「……っ。間に合うか……?」
学園祭二日目。土曜日。
私は走っていた。学校裏門へと向かう道だ。学校の敷地内を中をぐるっと通り抜けるこの道は、校舎を半周して、昇降口の裏側から細い路地に通じている。
前を走るのは、一人の男。黒髪に温厚そうな顔の、普通の大学生。だが……きっとその表情は、必死に歪んでいるのでは無いだろうか。
私はこれでも運動能力の高さには自負が有る。中学校時代、中学総体(インターミドル)まで到達した足腰の強さは伊達じゃないのだ。その足を持ってすれば、並みの大学生ならば十分に追いつける。
だがそんな私でも、スタートダッシュの差によっては苦しい場面もある。着ている巫女服と草履のせいでスピードも出せない。空を飛べれば良いかもしれないが、そんな事が出来る巫女がいる筈もない。……居ない筈だ。多分。
じりじりと差こそ縮まっているが、追い付くまでにはもう少し時間が懸かる。
「不味い……!」
校舎の裏には駐輪場がある。学園祭中の今、一般に開放されている其処には、鍵の掛かっていない自転車も一台くらいは絶対に有る。それに乗られれば終わりだ。
学園祭で不埒な真似をした男。絶対に見逃せるものか。
話は、三時間ほど遡る。
異人ミナカタと風祝 第十話 文月(親月)
「スリ、ですか?」
「スリでも置き引きでも泥棒でも何でも良いが……そうだ。迷惑な事に」
挨拶代りに生徒会に顔を出した私を待っていたのは、水鳥先生のそんな言葉だった。
御名方さんから学園祭の間は、基本「好きにして良い」との許可を貰っている。クラスに顔を出して自分の仕事をして、学生らしく楽しんで来い。仕事は全部自分がやるから。まあ実際はこんな優しい言葉では無かったが、好意的に解釈とすればそうなる。そして実際、私達が手伝うまでもなかった。
件の生徒会長は、仕事はしつつも、我関せずと言う顔で部屋の片隅で本を読んでいる。何と読むのかも怪しい、古びた洋書だ。学園祭だというのに全く外に出ないつもりなのか。ねじ曲がっているにも程が有るだろう。
仕事はしっかりしているから文句を言われる筋合いはない――それはその通りだが、それにしても。それで全てが許される訳じゃないと思うぞ。今更だが。
「まあ、四音の事は良いんだ。彼だって分かっているさ。……話を戻す」
そんな彼に付き合っているのか、先生の前の机にも、同じく何冊かの本が置かれていた。
軽く笑った水鳥先生は、私に事情を伝えた。
「姑息な奴だよ。人混みが多い中を狙って、警戒心の薄い学生や一般客の金を掠め取る。……実は一日目の昨日だけで、四件も被害報告が有った。今日も出没するかもしれない」
学園祭の最中は、当然ながら学校は開放されている。地域の人たちや生徒の家族も大勢やって来る。だから全く見知らぬ人が紛れ込んでいても、気が付かれる事はまず無い。
当然ながら、善良な観客だけでなく、心無い人も入り込むと言う事だ。
「はあ。……そうなんですか?」
「多分な。被害にあった方達には事情を伺ったが――――手順が素人臭い。そもそもこんな田舎の学園祭にプロは来ない。来るにしても、気が付かれるヘマはしない。だから素人だ。……大方、遊ぶ金が欲しくて“ついうっかり”やったら成功してしまったのだろうな。それで味を占めた」
うん、其れは分かる。中学校時代の私は、そう言う人間を見て来た。見て来たというか、自分から首を突っ込んだと言うか。そんな感じで。
味を占めた以上、きっと今日も同じ事をするだろう。軽い気持ちで犯罪を引き起こした人間は、えてして自分が捕まる事を予想しない。きっと大丈夫だ。なんとかなるという認識で自分を誤魔化している。
水鳥先生の意見と私の意見は、一致していた。
「じゃあ、捕まえろ、と言う事ですか?」
