clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編7~clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編8~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編9~☆☆☆帝である劉宏が倒れてから3日が過ぎた。息はしているものの、意識は無く、予断を許さない状況が続いている。そんな中、宮内の空気は一変して一気に重苦しくなっていた。24時間、どのように状況が変化しても良いように、帝が眠る寝室の傍で大勢の人が詰めている。帝の居る場所に入室できる人物は、一刀、劉弁、劉協や一部の宦官を除けば医師だけだ。帝の様子を見るために、ずっと詰めている訳にもいかない一刀は、滞った政務の為に宮内を歩く。歩いて、いるのだが。「ああ、もう、張譲さんは何処に行ったんだっ!」そう、一刀の探し人が何処を探してみても視界に入らない。すれ違う人に聞いても、誰もその行方を知っている者は居なかった。ここ最近の疲労もあいまって、一刀は不機嫌な声をあげてしまった。何人かの人が、訝しげな様子で一刀を見て、やがて視線を逸らす。誰かが何処かで奇声を上げるのは、もう珍しくない。一刀に限らず、忙しく動いている者ばかりであるから。気まずさに首を振り、大きく肩で息を吸ってから一刀は再び歩き始めた。ジリジリと、蝕むようなこの気分の悪さが早く無くなって欲しかった。というのも、帝が倒れて意識を失っているこの状況は非常に危うい。後継者問題も中途半端で、このまま没してしまえば混乱が起きる可能性が高いのだ。劉協もこのまま父親が世を去ってしまうのは嫌だろうし、眠れない夜を過ごしたようで、深夜まで部屋の灯りが点いていたのを一刀は知っていた。実際に見たわけではなく、聞いた話だが。一応、落ち着きを取り戻し始めていると聞いているので、大丈夫だろうとは思っている。勿論、そうした問題云々も含めて、親しく付き合ってきた劉宏個人の心配もしている。王朝の帝という身分や、自分の立ち位置から色々なしがらみは在る物の殆ど毎日、顔を突き合わせて来た人。自分が天代としてではなく、北郷一刀としてみて欲しいと思っているように劉宏にも帝としてではなく、一人の劉宏という人物と接するように心がけてきた。そんな人が危篤の状態であるのだ。心配にならない筈が無い。加えて、帝が倒れたことによって一刀の忙しさは天井知らずに上がって行った。帝の代わりという役職に付いている以上は仕方の無いことかも知れないがここ3日間、一刀は劉協の居る離宮に戻ってすらいない。採決を求められる場面が多くなり、移動も激しく、書簡の波に埋もれている。とてもじゃないが身体が一つでは足りなくなっている状態である。「天使将軍!」「どこに行ったかと思えば、ここにおりましたか」声をかけられて―――微妙に引き攣りながら―――振り向いた先には、何進と蹇碩が並んで歩き、こちらへ向かって来ていた。この二人が揃っているということは、西園三軍のことだろう。正直、帝が倒れられてから軍部にはノータッチである。大陸の情勢や、黄巾党の動き。そして涼州の不穏な噂を報告から耳に聞いている程度であり、具体的な方針も特には定めていなかった。まぁ、全ては突然に降りかかった殺人的な忙しさ故なのだが。「どうしました?」「ようやく我らの準備も整いました。 兵を募って、練兵を兼ねた行軍を一度行いたいと思っております」「ああ、徴兵するって話だったね。 うん、いいよ」「天使将軍の名で、どれだけ集まるか見物だな」「そうですね、その辺は何進さんと蹇碩さんに全部任せます」「承知しました」「ふん」というわけで、一刀は全てを二人に丸投げした。この徴兵、練兵に宛てる一軍は将来的には桃香に預ける物になる予定である。もちろん、予定に過ぎないし先ほど述べたように軍部のことは手を出す余裕がない。何故か蹇碩が勝ち誇ったような笑みを残したのは気になったが、きっと天使と呼ばれて引き攣る一刀の顔を楽しんでるに違いない。それよりも。一刀は二人と別れて張譲を探す為に歩き出す。「天代さまー!」その矢先である。何進達の真逆の方角から自分を呼ぶ声は、趙忠の物であった。随分と急いでいるようで、いつも抱えている人形が左右に振られ、ブランブランと凄いことになっていた。その内千切れるのではないだろうかと、余計な心配をしてしまう。「なに? どうしたの?」「主だった宦官のりすと、だっけ。 それ持ってきたの」「ああ、頼んでた奴だね。 ありがとう……机に持ってってくれる?」「いいよ。 それとこっちが譲爺からのだよ」「張譲さんの?」受け取って開くと、そこには屋敷の売却に赴くとの旨が書かれていた。十常侍の筆頭でもある張譲が、一番に私財を吐き出して国庫に当てる姿勢を示す。そうすれば、自ずと宦官達の間でも変化が起きうるのでは無いか。そうした話を、確かに一刀は以前聞いていたのを思い出した。断る理由も無いし、とても良い案だと思ったので受け入れたものであった。「そうか、張譲さんが居ないのは今日これがあったからか」「ううん、本当は今日じゃなかったらしいんだけど、ほら」言って劉宏の寝室の方角に顎だけで指す趙忠。それを見て、一刀はなるほど、と頷いた。予定を前倒しにしたのだろう。この案を実行するには、早ければ早い方が良いし後回しにすれば忙殺の最中で忘れてしまうかも知れない。一刀は言うに及ばず、多かれ少なかれ高官の者や宦官達は仕事が増えている。宙ぶらりんになった後継者問題のせいでもある。趙忠が持ってきた宦官のリストは、その人事に関係するものでもあったのだ。張譲が居ない事を知った一刀は趙忠と別れ、踵を返して暫定的に作られた王宮の執務机に向かい始めた。「天代様! まったく、探しましたぞ!」「……」一刀は呼ばれて無言で振り返った。名前は知らないが、官僚の中で顔を見たことがある気がする。そんな男の後ろでは、こちらに駆け寄る桃香の姿も見えた。桃香には離宮に戻れない一刀に、使う物を運んでもらったり離宮の様子を話してもらったりしていた。時たま、彼女と一緒に劉協が顔を出す時もある。今は誰も連れ立っていないし、脇に抱える荷物から着替えなども持ってきてくれたのだろう。書簡だけでなく、人にも埋もれ始めた一刀であった。 ■ 鉢合わせ三英雄離宮の一室に、見慣れない姿が見えていた。その部屋は椅子と卓がいくつか用意されているだけの、余り生活感を感じさせない場所であった。言うなれば、人を待たせる為だけのスペースとも取れる。そんな部屋に人並み外れた容姿を携えた美女が二人。美女が、美女を諭すように何事かを話しかけて、水を向けられた美女が顔を顰めていた。「やだ」「雪蓮……」むくれっ面にそっぽを向いて、全身で拒む姿は幼稚であるようにも見える。何をそんなに拒否しているのかというと。「孫堅様が江東に戻ると決めたのだぞ。 そんな子供のように……」「嫌なものは嫌なの、別にいいじゃない、火急の用件って訳でもないじゃない」「じゃあ、雪蓮は残るのか? 洛陽に?」「う……」つまりはこういうことだった。孫堅が黄巾との戦以前から洛陽に滞在して、早くも一年が経とうとしている。西園八校尉に正式に選ばれて、西園三軍も動き出そうかとしているこのタイミングでどうして帰ることになったかと言えば、それは孫家が大きな勢力として治める江東の事情故に他ならない。その事情を簡単に言えば、江東には多くの豪族が犇めき合って、それぞれヤクザのように縄張り争いをしていたり無意味に武力で衝突し混乱を呼んだり、非常に自己主張の強い者達が血気盛んに暴れていた。それを僅かな期間で武力により鎮圧したのが、江東の虎と畏怖される孫堅だったのだ。要約すると、全員ぶっ飛ばして傘下に治めた。一年もの間、顔を見せなければ何かしら悪巧みをする豪族達が現れても不思議ではない。一見すれば結びつきが強く見える孫家の結束も、現時点ではその地盤が確かなものではなく、緩いことは否めない事実であった。出かけている先で、留守にしている家で小火を起こされても馬鹿らしい、という事だ。「分かるだろう」「そりゃ分かるわよ。 でもそれなら母様一人で帰ればいいじゃないの」「……蓮華様や小蓮様も、きっと待っていらっしゃるぞ」「あの子達なら大丈夫よ」「いやな……あのな?」そういう話なのだが、一人納得していないのが孫策であった。理由を尋ねられれば、良く分からないけど離れたくないという具体性のかけらも無い言葉が飛び出す始末。もちろん孫策も馬鹿ではないので、事情の方はしっかりと把握している。言わば、これは本能の拒絶であるかも知れない。この場所に居なければならないような、漠然として不明瞭な強迫感。既に、孫堅が劉協へ帰る旨を今まさに伝えている現状であるのに、どうしてもモヤモヤとした鬱陶しい気分が抜けなかった。とはいえ、洛陽に居続けてどうするかと尋ねられれば答えには窮してしまう。聡明な頭脳を持つ彼女は、理屈の上で周瑜の言っている事がまったくもって正しい事も理解していた。「……だってさー」「もういい、場所も場所だ。 愚痴は帰り道でゆっくり聞いてやるから」「むぅ……」口を尖らせるも、反論など出来るはずもない。これがただの駄々であることは彼女も分かっているのだ。確かに、帝の実子が居られる離宮で拗ねているのも大人気無いだろう。孫策の唸り声を切っ掛けに、待たされている室内に沈黙が下りた。その沈黙は、たった数分程度であったがヤケに長く感じられる一時であった。そんな室内の沈黙を破ったのは、部屋の中からではなく扉の外から。「うん、とてもじゃないけどお話する時間が無さそうで……」「そうですか。 仕方ないかも知れませんが……」「うん……」話声と共に、扉が開く。現れたのは珍妙なひらひらとした服を着込んだ桃香と、同じような服に身を包んだ愛紗であった。中に先客が居るとは思わなかったのか、孫策と周瑜の二人を見て一瞬だけ動きを止める。