場面は苛々する。ただ、口を挟めない。紗江ちゃんと同じで、口を挟めるだけの技量に至っていないのだ。
早苗は、『東風谷』として。洩矢大社として、御名方さんに何らかの目的がある。生徒会に入った頃から分かっていた事だ。そして御名方さんは、その早苗に明らかに……負の感情を抱いている。それも、かなり危ないレベルでだ。
『君が、どうしようもなく、憎いんだよ』
そう告げた彼の顔を、私は忘れていない。あの虚ろに歪んだ狂気が、何時早苗に降りかかるか。危害を加えるか。それを恐れているからこそ、私は早苗と共に生徒会に通っているのだ。
「……東風谷。君に訊ねよう。人を殺す際に、最も困る事は何だと思う?」
ふと、彼が話題を振る。その目の中には、微かな色が有った。
「有名な話題ですよね」
「ああ」
知っているか? という御名方四音は、読めない顔だ。けれども早苗は素直に答える。
「ずばり死体の始末です。死体さえ如何にか出来れば、後始末はぐっと楽になる。失踪扱いでも、蒸発扱いでも良いんですから」
「そう。古今東西、死体が無ければ殺人事件は立証できない。けれども、死体を消すのは並大抵ではない。だから色々な方法を使う。合法的に火葬してしまったり、太平の真ん中に運んだり、と」
「先輩。何が言いたいんでしょうか?」
「いいや。例えば、だ。もしも他者を害し、殺する時に――――事故や自殺に見せかけて、完璧に殺す事が出来れば。きっと死体の始末を考えなくても、良いんだろうな、とね――――そう思ったんだ」
そう告げた御名方さんの目には、小さな、しかし異常なほどに炯々と輝く光が存在していた。
消えかけの白色矮星こそが最も熱を保有しているかのように。狂的な、得物を捉える様な、獣の目。それでいて冷徹な機械の様な、殺人衝動にも似た光。
「僕が、何を言いたいのか、分かる筈だ。君ならばね」
くは、とまるで悪魔か死神の如くに、真っ白な歯を見せる。そのおぞましい笑顔に、紗江ちゃんがぎゅ、と私の袖を掴んだ。
……本当に、今日の御名方さんは、何時にもまして危ない。百面を覆う長い黒髪と、左手で敢えて隠された表情、そして間から覗く目が相まって、まるで贄を求める亡者か、破滅に向かう魔導師だ。
「……帰ります」
その圧力を受けたからか。いや、多分、余りにも遠慮のない物言いに機嫌を害したからだろう。早苗は立ち上がった。その顔は、お世辞にも穏やかではない。
家に来た相手に、こんな言い方をされれば、誰だって腹を立てて当たり前だった。私だって嫌だ。
「そうすると良い。――――精々、お気をつける事だ」
「……そうですね」
珍しくも、早苗の顔が固まっていた。憤りを湛えた、危ない顔だった。
挑発か、忠告か、あるいは宣戦布告か。それとも、本当に私達が邪魔だったのか。真意は見えないけれども、私達がこれ以上、この家に留まる理由はない。行きましょう、という早苗の言葉に、頷く。
御名方さんは、ゆらりと立ち上がり、先んじて進む私達の後ろから、そのまま玄関まで私達を見送りに来た。例の如くの態度で、そのまま玄関前の壁に寄りかかっている。
柳にも似た、と表現しようとして思い出した。そう言えば、柳と幽霊はセットだったか。この屋敷ならば幽霊の一体や二体位、住んでいても全然奇妙ではないが。
「――――お邪魔、しました」
「ああ」
軽い返事は、やはり此方を馬鹿にしているのか。小さく手を振って、彼は私達を態度で家から押し出した。
最後に出た私は、せめてもの意趣返しに、ピシャリと力強く扉を閉める。しかし多分、向こうは微塵も堪えていないだろう。生徒会での早苗との会話を見る限り、火を見るより明らかだった。
音の後、しん、と場が静まり返る。
温かな筈の風や日光も、白状に感じるほどに。
「…………あの、」
「帰りましょうか。レオ」
私が懸けた声を遮って、早苗は言う。その声は、彼女にしては非常に冷え切っていて。ああ、これは本気で早苗の感情が揺らいでいるのだな、と私は長年の経験で悟った。滅多に見ない、早苗の激情だ。
「……うん」
水鳥先生から“訪ねてやって欲しい”と言われ来た事を、私は後悔していた。……いや、そもそも私達は、一体何のために『御名方』家を訪れたのだったか。それすらも、今では曖昧に感じてしまう。
確か早苗が、紗江ちゃんを紹介しに行こう、そう言った。しかしその目的も最早、不明だ。会合が終わった今とはいえ、こんな危ない早苗に訊ける話題では決してない。
連休明けで、一体どんな顔をして生徒会室に行けば良いのだろう。否。そもそも、まだ生徒会に顔を出す必要があるのだろうか。大型連休の最中だというのに、嫌な気分になる以外の何物でもない会合をする位ならば――――ホント、神社で労働していた方が、マシだった。
心の中に、しこりを抱えたまま、私達は、神社に帰り。
テレビで、『紗江ちゃんの嫌な予感』を知った。
●
『本日、午後十二時三十分頃、新宿駅で列車に女性が轢かれる事故がありました。被害に遭ったのは、会社員の猪去蝶子さん、三十三歳です』
『――――事故があったのは、東京都新宿駅の山手線・西武池袋方面乗り場のホームで、所持品などから身元が判明しました。この事故の影響により、新宿駅で一時列車がストップ、また発生時刻がお昼時と言う事もあって周囲に多くの混乱が発生しました』
