「優曇華。……少し外に行って来て頂戴。大丈夫。八雲が手を回しているし、グリューネが大体は把握しているわ」
「はあ。あの師匠。何故ですか?」
「……そうね。遥か昔。遥か過去。まだてゐが敵であった時代の――その過ちを、償うだけよ」
「過ち、ですか」
「そう。私の非道の犠牲者がいるわ。……行ってくれる?」
「……分かりました」
凪いだ瞳は、過去を懐かしんでいるかのよう。永遠に囚われた彼女でも、そんな眼をするのだろうか。
鈴仙・優曇華院・イナバが外界行きに頷いたのは、きっとその時の空気が、余りにも師匠に似つかわしく無かったからだ。
異人ミナカタと風祝 第七話 水無月(建未月)
人間関係とは不思議な物だ。普通はありえない接触が実現したり、偶然の末に個人と個人が巡り合ったり。運命を操れる者がいたとしても、決して侵略出来ない不可侵性を、人の縁は有していると思う。
そりゃあ、御名方四音の事は殆ど知らない。
だが、見ず知らずの女性が彼の家に、平然といるというのは――――少し、いや、かなり驚きだった。
「あの、私は御名方さんの家に、医者がいると聞いていましたけど」
「ええ。医師免許は持っていますよ。……四音さんを見ているのは、私の上司です」
立ち話も何なので、取りあえず中にどうぞ。
そう促された私は、以前案内された和室に通された。相変わらず建物の中には、籠ったような空気が充満しているが――――この部屋だけは空気が違う。何か特別な理由でもあるのだろうか。
す、と静かに正座した女性と、ちゃぶ台を挟んで向かい合う。一般人ではない、隙のない振る舞いを警戒しながら目線を合わせる。私の心を知ってか知らずか、女性は静かに微笑んで懐から名刺を取り出した。
「私は、こういう立場にいます」
稲葉鈴。
総合商社『ボーダー商事』医療部門の補佐官。
差し出された名刺には、そう書かれていた。
「……『ボーダー商事』」
有名な会社だ。CMこそ流れていないが、必ず誰もが一度は耳にした事のある外資系企業である。
江戸以前よりも昔に大陸に渡った日本人が財産を築き、それを元手に発足した今でいう総合商社。明治期、現在の七大商社の元となる財閥達が生まれた頃に、アメリカや欧州で業績を伸ばして成長したそうだ。
豊かな暮らしは隙間から、のキャッチコピーが、日本では有名である。
「……」
嫌な感じは消えていないが、取りあえずこの人(人だろう。多分)の身分は、そう言う立場らしい。
しかし、そんな名立たる企業の人が、何故この家に。
「御名方三司さんは、ご存知ですよね?」
当然、知っていますよね? というその態度に、少しばかり違和感を覚える。
だが考える余裕もなく、私は頷いた。
「……ええ」
「三司さんは、『ボーダー商事』の社員でした。最も、私は直接にお会いした事はありませんが」
「――――そうなん、ですか?」
「あれ、聞き覚えが有りませんか?」
無い、……いや、ある。あると言えばあると言えなくもない。
一か月前。GWの際にこの家を訪れた時、御名方さんが、父親が貿易系の仕事をしていたとか言っていたか。時計や人形、オルゴールといった家を彩るアンティークも、家の各地に置かれている物は、その土産や譲り受けた物と語っていたか。
「残念ながら、彼は十年以上も昔に退社をしています。しかし当時の知り合いで、腕の良い医者がいました。十年経過した今も――――定期的に、その医者が家を訪れているという訳です」
私はその手伝いで、補佐役で、序に言えばお目付け役です。
稲葉さんはそう静かに口元に笑みを浮かべて、私と目を合わせた。
すう、とそれだけで、意識が切り替わった感覚がする。……不思議な人だ。怪しい事は怪しいが、敵意は感じない。最初に会った時は、色々と危ない感じがしたが――――私の気のせいだったのかもしれない。いや、そもそも危ないという認識も、何処まで正しいか。
そう言えば、どうして私は早苗と彼女達が接触する事が不味いと、そう思ったのだろう?