「いや。無理だろう。普通に考えて。……ただ怪しい人間が居ないか、それだけ確認しておいて欲しい。素人が行為に及ぶのならば、その挙動は必ず怪しくなる。教師もある程度は見回るが、限界が有る。やっぱり不自然無く学校を見て回れるのは学生だ」
無理じゃなかったりする。私を怪我させられる技量を持った人物は、大人でも中々いない。格闘、もとい近接戦闘術に限定して言えば、私は早苗よりも遥かに上なのだ。
先生の事だから、其れ位は見抜けていると思う。教師として促せないだけで。
ともあれ、そんな会話の後、私は学校内に目を光らせる事にした。
「分かりました。記憶に留めておきます」
「ああ。それで良いよ。……宜しく」
話は以上だ、と示すかの如く、にっこりと笑った。
私だって、御名方さんを嫌っていようとも学校の一員。学園祭に余計な真似をする不埒や奴を放っておくほど、甘ちゃんじゃない。だから素直に頷いて、生徒会室を出た。
水鳥先生も御名方さんも、公私混同はしない。公私の“私”からして既に見えないのだが、それは置いておこう。この二人は、数字や外見で表せる部分ならば一切の非が付けようもなく、また公の場での行動は論理的・倫理的には文句を付けようがない。だから良いというものでもないけど。
出る寸前、こんな会話が聞こえてきた。
『……先生。最近、妙に僕を甘やかしていませんか?』
『そうか? ……嫌だったら言え』
『…………』
『嫌じゃない、だろう? お前だって少しくらい、人の温もりに触れても良いだろうさ』
この所思う。最近、ますますあの二人の関係が見えなくなって来た。
私生活でも交流がある。今も生徒会室で二人きりだし、どう考えても『ただ教師として生徒を気にしている』の範疇を超えている。淫行疑惑がもたれて噂されるのも無理はない。確かに二人とも美人だし。
最も、あの御名方四音が――果たして愛情という感覚を、何処まで知っているのか。そもそも水鳥先生にどんな感情を向けているのか、さっぱり不明なのだが。
「……あ、もしや今の考えは、御名方さんを負かす何か良いヒントになる?」
ふっと閃いた。携帯で時間を確認し、昇降口に向かいながら考える。中々良い着眼点かもしれない。
御名方さんが興味を持っている人間は零ではない。早苗には殺意を向けている。気持ち悪いが笑う事はあるし、厄介事は面倒だとも言っている。他者には読み難いが、確かに感情が有るのだ。
そして、感情が有ると言う事は――心の動きによって、彼を分析する事も出来る。何が好きで、何が嫌いで。そして何が一番、心の多くを占めるのか。それが分かれば、きっと心を動かせるのではと思う。
「ま、口で言うのは、簡単だけどね……」
言うは易く行うは難し。人の心ほど訳の分からない物は無い。まだ若い自分だが、其れ位は知っている。それの格好の勉強対象が親だった。あまり良い話でもないから言わないでおくが。
そして多分、あの先輩に勝つには、私より早苗の方が向いている。力押しよりも搦め手でなければ無理だ。その搦め手を、早苗は持っている。胆力と腹黒さで、早苗以上の人間は……そうはいない。
早苗自身も、御名方さんに向けて何か想う事があるらしいし。
「氷の男の心を溶かしたのは、優しい少女の愛情でした……なんて、まさかね」
双方、そんな単純な言葉で言える人間ではないし、そんな単純な話ではない。そもそも、あの御名方四音の向ける想いは、愛情とは真逆なのだから。
そんな事を考えつつ、私は教室に戻ったのである。
●
さて、事件が発生したのは昼前の事だった。
学校の文化祭だ。OBOGも参加している。地域の住民もいらしている。保護者の方や、中学生も来ているだろう。そんな中で怪しい人間を見つけるのは酷かもしれない。
だから多分、私が犯行現場を発見できたのは偶然だった。
「橙。お財布は持っているかな?」
「はい。持ってます! 藍しゃまが古いを繕ってくれました!」
