異人ミナカタと風祝 序の二 弥生(夢見月)
寝覚めが良かった事など、記憶に存在しない。
春の眠りに誘われれば、そのまま黄泉津平坂を転がり落ちて行きかねないのだから。
朝目が覚めると言う行為にも、千差万別が存在する。
規則正しく目が覚める人間、中々起きる事が出来ない人間に、限った話では無い。優しい母親が階下から声を懸けてくれる人間もいれば、年下の妹が逐一乗り懸かって来る稀有な人間もいるだろうし、目覚まし時計が相棒の人間も多いだろう。
比較して、彼の場合。
「おはよう、ござい、ます」
彼の朝には、何もない。
何時もの如く、機械仕掛けの様に、定刻に目が覚める。
自然と、まるで設定されているかのように、意識が浮上する。
何時だったか、臨海学校だかに学校行事として連れて行かれた時、同じ学年の連中は不気味だと言っていたか。死体が動きだしたか、人形が動きだしたかに見える、と言って。
「……起きる、か」
目が覚めると言う表現は正しくないのだ。夜半に目を覚まし、そのまま白昼夢の様に、意識を漂わせている。丑三つ時か、夜明け前か。夢から覚めるまでによって差こそあるが、目覚めた後に眠れる事は無い。
ぼんやりと。
茫洋と。
日が昇り、社会が動き始めるまで只管に、無為の時間を潰す。
干渉されず、関与もされない、まるで見捨てられたかのような時間が、其処には有る。
「……痛」
寝不足で頭が痛い。芯に響く、ズキン、とした苦痛も、何時もの事。あんな凄惨な夢でも肉体の睡眠時間は足りているらしく、心が病んでいる事を除けば、別状は無い。
医者も言っていたか。悪夢は心因性の物なので治療は難しい、と。日々の過ごし方に注意するしかない、と。確かにその通りだった。ギリギリでボロボロでは有るが、日々を送れない程の消耗では無い。
それは、つまり。
生かされていると言う事だ。
じわりじわりと、真綿で首を絞められる様に。
生かさず、殺さずを追求するかのように。
あの夢の中の娘に、より多くの苦痛の為に、生かされている。
そうでないのならば、当の昔に命を落としている筈だ。
苦痛を漏らす喉を押し殺して、静かに体を起こす。腹筋で起き上がれるほど鍛えてはいなかった。まるで老人か被介護者の様に、肘と足で立ちあがる。細い足と細い腕。病院の長期患者でも、此処まで不健康そうな男はいない。
「――――は」
しらず、笑みが漏れる。楽しくも無く、明るくも無い、渇ききった笑みだった。
心の中に有る物は、諦観と自嘲。
声に含まれる物は、絶望と虚栄。
その笑みを聞く者はいない。
誰かから、声を掛けられる事も無く。
誰かに声を懸ける予定も存在しない。
この八畳間に、そしてこの家に、居るのは、暫く前から、彼、一人だけだ。
御名方四音の周りには、誰もいない。
●
老人か要介護者の様に起き上がり、布団を畳んで、着替えて、寝室を出る。築ウン十年の屋敷の廊下は、一歩歩くごとに軋み、鳴き声を上げた。天然の鴬張りだ。鶯等と言う風雅な鳥を最後に見たのは、一体、何時だったのか記憶には残っていないが。
ふらり、と歩く姿は幽鬼の如く。
柳の下の幽霊でも、もっとマシな様相か。
時代が違えば、異形と怪しまれ始末させられただろうか。真夜中に出歩いて不審者と扱われる事すらある。周辺家屋の子供達からはお化け屋敷と呼ばれる木造邸宅に、唯一人住んでいる青年を、誰も語ろうとはしない。
(無理も、無い)
ギシギシキシ、と黒く色の変わった木板を踏みながら、静かに思う。
四音の風貌や態度を見て、親しく付き合おうとする住人は少なかった。元々周囲に人が住んでいない事も拍車を懸け、今では噂の種にまでなっている。警察沙汰に成っていないのは、学校での様子が拡散しているからだ。評判が、下降もしないが、上昇もしない。
これで四音が、青春を満喫する爽やかな好青年だったのならば、話しは違ったのかもしれない。けれども、そんな事実とはかけ離れている事は、彼が己で承知している。
「……は」
掠れた、耳障りな笑い声が漏れる。
慌てず、騒がず、冷静なままの行動を心がけ、静かに彼は歩く。自室から洗面所までの短い過程ですらも、蝕まれた体では苦しかった。慌てて行動した挙句、廊下の途中で斃れた事も有る。
