clear!! ~「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編4~clear!! ~見据えた道は桃仙から西へ伸び、大陸は揺られ始めたよ編~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編1~☆☆☆ ■ 無意識下の夢いつか見た景色だった。荒野の中で馬に跨って前を歩く一人の少女。ただ漫然と見ていた風景を捨てて、いつしか必死にその背を見つめて追いかけた。その後姿は今まで出会ったどんな物よりも大切で、どんな物よりも価値があって。そして、何時しか、愛しさに溢れた。自らの境遇が大きな変遍を迎えた時、事情や経緯はどうであれ迎え入れてくれたこと。命と等しいくらいに、大切な名を預けてくれたこと。隣に居ることを許してくれたこと。生き方を、教えてくれたこと……思い出そうとしなくたって脳裏に浮かぶ、多くの思い出と大切な記憶。もはや、彼女の存在は自分にとって失えば立ち直れない物となっていたと思う。追っている少女が振り返って、一刀はその足を止めた。そして、何事か囁くように。その口を僅かに動かして、こちらへと向かってその手と顔を伸ばしてくる。なんということだろう。彼女の方から求めてくれることが、こんなにも嬉しいとは。愛してる……いや、このような言葉すら無用な物に思えてくる。今、確かに一刀と彼女は心で繋がっていた。一刀は自分を求めるように差し出された手を払うことなく、そして、愛しい人の名を呼んだのだ。『―――華琳 ―――雪蓮 ―――桃香 ―――愛紗 ―――美羽 ―――麗羽 ―――月 ―――美以 ―――翠 ―――白蓮』『―――貂蝉』『『『『『『『『『「うわぁ"あぁぁ"ぁ"あぁぁあ"ぁああ"ぁ」』』』』』』』』』愛しい人の名を呼んで、一刀は泣き叫びながら彼女を受け入れていた。気が付けば、彼女は一糸纏う事無くその身を晒している。美しい。まるで女神、もしくは汚物だ。一刀は引きつった笑みを浮かべつつ、自分の持つあらぬ限りの賛美と罵倒を彼女達へ贈っていた。彼女は語彙が少ないと一刀を責めて。彼女は純粋に喜色満面の笑みを浮かべて。そして、彼女は怒り狂っていた。何とか宥めることに成功し、じゃれあいもそこそこに、彼女はついに一刀へと向けて目を瞑った。そして、差し出すようにその顎を上げたのである。こんな幸せがあろうか。自らが最も大好きで、愛していると恥ずかしげなく言える彼女と重なる一時。そんな至福な一時だというのに、洞窟の中でクリーチャーと相対した時のように一刀は身構えて必死に抵抗していた。自らの唇を奪われまいと、片手を前に出して彼女の顔をグリグリと押さえつけつつ抱き締めようとしてもう一方の手を背中へと回す。愛しい彼女の顔が押し付けられた一刀の手によって歪んだ。その上、腰を前後に動かしながら、両足を前に突き出して必死に接近しながらを接触を防いでいた。当然、そんなことをされれば自分を愛してくれている筈の彼女も怒る。というか、誰でも怒る。弁解を重ねつつ、一刀は泣きながら笑って愛し合うのを認めて彼女の手を、虫を触るかのように優しく手に取りその状態のままグルグルと彼女を基点とした衛星のように、或いは罠が待っている餌の前をうろつく獣のように荒い鼻息を出して回っていた。そしてついに、観念したのか、それとも我慢出来なかったのか、良く分からない中途半端な一足飛びで彼女の中に飛び込んだ一刀。二人の影は荒野の中で重なって、爆発するような歓喜の中、酷い嫌悪の嵐にむせび泣いた。 ■ 俺の嫁「うわー! うわっ、うわぁあああっ!」よく分からない恐ろしいプレッシャーに押し潰されそうになって、一刀は安眠すること適わずに悲鳴を上げて飛び起きた。なんか凄い心が暖かくてたまらない夢だった気がするのに、涙が出てきて止まらない。嬉し涙だろうか。いや、なんだか良く分からないが絶対に違うという確信がある。そういえば、過去に何度かこうした謎の夢を見ることがあった気がする。決まって、曖昧なままな夢であるのに、今回に限っては本体も僅かに夢の断片を覚えていた。そう、あれは……ぼんやりとしていたが、確かに曹操や桃香が居た。そんな少女達に混じって、場違いなほど肉体をテカらせた、くどい顔とボディービルダーよりも噎せ返りそうになる肉体に変態さを加味した輩が居たような気がする。「……あれ、まてよ」寝起きにふらつく頭を抑えるように、一刀は額に手を当てて何かに気付いたように唸った。仮定。そう、仮定の話だ。曹操や桃香が居たのは、自分自身も会っているし夢の中に出てくるのは不自然ではない。しかし、何の因果か分からないが、自分の中には“俺”が何人も居るのだ。桃香も曹操も、“俺”にとっての大切な人である事は話に聞いて知っている。何となく、確認しなくても分かるのだが、今のような夢は自分以外の北郷一刀が見ている夢なのではないか。つまりそれは……「……えーっと、ここは何処だろう」一刀はこの問題に対する全てを約数秒にわたる熟考の結果、忘れることにした。下手に考えると再び昏倒する予感がしたのである。一つ頭を振って、気を取り直すかのように周囲を見渡す。起きて眼に飛び込んで来た景色からも分かっていたように、この場所は眠る前の記憶とは似ても似つかなかった。ひたすら西を目指して逃げ続けた一刀は、途中で限界を迎えて山中で休息を取った。そこから先の記憶は無い。少なくとも、屋根のある家屋の中で麻布の布団に横たわっていた記憶などまったく無い。ただ、珍しく壁も何も無い室内は家具の少なさも手伝ってか、少し寂しい雰囲気がある。「……」傍に置かれている水桶や水に濡れた布にそっと触れる。治療の為だろうか、上半身を起こし怪我をしていた患部を見れば包帯のように布が巻かれており誰かが看てくれたことが一目で分かる。『……あぁ』『……』「あ、みんな……」『おう……』『あー……此処は何処だ』「なんか元気ないね」やたら気落ちしている脳内に声をかけつつ、一刀は立ち上がると同時に気が付いた。痛みが無い。激痛に動くことすら出来なかったというのに、自然に動くことが出来ていた。一瞬この謎の治癒力に疑問を抱いたが、いつか華佗が言っていた事を思い出して納得する。脳内の自分が複数同居しているせいで、回復力が常人離れしているという話だ。本体が、そんなことを考えている間に脳内の一刀達も調子を取り戻していた。話を頭の中で聞いていると、どうやら誰もが森の中で眠ってからの記憶がないようである。「全員分からないって、なんだろう。 急に不安になってきたなぁ」『とりあえず、外に出てみるか』『邑かな?』『静かだからね。 人里とは限らないかも』『どっちにしろ服が無いと動けないよね』「え?」