「あ、こ、こんにちわ孫策さん、周瑜さん」「あ、かんかんちゃん」「うっ、孫策どん、殿! その名を呼ぶのは止していただきたいのですがっ」「……かんかんちゃん?」「うん、かんかんちゃん」見えない刃が愛紗の胸に突き刺さっていく。黄蓋が愛紗に粉をかけたと聞いて、興味から店を覗いた際に知り合っていた。当然、店内ではかんかんちゃんと呼ばれた愛紗。孫策の脳内には、しっかりとその名が脳裏に刻み込まれていた。首を逸らして、肩を震わせている桃香を一瞥してから、愛紗は一つ咳払いをかまして言った。「我が名は関羽です。 そうお呼び下さい」「うむ、しかし可愛い名だったが……」「そうよ、その服にもぴったりだわ」「くっ、うくく」「と、桃香様まで……あまり茶化さないで下さい!」ニヤニヤと笑みを浮かべる断金の二人は、からかいの種を見つけたかのように愛紗を見やった。その様子がツボに入ったのか、ついに高い声が漏れて必死に顔を背ける桃香。たまった物ではないのは愛紗である。桃香は自らの主であり、孫策と周瑜も孫堅という大物にかかわりの深い者達であることを知っている。どうにもやりにくい相手であるのは間違いなかった。「それで、劉備だったわよね。 どうしてここに?」「あ、劉協様に一刀様のことでお話しようと思ってたんです」「天代に?」「はい。 けど、孫堅さんのお話を遮るのも悪いと思って」「何の話なの?」「別に大した話じゃないですよ、だから邪魔せずにこっちで待とうと思ってたんです」「なるほど」頷く周瑜に、愛紗が孫堅についてきたのか尋ねると是を返してきた。劉協の部屋の前で待たせる訳にもいかないだろうし、こうして適当な部屋を見繕って案内されたのだろう。「一刀は居ないの?」「……居ません」「あら、急に素っ気無くなっちゃったわね……ん? ははぁーん」「な、なんですか、その微妙な確信に満ちたニヤケ声は!」「別になんでもないわよ?」「まぁ雪蓮の冗談はともかく、関羽殿は天代様の元へ身を寄せたのか?」「はい。 正確には桃香様の元に、ですが」「へぇ」「ほぉ」「うわぁ……なんか二人の目が怖いよぅ」孫策と周瑜がキラリと目を光らせ桃香を見たのは、黄蓋の話があったからに他ならない。曹操の様子から、黄蓋が関羽の元に粉をかけに行ったのは、まだ記憶に新しい。その時の会話がどういうものなのかを孫策と周瑜は当然ながら知らないのだが、黄蓋の話しぶりから察するに大きな将器を感じさせる印象を抱かせたのは想像に難くなかった。孫策の母、そして周瑜の師の一人でもある孫堅を、傍らでずっと支えている孫家の重鎮。その黄蓋をして関羽なる者は大器であると認めさせたのである。これは中々に珍しいことであると言えた。何を隠そう、孫策も周瑜も、黄蓋に一人前であると認められたのはつい最近のこと。それまでは小童呼ばわりされるのも日常茶飯事だった。もちろん、身内故に見る目が厳しいという部分もあったのだろうが、それを差し引いて考えても僅かな時間で太鼓判を押す黄蓋というのは、彼女達にも記憶に無いくらいである。「天代様にも気に入られてるみたいだし、劉備殿って何かがあるのかもね」「確かにな」「愛とか?」「ふふっ」「いえ、そんな……その、私は別に―――」そんな二人のやや無遠慮な視線に居ずらそうに手を合わせて、縋る様に愛紗へと視線を向けた。桃香の隠しすらしない助けてのメッセージを視線で受け取った愛紗はどうするべきか悩んだ。ある意味、この話は桃香が孫策や周瑜という人物から一定の評価を得たと言える。貶されてるわけでも侮辱されてるわけでもないし、感心されていると言った感じである。自らの主と決めた桃香が褒められている―――かは微妙だし、途中から目に見えてからかわれている気もするが―――それを止める必要があるのだろうか。しかし、当の本人が止めて欲しいと言ってるのならば、やはり動くべきか。数瞬時間を置いて、結論を導き出した愛紗は、主である桃香を救う為にわざとらしく一つ咳払い。「……コホン、お茶でもいかがでしょう」「あー、そうね、母様も随分と遅いし」「劉協様との話が長引いていらっしゃるのかもしれんな」「あ、じゃあ私が淹れて―――」「いえ、桃香様の手を煩わせる訳にはいきません。 私が淹れてきましょう……あ」言ってから気がついた愛紗である。ここで自分が抜け出したら、二人の視線から逃れたかった桃香だけが残されてしまう。かといって、手を煩わせる訳にはいかないと断って、やっぱり桃香に淹れに行ってもらうことなど今更出来るはずがない。しばし、桃香のすがるような視線に惑い、手を上下させたり首を巡らしていた彼女だったが結局、なるべく急いで帰って来ると桃香に目だけで真剣に語りかけ中座することになった。そんな愛紗の込めた目の意志は、桃香にしっかり伝わった。「あ、愛紗ちゃんが怒ってるっ、何でぇ!?」間違った意味で。結局、お茶を淹れてきた愛紗が戻るまでニヤニヤされながら桃香は随分とからかわれた様である。劉協へ一刀のことを報告する為に留まる桃香と愛紗。その劉協と話し合いが長引いている孫堅を待つ孫策と周瑜。いつしか会話は途切れて、茶を啜る音や衣擦れの音だけが室内を奏でるだけとなる。そんな部屋の静寂を二度突き破ることになったのは、扉を叩くノック音だった。開けられた扉の先には、これまた離宮では初めて見る顔。麗しい金髪をくるりくるりと纏めドリルにして威風堂々と室内を見回す小柄な少女。その少女よりも小さい体躯で、静々と中に入ってくる猫耳頭巾。曹操と、荀彧であった。室内を見回した曹操は、孫策や周瑜を認めつつ最後に視線が愛紗へと突き刺さる。当然、新たに現れた曹操達に自然と目を向けていた愛紗は、そんな彼女としっかり目があった。「あら、かんかんちゃん」「そ、それはもう結構です……曹操殿」「なにが? まぁ、それはともかく……私は振られたのかしら?」その問いと視線は、愛紗の隣で座っていた桃香へと突き刺さっていた。突然と言っていいほど、曹操の視線と声が飛んできた桃香は一瞬驚き愛紗へと目を向ける。その目に、愛紗はしっかりと頷いていた。桃香は驚きに口を開く。「ええ!?」「?」「曹操さんって愛紗ちゃんに求愛してたの!?」「……いえ、その、違います桃香様。 曹操様からは陣営に誘われていました」「いえ、別に間違っていないわよ」「え?」「へ?」「諦めないわよ」混乱した様子の桃香に、いやそれは愛紗にもだろう。一言だけ残してから空いてる近くの椅子を引っ張って座り込む曹操。無言で二人を見やってから、荀彧もまた曹操にならうように椅子を引っ張って席につく。とりあえず桃香は視線を移して、愛紗に新たな来客となる曹操達へと茶を出すように促すことにした。そんな二人に可愛いと褒められたメイド服姿で愛紗がお茶を注いでいる最中、水を向けたのは周瑜だった。「二人はどうしてここに」「陳留へ戻り、いろいろと準備を整えるためよ」「そういえば、陳留は今も厳戒態勢なんだってね。 色々あるみたいだけど大丈夫なの?」「孫策と、周瑜……だっけ? 心配される覚えはないわよ」孫策の問いに不機嫌そうに答えるのは荀彧であった。軽い調子で尋ねた孫策は、この答えを聞いて一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに元に戻り肩を竦める。実際のところ、荀彧も陳留の様子を話すことに躊躇う理由は無かった。ただ、曹操の目指す到着点のことを考えれば、彼女達の主である孫堅とはいずれ敵対する可能性も在り得るしわざわざ世間話をするような間柄でもない。何より、先の黄巾との一戦で名を上げた軍師として、周瑜の名を荀彧は知っていた。実際に天代の講義の中で意見を交わしあい、不世出の知者であることも。蹇碩との問題を彼女達に話して腹が痛いことなどは全く無いし、自らこの件で首を突っ込むことも無いだろう。しかし、張梁の事に関しては別である。故に、この場に現れた直後から、荀彧は一切の情報を漏らさないことを決めていた。もちろん、孫策が素直に身を引いたのも少なからず彼女の態度から意志を察したからだった。ただ透かされた形の彼女は、当然面白くない。「……じゃあ話を変えるけど、天代様とは何処まで進んでるのかしら?」「んなっ!? 何をとつぜん訳の分からないことを……」「だって、抱き合ってたじゃない」「はぁぁぁぁぁーーー!?」「ええええぇぇぇーーー!?」思わずガタリと椅子を引いて立ち上がる荀彧と桃香。今まで澄ましたようにした荀彧のその豹変振りに、孫策は母の様に獰猛な威圧感のある笑みを浮かべる。してやったり、と思い切り顔にでている。「で、でたらめばっかり言ってるんじゃないわよ! どうして私が男と抱き合ったりしなくちゃいけないのよ!」「だって、見たもの。 ねぇ冥琳」「まぁ、確かに」「う、嘘よ! そんなこと在りえるはずないでしょう!」「あの、その話し詳しく聞かせてもらえますか!」「詳しくも何も、そんな事実は無いのよ!」「証人も居るのに往生際が悪いわね」「そうです! 荀彧さん、一刀様と仲良ししてた時の事、お話してください!」「やめて! あんな種馬の名前を私の前で出さないでっ!」「種馬ですってぇ!?」「種馬……そんなぁ、そこまで進んでるなんて……」「違うって言ってるでしょーがっ!」一方で、曹操も桃香の態度からおおよそを察した。そして頭に過ぎるのは、天の御使いこと北郷一刀。もしかして愛紗が桃香の下に居るのは……曹操の視線はそんな考えから、自然と荀彧達の騒ぎを無視して愛紗へと突き刺さっていた。もちろん、視線にはしっかり気がついている愛紗は、短い溜息を吐き出して尋ねた。「曹操様、なにか?」「……関羽殿は北郷一刀にも仕えているの?」「そうです」「そう」短い答えに曹操は得心した。桃香の主は北郷一刀だ。まず間違いなく、自分の考えと答えは一致しているだろう。今は桃香に預けられているようだが、実際には天代である一刀へ忠誠を誓ったのだ。自分の欲しい物を横から奪われるのは、これで二度目。一人目は、陳公台。二人目は目の前に居る関雲長。