慎重を期すれば、日常が辛うじて遅れるのが、今の彼だ。
洗面所の扉を開けて中に入った。
所々が剥げかけたタイル張りの壁と、その中に備え付けられた洗面台。合成素材の筈の白い流しは、隅が黒ずみ、流れる水も仄暗さを感じさせる。届く筈の朝日が、陰影を生む。
古いわけではない。しかし何故か、劣化している様に見える設備だった。
洗面台の大鏡を見た。
相変わらず、酷い顔だった。
顔立ちだけで言えば、十分に美形と判断されるだろう。
けれども、その顔は、何処か造り物めいていて、生気を感じさせない顔が有った。
女子が羨む、肌理細やかな肌。けれども、その色は何処か不健康そうだった。
「……まるで、死仮面、か」
死者の顔を模ったデスマスク。それに良く似ている、と、彼の数少ない日常の関係者は語ったか。
漆黒の、烏よりも深い艶やかな黒髪。長く伸びる毛は人間よりも人形の様だった。
口紅を使用しているのでもないくせに、赤い、血が通う唯一の証明を示す唇が、白い顔に浮いている。
「……確かに、な」
鏡の中の瞳は、何も写していない。透明で、曖昧で、硝子玉の様な眼球。それが見ると言う行為意外に、その目が役目を果たした事が、過去にどれ程有っただろうか。
女性に間違えられる事は無い、美人という表現が似合う己の顔が、仮面の表情意外を浮かべた事が、どれ程に多く有っただろうか。
数少ない試みは、全て忘却の彼方だ。
変えよう、と努力した事は有った。
こんな自分が嫌だと、そう思った事が、有った。
友人を造り、信頼出来る相手を生み出そうとした事が有った。
けれども――――全てが無駄だった。
だから、彼の顔には、無表情と、自嘲しか浮かばない。
「……それならば、それで、良い」
周囲に誰かがいる事は、もう、煩わしかった。
己の心が矛盾している事は理解した上で、何も言う気が起きなかった。
顔を洗い、古い木箪笥の中から乾いたタオルを取り出して拭う。丁寧に畳まれたタオルは、しかし温かくない。無機質だった。洗濯され、乾かされた筈の顔布巾ですら、その温もりを、多分、家の中に有った温かさと一緒に、置いてきていたのだろう。もう、慣れた感覚だ。
感じる水の冷たさが、僅かに生の実感を思わせる。
もう一度、鏡を見る。
男らしさとは無縁の顔がある。美しいという形容詞が似合う顔だ。格好良くは無い。西洋彫刻か、美術のモデル人形か、あるいは死者の顔が、そのまま動いているかのような、顔だった。
陶磁器の様な肌。蛇の様な瞳。目の下に有る微かな隈。
床屋に行っても無駄な、長く長く伸びる腰まである髪。
痩せた以上にやつれた、針金細工の様な姿形。
それは、人間よりも、人間以外の何かを、思わせた。
呟く。
「……学校に、行こうか」
●
外に出ると、春が近い事を思わせた。
青い空の中に、小さな羊にも似た雲が浮いている。冬の間は裸だった木も、既に緑の新芽を出している。庭先に植えられた古い梅の花は、そろそろ良い感じに咲くのではないだろうか。
世間では、三月と言えば出会いと別れの季節だと認識されている。其れは確かだ。間違いないだろう。
木々や植物が新たに芽を吹かせるという現象は、再生と死の輪廻の一端だ。そして、成長と共に実行される行事も、その中に取り込まれている。
例えば雛祭り、と語られる行事で会っても、その本質は変化しない。世間では、可愛らしい人形で、女子の健康と成長を祈る行事だ。女子達に、禍が襲いかかりません様に、と祈りを込めて行われる。
言い換えれば、人間が受ける筈の災厄を、人形に肩代わりして貰おうと言う行事だ。
古来より、人形は、人間に近いが故に、その穢れを背負わされていた。
そして、背負ったまま、河に流され、黄泉へと消えていく事を、定められた。
「……僕の厄は、除けない、んだろうな」
河は、古来から、あの世へ通じる出入り口と看做されていたという。川の向こう。河の出口とは、世界各国で共通に、畏怖と恐怖の対象だったのだろう。だから、そう言う場所に、不吉を流してしまいましょう、というのが行事の基本理念なのだと言っても良い。
御名方四音が、不吉な事は、誰にでもわかる。
