■ 泥に塗れても「矢を持てぃ! 猪のように突っ込む奴らの鼻を潰してやれ!」「弓隊のみなさんへ矢筒を全て渡してくださーい!」黄蓋、張勲の両将軍の声が響く。猛攻を抑える為の大事な初手。劉表、袁術の部隊は兵を幾つかの隊に分けて、弓兵に矢が行き届くように矢筒を持たせて回らせた。人が乗り越えるには難しい高さにある柵の上で、弓兵は静かに矢を番えて構える。この初撃で相手の数を減らすために、余った土砂を用いて積み重ね無い筈の足場を作り上げている。一人でも多く、弓を射ることができるように。「一刀殿、そろそろ下がるのです」「分かった」「何処を狙っても相手には当たる! 弓を射る事にだけ集中せよ!」「今でーす! 射って下さいー!」「黄蓋隊、斉射三連! 3秒の間隔で敵を射よ!」音々音に促されて、陣の奥へと戻り始めた一刀の耳に空を切り裂く金きり音が無数に響いて、矢は天を埋めた。この矢は、殆どが地に落ちることなく黄巾に突き刺さった。雄たけびの中、確かに人の悲鳴が轟いて、陣を襲う波は僅かに歪んだ。それらを無視して、一刀は滑り落ちるようにして地を踏むと、賈駆の下まで走って近づいた。「賈駆さん、どう?」「頑丈な物にしないといけないから、もう少しってところね」「そうか、ここは任せるから宜しく」「誰に言ってるのよ、任せて頂戴、天代様」二、三のやり取りを交わして一刀は音々音に顔を向けた。一刀の視線に力強く頷いて、音々音は兵を率いて駆け出す。そして、一刀もまた馬に跨ると待機している500の兵の下まで駆け込みながら指示の声を飛ばした。「敵の誘導を開始するのです! 装備を持ってねねに続くのですぞ!」「音々音の誘導に敵が食いついたら、修復の終わっていない箇所を塞ぎに行こう!」・雨は、本格的に降り始めていた。バケツをひっくり返したかのような豪雨になりつつある。とてつもない雨量であった。もし、これが東京のど真ん中で降り始めたら、交通機関が麻痺していて可笑しくない。一刀はそう心の中で思いながら、着込んだ鎧に蒸し暑さを感じて兜を脱いだ。雨の音にかき消されているせいか聞き取りづらい中でしっかりと聞こえる雄たけびと剣戟の音。その音が遠いのは、雨のせいだけではないだろう。「敵はしっかりと陣の硬い場所に誘導されたようだな……」『相手もその内気付くぞ、早く終わらせよう』「分かってる……皆! 木材を運ぶ人と修復をする工とで兵を分けるよ!」そう一刀が声を上げた時であった。近くに積み上げられていた土砂が雨によって崩れ、何人かの弓兵が落ち崩れた土砂に巻き込まれて何人かが埋まってしまう。勾配の影響か、上の方から流れ込む水は全て陣内へと入っていた。「箱を持ってきて、崩れた土砂はその中に! 巻き込まれた人は俺達が助ける! 皆は予定通り修復を急いでくれ!」一刀は下馬すると、駆け寄って様子を窺った。幸い、土砂崩れに巻き込まれた者は皆、顔は出ており生きているようだ。この時代、鉄のスコップなどある訳も無く、一刀は道具になりそうな物を探して周囲を見回した。青銅で作られた、恐らく壊れた鎧の一部だろう。それを見つけると手に持って土砂を掻き出し始める。「て、天代様、俺に構わなくても……」「だ、大丈夫です、これなら死にはしませんから」「御使い様! これを使ってください! 木の鍬ですが、それよりは丈夫ですよ!」「ありがとう!」鍬を持って掻き出し始めると、陣全体を揺るがすような轟音が響いた。門に、黄巾の一部が取り付いて打ち始めたのだろう。取り付かれるのは分かっていたが、余りにも早い。そう思っている間にも、二撃目が打ち込まれたのか衝撃が走り陣を揺らした。