clear!! ~「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編3~clear!! ~「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編4~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~見据えた道は桃仙から西へ伸び、大陸は揺られ始めたよ編~☆☆☆ ■ 『これから』一刀が出立してから、ずいぶんと時間が経つ。陽の傾きが、東側から西側になるくらいだ。もう、後数時間もすれば夕刻を迎えるだろう。離宮の入り口で劉協の帰りを待つ音々音は、一刀の事も然ることながら劉協の心配もしていた。内心では、自分一人だけ一刀を見送りに行ってずるいとも思っていた音々音だった。そんな、ちょっとヤッカミ染みた物を胸の内に浮かべていたが時間の経過が経つにつれて、それは劉協への心配へと変わっていったのだ。チラリと隣に視線を向ければ、劉協に目立つからという理由で置いてかれた護衛役の恋が手持ち無沙汰なのだろう、例の手加減の練習というものを行っていた。あの目視できない速度で振り下ろされる戟の、何処に手加減の要素があるのか音々音には分からない。しばしぼんやりと眺めてしまった音々音だったが、別に恋の手加減の練習が成功に至っているかどうかは些細な問題である。「……もう暫く待っても来なければ、こちらから迎えに行くべきでは」視線を外しながら呟く。今や劉協は、言葉は悪いかも知れないが一刀に戻ってもらう為に必要な手札の内、もっとも重要な者になった。熱意に圧し負けて頷いてしまった音々音が言うのもアレだが、単独行動は控えて欲しいものである。ただでさえ帝の体調が思わしくないのだ。彼女に何事か起こる事は歓迎できない。未だに風を切って鳴らしている恋の素振り音を耳朶に響かせながら、膝の上に載せた人差し指をトントンと叩き待っていると、いきり立つ様子を見せ早足で歩く何進の姿を見つける。明らかに常とは違う、興奮した何進を見て音々音は首を捻った。確か何進は洛陽郊外へと兵を引き連れて演習を行うことになっていた筈である。いつだったか、おおよそ10日前くらいに徴兵したばかりの兵達を率いて出立していた。この都の政変を知って、一人戻ってきたのだろうか。そこまで座りながら視線だけで何進を追いかけていた音々音は、何かに打たれたかのように飛び上がった。そうだ。何進が洛陽から出立したときに一緒に演習へ参加した者は誰だったか。十常侍であり、劉宏帝の信頼の厚い蹇碩も共にしていたではないか。この事を思い出した音々音は、視界から建物の影に消えそうな何進の進行方向だけをしっかりと記憶に残し素振りを続ける恋へと駆け寄った。「恋殿! 何進殿の下まで行きたいのです」流石にこの暑さだ。じんわりと汗を滲ませる恋は、一瞬きょとんと音々音を見つめたが、やがて理解に至ると腰を降ろして彼女を持ち上げる。肩を借りる音々音が声を出す前に、恋は走り始めていた。咄嗟に舌を噛まぬよう口を閉じ、恋の肩口を掴んで振り落とされないように力を込める。どうやら、恋もしっかりと何進の姿を捉えていたようであった。大した時間もかけずに何進の下まで辿りつく。やや驚いた様子で振り返った何進は、音々音と恋の姿を認めると僅かに顔を伏せた。恋の懐から飛び降りながら、音々音は口を開く。「何進殿、お聞きしたいことがあるのです」「天代殿の事か」言われ、頷いた音々音を見て、何進は頭を掻きながらかぶりを振った。そして、しばしの沈黙を破って口を開く。「追放されたという話は聞いている。 私は知らなかったが、蹇碩が宮内の者と示し合わせて天代を討つ為に謀ったのだろう」「では、天代は既に討たれたと」「さてな……しかし、たった一人の人間が5千の兵の壁を抜くのは不可能だ」「ひ、一人……? そ、それは確かなのですか?」馬鹿な、と音々音は心中で叫んだ。一刀を見送ってこそ居ないものの、遠目から3千の兵を率いて洛陽の大通りへ向かう勇姿を音々音は見ている。そうしてこの場所を去った一刀が、どうしてただの一人となって蹇碩の前に立ち待ち構えていただろう蹇碩の軍勢と相対したというのだ。驚愕を顔に出さないよう、顔を伏せた音々音の耳朶を打ったのは、怒鳴るような何進の声だった。「おい、何処へ行く!」何進の怒鳴り声に釣られて振り返れば、戟をその手に持ったまま背を向ける恋の姿。その恋の背中を見たとき、音々音は理解してしまった。彼女が、一刀を追いかけることを。きっと誰の声でも止まらないだろう。ゆっくりと何進の声に答えるように振り向く恋の表情を見て、自分の推測は確信に変わる。「……行く」恋が答えたのは、何進にではなく音々音だった。劉協の傍に居てくれと願った音々音も、今度は彼女を引き止めることは無かった。だって、一刀が死んだら何にもならないのだ。こうして自分が立ちあがり、劉協を支える決意を胸に宿したのも、一刀が還って来る場所を用意する為なのだ。もちろん、劉協を道具のように考えてる訳じゃない。一刀がいれば、漢王朝がどうなろうと構わないという思いでいるわけでもない。自らが生まれ、育ったこの国を愛していない訳では、決してないのだから。劉協を立て、この国の膿を吐き出し、一刀を迎え入れる。これが漢王朝存続が成る最初の一歩であると、音々音は考えている。だから、恋の声に音々音は答えた。「恋殿、此処に戻ってきては駄目ですぞ……その覚悟があるならば」今、朝敵になった一刀を追うのならば恋も戻ってきてはいけない。最初の一歩で躓く訳にはいかないから。お互いに見詰め合ってしばし、恋が力強く頷くと同時、音々音は僅かに頭を下げた。「っ、陳宮殿。 何を言ってるか! 何故止めぬのだ!」「止まれば止めてるのです」「しかしだな……くそっ、あいつらと同じではないか……」「……? っ、恋殿、またいつか」「ん、ねねも頑張って」後はもう言葉は要らないとでも言う様に、恋は踵を返して走り去っていく。見る間に小さくなる恋を見送る音々音を見て、何進は顔を顰めた。何進は一刀と分かれてから真っ直ぐに洛陽へと向かい、戻ってきたばかりであった。詳しい事情を聞くために先行して戻った朱儁に会おうと考えていたところ、音々音に呼び止められたのである。何進としては、詳しい経緯を知っているのならば誰でも構わなかった。お互いの様子から、事実関係を把握していると判断すると彼は口を開く。「陳宮殿は、天代が追放に至った理由を知っておられるのか?」「知ってるのです」「ならば、詳しい事情をお聞かせ願いたい。 こちらへ戻ったばかりで、詳細は知らぬのだ」「構わないですが、お話は劉協様の離宮の方でさせて貰うのです」宮内の中とはいえ、こんな所でするような話ではないし、何より劉協のことが心配だ。何進は音々音の声に頷いて、二人して離宮を目指した。―――・話を聞いた何進は離宮から離れて一人、顎鬚を擦り考えながら歩いていた。途中、劉協様が戻られて話が途切れた時にも思ったことだが、天代側は張譲に嵌められたことが分かる。何より、天代を追った兵達の事情を知った何進は、胸中穏やかではなかった。ただ、諸葛亮と鳳統の処遇だけは言い逃れできぬ物ではあったが。