自分も同じ事が出来るのか、と昔、紙人形を購入して祀った後に流してみたが――――その結果は、判らない。彼には何の変化も無かったからだ。
行動から三日後、下流で原因不明の水質汚染が発生し、かなりの魚が死んだ、というニュースが流れたが、果たして本当に、四音が「流し雛」を実行した結果なのかは、ついぞ明らかに成らなかった。
あるいは、唯の偶然だったのかも知れない。
ニュースを聞いて以来、二度と同じ行動をしないようにはしたが。
過去を思い出し、居間に思いを馳せる。
(――――眩しい、な)
眩しかった。太陽の光以上に、周囲に有る生命力に充ち溢れた世界が、眩しかった。
自分が外れていると、自覚する。
良くドラマなどで、末期の患者が、外の木々を見て『あの木の葉が落ちる頃……』等と儚く悲嘆に暮れる光景が有る。けれど、アレでも十分に恵まれているではないか、と四音は思う。
まず、病院に居る。次に、自分が死ぬまでの期間が分かっている。そして、大抵は、そんなヒロインを救う為に努力する、医者や見舞いの人間がいる。十分過ぎる程に、恵まれているではないか。
そんな事にも成らず、何時死ぬかと恐々として過ごす人間が、此処に居ると言うのに。
「……眩しい、なあ」
目を細めて、呟く。
一生懸命に、頑張って生命を芽吹かせている彼らが、羨ましかった。
自分を追いぬいて行く子供や、擦れ違う犬の散歩をする老人や、変わらずに立ち続ける木々が、妬ましいと思えるほどに、彼の中には、生が無い。
普通に日々を生きるだけがやっとの四音は、何も手に入れられない。
体は動く。けれども体力は無い。
意志は有る。けれども、決して報われる事は無い。
行動の自由は有る。けれども、行使するだけの環境は存在しない。
常に体の何処かに故障を抱える四音には、遠すぎる理想だった。
学校は、近所に有る公立高校だった。諏訪清澄高校。特別に偏差値が高い訳でもなく、かといって進学が難しいほど低い訳ではない。トップクラスが旧帝大に入り、数年に一度、極希に最高学部レベルを受ける生徒が出現する、極々平凡な、何処にでも有る高校。
立地条件や設備が良いとは言えない家だが、学校までの距離が近い事。徒歩三分で到達出来る事だけは、感謝出来るだろうか。まあ、その為だけで選んだのだし。
今は弥生。三月。
高校は、春休みの最中だ。
けれども、生徒玄関の入口は開いている。
玄関口の前には何台もの自動車が止まっている。普段は見られない。其処だけでなく、少し奥まった駐車場にも、かなりの数が停車していた。今日、新入生、新一年生達の行事が有る事は、知っていた。
「おい、あれ御名方先輩……」
静かに、そう告げる声を聞く。玄関前に待機している、新入生達を勧誘する部活動の一団からだった。各々が手にビラを持ち、横断幕と、倶楽部で使用する道具を手に、アピールを狙う算段なのだろう。
横目で見て、通り過ぎる。
ざわ、と一瞬だけ集団がざわめく。四音は自覚していた。己の風貌は異質であると言う事もそうだが、纏う空気が他者と隔絶している事を、十分に知っている。だから、何も気にする事無く、通り過ぎる。
――――ざわり、と。
風が吹いた。春の中に有る、暖かな風だ。花の香りを薫らせる風だった。
その風が、髪を掻き乱す。彼を翻弄し、弄ぶかのように、大きく。
「……うわ、すげえ」
そう呟いたのは、誰だったか。
四音の長い髪を、大きく揺らし、その身を包む様に流れ行く。
針金細工にも似た細い体を包むのは、学園の制服の筈だった。
けれども、彼らは、其れを別のモノに幻視する。
仮面の様な無表情と相待ったその光景は、普段は苦手意識を持つ一般生徒達すらも怯ませるだけの、独特の華のある光景だった。
それも、何処か背筋に寒気を覚える、不吉さと共に訪れる、退廃の華だった。
ぞくり、と背筋に寒気が走った。
「……怖いよ」
ポツリ、と女生徒が呟いた。四音は確かに美人だった。けれども、其れが、怖い。
其処に存在する、御名方四音という男が――――まるで幻か、想念かと、錯覚する程に。
人間味よりも先に、近寄りがたさを思わせる。
人形が動いている。あるいは、幽霊が実態化している。その方が、遥かに似合う表現だろうか。