そこで初めて、一刀は自らが傷口を覆う布以外に一糸纏わぬ姿であることを自認した。もしここが集落のような場所で人目があるのならば、このまま外へ出た瞬間に社会的に終わるだろう。失礼かとも思ったが、背に腹は変えられない。ちょうど、一刀と同じくらいの高さにある箪笥を物色して着る物を探すことにした。たてつけが悪いのか、構造上の欠陥なのか、やたらと苦労して一番上の引き出しを空けると一刀の視界に白い布地が飛び込んで来た。つまんで持ち上げれば、そこには“浪漫”という文字が。「……」『一応、下着だな』『え? 着るの?』『ていうかサイズからして女性物か子供物じゃない?』『何もないよりはマシだろ』『誰か浪漫に突っ込もうよ』『突っ込んで何かが変わるなら突っ込むけど』『いやいや、でもさ……』『他の探そう』とりあえず、最終的に何もなければ仕方が無いからコレを拝借しよう。そんな結論の一つとしてパンツを箪笥の上に置いたときだった。薄暗かった室内に光が差し込んで、部屋を照らす。同時に、入り口らしき場所の扉が開いて何かを背負っている者が入ってくる。「あっ!?」「あ」あまりにも前触れなく、咄嗟の出来事に一刀は声を挙げながら凍った。下着を物色しながら申し訳程度の布を腹部に纏い、ズキューンを丸出しにしている一刀は今入ってきたばかりの人物を見て驚くように眼を丸くした。フードのような物を被っていて、その体躯は小柄だ。茶色い髪は肩口あたりまで伸びており、それを左右に分けて前髪をピンのような物で止めている。翡翠色の目が眠たそうに一刀を見つめていた。少女……とも言えそうだが、身体のおうとつが少ないために断定するのは微妙だ。多少印象は違うものの、記憶の中にある少女の姿と共通点が多く見られる目の前の人物は荀彧に似ていた。とにかく話しかけなければ、気まずい沈黙をやぶれない。思わず、一刀は何も考えずに口を開いて『なんかどっかで見たことが……』『そうなの?』「じゅっんぅふっ」「え?」「いや、違うんだ」「はぁ」脳内の声からマッハで口を噤むと共に、取り繕ったように手を振って曖昧にぼやかした。ちょっと息が漏れて変な声が出てしまったが、それはこの際どうでもいい。今の問題は、布切れ一枚を腹に巻いて生まれたままの姿で居ることだ。こういう時、人はどのような選択が生まれるだろう。逃げるか。既に、見られて恥ずかしい部分は完全にガン見されてしまっている。もちろん、真正面から堂々と見せびらかしている訳ではない。名も知らぬ目の前の荀彧に似た人から見て、ちょっと半身になって微妙なチラリズムをかもし出すような感じだろうか。しかし逃げたところでこの家屋には部屋が一つ―――すなわち、広い間取りではあるものの室内が壁で区切られていないので外へ出るしか無いわけだ。このまま外に出てみれば、先ほども言ったように邑や集落であれば御免被りたい。逃げれないのならばいっそ開き直ってしまおうか。しかし、それは今後目の前の人とのコミュニケーションに重大なエラーが発生するかもしれない。何より自分を看てくれただろう人だ、変な印象を与えたくは無い。手遅れかも知れないが。そこで一刀は閃いた。「ああ、礼を言うのが遅くなりました……ありがとうございます。 あなたが看病してくれたんですね」「……」言いながら、一刀は上半身だけで真正面で相対し、大陸の習慣に習って両の手を合わせて頭を僅かに下げた。微妙に内股になりながら。荀彧に似ている風貌を持つこの目の前の人が、恐らく自分を拾って看病してくれたのだろう事は間違いない。助けられたのならば礼を言うのが筋であり、一刀のこの行動はまったくもって正しい、と彼は思った。当然のことに対して礼を言うことで誠実さをアピールすると共に、まともな思考をする人だという印象を与えようとしついでに、完全に開き直っては失礼なのでズキューンは見えないように片足を上げて対処した。一刀の中では先ほどの選択肢を組み合わせた、まったく新しい答えとして開き直った振りをする、という結論に達したが故だった。そうして、一刀がある種の賭けに出た結果返って来たものは、実に冷静な対応であった。「あの」「はい」「着る物を用意しますから、とりあえず床に居てくだされば羞恥も感じないかと思います」「……はい」一刀は素直に従った。―――・今思えば、自分は混乱していたのだろう。そもそもが裸で妙なポーズをつけつつ礼を言われても、やだ何この人……としか思えない筈だ。変に絶叫されたりゴミ虫のように罵られたり、或いは物を投げつけられたりされなかったのはひとえに目の前の少女が、こちらの混乱を察して落ち着いた対応を心がけてくれたおかげだろう。着替えを用意してもらい、暖かいお茶を戴いて、ようやくまともな思考回路が戻ってきた一刀は脳内が思い出してくれたおかげで、彼女が何者なのかを知ることができた。「申し遅れました。 我が名は荀攸。 字を公達と言います」「こちらこそ。 俺は北郷一刀。 字はないから好きに呼んでくれて構わないよ」「はい、存じてます」「そうか……」彼女から、ここが何処であるか知る事が出来た。ここは長安よりももっと西、天水に程近い邑であるようだった。追っ手から逃げている時は、今どんな場所に居るかなど欠片も気にしていなかったがこうして話を聞くと、予想よりも随分と距離を稼いでいるような気がする。「とにかく、改めて礼をさせてください」「ええ、それは良いのですが……実際に私が看病したのは3日ほどですので」「3日ですか……」『そんなに寝てたのか……』『あれ、3日で内臓まで達してたと思う傷って塞がるの?』「いえ、そうではなく……私が看るのを手伝っていた期間が3日ほどです。 実際に天代様が倒れられていた期間は3ヶ月程だと聞いております」「あ、そうでしたかぁっ!?」言葉尻が跳ね上がり、一刀は愕然とした。感覚としては、確かにちょっと眠りすぎたような気はしていたが3ヶ月も経っているとは。「寝たきりでしたから、驚かれるのも分かります」「いや……しかし、3ヶ月も寝ていたら身体だってもっと痩せ細って……普通に歩けたし」言いながら一刀は自らを手でペタペタ触りながら見回した。確かに、多少肉付きが減っている感じはする。しかし、ずっと寝たきりでいると歩けなくなるような話を一刀は聞いた事があった。「精力があるのでしょう。 細っていないのは、定期的に食事をしていたからですね」「食事って……どうやって?」「口からですが」「……口」何を当たり前のことを、と言う様に荀攸は首を傾げた。そうだろう。食事は普通、口から食物を摂取してエネルギーへと変換する。それは一刀も分かっているが、当然ながら一刀に食事を摂った記憶は無い。自然、一刀の視線は荀攸の口元へと向かった。そんな彼女はクスリと微笑んで何も答えずに茶を含む。