最初に玄関で遭遇して以来、自分の中の意識が、少しずつ安定して来ている。
「玲央さん、でしたか? 貴方は御名方さんと近しいと思っても」
「へ? ……いえいえ。まさか!」
慌てて私は否定する。
「むしろ仲は悪いんですよ。今日は、学校での用事が有って、仕方がなく来ただけです」
「そうですか。……良く似ていると思いましたが」
水鳥先生みたいな事を言う。まあ、縁戚である事は間違いないから、似ていると思うのも無理はない。やっぱり全く事情を知らなくとも分かる人間には分かるのだろうか。
そんなこんなで、和気藹々と私と稲葉さんは過ごしていた。
時計の針は進んでいなかったが、密度は濃かったし、意外と長かったとも思う。御名方四音の家に来ている人間だから、どんな変な人かと色眼鏡で見ていた部分が有ったが、神妙に反省しよう。
診察を終わるまで、色々なエピソードを聞かせて貰った。
飼っている兎が悪戯ばかりして困るとか、昨年の春は花が異常開花して困ったとか、お陰で鈴蘭の有効利用に結びついたとか、師匠の人使いが荒いとか。
大企業だからさぞかし堅苦しいと思ったら、意外と楽しい生活をしているようだった。
にこやかに談笑していると、かたり、と襖が開く。
「あら、……こんにちは」
顔を覗かせたのは、西洋風の女性。柔らかそうな金髪に、碧の目をした美女である。年齢は……少し読めない。だが、白衣に身を包んだ雰囲気は、熟練の医者だ。
彼女は私に挨拶をして、稲葉さんを見た。
「診察は終わりました。……帰りましょう、“因幡”」
「あ、はい。グリューネさん」
イナバ、の発音が微妙に違う気もしたが、私の気のせいだろう。金髪の美女さん(グリューネさんと言うらしい)は日本人には見えない。多少、イントネーションが違っていても無理もないか。
立ち上がった稲葉さんに合わせて、私も立ち上がる。
そして、グリューネさんの背後の、細長い体を視界に入れた。
「…………」
正面から視線を交錯させたからか、私の体は思わず止まる。
御名方四音は、ふん、と常の如く表情を変えずに私を一瞥すると、そのまま体の向きを変えた。
「それじゃあ、私達は帰りますね、玲央さん」
「え、あ、はい」
静かに微笑んだ稲葉さんは、私の目を見て小さく手を振ると部屋から出て行った。
間抜けな事に、私は止まっていた。玄関まで見送るのも違う気がするし、かと言って呆けているのも間違っている気がする。呆けた、という表現が一番しっくりくる。何故かは自分でもよく分からないが――――その一瞬、私の動きは止まった。思考が乱されたというか。
我に返った私は襖を開けて、遠ざかる二人の背中を見送る。彼女達は辛気臭い建物を平然と通り抜けていった。意外と肝っ玉が太い私でも気押される空気を無視できる辺り……彼女達も、早苗と同じ位は普通ではないのかもしれない。
足音、靴音、挨拶、扉の音と続き、稲葉さん達が玄関から出て行く。
うん、大人な感じの人だ。育つならばあんな感じになりたい。知的でクール……な部分は真似出来そうにないが、落ち着いた雰囲気は頑張れば、なんとか。
未来に思いを馳せていると、家主が戻って来る。なんとなく足取りがしっかりしているのは、医者に診察して貰った影響か。
「……それで、能天気そうな顔の古出玲央。お前は何をしに来た」
こいつ、人の神経を攻撃するのが嫌になる位上手いな。
普段よりも多少乱暴に、足を投げ出すように座った御名方四音は、濁ったままの目で私を見る。何時も以上に不機嫌だ。……そうだ、こいつは来た人間を歓迎する様な殊勝な性格じゃなかった。
さっきまでの、自分にしては珍しい位の平穏はどこへ行った。
「これ、お願いします」
どさ、と鞄の中から数枚の書類を出して、卓袱台の上に置く。行動が少し乱暴に成ってしまったとして、誰が責められよう。……いや、良くない。巫女として反省しなければ。
中身は、つい数時間前に渡された須賀先輩からの物だ。
「御名方さん一人なら、別に解決に支障はないのでしょうが。付き合わされる私や早苗の身にもなって下さい。取りあえず、臨時でこれだけお願いしに来ました。……五分で終わると思います」
「……確かに」
机の上の幾枚かを手に取った生徒会長は、ぎょろりと黙読で内容を読みこむと、学生服の胸元から黒ペンを取り出して紙に走らせた。
医者に診て貰っていたはずで、此処は自宅の室内。なのに上下共に長袖の学生服とは。客人が私であっても変過ぎる。脱げない理由でも持っているに違いない。
アルビノの如く病的に白い指が、静かに動く様子を観察していると。
「ところで、古出玲央。……目は如何した」
「眼?」
唐突に、彼は言う。
言葉に表情はない。心配のしの字も見えず、ただ変だと彼にとっての事実を伝えているだけ。
「私の眼が、何か?」
「赤いぞ。何かあったか?」
――――え?