それも天代の人柄を鑑みれば、少女達への同情というのは理解できる話であったし諸葛亮と鳳統の二人が、波才に強制されて止むを得ず敵対していたことも知るに至った。陳宮と、劉協が一刀と仲が良いことも何進は知っている。故に、一刀を庇うための嘘が混じっているのではないかとも思ったが、それを言うには無粋なのだろう。張譲と一刀が手を取り合って、漢王朝が続く未来を確かに見た。自分の心がどうにも纏まらないのは、その光景を目の当たりにしたからかも知れない。「……約束は果たさねばならぬな」そう呟いて一拍を置くと、何進はある部屋の中へと扉を開けて入った。彼が入ると同時に、何人かの視線が何進へと集まる。この部屋は、天代の部下であった者達が集められていた。何進が来たことによって僅かに顔を上げたものの、再び膝に手を当てて地を見つめる劉備。その劉備の後ろに腕を組んで佇むのは、確か名を関羽と言った。更にその奥。まだ子供ではないかと思うほど幼い容姿をした三人の少女が、寄り添うようにして何進へと顔を向けていた。「……何進殿」一度ぐるりと室内を見渡して、何進は声をかけられた皇甫嵩へと首を向けた。「その様子では、話は聞いているようだな」「何進殿も、聞かれましたか」短く会話を交わした皇甫嵩の隣で瞑目しているのは盧植であった。「……それで、皇甫嵩殿はどう考えている」「どうも何も。 詳しい事情を聞くにも劉備たちは答えぬのだ。 判断など出来ないですよ」「そうか」「ただ一つだけ分かることもある……天代は我々に隠し事をしていたということです」そうして流した目線は、諸葛亮と鳳統の方へ向いていた。皇甫嵩の視線に重圧を感じたのか、それとも別の感情からか。こちらを黙して見つめていた二人の少女は、自然顔を下げた。諸葛亮、鳳統の二人はともかくとして、恐らくは劉備達も天代と同じように、気が付けば今の立場に貶められていたのだろう。そうでなければ、わざわざ一刀が何進に遺言のようなものを託すわけが無い。何が在ったのかなど、想像することはできても事実を確認することは出来なかったに違いないのだ。何進はそっと、腰にぶらさげた二本の刀剣の柄を撫でた。「……劉備とかいったな」「……」「そのまま黙してても良いが、私の話は聞いてもらおう」言って何進は、劉協と音々音から聞いた事のあらましを、劉備へと語り始めた。実際に何処まで知っているのか分からないので、一番最初から順序だてて。皇甫嵩や盧植も、全てを知っていた訳ではなかったのか。時に尋ね、時に頷いた。何進自身も確認するように、ゆっくりと全て話し終える頃には窓から差し込む陽射しが赤く染まり始めていた。何進の声が止まり、沈黙が訪れた室内の中。一つ、理解に至ったことがある。何進は、蹇碩と共に一刀を待ち構えていたが付き従う兵は一人も居らず、たった一騎であの場に現れた。後を追いかけた官軍の兵達は、先に徴兵されたばかりの者達だと聞いている。その兵達は、何も知らなかった。ただ、一刀が出兵する際に集められ、未だに天代は在ることを民に騙り、彼らごと天代を追放したのだ。ただの一人で放り出された訳ではない。本当ならば、蹇碩と利用した自分とで、天代率いる3千の兵を迎え撃つことになっていたのだろう。「……一刀様は、どうなったんですか」室内の沈黙を破ったのは、これまで黙秘を続けてきた劉備の声だった。「知らず利用された私が付き合う道理はなかろう。 結果は知らん」「……」「決着は、もうついているだろうがな」そう言って、何進は話は終わったとばかりに、腰にぶら下げた二本の刀剣を劉備の座る卓の前に置いた。金属の音が室内に響いて視線を向けた劉備は、その意匠に思い当たると驚くように眼を見開いた。見覚えのある二本の刀剣は、一刀が黄巾の乱から使っていた物だった。もともとは飾りも何も無い、無骨な剣であった二振りの刀は身分を考えて鍛えなおしていたのだ。生まれ変わったただの剣は、まるで一対になった意匠となり代わり、夕日に照らされて陽光を反射していた。「天代……いや、北郷一刀からお前に渡してくれと頼まれたものだ」「一刀様が……」置かれた刀剣に手を伸ばして、劉備は柄を握る。たった一人、罠と知りながらも現れたという一刀が劉備へと託した物。天代が消え、大陸の未来に暗雲が降りたかのように思えた劉備にとってそれは言葉の無い励ましであるように思えた。そうだ。何故一刀は追放されなければならなかったのだろう。追放されてしまったという事実が、自分の思考を停止していた。漢王朝にとって邪魔な人間だったとはとても思えない。「……そっか、間違えていたんだ」「うん?」「何進さん……お話してくれてありがとうございます。 分かっちゃいました」「何がだ」怪訝な顔を向ける何進に―――いや、何進だけではない。 皇甫嵩や朱儁も同じように眉を顰めておもむろに立ち上がる劉備の様子を見つめていた。二振りの刀剣を両の手で掴むと、劉備は何進を真っ直ぐに見つめて口を開く。「一刀様が間違っていないってことが。 それが今、何進さんの話で分かっちゃいました」「桃香様……」「愛紗ちゃん、黙ってて」「し、しかし……」関羽が止めたのは、この宣言は既に洛陽の民を含めた何も知らない者達にはともかく事情を知る者達の前で、朝敵となった一刀のことを認める発言であったからだ。心の中でなら構わないが、この場で言ってしまえば朝廷側である何進や皇甫嵩がどの様な行動にでるのか分からない。だからこそ、関羽は諌めるように声をかけたのだが。「ごめんね。 でも、これは曲げちゃいけないことなんだよ、絶対。 これを認めなくちゃいけないなら、本当に漢王朝はその歴史を閉じることになると思うから」間違っていることを是とする。劉備は、そんなことは認められなかった。だってそうではないか。身内の贔屓目はあるにしても、一刀が腹の内で漢王朝の簒奪を目論んでいたことなんて在りえないと断言できる。「それは、正気で言っているのか、劉備」「はい、盧先生」「そうか……不器用な奴だ……」力強く、盧植の問いに答えた劉備に、薄い笑みを浮かべて彼女はかぶりを振った。学び舎で教わっていた時とまったく変わらない少女は、この状況下にあっても同じであった。もとより腹の内を探るばかりの官僚や宦官達に嫌気をさして、宮中から一度遠ざかっている盧植にとって劉備が選択したものは好ましくもあり、愚かしくもあった。この好ましい不器用さは、きっと死ぬまで治らないだろう。「そう断言したからには、この洛陽には居られんぞ。 なぁ、大将軍殿」「……劉備、貴様は追放だ。 後ろにいる者達も、劉備と同様なら出て行け」「分かりました、出て行きます」この決定に、即答すると劉備は振り返った。自らを主としてくれた関羽が、大事にならなかったことを安堵するかのように大きく息を吐いていた。一刀から託された朱里と雛里は、ここに劉備が来てから変わらない揺れる瞳を向けている。ただ一人、眠たそうにしている張飛の顔を見て、劉備は僅かに笑みを浮かべた。「みんな、行こう」―――・「大将軍。 諸葛亮と鳳統まで放り出すとは」「……言うな。 あの二人は刑罰を受けるべきだろうな。 経緯や事情があったようだが それでも黄巾党に与して、漢王朝に刃向かったのは事実だからな」「それが分かっていて何故です。 彼女達は罪を清算しなければいけないでしょう?」