荀彧と似た容姿を持つ少女から、なんだか艶かしい物を感じてしまって一刀は戸惑った。一人で勝手にドキドキしてきた一刀の思考を逸らすように、荀攸は一つ茶を卓に置くと口を開いた。「……そういえば、そろそろ帰ってこられる頃でしょう」誰が? とは聞かなかった。自分が三ヶ月もの間寝たきりであったという荀攸の言葉を信じれば、彼女とは別に怪我の手当てをしてくれた人が居るということだ。口ぶりから、たまたま看病に付き合ったのだろうと思考していた一刀に荀攸の声が重なる。「私への礼、それはそれで受け取ります。 しかし、真に礼をしなければならないのは―――」「その、帰って来る人なんだね」「はい」その後、戻ってくるまで荀攸が何故ここに居るのか、とか、荀彧とそっくりだとか世間話に終始し逆に天代が追放されたのは本当のことなのかと聞かれたりした。問われたとき、どう答えたものかと一瞬悩んだ一刀であるが、結局は素直に荀攸へと経緯を話すことになった。もしも朝敵として滅ぼすつもりがあるのならば、寝たきりの一刀を彼女は容易く殺せたはずだ。それをしないのは、少なくとも一刀に対して敵意がある訳ではないとの判断からだった。事実、荀攸は一刀の証言に何度か尋ね返した物の、概ね納得したように頷いて話はそれで終わったのだ。是も非も返さず、ただ事実を事実として受け入れた様子である。逆に、一刀の経緯をどうして知らなかったのかを尋ねてみると。「成都の方に出張っていました。 都に戻る最中、この邑で宿を借りたら北郷殿が寝ておられたのです」「なるほど、たまたまだったんだ」「ええ、たまたま……」一瞬、そこで荀攸は言葉を区切って、口元に手を当てて眼を瞑った。訝しげに一刀が視線を送ると、それに気が付いたのか。左右に首を振って、たまたまだったんです、と口にした。謎だった。「あ、そういえば、俺を看病してくれた人って―――」一刀が聞くのを待っていたかのように、この家にある一つだけの出入り口が音を立てて開かれた。首だけ巡らして見ると、一人の男が頭を掻きながら中へと入ってくる。ちょっと寂しい頭髪に、無精ひげをさらしている。腰にぶら下げたのは水筒と、いくつかの工具が入っている袋だった。何かしらの作業を行ってきた帰りなのか、男の服は随分と黒ずんでいた。「帰ったぜー」「おかえりなさい、維奉殿」「おう、荀攸居たのか。 ただいあぁんっ!?」先ほどの一刀が挙げた素っ頓狂の声を思い出させる、甲高い声が一刀を見た男の口から飛び出した。維奉(いほう)と呼ばれた男と一刀の視線が絡む。「ああ!?」「御使い様っ! おきたのかっ!」「アニキさん!?」「うおおおおっ、起きてんぜぇ、イ"ェアアアアア!」「つい先ごろ起きたようです」道具をその場で捨てて、維奉と呼ばれた男ことアニキは大仰な仕草を交えて一刀の快方に喜んだ。一方で一刀の方も思いがけぬ再会に立ち上がると、アニキへ向かって手を差し出す。「ありがとう、俺の事を看てくれたって荀攸さんから聞いたよ」「ハッハッハ、御使い様に礼を言われるなら、苦労した甲斐があるってもんですぜ」一刀が差し出した手に自らの左手を重ねて、アニキは柔和な笑みを浮かべていた。礼をしているのは一刀の方なのに、彼の方が深く頭を下げている。そして、聞いてもいないのに経緯を話し始めた。一刀は困った笑みを浮かべながらも、興奮した様子で喋り始めたアニキに調子を合わせる。追っ手から逃げながら、一刀が消えていった方向を目指して進むと、森の中で休息を取る一刀を発見したという。ただ、その時にはアニキ一人と馬が一頭いるだけで、一刀だけならば運ぶ事は可能だったのだが金獅を置いていくのは無理であった。そもそも、そこでアニキ自身も倒れることになったという。「まぁ、結局それは、その後なんとかなったんですがね。 あー、やべぇ、嬉しくなってきた」「ははは、本当……感謝することしか出来ないよ」「いえ、俺の方こそ天に感謝したいくらいですよ」アニキは言いながら右側に置いてある瓶を取ろうと左手を伸ばす。その仕草に軽い違和感を覚えて、一刀は維奉の右手を見た。既に季節は巡って冬に近いのか、長袖を着ていたせいで気付くのが遅れたが、アニキの右腕が無い。正確には、肘から先が無くなっていた。思わず声にしようとして、一刀は口を開きかけたが止める。おそらく、自分の無茶無謀に付き合った代償ということだろう。「こんなに目出度い日に飲まないなんて、もったいねぇ。 一等良い酒を持ってこさせましょう」「伏せていた方に酒を勧めるのは如何なものでしょうか、維奉殿」「馬鹿を言うな、酒は万病に効くんだよ。 美味いのをすぐ用意させるんで、とりあえず御使い様これでも」「ははっ、お酒も良いけど、用意させるって荀攸さんにかい? それは悪い気がするよ」「いえ、俺の嫁です」「え? アニキさん、結婚してたんですか?」「ああっ、そうだった! そうなんすよ! この前、ちょうど嫁を迎えたばかりなんすよ! いやぁ、あの時もしこたま飲んだが、今日はそれ以上に飲めそうだぜ!」「凄い目出度いことじゃないですか、アニキさん、おめでとうございます」勢い、出てきた明るい話に一刀は心の限りの祝いを述べた。照れるように頬をかいて、アニキが礼を言うと外の方から駆けるような足音が響いてくる。「お、ちょうど戻ってきたみたいです! 紹介させてください」「ええ、うわ、なんかわくわくしてきたなぁ」「綺麗な方ですよ」「はは、ますます楽しみだよ」「御使い様、取らないでくださいよ?」「そんなことしないって」そして、視線が出入り口に集まって、外の気配を窺うように全員の口が閉ざされた。やがて足音は扉の前で止まり、外で何かを置くような音が響く。アニキは僅かに前に出て、嫁が入ってくるタイミングを図るように口を開いた。「紹介します」そして、たった一つの出入り口が開かれた。「俺の嫁です」ガラッと音がなって扉は開かれ、現れたのは一人の少女。最初に一刀の視線が向かったのは、胸部だった。サラシのようなものを巻き付けて、豊満な果実を包んでいる。羽織るようなマントに、側面が露出してふとももまの一部が見える袴を着ていた。視界に飛び込んで来た人影はすごく見覚えがあった。『『霞ぁ!?』』『『『『『『『張遼!?』』』』』』』「えええええええ!?」「うわっ、なんや!? あぁああっ、一刀ぉー! やっと起きたんかぁ」「北郷殿は顔が広いですね」互いに驚くように声を挙げて、指を差しあう。ボソリと呟く荀攸を無視するように、一刀は驚愕の視線をアニキへと向けた。すると、彼の顔は酷く歪んでいた。その顔を見て、再び一刀は驚いたが、それはまあ良い。あの張遼がアニキと夫婦になるとは。脳内は今もなんか良く分からないけど凄い叫んでたり恐慌している。一刀はそんな脳内をシカトしつつ、張遼と出会った時に想いを馳せていた。