最終的に決めたのは本人の意思なのだろうが、それでも曹操はどこか納得できない感情を抱いた。先に目をつけて、粉をかけて、何度も誘ったというのに、彼女は此処を選んだ。曹操という者よりも、一刀という男を選んで。その事実はなんというか、そう。「……悔しい」「は?」「なんでもないわ。 忘れてちょうだい」「はぁ……しかし、曹操様には前もって断るべきだったかも知れません。 それについては謝意を」「受け取るわ……」溜息のような物を吐き出して肩を落とす曹操は、思いのほか自分が落ち込んでいることを自覚した。それだけ関羽という人物を曹操は得がたい者だと思っていたし、実際にそれは正しいのだろう。そんな人知れずショックを受けている曹操をよそに、孫策達のテンションはだだ上がりであった。荀彧が抱き合ったことを認めたせいで。「分かったわよ、埒もあかないし認めるわよ! けどね、勘違いしないでくれる? あれは抱き合ったんじゃなくて、襲われたんだからっ!」「へぇー、一刀の方から襲うなんてやるじゃない」「一刀様が襲うなんて、よっぽど……」「そういえば、雪蓮も抱かれた時はいきなりだったという話だな」「ええ!? 孫策さんも……私には何も手を出さないのにぃ」「そうなの? おっぱい大きいのに」「荀彧殿のことを考えると、胸は余り関係なさそうだな……」周瑜の考え込むような声に、自然と視線が集まる。「私の胸を見て話すなっ! おっぱいお化けどもっ!」「失礼ね」「失礼だな」「失礼ですよ、荀彧さん」「くっ、こいつら人の胸を見て話すことは失礼じゃないっていうの……っ、春蘭とは違った形で話がかみ合わないわ……」「貴女たち、少しは落ち着いて話してもらえないかしら」そんな会話に割り込むように、いつの間にか荀彧の卓に戻ってきていた曹操の声が飛んできた。その諌める声には険が含まれているようにも聞こえる。劉協という帝に連なる人物、そして天代という帝に近い権力を持つ人物が揃う離宮の中でこれだけ騒ぐのは流石に節操が無いと言えるだろう。他にも余計な感情がいくつか混じっているようだったが、それは隠しつつ覇気溢れる声で言い放った。そんな曹操の声に、自然と室内には沈黙が下りて視線を集める。気まずい空気を壊したのは、両手を挙げた孫策であった。「……悪かったわね」「ごめんなさい」「醜くならないくらいの節度は保ちましょう、孫策、劉備」「そうね」「はい……」「桂花も」「は、申し訳ありません……くっ、なんか納得がいかない……」お互いに何度か顔を見合わせて、孫策が勢いよく腰を落としたのを切っ掛けに荀彧や周瑜、桃香も自分の座っていた場所に戻って腰を降ろした。三度訪れた静寂は、先ほどまでの空気から一変してやや重苦しいものに変わっていた。それは、孫堅が孫策達を呼びにこの部屋に来るまで続いていたという。―――「ん?」「あ、母様」「お話は終わりましたか」随分と長い話を終えて、孫堅は孫策が待つ室内に訪れた。部屋の中を見回して曹操や劉備たちに気がつくと、短い声をあげる。桃香にいたっては眠ってしまったようで、孫策と周瑜の声で今目が覚めたというように眼を擦っていた。孫堅は一つ苦笑するように、曹操へと声をかけた。「ふっ、随分待たせてしまったようだな」「気にしなくていいわ。 時間はあるしね」「ならば良いが。 雪蓮、冥琳。 先に出る準備を進めておけ」「はいはい、分かったわ」「承知しました」元々、江東に帰る際の挨拶に付き合わされていただけだ。まぁ、一刀に会えるかもしれないという打算は含んでいただろうが。孫堅が言わなければ、この場に来ることもなかっただろう。部屋を出る直前に、孫堅へ渡したのかどうかを確認してから孫策は周瑜を伴って退室した。「さて、先に待っていたのは劉備よ」「いへ、私達はいつでも会えますから曹操しゃんが先にどうぞ」「そう? それなら甘えることにするわ」「ああ、曹操殿」視線で桂花を促した曹操は、立ち上がって部屋を出る直前に孫堅の声で振り返ることになった。振り返った先には、顔を見せずに背を向ける孫堅の姿。勘違いではなく、曹操は自分に向けられている威圧感に目を細めた。「なにかしら、孫堅殿」「曹操殿とは話す時間が欲しかったところ、丁度よい。 回りくどい聞き方は性に合わぬ故、少々失礼かも知れんが許されよ」ゆっくりと振り返る孫堅の顔は、射抜くように曹操へと注がれていた。負けず曹操も、しっかりと孫堅を真正面から捉えて孫堅の言葉に頷いた。突然の出来事に、先ほどまで眠りこけていた桃香も、暇を持て余していた愛紗も仕切りに顔を交互させ見守っていた。「今、漢王朝が生きるか死ぬかの瀬戸際にあることは承知してるだろう」「ええ、そうね」「かろうじて首の皮一枚を許されている原因は、天代にあると私は考えている。 それは薄々感じていることだろう」「……それで?」「曹操殿、私は天代を盛り立てると決めた。 覇を望むお前は邪魔だ」その言葉に、曹操の隣に居る荀彧が食いかかろうと口を開き、それを片手を挙げて曹操は制した。今、孫堅が言った言を受け止めて曹操は瞬間、思考した。孫堅が決めた道は、天代である北郷一刀に与すること。それは、漢王朝につながりの深い一刀を支えるということであり、孫堅が決めたということは孫家の総意となる。自分を指して邪魔だと言われたのは、自らの野望をしっかりと見抜かれた上での言葉でありそれは今すぐにどうこうという話しではないのだろう。とはいえ、ここまで正面きって啖呵を切られては曹操も引けない。「……孫堅殿、貴方が誰を支持しようと構わないし、関係のないこと。 このように脅されて私が首を振ることは無いけれど、言葉遣いには気をつけて貰いたいわ。 それは私にとっても、同じことが言えるのだから」「曹操、吼える相手は選ぶことだ」「猛獣も躾けることが出来るそうよ? 首輪と鞭でね」「虎を躾けられると思うのか?」「虎は虎、それ以上でも以下でも無い」「……」「……」「くっ、はっはっは、面白いな曹孟徳」「ふっ」それまでの威圧感が嘘のように、孫堅は一つ笑い飛ばすと曹操を追い抜くように扉へと向かう。すれ違う瞬間、荀彧の人を殺せるような視線をやんわりと受け流して。扉に手をかけて、退室するかと思われた直前に、彼女の口は開いた。「曹操、共に歩める道が在る事を願っている」「……考えておくわ」言いたいこと、確認したいことは終わったと言う様に、今度こそ孫堅は部屋を出て立ち去った。力強い足取りで孫堅が消えた扉をしばし見つめ、曹操も一つ大きく息を吐くと劉協の元に向かって部屋を出る。一拍遅れて、荀彧も慌てて背を追って部屋から立ち去ると、残された桃香から大きく息が吐き出された。ただ、孫堅と曹操のやり取りを間近で見ていただけだというのに、胸の鼓動は早くなりまるで全力疾走した後のように五月蝿い。呼吸を忘れていたのに、その音に気がついてからようやく気がついた程だった。荒く呼吸を繰り返す桃香の背中にそっと手を当てる愛紗。「……あ、愛紗ちゃん。 私、当てられちゃった」「桃香様……」「忘れてたんだ、こんな大事なこと。 諸侯の人たちが大陸の情勢をどういう風に見ているかって。 居心地が良すぎて、忘れてたんだ、私」「……」そう、余りにも離宮で過ごす世界が平和で、楽しくて。桃香は曹操と孫堅の会話で、冷や水を頭から掛けられたかのように自覚してしまった。気付ける種はあったのだ。一刀が教鞭を奮う最中、諸侯達が集まって重ねる話の本質を見逃していた。漢王朝は、確かに危うい場所に揺蕩っていることを。「……桃香様」「愛紗ちゃん……ありがとう、もう大丈夫だよ」孫堅は、一刀と共に手を取り合うと決めた。その方が漢王朝にとって良いと思い、孫家にとっても利すると判断した結果からだろう。一方で覇を望むと言っていた……いや、言わされたのかも知れないが、少なくとも否定はしなかった曹操。もしも、胸の内にあるものが、かつての桃香と同じように今の漢王朝は終わりだと感じ―――そして。そして、彼女自身が立ち上がって大陸を治めようとする気概を持っていた事実に圧倒された。曹操から立ち上る意思に揺らぎは無く、強い決意を眼から受け取れる。相対した孫堅ばかりでなく、無関係である桃香にまで届いて。言葉通りに受け取れば、曹操は漢王朝とは手を切ったかのように思えるが、最後の言葉も気になった。孫堅が共に歩む道があると言って、曹操が躊躇ったあの時。桃香の心身を僅かな時間の舌戦で憔悴させた、曹操と孫堅という二人の傑物が最後に見せた本音かもしれない。それはもしかしたら。「一刀様が、居ること……」「え?」「愛紗ちゃん、分かったよ、漢王朝を……国を立て直す道」「と、桃香様……?」ずっと見えそうで見えなかった答えが、桃香の前にようやく現れた心地であった。考えてみれば、自分が此処に居るのもそうだった。答えは本当に、最初から目の前にあった。クスリと一つ、自嘲するように笑った桃香は晴れ晴れとした顔を愛紗へと向けて「漢王朝を守ることが出来るのは、一刀様だけなんだよ」「天代様がですか」「うん、絶対にそう。 私達は、一刀様の為に精一杯がんばらなくっちゃならない」「桃香様、私はまだ天代様がどれほどの者であるのか分かりません。 しかし、仕えるに不足のある主でないことも確かです。 ……私も桃香様と共に、できる事をやらせてもらいます」「うん、頑張ろう、愛紗ちゃん!」「はい」―――「待たせたな」「母様、遅いわよ」「……」一足先に離宮から飛び出した孫策と周瑜は、時間をかけて戻る孫堅を迎えて早速ブー垂れていた。まぁ、周瑜はまったくそんな素振りを見せていないのだが。「先に準備しておけと言っただろうに。 無意味に油を売っていたのは雪蓮の方だろう」「……帰るときにちょっと聞こえたわよ。 劉協様と話が長くなったのは、一刀に付くことを話す為だったのね」「せめて一言、私達にも話して欲しかったです」「なんだ、聞こえてたのね。 良いのよ、二人には関係の無い話なのだから」その言葉に、周瑜は眉を顰めた。孫堅がはっきりと天代についた事を言ったのだ。それはすなわち、孫家が天代と共に歩むことを決めたということである。