「海だ!」
「海です!」
「海だね!」
「……先生」
「如何した四音。気分でも悪いか? 席を倒しても良いぞ」
「いえ、それは結構です。……今ほど、姦しい、の意味を理解した事はありません」
同乗しているのが平均以上の女性達であるにも関わらず、その華やかさを煩わしく感じているのか。
相変わらず、真夏の晴れやかな気候に似合わない御名方四音だった。
「そうか。――――お前はどうだ? 海は?」
「……景色として見るだけなら、悪くは無いと思っています。……先生は?」
「私か? 私は大好きさ。――――ここだけの話」
水鳥楠穫は、怪しく微笑んでさらっと爆弾を投下した。
「私はこれでも元海兵だ」
「――――※××!?」
車の中に、主に女子三名の悲鳴が響き渡った。
窓の外には、日本海が見えていた。
異人ミナカタと風祝 第十四話 葉月
夏休みだからといって、ぐーたらした生活を送れるほど、私の家は緩くない。
朝から早苗と一緒に境内の掃除を行い、各々の割り当てられた仕事を行う。強い日差しにゲンナリとしながらも、修業は尽きる事は無い。夏休みのお陰で観光客も多いし、仕事は山積み。同じく夏休みの絵手紙姉さんに、小さな紗江ちゃん。御名方の家を除いた全員が揃って動員されていた。
紗江ちゃんはその天真爛漫な態度で、不慣れながらも裏方を和ませるし、絵手紙姉さんは才能だろう。土産物屋や駐車場管理など、文句が付けようもなく遂行している。相変わらず才能の無い私は、早苗の手伝いをしているのか、早苗に助けて貰っているのか、ついぞ怪しいままだった。
しかしまあ、そんな日々も一週間もすれば大体、形に成る物だ。
夏休みの合宿について、祖母から許可が下りたのはそんな頃だった。
「楽しんでくると良いでしょう。帰ってきたら、1日休憩して、その後はお盆ですからね」
大変でしょうから、覚悟しておきなさい。
そんな不吉な言葉と一緒だったが、許可は許可だ。刹那の遊休だ。
生徒会の合宿は――――名目の上では、学園祭を成功させた生徒会への慰労と、次期生徒会に関する話し合い。更に言えば親交を深めるという事らしいが、はっきり言ってしまえば遊びに行くようなものである。
夏休み。海。合宿。ああ、なんて良い響きだ。私は昔から前衛系でやんちゃも色々していた。正直、今でも冒険には心が躍ってしまう。女子高生の癖に、とか思われそうだが――――世の中に数多い女子高校生に一人くらい、そんな人間が居ても良いではないか。探せば結構いると思うし。
そうでなくても高校生活初めての合宿だ。今迄にない体験である事は間違いない。
「さて、では許可証を書きましょうか」
そう言った祖母は、渡して保管を頼んでおいた一枚紙を取り出して、丁寧な字で書き始めた。
学生が合宿を行う際には、当然ながら保護者の許可が必要になる。引率の教師が『これこれこんな理由で合宿を行います』と説明をし、それに保護者が許可を出して署名をし、初めて生徒は参加出来る。未成年である私は、例え自分が行きたくても、祖母が駄目と言ったら絶対に行く事が出来ない。
不満には想わない。……そもそも母が昔に死んで以来、祖母にはずっとお世話になっているのだし。
「おや、水鳥……。水鳥ですか?」
生徒会合宿の説明したプリント。そこに記された引率教師の名前を見て、祖母が言う。
生徒会の合宿なのだから、引率は当然、水鳥先生だ。
「どうかしました?」
「――――いえ。変わった名前だと思いました。……何処かで聞いた覚えはありますね。記憶は定かでは無いですが――――あれは、確か、舞鶴から」
「え、お母さんから?」
古出舞鶴。読み方は、そのまま「まいづる」である。
私の言葉に、そうですよ、と祖母は頷いて。
「高校の学生の頃でしたか。水鳥という女性の名前を、生前に口に出していました。関係は不明ですが……多分、同一人物でしょう。同姓の別人にしては、少し珍しすぎる名前ですからね」
「……へえ」
意外な関係だ。そう言えば――――年齢を聞いた事は無いが、私達とは丁度一世代くらいは違っても変では無い。そういう雰囲気が、水鳥先生にはあるのだ。
この合宿中にでも、少し話を聞いてみようか。そんな風に思う。
出来ましたよ、と渡された許可証には、丁寧な楷書で書かれた文字が躍っていた。
さて、そんなこんなで私は水鳥先生が運転する車に乗っている。