慌てて、私は手鏡を取り出して自分の顔を見る。
両目が、まるで狂気に見入られたかのような色をしていた。
●
その翌日。珍しい事に、私達が生徒会室に入ったのは朝のホームルームも程近い時間だった。
別に寝坊をした訳ではない。仕事をこなしていたらこの時間になってしまっただけである。
実は昨日の夜……の遅く。神社にお守りが欲しいという電話が有ったのだ。電話の相手はこの学校。目的は、戦勝祈願と言う事だった。
県大会が今週末に控えている現在、運動部は毎日夜遅くまで活動している。私達が生徒会室に出る時間より遅いくらいだ。そんな部員達の応援の為にと、マネージャーや教師が勝利を祈ってのお守りの大量発注を入れてくれたのである。
『洩矢神社』の祭神・建御名方は軍神だ。試合に勝つ為に参拝するなら、中々相応しい神だ。
だが、いきなりお守りを七十個以上と言われても困る。嬉しいが困る。在庫は足りず、全部売ったら明日以降の商売に差し支える。仕方ないので、私と早苗で暇な時間、只管にお守りを造っていた。……いや、一つ一つにお祓いとか相応の手順を踏むと時間が必要なのだ。
特にウチの神社は、伝統なのか――――製造は工場でも、組み立ててお守りの形を取る間に、必ず結構な手間暇をかける。結果、今朝の朝まで使ってやっと数を揃えたというわけである。
注文はもっと早めにお願いします、と学校に言いたくなった。
そんな訳で、私達は珍しく(本当に珍しく)朝の生徒会活動に遅刻してしまった。
だが、きっと御名方四音は平常運転だろう。
「お早う、ございます……」
そんな風に思いながら、少しだけ遠慮をして慎重に扉を開ける。幾ら生徒会長との関係が悪かろうが、公私混同をしない。遅れた事は悪いと思っているのだ。仕事中に暇な私が頑張ったお陰で、以前のように書類の束が開閉途端に崩れ落ちる事もない。
だが、ふ、と視線が暗くなった。
なんだ、と思って顔を上げると。
「あ、えっと――――須賀、先輩?」
丁度、向こうも扉を開く寸前だったのだろう。
ちょっと驚いた表情の、先日会った須賀長船さんが目の前に立っていた。
「ああ古出さんか。いや、お邪魔した」
軽く挨拶をして室内から出て行く。体育会系の、如何にも爽やかな笑顔で頭を下げて。
えらく頻繁に会うが、一体何をしに来ていたのか。
「…………」
廊下の雑踏に消えて行く背中を見送って、私達は中に入る。
御名方四音は、私達の遅刻など何もないかのように、机に向かっていた。
入室に、一瞥すらもしなかった。
「あの、先輩」
「……何だ」
このやり取りも随分と回数を重ねているが、御名方さんの態度は変わらない。
というか、此処まで何も変わらないのも――――重々、分かっていた事だが――――何だかなあと思う。
「その、……遅刻して申し訳ないです」
