意味が判らなかった。
『悪いけど、もう遊べなくなったから。沙織や、アンタの妹とは。あたしは――』
もう二度と桐乃の声を聞くとは思っていなかったし、ましてや、それで知らされる内容が三行半となると完全に理解の範疇の外だった。
「……それって」
俺は立ちつくすしかできないでいた。
言葉に出来ない虚脱感に襲われ、スピーカーから響く桐乃の声もうまく頭に入ってこない。
信じて疑わなかった――と言うほど強烈に信頼していた訳でもない。
だけど、だけどよ。こんないきなり!
……なんでだよ。
だっておまえら、あんなに楽しそうにしてたじゃねえか――
『――それで……ちょっと、もしもし? 聞いてんの? ねえ!』
「お、おおぅ!?」
『チッ……ちゃんと聞いてなさいよ。折角アンタにも連絡してやってるってのに』
桐乃の怒鳴り声に、ようやく俺は気を取り戻した。
気付けば、電話の向こうの桐乃はやけにイライラした声色で俺を詰っていた。
『…………一度しか言わないから、今度はしっかり聞いてよね』
桐乃の声がいきなり冷たいトーンになり、否応なしに身構えさせられる。
気が動転してしまったが、ようやく頭も醒めてきた。
思い出せ、俺は沙織になんと言われた。
「ああ……いきなり電話を寄越すなんて、一体どうしたんだ?」
心を冷やせ、頭を回せ。俺には俺のやり方がある。
感情的になったって、いらん事言って勘違いを生むだけだ。
俺はスピーカーから漏れ聞こえる音に意識を集中して返答を待った。
『あたし、もうオタクは卒業するから――――もう、アンタの妹たちとは……友達じゃ、いられない』
はは……友達と言ってくれるのか。あの、妹のことを。
「……それなら、どうして。あんなに真摯にエロゲへの想いを語ってたじゃねえか。昨日のことみてえに思い出せるよ、熱弁を振うおまえの姿は……なあ、なんで、オタクを卒業するんだ? どうして…………妹と友達じゃいられないんだよ?」
『……どうしても』
消え入りそうな声だった。
絶交しようとするやつが、そんな声なんて出すもんか。
「明日……またオフ会があるんだろ? それはどうするつもりだ」
『ふふっ、妹の予定をバッチリ押さえてるなんて……やっぱりアンタ、シスコンだよね』
努めて真面目に訊いたのに、スピーカーからはクスクスと可愛らしい笑い声が聞こえてきた。
俺のことはどうでもいい、今話してんのはおまえらのことだ。
「それで、どうなんだよ」
『……オフ会も行けない』
「それは、おまえがオタクを卒業するからか? どうしていきなり、そんなことを……」
『別にいいでしょ。自分の趣味をどうするかなんて……そんなの、あたしの勝手じゃん!』
クソッ、押し問答とはこのことか……押して駄目なら引いてみろ、だな。
「たしかに、ある日突然オタク趣味をやめるってことはあるかもしれない。ああ、それはおまえの勝手だよ。止めはしねえ」
俺も、自分の厨二病に気付いた時は、オタク趣味をかなぐり捨てたことがあったよ。
「だけど、なにも友達付き合いまでやめる必要はねえだろ? 沙織も、アイツも! ……おまえが居なくなったら、寂しがるって」
隙をついては三人の姿が瞼の裏に浮かんでくる。俺は叫びたいのを必死に抑えた。
『オフ会をドタキャンしたのは悪いと思ってる。けど、別にあたしがいなくなったところで……沙織やアンタの妹には、いくらでも代わりはいるでしょ」
バカ野郎! 長女のコミュ力の足りなさ加減はおまえだって分かってるだろ!?
おまえの代わりはいねえんだよ!
