とある平日の午後の事だ。
六月ともなれば、高い湿度も相まって、ジトっとした空気を感じる事も多くなる。
諏訪湖畔に位置する我が学校も湿った風が吹き寄せる。中途半端にぬるい風は、まるで身体にまとわりつくよう。湿度を齎す湖のお陰で、気分だけでも涼しいのが幸いか。
長野県は標高が高い。だから夏は涼しいんじゃないか、と都会の人は思うだろう。それは正しい。半分ほど。軽井沢を初めとする避暑地は有名だが、主要な都市は意外なほど暑いのだ。
梅雨前線が停滞し始める今日この頃、今年の夏もきっと暑い。そう予感させる空気が、生徒会室には充満していた。すっかり慣れてしまった生徒会室の中で、私は熱い緑茶を差し出す。
「どうぞ」
「ああ」
擦れた笑い声で、御名方さんは湯呑みを受け取る。
そのまま、ごそり、と傍らの袋から粉薬と錠剤を取り出すと、口に含み、お茶の温度に拘泥せず静かに飲んだ。
ちくしょう、煮えたぎる熱湯を並々と注いだ上での嫌がらせだったのに全然堪えていない。
内心の私の表情を読み取ったのか、彼は死んだ魚の目で私を見る。
「何か言いたそうだな、古出玲央」
「……熱くないんですか?」
「熱くもないし、暑くもないさ」
室内にいるのは、珍しい事に二人だけだ。
早苗は生徒会の所用で職員室に呼ばれ、神出鬼没の水鳥先生は、つい数日前に行われた中間考査の採点で席をはずしている。
ささやかな攻撃を気にする事もなく、御名方四音は茶を飲みつつ机の上の書類を裁いていた。私は何時も通りの雑用だ。
「僕はね、古出玲央。――外からの刺激に、鈍いんだ」
くっくっく、と嫌な含み笑いをして、静かに彼は私に告げる。顔の筋肉が全然動いていないのに、口元だけが弧を描いている。気色悪い。
もう季節が夏に近いというのに、御名方四音の服装は上も下も長袖で、黒髪も長いままだ。それでいて汗一つもかいていない。不気味だ。まるでその場所だけ、彼だけが温度の変化が無いように思えてしまう。
「苦痛や不快感は、肉体の発する危険信号だという。……僕は外部刺激が鈍い。無痛覚症とまではいかないが、一部それに近い。だから暑さや寒さに強い。――――納得したかな?」
「……そうですか」
素っ気ない? いや、他に何を言えという。外部からの刺激に鈍いのは危ないんじゃないかとか。その割には病弱で虚弱体質なのは変じゃないかとか。そんな色々と疑問を覚えたが、訊ねる程に親切な性格はしていない。
繰り返すが、御名方四音という個人に対する感情は良くないのだ。早苗が拘っているのは承知の上だ。だけど私は早苗じゃない。早苗の様には出来ない。彼女が目の前に居ない今、この男と積極的に絡む気はなかった。
先月のあの会合以来、上がりかけていた彼への評価はだだ下がりだった。
水鳥先生が『御名方の性格には難がある』と言っていたが、まさにその通り。可愛い後輩が家に訪ねてきたのに、喧嘩を売って追い返すなんて非常識にも程がある。私だけなら兎も角、学校の華である早苗に、幼女の紗江ちゃんだ。人格破綻者というに不足はない。
「…………」
私の視線を柳のように受け流して、御名方さんは素知らぬ顔をしている。普段と違う所と言えば『八意製薬』と書かれた見慣れない薬袋が傍らにあるだけ。
彼は静かに軽そうな鞄の中にしまい込む。持病の薬か何かなのか。外見からすれば違和感はないが。
早苗が部屋に戻って来たのは、私が内心で憤慨しつつも、そんな事を妄想していた時だった。
「遅くなりました。……あれ」
部屋の中に満ちる、お世辞にも良いとは言えない(二重の意味で)空気を感じ取ったのだろう。
「――――何か、ありました?」
「いや、何も。お帰り早苗」
得体のしれない笑顔を浮かべたままの御名方四音を横目に、私はしっかりと返した。
例え御名方四音と色々あっても、早苗と私の関係は変わらない。
この時はまだ、そう思っていられたのだ。
異人ミナカタと風祝 第六話 水無月
五月のGWに御名方四音の家を訪ねてから、早いものでもう一ヶ月が経つ。
この一ヶ月。中間考査を初めとする色々があったが。あの日から今迄、私の御名方四音への感情は悪い方向に向いたままだ。早苗は折り合いを付けて何とか普通に戻ったようだが、私に変化はない。