数ヶ月前。古出の玲央ちゃんと乗った高級車だ。この車を見ただけでも、水鳥先生が一介の教師では無いと一発で分かる。教師の金で買える品では無い。公務員の副業は禁じられている以上、他に仕事をしていると言うよりかは……多量の財産を蓄えている癖に、教員として働いていると、そういうことだ。
早朝。朝の六時。学校の昇降口前に荷物を持って私達は集合した。
ボストンバッグをそれぞれ携えて集まった、私と早苗と武居さん。やがてやって来た車には、既に御名方四音が乗車していた。……合宿だと言うのに、表情は浮かず、荷物も殆ど持たず、水鳥先生におんぶにだっこな状態だったのは、もう言うまい。何時もの事だ。
早苗だけは『先輩、もうちょっとしっかりして下さいね』と気を使っていたようだけれど。この二人の関係を表す言葉を私は言葉で知らない。だから何も言わずにおいた。
助手席に御名方さんが座り、私達は全員、後部座席に。朝食や菓子を食べながら車で国道を走って新潟に向かう。朝の空気は爽やかで、車も少なく、とても快調なドライブだった。蝉の鳴き声も耳を賑やかせ、夏休みと言う実感を与えてくれる。
「…………先生。――日差しが強くて、気分が悪くなりそうです」
そんな空気をぶち壊す御名方さんだったが。
「先輩。それは日差しが嫌なんですか? それとも日差しに対して見る己が嫌なんですか?」
「――――。…………」
よく分かんないが、早苗の一言で黙り込む。つまり都合が悪いと言う事だろう。
早苗を一瞥して(私と武居さんには見向きもしない)、目を閉じる。そして膝の上に置いてあった仮眠用のタオルケットを頭から被ってしまった。
これ以上は話しかけても無駄だと悟る。
「えっと、……そうだ先生。それで、向かう先の解説をして貰っても良いですか?」
「ん、ああ。そうだな。そうしようか」
空気を読んで、話題を別に逸そう。
幸いにも私の質問に、先生は頬に笑みを浮かべて頷いてくれた。
「今から行く旅館は――――『儚月亭』と言う。儚いに月、と言う字を書く」
「……聞いた事がないですね」
「まあ、マイナーな旅館である事は確かだ。ただ、歴史は結構古くてな。江戸時代から続く老舗の旅館で、一見さんお断りでもある」
「…………」
そんな場所を合宿で使用して良いのか、と言う疑問が湧いたが、取りあえずは黙っておこう。
「これから向かう佐渡には、昔からの知人がいる。二ツ岩と言って、あの辺りを先祖代々に治めていた地主さんだ。――――江戸時代には、佐渡金山を使って利益を上げ、周辺の土地を保有していた。徳川幕府ともそれなりの親交はあったらしいな……。二ツ岩は、佐渡島の周辺に、幾つか小島を保有していてな。地図帳を見ても乗りきらない、小さな島だが。その島の一つを利用して経営されているのが『儚月亭』だ」
佐渡島から北東に、個人船舶で15分くらいの位置にあるらしい。
早朝で車の気配が少ない国道117号を、すいすいと進みながら先生は続ける。
「島自体も発見し難い場所に有るし、集客を見込んでいる訳でもない。だから有名では無いが……良い場所だ。それは私が保証しよう」
「ん。……あれ?」
疑問に思ったのか、早苗が尋ねた。
「先生。ご友人から招待状を受け取ったんですよね?」
「ああ。旅館への招待状自体はな。――――ん、ちょっと回り道に成るが、その辺りも説明をするか」
新潟までは三時間近く懸かる。時間を潰すには丁度良いだろう。
ふ、と軽く息を吐いて、水鳥楠穫は話し始めた。
「私に招待券を譲ってくれたのは、八雲という家だ。少し前に、佐倉幕には追及されたが……学校近くで出会った古い友人も、八雲の家の一員だな」
隠す事はしないが、と前置きをして、先生は言う。
「八雲家は、『ボーダー商事』の株主だ。それも大株主、経営権も保有している家だ。まあ、酔狂な者達が多い為か、無駄に儲けを出そうとか、そういう精神とは無関係なんだが……。ともあれ私は、その『八雲家』とは知り合いでね。世界をぐるぐると回っていた事は以前に話したと思うが、その時に何かと世話になった。縁もあって、今でも親しくしているんだ」
……ん、なんか色々と。色々と、他の部分とも繋がって来そうな話だった。
自然と私は先生の話に注目をする。早苗も同じだった。
見れば、助手席の御名方さんも目を開いて静かに聞いていた。