「そんなことねえよ! おまえとじゃなきゃ、あんな楽しそうに言い合えるか! 沙織や妹だけじゃねえ、おまえだって――」
『……もう、しつこい! やめてよアンタまで! あたしは今日限りでオタクを卒業するの! もうオタク女となんて、遊んでられないのよ!』
「『なら!」』
遅れて、スピーカーの向こうから割れた自分の怒声が聞こえ、血の上った頭が急速に冷めていった。
「……それなら、どうしてわざわざ俺にまで教えてくれたんだよ」
……バカ野郎は俺じゃねえか。
たった一つの事にとらわれ、わざわざ俺に電話してくれた桐乃の心情なんて、考えようともしていなかった。
『……それは』
「俺がアイツの兄貴だからだろ? ……おまえ、妹ゲーが大好きなんだもんな」
『ち、ちがう! あたしはもう、オタクなんかじゃ!』
桐乃は怒鳴りつけてきたが、むしろ優しい気持ちになった。
きっと自然な行為だったんだ。まさかそんなことを言われるだなんて、考えもしなかったのだろう。
「まあ、ただおまえが俺よりも妹想いで、アイツより兄想いだったってだけかもな。オタクとは関係ねえ……そういうことにしていてやるよ」
『…………そういうことなら、それでいい』
ようやく譲歩を引き出せた。ミッション達成まで、あと一歩だ。
「だったらついでに聞いて欲しい事がある。せめて、明日のオフ会に行ってやれないか?」
『……何であたしがそんなこと』
いかにも不機嫌そうな声……いや、事実不機嫌なのだろう。
おまえにゃ悪いが、もう少しだけ不機嫌になってもらおう。
「いやさあ、もしこのままドタキャンされたら、アイツ怒って俺に八つ当たりしてくるかもしんねえし、逆におまえを説得してオフ会に来させられたら、頼れる兄として俺の株も上がるかもしれねえだろ? ……俺の顔を立てるためだと思ってさ、なあ、頼むよ」
いかにも軽薄な申し立てに、罵声でも返されると思ったが、意外にも桐乃はあっさりと、
『…………はあ、わかったわかった。あたしも、そういうコトにしといてあげる。明日のオフ会は……ちゃんと行くから』
「ホントか!?」
『……もう、これっきりだけどね』
……そんな寂しいことを言うなよ。おまえも、何かを思って引き留められてくれたんだろ?
おまえを手放すことになったら、引き留めた意味もないんだよ。
『……沙織にはあたしが連絡するから、“黒いの”にはアンタから言っといて』
しんみりとした沈黙は桐乃の声で打ち破られた。
「え? 俺から?」
なんでまた……まあ、俺から伝えれば手間は省けるが、長女とは絶賛気まずい状態なんだけど……。
それを知らないがゆえの言葉と思ったのだが、桐乃は『ふん』と鼻を鳴らして、
『アンタに花を持たせてあげるって言ってんの……感謝してよね。アイツの日記にちょっと書いてあったけど、なんかギクシャクしてんでしょ?』
……どうやら俺は桐乃を見くびっていたようだ。
何が書かれていたのかは知らんが、おまえはすっかりお見通しってわけか。
まったく、大したアニオタだよ。
「気を遣わせてすまねえな……愛しのおまえが来てくれるなら、あいつもきっと喜んでくれる」
『キモ。このシスコン』
「うっせ。俺はシスコンじゃねえし」
『はいはい』
互いに軽口をたたき合うが、どうしても奇妙な沈黙が訪れてしまう。
なあ桐乃……いったい何があったんだ?
いきなりオタクや友達付き合いをやめるだなんて。
しかもそれを律儀に教える? こんな悔恨の混じった声で?
そんなの、おまえのキャラじゃねえよ――
『――あたしにも、アンタみたいな兄貴がいたら』
「…………ん? なんだって?」
『……なんでもない。じゃあね』
「おい、ちょ」
意味深な言葉を最後に、電話は切られてしまっていた。
思案に暮れちまうのは俺の悪い癖だが、しかし、今日はそれが役に立ったか。
一時的とはいえ桐乃を引き留めることができたのには、自分で自分を褒めてやりてえぐらいだ。
絆はいまだに繋がってるんだ。後はゆっくり手繰り寄せればいい。
「……しっかし、俺から言えって言われてもなあ」
さっきまでは長女と話すのだと意気込んでいたが、すっかり桐乃にガス抜きされて、結局、画餅に帰しちまったぜ。
ああいや、桐乃のせいじゃねえ、これは不甲斐のない自分のせいだ。また俺の他の誰かのせいにしてなるものか。
だがなあ、ここから無理やりテンション上げていけと言われても……そんな風に鬱になりかけていたその時。
「うおっ!」
ガラッ! といきなり襖が開いて、長女が顔を覗かせた。
「……話は聞いたわ」
髪で隠れた横顔からは、どうも感情が読めない。
絶好のタイミングとは言い難いが、ここで話をしない手は――
「る、瑠璃? えっと、あのよ、ちょっと話が」
「明日は、貴方も来なさい」
ピシャン!