子供の頃から『洩矢』を背負っていた私達は、その分、他者との関係に気を使っていた。というか、自分から近寄らないと相手が委縮してしまう。その経験がある。だから、私は積極的だ。人見知りは少ないし、友達を作るのも得意だ。早苗に勝っている数少ない面である。
だが、そんな私でも特に積極的に仲良くなろうと思わない。
御名方四音との関係が、如何に悪いのかは分かるだろう。
一応、言っておけば――――私は、御名方四音が謝りさえすれば、すぐに距離を詰めるつもりなのだ。そのくらいの分別はある。だが、その『謝る』言葉が、かれこれ一ヶ月、聞こえない。
まるで見下しているようだ、と思われるかもしれない。だが彼の態度を知っていれば十分だと皆が皆、言ってくれると私は確信している。GW中の彼の態度を見て何も言わずに流せるなら、そいつを文句なしに尊敬してやろう。
「そうでしょ?」
「……ええ、まあ。否定はしません」
朝、学校に向かいながら私は早苗と話をしていた。
六月らしい灰色の空。雨は降っていないが、何時降り出してもおかしくはない天気だった。
「あの人は、良くも悪くも人と違います。周囲と比較した際の、私やレオとは違う意味で」
「……つまり?」
私の問いかけに、早苗は少し言葉を考えた上で言った。
「……先輩は、多分、どうでも良いんでしょう。嫌われようが好かれようが、他者の其れに興味がない。プライベートな空間が非常に狭くて、その外側の人間は関心が無い。狭い己の世界で、上手に回ってさえいれば、外で誰が死のうが誰が生きようが、憎まれようが恨まれようが、どうでも良いんです」
「……それは」
イメージとすれば、あれか。中学校時代に嵌った本で言うなら、戯言使いや『魔法使い使い』みたいなものか。自分から人に迷惑はかけない。だからお前達も自分に迷惑をかけるな、というスタンスの。
某週刊少年漫画の例えで言えば、過負荷(マイナス)みたいなものだと思っていたのだが。
「いえ、多分正解ですよ。主観でしかありませんが、先輩は明らかにそのあり方が違います。鬱屈していることは間違いないですが。上手く言えませんが、歪まざるを得なかった? と言いますか」
「……でも、それで解決して良い話じゃないよ」
早苗の言葉通りならば可哀想だとは思う。三司さんが亡くなってからもう十年。その間、何があったのかは知らないが、きっと大変だったのだろう。水鳥先生が気にかけるのもその辺にあるのかもしれない。だが、それとこれとは別だ。
どんな相手であれ、悪い事をしたら謝るのが普通だし、親しい中にも礼儀を込めるのも普通だと、私は教わった。
「レオが正しいとは思いますが。思いますが」
大事な事なので二回言った早苗は、それでも、と私に目を向ける。
「先輩に話を聞かせるのは容易ではありません。外で何を言われていようと、気にも止めませんから。……話をするには、まず距離を詰めないといけません。私だってね」
その距離を詰めるのが容易ではない、のだが。
「ああ。だから取りあえずは、仲良くなると」
「そうです。水鳥先生との関係を見る限り、仲良くなる事も不可能じゃありません。だからまず距離を詰める。相手の世界の中に入る事が最優先です。丁度、命令にも都ご――――おっと」
「……………」
今、物凄く不穏な言葉を聞いた気がする。聞き間違いでなければ、命令にも都合が良い、だろうか。
静かに早苗の顔を見ると、しまったという顔つきで、口元を押さえていた。
……そう言えばそうだ。四月の最初、生徒会室に向かった時、早苗は僅かに告げていたではないか。『東風谷』として『御名方』に用事がある、と。そして“理由は言えない”と。
意外と早苗が狡猾であるとは知っている。中学校時代、実働部隊だった私の背後で、どんな腹黒い計画を立てていたのか、十分に私は知っていた。
今迄の御名方さんへの態度が全て、仕事の為の演技だったりしたら流石に怖い。
ふと、気になった。
生徒会に入ったのも、御名方四音と熾烈な腹の探り合いをしているのも、『洩矢』としての仕事なら――――早苗自身は彼に付いてどう思っているのだろう?
