■ うたわれてるもの 漢中から蜀の地の入り口である梓潼。 そしてその地を含めて益州を治めている劉焉の元に降って沸いた一組の男女。あまりに唐突、それでいて予想のできない、まさしく奇々怪々な者が現れた。そう、彼らは招かれざる珍客である。その事実を認めると劉焉は口元に白い手をあて目を瞑る。急激に渇いた唇を湿らすように舌でなぞると、小さく息を吐いて思考に耽った。この地へ訪れた男。 それは長く続く漢の時代において、それこそ数多の英雄と比べて遜色ないほどに突如として輝かしい光を放った妖星だ。性を北郷。 名を一刀と言う。劉焉は溜息を漏らし、片手で揺らす杯の中身をしばし見つめてから、瞼に手を当てて当時を振り返る。帝である劉宏様がいきなりぶっ倒れたと思ったら"天の気"などという意味不明な接吻行為によって即時回復させたかと思えばだ。全ての過程をすっ飛ばし、清流派と呼ばれる官吏達を巧みに追い出したあの悪名高い"濁流"どもを牛蒡抜きにして『天代』などという謎の役職に就任したのである。それだけでも歴史に名を残すだろう未曾有の出世。 劉焉にはとてもじゃないが理解が出来そうに無い手練手管である。しかも、だ。北郷一刀が出世を果した直後に起きた、洛陽での黄巾動乱では何時の間にか大将軍の何進を差し置いて総大将としての地位で出陣。敵大将と一騎で槍を合わせて討ちとめ、賊軍を敗北させたらしい。総大将同士による槍矛の交え、天に虹を描くなどと、伝え聞く英雄同士の会話でしか聞いたことが無い所業を、その場でやってのけたのだと言う。いかにも上手く出来すぎた話である。間違いなく黄巾の本隊と北郷一刀は繋がっていたに違いない。狡猾なケモノ、北郷のことだ。 黄巾という賊徒は出世のための捨て駒とし、北郷一刀という人物が最大限利用されたのだろう。その後、諸侯との繋がりを調教などという如何わしい名の講義を用いて、多くの少女達を帝の娘の離宮へと囲い―――『閉じ込めた』 劉焉は不幸にも、"調教先生"一刀に出会う前と後で、豹変してしまった少女達が居るという事実を知る数少ない一人であった。たった数刻の短い時間に何があったのか、それは判らない。いずれも英雄足りえる精悍な少女達の一刀へと向ける眼、それは急速に変貌していったのを知っていた。数日から数週間後にはとろろ~んとしていて、ゆがみ、淀んでしまっていたのだ。筆頭たるはその場に居るだけで悪目立ちする袁紹だったろう。あの傲慢で目に優しくない色合いの装飾品を馬鹿ほど身に着け、知性のかけらも見られないアッパラパーだった筈の女性。それが北郷一刀と黄巾討伐に赴いた何十日か後に目撃した時は逞しさすら覚える気炎を纏う有様である。そしてそんな豹変した袁紹も、天代がその場に現れれば一瞬でその相貌は雌の匂いを撒き散らす"ナニカ"に早代わりだ。あの天代の毒牙(暗喩)が奮われたのは、劉焉が知る限り袁家である彼女だけではない。劉焉がそれとなく宮中でスレ違うだけでも、市井から拾った平民……劉性を名乗っていた為思わず観察した桃色な少女や、有名な方の孫家の桃色な少女も。普通に優秀であると評価され幽州を治むる公孫瓚、後は色々と騒ぎを起こして覚えのある曹操の部下もか。もちろん、一見すれば何か変わっているようには見えない。しかし劉焉には判ったのだ。 普段から他者を観察し、その者の性格や仕草、特徴を頭の中に叩き込んで、この乱世を生き抜こうとする劉焉には。北郷一刀は権力者たちの最も弱い部分を突いたに違いない。何せ、あの男には"男たる証"(比喩)が付いている。付いているから突いてしまう。それは自然の発想・摂理であり、周囲に不思議を抱かせることはないだろう……なんてことだ―――自然じゃないか。 劉焉は顔を天井に向けて零れ落ちそうになる涙を留めた。 常識で考えて、僅かな期間で何人もの女性達を次々とトロ顔にして落としていく手腕はおかしい。ありえないとは言わないが……いや、やっぱり在り得ない。劉焉には天の御使いが妖術か何か―――劉焉が考え得る一番有力な妖術の候補はちんこ(直喩)―――で女諸侯達を陥れ、背後で操っているようにしか見えなかった。 そういう理由で北郷一刀を意図的に避けていた劉焉であったが、天代であった頃の一刀は精力的に動いていて嫌でも目に触れる機会が多かったのだ。 そう、劉焉は一刀のことを一方的に知っていて、勘違いもしていた。 悪い方向で。劉焉の額から嫌な汗が一つ流れる。ここまで考えただけで、劉焉が治めるこの梓潼の地に"北郷一刀が在る"という事実を放り出して逃げ出したくなる。時間にして数秒。 瞬きを一度、二度終えるかどうかという短い時間で劉焉は逃げる算段を立てるが、すぐに肩を落とした。世の中には逃避することが出来るものと、出来ないものがあるのだ。残念なことに今は後者の事態に陥っている。現状を切り抜ける為に、そして今後の自身と領地の安寧を得る為にも劉焉は考えなくてはならない。超"ド"級国家指定の超危険人物、そして個人的に最大級の要警戒人物として劉焉が脳裏に深く刻みこんだ野獣の男 『北郷一刀』 の魔の手から逃れるために。「くっ……あ、あの男の目的は一体……まさか噂を聞きつけて私を狙って一発コマそうと……」「いや、じゃから、馬を返して欲しいそうじゃと言ったではないか、御館様」 思考が暴走し一人でうんうん唸り始めた劉焉の背後から桔梗の呆れた声が降ってくる。首だけ器用にめぐらせて、劉焉は桔梗―――厳顔へと厳しい目線を一つ内心で毒を吐いた。豪胆な性格の彼女は、彼を……あの北郷一刀を『天代』と知らずに案内してくれやがったのである。こんなことになるのならば、出会って間もない桔梗と紫苑にも天代は漢王朝から追放されている、と伝えておくべきだったと劉焉は舌打ちする。いや、もちろん北郷一刀はどうやら 『陳寿』 などという偽名を名乗っていた。実際に中央との縁が薄い桔梗が、彼の風貌を知らなかったのは判るのだが。だがしかし、知らなかったからとはいえ、どうして安易に一般人だと認識している者をわざわざ庁舎に連れてくるのだ。自分達はこれでも役人であり、目立たないように立ち回っているとはいえ劉焉は曹操や袁紹と同じように諸侯の一人でもある。身分的にはかなり偉い。 州牧というのはそれこそ簡単に庶民―――しかも友人でも知り合いでも無い個人と顔を合わせることなどない。今在る軍権を振りかざしてこのまま北郷一刀を『陳寿』として亡き者にしてしまおうか。劉焉の握り締めた拳が震えた。対面で桔梗が暢気に茶を啜り、息を吐く音が室内に響いた。「桔梗っ! あんな危険な輩を連れて来ておいてよくもまぁ、のほほーんッとっ!」「そう言われてもの。 普通の男じゃったが……いや、普通ではなかったか、劉焉様にはのぅ」「ええいっ、笑うなっ! 違うんだっ、アレは―――"アレ"が彼の手口! 普通そうな一般人っていうのを武器にスッと権力者に精えk……じゃなくて近づいて伸し上がった逸般人! なんてことだっ、もう既に桔梗にも魔の手が伸びているなんてっ……」「まぁまぁ、落ち着いてください劉焉様。 桔梗も悪気があって連れて来たわけでは無いんですから」「悪気もなにも、紫苑が此処に居るのじゃから仕方なかろう」「私が此処に居るのが悪いように言わないでよ、お仕事なんですもの。 居なくて困るのはあなた達でしょう?」 困ったように頬に手を添えて紫苑は、椅子に座って組んでいた足を組み変えながら事実だけを口にした。桔梗も組んでいた腕を左右に広げて肩を竦める。王朝から遠く離れた地で日々を過ごしている彼女達は北郷一刀を知らなかった。 『天代』なる者の噂は勿論知っていたのだが、その容姿や性格などはあくまで噂だけでしか窺い知れないものだ。つまり、一刀へのアレな噂を含めて全て。信憑性などあったものではないので、そのような人物が帝の近くに居るとだけしか桔梗と紫苑は心に留めて居なかったのだ。事実、賊軍黄巾の一斉決起によって中央の話に構っている場合では無かったのもある。