言い切る前に、襖が閉められてしまった。
最後まで聞けや! ……と言いたいところだが、長女との対話のずっと前に、もっと大事なことができてしまった。
なんで俺に来いと言ったのか……俺にはそれは分からない。聞いても答えちゃくれねえだろう。
だけど長女直々の御達しだ、行かない手はないだろう。俺に異論はなかったよ。
「しかし……課題は山積みだな」
試験勉強に、俺と長女の兄妹仲、最後は桐乃の爆弾発言。
全部完璧にこなすのは、明らかに俺にはオーバーワークだ。
まずは優先順位の高いものから取り除かなければならねえな……なにごとも、一足飛びには解決できねんだから。
処置を考えながら目頭を揉んでいると、少し離れたところに立っていた次女が俺の傍まで駆け寄ってきた。
「京兄ぃ……仲直り、できたの?」
不安げな次女の顔から視線を下げる。
長女の部屋の襖には、黒いスカートの裾が挟まっていた。
「……これからできるさ」
絆はまだ、切れちゃいない。
「あ…………切られてしまいました。きりりん氏、もう少しで来るそうです」
俺の左に座る沙織は、携帯を閉じてそう言った。
まるで今後の結末を予感しているようだ……そんな不吉なことを考えてしまった俺を誰が責められよう。
桐乃から電話をもらった翌日の今日、いざオフ会に来てみたものの、かれこれ二時間近く桐乃に待ちぼうけを食らっているのだから。
駅前で待ち合わせの予定だったが、「悪いけど遅れる。テキトーに店入ってて」という電話がかかってきたのは、予定時刻から三十分ほど過ぎてからのことだった。
とりあえず俺たちは例のマックの二階に場を移し、以前と同じテーブル席に陣取っているのだが、いくら待てども桐乃が来ない。
気付けばもう午後四時過ぎだ。夏至を迎えたのはつい先日だが、長話でもしたら日も暮れちまう。
「……本当に来るのかしらね。疑わしいものだわ」
「そう言うなって、来ないならわざわざ連絡しねえだろ?」
「……ふん」
長女はぷいと顔を逸らした。
ついて来いと言うぐらいだから、少しは心を開いてくれたのだろう、というのは全く大きな勘違いでして。
秋葉原駅で落ち合ってから、ずっとこいつはこんな調子である。まだ前よりはマシになったが……和解したとは言い難い。
ちなみに俺と長女は別々の電車で秋葉原までやってきた。というか、俺が置いていかれた。気付いたら先に行かれていた。
今も俺の隣の沙織の対面……つまり、俺から最も遠い対角線の席に坐している。
ホント、こいつはなにがしてえんだか……。
「ネットで知り合った人間なんて……所詮こんなものなのよ。いちゃもんをつけられることがなくなって、むしろ清々するわ」
どこかで聞いたような台詞だな。
それならさっさと帰っちまえばよかったじゃねえか。そう言ってやらないのは俺と沙織の約束だった。
言うまでもないさ。みんな桐乃を信じて辛抱強く待っているんだ。
「なんとか引き留められはしたが、沙織はどうするつもりなんだ?」
人間に翼はないけれど、頭も足も手だってある。つないでおくのは難しい。
だが、『引き留めろ』と言うぐらいだ……それでも沙織なら何か手があるんじゃないか。
俺はすっかりそう思っていたのだが、しかし沙織は浮かない顔だ。
「わかりません」
「わ、わかりませんて……おまえな」
「とりあえず、きりりん氏に話を聞いてみないことには、わかりません。すべてはそれからです」
そりゃそうか。いや、おまえの言う通りだよ。
「それなら質問を変えよう、沙織はどうしたいんだ?」
「拙者は……きりりん氏を拉致監禁してでも引き留めたいです」
沙織にしてはつまらんギャグだ!