酷い二日酔いによって、別れをしっかりとすることは出来なかったが西へ向かうことは聞いていた。彼女がこうしてこの場にいるのは、おかしい事ではないのだろう。凄い偶然だとは思うが、こうして知り合いに会えるのは嬉しい。それが、夫婦になったばかりという場面であるのは何かの縁があるような気がしてならない。とりあえず、やたら喧しい脳内の声のせいで、響き始めた頭痛を無視しながら一刀は祝いを述べた。「張遼さん、結婚おめでとう。 幸せそうで何よりだよ」「へ? 何言ってん? 一刀。 結婚って?」「え?」「うん?」「……えーっと、だから結婚してってことでしょ?」「あ、一刀まさかうちに求婚してるんか?」「なんつー時に限って現れやがるんだてめぇー! ふざけんなっ! 求婚するわけねーだろボケじゃねーの? ナスっ!」「あぁ? なんや? いきなり興奮しよってからに」「おま、お前がー!」激昂した様子を見せてアニキが張遼へと飛び掛る。と、見せかけて華麗にバックステップした。明らかに変な様子であることから、何か酷い違和感を感じる一刀である。ていうか、自分が求婚したと勘違いしているのは訂正しなければならない。アニキが興奮したのも、そのせいかもしれないし。「あのさ、俺が結婚したいって言ってる訳じゃなくて」「ばーか! 死ね! ばーかっ!」「維奉の奴、どうしたん?」「いや、俺に聞かれても何がなんだか」「……」「とりあえず維奉の奴をド突き回してもええかな?」「はぁ!? 何いきなりそういう結論になるわけ?!」「ま、まぁまぁ、二人共落ち着いてくれよ」「……あの」「アンタが喧嘩売ってるんやないか」「売ってねぇ! 霞がすっ呆けた事ぬかすからじゃねーかっ!」「よぉし、買ったでアホンダラ!」「不謹慎な売買してないで落ち着いてくれって、夫婦喧嘩なんか見たくないぞ俺」「いや、だからちげぇんすよっ!」「誰が夫婦やって?」張遼に尋ねられた一刀は、自信なさ気に張遼とアニキを交互に指差した。一拍遅れて、張遼が笑うように息を吐き出すと、何処に在ったのか。自らの獲物を取り出して室内でグルリと一つ回す。そして、宣言するように掌を一刀とアニキに向けてクイクイ傾けた。「うん、まとめて買うてやる! かかってきぃ!」「ええええ!? ちょ、アニキさん、これって如何いうことなの!?」「知らねぇっす! コイツが馬鹿なんすよ!」「言うやんか! 命知らずやな」「俺は言って無いよ張遼さん」「ああっ! 御使い様ともあろうお方が保身に入りやがってやがりますじゃねーか!」「面倒やん、一緒にシバき倒したる」「巻き添えかよっ!?」「てめー! やっぱおめぇは最低だっ、くそっ、くそっ!」「ごちゃごちゃ言うてるだけで来ないならうちから行ったるで!」「あー、皆様?」「なんやっ!?」「なんだよっ!?」「何かなっ!? 助けて荀攸さんっ!」「助かるかどうかはともかく、盛り上がってるところ無粋かと思いますが姜瑚殿が帰られましたよ」これが天使か。一刀はそんな荀攸の声が耳朶を打った瞬間、目頭を思わず指で押さえて感謝した。荀彧とは天と地ほどの差があると、失礼なことを思い浮かべながら。 ■ 脳●ブラザー一刀を救った女神の一人、改めて紹介されたアニキの妻は姜瑚(きょうこ)と呼ばれる可愛らしい人だった。長い青い髪を一つにまとめてお下げにして、どこか素朴な雰囲気をかもし出し、大きな目がクリっとしているのが印象に強く残る小柄な子であった。どうしてアニキと結ばれたのか、それを尋ねると恥ずかしそうに男らしさを感じたからと答えた姜瑚である。なんにせよ、張遼とアニキが結婚したという勘違いから、ぶっ飛ばされそうになったことを知った一刀は深く反省しつつも今は維奉と名乗るアニキに祝意を述べた。そのまま一刀の快方を祝う宴に突入して、起きたばっかりだというのにさんざんっぱら飲まされるハメになりそうだったので維奉に自然な流れで酒を押し付けつける事にした一刀である。その試みは果たして、成功した。酒によって身体が熱くはあるが、そこまでフラフラでもない。維奉に酒を押し付けたのも、一刀は出来る限り自分の今の状況を把握しておきたかったからだ。宴の中、自然と近況を話し合う彼らから、一刀は貴重な情報をいくつか手にいれていた。歳月人を待たずとはいうが、三ヶ月もの長期にわたって意識を失っていれば世情から取り残されてしまうもの。一刀はふらつく頭を意思で押さえ込んで、家の外に出てあたりを見回した。酔いを醒ましてくるとは断っているが、すでに張遼も維奉もグダングダンだったので荀攸くらいしか分かっていないだろう。まぁ、維奉は一刀に押し付けられたせいでへべれけになっている訳だが。「この辺でいいかな……っと」『まずは大きなところから纏めてみようか』『そうだな』『今回は誰だっけ?』『“仲の”かな?』『あれ、俺?』『進行よろしく』『よろしくー』『うーい』適当な切り株を見つけて座り込むと、脳内の声を口火に、北郷一刀一人会議が始まった。一刀達が最初に目を向けたのは、大陸の情勢からだった。宮廷から追放された直後、帝である劉宏が崩御した。話しぶりから察するに、一刀が追い出された翌日か翌々日である可能性が高いだろう。それが、張譲たちの行われたことか、それとも単に病状が悪化して逝かれたのかは分からない。どちらにしろ重要なのは、帝が亡くなったことである。これを受けて、黄巾党残党が前もって計画していたかのように、陳留へと殺到した。その数、噂だけではあるが実に8万を越えていたという。官軍は、何故陳留へ黄巾党が集ったのか分からないだろうが、一刀には心当たりがある。曹操軍に捕らわれたという張梁の為、だろう。本体自身は知らぬ少女であるが、何人かの自分が確信を持って伝えていた。それだけの求心力を持つ少女というのは、本体にはちょっと想像できない。肝心の陳留の安否であるが、結果から言えば健在だ。しかし、健在ではあるが大きな傷跡を残しているようで、特に開戦から数日は激しい戦闘が繰り広げられたようである。曹操や夏候惇といった主力が帰還するのが少し遅れたせいか、あわや城壁を抜かれかけたと言う。そんな曹操は陳留に辿りつくと、一刀が使った包囲する黄巾党を後ろからチクチクと攻める嫌がらせのような攻勢を行った。無用な出血を嫌ったのか、それとも他の要因か定かではないが数日後、曹操は夏候惇だけを外に残して包囲を突き破り陳留の城中に戻ることに成功する。その後、外の夏候惇と連動した篭城戦に突入したものの、ほどなく洛陽から朱儁将軍が率いる官軍が現れて黄巾党の完全包囲を切り抜けたようである。一方で、この黄巾党の動きに連動するかのように蜂起したのが、一刀自身も懸念を示していた韓遂が中心人物となって涼州で反乱を起こしていた。その軍勢は6万を越える規模だそうだ。