「非難や批判は甘んじて受ける、決定に文句があるのなら正式な書を用意してくれ」「……」盧植が追放した劉備を見送りに行った為に、この部屋には今、皇甫嵩と何進の二人だけだ。諸葛亮と鳳統の二人に関して下した決断に異論があれば、どんなものでも受ける。そう言った何進に対して皇甫嵩は何も言わなかった。3000の兵を率いて洛陽を出立したはずの一刀が、ただの一騎で現れたことを直接その眼で見た何進の内心を、察してしまったからだ。謀略を行った宦官や官僚達に対して利用されたこと、その憤りをぶつけている側面もあるのかもしれない。彼らに迫られたら、知らなかったなどと法螺を吹くのだろうか。皇甫嵩自身、今回の一刀の追放には些か納得がいかないものはある。諸葛亮と鳳統の二人に関しては言うまでも無く黒だが、それ以外は首を傾げてしまうからだ。ただ、皇甫嵩は当事者ではなく第三者に過ぎない。天代が居なくなったことには大きな衝撃を受けたが、しょせんは他人事でもある。故にどちらかを糾弾するのではなく、今後の自分の身の振り方に思考を割くべきだ。どちらにしても、この決定は大将軍にとって難しいものになるのは間違いない。「……つくづく惜しい。 天代は在るべきだったのでしょう」「まったくだ」「大将軍、あなたはこれからどうするのです」「これからか……」それきり黙りこんでしまった何進を、しばしの間見やった皇甫嵩だがもしかしたら、何進自身も分からないのかもしれないと思いつつ、椅子を引いて座り込む。ぼんやりと窓の外を眺める何進の視線を追って、皇甫嵩も首を向けた。遂に夕日も沈もうかという所だ。宮内の建物の影は長く伸びて、夜を告げる蒼黒い天が広がっている。天代が消え、帝の容態は上向かず、上党にある黄巾残党は動きを見せ始めた。これからの漢王朝は、そして自分は一体何処へ向かっていくのか。「……」そんな未来に想いを馳せていた皇甫嵩と、恐らく何進もだろう。二人の沈黙は、けたたましく開かれた扉から現れた朱儁によって終わりを告げる。鼻息荒く飛び込んで来た彼は、相当に頭にきているのだろう。怒気を孕んだ大声をあげて、朱儁は何進を睨んだ。「大将軍、これはどういうことかっ!」「朱儁将軍……」「諸葛亮と鳳統は、置いて行って貰わねば筋が通らない!」誰に聞いたのか、劉備を何進の独断で追放したことを聞いたのだろう。何進自身も認める諸葛亮と鳳統の罪に対して、言及に来た朱儁は明らかな怒りを見せていた。それは彼女達の目が、今、存在しているということが何よりも朱儁を腹立たせた原因だ。正直言えば、朱儁にとって一刀が追放されたことは、最早どうでもよかった。諸葛亮と、鳳統の刑罰が実行されていない。これを知った瞬間から、朱儁にとって一刀に関する諸々の事情は些事と化したのである。なぜならば。「あの夜の事を、私は忘れたことがない! 理由があろうと無かろうと、あの二人が私を―――いや、私の部下を屠ったのだ! それは戦場でも同じこと! 何よりもあの二人は大将軍が独断で処遇を決めることではないでしょう!? ここは都の宮内で、戦場ではないのです!」身を乗り出して目の前にある卓を叩きながら、朱儁は声を荒げた。波才の隣に立つ二人の少女を、あの日から忘れたことなど無いのだ。なるほど、刑罰は実行されたのだろう。しかし、蓋を開けてみればどうだ。少女はまったく、その眼を傷つける事無く日々を過ごしていたのだ。許せるものか、そんなことは許してはならない。少なくとも、あの場で死んでいった者達が余りにも報われないではないか。「私の決定に、納得が行かないか」「当たり前です! 今すぐ諸葛亮と鳳統を捕らえに行くべきだ! それが、正しいことでしょう!?」「朱儁殿、落ち着いてくれ」「これが落ち着けるか! 皇甫嵩殿は黙っててくれないか!」「……朱儁将軍、私は決定を覆すつもりはない」「大将軍、何を言ってるんだ貴方は……」信じられないと言う様子で、朱儁は首を左右に振りながら身を引いた。普通に考えて在りえない答えだ。何をどうすれば、彼女達をただ追放するだけという答えになるのだ。そもそも、本来ならば朝敵として死罪が妥当だ。その死罪を天代が『死よりも辛い生を』という言葉で捻じ曲げて生かしたこと、それに朱儁は胸中のモヤモヤを納得させて頷いた。それを信じたというのに覆され、その上で何も罰を与えないまま追放など在りえない。いや、在ってはならないではないか!朱儁は、その眼に涙を浮かべて何進へと詰め寄った。「ふざけるのは止してくれ! じゃあ俺はあの場で逝った部下達に、どう詫びれば良いんだ! あの戦場で散ってしまった多くの人々に、大将軍はなんて頭を下げるんだ!? 頭がおかしくなってしまったのではないか!?」「ええい、耳元で怒鳴るなっ! それに勘違いするんじゃないぞ。 大将軍である者がおいそれと、兵卒に頭を下げはしないし出来ないのだ。 戦場で逝ってしまった彼らの勇姿や心意気を称えることは良い! しかし、戦場で散って逝った命に自らの想いを抱えこんで、卑屈になってはいかんのだ! 私情を切り離して泰然と構えているのが将軍というものだ、違うか!」「話を交ぜ返すなっ、聞いているのは処遇の件だ!」「先に戦場を持ち上げたのは朱儁殿だろうが。 納得できぬのなら、正式な手続きを踏んでから糾弾しろ! 私が自身の理で決めた物だ。 決定は覆さんぞ」「お前……っ! くっ、皇甫嵩殿! 貴方も何で止めなかったんだっ!」「……どちらの理も判ろう。 しかし、私には分からない。 ただ、諸葛亮と鳳統の処遇はあまりに甘かったのではないかと思うが」「甘い? 甘いだと!? 死罪で妥当な罪なのだぞ……あんたら、狂ってるんじゃないか……」歯を剥いて血管を浮かばせる朱儁は、ともすれば今にも何進へと矛を向けるのではとさえ思われた。皇甫嵩は、その可能性に思い至ると自然、腰にぶらさげた刀剣へ手が向く。険しい顔で見詰め合う二人の均衡を打ち破ったのは、一人の兵であった。「何進大将軍! 大将軍はおられますかっ!」「……」「……」「大将軍! どこに居られますかっ!」「ここだっ! どうした!」朱儁と睨み合うのをやめて、声の方向に首を向けた何進が怒鳴るように尋ねると兵は慌てた様子で室内に入って礼を取る。そして、声を荒げた。「じょ、上党に動きがありました! 黄巾の残党が、黄河を一斉に渡河しているようです―――っ!」「何だと!?」「黄巾党が? 何処へ向かっている」「それが、その場で留まる者や下流に向かう者など、何処へ向かっているのかさっぱりで…… この件で、すぐに来るようにと張譲様から―――」「分かった、すぐに向かう!」慌てた様子で部屋を飛び出した何進と、皇甫嵩。遠ざかる慌しい足音に耳朶を響かせ、一人室内に残った朱儁は手近にある椅子へと力抜けたように座り込むと、顔を歪ませて卓へ手を重ねる。「……ぐっ……ううぅ、うおおぉぉおぉおおっ!」朱儁の唸るような泣き声だけが、部屋に響いた。―――・幽州から都へ、足を向けたのがもう随分昔のことのようだ。自らの志と共感し、義姉妹を誓い合った妹と共に目指した人に出会えて。その出会えた人は、自分よりも確かに先を見据えて笑っていた。そんな彼女は、ここへと歩いてくる最中に何度立ち止まりそうになったか。その足を東へ向けて進める劉備を視界に映しながら後に続く。言葉は無い。