その筈なのに、娘である孫策や自分に関係の無いことと言うのはどういう事か。周瑜の疑問は、追う様に口を開いた孫堅の言葉で答えを得た。「孫家は関係ない、私個人だけが忠誠を誓う……その辺で揉めて話が長引いたの」「なっ、でもそうは言っても母様は孫家の長なのよ」「分かっている。 だが、こうして取り決めて納得して貰わなければ……」「……逃げ道、ですか」「そうだ、冥琳。 どのような最悪の事態に巻き込まれても、私さえ捨ててしまえば孫家は生きる。 逆に、ここを落としどころに出来なければ劉協様につくことは出来ない」「随分と大きな賭けに出ましたね。 正直、賛成できません」「……」この孫堅の決断を今ここで初めて知った孫策と周瑜は、何とも言えない表情で彼女を見やった。曹操に啖呵を切って見せた理由が、この一点にあることも周瑜は理解した。言葉で賛成できないと言ったが、孫家のことを考えれば悪くないとも思えた。ハッキリと孫家を挙げて協力することを伝えれば、政争の影がチラつく北郷一刀と共に歩む事は上策と言えない。しかし、あくまでも孫堅個人の事であるとなれば話は変わってくる。たとえ妙な噂が出ようとも、『現時点で』孫家の舵を取っているとしても、だ。孫家を取り纏める孫堅には、実子の孫策が居る。親子であろうと対立することは珍しくない。天代が政争に敗れたその時、孫策は孫堅を糾弾し勝手に決めた事実を槍玉に挙げて孫家を牛耳ることで面目と体裁を整えることができるのだ。それは理解できる話だったが、感情はそうはいかなかった。特に孫策は、自らの親のことである。「……さて、雪蓮、冥琳。 遅れた準備を始めるぞ」「はっ……」踵を返して歩き始めた孫堅に遅れて、その背を追うために一歩踏み出した周瑜の耳朶に孫策の小さな呟きが、耳を打った。「洛陽に」「……どうした、雪蓮」「洛陽に留まりたかったのは、これのことだったのかしら?」「雪蓮……」そうだ。確かに、妙な胸騒ぎを感じていたのは自分の親が知らず決断を下したこの事なのかも知れない。そもそも、勘の鋭い孫策があそこまでギリギリになって駄々を捏ねているのも珍しいことだった。周瑜はそんな孫策の思いを理解して、同時に彼女が洛陽に留まることは何があっても許されないということにも気付いてしまった。孫堅がこう決断してしまった以上、孫策が天代である北郷一刀の近くをうろつく事は孫家の行く末を左右するかもしれない、妙な疑念を残すことになってしまう。だから、駄目だ。何よりも、そんな風に動いてしまったら孫堅の決意を無駄にしてしまうことになる。「……」「大丈夫よ、冥琳。 私だって分かってるわ」「雪蓮、行こう。 蓮華様も待っているはずだ」「ええ」ようやく顔を上げて、孫策は周瑜の隣まで駆け寄って歩調を合わせる。しばし歩き、しかし、再び孫策の足は止まった。ふと視線を戻した先に居ないことに気がついて、周瑜は振り返る。孫策は、遠くなった離宮に視線を向けていた。沈み始めた西日が、離宮の影になって優しく照らしている。「……負けちゃ駄目よ、一刀」声量を落としていた孫策の声は、周瑜には何を言ったのか分からなかった。ただ、それが天代に向けた声であることだけは理解できた。口ではお互いに文句ばかりの孫堅と孫策。もっぱら孫策から親の愚痴を聞かされることが多いが、孫堅からも孫策に対して何にも聞かされない訳ではない。そんな表面上では不満ばかり聞かされる二人の心の奥底で、確かな絆があることを周瑜は知っている。だからこそ。やがて立ち止まる二人に業を煮やしたか、孫堅の声が響いて二人は慌てて背中を追いかけた。最後に、孫策が離宮に向けて視線を向けて。―――そんな、孫策の視線を受けた離宮の足元では、曹操と荀彧が丁度入り口から出たところであった。彼女達がこの離宮に訪れた理由は、当然ながら陳留へと戻ることと西園八校尉として選ばれたことに対しての天代への挨拶。そして、北郷一刀に張三姉妹に関わる真意を聞くことであった。残念ながら、一刀が戻って来そうも無いために張三姉妹の事は伏せることになりこの一件に関して言えば自分達の判断で決めていくしか無い。これが解消されれば、陳留の警備体制を緩めることも出来たかもしれないし負担も軽くなったかも知れなかった故に未練は残ったが一刀が戻るまでの時間を浪費することを嫌った曹操が、スパっと会うことを諦めたのである。他にも、荀彧の証言と夏候惇の証言の食い違いに言及したかったりも曹操は思っていたのだが。もしも可能ならば、一刀と話せる時間が来るまで洛陽に留まりたかったのは事実だ。しかし、待つには少し陳留を空けすぎてしまっている。先に挙げた張三姉妹の問題は勿論のこと、蹇碩の動きに応対するための一手には曹操が戻る必要があったからだ。帝に所縁在る人物を言葉で惑わし、禁令を破らせる腹積もりであることは分かっている。この蹇碩の罠の為に、曹操自身が相対して説き伏せるのが最も手っ取り早く問題が少ない。手伝いは要らないと伝えたはずなのに、裏で曹騰が動いていたせいで説き伏せる準備は既に終わっていた。それならば曹操は必要ないかもしれないが、陳留を預かっている曹操自身でなければ納得いかないだろう。蹇碩の手はこれで良いとしても、黄巾党の心臓である張三姉妹の事は引っかかる。そして……「……孫堅、それに劉備」「華琳様?」「共に歩める道か」「華琳様……」立ち止まり、自らの手を開いて視線を注ぐ曹操に、荀彧は訝しげな視線を向ける。ややあって、曹操は先ほどの孫策と同じように離宮を振り返った。離宮の影に隠れていた日が顔を出して、赤くなり始めた空の光に曹操は僅かに眼を細めた。孫家の者は、天代についた。直接聞いたわけでも、言われた訳でもないが、袁紹も遠からず同じ結論に達するだろう。いや、今の諸侯同士の関係は悪くないと思える。その原因は、間違いなく天代の下で集まっているからだと言えそうだった。もしかしたら、一刀の開く如何わしい調教先生という肩書きも、これを見越した物だったのかもしれない。天の知識という餌でまんまと釣りだされた様にも思える。実際に天の知識は断片しか聞けず、諸侯同士の話し合いに誘導していることは薄々と感づいていた。だからといってそれが曹操にとって実の無いことであるとは思っていない。一刀の断片の知識が切っ掛けとなって思いついた自身の政策もさることながら諸侯との討論の中で見え隠れする本音や漏れる情勢の数々は、実際に足を運ぶことが出来ない地を想像させるに十分な収穫があった。政、軍、市場、民。彼らの議論が真剣になればなるほど把握できるし、また陳留のことも少なからず理解されただろう。孫堅が最後に声をかけたことも、きっと本音だ。その切っ掛けを作ったのは、間違いなく……「ふふ、やるじゃない」自然、曹操の顔には笑みが浮かんだ。それは荀彧にとって、今までに見たこともない柔らかい笑みであった。つい先ほどの離宮の一室で見た顔ぶれを脳裏に過ぎらせて。もしも、天代である一刀が成し遂げるというのならば。「轡を並べるのも、悪くないかもしれないわね」「……」まるで、その場に荀彧が居ないかのように呟いて、曹操は踵を返した。一度も離宮に振り向くことなく。荀彧は、呆気にとられたかのように曹操の背中を見送って立ち尽くしていた。言葉は僅か。しかし、伝わるものは多かった。王として大きく見えた背中が、一瞬とはいえ小さく見えてしまっていた事に、荀彧はただならぬ衝撃を受けたのである。「そんな、あんな男にそんな事が出来るわけ……」曹操の描いた未来を、荀彧は敏感に感じ取っていた。あの曹操が、この僅かな時とはいえ、柔らかく笑みをたたえて……一部の隙すら見せない筈の彼女が確かに、その素顔を曝け出したのだ。しかも、だ。しかも、使われることを是とするかのように言い残して。曹操が見ていた離宮を、今度は荀彧も見やる。「できっこないわよ」出来るはずがない。自分の脳みそをどれだけ捻って答えを求めても、それは不可能であると結論を下した。だからこそ、自分は王を求めて大陸を歩いた。そして、それを為すことが出来ると確信できる相手に出会えたのだ。間違いない、絶対に在り得ない。どんな妖術を使えば生き返ることが出来るのだ。宮廷の中を子供の頃とは言え見つめてきた荀彧に見えない道が、あの男には見えるとでも言うのか。どんな知者に聞いたところで、濁った返答が帰ってきたというのに。自分に今の疑問を尋ねて返ってくる答えは、やはり分からない。それは、どうしようもなく荀彧を腹立たせた。見捨てたはずの物が戻ってくるかもしれないと、僅かとはいえ期待してしまっているからかもしれない。それは許せないことだ。自分の志を真っ向から否定することになってしまう上に、何よりも王を求めた自分が馬鹿みたいでは無いか。だというのに。「……北郷一刀、やっぱり貴方なんて大ッ嫌いよ! 死んじゃえ、馬鹿っ!」忌々しいことに、主の一瞬見せた顔を支えるのも悪くないと思ってしまうのだ。ほんの少し前まで、まったく考えに上らなかったというのに。この先、主である曹操の決断は慎重にしなければならない。どちらを選ぶにせよ、洛陽を去り、帝の意識が無い今では手を出すことの無い様に進言せねばいけないだろう。これだけは、何があっても早まってはいけないのだ。例え曹操の持つ“絶”がその身を裂くことになろうとも。その場に居ない一刀の姿が、何時の間にか英雄たちの胸を打たせて影響を及ぼしていた。そう遠くない未来、洛陽を発つ曹操と孫堅。董卓と同じように、曹操からは具足と宝石が、孫堅からは篭手が贈られていたという。 ■ 女の“らしさ”「あわわ……」「や、やっぱ怖いね……」「しゅ、朱里ちゃんどこー?」今、朱里と雛里は大いなる闇の中、まるで五里霧中に居るかのようにその両腕を虚空に突き出してふらりふらりと右へ左へさ迷わせていた。原因は彼女達の目を隠すように覆われた赤い布と青い布が巻かれて、その視界を隠していたからである。平たく言えば、目隠しだ。この目隠しに至る理由は、二人の目が刳り貫かれているという嘘を突き通すために行われている練習である。