土砂が更に崩れ、一刀の頭上にも泥が降りかかる。先ほどまで、顔だけ出していた人が土砂に埋もれてその姿が完全に見えなくなってしまった。一刀は必死に手を動かして、泥を掻き出すと、やがて咳のような物が聞こえて顔を出す兵を見つけ出すことが出来た。結局、土砂に巻き込まれて助かった者は、一刀の見つけた一人だけであった。「工具を持って修復を行う! 修復を手伝えない人は資材を運ぶのを手伝ってください!」自らに言い聞かせるようにそう言うと、一刀は踵を返して資材置き場へと走った。「天代さん!」「袁紹さん!」その最中、木片の束のような物を馬に括りつけて走る袁紹、それに付き従う兵士達とすれ違う。つい先日まで、戦で少し汚れただけで自分の天幕へと戻って身を清めていた彼女が今は自慢の髪であろう金髪を茶に染め上げて居るのに驚く。馬を走らせて一刀へ近寄り、袁紹は口を開いた。「天幕を崩して、資材にしてしまおうと思ったのですけど、よろしいですわね?」「そうか、分かった、俺の天幕も撤去して防衛資材にして良いよ。 その指揮は―――」「わたくしがやりますわ!」「お願いするよ! よろしく!」「おーっほっほっほっほ、私に任せておきなさい……馬を!」袁紹の声に、兵の一人が反応して資材を運んでいた馬を引いて一刀へと轡を手渡した。ぶふぅっ、と一つ嘶いて一刀の横で立ち止まる。この雨の中で垂れ下がっているが、立派であろう鬣、そして長い尻尾は金色と言ってもいい。尾花栗毛という奴だろうか。この時代の馬にしては立派な体躯を持っている、顔も随分と利発そうだ。これに跨れば金色の鎧、金色の尾っぽを持った馬を持つことになるわけだ。まぁ、今は金ではなく泥に塗れて茶な訳だが。一刀が何かを言う暇も無く、兵は資材をその身で担ぐと、そのまま走り去っていく。思わず袁紹を見上げる。「総大将が馬無しでは格好がつきませんわ」「ありがとう、借りるね」「ふふ、差し上げますわよ」笑顔で答え、顔を上げて兵の先に立ち袁紹は去っていった。一刀は呆気に取られて思わずその場で立ち尽くした。しばし袁紹が去った後を見つめていたが隣で待ち呆けていた馬が顔を巡らして一刀の顔を小突く。確かに、今は袁紹の豹変に驚いている場合ではなかった。「そういえば、お前、貰っちゃったんだよな……」『今度名前でも付けてあげなよ』『そうだな』「そうだね……良し、急ごう!」馬に跨って、一刀は一つ手綱を奮うと一つ大きく嘶いて走り出した。・陣に取り付いてから約20分ほど経過しただろうか。見た目はボロボロであり、丸太で一つ突いてしまえば今にも崩れそうであるのに3度、4度衝撃を与えても破壊するどころか泥のついた丸太の円を刻むばかりで一向に崩れる様子は無かった。いかに修復をしたと言っても、これは異常であった。しかし、それでも手応えはある。一度衝くたびに、官軍の陣は悲鳴を上げてその建造物と大地を揺らすのだ。黄巾党の兵は士気が高い。決戦であることを触れ回り、豪勢な食事を振る舞い、兵糧が少ない事を暴露した甲斐があるという物だろう。ここを抜かねば飢え死ぬかも知れない。すなわち、官軍に敗れるかも知れない。優勢にここまで進めてきたのを、食糧難で敗北することなど黄天を目指して立った彼らにとっては、到底納得できるものではないのだ。だからこそ攻める。一心不乱に、限りなく、だ。「もう一度衝くぞ!」「官軍の陣を突き破るぞ!」「持てぇー! 持つのだっ!」意気を挙げて陣に押し寄せる黄巾の集団の中央で、俄かに動く黒い物。雨の荒野を駆け抜けて、30人は必要でありそうな重量の丸太を抱え上げる。