ただ、天代から託されたという雌雄一対の二本の刀剣をぶら下げて、歩いている。もともと持っていた靖王伝家は、洛陽に残したままだ。関羽が振り返れば、見えるのは小さくなりつつある洛陽の街。曹操と孫堅の会話から、自らの道と天代の道が重なった。決意を聞いたあの時の劉備の顔は、関羽の感情を奮わせるに十分だった。だというのに、支える暇もなく洛陽から一人去った天代に、どうしてこうなったのかを問いたい感情が膨れる。勝手な言い分かもしれないが、対処のしようがあったのではないかと。劉協や陳宮からも捨てられるようにして放り出されたのだ。彼女達は、天代も同じように切り捨てた。其処に、今も漢王朝の存続という志を掲げているのだろうか。怪しいものだ。少なくとも、関羽にとってはそう思うに足りる掌の返しようであった。洛陽の都から視線を僅かに外した先に、張飛と歩調を合わせて歩く二人の少女に向ける。天代が追い詰められた物の一つに、二人の刑罰が虚偽であったことが挙げられていた。何故、彼女達は生かされているのだろう。天代にとって、彼女達の生は必要だったのだろうか。殺せ、という訳ではない。性根が好ましいことは、付き合いから分かっているし事情も聞いた。しかし、罪を誤魔化していたのは、やはり良くないことではないのかとも感じていたのだ。「……あのさ」背を向けて立ち止まっていた関羽に、劉備の声がかかる。いや、それは彼女だけにかけられたのでは無いだろう。振り返った関羽の視界に、一人ひとりを確認するように眺める劉備が、はるか先に見える邑のようなものを指差した。今日の宿、ということだろうか。「とりあえず、あそこに行こう」「……はい」「お腹すいたのだー」「うん、食事もなんとかしないとね。 それで……そしたら、話があるんだ」「……桃香様」「ちゃんと、話さないと……その、これからの事とか」そう言ったきり、踵を返して再び歩みを進める劉備に、関羽を含めた少女達は顔を見合わせた。そして、誰もが『これから』に想いを馳せて。結局、劉備が指し示した場所に辿りつくまで地を踏みしめる音だけが彼女達の間に流れていた。すっかり陽が落ちて、夜風が出てきた頃。しっかりと目視できる場所に来て、ようやく目指していた場所が邑ではなく屋敷であることに気付く。いくつかの建物が並び、立派な石で出来た門と壁がそそり立ち、僅かに覗かせる木々が風に吹かれて揺れていた。わざわざ洛陽を一望にできる、見下ろせるような場所に屋敷を立てているのだ。官僚や宦官、或いは豪商などが用いている屋敷の可能性は高い。声をかければ屋敷の中で働いている使用人だろうか。妙齢の女性が一人現れて、劉備たちを見て首を傾げた。「すみません、一夜で良いので宿を貸してもらえないでしょうか」この要求に、女性は戸惑うように顔を顰めた。暫く待ってもらうように言い渡されると、戸を閉めて誰かを呼びながら奥へと消えていく。「……突然だし、だめかな?」「食べられるなら何でもいいのだ……」「飢えてるな」「ほとんど何も食べてないんだもん、仕方ないよ……私も、実はちょっとね」「白状すると……その、私もです」「愛紗は良い格好しいなのだ」「……鈴々」お互いに空腹を暴露して苦笑ひとつ。丁度、話が切れたところで先ほどの女性が、青年を伴って現れた。「えーっと、劉備さんでしたか。 今日戻られるとの話だったのですが、まだお館様が戻っていないんですよ。 お優しい方なので、一夜くらいなら何とかなると思いますが」「勝手に入れちゃったら、まずいですよね?」「う、うーん」腕を組んで首を捻り始めた時だった。唸るような音が響いて、その場に静寂が訪れた。「……」「……」全員が顔を見合わせる。「誰?」「私ではありません」「鈴々でもないよ?」「はわ、違いますよ……」「あ、わ、私も違います……」誰かの音が鳴ったのは間違いないが、誰も認めなかった。それら一連の流れを見守っていた青年と女性は顔を見合わせてから、申し出た。ちょっと言いづらそうに。「あー……その、中に入れるのは難しいですが、俺達の賄いで良ければ差し上げますよ」好意に甘えることになった劉備たちは、戻られるかも知れないという『お館様』を待つかこのまま野宿する場所を探すかで迷ったが、どっちにしろ駄目なら野宿になるということで屋敷の主を、食事を取りながら待つことにした。5人、輪になって豪勢とは間違っても言えない食事を囲む。ちょっとした会話はあるものの、終始空気は重かった。やがて、食べ終わろうかという時になって、洛陽方面から御者を乗せた馬車が姿を見せる。「あ、あれかな?」「おそらく」鶏の肉が僅かに入った受け皿をちゃっかりと手に持って立ち上がった劉備と関羽。その二人の視線と、御者に何事かを話されて馬車の中からひょっこりと顔を出す『お館様』関羽はともかく、劉備にはその顔に見覚えがあった。「そ、曹騰様?」「あぁ? 人の屋敷の前で何やってんだお前?」―――・この屋敷は曹騰が個人的に所有しているものだったらしい。洛陽を一望できるこの場所に、館を立てたのは随分と前。別邸として利用していたようで、基本的に宦官として勤めていた為に利用する事は少なかったが余生を過ごすのに、丁度良いと思っていたそうだ。劉備が案内に従って部屋へ入ると、彼女の目に何本もの桃の木が飛び込んでくる。昼間に見れば、きっと壮観な景色なのだろう。そんな風情ある庭が見える室内に通された劉備たちが事情を説明すると、一夜くらいなら構わないと快諾してくれた。「一宿一飯の恩、絶対に忘れません! ありがとうございます、曹騰様……本当に助かりました」「あぁ、別に何日居ようとかまやしねぇさ。 金には困ってねぇから」「感謝します」「お爺ちゃんありがとなのだ」「「あ、ありがとうございます……」」「っ……わぁーったから、鸚鵡みたいに繰り返すんじゃねぇよ」「あー、照れてるのだ!」「馬鹿野朗、照れてねぇよ、呆れてんだ」「鈴々は野朗じゃないのだ」「あー、そりゃ悪かったなお嬢様」ぶすっと引きつった顔で―――実際、半身引いていた―――手を振りながら、曹騰は言い放つと立ち上がり床を用意する間、この部屋を自由に使って良い旨を残して中座した。劉備は、戸を閉めて見えなくなった曹騰にもう一度頭を下げてから全員が見渡せるような場所まで、座ったまま移動した。「みんなに、話があるの」そうして上げた劉備の顔は、陰りの無い精悍なものだった。怪訝な顔を向ける関羽と鈴々。対照的に、諸葛亮と鳳統はその劉備の顔を見てお互いに視線を合わせる。恐らく、何がしかの予想がついているのだろうか。自分の勉強を見守ってくれた二人の聡明な少女には、自分が何を考えているのか分かっているのかもしれない。劉備はしばしの間を置いてから切り出した。「私、一刀様を取り返したい」「本気で、言ってるんですか桃香様」「うん、本気だよ。 洛陽に戻って、一刀様を捨てた人たちを追い出して、漢王朝を守りたい」「桃香様……その、それは……」彼女の意思に、返したのは朱里であった。彼女の宣言は実に至難だ。まず、劉備の今の立場は天代の部下であったと、何進に問い詰められた場でそれを認めた。それも、強要されてなどではなく、自ら言葉にしてしまったことだ。朱里と雛里は、張譲たちが貶めた一刀をあの場で殺さなかったのは、風評であることを知っていた。