殆ど障害もなく突き進んだ反乱軍は、長安付近で董卓軍と激突。こちらも数に劣る董卓軍が奮闘し、野戦で拮抗したのか今は膠着状態になっているそうだ。『たった三ヶ月なのにな』「韓遂は、史実からしてアレだし……仕方ないと思うけど」『黄巾の乱も、その後が予想できない状態だった』『まぁ、何時起こってもおかしくは無かったと思う』『でも、俺は桃香が生きてるっぽいことが分かって安心したよ』『何進さんに感謝しないとね』桃香が一刀と同じように、洛陽を追放されたことを知る事が出来たのは荀攸からの話だった。蜀領で勤めていた時節に、荀彧からの手紙が届いて知ったそうだ。同時に、黄巾の抵抗が落ち着いたら曹操の下に来るようにとのお誘いもかけられていたようだが。こうして荀彧が手紙を宛てたことを考えると、曹操軍も黄巾残党相手に余裕ができている、ということだろう。今後、陳留が陥落することはないかも知れない。そんな手紙を受け取った荀攸へ、さり気無くどうするのかを尋ねると、一刀よりも酒が入っているはずの彼女はクスリと笑って何も答えて貰えなかった。隙の無い少女である。何を考えているのかイマイチ分からないが、彼女の道は彼女の道だ。そう納得して、一刀は話題を逸らすことにした。そんなつい先ほどの出来事を振り返りながら、一刀は懐から酒瓶を取り出した。とりあえず、この場で大陸の情勢を憂いていても何ができるわけでもない。微妙な無力感を感じながら、手のひらに収まるくらいの盃を酒で満たす。「それにしても、アニキさんの腕を斬ったのが張遼さんだったとはね」『ああ……ビックリしたね』『本人達が和解しているなら、それはそれで良いと思うけど』そう、最初に眠る一刀を森の中で見つけたのは張遼だったそうだ。人馬が倒れている所を目撃し、近づいてみると一刀であった。思いがけない遭遇に、彼女は驚いたそうだが偉い人だったのでとりあえず応急手当をしようと屈んだところ草葉の陰から飛び出したアニキに強襲されて、ついつい腕を斬り飛ばしてしまったらしい。ほどなく勘違いであることに気が付いた張遼は、出血と疲労からか。うつ伏せに倒れ伏したアニキから、一刀の事を託されるハメになったという。ところが、金獅は倒れているは、勘違いで腕を斬り飛ばしたおっさんが居るは、偉い人が居るはでとても張遼一人で全員を運ぶ事はできなかった。途方に暮れかけた彼女の元に現れたのが、一刀の要請を受け取って洛陽を目指していた華佗だった。華佗は、一刀から帝を看て欲しい旨の書状を受け取ると、まっすぐに洛陽を目指し始めたという。徒歩であるため洛陽へ向かうのに時間がかかってしまったそうだが、今回はそれが幸いした。張遼と華佗が、二人を―――そして華佗の手により自然治癒力を増して復活した金獅と―――共に、安静に出来る近くの邑まで運び込み何日か、看病をしていたが一向に一刀の意識が戻らなかった。やがて、意識を取り戻したアニキが韓遂の蜂起により、戦乱に巻き込まれることを嫌ってこの場所まで移り住み始めたという訳だ。多くの偶然と人の輪が、今の一刀の命を繋いでいるのだろう。満たされた盃に月が映りこんでいた。それを暫く眺めた一刀は、それを一気に飲み干して一つ頭を振った。チビチビと手酌で月と酒を楽しみながら、次に考えるのはこれからの事。現状を知った今、自分がどう動くべきかを考えなければならない。が、何をすれば良いのかは分からなかった。漢王朝を復活させる。洛陽に返り咲く。劉協との約束を守る。音々音と再会する。成し遂げるべき目的はパッと思いつくのに、どう動けば全てを成す事ができるのかがわからない。『幾つか考えはあるけど……』『あるのかよ』『すげぇな』『いや、あるけど、無いみたいな』『俺も』『どっちさ』「俺、なんで天代になれたんだっけ?」『そりゃお前、華佗とちゅ……』『……』「……」『て、天代を身分を失ったのは痛恨だったね』『あ、うん、そうだな』『いや、あれは治療行為みたいな物だから』「うん、治療行為だ。 間接的な」『北郷一刀の中じゃノーカンだよね』『そもそも“肉の”が全ての、その、元凶だろ?』とは言うものの、一刀達もうまい具合に“天代”になれたことは彼のおかげだと知っている。今となっては元凶というにはちょっと遠慮が含まれてしまう。『あ、呼んだ?』『参加しろってー』『だって、何か皆が何時の間にか凄い仲良くなってるからさ』『あれ?』『どうした“南の”?』『“肉の”は黄巾の乱も知らないんじゃなかったっけ』『『『あ』』』『なんとなく察しはつくけどね』『とりあえず、“肉の”に説明するところからか』一刀達は、夜明けまで今までのことを思い出を振り返りながら“肉の”に言って聞かせた。途中、何度か尋ねられることはあったが、概ね順調に。時にわき道に逸れながら、月見酒を交えた一人会議は明け方まで及んだ。眠気から切り上げて家に戻った一刀は、その後復活してた維奉と張遼、そして看病してくれていたという姜瑚にまで、しこたま説教されることになった。三ヶ月も意識失ってた人間が、酒をかっくらって朝方まで何処ぞに出かけるとは何事か、と酒気漂う息を吹きかけられながら。酒を飲ませたのは張遼と維奉だし、ちゃんと出てくると断ったと言っているのに超展開理論を繰り広げられて一刀の意見は却下される。藁に縋る思いで荀攸に視線を向ければ、中身の入った盃を持ち上げたまま卓に突っ伏して昏倒していた。「……」勝手に最後の砦として期待していた彼女が崩れ去っているのを見て、一刀は諦めの境地に至り説教を受け入れた。最終的には張遼と維奉の喧嘩に巻き込まれて、一刀も昏倒することになったのだが。―――・この邑で意識を取り戻してから一刀は特に何をするわけでもなく、日々散歩をする毎日である。これには勿論、ずっと寝ていたことによる身体の感覚を取り戻すための物でもあった。今まで陳留や洛陽といった大都市に身を置いていたせいか、この邑の規模は酷く小さく感じる一刀だった。集落と呼べるギリギリの機能だけを兼ね備えている、有り体に言えば過疎っているように思える場所だ。ただ、これでも邑の中ではそこそこの規模であるらしい。ここに居る人達はおおらかさがあるのか。よそ者の一刀でも、話しかければ普通に会話をしてくれるし最近では顔も覚えてくれたのかちょっとしたことで家に招かれることも少なく無い。概ね、住民たちとの関係は良好と言えるだろう。どうも一刀のイメージから、過疎というと若者がまったく居ないように感じられたのだが全然そんなことは無かった。むしろ、若い者達はこの邑を愛しているのか。常にみすぼらしい槍のようなものを携帯して、自治を行っていたりもした。賊に眼をつけられれば、あれを手に取って戦うのだろう。今まで官軍の装備に見慣れていた一刀は、驚いたものである。「……うーん、なんというべきか」そして今日。