当の本人はというと、どこか疲れた様な笑みを浮かべていた。
大らかなやつだが、思うところがあるんだろう。
笑ってやるのが礼儀ってもんか。
「はは、沙織、もしかして怒ってる?」
「いえ、怒っているというより……そうですね、とても寂しくて、悔しくて、やりきれない思いで一杯です」
「随分はっきり言うんだな……ったく、誰かさんとは大違いだ」
その素直さは、素直に羨ましいよ。
俺が半畳を入れると、沙織はようやくいつものように口元を綻ばしてくれた。
「他人を理解したいなら、まず自分の心を理解しなければいけませんからね」
沙織は長女に目をやってから、俺にこっそり耳打ちしてきた。
「ここだけの話、昨晩黒猫氏ともお電話させていただきましたが、その時はとても落ち込んでいましたよ……やはり、黒猫氏も寂しいのでしょう」
まさかあの長女が……なんて、数か月前までの俺なら反応していたところだろう。
だけど、冷血に見える瑠璃も、あたたかい血の通った人間なんだ。こんなこと、至極当たり前なんだろうがな。
でもそれは俺にとって、あまりに近すぎて、当たり前に思っていて、実は見過ごしていた、大切なことだった。
「……ちょっと、沙織。聞こえているわよ。勝手に人の気持ちを捏造しないでくれるかしら」
「おや、これは失礼」
わざと大き目な声で言ったくせによ。いつもはそれとない沙織の気遣いが、今日はまるで目に見えるようだった。
長女も長女だ、しょぼくれやがって。まるで借りてきた猫状態だ。
「……しかし、京介氏には突然無理を言ってすみませんでした。きりりん氏を引き留めてくれてありがとうございます。今日もわざわざご足労いただいて……」
「別に、その男に感謝する必要はないわ……どうせ、あのビッチからの好感度を上げたいがための行動なのだから」
「おいコラ」
今日この日、試験前の休日だってのに、わざわざ秋葉原くんだりまで来たのは、誰かの好感度を上げるためじゃねえんだよ。
おまえから俺への好感度は、相変わらずマイナス方向に振り切ってるみたいだけどな! ようやくエンジンかかってきたか?
――と、背中に聞き覚えのある声がかかった。
「お待たせ」
振り返る必要はなかったさ。長女の顔を見てりゃあな。
「って、うわ、クソ猫の兄貴までいるし」
そいつはジュースを乗せたトレーを持って俺の右手を通りながら、挨拶代わりの憎まれ口をかましてきた。
そのまま俺の目の前に座ったのは、見覚えのある派手な美少女様だ。
「……よう桐乃、久しぶりだな」
「お待ちしておりましたぞ、きりりん氏」
「…………ふん」
三者三様の受け答えに、桐乃は無言でジュースを持って緩慢な動作で口をつけた後、カップをトレーに戻してから、ようやく俺らに目を合わせてきた。
「さて、と。お別れ会……って雰囲気でもないっぽいね」
遅刻してきた謝罪なんて、端から期待してなかったけどよ。
まさかそんな無感情な声とは予想してなかったぜ。
「ええ。今日はお別れ会でもオフ会でもなく……きりりん氏のお話を聞かせていただきたく思いまして、こうして再び集まってもらいました。それでは、事情聴取を始めましょう」
沙織の茶化すような宣言に、しかし桐乃は眉を曇らせて、「……イヤな言い方」と初めて感情を露わにした。
「もうこれ以上話すことなんてないんだけどね……遅れてきてなんだけど、あたし今日は早く帰んなきゃなんないから」
どこまでも突き放すような口調だが、そんな言葉にイラつくようなら、とっくに俺たち帰ってるって。なあ、おまえら?