人知れずに排除し、後に在ること無いことを並べ立てて天代の風評を地に落とすことは眼に見えている。その時に、一刀側に付いて洛陽を飛び出した劉備のことも触れられるだろう。そもそも、一刀を支えるように宮内のあちらこちらに顔を見せた劉備では、証言できる人間が多すぎて仕立てられるだろう悪意を覆すことは出来ない。ついでに言えば、劉備の傍には賊将とされている諸葛亮と鳳統も、今は居る。決して不可能とは言わないが、可能と言うには妄言に等しかった。何よりも、劉備が言ったことは一刀が生きていることが前提である。「桃香様、お考え直しをして下さい。 もはや天代を支えることは無意味です」「愛紗ちゃん、無意味じゃないよ……今の漢王朝が在るのは一刀様が居たから。 追い出されちゃったこれからは、少し乱れるかもしれない。 このまま一刀様が亡くなったら、音々音ちゃんや朱里ちゃん達が言ってたように乱世を迎えるのかも知れない。 でも、まだ時間はあるでしょ? 漢王朝が亡くなるその時が来るまで、私は諦めたくない」「あ、あのっ!」言葉尻を捕らえて、声をあげたのは雛里だった。「し、失礼を承知で申し上げます……桃香様は、一刀様が……その、一刀様に、恋心を抱いていたはずです。 そ、それで視界が曇っていると思います……余りに、現実を見て、いま……せん」「……はわわ……雛里ちゃん、あ」途中、言葉を切れさせながらも突き放すように言い切った鳳統は、帽子を目深に被りなおして俯いた。そんな鳳統の心理を、諸葛亮は察してしまう。今言ったことは劉備に至難であることを、釘を刺すように言うと共に付いていけないと考えを述べることで、『劉備』の下から去る土壌を築いた。劉備が諦めないと断じたことで、負い目や急所になる『賊将』となった自分を遠ざける為のもっともな理由を作り出したのである。「……と、桃香様。 私も雛里ちゃんの言うことが正しいと思います……」「うん……そうだね」察した故に追随した諸葛亮だが、劉備は反論することなく認めて頷いた。それは、意外なことであった。無理だから現実を見ろ、などと人に言われれば、反論をしたくなるのが人間というものだ。少しでも負けん気の強い人ならば、間髪要れずに怒ってもおかしくない。それが、目下の人間となれば尚更だ。だというのに、劉備は自らが現実を見ていないことを認めた。「だから、これは私の決意だよ。 誰にも強要なんてしない。 今、自分の立場が何処に在るのかってことは、ちゃんと分かってる。 よく、見失っちゃうけど……」言いながら、劉備は自らの腰にぶら下げた雌雄一対の二振りの剣に手を当てた。「今の私が何をできるのか、洛陽から歩いてここに来るまでずっと考えていたの。 一刀様のことを認めて追放された私。 本当は違うのに、朱里ちゃんと雛里ちゃんは罪人のまま。 何が、できるかな?」「……そ、それは」「うん、分からないよね。 私も色んなこと頭に浮かんできたけど、全部無理だと思ったの。 こんな考え方じゃ駄目だって。 せっかく託してくれた一刀様の想いが果たせなくなるって。 それでね、難しいの考えるのはやめて、もっと簡単に考えようって」劉備のあまりに繋がらない言葉に、関羽達は顔を見合わせて困惑していた。もともと興味なさそうにしていた張飛も、雰囲気に合わせているのか全員の顔を見回している。「ここで曹騰様に会えたのは、私にとっての天運かも知れない」「桃香様、その、仰ることがよく……」「あ、ごめんね、順序だてて説明するよ」つまり、桃香の考えはこうであった。一刀が生きていることは、前提である。その一刀が洛陽に戻るにはどうすればいいのかを、まず考えたのだ。それはすぐに答えが出た、追い出した者達よりも権力のある者に戻ることを認めてもらえば良い。認めてもらうにはどうすればいいのか。「さっきね、一刀様が居なくなったら乱が起きるかもしれないって言ったけど…… あのまま居ても結局起きるかもしれないんだよね?」尋ねられた関羽は曖昧に頷いた。同じように、雛里も同意の意を返す。大陸の情勢を一刀や目の前の劉備から小耳に挟んでいるので、この劉備の予測は余り間違っていないと言えた。先に在った洛陽の戦は、主に農民達の鬱憤が爆発した形となって乱に至った。それに呼応するように蜂起した黄巾党は、今でこそ鳴りを潜めているものの、何時、また爆発するのか分かったものではない。完全蜂起に至らない理由は、一刀の功績からだ。とはいえ、それが何時まで抑止力として働くかは分からない。激烈な志に動かされれば、抑止力にもならない可能性すらあるのだ。「だから……本当は、絶対駄目なんだけど……けど、漢王朝を本当に立て直す為なら」そして、劉備は言った。「この乱が、漢王朝を存続させる為に必要だと割り切る」「―――なっ!」「桃香おねえちゃん!?」「そんな、桃香様! 何を言ってるんです!」「だって! 私達が手っ取り早く成り上がるにはこれしかないものっ!」思わず立ち上がって声を荒げた関羽に負けないくらいに大声をあげて、劉備は静かに立った。「桃香様! 嘘だと言って下さい! 乱を歓迎するなんて、貴女を見誤っただなんて、私は思いたくない!」「愛紗ちゃん、私は大真面目だよ。 私や朱里ちゃん、雛里ちゃん……罪人になってる私達が漢王朝に戻る方法は、現状に於いて武功をあげること。 それ以外では不可能だと思うの」「それは、桃香様や朱里達の事情です! 民を巻き込んで良い道理がありません!」「じゃあ愛紗ちゃんは、結局起きてしまうかも知れない戦乱を見ているだけで我慢できる!?」「っ、そ、それは……」それは出来るはずもない。まさに、乱れる大陸に否を掲げて郷里を飛び出してきたのだ。関羽にとって、劉備が起こりうるかも知れない戦乱を受け入れたことも劉備が戦を利用して立ちあがると決意したのを非ずと断じ、苦しむことになるだろう民達を見ているだけなのも嫌だった。個人の武だけでは、どうにもならないと嘆いて劉備に縋ったのは自分だ。「愛紗ちゃん、私って出来の悪い生徒だったんだ……」「……っ」「だから、これくらいしか思いつかなかったの」「あ、あの……」「なに? 朱里ちゃん」「あの、桃香様は成り上がると仰いましたが……」「うん……今の私は成りあがる為の武器がないよね……」そう、劉備が持つのは今この場に居る全員。それが彼女の全てだ。しかも、関羽や鳳統には愛想を尽かされている節さえ見える。いや……愛想を尽かされているというよりも、酷い戸惑いの中に感情を揺さぶられているのだろう。洛陽を出てすぐに東を向いて歩き出した劉備と同じように。「だからね、曹騰さんに会えたのは天運かもって思ったの」この屋敷の規模から見ても、宦官である曹騰はかなりのお金持ちであることが分かる。彼は曹操の祖父だというから、孫堅との会話で判断する限り、これから漢王朝を切り捨てて立ち上がるだろう曹操の支援をすることになるのだろう。漢王朝存続を掲げる劉備が、曹騰に直接頼ることは出来ない。こうして自分達を暖かく受け入れてくれた曹騰に、妙な疑いやシコリを残す訳にはいかないからだ。しかし、宦官である曹騰ともなれば、豪商の一人や二人に知り合いは居るはずである。「と、桃香様の考えが読めました……義勇兵ですね」「うん、雛里ちゃんさすがだね。 