『――――警察では、事故の原因を調査するとともに、自殺または何者かに突き飛ばされた可能性を考慮しているという事です』
●
三人の少女が立ち去った後。
点けっぱなしにていたテレビから、そんなニュースが流れて来て、ふと御名方四音は行動を止めた。
「……懐かしい、名前だな」
ボソリ、と呟く。
その昔。父がまだ存命だった頃。彼は稽古事として、ピアノフォルテの授業に通っていた。随分と変わった名前だから記憶に残っている。同姓同名の別人でない限り、恐らくその時の教師だろう。
音楽教師。それも、学校ではない、稽古事での顔見知り。
「…………」
父、御名方三司が死んだのは、今から二回前の『御柱祭』の年。つまり今から十年前。彼は小学校に入る前。そんな昔の記憶でも、彼は良く覚えている。全国トップクラスの頭脳は伊達ではない。
他人を拒絶する四音だが、決して他人を見ていない訳ではない。むしろ、自分が関わらない為に、必要以上に他者を観察し、情報として蓄えている。その情報に感情が籠らないから、彼は異常なのだ。
むしろ憎悪とはいえ、東風谷早苗に見せていること自体が、有り得ない。
「…………」
先月に、転落事故で死んだ男子生徒。名前を武居大智。
生徒会で語ったが、あの青年とは小学校から同じ学校だった。四音の態度に業を煮やし、クラスで虐めていた。そして、それがぱったりと止んだのは小学校の臨海学校だった。
彼の不運に巻き込まれ、盛大に痛い目に遭遇したのだ。可哀想に。
「…………」
しん、と耳が痛いほどに静まり返った部屋。心を殺した四音は、しかし静寂を変えようとしない。彼の力では変える事が出来ない事を、これまでの人生で十分に知っている。
それを打ち破ったのは、一人の女の声だ。何時から家にいたのか。建てつけが悪い障子扉を開けて、彼女は顔を覗かせる。
「やあ。邪魔をしているぞ、四音」
彼が唯一、学校の中で信用している存在。水鳥楠穫だった。
四音が健在で対応できる時、という条件は付くが、いきなり屋敷内に出現する事も珍しくはない。
「何か、御用で」
「いや。相変わらず性格も態度も悪い、女を怒らせた男に、慰めの言葉でも、と思ってな」
「……先生が、そんな無償の愛を与えてくれるほど、優しい相手とは思えませんが」
その言葉に、まあな、と彼女はシニカルに笑う。
そしてそのまま、正面から彼に言った。
「なに、長い間を生きているとな、四音。やっぱり気になるんだ。……『御名方』と言う家の業を、私も良く知っている。その業に、――――言い代えよう。『呪い』と『祟り』に、お前が蝕まれるのはな。不憫で可哀想で、同情と救済を覚えてしまうのさ」
「いりませんよ」
そんな、二束三文にもならないモノなんて。
「ああ。知っている。だから私は、お前に手を出していない」
救済や憐憫で救われるのならば、御名方四音は遥か昔に解放されているだろう。しかし、そんな物では、決して彼は戻らない。もっと別の方法を使用しない限り、絶対に、だ。
そして別の方法を、この教師は取る事が不可能なのだろう。だから、領分を侵さない程度に関わり、信頼と信用を持って動いている。
「……別に、先生が人間だろうが、人間じゃなかろうが、僕は良いです。……信用できて信頼できる。そしてそれ以外を持たない。今の僕には、それで十分です」
誰も、其れが出来ない。何れかはまだしも、全てとなると。何かを画策する東風谷早苗も、ただ彼女に並ぶ古出玲央も、見ただけで怯える尾形紗江も……彼の中の水鳥楠穫の価値には、並ばない。
向こうが動くならば好きにすれば良いと思う。何かを企むのも彼女達の自由だ。
だが、ならば自分も好きにさせて貰っても、構わないだろう。
「……悪い笑顔だな、四音」
「ええ。でしょうね」
言葉を付けられるほどに大きな心の動きではない。しかし、僅かに触れた心の針を読むのならば、きっと“楽しい”となる。
「次は……六月です」
恐らく、六月に――――誰か、命を落とすだろう。
過去から今迄、自分に関わった事のある、誰かが。
多分、決して疑われない状況下で。
「怖い、ですねえ。……本当に」
く、と御名方四音は、不気味なほどに乾いた、笑顔を浮かべる。
「本当に、怖い……」
体を抱くように、彼は擦れた声で哂う。
きっと、この場に古出玲央がいたら、言葉よりも彼の方が遥かに怖い、そう言ったに違いない。
しかし水鳥楠穫は、何も言わず、ただ静かに瞳に儚い感情を映すだけだった。
家にあった色々は、今後の登場フラグです。オルゴールだけは独自設定な旧作キャラですが。
薄々気が付いている方もいらっしゃいますが、先生は色々と訳ありなお人(?)です。その内、しっかり活躍してくれると思うので、ご期待下さい。
さて、一話、日常な話を挟んで次は六月です。
第二次Zをやるので(限定版予約済みです)更新が遅れるかもしれませんが、のんびりお待ちください。
ファミ通で前情報を読みましたが、三大勢力が一つ、AEU、人革連、に“ブリタニア・ユニオン”って凄い名前ですね。やっぱ序盤はエリア11ルートかなあ……。
また次回。
(4月11日・投稿)