私の質問に。
「あ、信号が青です。丁度良いから渡ってしまいましょう」
早苗はあらかさまに誤魔化して、駆けて行く。
見えない火種を感じ取ったのは、きっと私の気のせいではない。
●
さて、この一月の間に起きた事を、簡単にではあるが語ろう。
なにはともあれ、まず語るべき事象は――――猪去蝶子さんの事だろうか。
猪去蝶子さん。あの日、私と紗江ちゃんが早苗に会いに行く途中に擦れ違った女性。
そして私達三人が御名方四音の家に行ったその日、東京新宿駅で飛び込み、自ら命を絶った女性の事だ。
結論から言えば、自殺で片付いた。
警察が言うには『人間環境や職場での悩みに耐えかねての、衝動的な自殺』という、珍しくも何ともない結論に落ち着いたそうである。伝聞調なのは、早苗から又聞きしたからだ。
以下、簡単な彼女の概略だ。
猪去さんは、諏訪生まれの長野市育ち。ごく普通に小中学校を卒業後、音楽を志して小諸の音楽高校に進み、音大に一浪して入った。就職難で苦しんでいた時に、故郷の音楽教室に誘われ、渋々ながらも其処で生計を立てていたそうである。
その後、再度一念発起して都会に出るも、就職先は見つからない。仕方なく、音楽会社の下請け企業に入りつつ、忙しくも都会で生活を送っていた。そしてその二年後の先月、現実と理想のギャップ、日々の暮らしに耐えかねて線路に飛び込んだ、と言う事である。
……本当に簡単になってしまったが、つまり普通の女性が、普通に挫折し、普通に立ち直れないまま亡くなったという事で良いのだろう。言い方は悪いが、別に珍しくもない。
ただ問題が一つ。
新宿で飛び込む半日前に彼女は『洩矢神社』を訪れていた。
偶然と言ってしまえばそれまでだ。だが、口の中にお守りを入れたまま飛び込んだとなれば、それは警察でなくとも怪しいと思う。由緒正しい神社でなければ、嫌な風聞が立つ。
結局、その事に説明は付かなかった。
彼女の精神的動揺が不可解な行動を取らせた、と言う事で落ち着いたそうだ。まあ、国家権力でオカルトに詳しい所は、もうこの時代そうは残っていないらしいから、当たり前かもしれない。
私は――――あの御名方四音が、関係している気がしている。話した事はないが。
「『猪去』ですか……」
新聞の片隅に掲載された、その自殺の記事を読んだ祖母の顔が、妙に険しかったのには何か理由があるのだろうか。
実の所『洩矢』ではGWかその近辺で、何か大きな問題が起きるのでは無いか、と考えられていた。
『なんか、起きる気がするの』
そう紗江ちゃんが言っていたからだ。
尾形紗江。
洩矢五官『凝祝』の家の長女。
私や早苗とも仲が良い、小さな女の子で――――漠然とではあるが、予知夢を見る力を持っている。
欠点は、彼女がまだ幼く、上手に説明が出来ない事。そして夢である為、非常に忘れやすい事だろうか。
GW前、彼女は夢を見た。だから神社に来た。祖母が許可を出したのも、その夢が背景にあったからだ。
結局、その『嫌な予感』は、猪去さんに端を発する問題だったと解釈された。
参拝客の不自然な自殺から、彼女の足跡を辿った警察の事情聴取。その後の嫌な風聞まで。大きなダメージでは無いが、確かに余り良い話題でもない。
「お世話に成りました。また来ます!」
その彼女は、ペコリ、と可愛らしく頭を下げて、尾形の実家に帰って行った。
GWの終わる一日前。尾形のご両親は我が古出家に来訪し、祖母と神社の話をしていたのが記憶に残っている。日文さん(二月に亡くなったお爺さんだ)の後継問題や片付けも随分と進み、今後の活動も師匠は無いだろうとの事だった。
「今度は夏休みですね!」
多分そうだろう。夏休み、機会があったら海にでも行こうと約束をして別れた。
今度会った時は、どれくらい大きくなっているだろう。
『御田植祭』という祭儀がある。
六月の第一月曜日に行われる神社の神事で、豊作祈願の為に行っている儀式だ。
本殿から五百メートル程離れた所にある「藤島社」という場所で、巫女二人が田舞と呼ばれる舞を踊る。斉田の中に入って田植えの真似をしたり、社殿の中で音楽に合わせて奉納をしたりと、結構大変な行事だ。