天水の都で治療をしていた華佗が戻ってきたという話を聞いて、待ち合わせた場所へと向かっている。その歩みは実にゆっくりであった。急ぎではないから、とか、歩くのが辛いからという理由ではなく、維奉から聞かされたある話が原因だった。「気が重いなー」『かといって、会わない訳にもいかないしね』「だよなぁ」聞いた話では、華佗はゴットヴェイドーから破門を言い渡されたという。まだ漢王朝から天代が追放されたという事実は知らされていないようだが、噂には上がっている。その噂とは、端的に言ってしまえば天代が帝を暗殺したという物だった。先ごろ崩御した帝が黄巾党の策謀に嵌り、毒殺されかけたというのは記憶に新しい。これを漢王朝に降りた天の御使いが、天医を連れて治療したと民間には伝わっている。しかし劉宏の愚鈍さを知った天の御使いは、救ったのは間違いであったとして天医、華佗の協力の下で毒を盛り、殺してしまった。そんな噂が広まっているのだそうだ。根も葉もない噂ではあるが、こうした噂が天水付近にも流れていることを考えると誰かが何かしらの目的で広めたか、或いは自然に流れた噂が複雑怪奇な経緯でもって伝わったかのどちらかだろう。とにかく、この広まった噂から華佗が所属するゴットヴェイドーは漢王朝に何かしら詰問される前に事実を確認するわけでもなく、在籍させる訳には行かないと華佗に言い渡して追放したそうなのだ。黄巾党が唱える大平道の件から、宗教的なものとして認められているわけではないゴッドヴェイドーは自分達の不利益になりそうな要素を、片っ端から切り捨てることにしたのだろう。それは、黄巾の乱から来る儒教とは違う新興宗教のイメージを、悪化させるのを嫌った為なのかもしれない。その辺の話はまた随分と横道に逸れてしまうが、一刀と華佗の関係は有名になりすぎたのだろう。自ら喧伝したわけでもないが、だからといって違うと言っても今更だ。だから、一刀は華佗に謝るためにここまで足を運んだ。「……まだ居ないか」華佗と待ち合わせた場所は邑の中央は丁度広場のような造りになっている。隣近所が大抵1里以上離れているこの邑でも、いっとう民家が集中していて栄えている場所だ。何人かの子供たちが遊びまわり、数人の男達が茶を楽しみながら団欒をしていて。そんなのどかな風景が見える場所へと辿りついた一刀は、手ごろな段差を見つけて座り込む。胸元にぶらさげた赤い紅玉を片手で弄りながら、空を見上げて。結局のところ、一刀自身の甘さが多くの人の迷惑になって返ってきている。決して天代という身分に胡坐を掻いていた訳では無かったが天代として居た場所が、どういう所であったのかを正しく理解していなかったのだ。後悔しても仕方が無いと思っても、どうにも割り切れない。燻る胸中を押し隠して、一刀は大きく息を吐いて気分を切り替えることにした。しばらく、脳内と軽い雑談に興じて時間を潰していたが一向に姿を見せる気配がなかった。待ち合わせ場所を間違っていたのか不安になってきた一刀の耳朶に、数人の砂利を噛む足音が聞こえたのはそんな時だった。のどかな風景に溶け込むように、一刀の隣で異様な男二人が道具を広げ始めていた。「……え?」一刀は思わず呟いて、その一角を凝視した。一人は黒い髪を逆立てて、パンダのように片方の目の辺りが黒かった。浅黒い肉体に、ふんどし一枚で腕を組んで立っており、腰には『脳殺』と書かれた看板をぶらさげている。もう一方の男も、やはり黒い長髪を後ろに流して角ばった輪郭を顰め肉々しい肉体をふんどし一枚で大事な部分を覆い、腰に手を当てて『悩殺』という看板を手に持っていた。道具を広げて彼らの前に出てきたのは、一個の折りたたみ式のような卓。それだけを目の前に置いて、彼らは厳しい顔つきで立っていた。その光景は、この緩やかな雰囲気を持つ邑のイメージを著しく破壊していた。今まで何回もこの広場に顔を出したが、こんな店を開いている男達は今日初めて見る。あまりの異質さに、しばし呆然と見送っていた一刀であったが一瞬、彼らの視線と交錯すると慌てて首をそむけた。少なくとも、半裸の男達―――しかも妙な看板をぶらさげている奴―――には余り関わりたくない。あれは、看板とかあるしやはり店なのだろうか。その割には商品が何も陳列されていなかった。仮に露店商と考えても、看板に書かれている物を読んで何を売るというのか。意味が判らない。むしろ、一刀からすればあの看板の文字は無意識の嫌がらせに他ならない。すぐにでも立ち去りたいのが本音だが、華佗を待っているので逃げるわけに行かないのが辛いところである。「……」「……」「……」何か、家屋の修繕でもしているのか。杭をハンマーで打ちつけるようなコーンとした音が何処かから響き、鳥の鳴き声がたまに聞こえるこの場所で一刀と半裸の男達は、ただただ立ち尽くしていた。もちろん、この場所に近寄るような村民は居なかった。「……」「……」「……」背後に突き刺さる妙な感覚に、一刀は謎の圧迫感に負けて肩越しからチラリとのぞき見る。思いっきり一刀をガン見していて、やはり視線が絡み合う。一つわざとらしく咳払いをして眼を地に向けて、居住まいを正して呟く。「華佗、頼む、早く来てくれ」先ほどまで気落ちしていたはずの一刀の心情は、良く分からない感覚に重圧を感じて落ち着かなくなっていた。それが良いか悪いかは別として、とっとと用件を済ませて帰りたい一刀である。そんな彼は、気が付くと鼻から出血していた。唇を伝う違和感に気が付いて、思わず鼻頭を押さえる。「あれぇ?」『鼻血か?』『あ、ごめん』『『『お前かよっ!?』』』「一刀……」掛かった声に振り向くと、ようやく現れて待ち望んでた華佗と再会する。華佗は一瞬だけ、一刀の背後に佇む半裸の男達を一瞥して動きが止まり、それから一刀の方へと首を向けた。適当な布で鼻の辺りを押さえて出血している一刀に眉を顰めて一つ頷く。「あ、華佗……」「一刀……久しぶりだな」「ああ……」「その……なんだ、邪魔……だったのかな」「いや! 全然そんなことない!」「……そうか」「うん、そうなんだよ……」微妙に距離を保って、歯切れの悪い再会の言葉を交わす。華佗も気になるのか、しきりに一刀の背後へと視線を泳がせていた。ちなみに一刀は全力でシカトしている。「……色々聞きたいことがあったんだが」「俺もだよ」「とりあえず、一刀、用事が済んでるなら場所を移したい」「すまん、華佗。 ちょっと誤解を訂正してからでもいいかな」「いや、駄目なら後でも良いんだ」「良いから、今で良いから」「……良いのか?」「くどいぞ」何故か謝る立場であったはずの一刀がふて腐れ始めて、お互いにじんわりと半裸の男達から遠ざかる。結局、華佗と合流を果たした一刀はそのままゆっくりと立ち去って、二人の男達は何の店でどんな人間なのか、今は謎のままに終わった。