「ああ。気にするな。僕は気にしない」
棒読み。この人の事だから本当に気にしていないのだろう。
「止めたいならいつ辞めても構わない」
「……ええ、まあ。其れは置いておきます」
「ああそれよりも、昨日は色々と手間をかけたな」
有難う、の一言は無い。無いが、……まあ、取りあえずこの人なりの感謝の証拠なのだろう。
昨日。運動部に関する諸々の書類を片付けた後、私はさっさと帰った。帰った後で、彼に付いて多少、祖母に話を聞いてみた。その話は、また後ほど話すとして、色々と面白い話を聞けた。
性格が悪いのは知っているし、コミュ障害で人格破綻者、生活不適応者と悪い表現なら幾らでも言えるが――――昨日、嫌々でも家を訪ねて良かったと思っている。
稲葉さん達の影響もあるのだろうが、GW中からの御名方四音への思いは、多少軽くなった。
「……あの、すいません。一つお聞きしたいのですが」
須賀先輩を見て以後、ずっと黙っていた早苗が身を乗り出す様にして口を挟む。
「先輩、須賀さんに何か渡しました?」
「…………。東風谷。何故、そう思った?」
一瞬、一瞬だけ御名方四音の腕が止まった。
静かに机の上に鉛筆を置くと、無表情の中にほんの微かな鋭さを見せる。
先ほどとは別の意味で不穏な空気が、生まれた。
「今、擦れ違う時に感じました。はっきりと。――――つい先日には、感じなかった気配です。何か『曰く付き』の物を、預けたのではないですか?」
「何故、そう思う」
「これでも私は由緒正しい巫女ですよ」
音が無いのは――――扉が閉まり、序に朝のホームルームの直前だからかもしれない。推移を伺う私も、二人をただ見比べるだけ。ギリギリ、と二人の間の空気が撓む。
なんだ、この状況。
なんだ、それは。
いや早苗ほどの巫女ならば、怪しいオカルトめいた品物を判断出来るとは知っている。あの御名方家なら、その辺に置かれた骨董品が、怪しい効能を有していても不思議ではない。否定できないから困る。
「ああ。渡してあげたが……何の変哲もない、ただの小道具さ」
ス、と顔を上げて早苗と視線を交わす。
普段から見られる、狐と狸の化かし合いにも似た探り合い。
「……どのような?」
「何故、君に話す必要が有る?」
「必要はありません。訊きたいだけです。だからお願いします。……話して下さい」
だが、今日は何時もと少しだけ違っていた。
――――早苗が真剣だった。
その瞳が、普段以上に炯々と輝いていたのを見て、私は息を飲む。私には、何故早苗が其処まで真剣に何かを危惧しているのかが分からない。才能以前に、本当に――――分からない。だが、こんな眼をするという事は、其れに相応しい理由が有る筈だ。
思わず、仮面のような態度の彼を見る。
御名方四音。
お前、一体、何をした?