「まぁとにかく……それで、劉焉様。 本当に彼が天代様なんですか?」「ああ、間違いない! あれを見てみろ! この様な厳粛なる政務の場において何とも爛れた情景を見せつけているではないかっ!」「あの方が本当に天代様なら、劉焉様は……」「うっ、そ、それはそうだけど今はその話は忘れていいから! いいね?」「あ、はい……」 保険として拵えた、応接室を覗ける丸い穴の前で、劉焉はそのつぶらな瞳を一心に一刀たちへ向けた。彼女達が居るこの場所は本来、劉焉が取引相手や諸侯の官吏、中央から派遣されてきた使者などと接触する前に、人知れずその人となりを把握・観察する為だけに作られた場所だ。ぶっちゃけただのデットスペースとなってしまった空き部屋に申し訳程度の役目を持たせたに過ぎない。ガン見を続ける劉焉の両脇から、ぬっと腕が伸びてきて重力の楔から開放される。簡単に言うと、抱え上げられて脇にどかされた。「ちょ、こらっ桔梗っ」「しかし覗き穴は一つだけ。 見ろと仰ってもこれでは儂らは見れませぬぞ……っと、ほほう。 確かに焉殿の言う通り、仲良くやっておるのぅ」「桔梗、彼が本当に天代様だったとしたら、冗談じゃ済まないのよ。 覗くだなんて不敬になるわ……それに、私の買ったあの馬のことなんでしょう?」「紫苑、お主は焉殿が仰った"爛れた情景"が見たいだけじゃろ?」「からかうのはよしてよ」「では見たくないのか?」「そうは言ってないわ、私だって見れるなら見るわ」「不敬はよいのか、紫苑」「まだ天代様とは確定はしてないじゃないの」「おい、お前ら真面目にやってるんだよな?」 劉焉の鋭い突込みは、桔梗の次の言葉で一瞬にして流された。「ふぅむ、一方的に少女の方から擦り寄ってるのぅ。 どちらかというと天代殿は困惑しておるようじゃが」「おい、遊んでるんじゃないんだぞ」「遊びとは心外! わしは真剣に覗いておりますぞっ!」 劉焉の叱責に、厳顔は活を入れるような覇気のある声を小さく出すという器用な事をして、力強く断言した。その勢いに押されたのか劉焉は一瞬呆けた顔を晒し、黄忠もその真剣さに一つ目を瞑り、不気味な沈黙が支配するこの場の口火を切った。「……そうね、遊びじゃないんだもの。 一応、彼らの事は私も確認しておくべきよね……ちょっとどいて、桔梗」「こら、急に押すでないわっ」 黄忠は厳顔の顔を、自身の顔でどかすと覗き穴へグイっと近寄った。黄忠と厳顔の二人は小さな覗き穴を交互に顔を突き合わせ、肢体をくねらせて腰を振る。この覗き穴は劉焉の身長に合わせている為、彼女よりも身長の高い彼女達は中腰か、四つん這いになる必要があったのだ。その純然たる事実は判っていても、劉焉が信頼する二人が尻を突き出し左右に振って室内を覗こうといった間抜けた行動に、口から本音がこぼれ出す。「……遊んでなど居ないのだよな?」「もちろんですぞ、焉殿」「そもそも、この穴自体が出歯亀する為の物の筈でしょう?」「ぐぬっ、ま、まぁ、確かにそうなんだが!」 そんな三人の視線を一方的に受け止めている男は、何故か一人の少女と寄り添い合い、"乳繰り"合っていた。「あのメガネの娘、とても綺麗ねぇ。 それに、なかなか積極的だわ」「うむ、腕を引いて乳をそれとなく当てておるなぁ」「でもあのやり方じゃ勿体無いわよねぇ、もうちょっとこう誘い方ってものが……」「確かにもう少し色気が欲しいところじゃの、誘惑の仕方くらい機会があれば教えるのも吝かではないが……」「おい、紫苑も桔梗も不思議に思わないのか、此処は私たち役人の官舎なんだぞ」「そうですねぇ……ふふ、劉焉様が仰る通りですわね。 これが若さってやつかしら? ねぇ、桔梗」「うむ、楽しそうで何よりじゃ!」「その反応はおかしいだろっ! もうどいてくれっ、私に見せろっ、私専用の穴なんだぞっ!」会話の内容がそれを感じさせなかったが、全力で覗く紫苑と桔梗は真剣だった。劉焉は二人の突き出た尻を叩いたり押し込んだりして、ぐいっとその身を滑り込ませる。一方で覗かれている二人の男女は真剣な表情で雰囲気もピリピリとしていた。それもそのはずだ。一刀は言わずもがなだが、微妙な立場に置かれている彼に付き添う郭嘉も大概に危険を背負っている。彼女ほどの知恵者がその事に気がついていない筈はないのだが、それでも郭嘉はここに居た。一刀は頼もしいと思う反面、小さな不安も芽生えていた。もちろん、結果的に郭嘉が此処に居るのは"血の防波堤"として一刀が必要とされただけ、ではあるのだが。もはや隣在って触れ合いながら会話を重ねて過ごすのが、当たり前になりつつある一刀と郭嘉ではあった。だが、郭嘉がその気になれば一刀を見捨てて危険を犯すことなく、鼻血を市中にぶちまければ良いだけの話だ。 いや、それはそれで非常に危険な事態ではあるが、一刀の状況に巻き込まれるよりは恐らくマシなのだ。そう、一刀の抱える『天代』に纏わる爆弾の威力は比べることすらおこがましい、と言えるだろう。とにかく、少しでも間違えれば王朝に弓を引いた反逆者とその協力者として、武威の地にて味わった屈辱を再び受けることになりかねないのだ。ついでに劉焉の治める官舎の壁が凄惨な赤壁と成るか成らないかの瀬戸際でもある。 ―――緊迫もするであろう。「……しかし、遅いな。 厳顔様は……」「そうですね、黄忠様を呼びに行っただけにしては……少し不自然です」「最悪を想定した方が良いんだろうな……しかし」「思考を遮るようで悪いのですが一刀殿、私から少しお話したい事が……」 眼鏡をかけた少女が人差し指を眉間において、一刀の二の腕の辺りにしなだれ掛かかり、上目遣いをしつつ、そう言った。彼は舌で上唇を一つ舐めると目を瞑り、息を吐き出して沈黙し、郭嘉の言葉に耳を傾け始めた。第三者の抱く爛れた情景とは反して、まさしく緊張した空気が流れている。 部屋に立ち込める真剣な空気からか、室内に唾を飲み込む音すら響かせるほどだ。二人の緊張はさておき。桔梗と紫苑の二人の間に、強引に割って入ってチラチラと覗き見を続行していた劉焉は思った。姿は見えても、小声で話し合う彼らの声は余り聞こえず断片でしか会話を捉える事ができないが。だが、不自然なのはお前らだ。お前らの方だ。なんで政務を司る官舎で眉間に皺を寄せて真面目な顔を作り、緊迫しながら綺麗な姉ちゃんとイチャコラしているんだ。そして最悪なのはこの劉焉なのだ。北郷一刀……"天代"が宮中から追放されたのは、先ごろ訪れた官吏から知らされている。州牧となってから何度か、荀攸という少女が漢王朝との窓口をしてくれている為、容易にその内容を思い出せる。劉焉は北郷一刀が政争に敗れた経緯は把握しているのだ。お前らは分っているのか、ここは言わば、北郷一刀にとっては敵地と一緒なのだぞ。なぜお前はここにいるんだ……北郷一刀よ……なにゆえ……劉焉は一刀たち二人を凝視しながら心の中で呟いた。「ふあっ!」「……あっ」「か、一刀殿……その、手が胸に……」「ご、ごめん、ははは」 名も知らぬ眼鏡をかけた少女が急に唸った。何事か、と思った瞬間には北郷一刀が薄く暗い、愉悦に満ちた暗い笑みを浮かべているのを目撃する。一刀はただ苦笑を漏らしただけなのだが、劉焉にとってはその笑みは末恐ろしい悪魔の顔に映った。ヤバイ、あのメガネの少女はもう手遅れだ。おそらく妖術(ほぼ間違いなくチンコ)にかかって、完全に"墜とされた"に違いない。数多の女性と同じく、頬を紅潮させて目がトロローンとなって鼻のあたりを必死に手で押さえ、啜りながら興奮している……劉焉の脳裏に刻まれている記憶を探れば、北郷一刀に関わった女性達の症例と殆ど同じだ。もはや間違いなかった。胸がどうとかのたまいつつも、郭嘉自身は一刀の腕を決して放さないように、ぐいっと乳房に引っ張っていくその行動。この一連の流れは劉焉にそう確信させるに足りた行動であった。だんだんと劉焉は頭に血が昇ってくる事を自覚する。