それは、ゆっくりと加速しながら官軍の陣まで迫って行った。「槌を持つ奴らを重点的に狙う!」「しっかり狙えよ! 斉射ぁー!」官軍の陣から声が聞こえ、数多の矢が放たれる。天から大地の恵みである雨と共に、死を与える銀の矛が混じって彼らの頭上を脅かした。この丸太の槌を狙われることは流石に黄巾党も理解できる。そして、烈士の決意を持って立っている波才の言葉も、彼らは心に刻んでいた。「礎になるのだ!」「我らの作る、黄天の!」「怖くなど、ないぞぉっ!」「オォオォォオオォオォォ!」槌を運ぶ部隊を守るように、彼らは自らの体を盾に覆いかぶさった。身を低くして丸太を運ぶ部隊は、止まる事なく前進し遂に門へとぶち当たる。衝撃に丸太を持つ手は滑り何人かは下敷きになって押しつぶされた。その数人の死を持って、進むは僅か1センチか2センチか。しかし、確かに門の木片を砕き、門そのものを軋ませて陣への穴を広げていた。・「ええぃ、矢や岩を落とすだけでは奴らの勢いが止まらんな! 矢筒が足りぬし視界も悪い、ままならぬわ!」「黄蓋様! これを!」「足りぬ! もっと寄越せぃ!」「劉表さーん! こっちも無いので早くしてくださいー!」「無い袖は振れぬ! 岩を運ぶから代用してくれ!」「わらわの部隊が少し矢を持っておるのじゃ!」閂をかけた門、つまりはこの陣で最も大きな入り口である中央。最も攻勢の激しい場所には、勿論将も多く配置されている。賈駆、そして周瑜の指揮の下で黄蓋と張勲が弓矢を取って鼓舞している。劉表、袁術の部隊で矢と岩を運び出して、上に引き上げていた。劉表は言うに及ばず、袁術さえもその小柄な体躯を慌しく動かして矢を運んでいた。この場を守りきらねば、負けることが分かっているから。そして、孫策もここに居る。「賈駆ちゃん、どう?」「ちゃんはよしてよ……まだもう少しかかるわ。 大方は組みあがったけど、これじゃあ強度が足りないもの」「そう……」この時、孫策は自身の身体全身を包む嫌な予感を感じていた。それは、門に打ち込まれる衝撃だけが伝えるものではなかった。今まで、そして恐らくはこれからも自分を導くだろう直感。それが働いていたのだ。このままではまずいと。「やっぱり、私も母様のところへ行くわ!」「待て、雪蓮! 行っては駄目だ」「冥琳、やばい気がするのよっ」「……」周瑜は確信を持って言った孫策に、二の句を告げることは出来なかった。孫堅、文醜、華雄は陣の外……勿論、黄巾党の居ない方の洛陽側であるがそこで部隊を纏めて待機している。決戦ではあるが、相手が迂回しないとも限らない。その為の防波堤でもあり、そして相手を押し返す機が訪れた時の為の手札でもあった。周瑜は、作戦通りに動くべきだという軍師としての冷静な思考と共に過ごして知っている孫策の恐るべき勘との間で揺れ動き、判断に遅れたのだ。その合間に口を開いたのは賈駆だった。「孫策、焦れる気持ちも分かるけれど、動かないで。 もしも門を抜かれたら、貴女が食い止めなきゃいけないのよ」「分かってるわよ、でもそれじゃ多分まずい―――」瞬間、もう何度目かになるか分からない衝撃が陣内を走った。相手の攻勢が激しくなっているのか、それとも他の要因でこちらの攻撃が効果を発していないのか。だんだんと間隔が短くなってきているように思えた。今の一撃で、門にはわずかに穴が開いて、この戦が始まって初めて賈駆や孫策は黄巾党の姿を垣間見る。小さい、相手の顔を半分も覗けない程の小さな穴だが、確かに開いた。「賈駆ちゃん!」「駄目よ! 穴を塞ぎなさい! 開いた場所に板を持って走れ! 