「『ボーダー商事』は、豊かな暮らしをスキマから、をコンセプトに掲げている。その方法は大きい割には堅実でな。世界各地にいる地主や資産家、由緒正しい家系や貴族。要するに、金と人脈と歴史を持っている者達と関係を深めるんだ。そして彼らを相手に商談をする……んだが、……表現が少し違うか? 彼らを通じてスキマ産業を埋めて行くんだな。大手のメーカーと競う事はしない。それよりもニッチな需要を確実に確保していく。痒いところに手が届く……という商売と言えるか。だから目玉商品と言うものは余りない。しかし確実に、日常生活に。もとい、地場産業や文化を壊さないように浸透していく。活動からすれば国際レベルの商社なんだが……各地の有力者と深く関わり、彼らを結び、各地での互いの需要を満たさせる事で動いている、という方が近いかもしれないな」
そんなコンセプトで世界でも有名な会社に成れるのかどうか、と疑問はあるが。
まあ何とかなっているのだから、きっと他にも理由は在るのだろう。金とか権謀術数とか人脈とかで。
「そんな『ボーダー商事』だから、佐渡の二ツ岩さんとも知人だったんだな。旅館経営へのアドバイスもしていたらしい。だから『八雲家』は、招待権を得ているんだ。……私は私で、各地を旅行していた時に彼女とは知り合って居てな」
彼女、と言う事は。件の二ツ岩さんは女性なのか。
「とても気心の知れた御老体だよ。関係者の間では、二ツ岩の刀自と呼ばれている。雰囲気は、煎餅袋に描かれているお婆さんだが、中々老獪で、そして人を見抜く目を持っている。――――少しずれたが。要するにだ。私は八雲家とも知り合いだったし、二ツ岩さんとも知り合いだった。だが両者がどのくらい親しいのか、そんな関係なのか、までを把握していた訳では無かったのさ。学園祭の折に、その事実を聞いてね。夏休みの合宿に使って欲しいと、権利を譲られたと言う訳だ」
なるほど。
と、頷いたのは私と武居さんだけだった。
「………………」
「――――――」
早苗は釈然としない顔で何かを考え込み、御名方さんも(見えないが)、気配から判断すれば寝ている訳ではないだろう。今の水鳥先生の一体何が二人の琴線に触れたのか。それは私に分ろうはずもない。
「さて、――――まあ、私ばかり話をしても退屈だろう」
空気を変えるように、先生は声を上げる。
「古出。何か話せ。……出来れば、皆が楽しめるような話題だ」
「――――え!?」
余りにも唐突な話題の提供に、私は一瞬困ったが。
「えっと、それじゃあ。……中学校時代の話でも」
ともあれ、水鳥先生の話に繋がる様な話題にしよう。
そう考えて、中学時代に体験し解決した、ちょっと不思議な出来事を話す事にした。
多分、盛り上がってくれたんじゃないかと思う。
●
目の前には、巨大なクルーザーが停泊していた。
擬音語にすれば、ででん、と言う感じだ。
視界一面を占める、巨大な船。個人で所有する事が出来るクルーザー(プレジャーボート、と言うらしい)は、今日び、裕福な家庭の保有物としても知られている。だが、ここまで大きいのは初めて見た。周囲に浮かぶ他のボートと比較して、二周り以上も大きい。……いや、多分25mプールに浮かべる事が、出来るか出来ないか、そんな大きさの船だ。
「…………」
早苗も圧倒され、武居さんに至っては口を開けて驚いていた。
新潟の海へと到着した私達。車で向かった先は、日本海に面した港だ。漁港でも港湾センターでも無く、個人保有の船舶が並ぶ港。要するに、金持ちが集まる船着き場。
駐車場に車を止め、荷物と共に足を運んだ先に、クルーザーが停泊していた。
「……これ」
「私の物だ。カッコいいだろう」
少し自慢げに、水鳥先生が言った。
うん、確かに格好いい。白い船体に、デフォルメされた鳥マークが付いたシャープなライン。個人の保有にしてはちょっと豪勢過ぎる。生徒会メンバー四人と引率。合計五人で使用するにはちょっと不相応ではないだろうか。……まあ自慢げになるのも解る気がする。
「……あの、俗っぽい意見でスイマセンけど。……これ、幾らしました?」
「値段か? 本体価格、内装、燃料、各種申請、年間維持費を合わせて……5億弱くらいだな」
「…………」
一介の一教師にはとても――――いや、この話題は既に何回も出した。止めよう。
車の中で話された、海軍がどうのとか『ボーダー商事』がどうのとか、その辺だ。きっと。
「日本では規制や、文化の影響もあって、クルーザーの普及は、近年になってやっと進んでいるくらいなんだがな。それでも持っている者、同行の士もいる。そう言った数少ない面子が利用する波止場が此処だ。私自身、付き合いは余り無いが……金さえ払っておけば、使用する権利は持てる」