『洩矢』の御田植祭の起源は不明だが、嘗ては「八乙女」と呼ばれる女性が、早乙女(田植えを行う女性のこと)となって舞っていたそうだ。
因みに、豊作の神として有名な「奇稲田姫(クシナダヒメ)」は、ミシャグチ共々、実は蛇に関係が深いそうだ。『洩矢』で祭儀を問題無く執り行える理由も、その辺にあるらしい。
祭りでの、私と早苗の仕事は演奏だ。途中で学校を早退し、笙を片手に現場に向かい、終わった後にまた学校に戻るという中々ハードな一日だった。
高校に入学して二ヶ月。学業と家業の両立は中々難しい。最近、つくづくそう思う。
「さて、それじゃあ先月のテストを返却します」
入って二ヶ月もすれば、第一回目の中間考査がある。
二ヶ月に習った事の復習だけやっておけば、そう危ない事も無いのだが――――私の頭は、余り良くない。
「呼ぶので順番に取りに来て下さい」
古典や歴史は得意(巫女さんが苦手だなんて笑えない)。だが、外国語や数学ともなれば訳が分からない。
帰って来た答案用紙を見て、思わず肩を落とす。神事に重点を置き過ぎて勉強できませんでした、という言い訳は……あの祖母には通用しないだろう。
心情を投影したかのような曇り空を見て、私は大きく息を吐く。
私の思いは、きっと全国の多くの学生が常々感じている物だ。
それから三日。
全てのテスト用紙が返却され、合計得点と学年順位が判明して、私は沈黙した。
「いえ、レオ。その成績なら余り心配無いと思いますよ?」
「いや、合計は平均より少し上くらいだし。……要領の良い早苗が、こういう時は羨ましいよ」
毎日の習慣となってしまった生徒会室の中で、私達は話をする。
御名方四音は気に入らない。だが、仕事を放り出す事はしない。早苗もいるし。責任感は強いのだ。
「レオは真面目ですからね。……もう少し、軽く考えても良いんじゃないでしょうか」
ほんわか、と少し冷ましたお茶を飲みながら、早苗は言う。
――――それが出来れば苦労はしない。
早苗は本当に要領が良い。何もしないで結果を出せるのが天才だとすれば、早苗は秀才。少ない努力で最大限の効果を出せるような人間だ。努力してやっと並べるのが凡才だろう。
大事な所だけやれば良い、と人は言う。言うが、大事な所を習得するのに時間が懸かるのが凡才だ。大事な所を見抜き、理解し、応用する。その過程に懸かる時間が、才能が無い者ほど多くなる。勉強も巫女の仕事でも同じ。……思い返せば、生まれてから今迄、私が早苗に勝っている事は少ない。変な劣等感を抱えない自分を褒めたい位だ。
私と同じ立場のはずの幼馴染は、学年10番以内を常にキープしている。
勉強に関して言えば、私は凡才。早苗は秀才。
そして、あの御名方四音は間違いなく天才。
世界は不公平だと思う。授業に殆ど出ず、生徒会室で仕事と自習をしているだけの生徒会長は、八教科(現文・古典、数学Ⅰ・Ⅱ、理科二つ、社会二つ)合計780点以上を取っている。学年一位だ。全国偏差値も80越えらしい。愚痴りたくなっても当然と言えよう。
「先輩は、……あれは特別です。頭の造りが本気で尋常じゃありません。もしも健康だったら、そのまま外国の超名門大学からオファーが来るとも言われました。比較する方が間違いです」
慰めるように、早苗は言ってくれた。
慰めになっていない気もする。
「……情報源は?」
「貴方の、お姉さんですよ」
「……理園ねえ、か」
以前、私には姉がいると語ったが――――古出理園(りお)というのが彼女の名前だ。
家庭の事情に成るので追々話すことにするが、父の死後、色々あって祖母と折り合いが悪くなった彼女は、家を飛び出して留学している。行先はMITだ。女性にしては珍しいが、其れが出来るのが彼女の凄い所だろう。
因みに、私とは血が半分しか繋がっていない。
「……元気そうだった?」
「ええ。レオの事も気にかけていました」
家を飛び出して言った時、理園は二度と家に連絡を入れないと言って出て行った。姉と祖母は互いに頑固で、融通が利かない部分がある。だから祖母は連絡先を聞かなかったし、向こうも残して行かなかった。
まあ、私と違って理園は優秀すぎる人材だ。連絡なぞ入れずとも、自分で何とかできるだろうと祖母は考えたのだろう。それが事実だから困る。