「そうか。よし。じゃあお小遣いを上げよう」
「ホントですか! 縁さま!」
学校三階の渡り廊下から、階下。中庭と昇降口を観察している時に、聞こえた会話だ。気に成って視線を向けると、一階に親子連れがいた。
何処かで見たような親子だ。
何処かで見た気はするのだが――――何処で見たのか、覚えていない。温和そうな男性と、可愛い少女の二人組。はて、一体何処で目撃したのだったか。
少し考えていた私だが――珍しい事に思い出せなかった。対人関係において私が人の顔を覚えていない事は少ないのだが。
「大事に使いなさい」
「はい!」
そう言って、男性は少女に二枚のお札を渡す。少女は、小さな財布に大事そうに二枚を仕舞い、スカートのポケットに突っ込んだ。
……なんとなく、私は気になった。理由はない。勘だ。色々と昔から役立っていた第六感が、あの親子から目を離さない方が良いと告げていた。犯罪者には見えないが、もっと別の。こう……何だ。私に関わる重要事項が有るのではないか。そう邪推してしまう感覚がした。
「それじゃあ、何処に行こうか。橙。何か見たい場所はある?」
「全部です!」
「分かった。じゃあ、全部見て行こう」
可愛い少女の発言に、父親は破顔させて頷く。何処が怪しいのか、自分でも良く分からないが――なんか気になるのだ。前に会ったかどうかは不明だが、果たしてその時は、こんな風に思ったのだろうか?
私を取り巻く環境が、そう変化しているとも思えないのだが。
「……ま、良いや」
今は、この感覚を信じてみよう。
そう思った私は、二人を観察しながら、学校を見て回る事に決めて――――。
そして、少女のポケットから、さり気なく財布を擦り取った男を目撃したのである。
回想終了。
さて、かくして私はその男を逃がさないように追いかけている。いたいけな少女から金を掠め取るとは、見逃せる所行ではない。中学校時代の私だったらその場でノシテいた所だ。
最初は逃げないように見張っているだけだったのだが、向こうが私の視線に気が付いたのだ。一連の犯行を見られていた、と認識すると素早く逃げだした。……昔はもう少し、尾行も得意だったのだが。中学校時代から鈍ったのだろうか。不覚である。
既に携帯で先生に連絡は取っている。後は逃げる相手を捕まえさえすれば、晴れて騒動はお終いだ。
しかし――――。
「逃げ足は、速い……!」
理想的な陸上スタイルで追いかける私の前で、男は徐々に速度を落としていたが――差はまだある。
悪い事をした人間の逃げ足は速い。そりゃあまあ、捕まったら大事だから、必死になるのは当然だ。私としては、擦り取った財布さえ返して貰えれば見逃してやるのだが。しかし相手にしてみれば、追いかけてくるなど楽しい話でもないだろう。
草履履きの巫女を振り切れない、というのもかなり辛い物があるかもしれないし。
目前を走る男は、駐輪場に辿り着く。息が上がっているようだが、乗る気力はあるのか。鍵の掛かっていない自転車に跨ると、私を振り返って漕ぎ始める。予想通り。祭りということで不用心な者がいた。
「……!」
臍を噛んだ私だが、見えるのは背を向けて漕ぎだした男の背中だ。
学校裏手から続く細い道は、車こそ通らないが人通りは多い。通学路でもあり周辺の皆さんの大事な公共道路だ。今も、学園祭に来るつもりの集団が、道路の真ん中を歩いていた。自転車は徐々に速度を上げ、直線で私を引き離そうとしている。
「待ちなさい! 危ないわよ!」
それは、私の心からの忠告だ。
通路は一本道。地理に詳しい物ならば隠れる場所や逃げる場所、大通りに面している道も知っている。スリの大学生は、きっと逃げることを確信出来ていただろう。警察の厄介になる事までは頭が回っているのか、いないのか。現状、私から逃げる事だけに意識が向いている。