劉備と共に官軍を率いて戦場に出ることが決まってから、たびたび二人はこうして目を隠し慣らしておく練習をしようと考えていたようで、遂に今日、その練習が始まったということになる。外に出ればおのずと行軍中は眼があることを隠さなければならない。馬車や天幕―――勿論、その天幕の中では愛紗や鈴々が二人の監視をすることになるだろう―――も用意されるそうなので移動の最中や陣地の設営が終わった時などは、余り気にしなくても良いかもしれないが普段の生活の中で眼を隠すことになるのは間違いない。この暗闇しか見えない世界の中での立ち振る舞い方を、今から身に着けておくことで出来るだけ桃香達の負担を減らそう、という結論に至ってから朱里と雛里の目隠し特訓は始まったのだが。実際に効果があるかと言えば首を傾げざるを得ないだろう。その証拠に「はうっ!」朱里の声を頼りにふらりふらりと見当違いの方向へ歩いていった雛里が、部屋の机に額から突っ込み悲鳴をあげて「ひ、雛里ちゃん大丈夫……? はわっ!」雛里の身を案じた朱里も、頭を抱えて蹲る彼女に足をひっかけて頭から床へと落っこちる。ビタンッ! という大きな音がプルプルと震える小鹿のように痛みに耐えていた雛里の耳朶を打つ。上半身だけ手を床について浮かした状態で、朱里も同じように震えることになってしばし。ようやく回復を果たした雛里から、涙声のような上ずった声が朱里の身を案じた。「あわ、朱里ちゃん平気……?」「はわわぅ、い、へ、平気だよこのくらい」「あぶっ!」「はぶっ!」勢いよく体勢を立て直しながら振り向いた朱里と、見当違いの方向に手を向けて身を案じた雛里の二人の頭の上に星が舞い上がった。朱里の顔面パチキが雛里の側頭部に豪快にヒット。跳ねるように頭を揺らして、声にならない声をあげながら強打した場所を両手で覆う。と、このように練習を始めてから何度も見られる光景が減らないことを考えると痛いだけで余り効率の良い練習とは言えないだろう。すごく、根本的なことを見落としているのではと、目尻に涙を溜めて痛みを堪えながら脳裏に過ぎった二人の状況に一番最初に気がついたのは、室内から迸る妙な擬音と声を聞きつけて覗いていた音々音だった。「……お二人とも」「あ、ねねちゃっ、きゃあ!」「しゅ、朱里ちゃん重いっ……」「そ、そんなに太ってないもん!」「そうじゃなくてあわわわっ」虚空に向かって反論をし始めた朱里と、起き上がった拍子にスカートが朱里の膝で踏まれて体勢を崩す雛里。よれた体勢から焦ったのだろう。暴れた腕が、朱里の腰を抱くようにして引っかかると、そのまま二人揃って転倒した。絡まるようにして一回転。放りだれた雛里のふくらはぎが柱に当たって、小さな悲鳴をあげたかと思えばその反動で帰って来た雛里の足が、朱里の太腿の裏を強打し、再び小鹿の時間が始まった。ちょっと面白いかもと思い始めた音々音であったが、そのまま見続けたい好奇心を何とか押し殺し唸りを上げて眼を回している二人の目隠しを解いてあげた。「はぁ、一体お二人は何をしているのです」「うう、暗闇に慣れる練習を……」「痛いです……」「……二人一緒にではなく、片方ずつ慣れれば良いだけでは?」「あ」「あ」「あー……朱里殿も雛里殿も、賢いのに馬鹿なのです」多分に失礼な見解を述べた音々音であったが、考えに上らなかったせいか朱里も雛里も顔を真っ赤にして俯くしかなかった。二人一緒に練習することを決めていたところで、同時にやる必要はまったくない。一応、いろいろと打ったり倒れたりしてしまったので、手当てを兼ねた休憩を取ることになった。自然な流れで。「あ、この前の甘味処のお菓子ですか?」「本当はお昼に取っておこうと思ったのですが……」「ねねちゃんも、食べたくなった?」「う、ま、まぁ食べたくないと言えば嘘になるのですぞ」「うんうん、ここのお菓子美味しいからね」「一刀様が見つけてきたんだよね」「なんでも、文醜殿が最初に見つけたそうですぞ」「へー」「へー」先ほどまで転げまわっていた二人も、今はひと心地ついて落ち着いたのか音々音の持ってきたお茶とお菓子を囲んで笑顔を見せ、和やかな雰囲気が流れた。音々音も会話の輪に加わって、楽しいお茶の時間を過ごす。三人とも、お互いの距離は随分と近くなっており、また隠し事をするような事も無いので素直な気持ちを吐露できる、貴重な友人となりつつあった。この三人の話題に上るのは、結構限られている。口頭だけで聞かされる最近の出来事や、自分達の主である桃香や、帝の娘であられる劉協様のこと。他にも最近になって離宮へ住み始めた愛紗や鈴々。恋と、その動物達。そして、三人ともに著しく興味を惹く天代の北郷一刀。勿論、一刀の軍師を自称して止まない音々音は諸侯の動きや官僚達の周りを探ったり段珪との話し合いから、離宮の雑用も手伝ったりしているので外の話題がまったく無いということはない。ただ基本的に話題にあがるのは、やはり身近な人になるわけで。「そういえば桃香様から聞いたのだけど、一刀様がその……襲うように抱きついているって噂が」「あ、言ってたよね……桃香様、ずいぶんと取り乱していたけれど、ほ、本当なのかなぁ?」「根拠の無い噂話に過ぎないのです。 正直、一刀殿の周りにはそうした噂が多すぎて、気にするだけ無駄な労力ですぞ」「うん……やっぱり、天代という身分になると色んな噂が飛び交うのかも」「そうだよね、実際に私達が虐待されることもなかったし……」「むしろ、一刀殿はその噂すら突き破って色んな女性を口説くのだから困るのです」「えぇ、そ、そうなんだ」「しゅごいなぁ」「袁紹殿、桃香殿を初めとしてそれはもう次々に噂が……荀彧殿や公孫瓚殿……挙げれば切りがないのです」そうした話で朱里と雛里の胸に思い出されるのは、いつかの朝帰りをなした一刀である。あの時のことを後に聞いた時、しっかりと誤解は解けたのだが公孫瓚と共に何をしていたかは、ぼやかされてしまっていた。音々音はその真実を知っていたわけだが、それを皆に言いふらすつもりも無い。あの『一番』発言は、音々音にとっても秘密にしておきたい事でもある。ちなみに、音々音が荀彧との関係を知ったのは夏候惇からである。たまたま桃香が練兵場へ向かう際に出会い、聞きかじったものだった。くだらない噂だと一笑に付したが、微妙に引っかかるのは何が原因だろうか。話を戻すと、結果として朱里と雛里の手元には、何をしていたか教えてくれないけど昼間に出かけて翌日の朝まで公孫瓚と何かをしていて朝帰りになったという情報しか無かった。他にも、桃香からの話では主に練兵場の方から孫家の皆様などと友好を深めているそうだ。本当かどうかは分からないが、孫策にも襲い掛かって抱きついたという話もあがった。「……ああ、あの時の」「ん? なぁに、ねねちゃん」「何でもないのです」「あわ……なんだか眼が据わり始めてるのですが……」そして、この三人が集まって話し合うと、次第に一刀のことに話題が集中するのが常であった。音々音は言うに及ばず、朱里も雛里にとって一刀という者が、自分にどれだけ苦心していたのかを知っておりまた、自分達に道を示してくれた恩人だ。異性という点からも、著しい興味を抱いてしまうのは、彼女達の年頃である乙女心を鑑みるに仕方がない。なんだかんだ言っても、一刀に対して何かしらの噂が流れればこの場に居る少女達は耳をピンと立てるのだ。どちらの意味でも。そしてまぁ、立場故だろうが一刀の噂はあることないこと放って置いても沸いてくる。確かに、音々音が言うように気にしていても疲れるだけだろう。「はぁ……」「どうしたの朱里ちゃん」「ううん、なんでも……はっ!」「どうしたのですか? 朱里殿」「……そ、そ、そうだ! 良いことを閃いちゃいみゃしたよ!」ガタッと椅子を引いて、溜息から一転して興奮した様子を見せて立ち上がった朱里に、音々音と雛里は顔を見合わせた。二人の様子に気がついた朱里は、一つわざとらしく咳をして視線を集めると人差し指を立てて瞑目し……そして口を開いた。「私、一刀様にずっとお礼をしたかったんです。 此処に来てから……ううん、来る前から一刀様には言葉に出来ない程の恩を貰いました。 それのお返しを、少しでもしたいって」そこで一つ言葉を区切って、割と真面目な話が飛び出したことで真剣に朱里の顔を見やる雛里と音々音。ゆっくりと眼を開けて、朱里は決意したかのように握りこぶしを一つ作って「今の話をしていて閃きました! 一刀様は今、離宮に戻ることが出来ないほどの忙しさの中に身を置いて その、官僚様や宦官様の間に囲まれて、心身共に疲労が蓄積されているはずですっ!」「それは確かに、ねねもそう思うのです」「だから! 料理を作りたいと思いますっ!」「「え?」」雛里と音々音の声が、バッチシ重なって朱里に返って来た。一瞬呆れたかのような眼を向ける音々音と、朱里の言葉の真意が掴めずにキョドる雛里。二人の冷めた様子に、卓に両手をついて身を乗り出した彼女の主張はこうだった。事実として、一刀が日々忙殺される勢いで働いていることは、桃香や劉協からの話からも把握している。とはいえ、離宮に戻らない日が皆無というわけではない。寝食を離宮で取ることは稀になったとはいえ、仮眠の為に戻ってくることもあればちょっとした空いた時間に顔を見せること、皆と食事を取ることもある。顔を見せるのは僅かな時間なのだが、一刀も離宮に居る者たちを気に掛けてくれているのかちょくちょくと顔を見せにくるのだ。そんな一刀の顔色は、日に日に疲れを増しているように思えた。実際、一刀は疲れているのだが。そこで、朱里の提案である。この朱里の考えには利がいくつかあるのだ。基本的に、この宮内で食べる物というのは宮内の料理人が―――大陸屈指といってもいい―――作っている。少し前にあった『毒』事件から料理長は変わっているが。市井の人々からすれば手が出ない高級な食材も、珍しい一品も良く見かけるし味だって料理人の腕が良いのだ。そこいらで売っている物と比べれば天と地ほどの差がある。