簡単に読まれちゃった」「いえ……でも、なるほど……」豪商に自分達を買ってもらい、糧食と武器、そして兵を揃えてもらうのだ。この義勇兵で持って、戦乱の中に飛び込むと劉備は言っている。もちろん、朝廷側に属してである。武功というのは、眼に見える分だけ上げてしまえば誤魔化しが効かない。勿論、横取りされることも考えられるが官軍の中には信頼できそうな将に何人か心当たりが在る。目覚しい戦功をあげれば、罪を覆して返り咲く可能性は、ある。「……それに、起きてしまう乱ならば、見ているだけなんて私も嫌。 苦しむ人が居るのに、手を差し伸べられないなんて悔しすぎるもん。 それがね、私が乱を受け入れる理由だよ、愛紗ちゃん」「乱が……乱が起きなければどうするのです」「それは、うーん……どうしよっか?」「……っ、考えていませんでしたか」「うん……その時は困っちゃうね……どうやって洛陽に罪を清算して戻ればいいのか、分からないの」皮肉な話だと、関羽は歯噛みした。最も乱を嫌う劉備や自分が、その乱を利用しなければ清廉であることを証明できないとは。胸中に、悔しさと情けなさが渦巻いて関羽は震えた。その震えて、握り締められた関羽の手に劉備の手が重なった。「愛紗ちゃん。 それに、みんなも……私が目指す道は、今話したものが全部。 たとえ一刀様が死んじゃったとしても、次に繋がる道……そう思うから。 でも、だからこそ、この道は剣山の上を綱渡りするように厳しくて、一度進んだら引き返せない道だと思う。 最初に言った様にみんなに強要なんてしないし、出来ないよ」「桃香様……」「愛紗ちゃんも鈴々ちゃんも……もちろん朱里ちゃんも雛里ちゃんもね。 もし、私に付いていけないなら、それはそれで良い。 曹操様や、孫堅様なら、みんなの武才や知略に惹かれて受け入れて貰えると思う。 肩身は、狭いかもしれないけど……でも、そうなったら私も手伝うし応援する。 だから、明日……」言って、劉備は歩いて戸を開いた。そこには、来たばかりに感じ入った桃の木が林立している。その中でも一番大きな桃の木を指差して、劉備は全員をぐるり見回してから口を開いた。「明日までに、自分の道に答えを出して。 私に付いてきてくれるなら……明日の夕方までに、あの桃の木の下へ」「……」「……」「私の話は……それだけ」沈黙が降りた室内、話を閉めるように言って劉備はその場に座り込んだ。そんな劉備にしばし視線を向けた関羽は、逸らすように首を振ると部屋の隅へと移動した。その関羽の後をついていくのは張飛だ。自分の道を選んで欲しい。劉備に問われた全員が、床の準備が終わって曹騰に案内されるまで。無言の時を過ごすことになった。―――・雲の隙間から顔を出して、地に葉の影を形作る。すっかりと実をつけた桃の香りが漂う林木の中、劉備は木漏れ日に身を預けて立っていた。地に刺さる、雌雄一対の剣を眺めて。夜が明けても眠れなかった劉備は、朝からこの場所に居る。全員の前で指し示した、いっとう大きな桃の木の下に。一刀が生きているかどうかさえも分からない。劉協や音々音が、自分達のことを完全に見捨てていないとも限らない。曹騰が協力してくれるのも、果たしてどうだろうか。昨日は関羽の荒げる声に負けないようにと、些か熱が篭って話してしまったのも認めている。改めて考えてみれば、深く思い起こさなくても、前提からして劉備の言うことは希望的観測の方が多い。地に足をつけていなければ、理想は語れない。それを聞いたのは一刀からだったか、それとも諸侯の方だったか。教鞭に立つ一刀達と諸侯の間で響いたその言葉は、誰の者であったか分からないが劉備の心に大きく衝撃を与えたものであった。現状を見つめ、なおかつ劉備の理想を目指す道を昨日は関羽達の前で感情交えて曝け出した。不安だ。ともすれば、その不安に押しつぶされそうなくらい怖い。誰もが勝手にしろと、劉備を放り出しておかしくない道だ。「……」目の前に刺さる、一刀から託されたという剣を見る。一刀は何を想って劉備へとこれを託したのだろうか。劉備の勝手な想像かもしれないし、全然違うことなのかもしれない。しかし、自分が自棄にならずにもう一度立ち上がれた切っ掛けになったこの剣には一刀の想いが詰まっていると勝手に解釈した。そう。自らが倒れた時には、劉備に後事を託すと。一刀が目指していた道を隣で一緒に見つめてきた。いつも彼は、自分が理想に向かって出来ることを一つ、一つ積み重ねていたように思える。きっと簡単に見える一つの積み重ねに、多くの苦労を背負って。例え、一刀が倒れても、志を積み重ね続けられる自分がいる。そう思うのは、自惚れかも知れないし一刀が聞けば笑われてしまうかも知れないが……ろくに眠らずに、今まで何度となく思考の渦に捉えられては沈み込み、立ち上がりを繰り返していた劉備はいつしか木漏れ日の中で、膝を抱え込んだままうたた寝を始めた。徐々に傾きを変える陽に差され。踏みしめた落葉の音に起こされたのは、浅き夢を見ている時であった。こちらへ向かう地を蹴る音に、ハッと首を挙げると視界には、手を背で組んで歩く曹騰の姿が映る。「おう、桃の木の下で昼寝とはまぁ、優雅じゃねぇか」「曹騰……さん……」「わしの顔を見てがっかりするない、傷つくわ」「あ、いえっ……その、すみません」「はっはっは、冗談だ。 飯も食わずに居るからな、様子を見に来たのよ」言われて、劉備は自身の空腹に思いだして、自然と手が腹に向かう。朝も昼も抜いてこの場に居たのだ。言われると急に、食事を取りたくなってしまった。「ほれ、飯よ」「あ」後ろで手を組んでいたのではなく、盆に載せられた食事を運んできてくれていたのだろう。劉備の前にしゃがみ込んで、煮込み料理のようなものが入った器を差し出され手で受け取る。同時に、盆に載せられた酒瓶を曹騰は手に取って持ち上げた。「こいつはわしのだ」「……ありがとうございます」「まぁ、もう無いんだがな」「へ?」劉備の膝元に置かれた盆へと、酒瓶をコトリと音を立てて置いて曹騰は立ち上がった。「ま、頑張れ。 夜になったら戻って来いよ」「あ、はい……あのっ!」背を向けて歩き出した曹騰を呼び止めて、劉備は立ち上がった。彼はただの散歩だったのだろうか。ついでに劉備の食事のことを思い出して、わざわざ届けに来たのだろうか。そうとは思えなかった。「あの、昨日の夜の話、聞いてましたか?」「あぁ? なんの話だ?」「それは……私とか、愛紗ちゃんのこととか……」「さぁてな、それより早く食わんと冷めるぞ」言って踵を返すと、桃の木につけた実りを眺めながらゆっくりと遠ざかる。自らの手に乗った食事を見つめ、しばしの間を置いてから盆に載せられた食器を手に取り食べ始めた。暖かく、塩の入ったスープが口の中に広がって染み入る。季節は夏だが、不思議とこの温かみは嫌ではなかった。思っていたよりも、肉体は正直なのだろう。ほとんど時間を要さずに平らげると、曹騰の置いていった酒瓶が目に入る。「喉渇いちゃった……本当にもう無いのかな」手に取って、蓋を開けるとやはり飲み干してしまった後のようで酒瓶を逆さにして振っても、一滴すら地に落ちずに劉備は肩を落とした。飲み水も一緒に用意して欲しかったな、と勝手な事を思いながら盆に戻そうと伸ばした手に酒瓶から飛び出す白い物を見つけて、きょとんとする。一体何が入っているのか。