だが、私は知っていた。否、たった今、知ったと言うべきか。
そんな事をしても、あの男は絶対に逃げられない、と言う事を。
「まずい……!」
本当にまずい。主に男の身の安全的な意味で。
通路に差し掛かった自転車は、丁度、祭りに向かっていた二人組と擦れ違う。彼女達の目からすれば、自分達に向かって高速で進んで来る自転車と、その背後から追う私の姿が見えた筈だ。男は、彼女達の身の安全など、欠片も考えていない。スリをしている時点でマナーを求めるのは間違っていると思うが。
私の忠告を、自転車に乗ったままの男が聞く筈もなく。
そして。
男は回った。
自転車ごと。
くるり、とその場で綺麗に一回転をした。
丁度、擦れ違った女性で、まるで何か大きな力に振り回されたかのようだった。
綺麗に投げられた自転車は、宙を舞い、漕いでいた男は地面に投げ出された。ぐえ、という蛙が潰れたような声で地面に転がる。数秒後。ガッシャン! という派手な音と共に自転車がアスファルトに。
「――――!」
やった、と思った。
だから言ったのだ。まずい、と。危ない、と。遠目で見ていた私には理解できていた。何よりも危なかったのは、この男だったのだ。きっと彼は自分に身に何が有ったのか理解も出来なかったに違いない。
速度を殺さずに慌てて私が駆け寄ると、完全に男は伸びていた。目を回している。幸い、普通に息はしているから、流石に加減はしたのだろう。
衝撃で微妙にフレームが曲がった自転車を尻目に、私は傍らに佇んでいた女性を見た。
その、とても見覚えのある二人組。
「やあ。……元気、レオ?」
「お姉ちゃん!」
紗江ちゃんを連れた――――絵手紙姉さんだった。
●
清澄高校の職員室は科目ごとに分かれている。国語や数学のように担当教師が多い科目には大部屋が。逆に音楽や美術の様な、教師の数が少ない科目には小さな部屋が与えられている。そんな中で、地理は社会科と一緒の扱いだ。
水鳥楠穫の机も、社会科学研究室に置かれていた。
学園最中とはいえ、職員室に人がいる事は当然だが――ただ、クラスや部活、出店の面倒をみる意味もあり、中には休暇を取っている者もいる。教師の全員が平時のように揃っている訳ではない。
今は幸いな事に、部屋の中にいるのは、水鳥楠穫を含めて三人のみ。
……いや、本当に三“人”と表現して良いかは、かなり怪しい状況だったのだが。
「……財布を取られたのは、敢えてか?」
「まさか。偶然ですよ……。まあ、少々幸運や偶然を誘発させはしましたけれども」
楠穫は、どうぞ、と楠穫は目の前の胡散臭い微笑みに、お茶を出す。
財布を取られた張本人である猫小娘には、冷蔵庫で冷しておいたオレンジジュースを注いであげた。
「……ああ。因幡の白兎。彼女か」
「ええ。あとは、鍵山雛と、紫円にも少し力を借りました」
悪びれず、真意を見せずに微笑む親と、静かに良い子にしている娘がいる。古出玲央が、なんとなくの勘で追っていた親子だ。彼女は、数ヶ月前の『御頭祭』で、彼らを目撃していた事に気付いただろうか。
二人を見ながら、楠穫は内心で息を吐く。幸運。厄。そして人と人とを結ぶ縁。この三つを使えば、そりゃあ確かに偶然と言う名目で事件の被害者に成る事は簡単に決まっているのだ。
青年が八雲縁。少女が橙。
彼らの事は、水鳥楠穫も良く知っている。
人間に擬態こそしているが、その正体は――――妖怪である事も。
「何故ここに」
「んー。裏工作も兼ねて、この目で確認したかった事が有りまして」
「……御名方四音、か?」
「東風谷早苗もですね」
……東風谷早苗。目下の所、楠穫が目を付けている巫女だ。良くも悪くも御名方四音に影響を与える。生徒や個人として見れば凄く良い娘だ。だが、彼女は家に縛られている面が有る。