今すぐ兵を呼びつけてぶっ殺したい、という欲求を必死に我慢して、拳を握る。この官舎を血の大惨事にさせてはいけない。血の大惨事は一刀のおかげで抑えられているのだが、そんな特殊すぎる事情は劉焉には理解しようもない。もう少しで喉から声が迸りそうになったのを、必死で押さえたが、鼻の奥に迸る刺激は止まらなかった。景色がぐにゃりと歪み始め、目尻からは水滴が溢れ始める。「くぅっ……やはり、奴の狙いは私……っ……私たちの権力や兵馬……そして穴っ! 桔梗や紫苑が無駄に尻とか振って、エロエロ……だからっ……!」「確かに尻の立派な馬だと思うが」「あの馬の尻……というより、トモは本当にもう立派ですよ。 馬体が大きいから並べると余計に他の馬と比べて引き立つわねぇ」「うむ、実際に駆けているのを見ていても、力強いしのぅ。 それに見合うかのように立派な金色の鬣と尻尾じゃ……陽が照るとよく映える……ぐぬぬ、うらやましいぞ紫苑、このこのっ」「絶対あげないわよ、桔梗、もう、わき腹を突つくのは痛っ! ちょ、やめなさいっ!」「そうじゃないっ! もっと常識的に考えて、しっかり見てみろ! あれは危険な野獣なんだってばっ」 厳顔と黄忠は劉焉の切迫した小声に、じゃれ合いを止めてお互い顔を見合わせた。そして、僅かな間を置いて口を開く。「……危険な野獣とは心外です、かなり利発な子ですよ。 えー、天代様の馬は世間では天馬とうたわれていたかしら」「うむ。 ときおり民達も謡っておられるな。 名を"金獅"だったか」「私が買った時、天代様は周囲に見当たらなかったわ」 黄忠が気付かなかっただけ、という可能性も一応はあるかもしれないが。しかし彼女はこの件の鍵となる"金獅"という馬を見せ付ける為に商人を装った男が口にした売り言葉は覚えていた。間違いなく彼はこう言っていたのだ。『天の御使いが持つ天馬に勝るとも劣らない』厳顔も、黄忠から金獅を見せて試乗してみた際に、歯を合わせて悔しがりながら、その売り文句を耳にしていたので知っている。「つまり、これ等から考えられることは経緯はどうあれ、天代の意思と反して売られたという訳になるな」「ええ。 本当にあの馬が、"金獅"なのであれば間違いないでしょうね……放馬か盗難か、どちらかが原因でしょう」「劉焉様、常識的に考えれば天代様は何とかあの名馬を手元に取り戻したくて、わざわざこんなド田舎までいらしゃった訳ですな」「うう、あんな良い馬を手放したくないわ。 安くは無かったのよ?」「馬のことはどうでもいいんだ、もうお前らは黙ってくれ」 劉焉は二人の頼れる部下を切り捨てた。 今、この非常時において、天代という存在を知らない二人はまったく頼りにならない。とにかく、北郷一刀を抱え込むことやこの場で融通してやる事は精神的にはもとより物理的にも不可能だ。「桔梗、紫苑……北郷一刀に会うぞ」 そしてまことに残念なことに、北郷一刀を殺すことも劉焉には出来ない理由があったので覚悟を決めざるを得なかった。――― ・ これはまだ北郷一刀という異物が外史に混ざる前の話だ。益州は元来、郤倹(げきけん)という刺史が収めていた場所である。彼の者の統治が非常によろしくないとの噂を兼ねてから聞きつけていた劉焉は、自身の昇進が間近に迫っていた事も重なり、益州に地盤を築こうと密やかに中央で工作を始めた。数年に渡る細々とした工作が実を結んだのか、郤倹への取調べを兼ねて劉焉は中央から派遣され、黄巾決起から続く騒乱を収めたのはつい先ごろの出来事であった。前統治者の郤倹が亡き者にされたのは、黄巾の者達の襲撃よるとされているが、実態は違う。何を隠そう、中央から派遣された劉焉が企図して黄巾という敵を利用し、上役であった郤倹を屠ったのである。自らの野心の為か、と問われればそれも有る、と劉焉は答えるだろう。ただ実際に郤倹は大層な悪人であった為、排除しないことには益州が賊徒にまみれてしまうと言う理由の方が大きい。黄巾の幹部と郤倹が癒着していた事を劉焉が突き止めて、暫しの熟考を終えると劉焉は即座に郤倹の考え方に迎合し同調の意を表した。自身を低く見せ謙り、郤倹に媚び諂うその裏で益州、交州、そして荊州南部にまで手を伸ばし、劉焉は独自に黄巾討伐の為の人を集めていく事にした。ここで苦しんだのは、劉焉が益州という土地勘の無い場所でどうやって人材を得るかという問題だった。中央と自身の持って居るコネを頼る事も考えた劉焉だが、それで無能の烙印を押されては密やかに朝廷工作し、益州までやって来た意味がなくなってしまう。劉焉は手っ取り早く確実に、それでいて出来るだけ自身の利になるような方策は無いものか、と考えた。そして自分自身のこと、時分の状況を改めて整理し頭脳に閃いたのは当時、急速に話題沸騰となった『天代』の存在だった。おいそれと普通の人と会うことは無いと劉焉は言ったが、その人物が『天代』となれば話は違ってきてしまう。この益州の騒乱を収め、良く統治される背景に『天代』の名を利用して成り立ってしまった実態があるからだ。劉焉が勝手に『天代』の名声を使い、郤倹暗殺―――ひいては黄巾残党の殲滅―――を成したからである。現在、益州はまさに"天代"の名声が轟きまくっていた。一刀が黄巾決戦で波才を討ち取った直後の洛陽と匹敵する、そう言っても過言ではないくらいなのだ。事あるごとに"天の御使い"が題材にされ、民たちに謡われている。郤倹の不正暴露。益州全域に及ぶ黄巾賊討伐が評され、劉焉は州牧という立場に至った。しかしながら、劉焉本人が其処へ至る途上に天代・北郷一刀の名の方が滅茶苦茶に有名になってしまっていたのである。劉焉が黄巾残党を領内から一掃した頃には、実績をほとんど知られていない『益州牧』よりも、既に大陸全土に名声を轟かせている『天代・北郷一刀』の方が救世主として担ぎ上げられていたのだ。金獅を盗まれた一刀の村は、距離的に漢中の方が近いが劉焉が治めている場所に位置する。邑の人々が死んで償う事にまったく反抗しなかったのは、一刀が"天の御使い"であるというのも大きかったが、劉焉が天代の名を大いに称えて利用していたのも関係があった。「結果だけ見てしまえば劉焉殿は、益州牧へと成り上がる為に一刀殿を利用されたわけですね……些事加減は間違えてしまったようですが」「なるほど、それは判ったけど……でも、どうしてそれだけで安全って言えるんだ?」 ようやく落ち着きを取り戻した郭嘉から話を聞かされて、一刀は首を捻った。一刀にとっては"天代"の名を利用されるというのは嫌というほど身に付きまとっている事である。王朝から追放される際もそうだし、武威の地でも韓遂によって反乱軍で利用された。もちろん、一刀自身も"天代"の名声を利用する事はある。名声というものに大きな影響力があるということは、この大陸に落ちてからの経験から骨身に染みて判っていることだ。「こちらに来てから一刀殿と別行動をした際に、市井の方々から出来る限り益州の内情を集めておりました。 皆さんが言うには、どうやら劉焉殿は一刀殿と将来を今は亡き霊帝様から約束された仲なんだそうですが……本当ですか?」「え? うーん……んん?」 霊帝という言葉に僅かに顔を顰める一刀だったが、内容を理解すると混乱した。『天代』として働いていた頃をゆっくりと思い返す。劉焉という人物に心当たりは無く、当時の帝からもそのような浮いた話はされた事がない。二度、三度と繰り返し当時の事を振り返ったが、記憶には全く掠らなかった。「どういうことなんだろう?」『本体……いつのまに……』『なんで俺たちが知らないんだ? おかしいじゃないか本体』『手が早いじゃないか』「いやむしろ、本体の俺が疑うべきとこじゃ無いかな……」 この突っ込みに一瞬だけ脳内は静まり返った。『お前ら……』『隠れてヤルのが上手すぎて引くわ……』『ほんっと、手が早すぎじゃないですかねぇ』『北郷一刀という存在が節操無いように見えるから困るんだよなぁ、そういうの』『突っ込んで欲しいのか?』