状況が掴めず、歯噛みするだけの私を尻目に、傲岸不遜な生徒会長は暫し沈黙する。
だが、数分後――――恐らくは、頭の中で何か結論が出たのだろう。早苗の眼光に押された訳ではない。間違いなく打算と計算で、何らかの解を導き出した。
ふ、と蛇のような吐息を漏らし、怪しげに彼は言う。口だけが微かに笑っているが、眼は腐った魚だ。
「少し前に、家の中から護符(タリスマン)が見つかった。僕の趣味ではなかったから、始末に困っていた。だから須賀に渡した。別に他意は無い。唯の気まぐれだ。……ああ、いや」
真意は読めない。だが、口元だけの歪むような顔で。
「あるいは、僕の何らかの企みかもしれない。……呪われた装備を渡した、とかね」
「え!」
その発想は無かった。無かったが、しかし、言われてみれば有り得る。
絶句する私達だったが、早苗はいち早く復活すると。
「――――っ! ……すいません。レオ、少し用事が出来ました。水鳥先生には、神社の用事で欠席と伝えて下さい」
言葉を聞いて、早苗は身を翻す。
やっぱり、と口が動いたのが見えた。
そのまま、慌ただしい動きで扉を空け放つ。
「手伝いは」
「大丈夫です。それよりも事情を問い詰めて、序に見張りもお願いします。出来れば、今日一日中」
「……りょーかい」
訳が分からないが、どうもこの男が、密かに何かをした事は間違いないらしい。それも、早苗がヤバイと言う程の何かを。
自分から騒動を起こすのか、結果として騒動が起きてしまうのかは知らない。
だが、それをこの男は気にしていない。たちが悪いにもほどが有る。
「気を付けて、行ってくると良い」
慌ただしく駆けだして部屋を出て行った早苗を見送る生徒会長の態度は、変わらない。表情も、再び動き始めた書類を片付ける腕も。まるで大犯罪者だ。何か凄い事をしているに違いないのに、其れが見えない。している事を漏らさない。不気味さ以上に、底がしれない。
もう一回、この男についての認識を改める必要があると自覚する。御名方さんは、平然と悪い事を行えるタイプなのかもしれない。だったら厄介だ。見えない何処かで、凄まじい被害を出している可能性も十分にある。
だが、怯んでばかりはいられない。早苗の傍にいても役に立てないなら、自分の行える事を精一杯やるだけである。
『事情を聞いて、放課後まで見張っていて欲しい』。
まさか一日中、生徒会室に入り浸る訳にもいかない。だから後者は出来る範囲で行うとしても、せめて前者くらいは完遂しよう。
そう思って、問い詰めようと顔を向けると。
「良い機会だ、古出玲央」
耳に、痺れるような音が響いた。
以外にも、向こうから話題が振られた。
タイミングを狂わされ、思わず二の足を踏む。
「君とは一回、話をするべきだと思っていた。……東風谷早苗の邪魔が入らない時にね」
机の上に肘を組み、顔の表情を拳で隠した生徒会長が、その時、まるで異形に見えた。
くす、と弧を描く口に、ぞわあっと寒気と鳥肌が立つ。
綺麗に掃除した筈の生徒会室が、瞬く間に別の空間に塗り替わったかのような錯覚。
早苗がいないからだろう。入学して、四月の当初に少しだけ見せたその空気が、戻ってきていた。
渡りに船というより、死地に踏み込む感覚。誘っている。間違いなく。物凄く悪いモノが見える。勘とか理性とか、そう言う物を越えて訴えて来る。
御名方四音、この状況で、私を利用する気が満々だ。
「……突然、なんです?」
声を絞り出す。体は動く。寒気は凄いが、理性は残っている。何かあったら、直ぐに部屋を飛び出せる。
獲物に向かい合う獣の如く、緊張感を張り詰めた私は相対した。
「放課後。旧体育館まで来たいならば来ると良い。僕と東風谷の関係を、多少なりとも語ってやろう」
「…………」
横暴だが魅力的な提案。抗い難い言葉。釣られると分かっていても尚、踏み込ませるような一言。
この男の雰囲気は――――年と行動、外見と内面の大きすぎる差だけでは、ないのだろう。
御名方四音が本当に人間なのかどうか、私はこの日から真剣に悩むようになる。
●
旧体育館とは、現在の体育館のすぐ隣に築かれている古い体育館だ。
木造建築だった昔の校舎が取り壊された時、一緒に壊される事無く残り、今でも授業や部活で使用されている。少々古く、反響しやすく、軋みも多いが安全性には問題がない。