白い物を掴んで引き出すと、そこには曹騰の字であろう。綺麗に整った文体に顔に似合わぬ美しい文字が躍り、誰かへ宛てた手紙のような物は、劉備を紹介するものであった。奇しくも、宛てた人物の居場所は劉備の故郷でもある幽州。最初の一歩は、郷里から始まることになりそうである。「……っ」理解に至ると同時に曹騰が去っていった方角へと慌てて首を向ける。何時の間にか、桃を眺めていら曹騰の姿は消えていた。昨日のことを、彼は聞いていた……いや、聞こえていたのだろう。そういえば、途中から大声で関羽と話していた気がする。「あ、ありがとうございます……っ」きっといつか、この恩を返しに来る。そう胸中で礼を言いながら、誰も居ない場所へと劉備は頭を下げ続けた。細く細く伸びた木の陰が、やがて黒い染みとなって広がり、ついにその姿を溶け込ませる。林立する桃の木の中、劉備は天を仰いで空を見上げていた。すっかりと沈んだ陽を見つめ、見上げた空には星が彩りを加え天を賑わしている。「陽、暮れちゃったな……」考えられたことだ。誰が好んで、至難の道に入ることを是としようか。少なくとも、曹騰から次に繋がる道を用意されたのだ。泣き言は言えない。地に足をつけて考えて、導き出した道に劉備だけしかできると思えなかった。その事実だけを認めなくてはならない。そう、だからこそ、尋常ならざる事を成そうとしている自分が落ち込んでなどいられないのだ。もはや、地を見て俯いている暇など無いのだから。雌雄一対の剣を引き抜いて、鞘へと収めて腰にぶらさげると曹騰の持ってきてくれたお盆を持って、劉備は今日一日、軒先を貸してくれた桃の木の下に礼を一つ。意趣返しに、酒瓶の中には感謝を込めた紙片を入れておいた。今日の夜、気がつくかどうかは分からないが、いつかはきっと気付いて驚くことだろう。ああ。気合を入れねば。母に渡された、靖王伝家も洛陽に預けっぱなしなのだから。「負けるなっ! 劉玄徳っ!」自らを叱咤するように踵を返して歩き始める。そうして、庭の桃園を抜けた彼女はしかし。すぐにその歩みを止めることになった。桃園から屋敷へと戻る道に、4人の少女が一列に並び、両の手を合わせて劉備へと礼を取っていたからだ。「え……」「桃香様、この場に遅れたことを代表して詫びさせてもらいます」「な、なんで……」「鈴々は、難しいことはよく分からないけど、付いて行くことは決めてたのだ」「で、でも…」「一刀様に示された道、それと重なる道に至った桃香様を私は支えたいです」「朱里ちゃん……」「きっと、死んでなんかいません……桃香様と一緒に……一刀様を、取り戻したい、です……」「うん……うんっ!」一人ひとり、自らの声を挙げて、劉備へと意志を伝えていく。「桃香様、私は貴女を支えたい。 一刀様が居なくなったことを受けて誰を放り出すでもなく 誰に言われるでもなく、現状を見据えて立ち上がった桃香様の志に、我が全てを賭けたいと思います」「いいの……? 愛紗ちゃん」「はい、桃香様の立ち上げる義勇軍ではなく諸侯の下に付いても、民を守れることはきっと変わりません。 しかし、私は桃香様も朱里も雛里も、守ってあげたい。 そう思ってしまったのです……桃香様」「う、うん……」「天代が描いた天に重なる貴女の見る天を、私にも見せてください」関羽からのこの言葉を受けて、劉備はついにその顔を歪めて天を仰いだ。自分一人でも一刀の志を受け継いで見せる、そう気を入れたばかりにいっそう堪えてしまった。視界に映る星のきらめきは、先ほどと違ってぼやけているのにやたらと明るい。「我が名は関雲長! 真名は愛紗。 桃香様、お受け取り下さい」「鈴々は鈴々なのだ!」「我が名は諸葛亮。 真名は朱里。 桃香様、よろしくお願いします」「我が名は鳳統です。 真名は雛里です。 受け取ってください」「……我が名は劉備……劉、玄徳ですっ。 真名は桃香……お願い、みんなの、みんなの力を貸してくださいっ!」「「「「はっ!」」」」改めて交換した真名を預けあったその夜。たった五人だけでの勇躍を望む宴が桃園で開かれた。劉備、関羽、張飛の三人は、この時に義姉妹の誓いを交わしたと言われている。そして、翌日。出立する劉備を見送った曹騰は、劉備を見てこう残していた。「意気は天に昇る勢いで、その相貌は精悍。 ただ居るだけで胸の高鳴りを感じたのは曹操以来である」 と。 ■ 西へ小高い山岳を抜けた先には、草木が目立つようになり、さらに進めば木々が視界を覆う森の中へと変わっていく。実に二日もの間、一刀はひたすらに西へと進路を取っていた。こうして足を止めずに金獅と共に走り続けるのも、全ては背後から迫る蹇碩からの追っ手が故だった。もちろん、途中で隙を見ては休憩を入れているが、長くても2時間は越えていないだろう。こうして、草原から森に地形が変わっていったのは幸いだ。開けた場所では、休憩を取るにしても隠れるに不便であった。「黄河が近いな」『水ももう無い』(そうだね……川沿いの方が良いかも)『ああ』食事も洛陽を出た時に持ってきた乾燥食が僅かにあるだけだった。休息もそうだが、エネルギーの補給も考えなければならない。その点でも、森に入れたの嬉しい一刀である。本体の知識だけではどうにもらないが、サバイバルに関して“南の”の知識は豊富であった。もともと、南蛮に落とされた彼は自給自足しなければ生きていける環境に無かった。森は、生きるに足る多くの恵みが在るとは彼の言葉だ。本体の身体を“肉の”が動かし水の音を頼りに金獅を走らせる。腹部に大きな裂傷がある為、“肉の”以外ではまともに身体を動かせられなかったせいだ。彼の意識が落ちている間は、全員が交代で痛みに耐えている。森が連なって、ついに山林へと姿を変えた時だった。周囲を警戒するように、しかしスピードを緩める事無く木々を避けながら傾斜を上りきったところで馬上が揺れる。突然の変化に、一刀は驚きながらも手綱を引っ張るが、その手応えの無さに異変を感じ取った。絞り、足を止めようとするもそのまま転がるように荒い息を吐いて金獅が倒れこむ。『ああっ』『金獅っ』中空に放り出された“肉の”は、器用に姿勢を整えると、木々の一本を掴んで勢いを殺して着地した。すぐさま倒れこんだまま荒い息を吐き出す金獅を覗き込む。「どう?」『心肺か?』『違う、口唇の粘膜が渇いてる。 脱水症状だ』『この暑さだ。 俺達だって意識はともかく、身体は疲労している』(どっちにしろ金獅をこのままになんてしておけない。 水を持ってこよう)『竹があれば、水筒になるから』『後、日陰に連れて行かないと。 馬も人間も、対処は変わらないそうだし』『なるほど』「わかった」一刀は金獅を抱え上げて、雷か何かで打たれたのだろうか。大きな倒木を見つけると、その陰に金獅を横たわらせる。二度、三度、その顔を撫でて立ち上がり、水を得る為の水筒を作るために竹を探し始めた。途中、“肉の”の意識が何度か落ちて、強制的に休憩を数回取るはめになったがほどなく竹は手に入った。後は、水を汲むだけであったのだが。『日照り続きのせいか、雨水がないな』『黄河から手に入れるしか……』『降りるしかないか』そう、降りるしかないのだが、丁度この山からも山水が川へと流れているのか黄河の水を汲むには崖のような場所を降りていかなくてはならなかった。