―――・山岳の半ばに作ったような、そんな邑の奥に柵をした広場が広がっている。この場所には、何頭かの馬が遊牧されており、一刀と共に駆け抜けた金獅もまた自由気ままに草を食んでいた。華佗と再会した一刀は、紅く染まった夕日を背に柵へと寄りかかってそんな風景を眺めていた。頬には痛々しいと思える跡が残っている。散々、鼻血の件で茶化された一刀は遂に華佗へと一発拳をぶち当てることになった。そこで勢いにのったか、怒りながら謝罪するというなかなか普通には出来ないことをした一刀は直後に華佗から一発お返しされたのだ。気すら使っていない拳が、とてつもなく痛かった。「あぁ、痛い」「はは、悪いがそれは治療しないぞ」「医者がそれで良いのか」「悪いか?」問われて、一刀は首を振った。この一発に込められているのは、一刀へと聞きたかった色々な何かが詰まっていたのだろう。少なくとも、華佗にとってはそのはずだ。こうして落ち着いて話し合う中で、華佗から詰問されることは一切なかった。ただ一言、どうするのかと聞かれて。いつか戻るよ、とだけ答えた。「……ゴッドヴェイドーは」「うん」「儒教の陰に隠れているが、大きな教門だ。 郷里では若者がこぞって、その門戸を叩く。 気を扱える人も多いが、まったく使えない人も少なくない」「……」「俺がゴットヴェイドーの門戸を潜ったのは、10を過ぎてからだった。 きっかけは……まぁ、これは良いか。 とにかく、医者として多くの人を救いたいと飛び出してくるまではずっと過ごした場所だ」「ああ」「正直、破門を言い渡された時は何かの間違いではないかと思ったが」言って、華佗は一刀に殴打された頬に手を当てた。「痛いなら治せばいいのに」「良いんだ」「……良いのか」草を食むことに飽きたのか、馬蹄を響かせて一刀の下に金獅が駆けてくる。2ヶ月ほど、しっかりとこの場所で休養を取っていたためか、随分馬体がでっぷりとしていた。一刀と同じく、金獅にも軍馬としてのリハビリが必要になるだろう。目の前に立ち止まり、その顔を一刀へ向けてぬーんと伸ばす。「はは、なんだお前」近づいた顔に手を当てて、何度か撫でてやると、金獅の舌が伸びてきて一刀の頬を唾液で濡らした。「うわっ、った」「良かったな、金獅が治してくれるそうだぞ、一刀」「これ、絶対偶然だろ」「はっはっは」数ヶ月も会っていなかったというのに、金獅は自分を覚えてくれているのだろうか。そう考えると、一刀も気持ちが嬉しくなって、その背に跨りたい衝動に襲われる。華佗は、一刀がそう漏らすと少し駆けるか、と頷いて厩舎の中へと入っていった。なんの事なのか首を捻っていた一刀だったが、馬具を抱えて戻ってきた華佗を見て納得する。「借りられるんだ」「ああ、何人か遠乗りする人や都へ向かう人の為にも貸し出しているらしい。 ここに住む人たちで共有している馬だそうだから」「お金は?」「払ってきた」華佗は適当な馬を見つけてその背に馬具を取り付け始める。一刀はもちろん、金獅を捕まえて。お互いに準備が整って、その背に跨るとゆっくりと走らせ始めた。沈みかけた陽の中、寒いとすら感じる空気を割って。東へ向けて進路を取ると、標高の高い場所にあるここからは、地平まで広がる荒野が見渡せた。待たせている人が居ることを、忘れてはならない。3ヶ月も動き出しが遅れてしまったのだ。徐々に早まって、ついには全力で金獅が駆け抜け始めた頃、やや遅れた背後から華佗の叫ぶような声が耳朶を打つ。「一刀!」「ああ!」「形は変わったが、お前に付き合うぞ!」それは、きっと洛陽で怪我を見てもらった時の話だろうか。あの時は、患者として自分の旅に同行するといってくれていたが。「看板は無くても、治療は出来る! 苦しんでいる人は救える! そうだろう!」「ああ、その通りだ!」「一刀は戻るまで、どうするんだ!?」「……」その華佗の声に、一刀は答えなかった。どこで何をすれば良いのか、未だに答えは出ていなかったから。やがて金獅のペースは落ちていき、その足は止まっていく。合わせる様に華佗も隣に立って。一刀も金獅も、同じように荒い息を吐き出していた。距離にすれば余りに短い全速力だ、ただ捕まっているだけの一刀もこの有様である。三ヶ月の休養は、ちょっと長すぎたようだ。「はぁ……はぁっ、ま、まずは体力作りからかな」「……そうか、滋養強壮剤でも作っておくか」「ああ、うん、効く奴を頼むよ……」「分かった、用意しておこう」この日から、一刀は邑の厩舎へ毎日顔を出すことになった。とりあえずは体力を取り戻すこと。そんな自分に出来ることから始めることにしたのである。 ■ 再出発、家から「で、出来たっ……!」『俺の家……』『俺達の家……っ!』意識を取り戻した一刀がこの邑で過ごし始めてから幾ばくかの時が過ぎていた。季節は冬。水溜りには薄い氷が張り付いて、吐く息は白く水場での作業が辛くなる頃だった。妻を迎え入れた維奉の家に、何時までも居候している訳にはいかない、ということで維奉の家の近くにある空き地を利用して、あばら家のような物を建て始めていた。もともと、住まいの無い華佗や張遼も似たような物を適当に立てて暮らしている。一刀は先達の協力を請い、邑人から知識を蓄え、約1ヶ月間。精力的に取り組んでたった今、初建築となるマイホーム完成に至ったのである。見てくれは、予想通りというかなんというか。とにかくみすぼらしかった。台風が来れば一夜にして根こそぎ吹き飛んでしまいそうな、そんな頼りないあばら家が、やけに大きく見える。達成感に満足気な笑顔を浮かべて、一刀は喜んだ。これで、維奉たちの家から離れられる、と。維奉や姜瑚は、このまま一刀を住まわせていても問題ないと言ってくれているのだが一刀からすれば新婚さんの家にお邪魔している形になっているわけだ。普通に居づらかった。「かーずとー!」「ああ、霞! 良いところに!」「おー! 家できたんかー」「そうなんだよ! 霞の家より全然かっこ悪いけどさ」「そういうことなら、祝い酒に持って来いやなっ」「おおおお、ありがとう!」そうしてズズイッと手を差し出して掲げたのは、一升瓶くらいの容量を誇る酒瓶であった。一刀も気分が盛り上がっていたので、彼女の差し出した酒は飲む気満々である。「なんや、せっかくだし外やなくて中で飲もか?」「お、良いね!」この誘いに一も二も無く頷くと、一刀は小走りに張遼の先にたって出入り口である扉を開け放つ。たてつけが悪いのか、途中で止まったが。何度か力を込めて引いたり圧したりしていると、木が割れる音が響いてようやく全開となる。更に扉を開ききった衝撃か。思い出すように設置した、雨水を流す半筒状の樋が頭上からボタリと落ちてきた。