放課後、私はその旧体育館に向かっていた。
早苗は帰ってこない。昼休みに連絡が入っただけだ。何でも、まず須賀先輩の手に渡った物を調べて、出来れば回収をしたい……と話していた。『呪いのアイテム』は一般には流通しておらず、適切に処理される事が多いそうだが、個人の家の中に眠っている代物までは把握しきれず、往々にして被害を齎すそうである。悪影響が出ないうちに対処をしたいそうだ。
『ところでレオ。そちらはどうです?』
「それなんだけどね……」
朝、あの後に言われた事を伝える。返答は保留にしておいた。
『……大丈夫だと思いますが、注意だけはしてください』
「うん」
授業が有るので全部は見張れないが、午前中は特に感じ取れる異変は無かったそうだ。
御名方四音の性格からすれば――――私を放課後に招くまでは、あまり行動しないのではと思う。朝の会話と挑発が、早苗と私を分断させる為という可能性だってあるからだ。
『それじゃあ、終わったら連絡を下さい』
「そっちも、気を付けて」
かくして私は、覚悟と共に会談に臨むことを決めた。
まさか闇討ちはないだろうし、偶発的な事故の心配も無い……と思う。警戒心さえ十分ならば、“私なら”大抵の事態は切り抜けられる。中学校時代の伝説に、嘘偽りはあんまりないからだ。
ただ、それでも念を入れてはある。最近、割と付き合う事が多いクラスメイトの武居織戸さんと、同じ中学校から来た佐倉幕さんの二人に頼んで、体育館前で待機しておいて貰うよう頼んでおいた。特に佐倉さんは新聞部と言う事もあって、すんなりと了承してくれた。
自分としては十分に手を打った上で、会いに来たと言える。あとは精神的に堅固にしておけば、早々呑み込まれはしないだろう。この二ヶ月、あの生徒会長と接触してきたのだから耐性も造られている。
御名方四音は人の思考の隙を突くのが上手い。人並み外れた頭脳を持っていて、しかも感情に依っていないからだ。それを分かっていれば、不意をつかれる事もない。
そう思って、分厚い扉を横に開いた途端。
私のその予想と覚悟が簡単にひっくり返された事を知った。
――――音が、溢れ出ていた。
旧体育館のステージの上には、グランドピアノが置いてある。蟹瓦というちょっと変わった音楽マニアの体育の先生が、定期的な調律をお願いしている為か……音も質も中々良い。普段は使用されないが、音楽会前の練習時などは弾かれている。
そのピアノの前に、生徒会長が陣取っていた。
陣取って、演奏していた。
「……あ」
間抜けな事に、完璧に警戒心をぶち壊された。確かに、御名方四音は、どこか俗世間離れした人間だ。そして天才でもある。それを、今迄とは全く別の意味で――嫌でも認識した。
私は、音楽は全然分からない。扉を空けた時に流れ出た音を聞いて、待機していた武居さんと佐倉さん、二人が固まっていたが、それすら意識の外。演奏されている曲も難解なクラシックとしか分からない。
けれども鍵盤に無表情に向かった彼の指が、音を奏でている一瞬で、覚った。
御名方四音は――――常識では測れない。
いや、測ってはいけない。
例えば、音の一音。その一音が、美しい程にはっきりと部屋に響く。一音一音からなる連なりが、何処までも繋がって、完璧に形を描いて、旋律を生み出し、曲を形作る。
死体のように不気味な指も、背中を覆う烏の濡れ羽色の髪も、死仮面のような美貌も、微動だにしない表情も、音楽家と語られて紹介されれば納得できてしまう。
彼の産む音色は、恐らくは天才と呼ばれる者にしか生み出せない音だ。素人の私でも、明らかにはっきりと分かる。適当なプロやピアノ弾きとは隔絶した、超一流に成りえる才能の証。音楽で生きる者が、喉から手が出るほどに欲しがる、神から与えられた物。
今まで生きてきたどんな音より、レベルが高い演奏だった。
けれども。
それなのに。
「……ぐ、ッ」
吐き気が、込み上げた。
聞いていて、気持ちが悪い。
口元を押さえて深呼吸をしても、治らない。
いや音は凄い。腕から何から、世界的に見ても凄いのだが、何か嫌だ。
私の持つ野生の感覚が、違うと心に告げていた。