ただ、全く連絡を入れないのも悪いと思ったのか。早苗と絵手紙さん(また紹介しよう)を経由して、居場所と勉強内容だけは毎月教えてくれている。
「ま、良いけどね。……と」
コンコン、と扉をノックされる。現在、珍しくも生徒会室には、私と早苗しかいなかった。此処二ヶ月で初めての事ではないだろうか。
立ち上がった私は、扉を開ける。きっと扉の向こうには、常の如く死体のような顔の生徒会長がいるのだろう、と思って……。
「……どちらさまで?」
思わず、呆けた言葉を発した私は悪くない筈だ。
目の前には、見慣れない男の人がいた。
●
生徒会室を訪ねてきた男の人は、須賀長船という二年生だった。
体育会系のお兄さん。面倒見が良さそうな人だった。御名方四音とは同じクラスらしい。殆ど顔を出さないあの生徒会長だが、学校内では悪い意味で有名だ。
諏訪さんは、何でも、『生徒会長』としての御名方さんに頼みたい事があって来たらしかった。
「言伝や届け物でしたら、預かりますが」
そう言った私達の申し出に、彼はお願いする、と言って素早く帰って行った。
運動部はそろそろ追い込みの時期だ。二年生だから、まだ彼には来年があるとしても――――三年生が県予選に向けて頑張る中、なるべく長い時間を練習に費やしたい、という思いは分かる。
結果、私と早苗の前には、折り畳まれた何枚かの用紙が残されていた。
「……えっと『運動部の活動費用について』。細々と書かれてますね。嘆願書でしょう」
軽く内容を確認した早苗は、生徒会長の椅子の前に、書類を置いた。
この時期、合宿の許可だったり、活動費用を増やして欲しいだったりと生徒会には要望が多い。
御名方四音は、人間的にはアレだが仕事の処理は抜群で、上手に舵取りをしながら運営している。が、上手であっても不満は出る物で、ここ最近は特に多かった。どこも必死ということだろう。
須賀長船先輩は、同級生と言う立場を使い、出来るだけ早く案件を処理して欲しいと要求していた。
「しかし、今日は一向に来ないね、御名方さんは」
放課後。日が長いから明るいが、もう十六時を回っている。午後四時を過ぎても御名方さんが来ていないという事態に直面した事は、今迄一度も無い。
「ですね。……何かあったんでしょうか。見えないところで倒れてるとか」
「洒落になってないよ、早苗」
机の上には、今日明日中に執行する仕事が溜まっている。会計の早苗と雑用の私が、勝手に手を付ける訳にはいかない物ばかりだ。
大人しく座っていれば、怖い程の不気味さがある御名方さんだが、積極的に動く姿は全く想像出来ない。直立不動で立っている姿すらも難しそうな人なのだ。入学式で挨拶をした以上、最低限の事は出来るのだろうが、間違っても運動が得意ではない。見れば分かる。
「連絡してみましょうか」
そう言って、早苗は携帯電話を取り出す。
「……何時の間に番号を聞いたの?」
「少し前です。『生徒会の一員として、会長の番号を会計が知らないのは問題がありますから』と言ったら存外素直に教えてくれました。公私混同はしないタイプですよ、先輩は」
なんか、微妙な力関係が見える。
この二ヶ月、早苗は確実に生徒会での地盤固めに成功しているらしい。
短縮ダイヤルを押した早苗は、耳に当ててしばし待つ。私は、さてどうなるかと思って黙る。二人が電話で会話をする、と言う光景が、全く想像が及ばない。
そもそも、御名方四音が携帯を持っている姿も、想像が難しい。
「……出ませんね。レオ、水鳥先生にお願いします」
「分かった」
こちらの番号は、私も知っている。
こう見えて私は友人が多い。高校ではまだ少ないが、中学校時代で私達を知らない生徒はいなかったと、断言出来る位だ。勿論、生徒会顧問・担任教師の水鳥先生の番号は、生徒会に入った初日に入手してある。
二種類の携帯を持っているらしく、流石にプライベートまでは聞き出せなかったが。
……というか、水鳥先生の私生活も謎だ。御名方さんの家に時折、出入りしている事を知っているだけである(五月のGWの際、そんな事を言っていた)。四月の質問でも、微妙に具体的では無かった。