楠穫は、彼女と敵対する気は無いが、『洩矢』と敵対する可能性が有る立場だ。そうなったら、あの娘とも戦う可能性が有った。生徒と相対する。それは教師として勘弁したい。
「……正直《幻想郷》に行っても良いと思うのだがな。彼女は」
東風谷早苗は、この世界で生きて行くには不相応な才能の持ち主だ。見れば分かる。あの娘は優秀だ。
少なくとも、幻想が消えつつあるこの世界では。
八雲家が『洩矢』と昔から交流が有る事は承知していた。最も、その交流も定期的な――それこそ、つい数十年前までは、十年百年の単位での会合だった。楠穫も相当の永い時を生きているし、この地に長く留まっている。だが、こうして直接に顔を合わせて会話をするのも、久しぶりではないだろうか。
……まあ、楠穫自身。この地に足跡を刻んで居るから消えていないだけで、普通に《幻想入り》の立場だ。偉いことは言えないのだが。
「その辺は、八坂の軍神の采配ですから」
「ああ。……大変らしいな。聞いている」
「…………まあ、良いでしょう」
伝聞形式で答えた楠穫に、一瞬、八雲縁は疑わしげな眼を向けたが、それ以上の言及はしなかった。
互いにポーカーフェイスはお手の物だ。会話の推移を伺う猫娘だけが、所在なさげに座っている。隠された耳と尻尾が下がり、困惑した顔で二人を見つめていた。
「ところで、鹿久の娘はどこに?」
「ああ、蒼なら――――ちょっと色々と。『ボーダー商事』の方で動いて貰っています。先日は、一時では有るが貴方と会合が出来たようで。彼女も喜んでいました」
彼が言うのは、数日前の一件。学園祭準備期間の話だ。
楠穫が出遭った、八雲紫の乗ったリムジンを運転していたのが、八雲の神鹿・蒼だった。
「……忙しいのか。やはり」
「まあ、手間が懸かる事は事実です。必要だから決して手を抜きませんが」
『ボーダー商事』。
「豊かな暮らしはスキマから」をキャッチコピーに、展開する海外資本を持つ大企業。年収は数兆円にも上り、各分野で大きな功績を上げているとか何とか。八雲家は、創業者一族という扱いだったか。
何百年か前。今後必ず《幻想郷》の維持の為に表が必要となる事を見越した『八雲』が、ヨーロッパから新大陸、更に暗黒大陸までに予め根を張る布石を打っておいたと聞いた時は楠穫も感心した物だ。
「……そう言えば、先日。八意様の所の医者が、古出玲央と接触したらしいな」
毎回、各月の事ではあるが、八意永琳からの薬。アレのお陰で、四音は辛うじてまだ人間を保っている。何でも『蓬莱の薬』を利用した物だそうだ。
「優曇華ちゃんとグリューネ嬢。二人が彼女と会ったのは偶然です。そもそも遭遇しても此方にメリットが有りません。伏線にはなるかもしれませんがね」
ふふふ、と浮かぶ怪しげな笑顔は、実に隙間妖怪を彷彿とさせる。
年月を経るごとに、ますます似通ってきていないか、この夫婦。
「それに、別に問題はありませんよ。御名方三司が『ボーダー商事』の社員だった事は事実ですし」
「……まあな」
『ボーダー商事』の社員の大半は普通の人間だが、中には人妖や特異な存在も混ざっている。
御名方三司は、種族的には普通の人間だったが、少なくとも隠れている事象が有る事は知っていた。知っていて黙っていたのだ。彼の妻も、息子も、その類だと知っていたから、家族の為に口を噤んでいた。
そうして黙ったまま、入り婿としても宿命に引き摺られ、最後には事故で死んでしまった。死など山ほど、それこそ山程の死体を見た事もあるし、屍の山も見たが、彼の死に関しては楠穫も少々同情的だ。
「……それで、八雲縁。お前は何で、わざわざ学園祭に来た」
「いえ。橙への家族サービスと、暇潰しと、貴方との会合と、序に手紙の配達です。紫が今、何処で、何をしているかは、全く聞いていませんから。解りはしますがね」
「…………」
その返答に、水鳥楠穫は何も言わなかった。