「はぁッ……はぁっ……さぁ、入ってくれ」「一刀、こんな天気の良い日に中で飲むのも野暮やん?」「え、いや、大丈夫だよ。 ちょっと今のは力を入れすぎただけだから」「えー……」渋る張遼を押し込んで、早速一刀は部屋へと上がる。一瞬床が抜けることを期待した張遼は、何事もなく上がりこめて微妙に肩を落としていた。酒のつまみ、からかいの種になることを望んでいたのだろう。広さとしては、6畳くらいだろうか。何も無い殺風景な床と、陽を差し込むための大きめな窓。3メートルくらいの高さがある天井に、道具を仕舞いこめるようにと設置した棚が固定されている。もちろん、持ち物は何も無い。強いて言えば、意識を取り戻してから借りている維奉の服だけか。「なんもないなー」「出来たばかりだからね。 長居するわけでもないし」「そうなん? その割には、一所懸命作ってたやんか」「うん……力仕事みたいなものだから、身体を作るのに有意義でもあったしね」「ふーん」倒壊するのを予想するのに飽きたのか、張遼は持ってきた酒を盃に満たす。一刀は、金獅との体力作りの中で彼女から時たま、気が向いた時に指導を受けていた。後世、神速の張文遠と呼ばれるだけあって、その手綱捌きは見事の一言。長く付き合ってる一刀よりも、手足のように金獅を動かす張遼を見て自ら鍛えてくれるように願ったのだ。その甲斐あってか、一刀にも幾分か上達の後は見られている。二人で雑談をしながら、チビリちびりと酒を楽しんでいると頬を紅く染め始めた張遼がふいに尋ねた。「なー、一刀ー」「なに?」「うち、そろそろ行こうかと思ってる」「そうなんだ」何処へ? とは聞かなかった。張遼がこの邑に逗留していたのは、勘違いから維奉の腕を切り飛ばしてしまった負い目からだという。もともと、立ち寄って長居するつもりもなく、そろそろ何処かへと身を寄せるために仕官先を求めていたところ維奉の件が重なって足止めを食っていたらしい。ポツリ、ポツリと酒の勢いからか。話し始めた張遼の言葉に頷いて、或いは同意を返して一刀は酒を飲んでいた。「ついこの間、維奉にも改めてしっかり詫び入れてきたんや。 そしたらな、一刀がええっちゅーたら納得する言うてくれてな」「ええ? 俺が決めろって?」「うん」「なんでやねん」「知らんがな」どうして自分が張遼に許しを出さねばならないのだろうか。維奉が腕を切り飛ばされて、それを許すか許さないか、維奉自身が決めなければいけない話なはずだ。それを張遼に言えば「うちもそう思うんやけど、維奉にとっての筋っちゅうもんがあるんやろ、多分やけどな」と真面目な顔で返された。なんだか腑に落ちないものを感じつつ、一刀はあっさりと許可を出そうとした。が、それは脳に響く声から口を開いたままとまることになる。不自然に止まった口を、隠すように盃を仰いで。『あのさ、どうせ俺達に決定権があるなら董卓さんの所に行ってもらえないかな』『あ、なるほど』『なんで? 別に良いんじゃない?』『いや“南の”、反董卓連合のことじゃないかな?』『あ、そうか』『もともと、何処へ行くつもりなのか聞いた方が良くないか?』「……で、仕官したいって言ってたけど、何処に行くの?」「ん? この辺だと、馬騰のとこか董卓のとこか……実際どこに行くかは自分の目で見て決めるつもりや」『それなら、少し待ってもらってさ』『うん、ちょっと考えを纏めてからお願いしたいよね』脳内の声と、張遼の考えを纏めて、一刀は一つ頷くと口を開いた。我侭と認めつつ、一刀はもうしばらく金獅と自分の訓練に付き合ってほしいと頭を下げたのだ。これに張遼は、腕を組んでしばし唸ったものの、了承の意を返す。一刀は再度頭を下げて、今後の事を思った。張遼から自分へと直接とは言わず、間接的にも貴重な情報が得られるなら有効利用しない手はない。仮に董卓の下に仕官すれば、張遼の主は董卓ということになる。しかし、一刀が願い出ることは董卓軍の内情に直結しかねない。これを考えると、このお願いは難しい申し出になることは間違いなかった。否だと返されるなら、それはそれで納得するしかないが、是と答えてくれる可能性が無いわけじゃない。自分の事情をしっかりと話して、ちゃんと協力してもらえるならコレほど心強い仲間も居ないではないか。なんにせよ、答えを出すのは酒の席ではなく、改めて話し合う機会を設けるべきだろう。打算たっぷりの考えを酒を流し込みながら捻りつつ、一刀は張遼へと首を向けた。「さて、真面目な話は終いやな。 一刀、飲も飲もっ!」「ああ、でも飲みすぎて前みたいに暴れるのは無しだぞ。 維奉さんが泣くし、家が壊れる」「そんな暴れ馬みたいな扱いせんでもええやんっ」怒ったふりをして腹を突つかれ、冗談交じりに盃を渡されて、一刀は笑いながら受け取った。付き合っていて気持ちの良い張遼は、個人的にも好感を持っている。もともと、振って沸いたような考えだ。彼女も自分も、納得できる別れ方にしたい。張遼から差し出された盃に、一刀も酒を返して注いだ時、たてつけの悪い入り口がガタガタと動いて家がグラグラと揺れる。瞬間、見事な瞬発力で取り付けられた窓から身を投げ出して、文字通り家から飛び出した張遼と入り口からけたたましい何かが落ちる音が鳴り響いて、声があがる。「あああっ、壊しちゃった!?」「こんにちは」一刀の家に新たに姿を見せたのは、盆を手にして焼き魚を持っている荀攸と維奉の妻、姜瑚であった。何処からか聞いたのか、二人とも一刀の家の完成祝いに食事を持ってきてくれたようだ。「二人共こんにちは。 どうぞ、中に入って」「お邪魔します」「あのー……すみません、柱が一本倒れてしまったのですが……」「うん、まだ大丈夫だろうし、後で治すから良いよ」「あー、びっくりしたー。 倒壊すると思ったわー」ぐるり回ってきたのだろう。荀攸と姜瑚が部屋へ上がると、入り口の方から張遼が顔を再度出して戻ってきた。同時に、一刀は“肉の”に変わって扉を凄い勢いで閉める。バタンっ! と大きな音がなって、再び家が揺れた。「ああっ、酷いやんか! かずとー! 中に入れてー!」「家が揺れてますね」「あの、やっぱり柱が……」「大丈夫、例え崩れても窓から飛び出せば平気だと思うから」「かーずーとー! おーさーけぇー!」「私にそれは無理ですね」「私にも無理です」「……俺も無理かも」結局、危険だということで一刀達は維奉の家に移って、そのまま帰ってきた維奉と共に宴会となった。日々の生活があるからか、一刀が今までに経験してきた宴の規模に比べればそれはもう、質素なものではあったが、心の底から笑いあえて楽しい一時となったのである。宴会が終わったその夜、荀攸から書と筆を借りた一刀は自分の家の中で、これからの事に想いを馳せて墨を滑らせた。一刀の再出発の芽が、冬を迎えた邑の中で芽吹き始めていた。 ■ 外史終了 ■