「拙者にとっても早く済むに越したことはありません。ですから、単刀直入にお伺いします。どうして会えないなどと仰るのですか? どうか事情を聴かせていただきたい」
「そうね、わざわざここまで来てあげたのだから、納得のいく説明をして頂戴」
沙織はいつものωをして、また、長女は普段通り不機嫌そうにそう言った。
「別にアンタに来てほしいって頼んだ覚えはないしィ。恩着せがましく言わないでくれる? なんか滅茶苦茶ウザいから」
「一時はドタキャンしたというのに、おめおめと顔を出してきてその台詞? しかもこんなに遅れてきて、一体どういう神経してるの?」
「きりりん氏、その言い方はないでしょう! 黒猫氏も!」
やべえ! どいつもこいつも殺気立ってる!
「お、おい、三人とも落ち着けって!」
誰も彼も急に情緒不安定になるなんて、とんだ見当違いだった……!
まさかあの沙織までナイーブ入っていようとは……。
俺は慌てて間に入ったのだが、かえって火に油を注いだだけだったようで、桐乃は俺と長女に流し目を寄越してから、
「つか、なんでクソ猫の変態兄貴までいるわけ? こんな地味面、それこそ来てほしいって頼んだ覚えはないんだケドぉ」
「へ、変態兄貴っておまえな……」
いや、アレは悪かったと思ってますけどね? そんなに毛嫌いしなくても……。
「一応、最初に集まったときはこの面子だったから……別に、深い意味はないわ。ただ、この地味面を連れて来ればあなたが嫌がるんじゃないかと思っただけのこと」
顔を逸らした長女が答えた。
俺の顔は魔除けかなんかか……確かに桐乃は嫌がってたけど!
「つーか、俺って地味面なのか……?」
たまらず訊くと、長女と桐乃は口を揃えてこう言った。
「自信に思っていいほどの地味面よ」
「自分が地味面じゃないとでも?」
ええい、おまえらジャリどもには聞いていない!
沙織! おまえの眼鏡に俺はどう映るんだ!
「……まあ、地味面ではないと言ったら嘘になるでござるな」
ガッシ! ボカッ! 俺は死んだ。スネーク(笑)
テーブルに額を打ち付けた俺を無視して、三人は静かに話し合いを続けた。
「それで? ……一体、どうしたというの?」
「何度も言ってるでしょ。あたしはオタクを卒業する。だからアンタたちには構ってあげられない」
もう何度目にもなるその言葉。もはや、桐乃はまるで何も価値を見出していないかのようだった。
「私は納得のいく説明をしろと言ったのであって、そんなことを聞いたんじゃないのよ。いい加減、ちゃんと話しなさい」
「きりりん氏、なぜ遊べないなどと言うのですか。あまりにも突然すぎます」
長女と沙織の硬い声色に、桐乃も強情に応えた。
「だから、言ってるじゃん。オタクをやめるから遊べないって」
「オタクをやめたら遊べないという道理はありません」
「じゃあ、もう暇じゃなくなったから、アンタたちとは遊んであげられない……そういうことでいい?」
桐乃の主張は牽強付会というものだった。
そういうこと……ね。
まるで、友達付き合いをやめるのが目的であるかのような言い回しじゃないか。
沙織も違和感を禁じ得なかったようで、
「……それでは質問を変えましょう。きりりん氏は、オタクをやめるから、私たちと遊べないと言うのでしょう? それならなぜ、オタクをやめると言うのですか?」
「……別に、それはいいでしょ」
「よくないのよ。オタクをやめるという言葉こそ、今日のこの場をもたらした、諸悪の根源なのだから」
その通りだった。桐乃は素直に話そうとしないが、それこそ全ての元凶なのだ。
「諸悪の根源とか、アンタは相変わらず痛いなー」
「逃げないで、真面目に答えなさい」
「……っ」
舌鋒鋭い切り返しに、言葉に詰まったようだった。
桐乃は歯を食いしばってから、口を開いた。
「オタクをやめるかどうかなんて……全部あたしの勝手じゃん!」