だが、ここに来てからの食事の中で真心を感じたものは無かったと言える。誰かの為というわけでもなく、宮廷に振る舞う料理をいっぺんに、かつ大量に作っているのだから仕方ないのだが。「ふむ、朱里殿の言いたいことが分かってきたのです」「うん、これは良いかも……朱里ちゃん」朱里が二つ目にあげたのは、“らしさ”だ。正直いって、朱里が一刀に対して抱く感情は異性の友人というレベルを超えていた。女として一刀に気に入られたい、見て欲しいという欲求が無いと言えば嘘だ。しかし明らかに好意を寄せて攻勢を仕掛け始めた桃香と、立場からか面には出さないが一方ならぬ興味を抱かれている様子の劉協様のことを考えると、言葉にするのは躊躇われた。なにより、一刀と自分ではつりあわない。それは体格差とか立場とか体格差とか容姿とか体格差とか、あと体格差とか恩人だとか抜きにしてもだ。 あと体格差も。とにかく、そうした状況下で出来る、女としてのアピールは何があるかと考えた場合は“らしさ”を見せることであると、朱里は力説した。これに雛里は大きく衝撃を受けたようで、朱里を手放しで絶賛した。まるで伝播するかのように朱里の興奮を引き継いだ雛里が、鼻息を荒くして“らしさ”の内容に言及しはじめた。いささか乗り遅れた形の音々音は、やはりと確信した。朱里も雛里も、恐らく同様の経緯をへて今の答えに辿りついたのだろう。言葉にせずとも、二人の真剣な様子から考えれば容易に察しはついた。懸想していると。そして、朱里と雛里の置かれている立場に思い至れば、彼女達が想いを告げる方法が如何に少ないかがわかってしまう。「……まぁ、一刀殿の一番はねねですし……ここは器量を見せる時なのです」「え? なぁに、ねねちゃん」「なんでもないですぞ、そのお話、ねねもお手伝いしてあげるのです」「うん、三人で心の篭った料理、作ってあげよう」かくして、彼女達の真心作戦~料理で“らしさ”をアピールよ~は画策されたのである。―――この真心作戦を行うに当たって、大陸屈指の頭脳を存分に働かせた結果最初の一手は一刀の部屋から行われることになった。1時間に及ぶ協議により、“らしさ”には三つの重要な要素があると分かったのだ。その三つは“料理”、“整理(掃除)”、“夜伽”である。“らしさ”の第一手は、話し合いの中で自然と整理(掃除)から始まることになった。現在、一刀は戻ってくることが少ないし、それほど汚れているという訳でもないのだがそれでも埃は溜まるし、机の上は悲惨なことにもなっている。小物類も散らばって、見た目が悪いといえば悪い。一刀がちょっとした用事の時でも戻ってきた際に、しっかりと片付いていれば心象が良いのは間違いないだろう。それが食事を取れる時であれば、なお良い。整理と料理によって、“らしさ”を存分に見せ付けることが出来る。“夜伽”に関しては恐ろしく難しい問題であったので、とりあえず棚上げの状態だった。「とはいえ、一刀様の部屋だけ掃除するのは……」「確かに、劉協様や桃香様のお部屋も掃除するべきかも知れません……」「うーん、ねねが思うに一刀殿にだけという特別感を醸し出した方が上策と思うのです」割烹着のように汚れても良いような服を頭から被って、手にはバケツと雑巾。頭には三角帽のようなものを巻いた三人組が、顔を突き合わせて一刀の部屋の前でひそひそと話し込む。そもそも、一刀は自ら断っているから良いとしても、桃香や劉協は離宮で働く使用人が定期的に清掃を行っているので、掃除をしなくても問題ない。仕える主が三人もいるような現状で、誰かを贔屓にしたくはないと考える朱里と雛里の気持ちも音々音は分かっている。実際に劉協と一刀に仕えているような形の音々音も、何度か経験したジレンマであるからだ。そんな時、ひそりと囲んで話している三人に気が付く者が居た。「……おはよう」「はわ、恋さんっ……」「れ、恋殿、いきなり現れるのは心臓に悪いのですっ」「……?」話しこんでいる様子が気になったのだろう。明らかに寝巻と思われる軽装に、両手で長い枕を抱いて現れたのは恋であった。またぞろ昼寝をするための場所を探していたに違いない。帝の意識が無くなってから5日、まったく普段と変わらない日々を過ごしているのはもしかしたら彼女だけかもしれなかった。「ねね、なにしてるの?」「あ、えっと、それはですね、ちょっと一刀様のお部屋のお掃除を―――もがっ」恋の尋ねに素直に答えようとした雛里の口に、高速で飛来した音々音の手で遮られた。呆気にとられる朱里と、目だけで何なのかを訴える雛里を無視して音々音の視線はゆっくりと恋へ向けられた。その視線を受けて訝しげにしながらも、恋は首を一つ縦に振ると一体どこから取り出したのか。金属特有の音を響かせ、方天画戟を中空で揺らした。まるで、何かを主張するかのように。「掃除……掃除は得意」「だだだだだ、駄目ですぞ! 此処は絶対だめなのです!」「恋も、てつだう」その後、数十分に渡って恋と音々音で熾烈な交渉が繰り広げられ、料理の時に手伝ってもらうことを条件に、何とか事なきを得る。今の一連のやり取りから連想したのか、あるいは音々音の必死さから何かを感じたのか。恋が立ち去ると、驚くべき速度で掃除を終えた三人の姿があった。余計な邪魔が入らないうちに終わらせてしまおうと、休むことなく続けて、終了までの所要時間が僅か1時間である。少し汚いと思われた一刀の部屋は、物品を壊されることなく無事に清掃された。―――「厨房を貸してくれ?」「はい、あの、使う食材はこちらに明記してありますので……」「構わないが、何に使うのだ?」真心作戦は、第2の段階に入った。この作戦の肝である“らしさ”を見せつける重要な部分である。まぁ、言ってしまえばただの料理なのだが、それをするには離宮にある厨房を借りる必要があった。先ほどの交渉のこともあるので、恋もこの場には居る。4人集まって厨房を貸してくれとお願いされた劉協は、眉をひそめて何をするのか尋ねたのだ。特に、朱里と雛里の二人は目のこともある。不用意に許可を出して、誰かに見られれば一刀のあれだけの苦労が水の泡だ。更に言えば、厨房を借りるとなると、そこまで行くための道を立ち入り禁止にしなくてはならなくなる。生半可な理由で許可が出せるような話じゃなかった。「料理を作るだけの間で構いませんから……」「しかし、駄目だ。 確かに離宮を使う人は少ないが、少なからず居るし迷惑にもなる……何より、料理人を追い出すのは可哀そうだ」「お、お願いです、少しだけっ! 一刀様の為なんです」「だから、言っているだろう。 茶を一杯楽しんでいる間に終わらせておいてやる。 段珪ーーーーっ!」「ええっっ!?」割とあっさりと劉協の説得に成功した一行は、段珪の苦慮の結果、二時間ほど貸し切ることに成功すると与えられた時間を最大限有効に使おうと、昼食を兼ねた調理に汗を流した。その中には、劉協の姿も混じって見られた。厨房から生まれる香ばしい匂いに釣られてか、桃香と鈴々も顔を出し練兵場から戻った愛紗も、厨房から運び出される料理の数々を見て後を追う事になった。その日の昼食は、一刀を除く離宮に住まう者達で、和気あいあいと取ることになったのである。ちなみに、その夜に開かれた音々音、朱里、雛里、劉協で開かれた“らしさ”の追求は愛紗が現れたことにより、酷く中途パンパな形で有耶無耶な終わりを迎えた、らしい。―――そうして、思い立ってから早くも3日。遂に時は熟した。真心作戦の最終段階は、一刀が離宮へ顔を出すことによって完了するのだ。途中から隠しきれなくなった、離宮一の権力者である劉協を仲間に加えた彼女達は数日の―――主に料理に興味を抱いた愛紗を中心に繰り広げられていた―――地獄の特訓を乗り越えて出来あがった至高の一品、その名も劉協様特別杯。どこかの競馬レースのような名を付けられたその一品は、あくまでも素朴で心を打つような素材で作られている。愛紗の天文学的失敗から偶然生みだされた謎の残骸、その有効利用法を思いついた雛里の手により未知のペーストを下地にしたスープを中心に組み立てられ、朱里の閃きから酒を少々混ぜて美味しさを引き出すことに成功すると音々音が試しに入れてみた芋が、風味と甘みを醸し出すことに気が付いて採用される。劉協の一声で集められた、最高級の素朴な素材がふんだんに使われたこの料理。まさに、劉協の離宮に住む者が総力を挙げて作り出した至高の一品となって試食係に抜擢された鈴々や恋にも太鼓判を押されている。確かな自信と確信を持った、この劉協様特別杯が完成したその日。一刀が離宮に戻る予定があることを聞きつけたのだ。今、朱里と雛里、音々音の三人は熱々のスープを提供するために厨房で鍋をかきまわしている。この料理は、熱い方が美味しいのだ。「……やっと、やっと来たんだね」「正直、ねねはこの料理が完成に至る前に、死ぬかと思ったのです……」「え、何のことねねちゃん、私覚えてないよ」「朱里殿、現実逃避したくなる気持ちは分かりますが、あれは現実のことなのですぞ……」そこまで言い切った時、廊下から響くようにくしゃみの声が聞こえてきた。三人共に顔を見合わせて、クスリと笑う。「もう、朱里ちゃんもねねちゃんもひどいよぉ」「くくっ、そうですな。 愛紗殿が居なければ、劉協様特別杯も出来なかったですから」「あはははっ、本当だね」考えてみれば、この料理は離宮の全員の協力があって出来あがっている。最初の発想はちょっと、不純だったのかも知れないが、確かに全員の真心が入っているような気がした。段珪が厨房を手配してくれて、劉協が素材を提供してくれた。愛紗が作り出した料理の残滓が元となり、桃香がその直撃を受けて倒れると三人で力を合わせて改良を重ねていく。鈴々と恋には、まだ美味しいと呼べる前の物もしっかりと食して評され。きっと誰が抜けても完成に至らなかっただろう、この料理は自信を持って一刀に贈ることができる。「速く、こないかな」「うん」大きい鍋で作っているこの料理は、かきまわすのも大変だ。