『ああ、可哀想な本体……』『で、誰がやったのかね?』『まーた始まったよ』 俺ではない、とリアルサラウンド合唱し始めた自分を無視。本体の一刀は無言で首を振り顎に手を置く。郭嘉はそんな一刀の様子を見ながら、そのまま口を開いて続けた。一刀の偉大さ、功績を自ら大きく広めてしまったが故に、劉焉は"天代"を蔑ろにすることはできないのだ、と。劉焉を取り巻く人々は"天代"の名によって周辺の豪族や武峡、将兵を説き伏せて集められたものであり、劉焉個人への忠や恩は不透明であろうこと。まして恋仲であったなどという吹聴をしてばら撒いた噂が虚飾であった、となったら劉焉にとっては非常にまずい立場になる。努力の末に集まってくれた優秀な人物はおろか、この地に暮らす人々、劉焉が手に入れた領地の民達にさえ不信を抱かせてしまう。我らが州僕は、天の御使い様に嘘をつくような人物だ、と。北郷一刀と言う男の悪い噂の排除に動いては方々を回り、郤倹を陥れ、ようやく手に入れた"人"と"民望"を失えば劉焉には何も残らないのだ。 かといって実際には王朝を追放されている一刀を囲っておくわけにも行かないだろう。辺境と言っても差し支えない益州とはいえ、漢王朝こそが母体であり、その中央から官吏は多くやって来る。一刀がのうのうと劉焉の膝元で暗中飛躍している事が知られれば、あらぬ罪を着せられ劉焉にまで飛び火する事は十二分に在り得ることだ。ならば一刀を無視して関わらずに居れば良いのではないか、というとこれも難しい。"天代"に妙な活動を始められて巻き添えを食うのは劉焉としては忌避するものだ。しかし、民たちから"天代"への人気は劉焉自身の行動のおかげで絶頂と言って良いほどである。例え一刀がこのままぼんやりと蜀の地で過ごしていても、彼は有名人だ。民たちが"天代"の存在に気がついて騒ぎを起こさないとも限らない。そんな事が起これば当然、噂は大陸を駆け巡る事になるだろう。そして洛陽の中心、宮勤めをしていた劉焉には一刀が居た事を知らぬ存ぜぬで逃れることは出来ないとわかっていた。 以上の情報を纏めての郭嘉の結論。中央から離れるに適した場所に挙げるならば、第一の候補として益州は浮かび上がる。郭嘉はこの地で実情を知れば知るほど、追放された一刀がこの地を目指したのは間違っていないと確信した。劉焉にとっては火中の栗としか言えないが、一刀にとっては安息の地になりうる可能性が最も高かったのである。「……たしか益州に向かうが最上と進言したのは、荀攸様というお方でしたか?」「ああ」「そうですか……」『確かに、統治の土台にあるものが本体に拠るんじゃ劉焉の立場は苦しいよな』『なんだか実感が篭ってるなぁ……』『はは、茶化さないでくれよ、"呉の"』 "仲の"の言葉に同意を返す脳内に反応して、一刀も一つ頷く。まだ記憶に新しい武威の地で、何度も何度も失態を繰り返し、至らぬ自分を支えてくれた優しい方の猫耳少女が脳裏によぎる。死に体の漢王室を救うべく立ち上がってくれた彼女は、別れてからもこうして一刀の道の先々で導を点してくれていた。気がつけば一刀はやにわに立ち上がり、室内に唯一拵えられている窓際へと立ち上がって遠くを眺める。洛陽とも武威とも違う、一刀にとって見覚えの無い景色が広がっている。荀攸から届いた手紙は、もう燃やしてしまって存在しないが、しかし。未だに一刀を支える手となって背中を押してくれているのだ。「……荀攸殿は益州僕が一刀殿に何もできない事を知ったのでしょう。 私の見解も一致します」「あぁ、ありがたいよ、本当に……俺をこうして支えてくれて……」 郭嘉の言葉に、一刀はそっと口の中で転がした感謝の言葉。その声は実感を伴った一刀の本音を引き出していて、自然と一刀に隣り合う郭嘉の耳朶も震わした。優しく微笑む一刀の横顔を見つめ、しばし。郭嘉は少しばかり眉間に皺を寄せて、視線を外す。そんな彼女の態度にまったく気付かなかった本体であったが、脳内の何人かは察するに至った。『あ~そうだ、一つ提案があるんだけど』『どうした"呉の"』『なんだ?』『試されっぱなしも癪だし、郭嘉さんに劉焉との交渉を手伝ってもらうのはどうかな?』 "呉の"の提案に否定的な者も、肯定的な者もいる。今の郭嘉は大陸有数の智者であるとは言え、ただの浪人であり一刀とはたまたま旅の連れ合いになっただけの者だ。言ってしまえば、郭嘉とは邑での出来事はともかくとして、天代うんぬんとは無関係な人間なのである。今、この官舎に居るのだって不可抗力に近い事情が存在するからであり、一刀が郭嘉を巻き込んで良い道理は無かった。とはいえ、歴史に輝く将星である。一刀が手中に収めたい欲求が無いと言えば嘘だろう。現状で既に物理的に手中に在ると言えなくも無いが、それはともかく、益州の地をすぐに放り出されたりする訳にはいかない。自分自身よりも遥かに知恵者と思われる郭嘉が交渉に当たってくれるのならば任せたくもなる。"呉の"の提案に本体は少しばかり乗り気になった。『あと俺からもいい? 一度、劉焉に触ってみるのはどうだろう』『おっとぉ……?』『おやまぁ……』『どうやら犯人は"魏の"だと割れたようですな』『いや違うって、郭嘉さんがこう言ってるし、荀攸さんからの手紙でも益州に向かえってあったから大丈夫だとは思うけど』『なるほど、誰かが劉焉に関わっていれば何かしらの反応があるかもって事か』『今回だけじゃなく、今後本体が色々な勢力や組織の要人に会う事は十分ある、逆の場合の反応だってあり得る』『確かに、"俺"に良い感情を抱いている者ばかりなんて考えられないしな』『まぁ……そりゃ確かに』 触れ合う事で一刀と係わり合いの深い者たちに、何かしら感情を隆起させる現象。では、仮に一刀自身との係わり合いは深く無くても"天の御使い"として憧憬や嫉妬、憤怒や希望などの感情を持っていた者はどうなるのか。馬家で過ごした日々を鑑みると、無視できない仮説であった。無反応であっても、反応が返ってきたとしても一度試しておく必要はあるかもしれない。これにも本体は心中だけで賛同した。機会があれば触ってみて確かめるのも良いだろう、と。考えがまとまり始めた一刀は隣に侍る郭嘉へと向き直り、一つ頬を掻く。先ほどの一刀と同じように、彼女は窓から遠くを見つめて静かに佇んでいた。「よし、劉焉さんには悪いけど、ちょっと触ってみるか」「はい?」 僅かに郭嘉の腕が離れた。一刀はそんな彼女の手を引いて、口を開く。「えっと、郭嘉さん。 ちょっと良いかな?」「……なんでしょうか一刀殿?」「黄忠さんとの交渉はともかくとして、劉焉との話のことなんだけど、君にも手伝ってもらえないかなと思って」「は? いや……しかし私は……」「無理には言わないけど、そうしてくれると嬉しい」 一刀は曖昧に微笑んで、郭嘉に少しだけ頭を下げた。「一刀殿……」 ややあって、悩むそぶりを見せていた郭嘉が苦笑ともつかぬ息を吐きながら頷くのと、女中の何人かが一刀たちの前に現れたのは殆ど同時であった。 ■ 心から萌え出づる 先ほど一刀の提案に了を返してしまった自分自身には、ほとほと呆れ果てたとしか表現できなかった。"天代"である一刀への評価は、郭嘉の中では非常に高いものだ。それは拾われた時の邑での一幕から、この梓潼の都に辿り着くまでを経て主君としても、一人の人間としても郭嘉の評価としては最上に近かった。血の防波堤としても優秀であり、人柄は非常に良く、更にはマァマァ男前とくれば文句など付けようも無いだろう。浅ましくも天の御使いを品定めしようとし、彼の"天道"に触れたその時から、きっと主の器足ると認めてしまったに違いない。今の立場さえ無ければ―――"天代"でさえ無ければ、郭嘉自身が自らを捧げても良いと判断を下した曹操と比べて、彼と共に歩む道の方が魅力的に映るほどに。だからこそ、郭嘉は悔いた。