その時、その一瞬。確かに露呈していたのだ。その身体から見える儚さ以上に、普段は隠される、彼の身に起きている、おぞましさが。
其れを気にもかけず、彼は静かに校舎に入ると、そのまま廊下を歩いて、目的地を目指す。
鉄筋コンクリートと化学素材で造られた校舎の中。こつり、こつり、と歩く彼の足音が反響する。新入生たちは何処か別の場所に集まっているのだろう。休日の校舎は静かだ。
その中を歩く一定の間隔は狂わない。乱れた時は、四音が倒れる時だった。
無機質な空気のまま、彼は一回の奥まった一角へ辿り着く。図書館と放送室に程近い、大きな鍵が付けられた扉。硝子窓には無数のポスターが貼られ、敢えて室内の様子を伺わせる事を封じている、その部屋。
扉を開こうとして、錆びついた南京錠は、既に開いている事に、気が付く。
「おはよう、生徒会長」
生徒会室には、先客がいた。
●
「シケた面をしているな。病みっぷりは顕在か?」
「……お早うございます。水鳥先生」
静かに返す四音に、尊大な態度で、教師は笑いかける。
彼女は、数少ない四音の顔馴染みだった。傲岸不遜で、偉そうで、尊大で、常に態度を変えない女性教師。乱暴では無いのに、何処か雑な印象を受ける口調と、眼鏡と煙草が特徴。
名前を、水鳥楠穫(みずどり・くすか)。
専門は社会科地理学。役職は、生徒会顧問。
美人だが、口元の不敵な笑みが美貌を打ち壊し、瞳に除く子供の様な破天荒さが、別の変わった魅力を引き出している。気真面目な生徒からは嫌われているが、総合人気も、決して悪くは無い。
広い生徒会室に二人きりと言う状態だが、四音は別に、何も感じない。
美人な顔など見飽きている。ナルシストを気取るつもりは更々なかったが、毎朝毎晩、鏡で己の顔を見ているのだ。今迄、美人に対面して、特に心が揺れる事は無かった程だ。
「ああ、その空っ風の様な声を聞くと安心するぞ。相変わらずの不健康さ。……全く、家で寝ていれば良いものを。其れが出来ないお前に同情する」
ふ、と笑いながら、彼女は懐から煙草を出す。生徒会室も校舎内も禁煙だと言う事は理解しているらしいが、口元が寂しいらしく、火の付いていない咥え煙草で居る事も多かった。
煙に関しても、変な耐性が有るから、気に成らない。
「休日だと言うのに、お前も御苦労だな。そんなに寝る事が嫌か?」
「ええ」
即刻に。
即効で。
四音は、返事を返す。
毎日、瞼を閉じる度に、彼は悪夢に苛まされる。
精神は肉体を蝕み、悪夢は健康を蝕む。休まない体は持病持ちの体に拍車を懸け、休まない心は常にささくれ立つ。睡眠による安寧が存在しない以上、彼に安息は存在しない。
ならば、気を紛らわす為にも、こうして学校で仕事をしている方が、気楽と言う物だ。
「……まあ、お前が良いならば良いがな」
そう言って、四音が来てから中断していた読書を再開する。地理教師と言う事は知っているが、世界の海図や地図を読んで何が楽しいのだろう。謎だ、と思っているが、他者の趣味に口は出さない。
この水鳥と言う教師は、何をトチ狂っているのか、生徒会室に私物を持ち込んでいる。そして、大抵はこの部屋で時間を潰している。教師としての仕事を何時こなしているのか、職員棟の机を見ても、今一、明らかではない。だが、授業は上手い。
頭の中で考えながら、彼は生徒会長と書かれた椅子に座り、軽い鞄の中から筆記用具を取り出す。筆記具、といっても昔懐かしい鉛筆だ。しかも手で削って使用するタイプである。鞄の中はスカスカで、最低限の物しか入っていない。持ち運べないからだ。
木造りの堅めの鉛筆。キチキチ、とカッターの刃を伸ばして、静かに鉛筆を削る行為が、彼の数少ない安息の時間だった。自傷行為の代替なのかもしれない。
周囲は、不気味だ、といって近寄らないが。
まるで呪いを刻んでいる様に見えるのだそうだ。
「…………」
生徒会役員は、彼以外には存在しない。
昨年度までは確かに、彼の上役がいた。しかし、年の移り変わりと共に人数は消え、今年の春以降は誰かを加入させない限り、仕事を彼が一手に引き受ける事と成る。
それでも良いか、と四音は思っている。
昨年の生徒会の“終わり方”が、どんな悲惨な物だったのかを知っている四音にしてみれば、誰かが入って来て、同じ思いをするのは懲り懲りだった。