『――――はい、水鳥。……と、古出か。どうした?』
「スイマセン。少々、お聞きしたい事が有ります。……今、お時間を頂いても良いですか?」
『ああ。――――』
スマンが、少し待ってくれ。生徒からだ。
そんな声が、小さくではあるが届いて来た。
電話の向こうは、先生一人ではないらしい。職員室とも思えないが、どんな人なのだろう。
「あの、都合が悪いなら掛け直しますが」
『いや、良い。待たせても問題が無い相手だ。……それで、どうした?』
「実はですね……」
簡単に事情を説明する。本日、朝以降、御名方四音を一回も見ていない。別に心配をしている訳ではないが、来てくれないと仕事が滞ってしまう。行方を知っているのではないか。何かと関係が深そうな先生ならば、事情を把握しているのではないかと思って連絡した。
私生活でも交流が有るらしい事は知っていたので、少しでも教えてくれれば御の字である。
「先生に聞くのも変な話だと思いますが、何分、私も早苗も連絡を取れないので……」
『ん。……ああ。御名方は早退だ。定期の……と言ってもお前達は知らないか。何月かに一回、独自の健康診断が有ってな。優秀な医者が家に来ている。丁度今日はその日だ』
「そうなんですか?」
『ああ。普通の医者に見せるのを四音は嫌がるからな……。私の古い友人の伝手を使っている。今、何処だ? 生徒会室か?』
「はい。早苗も一緒ですが」
『そうか、なら今日は帰って良いぞ。仕事は一日休んでも問題無い。仕事のスケジュールは調整してあるからな。戸締りだけしっかりしておけ』
先生曰く、机の上の仕事の山は、明日で十分に片付くのだそうだ。
「分かりました」
頷いて、通話を終わらせ、どうでした? と目で伺う早苗に、今の話を伝えた。
「――――という訳で、好きにして良いってさ。どうする?」
「あ、先輩の家にお医者さんが、ですか。……そうですね。“玲央”、先に帰っていて良いですよ。私はこの」
と言って、先程、須賀さんから手渡された書類を掲げて。
「これだけ、許可を貰ってきます。そうしたら直ぐに帰りますから」
にっこりと笑った、その早苗の笑顔に。
――――何故か、私は。
――――今まで感じた事の無い程の、寒気を感じ取った。
――――その一瞬。
――――早苗ではなく、まるで巨大な怨念の塊が、そこに鎮座していたかのように。
気が付いたら、言葉が口を吐いていた。
「いや! 早苗、……私が、行くよ」
「はい?」
頭の中で、警鐘が成った。勘と言っても良い。
理屈抜き、理論抜きで、なんかヤバイ。
「何時も、早苗が仕事しているからさ。……御名方さんと話をする意味も込めて、私が届けて来る」
どこも変な所は無い。
何時もと同じ、何時も通りの東風谷早苗だ。
だが、それなのに。
その筈なのに。
御名方四音の家に、行かせたくなかった。
早苗の理性よりも鋭い、私の感性が、今だけは絶対に早苗を向かわせてはならないと言っていた。
「良いでしょ?」
背中に浮かぶ冷や汗を、感じ取られてはいないだろうか。
顔だけは崩さず、飽く迄も平然とした顔で、私は平常心を装いつつ、手を差し出す。
「? ……はい、分かりました、けど」
突然の私の態度に、早苗の顔は訝しげだ。もしや、早苗自身も気が付いていないのか。早苗自身も……今の私の予感を、覚えていないのか。だが、意識的にしろ無意識的にしろ、危ない事は確かだった。
もしも本当に、早苗が気付いていないならば……行かせると、早苗でも解決できない致命的な事が起こりそうだった。
目の前の早苗が、全て演技に連なる態度のままとするなら、もっと危険だと感じ取った。
「……じゃあ、お願いします」
「うん。任せて」
手が触れる。感じる早苗の掌ははっきりと温かさを持っている。
だが心は、引っ切り無しに私に危険を訴えていた。
「それじゃ、また後で。帰ったら連絡するから」
書類を受け取って、鞄に仕舞いこんだ私は。
何かに追われるように、生徒会室を飛び出した。
●
深く泓く、暗く昏く。
まるで汚泥で構築されたかのような世界の中で、くすりと嗤い声が響いた。
――――へえ、あの娘、気がつくんだ。