北郷一刀という存在が郭嘉にとっての、そして漢という龍にとっての薬である事に彼女の頭脳は気がついてしまったからだ。一刀という薬は触れ合い続けるほどに郭嘉を"その気"にさせてしまう。荀攸という官吏の功績、そして積み重ねたであろう一刀との絆と信頼。それを思い浮かべた一刀の表情を見て、郭嘉はハッキリと悔しさという物が胸中に滲んでしまったのを自覚してしまった。もしも郭嘉がその場に居れば、きっと荀攸と同じように一刀にとっての最善を導き出せたはずだと。そんな風に悔しさを抱いた直後に一刀に劉焉との交渉を頼られた時、郭嘉は曖昧に頷く最中にも隠すのが大変なほど喜色を孕んだのだ。世間的に考えれば一介の流浪の士に、追放されたとはいえ位人臣を極めていた一刀が頼りにしてきたのだから、おかしい物でもない。そういう言い訳を咄嗟に考えてしまうほど、一刀に頼られている自分と言う物に歓喜してしまっている。 胸の奥底から熱い物がこみ上げてきてしまったのだ。言い逃れ用の無い事実である。 認めてしまいたくないが、認めなくてはならないのかも知れない。この大陸の中でも一番、などと言うつもりは無いが、それでも多くの人よりかは客観的に主を見定められるという自信が郭嘉にはあった。そんな自信があったのだが、ダメかもしれない。幾ら考え直しても曹操と北郷一刀を比べてしまう。 そして曹操の傍に控える己よりも、一刀の傍に侍る姿の方が鮮烈であり、脳裏からまったく消えてくれないのだ。謁見の間に通されて、劉焉と厳顔、そして黄忠の姿が視界に入ってくる。もやもやする気持ちを小さく吐き出して、郭嘉は気持ちを切り替える為に大きく息を吐いた。「く……気持ちを切り替えねば……」 一言誰にも聞かれないような声で呟くと、今度は入れ替わるようにして一刀が混乱して緊急脳内会議が唸りを挙げた。「く……これは盲点だった……」『懐かしいなぁ、紫苑……璃々も元気かな?』『焔耶は居ないのかぁ』『ああ、それに劉焉さんがまさかこんなにも雄雄しい姿をしているなんてな』『なぜ現実に戻した、"白の"!』『本体、頑張って触れよ、あの逞しい胸筋を』『なにゆえ胸筋を指定するのか』「よしわかった……誰か"肉の"を起こしてくれ」『おいばかやめろ』『また"肉の"かぁ……壊れるなぁ……』『本体、そんな覚悟はしなくていいんだ!』 一刀をこの庁舎まで案内してくれた厳顔が左に。恐らく黄忠と思われる真名を呟いた脳内の一人、豊満な乳房を抱えるように腕を組んでいる淑女が右に。そして劉焉だろう大柄な男性が中央に位置していた。逞しく太い二の腕に、三国志本家の関羽を思い起こさせる立派な髭に大きな目玉は意外と愛嬌が在って一刀を見詰めていた。肌は光を反射するほどテカテカと眩しく、さらに遠目からも判るほど発達した胸筋と腹筋が嫌にも純朴そうな顔を引き立てる。座に座る男が、この場で一番の権力者であろうことは想像に難くなかった。そんな劉焉の膝には小さな少女が乗っている。あれは劉焉の子供だろう。 本体はぼんやりと残る三国志の知識を追っていき、確か劉焉には息子が居たはずだと辺りをつける。有名な三国武将の悉くが女性となっているこの世界。一刀は少女が劉焉の子供であることに確信を抱く。「確認したいのだけれど」 視線が少女に向かっていた頃、礼杯を続けていた一刀にその少女から声が降りてくる。てっきり劉焉から口火を切るものだと思っていたので、僅かに返答が遅れた。「……はい、なんでしょう」「あなたはその……つまり、陳寿という者でよろしいのか? それとも―――"天代"……北郷一刀で良いのだろうか?」 一刀は顔を上げ、劉焉を見た。少女は腰を一瞬だけ浮かして再び彼の膝の上に納まった。 すわり心地が良く無かったのだろうか。厳つい髭面の顔は、僅かに眉を上げて一刀を睨んでいる。コホン、と一つ咳払いをし、一刀が声をあげようとした所で背後から耳朶に響いてくる。「はい、その通りです」 一刀が口火を切るよりも早く、隣の少女が礼杯を維持しながら口を開いていた。確かに交渉の手伝いをとお願いしてはいたが、流石に一刀よりも先に口を開くのはどうなのだろうか。しかし、誰よりも"北郷一刀"自身が口を揃えて知者と呼ぶ少女である。この益州を目指せと助言をした荀攸が"天代"である一刀に標した地で、事前に情報を収集した郭嘉がこう言ったのだ。動揺も一瞬、一刀は覚悟を決めて口を開いた。「お主のような何処のものとも知れん馬の骨には聞いていな―――」「ああ、俺は"天代"の北郷一刀です。 思いがけず劉焉殿に目通りが適って嬉しく思います」「っ……そ、そうか。 間違いは無かったようだな」 劉焉の膝元に収まる少女は郭嘉に厳しい言葉を放ったが、一刀が割り込むと手足をバタつかせながら落ち着き無くそう言った。心なしか表情は崩れ、ともすれば泣いてしまいそうな雰囲気だが劉焉と思われる男を見上げながら胸元に手を置いて呼吸を整えていた。その余りに子供っぽく微笑ましい動きに、一刀は思わず劉焉から視線を反らして彼女に注視してしまった。脳内の誰かが、礼を失するぞ、と警告してくれているにも関わらずだ。彼女の頭頂はボーラーハットのような物に過度な装飾が施されているせいでよく判らないがもみあげの辺りから伸びる綺麗な黒髪は短く纏められて肩口くらいまで伸びている。気弱な雰囲気とは裏腹に、眼には力が宿っており強い意思を感じられた。胸元には鐘であろうか、それを象った物が揺れており、彼女が動くたびにカラリカラリと小さな音を立てている。少女は一刀が自分を見詰めていたのに気がついたのか、引きつった笑みを浮かべて震え始め、しかも眼尻を潤わせはじめた。怖がらせてしまったか、と一刀は心中で謝って、努めて優しい笑みを彼女へむけた。少女は怯え、顔をゆがめた。何故だ。少女の様子に苦笑をしていた劉焉へと顔を向ける。 彼は眼をわずかに見開いて、一刀へと口を開いた。「天代様……ですか」「俺たちが此処に来た用件は厳顔さんに伝えた通りなんです」 一刀はそのまま視線を厳顔へ、続いて黄忠と思われる女性に向ける。彼女は一刀を見詰めてから一拍して頷き、彼に対して目上の者へ使う拝礼を行った。その動作は優雅であり、美しさも兼ね備えた、中央でお披露目してもなんら問題の無い見事な礼であった。「華々しい噂はかねがね聞いております。 お会いできて光栄ですわ、天代様。 私は姓を黄。 名を忠。 字は漢升と申します」「わしからも改めて、厳顔じゃ」「ありがとう、俺のことは……紹介はいらないですかね」「うふふ、そうですね。 代わりといっては失礼かもしれないけれど、隣の人を紹介してもらっても宜しいですか?」 柔らかな笑みをたたえ、黄忠は郭嘉へ水を向けた。 一刀はチラリと劉焉を覗き、郭嘉へと視線を合わせる。一刀の視線に気がついたのであろう。 郭嘉と一刀はお互いにだけ判るように僅かに頷き合った。もはや自分の身が天代であることは話してしまっているのだ。 武威での失敗もある。この場は郭嘉へ全てを託すことを脳内含めて全員が同意し、促すように手を振ると、郭嘉は下げている頭を挙げて口を開いた。「初めまして、まずは自己紹介をさせて頂きます。 我が名は郭嘉。 字は奉孝です。早速ですが、本題に入らせて頂こうかと思います。この場に居る者たちは、お互いだいたいの立場を把握していらっしゃるという前提で話をさせて頂きますが……」 言外に良いか、と尋ねるように部屋に居る全員を見渡し、全員が曖昧に頷くと郭嘉は人差し指を一つ立て口を開いた。「では、劉焉様。 天代である一刀殿への対処ですが、彼を買うことを提案いたします」「え?」「え?」「え?」「なんじゃそれは?」『『『ん?』』』「双方にとって最も重要なのは、一刀殿の立ち居地でございます」 全員が呆気に取られる提案をぶちまけた中、郭嘉の声は途切れることなく続いた。理由を聞いていく内に、一刀も含めて全員がだんだんと頷き返すことが多くなった。