閂を支える木材を集めるのよ!」孫策を無視して、門の防衛に声を張り上げる賈駆を見てそして周瑜へと顔を向ける。激烈な視線に当てられ、周瑜はやや俯きながら首を振った。「雪蓮、我慢してくれ」「……分かった、分かったわ」「伝令!」「はっ!」「敵の攻勢が激しい。 門で防ぐには難しいゆえ、前へ出て押し返してくれと伝えよ」「はっ!」命令を受け取って馬で駆ける兵を見て、孫策はバツの悪そうに顔を背け息を吐いた。雨の音が、嫌に重く響いて聞こえた。暫くして、木柵の一部を取り払い、盛大な銅鑼の音を鳴り響かせて孫堅と文醜、華雄の三人が陣から飛び出したのだ。黄巾の悲鳴は数多に聞こえど、門への攻勢が緩む事はなかった。・巻き上がる土砂が全身に引っ付いていく。陣越しに、敵である黄巾が見えていた。修復の終わらぬうちに、数は少ない物の黄巾の部隊と鉢合わせたのだ。「槍兵は前に出て構えなさいな! 合図と同時に渾身の力で貫きなさい! よろしいですわね、袁家の兵に弱卒は居なくてよ! 見事です麗羽様……おーっほっほっほっほ!」もはや、泥のついていない場所を探す方が難しい状態で袁紹は大声を張り上げ剣を振り回しながら指示していた。横の田豊の言葉を、繰り返して、時にその事実を暴露しながら。高笑いで誤魔化してはいたが、どれだけ誤魔化せているかは謎だった。「敵が槍に腰が引けたら、土砂を崩してこの場所は塞ぐぞ、皆!」一刀も袁紹に負けぬよう、馬上で大声を張り上げた。合図が響いて、槍は一斉に陣の中から外へ飛び出した。敵の悲鳴が幾つも折り重なって、豪雨の音を掻き消す。「今だ! 土砂で塞げ!」「オォオオォオォォ!」号令に官軍の兵は即座に動き始めた。皆、それぞれに持った容器をひっくり返して土を積み重ねていく。先ほど土砂で崩れた場所から、木箱で運んだ物を数人がかりで持ち上げてドンドンと積み重ねる。「麗羽様、槍兵を戻してください。 土砂に埋まってしまいます」「槍兵は戻りなさいな! 土砂に埋まってしまいますわよ!」張り上げた声はしかし、遅かった。陣の前面で槍を突き出していた彼らの下に黄巾党の群れが襲いかかっていた。前の陣の外構は、黄巾の数に任せた突撃でへし折れて、せき止める事が出来なかった。「土砂で埋まった場所は捨てていい! 味方を助けるんだ!」見ていることは出来ずに、一刀は馬を飛び降りて今しがた埋めた泥の上を走って登ると黄巾と僅かな兵で戦う槍兵を認めた。槍を前に突き出しているので、懐には入られていないが時間の問題だ。「工具を持っている者は黄巾に投げつけろ! 他は兵を助けるんだ!」「二人一組であたりなさいな! 引き上げる者と、引き摺り落とされないよう守る者と! 田豊さん、それで後何を言えばいいんですの!?」「貴方達は土砂を運んできてください。 ここは完全に土で埋めて壁にしちゃいましょう」袁紹に指示を送るのがもどかしくなったか、田豊は自らの声で持って指示を出し兵の指揮を執り始めた。引き上げて救出できた槍兵の部隊は大よそ半分。這い上がろうとする黄巾には土砂を被せて、或いは引き上げた槍兵が突き殺しようやく壁を作りだした時だった。一際大きな……まるで耐えていた何かが折れるような轟音が陣内に響いたのは。・中央の門。それまで、黄の波を支え続けていた官軍の盾。崩れ落ちるように、限界まで耐え続けていた閂が完全に真っ二つに割れて門は大きな穴を開けて粉砕された。「―――抜いたぞ!」「抜かれた―――っ!」「私に続け! 門の前で押し留める!」叫びを上げて突撃する黄巾党に、孫策はその穴を塞ぐようにして剣を振り上げた。