「勝手ではありません!」
間髪入れずに叫んだのは、泣きそうな顔をした沙織だった。
目を丸くする桐乃と長女に、沙織はひどく気づかわしい笑顔を見せた。
「だって……私たち三人は、友達じゃないですか」
胸が張り裂けそうな声だった。
「…………勝手に決めつけないでよ」
「……まったくその通りだわ」
桐乃と長女は揃って顔を背けた。
「きりりん氏……どうか理由を教えてくださいませんか」
「……やだ。言いたくない」
「なぜ言いたくないの?」
「……それも言いたくない」
見ているこっちが気が滅入るような雰囲気が三人の間には漂っていた。
項だれる桐乃に、沙織や長女はまるで腫れ物に触るかのように言葉を選んで接している。
桐乃も桐乃で、まるで角を折られた鬼のように、じっと俯き、膝の上で握りしめた手をひたすら見つめ、頑なに拒絶の意を見せつけていた。
これ以上は打つ手がない。まさに、そんな状況だった。
……じれったさと、焦がれる胸の痛みに息苦しさを覚える。
桐乃たちの問題は、桐乃たちで解決すべきではないか――そう思って、これまで押し黙って聞いていたのだが、
「……おまえら、なに遠慮してんだよ。どっちもはっきり言ってやればいいじゃねえか」
ここらが我慢の限界だった。
「桐乃、見損なったぜ。あれだけ言ってたのに、そんなにすっぱりオタクを辞められるなんて、やっぱりオタクはファッションだったんだな」
なあ、おまえらにはおまえらなりの真摯なやり方ってもんがあったはずだろ?
それなのに、使わないなんて誠実じゃねえ。だったら俺が代わりにやってやるよ。
俺は出来た人間じゃねえから、ちょっと乱暴になるかもしれねえけどな!
「おい、聞こえなかったか? アニメやエロゲーなんて、結局おまえみたいなスイーツ(笑)にとっちゃアクセサリー感覚だったんだろ、って言ってんだよ」
「……なんですって?」
かかった。
俺は内心ほくそ笑んだ。
珍しく長女が慌てた顔をして、沙織も「京介氏ッ!」と声を荒げたが、まるで知らんぷりをする。
わかってるよ、これが低劣な方法だってことぐらい。この状況ではあり得べからざる危険な賭けだということも。
でも、だからこそ、俺がやんなきゃいけねえんだよ。小難しいことを考えるのも、泥を被るのも、全部俺の役割だ。
おまえらは何も考えず、ただ馬鹿みたいに笑っていてくれればいい。
「はん、やめたいならやめちまえばいい! くっだらねえ、どうせ『回りとはちょっと違うオタクなアタシ』を気取ろうとして――」
バン! と鈍い音がした。
俺の方に身を乗り出した桐乃が、その精緻な顔をぐちゃぐちゃに歪めて、右手を振り抜いたまま息を荒げていた。
「――っざけんな……ふざけんなッ! なによアンタまで! あたしがどんな気持ちで……知った口聞くなッ!」
周回遅れで、俺の左頬に灼熱のような痛みが浸透してきた。
恐ろしい顔で俺を睨みつけてくる桐乃の双眼には本気の憎悪が見てとれる。
そう、それでいいんだよ。
「じゃあ、どうしてオタクをやめるなんてこと言うんだ! そんなこと、おまえに出来るわきゃねえだろう!」
俺もムキになって言い返したが、頭はどこか冷えていた。
衆目を引きまくっていることは分かっていたさ!
だけど、今やそんなこと知ったこっちゃなかったんだ。
「うるさいっ! あたしはやめる! やめるったらやめる! とにかくやめるの! アニメも見ないで……ゲームも捨てて! あたしはオタクから真人間に戻るの! だからアンタたちとは二度と会えない!」
桐乃はヒステリックにわめき散らした。
ようやくボロは出てきたが、まだおまえの本音は聞けちゃいねえ!
「おまえにとってアニメやエロゲはそんなもんだったのかよ!」
とんでもない台詞だよ! まるで頭が沸いてるぜ!
けどな、俺は大真面目なんだよ! おまえもいい加減、素直になれや!