長野にいる間は、ずっと専門業者に頼んで保管しておいたらしい。
簡単に先生が話してくれた所によればだ。日本の法律では、78.7フィート(24m)以上の船の取得は制限もあって面倒なんだとか。で、この船の全長は約22メートル強。ヨーロッパで大ヒットしているメーカーの品(80フィート弱の大ヒット品らしい)を、個人での操縦が可能なように弄った。漁船のイメージで運用出来る、……そうだ。海の無い県に住んでいる私達には、余り関係ない話題だ。
要するに、凄くて高いが、日本での運用は面倒な船、と言う認識で良いのだろう。私も早苗も武居さんも、御名方先輩も。それが如何した、という表情だった。珍しくも楽しそうな水鳥先生の、子供っぽい笑顔だったから解説を遮る事はしなかったけれど。
「海技免許も持ってるし、メンテナンスもしている。……昔、世界を旅行していた時はこれを使っていたんだ。燃料と食料を積み込んで、贅沢をしようと思わなければ十分、海を航海出来る。まあ専門の大型船舶には負けるが、小回りも利く。嵐とか鮫とか海賊は、別に大した物じゃない。撃退できるし」
燃費や足回りは改造済みらしい。いや、それでも嵐を撃退は出来ないだろう。幾ら早くて小回りが利くと言っても、海賊相手に立ち回れるとか言われると、流石に眉唾物……。
「嘘だと思うか?」
言葉と同時、既に“目の前に有った”拳を確認して――――いいや、訂正だ。私は首を横に振った。多分、この人が言ったのならば、本当に「出来る」のだろう。……私も腕には少々自信が有るが、桁が違う。
(……滅茶苦茶、強い)
拳の動き一つで、私が“納得できてしまう”程、だった。だって見える見えない以前に、その挙動すら感じ取れなかったのだから。
「まあ、余り御託を言っていても退屈だろう。乗ると良い」
後部デッキ。乗り込み口の前で、先生は笑った。
その先生への印象が、十分後に180度変化するとは微塵も思っていなかった。
塩の匂いを孕んだ風を受けながら、船は進む。
私は波を割って進むクルーザーの上部。メインデッキで遠ざかっていく港を眺めていた。操縦席には水鳥先生が座りハンドルを握っている。まあ教師については……もう良いや。私の想像の遥か範疇外にいる。考えるほど馬鹿らしい、廃スペック(誤字に有らず)な存在なのだ。
何となくそんな気はしていたが、この合宿で最初にそれを学んだ私だった。
白波を立てて進む船の先端を、何とも無しに私は眺めている。空には鴎が飛んでいる。
「あー。良い天気だし、文句の付けようも無いんだけど」
でも、なんかなあ。
上手く言葉に出来ないが、絶好調という気分では無いのだ。車の中ではまだ良かった。乗り込んだ時も気にしなかった。船が発信し、合宿先へと向かう間に、なんか段々と気分が。悪い訳ではないが、こう……もんにょりするのだ。腑に落ちないと言うか。
「どうした? 酔ったか?」
「あ、いえ。そう言う訳では無いですけど」
因みに、武居さんは休んでいる。三半規管が弱いらしい。出発してまだ五分なのに船に酔っていた。朝も早かったし、無理もないだろう。寝台で休ませてある。
早苗と御名方さんは……何か、二人でいたから邪魔をしないでおいてあげた。暫くは上に上がってこないだろう。つまり、この場にいるのは私と先生だけだ。
「なら何だ」
「いえ。……そうだ先生、一つ尋ねても良いですか?」
「ん。内容にもよるが、言ってみろ」
少しさっきからの話で連想された事実が有ったのだ。丁度良いから尋ねてみよう。
「あの、少し前にです。御名方さんの家で。『ボーダー商事』所属の薬屋さんに会ったんです。先生、お知り合いだったりします? 稲葉鈴さんと、グリューネ、っていう女性の方ですけど」
「……いや。その2人は知らない」
名前を思い出していたのか。少し迷った後に、先生は問いかけに否定を返す。
「御名方さんのお父さんの事は?」
「……事情は知っているな。だが、別に御名方三司とは特別な親交が有った訳ではないぞ」
「じゃあ――――」
うん、飽く迄も気軽に。雰囲気をそのままに。
こう見えて、私だってそれなりの知恵を使う事はある。
「――――私のお母さんの事、知ってますよね?」
口に出した。
その途端に。
笑顔だった先生の顔は、消えた。
刹那。
(――――!!)