一撃で敵兵の数人が吹き飛び、腕や足を千切れ飛ばしていく。開かれた穴から飛び出してきた兵は、孫策と、彼女の率いる部隊に即座に屠られていった。死体が折り重なって、徐々に足場が悪くなっていく中で一人でも多く、それだけを胸に孫策は武を奮った。門は広い。彼女一人だけではとても支えきれないが、今はまだ味方の兵がこの場には多い。弧を描くようにして門を官軍で塞いで、その中央で孫策は吼えたのである。「この先を越えられるのならば越えてみよ! 我が武で押し返してくれる!」「も、桃色頭だっ!」「頭が桃色の女が居るぞ!」「桃頭っ!」「誰が桃色の頭かーっ!」そんな、決まりそうで決まらなかった名乗りをあげて孫策は突っ込んでいった。それを目にして、周瑜は声を張り上げた。如何に孫策が当千の将と言えども、この広い場所では抜かれるのも時間の問題だ。「賈駆殿、まだか!」「今出来たわよ! 劉表隊と袁術の隊はこいつを上に引き上げるわよ!」「オォオオォオオォ!」「黄蓋を戻して門の防衛に当たらせて! 矢は全て張勲の元に集めなさい!」「弧を崩すな! 槍を前に構え、敵を絞るように追い出してしまえ!」周瑜の、そして賈駆の鋭い声が響いた。賈駆は、指揮を周瑜に一任すると、自らの部隊に叫ぶ。この時の為に、今まで自分の部隊は戦に参加しなかったのだ。失敗は出来ない。「梯を架けよ! 全部よ!」「はっ!」「梯を架けるのだ!」「急げ! 敵は内部まで入っているのだぞ!」組み上げた梯子を、先ほどまで弓兵が居た場所にかけられた。幾つも幾つも、長い梯子が次々に兵の垣根を飛び越えて、門の上部に築き上げられていく。全ての梯子がかけられて、門から伸びるそれは異様な形態であった。「木板を!」短い指示に、梯子の幅とサイズをあわせた木の板を持つ兵たちが、一斉に門にかけられた梯子の上を登っていく。生半可な数ではない、200人を越えた者が、ただ一枚の木の板だけを持って駆け上がっていた。木の板を重ねて、梯子の穴を塞いだ事を確認すると大声をあげつつ待ち構えた部隊に身振りで指示した。「新たな門を運ぶ! 門運隊、前へ進めっ!」「オオォォオォオォオォオォオ!」下に、幾つもの木の車輪が付けられた、巨大で分厚い木の門が数多の兵に押されてゆっくりと動き出す。鈍重な音を響かせて、徐々に、徐々に前へと進んで行き、ついに梯を上り始めた。引っ張りあげる者と梯子を支える者、そして新たな門を押し運ぶ者が掛け声を上げつつ全力を尽くしている。そして、ようやく門の上に門が乗せられた。「縄を開いた穴にくくりつけろ!」「急げ! これ以上の侵入を許すな!」「オオオォォオォオォォォオォォ!」一際大きな雄たけびをあげ、全兵が括られた縄を引っ張って、門の上に門が立ち上がり始める。そこで初めて、黄巾党は陣から立ち上がる黒い影に気がついた。雨で滑って、或いは括られた場所が立ち上がる途中に重量で折れ、幾つかの縄は引き絞られた張力により暴れて官軍の者を巻き込んだ。賈駆のすぐ横にまで縄が襲い掛かり、地を跳ねて泥水が飛沫する。そして、ついに門は完全に立ち上がった。「落とせぇぇぇ!」それは誰の指示だったか。賈駆か、周瑜か、それともただの一兵卒か。それは分からないが、やるべき事だけはこの場に居る全員が知っていた。開け放たれた門の少し先へ。新たな門となる木の板は隙間に押し込まれて僅かに動くと重力に引かれて真っ直ぐに落下した。その渦中で武を奮っていた桃色の頭こと孫伯符、その頭上にも。「策殿ぉーっ!」陣に轟音がとどろいて、黄巾党、そして不幸にも侵入を防ぐために刃を交えていた官軍が押しつぶされる。