八雲縁の異能。その力の恐ろしさは、彼女も身を持って体験した事が有ったからだ。
実力は水鳥の方が上だが――――彼が身に宿す才覚。深謀遠慮と言う言葉でも尚、軽い。圧倒的なまでの悪略は、心の底から恐ろしいと思っている。
まして、妖怪最強の八雲紫と組んだ日には、何がどうなるかも見通せない。
「……手紙か」
「ええ。どうぞお好きなように、お使い下さい」
そう言って彼は、はい、と懐から一枚の便箋を取り出した。厚さから見ても、恐らく中身は数枚。
何が書いてあるのかは不明だが、きっと又、良からぬ事に違いない。いや、楠穫やその周囲の人物に悪影響を齎すかどうかは兎も角、八雲家に借りを作ってしまうような、そんな内容なのだろう。
「さて、私達もそろそろお暇の時間です。……丁度、古出と八島の娘が、財布を取り返してくれました」
景色が見えているかのように語り、彼は隣に座っていた猫又に、立ちなさいと促した。
その光景だけを見れば、躾けに厳しい父親と可愛い娘だ。だが、そんな甘い存在ではない。
楠穫は、黙ったまま見送る事にした。
「財布は、貴方の式にでも届けさせて下さい」
「良いのか。東風谷に会って行かなくて」
「遭いたくないから、今、逃げます」
「……分かった」
楠穫の目の前で、空間が裂けた。グパア、と擬音が付きそうな感じで、真っ黒な歪みが姿を見せる。その奥には、無数の目玉と腕が蠢き、標的を捕まえ、引きずり込もうとするように動いていた。何回見ても気色が悪い。
八雲が開いたその隙間に、特に気にする事も無く青年は少女と共に入り込んだ。
「……『洩矢』は二つに分かれています。八坂と洩矢とに。そして、その原因は遥か過去にある。この地に軍神が追われ、逃げ込んできた神話の時代からね。――――水鳥女史、……応援していますよ」
「余計な御世話だ。……じゃあな」
軽く手を振って、さっさと立ち去れと部屋から追い出す。
八雲縁は、伴侶と同じ胡散臭い笑みを浮かべて、スキマに消えて行った。
後に残った楠穫は、大きく溜め息を吐くと、どかりと椅子に座り、加えていた煙草に火を付けて、一言。
「……私が一番、知っているさ。そんな事は。……ずっと見て来たんだ」
一気に煙草を吸いつくすと、吸い殻を灰皿に押しつけて小さく呟いた。
座ったまま窓から、何かを考えるように空を見上げる。空には春からの鳶が飛んでいた。
古出玲央が、親戚達と共に探しに来るまで、彼女は微動だにしなかった。
●
八島絵手紙。
『洩矢五官』の『権祝』八島家に生を受けたお姉さん。
綺麗に手入れされた黒髪を伸ばし、眼鏡をかけた姿は、真面目で理知的な文学少女の雰囲気が有る。まあ実際は文学より数学が好みだったらしいし、専攻は政治経済に経営や神学。節操がないラインナップであって、その中に文学は殆ど無いそうだ。
「元気そうだね」
口調は簡潔。声も、棒と言う感じ。ともすればキツイ感じを受けるかもしれないが、背筋が伸びた佇まいと、物静かな美貌は多くの男を虜にしそう。全体的な雰囲気はどこか気だるげだ。
煩わしそうな態度を隠さないが、その割に周囲での厄介事は多い。そして、そのか弱そうな外見から、色々と面倒事に巻き込まれることも多いのだが……まあ、大抵の男は簡単に追い払えるほどに、絵手紙さんは強い。今、スリを簡単に投げた手腕からも分かるだろう。地面に転がった男は、私が近寄るよりも早く、華麗な当て身を加えられていた。
「……はい。絵手紙さんも、お元気そうで」
「うん。元気だよ? 元気元気。元気すぎて暇」
絵手紙さんは、要領良く何でも出来るタイプの人間だ。早苗に似ていると言うのだろうか。暇になると自分が必要以上なまでに怠けてしまう事を知っている。だから、大学の授業等も不必要にギッチギチに詰め込み、何かに追われるように過ごしている。変な人だ。私が言えた義理ではないけれども。