飲 ま れ た。
圧倒的な存在感の奔流が、私の身体を飲みこむ、そんな印象。言葉で言うのならば、大津波に呑み込まれる様な、押し寄せる感覚。
船の周囲に会った大海原が、一瞬にして猛威を奮い、濁流となって包み込んだような、錯覚。
海中に引きずり込まれ、海の底に永劫に沈んでいく様な。
「――――、――――っ!!」
喰われると、真剣に思った。
何か踏んではいけない地雷を踏みぬいたのだと。
それは次の瞬間には溶けて消えて無くなっている。だけど分かった。その一瞬で十分だった。間違いない。今のはきっと先生だ。先生の本性だ。
息が乱れて、視界が歪んだ。冷や汗と悪寒と鳥肌が一向に収まらない。倒れないのがやっとだった。
認識を改める。この人は、もう常識とかそういう範疇で括れる存在では無い。もっと別の何かだ。
本気で怒った早苗も、危ない御名方さんも、私は知っている。けれど桁が違う。あの二人なんかとは時限が違う。圧倒的な格差がある。才能が無い私でも、否応なしに納得してしまう差が。
「それが、本題か? 古出」
僅かだけ、言葉の中に剣呑さを滲ませて彼女は言う。私を見てはいない。だが普段の教師の顔では無い。多分、水鳥楠穫という存在としての顔つきだった。
「……そう、です」
「長い。又の機会だ」
質問を一刀する。良いな? という無言の圧力を受けて私は頷いた。頷く事しか出来なかった。
それだけを言って、取り付く島も無い。先生は前を向いた。
私は、何も言えない。
何も言えないまま、その場から逃げだす様に身を翻した。いや、様にではない。確かに私は逃げたのだ。
圧倒的な存在を前に、距離を取る事しか選べなかった。
今の波動を感じ取り、一体何事かデッキに上がって来た早苗(その手は御名方さんを引いていた)が来た時には、きっと何の変哲も無い先生が座っていただろう。
私は、二人の顔を見る事も出来ずに、すれ違っていた。
だから、二人の顔色がはっきりと険しくなっていた事に気付く余裕もなかった。
●
同時刻、一つのニュースが流れていた。
『八ヶ岳付近を歩いていた女性登山客が行方不明となり、安否が心配されています。行方が分からなくなっているのは、県内の女子大学生・佐倉帳さん(19歳)です。佐倉さんは今日の朝七時ごろ、山頂付近の山小屋を出発しましたが、午後六時を過ぎても下山の報告が無く、警察に届け出がなされました。現在も県警と地元の山岳救助隊で捜索活動が続けられており――――』
「…………先輩?」
「東風谷。……僕の言いたい事は、解るだろう?」
二人の顔が険しい、その理由。
その情報を、古出玲央が知るのは、もう数時間ほど後の話。
●
八入島――――はちいりしま。
佐渡島からほど近い小島だ。小島と言っても結構大きく、小山もあるし野生動物も住んでいる。とは言う物の、佐渡島から視認は出来ないそうだ。島自体の大きさが微々たる物であるし、山の高度も高くは無い。霧が発生する事も多いから、と先生は言っていた。
大きさは、島の周囲を歩いて一時間で一周できるくらい。半径300~400メートル位の円状の島だと思えば、大体間違ってはいないだろう。最もそれは距離だけの話で、海岸線も全部が整備されている訳ではない。歩いて一時間で一周するのは大変らしいが。
元々は無人島だったが、二ツ岩さんが購入し、自然景観を壊さぬように旅館を建てた。
その旅館『儚月亭』のある島に到着したのは、出発して三十分ほど後の事。
時間と海の状態が良かったおかげだろう。私と武居さんの気分は優れていなかったが、早苗と御名方さんと先生は平常通り。この場合、異常なのは前者か後者か。
「…………時代を感じさせる島だね」
「……うん。そうだね」
早苗も、遠い位置にいるのかなあ、と思いながら私は武居さんに同意する。