三人で交代しながらかき混ぜ棒を奮い、一刀が戻って来るのを待っていた。―――手に竹簡を抱えながら、仮眠をする為に一刀は離宮へと向かっていた。今日、何進と蹇碩が予てから進めていた新兵の演習、これを兵5000でもって洛陽の郊外へ飛び出していった。それらを見送った後、ここ最近やたらと懐かれている趙忠と汚職を繰り返していることが確定した宦官への対応を話し合い西園三軍絡みから、袁紹と顔を合わせて今に至る。帝が倒れて早くも10日。あの衝撃の日から徐々に落ち着きを取り戻しつつある宮内をぐるりと一つ見回す。その間、顕著に感じるのは自分に向かう風当たりの変化だ。張譲が自分の私財を吐き出した一件から、官僚や宦官の間には強い戸惑いが見受けられた。切っ掛けの一つに過ぎないのかもしれないが、張譲の影響力を確かに感じる出来ごとだった。息つく間もなく忙殺された一刀でも感じ取れたのだ。宦官筆頭の十常侍、張譲の名は伊達ではないと言う事だろう。もうすっかり帳の降りた夜空を見上げて、今日は雲がなく晴れているのに、いつもより暗いことに気が付く。きっと新月なのだろう。ゆっくりと離宮に向かいながら一刀は歩く。恒例となってしまった、脳内との会議を繰り広げながら。『そういえば、聞こえてた?』「なに?」『何が?』『何進さんが天代の名で募った数が、八千人を超えてたらしいよ』『え、あれで全部じゃなかったのか?』『演習で行くのはあれで全部なんだって』『誰が言ってた?』『分からない。 何進さんの近くに居た人だと思うけど』『へぇ……』『俺が気付いたことはようやく流れた噂くらいかなぁ』『『『 ま た 噂 か 』』』「どんなの?」『天代は不眠不休で10日以上働ける』『『あぁ……まぁ予想の範囲内か』』『だな』『事実だしね』この噂はむしろ、出るのが遅かったくらいだった。それだけ、帝の意識が無くなったことに衝撃を受けていたのかもしれないが。聞けば、戦の最中も快方に向かった帝を盛大に祝う宴が開かれていたらしい。黄巾党と必死に戦っていた一刀からすれば、ちょっとそれはどうなんだ、と思わないでも無かったがそれほど、この宮内……いや、漢王朝にとって帝の存在は大きいものなのかも知れないと、最近では思うようになっている。実際のところ、脳内の一刀達がフル回転で回っている現状の中で、この噂が出ることは分かっていたし余り気にするようなことでもないと結論が出ている。それよりも、何よりも。『いい加減、落ちついて欲しいけどな』『確かに』「……うん」『疲れた……』ちょくちょく顔を出しているとはいえ、長くて1時間居るかどうか。今こうして離宮に戻るのも久しぶりだ。劉宏様が倒れる前と後で、これほど忙しくなることは予想もしていなかった。本体はもとより、脳内の一刀達も疲れているのは否めなかった。「あ、一刀殿ー!」「ん、ああ、ねね……」離宮の入り口で手を上げて迎える音々音に、片手を挙げて返す。こちらへ向かってくると思ったが、何故か踵を返して離宮の中へと戻って行った。その行動を怪訝に思いつつ、音々音の入って行った扉を開くと、鼻の奥を付く良い匂いが漂ってきた。いつか何処かで嗅いだ覚えのある匂いだった。「うん……?」「一刀様、おかえりなさい!」「あの、お食事出来てます!」「あ、ああ、ただいま朱里、雛里……」パタパタと走ってきて、興奮した様子で迎え入れられた一刀は戸惑いながらも答えを返す。恐らく、朱里と雛里を呼びに行ったことで若干遅れてやってきた音々音の姿を認めて一刀は頬をかきながらはにかんだ。「一刀殿、おかえりなのです」「ああ、ただいま、ねね……ああ、それで、食事だけど俺はいらないから食べちゃってて良いよ」「なんですとー!」「ええっ!?」「いや、その、さっき食べたばっかりで……」一刀と同じように、笑みを浮かべながら迎えてくれた音々音の大声に驚くと共に何かまずいことを言ってしまっただろうかと、一刀は動揺した。ふと見れば、朱里や雛里も目を見開いて一刀に視線を突き刺している。一歩、朱里の足が後ろに下がった。追随して雛里も同じように。かと思えば、ぐらりと身体がよろめいて 「ああ……」 などと呻きながら一刀から離れていく。その一部始終を見送った一刀をよそに、朱里と雛里は、やや離れた音々音の側によってひそりひそりと隠れて話し始めた。「ままま、まずいですよ……外で食べてくるかもしれないと言う根本的な問題を忘れて……」「ううう、うん、確かに、というか気付こうよ、私達軍師なのに」「ししし、仕方ないのです、殆ど料理を完成させることだけしか頭になかったのですから」一刀が戻って1分と立たずに崩壊の危機を迎えた真心作戦。半ば完成が見えていただけに、一刀の料理いらないよ発言は大きなダメージを彼女達に与えていた。彼女達が輪を作って慌てふためいているのを見ていた一刀は、しばらく放っておくかと結論づける。なんだか下手に触ると危険なような気もしたので、少し迂回する形で歩き出した。朱里たちの輪を追い越すと、厨房から顔だけを出した劉協が声をかけてきた。「一刀」「ああ、劉協様、ただいま」「おかえり。 それより、食事をいらないというのは本当か?」「うん、袁紹さんのところで食べてきちゃったんだ」「そうか……それは、残念だが仕方ないな」「ああ、もしかして劉協様……って、まさか、これ?」自然、話しながら厨房に近付く形になった一刀は、おそらく匂いの元だろう鍋に気が付いた。中身を除けば、離宮に入った直後、どこかで嗅いだ覚えがあると感じた理由がハッキリする。「……豚汁だ」「……一刀、今なんと言った」「豚汁だよ! まさか此処で豚汁を見ることが出来るなんて!」「と、豚……だと……」些か興奮した様子で豚の汁と連呼する一刀。劉協様特別杯=豚の汁と称されて、劉協は大いなる衝撃に一言漏らすのが精いっぱいだった。一方で、この世界で豚汁を見ることになるとは思わなかった一刀は、腹が一杯であることを差し引いても一杯、貰おうかという気になり始めていた。隣に積まれているお椀を一つ手に取って、鍋におたまの様な形をした物を突っ込んだところで精神的ショックから回復した音々音達が迎えた時と同じようにパタパタと走って来る。その顔は、やたらと紅潮していた。「あの、か、一刀様!」「その……えと……」「も、もしもお腹が一杯なら……べ、別の物をた、食べるのは」「え?」何がどういう経緯を辿ってその結論に落ち着いたのか分からないがあの三人の輪の中で真心作戦の失敗を知った彼女達が導きだした答えは、これだった。ただ、不幸なことに彼女達の作戦の転換ぶりに、一体何を言っているのか一刀は分理解できなかった。余りにもそわそわして落ち着かない彼女達は、目線も一刀に会っておらず中空を彷徨っている。ふと劉協の方を見てみれば、卓に突っ伏すようにして手を拱いており、一刀の第6感から第8感が触るなと告げていた。『あれは、危険だ』『うん、なんか分からないけど、ヤバい感じがするね』『触らない方がいいな』「えーっと……とりあえず、ねね―――」「はっ! わ、ね、ねねですか!?」「え? いや、その……朱里、これは一体―――」「はわわわっ、わ、私もですかっ! あのその、はいっ!」「あー……雛里?」「あわわわ、あわわわ、あわわ」一刀はもう、何が何だか分からなかった。劉協に尋ねるのは危険だと言われ、仕方なく音々音達に物を尋ねようとすればテンパった答えが返って来るだけ。どうしようも無いので、お椀に豚汁を注いでいると、声を合わせて飛んできた。「「「 ど、どうぞ! 」」」「……いただきます?」「ッ―――!」三者三様に、一刀の宣言に目をつむり、身をすくませて身構えた。そんな三人を一瞥して、一刀は首を捻りながらも速く豚汁を食べたい一心でその横を華麗に通過する。コトリと置いたお椀の音が、やたらと静まり返った厨房に大きく響いた。その音を切っ掛けに、音々音と朱里、雛里の目が僅かに開いて顔を見合わせる。なんだか妙な雰囲気の中、一刀は全てを無視して豚汁を食べる事に集中し、一つ掬いあげて口に放り込んだ。「お、うまい」素直に感想が口から滑り出た。なんだか女として重大な勝負を透かされた形になったものの、その一言は苦心して作り上げた物だけに嬉しい一言だった。互いに顔を見合わせて、やや冷静になると自分達も豚汁をよそって一刀の座る卓に腰を下ろす。危険な雰囲気が遠のいたことを肌で実感した一刀は、一つ安堵の息を吐くと音々音に顔を向けて尋ねた。「でも、良くこんな物を作れたね」「ふふ、これはねね達の自信作なのですぞ」「名付けて、劉協様特―――」「豚汁!」朱里が得意げに声をあげようとしたその刹那。別の卓に突っ伏していた劉協の両手が翻って卓を強打し、大きな音を響かせた。当然、突然の出来ごとに劉協へと視線が集まる。「豚汁だそうだ、なぁ一刀……」「あ、ああ……これはその、俺の居た世界にもある料理で、豚汁っていうんだ……」「ふふふ、だ、そうだぞ」「はわわ……」「あわわ……」やたわ低い声で乾いた笑いを放ちつつ、彼女は席を立って自らも豚汁を一杯注ぐ。何故、劉協が引き攣った笑みを浮かべていたのか、その原因に辿りついた雛里はじとりと汗を滲ませた。まだ事態の把握が出来ていない一刀は、つつっと音々音の耳元に口を寄せて尋ねた。「なぁ……これ、なんて名付けたんだ?」「……劉協様特別杯と、名付けたのです……」「なんでそんな名前を?」「それはその、劉協様のおかげで厨房を借りて作ることが出来たから……」理解に至った瞬間、一刀は肩を震わすのをあきらめたように、咽返りながら笑い声を挙げた。確かに一刀以外に豚汁だと知る者は居ないだろうし、作る過程も違っているのかもしれない。ただ、その擦違いが妙におかしくて、一刀はここ最近で一番ツボにはまって爆笑した。何が可笑しいのか! と割と真面目に怒っている劉協に両手を挙げて降参するように手を振る一刀は散々笑い飛ばした。陰鬱とした気分や考え、身体の底に淀んでいた疲労感も吹き飛んでいくように感じて。ようやく落ち着いた頃、随分と煮込んでいたのだろう。