どうせ時間は山ほどある。まともに授業に出席すら出来ない四音は、追試扱いのレポート提出と、毎回の考査での学年トップを条件に、生徒会室での自習を認められている。毎日毎日、休むことなく、生徒会室で雑務をこなし、序に授業を片付ける。
それが、精一杯なのだ。
それ以上は、体が、持たない。
学校に来る事が出来ない、正月と長期休暇を彼ほどに嫌う生徒も、少ないのではないだろうか。
「…………」
何十枚も存在する書類の束を読み取り、整理し、判子とサインを印し、分割する。こうして只管に雑務に追われ、頭の中を空にしている最中は、余計な事を考えなくてすむのだ。
己を襲う、あの深い夢を、思う必要が無い。
ただ虚ろに広がる、自宅で過ごす必要が無い。
過ごしているだけで、何かが迫る感覚を、感じないで済む。
広いが故の圧迫感を、まるで夢が現実に成る様に、感じないで済む。
「…………コピー用紙が、切れていたか」
そういえば、と昨日の記憶を探る。
生徒会に備え付けの最新式は、昨年に購入したものだった。多機能を有する便利なアイテムだが、コンセントとの接触や内部基盤の調子が悪いせいか、中々上手に動いてくれない。その為、他所のコピー機を借りる事も多かった。
機械内に常駐させるべきコピー用紙も、お陰で用紙切れに気が付かない事も多い。昨日の仕事で使用して、それで気が付いたが、補充をしないままだった。
「…………」
教師はと言えば、何が楽しいのか古代の航海図のページを眺め、歴史的有名な航路を指でなぞって悦に入っている。気持ち悪い女だ。
車の運転を始め、重要書類の確認や許可証等。彼女にしか出来ない事は普通にやってくれるが、それ以外の部分で手を貸す事は無い。昨年からずっと、この教師のスタンスはそうだった。今、コピー用紙を取りに行ってはくれないだろう。
ふ、と呼吸が整っている事を確認した上で、四音は立ち上がり、備品庫の鍵を取った。
●
どんなに注意をしても、其れが無意味な事は有る。
どれ程に気を払っていても、唐突に降りかかる災厄から逃れる事は難しい。
いや、逃れる事が不可能な事象と違い、偶然が作用するだけ、あるいは残酷なのかも知れない。
諦められない、一縷の希望が、常に目の前を彷徨うと言う事なのだから。
それは、まさに運命の様に。
コピー用紙を入手した四音は、生徒会室へ向かう途中、誰かと衝突をした。
場所は、備品庫との丁度、中間地点。
前方不注意での相手は、貧弱だった四音を跳ね飛ばした。
倒れる彼を、彼女の腕が掴み、しかし堪え切れはしなかった。
曲がり角で誰かに衝突する現象は、ある意味、恋愛物語の王道とも言えるイベントだろう。
言い換えれば。
言い換えるのならば、御名方四音の運命は、この時に、大きく形を変えたのだ。
「……あの、大丈夫ですか?」
倒れた四音の目の前には、己に覆いかぶさる格好の女生徒を見た。
どうやら、衝突した瞬間に相手は、自分の上に倒れ込んで来たらしい。
来ている衣服は制服。糊の張り具合を見ても、新入生なのだろう。迷いやすい校舎だから、ふらり、と誰かが己の位置を見失っても、不思議ではない。
両者が接触した事は、何処までが世界の掌の上だったのだろう。
廊下の上に、放射状に広がる黒い髪。
響く声や足音も、何処か遠く。
押し倒される格好のまま、頭元に転がるコピー用紙を気にする事も無く。
白皙の美貌を持つ、仮面の表情の青年は、己の上に乗る少女を見た。
滅多な事では他者の顔に反応しない彼が、この時だけは、動きを止めていた。
整った顔立ちの少女を見る。
染めているのか、何処か濃淡が有る黒い髪と、誤魔化しきれていない、黒では無い瞳。
長い髪には、大切に扱われている事が分かる、蛙の髪飾りと、蛇の髪留めが有った。
「……ああ。大丈夫だ」
口から出た言葉は、意外なほどに、穏やかだった。
これが、始まり。
これが、二人の最初の遭遇。
これが、後に洩矢神社の過去から未来までを巻き込む、物語のプロローグ。
この世界の主役足る、二人の男女の、ファーストコンタクトだった。
少女の名を、東風谷早苗と言う。
(2010年11月13日投稿)