今日も『学園祭があるから』という理由で東京から新幹線で諏訪まで戻って来たのだ。時間を捻出するのは彼女に取っては全く難しくない。羨ましい限りである。
「お姉ちゃん! 私もいるよ!」
「うん。よく来たね、紗江ちゃん」
GWぶりになるか。紗江ちゃんも一緒だった。学園祭と言う事で絵手紙さんが同行させたのだろう。同じ年齢の親戚はいない私達だが――――同世代。次世代、と言う意味では、大学生の姉さん達や紗江ちゃんとは、関係が強い。十歳以上も歳が離れているが、中は良いのだ。基本的に。
よしよし、と頭を撫でていると絵手紙さんが聞いてくる。
「取りあえず、気絶させてしまったけど。……何、これ?」
これ、とは人に使う単語では無かったと思うが、言わずに答えた。
「ええ。学園祭中に出没した窃盗犯です。捕まえる気は無かったんですが、つい」
座って懐を物色すると、盗られたと思しき財布が……三つ。内に一つは、あの女の子の物だった。やれやれ、間違いないらしい。直に、教師たちもやって来るだろう。
「……ふーん」
絵手紙さんは、ぐりぐり、と土足で倒れたままの男を踏みつけた。彼女はストレートにSである。過去何回に渡り、私と早苗がのされたか。数えるのも面倒なほどだ。優しい部分もあるから慕われているが。
何を隠そう、彼女は――――この私、古出玲央の格闘の師匠であったりする。
今の私も相当に、実力があると自負しているが、それでも勝てると思えないくらい強い。そんな人だ。
『洩矢五官』には、大体の役割分担が有ると前に語ったと思う。『権祝』八島家の仕事は“力”だ。政治的・あるいは武力的な力を有し、敵を排除する役を担っていた。比叡山の僧兵みたいなものである。
最も、その実力を大っぴらに出す事が無いのは『東風谷』家と同じだ。
絵手紙さんは、無表情に足で嬲った後、私を見て口を開く。
「もう一つ。何で玲央は緋袴の巫女装束?」
「……クラスの宣伝も兼ねていまして」
元々、仕事でもないのに巫女姿は嫌だったのだ。だが、クラスの勢いには勝てなかった。学園祭前は時間限定。早苗と一緒に数時間だけ、という条件だった筈の、妥協のライン。それが徐々に緩くなり、今日は朝から帰るまでずっと巫女装束である。目立つし、写真は撮られるし、ではっきり言えば鬱陶しい。
そんな不満を知ってか知らずか。
「そう。……似合ってるね」
それだけを言った。
「あの、お姉ちゃん。時間があるなら、一緒に学園祭回りませんか?」
紗江ちゃんが、空気を読んで言う。この子本当に良い娘だ。おずおずと自分を伺うその瞳に、嫌と告げる事は私には出来なかった。まあ、教室の仕事は終わらせている。早苗に連絡だけ入れておけば、大学生高校生小学生、三人で歩くのも悪くないだろう。
背後から、教師達が此方に駆け寄って来る足音を聞きながら、私は頷いたのである。
その同時刻。
「先輩。明日、一日だけで結構です。……学園祭、一緒に回ってくれませんか?」
「…………何のために?」
「私が、先輩と、デートをしたいからです」
「…………」
水鳥先生がいない生徒会室で、早苗と御名方さんの関係が大きく変化する事件が進行していた事を、私が知るのは、翌日の事だった。
と言う訳で、学園祭はまだ続きます。前後編の前編と言った感じでしょうか。
これで『洩矢五官』も五人出てきました。重要キャラが揃いつつある感じです。基本、誰一人として話に不必要なオリキャラはいません。『境界恋物語』での反省です)。
八雲縁が動いていたりもしますが、基本的にこれが彼の精一杯の干渉です。シャリシャリ出ては来ません。彼は飽く迄も裏舞台の一員。勿論、水鳥先生の正体もまだ秘密です。
次回は――――読者の皆様がパルパルするような話の予定。
序に、ゆかりんと八坂のターン、の筈。
なるべく早くにお届けしたいです。
(8月22日・投稿)