「そう! そうよ! くだらないのよ! ネットも、アニメも、ゲームも全部! アンタたちとの――オフ会だって!!」
だったら、最初からそう言えばよかっただろうに。
「……それなら、なんで泣いてんだよ」
大きく見開かれた目には、大粒の涙が溜まっていた。
「……っ、な、泣いてないっ! こちとら泣くときはエロゲーでって決めてんのよ!」
桐乃がハッと口を押えると、はらはらと目から滴が零れ、頬を伝って顎から落ちた。
やっと尻尾を出してくれたな。ちょろいもんだぜ、このマヌケめ。
「バカ野郎、俺だって決めてんだ。女の子を泣かせるときはセクハラでってな」
桐乃は俺のイケメンスマイルを見て、失礼なことに吹き出しやがった。
「な、なにそれ……バッカじゃないの……っ…………か……カッコつけんな……っ……地味面のクセに」
ま、こんな地味面でもさ、泣いてる女の子を笑わせられれば上等だろう?
五更京介は紳士なんだよ。だからさっさと泣き止んでくれ。
俺はハンカチを差し出した。
その後、トイレで化粧を落としてきた桐乃は、元の席にちょこんと座って「なんだか、泣いたらすっきりしちゃった」と儚げに呟いた。
すっぴんになった桐乃は、年相応の雰囲気を帯びていて可愛い――じゃなくて。
おまえな、それで済むと思ったら大間違いだぞ。俺はもう、話を聞かないと気が済まねえんだよ。
なんたって、俺の頬のがおまえの目よりも遥かに赤く腫れてんだからな!
そりゃ俺もひっでーこと言っちまったけどさ? なにも本気で振り抜くこたぁねえだろうよ!
さっき沙織に鏡を見せられた時は仰天したぜ……マジで紅葉が張り付いてたんだから。
「オヤジにバレたの」
桐乃は短く言ってから、ぽつぽつと語り始めた。
「ウチのオヤジ、堅物でさ……こういう趣味は、絶対許してくれないんだ。なのに、ちょっとしたきっかけで、あたしのエロゲがオヤジに見つかっちゃって、説教されて……」
まあ、自分の娘がエロゲーマーだったら説教もするわ。
「アニメも、ゲームも……オフ会も、全部、全部くだらないって、そう言われて……何も言い返せなくって……」
桐乃は肩を震わせ、吐き捨てるように言葉を継いだ。
だんだん話が見えてきた。オタクをやめるなんて、やっぱりこいつの本意じゃなかったのか。
「それで、ついカッとなって観葉植物の植木鉢で殴りかかったら……」
ちょ、ちょっと待てや!
「か、観葉植物ってあれだよな……? サボテンみたいな小振りなヤツだよな……?」
「ううん、あたしの背丈ぐらいの」
こいつ、ガッツリ殺しにいってる……!
桐乃のあまりの行いに戦慄していると、沙織が俺の膝をタップして目配せしてきた。
ああ、そうだったな。悪い悪い。
こいつの話が終わるまで、なるべく黙って聞いてやるというのが、俺と沙織と長女の取り決めだった。
「結局、オヤジに取り押さえられて、家探しされて、全部バレて……あたしのコレクション、全部捨てられることになっちゃった」
桐乃はけろりとした様子で苦笑した。
さも仕方がないというような感じだが、無理をしているのは明らかだ。
「全部取り上げられたら、わからなくなって……どうしてあんなにハマってたのか、どうしてエロゲに、あんなに感動したのか……もうオヤジの言う通り、くだらないものなんだって思い込んで、諦めようと思ってた。でも、やっぱり無理だった」
桐乃は一息ついてから、空しい声でこう言った。
「エロゲはあたしの全てだった……だから、今のあたしはもう空っぽなのよ」
そう言ったきり、桐乃は喋るのをやめた。
俺も長女も、悲愴な桐乃の顔を見ては、かける言葉が見つからなかった。
「し、しかし、それでも、こうやって集まることぐらい……」
沙織のやっとの問いかけにも、桐乃は力なく首を振る。
「こんなことに使うなら、って言われて、お小遣いも止められて、読モもやめさせられそうだし……ネットもケータイも、もう解約するって言われた」
徹底している。いや、しすぎている。