未だに冷めぬ豚汁を食べながら一つ漏らした。それはもう隠す事なく一刀の本心であった。「ああ、暖かいよ、本当に」全てが予定通りとはいかなかったが、しかし。彼女達の想いを乗せた真心作戦は、確かに一刀に届いて成功したのかも知れない。 ■ 二日無し深夜。月の出ていない夜は、酷く暗かった。器に灯る蝋の火だけが、人に空間を認識させている。そして今。見えない月を見上げるように、窓の外を眺める宦官の一人が帝の元に詰めていた。「うう……」短い呻き声が室内に響く。その声に、宦官は驚くように帝の元に駆け寄った。「み……水を……」「おおっ……劉宏様」言われ、宦官は慌てて水を用意して差し出した。覚束ない動きで器を手に取り、僅かに起こした身体を宦官に支えられながら水を飲み込んでいく。力が入らないのか。飲んでいる最中に器ごと水をこぼし、それすら気付いていない様子で重い身体を転がした。そんな劉宏のかすれた声が、宦官の耳朶をもう一度打つ。「か、一刀を呼んでくれ……」「はっ」言われて宦官は急いで部屋の出口へと向かうと、一直線に隣の部屋へ駆け込む。室内を見回して誰が居て誰が居ないのかをしっかりと確認し、そして口を開いた。「劉宏様の意識が戻りました、張譲様」「起きられたか」「はい。 しかし、正直言いまして私の感じたところでは……その……」「よい、天医の華佗も言っておった。 次に倒れれば劉宏様はもう長くは無いだろうと。 このまま崩御なさる可能性もあったのだろう」「は……それと、帝が天代を呼べと言われております」「うん……? 呼ぶのか?」問われた宦官は、張譲の自然な尋ねに唾を飲んだ。別に威圧した訳ではない、凄んだ訳でもない。ただ淡々と、呼ぶのかどうかを問われただけだ。ただ一つ、張譲の手の中で転がった宝玉の音だけが、その会話の中で異質だった。「いや……その……」「なに、呼んでも私はいっこうに構わんが……」そこで言葉を切って、張譲はようやく立ち上がった。続く言葉はなく、帝の元に向かっただろう張譲を見送った宦官は大きく息を吐き出してじんわりと染み出た脂汗を布で拭き取った。僅か20歩。その距離が、帝の寝室までの距離であった。器に載せて運ぶ蝋の火を抱え、張譲は静かに扉を開けて中に入る。「おお……張譲か……」「意識が戻られまして、何よりです、劉宏様」「張譲……一刀を呼んでくれたか……」その声には答えず、身じろいで寝転がる劉宏に静かに近寄ると張譲は短く首を振った。時は、来たのだろう。顔色を伺えば、うすら寒さを覚えるほどに青白い。ここから快方に向かうのかどうか、医者ではない張譲には分からなかったがそれはもうどちらでも良かった。仮に、帝である劉宏がこれから立ち上がろうとも手遅れなのだ。どちらの意味でも。だからこそ、もう迷うことなく手を打つだけになった。天の御使いを名乗った北郷一刀が現れてから、時間は随分と立つ。その間、ずっと動向を伺って来た張譲は今、この瞬間に腹を決めたのだろう。「劉宏様、天代はお呼びしません……いえ、できません」「……張、譲?」「劉宏様、お覚悟をしてお聞きください」無表情を貼り付けた張譲を見やり、劉宏は幽鬼を彼に見た気がした。しばし呆然と見上げ、口を開く張譲の言葉に耳を傾けるだけであった劉宏はやがてその身体を震わせ、顔を歪め始めた。それは身体を蝕む病だけが原因では無かったのだろう。険しい顔で眉間に皺を寄せて、張譲の一言が胸を突き刺すようにかき抱いた。「劉宏様、これを見てくださいませ」「おお……おおお、こ、これは……」やがて言葉を区切り、張譲は懐から上質な巾着に入れられた木で造られた拳大の物を取りだした。それは、劉宏その側から消えて久しい物であった。良く見れば気がついただろうソレは、暗さのせいかハッキリと劉宏に認識することは出来なかった。ただ、分かる。そう遠くない過去に自分が使っていた物であるからだ。「それは……まさか、玉璽か……っ!」「はい、その通りでございます」「ば、馬鹿な……そんな筈が無い……こんなことは」「これが現実でございます」「し、しかし……!」「劉宏様……天に二日は無いのです」「……おぉ……」短く呻いて顔を伏した劉宏を一瞥し限界かと悟ると、張譲は一つ断りを入れて一度退室した。側に控える宦官に向かって趙忠を呼ぶよう声をかけ、ついでに先ほど張譲を呼びに来た宦官を見つけて帝の側に付けると自身も劉宏の側に控え夜を明かすことにした。陽が出るまでの間、張譲の掌で休むことなく宝玉が転がり続けていた。明けて翌日。帝の快方を知った一刀と劉協は、朝の一番に駆けつけた。当然のように帝の伏せる部屋へ入ろうと、手をかけたところで宦官の一人に止められる。咄嗟に手をかけられて、入ることを邪魔された一刀は訝しげに宦官を見て口を開いた。「……なんですか?」「どうした」「いえ、その、天代様……劉協様も。 今は入らないで欲しいのです」「何故だ、父に会いに行ってはいけないのか」「いや、その……劉宏様が会いたくないと……」『“会いたくない”?』その宦官から出た言葉に反応を返したのは、一刀の脳内が一番早かった。劉協が食ってかかるのを見ながら、一刀はわずかに扉から離れて脳内へと尋ねた。どうしたのか、と。『“白の”?』『ああ、いや……なんか引っ掛かって……』『うん、嫌がらせにしては直球すぎるね』確かに、目覚めたばかりである劉宏へ多くの人に合わせることは躊躇いがあるだろう。しかし、自分はとにかくとして実の娘である劉協も入室を断るとは、些か神経質なのではと思わずに居られない。医者から断られるのならば納得できるかも知れないが。こう言っては権威を振りかざすようで嫌ではあるが、実際のところ身の回りを世話するだけの宦官に天代である一刀を押し止める力は無い。まぁ、例えそう思っても、一刀が無理やりに入ることは無いのだが。「……あの、俺はともかく、劉協様だけでも入れないかな」そう一刀が口を開いたときだった。帝の居られる部屋の扉が開いて、中から張譲が顔を出す。押し問答を繰り広げていた―――若干、青い顔をした―――宦官と劉協も、同じように視線を向ける。自分達を見回して、張譲はとつぜんに頭を下げた。「これは……劉協様。 そして天代様、どうかなされたか」「意識が戻ったと聞いて予定を投げて来たのです。 父に会わせてください」「この方が、帝が我々に会いたくないと」「いえ、それはその……」一刀達の言い分を聞いて、チラリと宦官に顔を向けた張譲の視線を受けて口ごもる。それらを無視して、張譲は溜息のようなものを吐き出しながら説明した。なんでも、意識は戻ったものの、容態は余り良くないらしく、食欲も無いそうである。何より、10日近くも昏倒していたために痩せ細り、力が出ないらしい。起き上がることも難しく、身体を起こすだけでも精一杯。「今は出来るだけ、そっと安静にしておいた方が良いでしょう」「つまり、会って話すことも出来ないと?」「いかにも、出来れば心身に負担になるような話も避けて戴きたい……我々宦官の者も、折りを見て退室し医者だけを残すつもりです」ゆっくりと頷いて言う張譲の目には、何を言っても中には入れさせないという決意が見え隠れした。劉宏の様子を実際にみた訳ではないが、意識を取り戻しただけで未だに予断の許さない状況が続いているかも知れないと一刀に限らず劉協にも思わせた。しばし、張譲を真っ直ぐに見つめていた劉協であったが、やがてかぶりを振って息を吐く。ここで意地を張って父と会っても、危険性の方が高いのならば会わないほうが良い。そう考えての事だった。「……分かった、一刀、出直そう」「……天医殿とは、連絡がつきましたか」「いえ、残念ながら……」「そうですか……申し訳ありませんが劉協様、天代様、今日のところはお引取り下さい」「……はい、また、来ます」一刀は軽く張譲へと会釈し、劉協は振り返らずに踵を返す。しばし無言で歩き、出口へ向かうところで人影が見えた。この場所に訪れることが出来るのは限られた者達だけだ。一刀も何度かその顔を見たことがあり、ここ最近ではその人物の周囲の人々とも関わりを持っている。劉弁であった。最後に見た時よりもやや長く伸びた黒い髪を、後ろで一つにまとめて少しだけ太った顔を覗かせていた。長いコートのような外套―――夏なので、もちろん袖は短いが―――を掛けて、控えめに見ても派手と言えるいでたちであった。その劉弁に一早く気がついた一刀は、そっと劉協の肩に手を置いて指し示す。「あ……弁兄様」「ん、協? 父のところに向かっていたのか?」「はい……残念ながら会うことは出来ませんでしたが」「ふうん、じゃあ僕も行っても無駄かな」「弁兄様も?」尋ねた劉協にコクリと頷き、どうしようかと考え込む劉弁に周りの者から戻るように促されていた。一刀自身、周りに流されることが多い為に言える事では無いかもしれないが劉弁には自主性が欠けているように見える。誰かの指示を待っているような、そんな素振りが行動から見え隠れするのだ。一方で劉協は、挨拶を交わして去っていく劉弁の背中を見えなくなるまで追っていた。恐らく、久しぶりの邂逅になったはずの二人の関係は、傍目から見ても淡白な様子に映る。それは、劉弁のせいなのか、それとも。どちらにしろ、この件に関して口を出すのは控えるべきだろう。家族の問題でもあり、立場の問題でもある。「……一刀、行こうか」一刀は答えなかった。ただ、歩き出した劉協の背を追って、口に出たのは気を取り直すように吐き出した息だけであった。いつか笑い会って家族で過ごす日を、彼女は迎えられるだろうか。それを可能にするのは、もしかしたら自分だけなのかも知れない。そう思うのは、自惚れだろうか。「……頑張ろう」ついて出た言葉は、たった一つ単語だけ。前を歩く劉協にも聞こえないような、小さな呟きだった。外に出た途端、真夏を迎えた洛陽に強い陽射しが差し込んでくる。虫達の特徴的な声が、宮内に響いて。言葉をかわすこともなく、一刀と劉協は離宮へと戻っていった。夏を迎えた洛陽の、虫達の声が強く響く朝の頃であった…… ■ 外史終了 ■