――――古出の家の、参の娘か。
――――才能が失われている癖に、早苗の親友と名乗るだけはある。
けらけら、けろけろと、嗤い声が響く。
その声は、狂気と喜悦を孕んでいた。
――――じゃあ、まあ、その聡明さに免じてやろう。
――――その“医者”が何者なのか、突き止めるのは、止めだ。
――――あんまり干渉しすぎると、早苗にも気が付かれてしまうからねぇ……。
けろけろけろけろけろけろ、と。
そうして、邪気に満ち満ちた少女の声は、何処かに消えた。
●
「……っはあ」
学校を飛び出し、そのまま勢いと衝動に任せて、私は一気に走った。
御名方四音の家まで、歩いて五分の懸からない距離。なら、私なら二分も必要ない。体育系の部活から引っ張りだこの私は、足には自信が有る。
身体に付くじっとりとした汗に不快感を覚えながら、私は深呼吸をした。
「……急いで仕事をして、家に帰ろう」
今日は早く帰って、また明日に仕切り直そう。その方が良い。いや、そうしないとまずい。それで駄目なら祖母に相談だ。
御名方四音は嫌いだが、そんな事を言っている場合じゃなかった。
私は古びた木造一軒家を見上げる。住んでいる人間を表す不吉さと、夕暮れ時の赤色が絶妙に混ざり合い、並みのお化け屋敷でも出せない程の陰鬱さが見える。
なんか、ますます雰囲気が怖いのは、今が宵の口だからか。昼と夜の境目は、昔から異界に繋がりやすいという。更に言えば、この家は大社の北東――つまり鬼門の方向に置かれてもいる。それも不吉の理由の一つなのかもしれない。
「お邪魔します。御名方さん、いますか?」
やや乱暴に扉を開けて、声をかける。
一月前に来た時と同じ、まるで人を飲みこむかのような造りだ。畳敷きの玄関に、古びた柱と時計。襖に遮られた部屋の奥が怪しく、折れ曲がった廊下の先は見通せない。
肝試しをしたら、そのまま使用できるレベルの家だ。
「こんにちは。……入りますよ!」
半ば自棄になって、私は靴を脱ぐ。其処で気がついた。
玄関に見慣れない靴が有る。女性の物が二足。高そうな革靴と、踵の低いヒールだ。もしやこれが、家を訪れているという医者の物か。
てっきり男性かと思いこんでいたが――――水鳥先生の知り合いなら、女性でも変ではない。間取りは覚えている。勝手知ったる人の家とばかりに家に踏み込んだ、その時だ。
ギシリ、と床が鳴った。
鶯張りを彷彿とさせる音は、廊下の奥から届く足音だった。
「あ、四音さんのお友達ですか?」
私の声に気が付いて、玄関へ顔を出した人がいた。
……いや、本当に、人だったのか。一瞬、まるでその人が、人ではない“何か”にも見えた。
早苗の時と同じだ。理性や能力としてではなく――――自分の勘が、僅かではあるが、違和感を告げていた。
……おかしい。現実は、こんなに危ないと思える物だったか。
「……貴方は?」
本来ならば滅多に感じる筈の無い感覚。十五年という時間の中で数えるほどにしかない、現実離れした感覚を、早苗に次いで立て続けに。常識ではありえない。何かあったら直ぐに逃げ出せるような格好を取って、私は思わず睨んでいた。
その“人”は、不思議そうな顔をする。まるで、何故私が、此処まで警戒心を持っているのか、理解できないとでも言うかのよう。
それとも、彼女にとってみれば私の警戒など瑣末なレベルなのかもしれない。ブレザー服も、スカートも、普通の女性の格好の癖に――――妙に隙がない。軍人みたいだ。
様子を伺う私を興味深そうに見ながら、女性は微笑み。
「私は稲葉。稲葉鈴です」
紅い瞳をきらりと光らせて、そう名乗った。
きっと本名では無い。
冴え渡る心の何処かで、私は悟っていた。
やっと更新できました……。
さて、此処から東方キャラもちょっとずつ出てくるかと思います。基本“こちら側”ですので、向こうをメインとする人は出ませんが、それでも少しは。神様関係が多い予定です。
ストーリーの大部分と結末は決まっているので、気長にお待ちください。
早苗や水鳥先生は当然ですが、玲央の異常な勘の強さも伏線です。
少しでも感想を頂けると、凄く嬉しいので、宜しくお願いします。
ではまた次回!
(6月29日・投稿)