思わず目を瞑って――――それで分かった。御名方四音という人間が弾いている、その姿が消えたからこそ分かれた。技術も、音色も、全てが桁外れだ。
しかし、見えない。
弾いている御名方四音が、見えない。
まるで完璧にプログラミングされたロボットに演奏されている様な曲だった。
その中に感情だけが入っていない。まるで無味乾燥。味気ない蒸留水の様な、あるいは何所までも灰色なだけの絵の具の様な、機械よりも尚、何もない、演奏。
音楽は人の心を表すと、何時だったか聞いた。私は納得する。納得せざるを、得なかった。
――――これが、彼の心情なのか。
そこに“ただあるだけ”の不気味さに、私の意識が悲鳴を上げる。
普通の人間なら凄いと褒め称えるが、何も変わらないという無機質さが、私には恐ろしかった。
演奏は、それから十分間、続いた。
体調が悪くなったのは、錯覚でも何でもなかった。
「昔、親がまだ生きていた頃、音楽教室に通っていてね」
仮面のような顔のまま、御名方さんは言った。
「その時の教師が、猪去蝶子だった。僕が弾いた演奏を聞いて、その日の午後に彼女は会社に辞表を提出したそうだ。きっと自分の腕と、生徒の才能に絶望したのだろうさ。それから十年――つい先日、線路に飛び込んだというわけだ。自殺の後押しの一端には僕がいるといえるのかな?」
目玉の代わりに硝子を嵌めこめば、こんな感じになるのだろうか。
冷や汗をびっしりと浮かべた私は、息を整えるのに精一杯だ。
「事象とは観測者によって容易に形を変える。正しさは時に間違いに成るかもしれない。不運が誤解を招き、誤解は悲劇を招くのかもしれない。偶然と必然の境は、何処にあるのか? ――――君の親友は、少なくとも僕が認める位には優秀で、理解している。一連の全てが、決して唯の事件の羅列ではありえない、とね」
四月・武居大智。
五月・猪去蝶子。
まさか、とは思う。でもまさか――――この二つの事件に、繋がりが有るというのか。
思考が纏まらない。おかしい。何でこんなに調子が狂う。
「冷静に話が出来るような状態ではなさそうだから、一方的に聞くと良い。……僕は心が動かない。動かないから人の心を動かす気もない。音楽の技術が有っても、それで感動させる気はないし、相手を感動もさせられない。それは君が今、十分に実感した筈だ」
壁に寄りかかり、座り込んだ格好の私を見下ろす御名方四音。
眼には、ほんの小さな感情の一滴が浮かんでいる。
煮詰められ、泥の如く固形化したような、深淵が覗いていた。
「そんな僕は――――唯一、東風谷早苗への“殺意”だけがある。殺意のみが、自分で自覚できる感情になっていた。後の全ては、全て氷の如く凍りつき、貯め込むだけでしかない。……東風谷は僕の殺意を知っている。知っていて尚、僕を“何とかする”と言った。だから、少しだけ――――面白い、そう思った」
怒りや憎しみではない。純粋で透明な光。普段と同じ態度、普段と同じ表情、普段と同じ生活を送りながら、恐ろしい事を普通に実行出来る。狂い過ぎて針が一周回ってしまったようだった。
「これは僕と彼女の争いだ。君は邪魔だった。……だが、どうも君を消すのは難しいらしい」
誰から聞いたのか、先輩は付け加えて、足音を立てず、幽霊か悪魔のように彼は室内から出て行く。
外にギャラリーがいても、きっと無頓着に、眼力だけで人を掻き分けて生徒会室に戻るのだろう。
去り際、小さく背中で、私に告げた。
多分、初めて、本心からの狂った微かな笑顔を見せていたに違いない。
「僕は彼女を殺す。誰が目の前に有ろうと、何を使おうとも、思われようともね。例え学校の誰が死のうが、無関係な人間が巻き込まれようが、知ったことじゃない。むしろ利用させて貰う。今迄通り、これからも、ただ目的を達する為に動くだけだ。……それが嫌なら――――好きにすると良い」
それは、そう、とどのつまり。
私への、宣戦布告だった。
●
週末。
長野県高校生体育大会の終了後。
帰宅途中、疲労の余り自転車のハンドル操作を誤り――――須賀長船が、車に轢かれて死亡した。
次回は、今迄の事件を、二人が整理する話です。伏線の回収もごそっと行う予定。オの感情や体調で、色々と不自然な部分が有ったと思いますが、全部「伏線」ですので、ご期待下さい。
ではまた次回!
(7月3日・投稿)