金獅という馬のことは、はっきり言ってしまえば細事に過ぎない。無論、一刀にとっては相棒とも呼ぶべき存在になっているので大事なのだが、客観的に見てしまうと名馬であるとはいえ所詮は馬一頭。天代の存在とは比べるべくも無い話である。劉焉は馬を取り返しに来た『陳寿』を雇い、その働きに応じて給金を出し、それを金獅の代金に当てる。一刀はこれで目的の馬を取り返すことになるだろう。金獅そのものの譲渡、交渉は一刀の役目だ。 どれほどの金額となるのかはその折衝次第となる。一刀の目的はこれで達成されるとして、問題は劉焉側の旨味がどこにあるかだ。劉焉は彼女の話を遮って、慌てて口を開いた。北郷一刀に留まってもらうのは困るのだ。漢王朝に拠っているという意味でも、別のアレな意味でも。「まてまて、言っておくがな、郭嘉殿。 前提として私は天代様をこの地で留まらせるつもりは無い。 天代様は、今はいろいろとその……難しい立場であらせられるし」 この言葉に反応したのは黄忠と厳顔だ。難しい立場、という部分に引っかかったのである。「おや、劉焉様は是が非でも一刀殿と一緒に居たいと言うかと思われましたが……亡き帝が認めた恋仲であったとか」 しれっと郭嘉は恋仲である、という噂に乗じて首を傾げながら訝かる。劉焉はぐむっと、喉を詰まらせて仰け反った。ついでに一刀も背筋を震わせて少女を抱く筋肉質な男から視線を逸らす。二人の妖艶な女性達は眉根を寄せて考え込むように腕を組んだ。「まぁそれはともかく、確かに天代様は難しい立場にあられるようです。 特に益州僕であられる劉焉様にはそうだとお察し致します」「……はぁ。 うむ、わかった。 そうなのだ。 お主は全て知っている様だから話すが、実際のところ頭が痛い。 私の立場からすると、天代様には今すぐ荊州なり南蛮なり、或いは"中央"にでも出て欲しいものだ。 馬についてはすぐに天代様に返そう……紫苑、良いだろう?」「え、ええ……天代様の馬ともなれば、私には過ぎたる物となってしまいますわね。 お返し致しますわ」「それは大変嬉しい話なのですが、一刀殿は此処で働いて、金獅を自ら買い取りたいのですよ」「え?」『そうなのか?』『いや、働きたくはないよな』『うん』「何故ならば、一刀殿は天の御使いで在りますから、清廉を旨としております」 ここで郭嘉は金獅が盗まれ、黄忠に売られるまでのとある邑の話を始めた。ところどころ端折っては居るが、具体的なその内容に劉焉は両手で頭を抱える。邑の位置は劉州僕が治める領内である。『天』によって許された邑は、すなわち金獅の盗難・売却に至るまで当然あって然るべき事となる。一刀本人が、郭嘉に見せてくれた天の御使いの『道』の理屈。『天』が許したのだから、今、正式な金獅の主は黄忠である。ゆえ、買い取りたいというのが一刀の意思だ。『ってことらしいぞ、一刀君……』『なるほど、すぐに金獅を返してもらって益州から追い出されたら困るから、その為か……流石、すぐには思いつかなかったこんな方法』『あんな険しい道を越えてきたしね』『まぁ、実際少しくらいは休みたいよ。 めっちゃ暑いし、最近』『いや、この話の流れだと休めなくなるんだが』『たださぁ、すっごい屁理屈にしか聞こえないんだけど、これ』『嘘は言ってないぞ、"南の"』『いやそうだけど……にしても、仕事か……うーん』「わかった、その邑の話はもういい。 我が民たちが迷惑をかけた様だ、本当にすまない」「いえ、天代様が天の意思によって決められた事ですので、劉焉様が謝ることではありません。 ただ、劉焉様も判っている事だとは思いますが、一刀殿も"天の御使い"で居続けなければなりません。 これは天代様にとって譲れぬ一線でございます」「天の御使いでなければならない、とは流石に聞き捨て……いや、なんでもない」「ん? 天代様が御使いであることの何が問題なんじゃ? 焉殿」「いや、なんでもないから」「しかしながら、劉焉様。 一時、この地に天代様が留まるという事を良く考えてみてください。 洛陽では黄巾本体の討伐を成し遂げ、政においては漢の中枢を担う十常侍と共に真新しい政策を幾つも打ち出し、つい先ごろ起こった涼州での大戦も大過なく征伐を果しました。 この益州の地でもきっと大きな事を成し遂げるに違いありません」『『『戦はやだなぁ……』』』「……」 郭嘉はそこでようやく、口を閉じ眼を瞑って劉焉へと一礼した。大きな溜息をついて、劉焉は肩を落とす。そして一刀は遅れて郭嘉の言葉を整理し終わって気付いた。『あれ……』『どうした』『これ相当無茶振りされてるような……』「決まりの様じゃの。 わしとしては、良い結末になったと言えるのぅ」「桔梗、貴方がさぼっていいわけじゃ無いからね」「判っておるわ。 んで、だ。 郭嘉殿……おぬしもどうじゃ、それだけ弁が立つのだから是非とも此処でその辣腕を振るって欲しいものだが」「もちろん、受け入れてくださるのならば一刀殿の補佐として一緒に働ければと思っておりますよ、厳顔殿」「わかった降参だ、私の負けだ。 ちなみに聞くが、益州で働くつもりはないだろうか……その、郭嘉殿ほど優秀ならば待遇の方は最大限の礼を尽くすつもりなんだが」「それは……申し訳ありませんが」「わかってる。 駄目もとで聞いてみたんだ」 話を主導していた少女と厳顔の二人と雑談を始めた郭嘉の背を、一刀は驚きと共に見やった。彼女に采を任せたからには、この場で余計な口を開く事はしまいと思っていたが、必ず自分が横槍を入れなくてはならない場面が来ると思っていたのだ。だが、もはや劉焉側から舌を交える気勢はなく、一刀と郭嘉は此処で働きながら金獅を取り戻すことに落ち着いたようである。仮に一刀だけでこの場に居たら、どういう話に転んだのであろうか。少なくとも、ここまで鮮やかに話がまとまる事はないであろう。最後の方でやたらと高いハードルをぶん投げられた気もするが、それは一刀の働きぶり次第の話である。「す、凄すぎる……郭嘉さん、流石だなぁ……」 おぼろげとなった三国志の知識の中でも未だ輝く知者の名を持つ少女は、疑いようの無い才覚を持っていることを一刀はしみじみと感じ入った。『みんな、重大な事に気付いたんだけどさ』『どうした、"袁の"』『劉焉さんってもしかしてずっと話していた小さい女の子の方なんじゃない?』『あ、"仲の"もそう思う? やっぱそうだよな』『そういや、ずっと劉焉だと思ってた男の人は話さなかったな……』『そっか、劉焉さんって女の子の方だったんだね』『そっかぁ……』『後でチャンスがあったら触ってみよう』『そうだな』 そして既に郭嘉の凄さなと知っていた"一刀達"も別の意味でしみじみと感じ入っていた。―――・ その後。一刀と黄忠は、連れ立って官舎の中を歩いていた。劉焉が一刀をこの地で留まらせることを認めたため、次は金獅のことについての交渉となったからだ。せっかくだから、と黄忠は一刀に金獅を預けている厩舎で話さないかと提案され、一も二も無く一刀は頷いた。いくつもの戦場を共に駆け抜けた金獅とは、一刻も早く顔を合わせたかったのが本音だった。この黄忠の気遣いに一刀は感謝し、郭嘉に任せた流れの中とはいえ決まった話に、彼女たちの政務をしっかり手伝ってお金を稼ごうと決意した。厩舎へ向かう道すがら、黄忠は一刀の横顔を見つめ、ややあって声をかけた。「あの、天代様……」「ん? どうしたんですか、黄忠さん」「失礼なことかも知れませんが、お許しください。 もしかして天代様は……中央から、排されたのでは?」「って、知らなかったんですか? っあっ」『『『あ』』』「そうだったんですね……」 もしかして今のはカマカケと言う奴だったのではないかと一刀は疑ったが、言ってしまった事はどうしようもないと頬を掻いた。観念して、察したとおりだと告げると、黄忠は天代云々という話ではなく、劉焉との関係に対しての話だからと何故か謝られた。