桐乃にとってはライフラインを切断されたようなものだろう。
しかし、それで突き放すような態度を取ったのか……難儀と言うか、律儀と言うべきか。
「だから、どうあがいたって、もうアンタたちとは遊べないの」
たしかに、おまえの証言を信じる限りはそうらしい。だけどよ、
「おまえは、それでいいのか? 悔しくないのかよ」
そんなこと決まってる。痛いぐらいに分かってる。
でも、桐乃の全てを諦めた様な口調には、口を出さざるを得なかった。
「いいわけない……『オタク趣味なんてくだらない』とか知った口聞かれて、あたしの大事なコレクションまで捨てられて……悔しくないわけないじゃない!」
桐乃はテーブルに拳を叩きつけ、息巻いて食って掛かってきた。
辛い思いをさせてすまねえな。だけど、おまえの意志を聞いておきたかったんだ。
「なんなのよ! そんなにあたしが憎たらしいの!? 普段は無関心で、あたしの事なんて気にも留めてないくせに、いきなり親父面してきてさぁ! ……あんなオヤジ、大っ嫌い!!」
抑え込んでいた感情を爆発させるように憤然とまくし立てた桐乃は、
「……でも、あたしはまだ子供だから。家から放り出されたら……生きていけないから」
と呟いて、急にその怒りを胸に収めて俯いた。
ライトブラウンの前髪から覗く瞳には、諦観と落胆が同居したような、複雑な色が宿っていた。
それしか方法がない、仕方がない……何度も何度も考えた末の、苦渋の決断だったのだろう。
「悔しくないわけないよ……せっかく……友達もできたのに」
絞り出すような声に胸を打たれる。
わかってる、わかってるんだ。まるで自分のことのように、心が痛むよ。
「……ごめん、もう帰らなきゃ。今日も無理して抜け出してきたんだ」
桐乃は俯いたまま立ち上がった。
「短い間だったけど、アンタたちに会えて……それなりに、楽しかったよ」
顔を上げた桐乃は、殊勝な笑顔を作っていた。
目尻を涙で光らせながら。
「それじゃ……バイバイ」
このまま見送るヤツがいたら、そいつはとんだ玉無し野郎だ。
俺?
当然引き留めたさ。
まあ、俺だけじゃなくて沙織や長女まで一斉に桐乃の腕にしがみついたもんだから、幾分格好がつかなかったがな。
「待てよ、要はおまえの親父をどうにかすればいいんだろ?」
席を立ち、桐乃の逃げ道をさりげなく塞ぐ。
「俺が話をつけてやるよ」
家庭問題に口を出すのは気が引けるけど、それより他に道はない。
「そ、そんなの、できるわけない」
「無理は承知さ、でもやってみなきゃわかんねえだろ。俺に任せてみちゃくれないか?」
なに、べつに死ぬわけじゃないんだ。せいぜい俺が恥をかくだけさ。
そう思ってると、申し合わせたように沙織と長女が立ち上がった。
「京介氏だけに格好つけさせるわけにはいきません、拙者もついて行きましょう」
「……オタクはくだらないなんてほざく無知蒙昧は、私も放っておけないわね」
相変わらず長女は素直じゃねえが、百人力を得たようだ。
「なんで? なんで、そこまでしてくれるの……?」
桐乃は呆気に取られていた。
おいおい、それこそ心外ってもんだ。
「友情は見返りを求めません」
「……ふん。別に、礼はいらないわ」
虚を衝かれたような顔になっておろおろとする桐乃は、今度は俺を見上げてきた。
「あ、アンタは、どうして……」
なんだ、おまえならとっくに分かってくれているものだと思ったけどな。
勇敢な男は自分自身を最後に考えると言うが、あいにく俺は臆病者だ。
これは誰の為でもねえんだよ。強いて言うなら、自分のためさ。
「おまえに恩を売っとけば、可愛いモデル友達でも紹介してもらえるかもしれねえだろ? そういうことだ」
「「「……………………」」」
三人揃って微妙な顔を……いや、長女だけはずげぇ目つきで睨んできてる…………。
……まあ、別に、それでいいのさ。誰かに恩を押し売りする気は、俺にはさらさらねえんだから。
俺は長女と仲直りなんて、できなくたっていいんだよ。