これが、もう少し下流であれば生身で降りれたかもしれないが、周囲を見渡しても足場になりそうな所がちらほらと散見できるくらいで、とても人の足では降りれそうにない。都合よく獣道があるわけでもなく、一刀は周囲をぐるりと見回した。使えそうな物は、木々の上から垂れ下がるツルくらいだった。『強度は足りるよね』『うん、細すぎなければ大丈夫』折れた“†十二刃音鳴・改†”を腰から引き抜いて、一刀は刀身の柄でツルを鋸の要領で切り始める。ちなみに、この刀身の柄に空いた穴は布で塞いでいる。馬にのって走ると、ぴーひゃららと情けない音を奏でて追っ手に存在を知らせてしまっていたからだ。正直、捨ててしまおうかとも思ったのだが、今や持っている武器と呼べそうな物はこれだけである。こうして役に立ったことを考えれば、捨てずに正解だったのだろう。長く切り取ったツルを結び合わせ、しっかりと腰に巻きつけて見える木々の中でも胴回りが一番太い樹木に固定すると一刀は崖から飛び出して、時に切り立った壁面を蹴り、20メートルはあろうかという谷を降った。慣れない動作だからか、一度手を滑らせて、背中を打ってしまったが痛みは特にない。用意した竹の水筒5本、全てに水を満たすと、“肉の”を休ませて交代した。「う……っ」『これで水の確保はでき―――』『おい、どうした』『“白の”』入れ替わった“白の”は、一つ呻くと一刀の身体がぐらりと揺れて勢いあまり、川の中へ身を投げ出しそうになる。丸みを帯びた川石に手をついて、ダイブするのは防げたが、声をかけられた“白の”から返答は無い。そのかわりに、腹部からの傷が開いたか赤い斑点を描き出していた。身体の方にも随分、ガタが来ている。“肉の”が普通に動いてるせいで、気付くのが遅れたのもあるがそろそろ本格的な睡眠や食事を取らないと、動けなくなるかもしれなかった。ただ、不安ではある。ここしばらくは官軍に気付かれてはいないものの、一刀の方から姿を確認する場面が何度かあった。『気付かれないかな』『……2時間くらいなら、多分』(官軍を見ていない時間がそのくらいだから、2時間なら大丈夫かな)『金獅が動けるようにならないと、どっちにしろ無理だしね……』「とりあえず、戻って寝ようか」『……っ、さ、賛成だ』戻ってきた“白の”声に全員が頷いて、金獅の下にまで戻ると顎を持ち上げさせて無理やり水分を取らせる。更に、自らの口に水を含み、霧状に吐き出すように吹き付けて馬体を冷やした。軽度の脱水症状なら、これで暫し安静にしていれば復活するはずだ。どちらにしろ、金獅が走れなければ一刀も蹇碩が出しただろう追っ手を撒けない。追っ手が負けなければ、人が居る邑に入ることも出来ない。金獅の症状が軽いことを願うしかない。一刀自身も、作った水筒の中身を一本丸々飲み干すと、金獅の腹を枕にして身体を休めた。考えることは山ほどあるが、自然に思考は白くなってほどなく睡眠に至った。そしてそれは、限界を迎えつつある身体の悲鳴ゆえか。他の原因か、分からないが一刀全員の意識を落とすことになった。―――・一匹の猫が、森の中から顔を出した。金獅に身を預けて眠る一刀をしばらく刺すように見て、観察を済ませると“意識”が落ちているのを確認したのか、地に赤い色を滲ませ、一定の呼吸を刻む一刀の目の前へと向かって歩く。どういうことか。その姿は次第に一匹の猫から、一刀へ近づくに連れて人の形りを為していく。目の前に立つ頃には、完全に人の姿を取り戻していた。木漏れ日の中で生える明るいベージュの髪は短く切り揃えられ、額には赤く何かの印紋が刻まれていた。夏であるというのに黒白の外套を身に纏い、見える肌は手だけという格好であった。吹いても居ないのに風は靡き、“彼”の足元に旋風を形成している。その男の表情は険しく、その背から立ち上る鬼気には殺意が激しく渦巻いていた。「北郷一刀……」一つ呟くと、拳を開き、握る。その両の手から、大気を震わせて骨の音が鳴り響いた。彼の名は左慈。数多の外史を渡り歩いて来た彼は、基点となって無限に広がりを見せた一刀に尋常ならざる怨恨を抱いていた。ある時、彼は北郷一刀を外史から抹消することに成功した。ある時、彼は北郷一刀を前に、苦渋を味わうことになった。そして今、目の前に外史を無限に広げた憎き男が、無防備とも言える状態でその身を晒している。「……この外史でなければ、その首を刈り取ってやったものを……」「居たぞ!」「こっちだ!」「……」馬に跨って左慈の立つ前に居る一刀へ声をあげたのは、蹇碩の追っ手である官軍であった。慌しく馬蹄の音を響かせて、一直線にこちらへ向かってくる。やがて、眼を覚まさぬ一刀と、呆然と立ち尽くしているように見える左慈の前で下馬すると彼らは声をあげた。「貴様は何者だ。 そいつから離れろ」「一緒に殺されたくなかったら、三歩下がるんだ」「……干吉め、使えん」忠告が聞こえているのか、聞こえていないのか。無視して一つ呟くと、左慈は官軍の兵に向き直った。兵達は顔を見合わせて左慈を何度か見返すと、おもむろに左慈が上へ挙げた手に視線を向ける。次の瞬間には、彼らの頬の当たりから上が中空へ浮かび、視線だけが左慈の手の高度に追いついた。「……」「……」ドサリ、と無言で二人の兵の身体は倒れこみ、やや遅れて鼻から上だけになった二つの顔が地に落ちて転げた。「目的を成せねば、この俺が縊り殺してやる」肩越しに振り向いて、左慈は意識の無いだろう一刀に告げると地に唾を吐きかけて踵を返した。近づいた時と同様に、一刀から離れるごとにその身を猫の姿へと変えていく。左慈が森の中から消えると時を同じくして、官軍の兵と馬はまるで最初から居なかったかのようにその姿を消失させて、一刀と金獅の呼吸だけがこの場を奏でる音となった。一刀に放たれた追っ手は、これを最後に潰えることになる。北郷一刀を追うことに躍起になっていた蹇碩は、呂布に討たれてその命を落としたという。その翌日、黄巾党が上党から動きを見せて、何進が呼ばれると時を同じくして中国後漢、第12代皇帝 劉宏が崩御した。この帝の崩御は、瞬く間に大陸全土へと知られることになり直後、韓遂と辺章を中心にした漢王朝への反乱が、涼州で立ち上がる。これに呼応するように、黄河から渡河をし始めて激しい動きを見せていた黄巾残党が一気に蜂起を重ねて洛陽ではなく陳留へとその兵馬を向かわせて殺到した。大陸に、再び動乱の時が訪れようとしていた。 ■ 外史終了……左慈が森を出てすぐに、一匹のしなやかな肢体を持つ黒い猫が彼の隣へと、木から滑り落ちた。白と黒の斑点模様を描く左慈の顔が、僅かに歪む。「干吉、人形の邪魔が入ったぞ」「それは申し訳ない。 左慈が余りにも素早く北郷の下に向かうものですから」「チッ……で、なんだ」黒猫の顔が、ニンマリと笑みを作った。「左慈。 洛陽では随分と楽しんで喘ぎ声をあげていたようで」「やはり貴様かっ! 奴から逃れようとして妙な強制力に離れられなかったのは! あの一時間余りの屈辱は、もはや誰にも分かるまい!」「おや、なんのことですか。 ふっふ、まったく、妬けますねぇ」「っ、殺してやるっ!」「おおっと、こわいこわい」それは、殺伐とした雰囲気であったが傍から見れば猫同士が木漏れ日の中でじゃれあう和やかな雰囲気であったという。 ■ 外史終了 ■