ほとんど厳顔と同じ答えに辿り着いた黄忠は、呆れたように薄く笑い、今頃は厳顔にこっぴどく叱られているだろうと話した。「謝ったのは……天代様の名声、それを利用したという部分くらいでしょうか」「はは……良く判らないですけど……そうですか。 でも俺の名声が益州での戦いに役に立ったのなら、それはそれで良いんだと思います。 悪用されるのは、流石にもう勘弁してほしいですけどね」「……きっと、私には及びもつかない出来事があったんでしょう。 その、なんと言っていいのか」「あはは、ありがとうございます、黄忠さん。 その気持ちだけでも嬉しい―――」「…ばぁーーー!」 通りの角から聞こえてきた突然の大声に一刀の声は掻き消された。何事かと首だけを出して覗きこむと、その瞬間一刀の目の前は真っ暗になった。「ウゴッ!?」「きゃ、て、天代様!?」額の奥から強烈な打撃音が鳴って衝撃とともにもんどりを打つ。尻餅をついた一刀が何事かと見上げれば、遠くに走り去る一頭の馬の姿が。他の馬よりも一回りはでかい体躯に見覚えのありすぎる金色の鬣。チラついた視界の中で捉えたのは、間違いなく一刀の相棒である金獅であった。「す、すみません! あ、黄忠様! 申し訳ございません、引き運動の際に馬具が外れて放馬してしまいました!」「天代様、お怪我は?」「え、天代様?」「あはははははっ、あーちくしょう! 服が砂だらけになっちまったよ、アイツめ」 まだ痛むのだろう、鼻の頭あたりを押さえて、一刀は笑った。勢いよく坂路を駆け上る金獅を見やる。久しぶりに人を乗っけて走っていないからだろうか。 なんとも気持ち良さそうに疾駆している。金の鬣と尻尾を揺らして。もう少しまともに再会できないのか、とも黄忠のような美しい女性の前で格好がつかないとも、色んな思いが一気に沸き上がった。だが何よりも、一刀に強くよぎった思いは、一つだけだった。「……また遭えて良かった」 座り込んだまま、そう漏らした一刀に黄忠は、人馬を交互に見てから少しだけ溜息を漏らした。少なくとも、天代である一刀には金獅に対して強い思いがある。あの馬を手放すのは非常に惜しいが、こんな絆を目の前で見せられては売る、売らないの話も無いではないか。「それで天代様。 あの馬の値のことなんですけど」「あ、ああ。 そうだね。 幾らぐらいに―――」「この前、出かけた時に絹織の羽織を一つ無くしてしまったんです」「え? 羽織?」「とても気に入っていた羽織だったんですが……それを天代様に戴けたらと思います」「それだけで良いんですか?」「ええ、それだけで結構です」「えーっと……うん、判りました。 バッチシお似合いになる羽織を選んできますよ、黄忠さん」「期待してお待ちしておりますわ」 やんわりと微笑む黄忠を尻目に、一刀は立ち上がると金獅の元へ向かった。――― 一刀は黄忠と金獅についての交渉に乗り出し、連れ立って部屋から出て行くと厳顔はふむ、と顎に手をやって息を吐いた。ややあって、恐らく、というよりはほぼ確信に近い推測を口に出す。「焉殿。 もしかしてじゃが、天代様の立場というのは」「……」「もちろん、中央から排されたという立場です」 劉焉は答えなかったが、代わりに郭嘉が答えた。なるほど、とようやく厳顔は天代を雇うという一連の流れが腑に落ちた。劉焉の舌鋒がまったく冴えなかったのも、天代との噂も、邑の事も、天の御使いで居続けなければならない、という言葉に反論しかけたのに止めたのも全て、ようやく理解が追いついたのである。「しかし、そうなると悲しいものじゃな。 焉殿にはこれでも忠を捧げていたんじゃが」「……悪かったわ、桔梗……いえ、ごめんなさい」「焉殿の立場では、まぁ仕方がなかったのかも知れぬが……いや、言っても詮無い話じゃな」 劉焉は州僕として黄忠、そして厳顔という臣を得ている。益州にて大規模な黄巾討伐の際に、天代の名声を後ろ盾にして立ち上がった劉焉の元に集まったのが切欠だった。そして共に行動した事で劉焉は悟ったのだろう。天代の名だからこそ、黄忠も厳顔も劉焉の元に集い、彼女を担いでくれているのだと。確かに、そう言われてしまえばその通りだと厳顔は頷くしか出来ない。もちろん、漢王朝の録を食む官僚でもあったから、純粋に匪賊から民を守ろうと言うのが根底にある。例え劉焉が現れなくても、大規模な賊共の反乱には討伐に赴いた事だろう。だが、益州から完全に騒乱の芽を詰みきる事は難しかった……いや、無理だったとも思うのだ。厳顔からしてみれば、そこに打算があろうと無かろうと、賊を益州から完全に叩き出せたのは劉焉が天代の名声を利用してくれたからに違いなかったのである。だから、厳顔は劉焉と天代の恋愛が上手く実るようになれば良いと密かに思っていたし、応援しようとしていた。「でも、桔梗達を信頼していなかった訳じゃないんだ。 ただ、良かれと思って嘘をついたのがバレてしまった時に……桔梗や紫苑に嫌われるのが、怖かったんだ、私には求心力なんて無いから……うぅぅぅ」「まったく、ウジウジとそんな事で悩むから郭嘉殿に足元を見られるんじゃ」 劉焉は抱えられている男―――彼は賈龍という者で、劉焉の夫である―――の胸に顔を埋めて子供のように手足をばたつかせた。そんな威厳というものを喪失している劉焉と厳顔から話を振られた郭嘉はクスリと笑い、上機嫌に応えた。「ええ、話している途中で黄忠様と厳顔様の様子を見て、一刀殿の立場を詳しく存じていないと思いましたので」「なんとも、たいした素振りは見せておらんと思ったが、それだけで気付くものか」「劉焉様の様子からも察すことが出来ました。 推測が当たってホッとしているところですよ」「うぅ、桔梗、すまぬ……私が悪かったぁー」「やれやれ、焉殿。 わしはそこまで薄情な女ではない、紫苑もそうじゃ。 面倒のかかる主を持つと大変じゃ。 のぅ郭嘉?」「主ですか……そう、ですね……」「なんじゃ? ……まぁよいか、お主は天代様に仕えておるのではないのか?」「……いえ、ただ、面倒が掛かる主の方が遣り甲斐はあると思いまして」「ほう? 面白い話じゃな。 それで、面倒が片付いた今の気分はどうなんじゃ」 厳顔の声に郭嘉はうっすらと微笑んだ。一刀が最後に呟いた言葉は、郭嘉の耳朶を震わせていたのだ。流石だ、郭嘉、と。まったく、北郷一刀という存在は抗いがたい劇薬である。もはや、自分を誤魔化すのも馬鹿らしくなってしまうほど薬は良く効いてしまったではないか。あの言葉が聞こえてしまった時の、心から萌え出づる気持ちは、郭嘉の心の芯に刻まれてしまった。だから。窓辺から覗ける厩舎の近くで、自らが見定めた主と、金色の尻尾を揺らす馬が連れ立って歩いているのを眺めながら、郭嘉は言った。「我が主である一刀殿の一助となる事ができて、ひとまず安心と言ったところです」 彼女を知る物からは信じられないほど、穏やかな笑顔でそう言ったのである…… ■ 古龍を識る者 蝋燭の火が燭台の受け皿に広がる。 その量は満杯に近く、入れ替える頃合であった。張譲はその事に気がついて、新しい蝋燭と受け皿の交換を慣れた手つきで行う。僅かの間、部屋の中に闇が満ちて、火打石を叩いた時の火花が閃光のように広がる。「……」 長い時間を椅子の上で過ごしていた張譲は、その行動を境に一度ぐっと身体を伸ばし、燭台を手に持って立ち上がった。考えているのは先ごろ発覚した謀のことである。コロリ、コロリと反対の手の内の宝玉を回し無造作に歩く。やがて立ち止まると、机の上に広がった物に視線を落とした。 スッと細ばる眼。 張譲の目の前に置かれているものは、この漢王朝の大陸―――地図だ。心臓部である洛陽。 そこから張譲の視線は西に延びて長安、天水、そして武威。 そこから南方、漢中。 そして梓潼。張譲が人脈とコネを使い、所在を追いかけている逆賊・北郷一刀の足取りであった。 洛陽郊外での黄巾討伐。 西涼の反乱の鎮圧。 どちらの戦も並みの者ならば死んでいてもおかしくない戦い。