結局、あれから島に着くまで先生と、あと早苗とも会話は出来なかった。武居さんの部屋に逃げ込んだのだ。私の顔色がよほど悪かったのか。唸っていた武居さんも思わず寝台を譲り渡してくれそうになったほどだった。
早苗と先生と御名方さんが、何を話していたのかは知らない。ただ、横に成って思った。
私は、本当に――――あの中に入っていける早苗や御名方さんとは違うのだ、と。
早苗には才能が有る。その才能の中には、“あういうモノ”への耐性もある。御名方さんもそうだ。正か負かの違いはあれど、早苗も御名方さんも、大凡常識外の存在に対する耐性は遥かに高い。一族の中でも指折りに耐性が低い私と、彼らとでは、見ている世界が違う。
武居さんの部屋に入ってしまったのは、だからだろう。
自分と同じレベルの存在の近くにいようと、思ってしまった。
「レオ。どうしました?」
「あ、うん。……御免」
余りにも呆けていた為か、早苗も心配をして声を掛けて来た。
いけない。自分を戒める。
それ以上は、いけない。
例えそう思っていても、それ以上は思うべきではないのだ。私は決めたのだ。早苗の隣にいる事を。辛くっても、劣っていても、彼女の友人でありたいと。そう決めているのだ。
自分の考えを反省し、ゴミ箱に捨てて。
無理やりに気持ちを奮い立たせる。
「大丈夫。ちょっと緊張してただけ」
顔に笑みを浮かべて、面を上げる。無理をしている事は、悟られているかもしれない。それを言うべきか、早苗の顔は少し迷っているようにも見えた。
でも、私の視線が揺らがない事を見て。
「……解りました。無理はしないで下さいね」
そう、頷いて下がってくれた。
こういう所が、早苗の良い所だ。
「さて、良いか? そろそろ向かうぞ」
クルーザーから5人分の荷物を降ろし終えた先生は。
「あ、……はい」
クルーザーを港に固定して、皆に向かって言う。
先程の危険さは、何処かに消えていた。
島の港は、船三隻を繋留するのがやっとの、小さな港だった。
大きな丸を書いて、その何処からか適当に海に向かって真っすぐ線を引けば、それで上空からの形になる。棒線が港。今は、乗って来たクルーザーと、島の物らしい中くらいの漁船が停泊している。
反対側(円の中心側)が旅館だ。港から旅館までは、建物こそ無いが石畳で綺麗に舗装されているようだった。そちらに歩き始めながら、私は思う。
――――とても、静かな島だ。
響く音は足跡だけ。
観光客の姿も無ければ、土産屋も無い。
クルーザーのエンジン音が消えた今、都会の喧騒は殆ど聞こえない。諏訪も静かな方だが、この島は段違いだ。鳥の音から虫の羽音、更に言えば木々のざわめきまではっきりと耳に届いてくる。痛いほどの静けさと、生命の鼓動が同居している音だ。
ざわり、と風が吹き、山が鳴った。それこそ天狗でも済んでいそうな雰囲気だ。そう深い訳でもないのに、何故か心を騒がせる。
……静かだからこそ、落ち着かない。
そんな言葉が、良く分かる。
水鳥先生も早苗も御名方さんも、誰も空気を気にしていない。
まるで“気にする自分がおかしいのだ”と、そう暗黙の内に言われているようだった。
得も言われぬ不安を押し殺し、私は石畳を歩く。
その静けさは、まるで。
まるで、嵐の前の静寂だった。
島の名前は八入島。
旅館の名前は『儚月亭』。
そして、まだ見ぬ招待客は――――彼ら5名を含めて13人。
何も起きない筈は、無かったのだ。
すいません。リアルが忙しくって遅れました。今後も不定期になりそうですが、どの作品も完結させる意欲はあります。長い目で見て頂けると嬉しいです。
この話から起承転結の「承」の終わりに入ります。四音と早苗の行く先に、一つの決着が見えます。
ではまた次回。
(11月2日・投稿)