英雄と呼ばれる人物でさえ、戦の中では容易く死ぬ事が常の世である。この二度の大乱の戦陣を経験した北郷一刀を、武を用いて殺めるのは容易ではないだろう。「……もはや単純に戦の中で屠るのは不可能に近い。 天運に人は勝てぬ」 そもそも北郷一刀は諸侯―――それも有力者、権力者との個人的な結びつきが強すぎる。西涼の戦の顛末を聞くに、長安から西は北郷一刀という男の影響を強く受けたと考えるべきであった。 部下として利用している李儒という男、凡夫ではないが北郷一刀と比すれば将星の輝きで負けている。 そう張譲は見立てていた。長安を牛耳る董卓は、漢に忠を尽くしてはいるが北郷の影響をどう受けたか。 信用はできない。 一度視線を落とし、今度は地図の東側へ張譲は眼を向ける。数多に上がる報告の中で、曹操は上党の黄巾勢力を手中に収めたという物がある。 これは牧である曹操からは直接聞かされていない物だ。譴責の叔父は十常侍と強い繋がりがあったが、法令違反を犯したとして問答無用で処断されたという。この鋭敏な判断と、権力を恐れぬ実行力。 そして曹操という器。 王朝の名はまだ彼女を縛るであろうが、その忠の向く先は漢には拠らぬ物となろう。「南、そして黄河を挟んで北には両袁家」 人材、金、豊かな土地、そこから来る威勢から既に漢王朝に比していてもおかしくない権能。とりわけ袁紹の方は危険だ。 十常侍にとって最も邪魔な何進を守るように立ち回っている。 これには確実に誰かの入れ知恵が入っている。袁家ほどの勢力がそうそう何者かの言いなりになることは無い。であれば形の上だけでもそれ以上の権能を持つ者、すなわち皇帝に繋がる血を持つ劉協が第一の候補に上がる。第二は北郷一刀そのものだ。劉協派は天代という役職を戴いていた『一刀派』と言い換えても良い。霊帝の時代に離宮に隔離していた時期に育んだ絆は深いものに成ったことであろう。この絆が思いのほか強く育まれていたのは、張譲にとっても誤算の一つであった。 中央、その周囲、そして大陸全土で群雄の飛躍する準備が整い始めている。さながら漢王朝に拠るのではなく、自らが立とうと大地が隆起しているようだ。 張譲はようやくそこで地図から視線を外して、窓の外へと近づく。内開きにひらく扉を開けて、人工的に作られた池に燭台の灯りを頼りに近づいていった。月夜の灯りが差し込み、張譲の横顔を照らす。彼の表情はまるで能面のように無表情。 筋を動かすことなく、池のほとりで暗闇の水面を見詰めていた。前漢200年。 後漢200年弱……その長大な漢の歴史の中でも大きな転機にある時代の節目だということは、張譲も理解している。肌で。いや、五感で感じるのだ。 大事の前の大きな潮流を掬い取ることくらいは、長き時を経て出来る様になったと張譲は思っている。だからこそ慎重、臆病とも言えるくらいに徹底して情勢を見極めて対処したはずである。"天代"などという前代未聞の未知の脅威ですら、退けたはずだ。だが、この情勢。 この現状。「違えたか? ……漢は終わるのか? ワシが……わしの判断が……」 違う。漢王朝の大きな歴史の河の終着点は此処では無い。 無いはずだ。コロリ、コロリと宝玉が回る。 思考は巡る。そうだ、違わない。北郷一刀の残した清廉な空気は、腐りきった王朝内が空気を求め、息を吹き返すのには絶対に必要だった。簒奪を捏造し、その場で北郷一刀を生かした判断は間違っていない。漢王朝を生かすため、北郷一刀ではなく劉宏様を引き続き立てようという選択は、正道である。大陸全土に及んだ粘りつく不満、黄巾含めて民の暴走を御するのに巨星となった北郷一刀の生存は必要だったのだ。どちらにしろ零帝が"天代"というものを生み出した時点では、張譲の予定通りに全ては事が運んだはず。いかに鮮烈な輝きであったとしても、『時』が感情を押し流す。"天代"は中央から排された時点で、何者も立ち向かう事が叶わない『時間』という敵と相対することになった。例え北郷一刀がどれだけ生き足掻こうと、"天代"を殺すには時間だけでも十分のはずだ。 それは自然の摂理であり、どんな人間であろうと生まれた時から持っている『忘れる』という本能には抗えないから。月明かりが池のほとりに浮かぶ張譲の顔を反射した。 赤い光が手元に揺らめく。そうか、これだ。張譲は気付いた。"天代"の名声が死ぬ、『時間』だ。北郷一刀と同様に、十常侍にも『時間』という刃が喉元へと食い込んでいるのだ。張譲は認めざるを得なかった。 時間が無いのはどちらも一緒だったのだと。 "天代"の名が大きくなりすぎて居たのだ。情勢を、現況を、予測を、追放する手前。 限界一杯まで牛歩で引き伸ばして検討してもまだ足りなかった。認めなければ、それはもうただの意地でしかない。大将軍何進。皇帝の血筋である劉協。諸侯との太い人脈。北郷一刀という存在がこれらを繋ぎとめている。 張譲は懐から小さな袋を取り出すと、そのまま腕を水平に薙いだ。袋からは小さな粒が広がり、水面にまばらに漂着する。途端に水面から大小さまざまな魚が顔を出して、群がっていった。「このまま、座せば死のう。 醜くとも、餌であろうとも食いつかねば王朝が死ぬ。 ではどうするのだ、張譲」 眼に見える現時点での圧倒的な邪魔者は、現皇帝の劉弁と懇意である大将軍・何進。彼を邪険に思う者すべてだ。 十常侍に限らず、官僚・官吏を含めた全て。何進という餌に食らいつけば死ぬことになる。この漢王朝を過去から現在まで、全てを知り尽くした政治家……十常侍は終わる。政が乱れるということは騒乱が燻るということである。この情勢の中で洛陽に騒乱を生めば、地方はますます活気付く。結果、権力と権能を手に入れる為に諸侯がぶつかり合うのだろう。自ら騒乱のタネを撒いたことのある張譲には、そうなる未来が手に取るようにわかった。5年後、10年後であればまだしも、今は弁帝が何進を排する事には真っ向から否定しよう。 皇帝を頼るのも難しい。それに加えて何進を殺すと言う事は、何進を守りたい連中の思惑を外すということだ。袁紹含めた連中の牙が十常侍に向かうことを意味する。その方法が単純な武力であれば、大半の軍権をもてない宦官は死滅する。弁帝の暗殺という単純かつ野蛮な方法を取ってくる可能性も十分にあるだろう。これを防ぐ方策も早急に練らなければいけない。 これら全てを……とは言わないが、もっとも効率的かつ簡単に思いつく対処の一つ。 それは北郷一刀の暗殺だ。 十常侍にとって"天代"が死ぬまで待つことは命を張った我慢比べである事が判ってしまったのだ。成功しようとしまいと、この手は打っておくべきであった。第二は皇帝である劉弁、そしてその継承権を唯一持っている劉協を手中に収め続けること。第三は逃げ道の確保だ。北郷一刀であれ、曹操であれ、何進であれ、袁家であれ。劉弁や劉協、だれであろうと動き始めれば情勢は一気に動くことになる。その時に必要なのは皇帝と、その皇帝の逃避先。 候補は同じ劉性を持つ者。すなわち荊北、荊州をおさむる劉表。 「……例えわしが死のうとも、我が天命を捧げてきた漢を滅ぼすわけにはいかん。 この張譲の持ちうる全てを賭し、北郷一刀に挑戦しなければならぬようだな……」 張譲は懐から宝玉を二つ、取り出した。宦官として仕えた若い時分、自らの脳漿が捻り出した勲功から帝に直接下賜された、無二の家宝である。コロリ、コロリと宝玉を回すと、漣立っていた心中がゆっくりと落ち着いてくるのが判る。この宝玉が手元にあるからこそ、張譲は今までの謀り全てを退け、その刃を敵に突き返してこれたのだ。やがて一際大きな魚が、水面を跳ねて餌をついばむ。それきり、暗闇の池は静寂を取り戻し、落ち着きを見せた。「最後にとんだ大物に当たってしまったが……負けぬ。 漢王朝はわしが必ず生かしてみせる」 張譲は眼を細めて空を見上げる。大きな赤い三日月が、満天の星空に浮かんで夜空を照らしていた。 ■ 外史終了 ■