人の血や内臓と、泥が入り混じった水が衝撃にしぶきをあげて周囲へと飛んでいく。「ごめん、助かった! ……って、袁術?」間一髪というところで、門に押し潰されそうだった彼女は襟首を持たれて引っ張られ陣内へと引き倒された。彼女が周囲を見渡して確認する限り、目の前に居る金髪の、子供といって差し支えない少女が助けてくれたようだ。「ありがとう―――」「え、袁術様ご無事ですかー!」「策殿、無事でしたかっ、良かった……袁術殿、礼を言うぞ!」「うう、た、助かったのじゃ、丁度孫策が居てよかった……」どうやら、新たな門を押し出す時のへし合いで兵に突き飛ばされ落下した袁術がたまたま孫策の真上に落ちてきたようである。その事実に気がついた孫策は笑わずに居られなかった。自分が助かったのは、落ちてきた袁術のおかげであり袁術が助かったのも、また孫策がこの場で武を奮い続けたからであった。堰が切れたかのように笑い続ける孫策を見て、黄蓋と袁術は顔を見合わせた。「狂ったのじゃ……」「桃色頭と、馬鹿にされすぎたのかのぅ……」笑いすぎたのか、腹を抱えて二人に向けて必死な笑顔を向けて首を振る孫策であった。・一進一退の攻防が、豪雨の中で繰り広げられていた。中央の門を突き破れば、それを塞ぐ新たな門が降ろされ陣の一部を崩壊させれば、官軍の槍兵と土砂に阻まれて侵入できそうで出来ない。数の差から、完全な後手になっているはずなのに、官軍に的確な応手を返されて後一歩のところで官軍の盾を粉砕することが出来なかった。後一歩。だからこそ、諦めきれずに黄巾党は官軍の陣へ執拗に攻勢を仕掛けていた。後一歩。その一歩を抜かせぬ為に、休む間も無く死力を尽くさねば押し潰されてしまうのが目に見えていた。決戦からどれくらいたったのだろうか。止まる事を忘れたように動き続けていた一刀は、荒い息を吐き出しながら戦場を見回した。時間の感覚は無い。だが、陽は確かに落ち始め、景色を赤く染めつつあった。もう少しだ。もう少しだけ耐えれば押し返せる。「みんな、あと少しだ、気合を入れよう!」「オオオォオォォオォオオー」一刀の檄に、近くに居た者から順々に声が返ってくる。その意気も、搾り出したかのような物で疲労が激しいのがよく分かった。朝から今まで、休息も取らず、食事も取らずだ。糞尿を垂れ流しながら防衛に当たっている者も多い。そして、一向に弱まらない豪雨が、ただでさえ苦しい戦の中で体力をこそぎ落としていく。「こっちはもう土砂で埋めてしまったから大丈夫かな?」『ああ、元々、敵の目もあまり向いていない』『他の場所に援護へ行こう』『中央の門は、新しい門で上手く防げているみたいだよ』「よし……ねねの援護に向かおう」中央の門、そして皇甫嵩と音々音が防衛に当たった脆く見えそうな場所。殆どの道具や資材は、そちらに回している。兵が一番多く、敵が多いのもそこである。今言ったように、一刀と袁紹で当たったこの場所は土砂で埋めてしまった。袁紹の兵だけ残せば、この場は十分に防衛できると判断したのだ。彼女に貰った馬で、一刀に付き従う兵と共に走ること数分。ようやく見え始めた皇甫嵩と音々音の部隊はしかし、その前曲がおおいに歪み撓んでいた。「て、敵に入り込まれそうなのかっ!」付き従う兵の言葉に、一刀は視界の悪い豪雨の中で目を凝らした。多くのバリケードで築き上げられた一部を破壊されて、陣内に確かに黄巾が広がりを見せつつあった。その広がる速度は遅い。しかし、元々の数が違う上に相手も決戦を挑んでいる以上、これが最後の勝負どころであるのが分かっているのだろう。反抗する官軍の声は聞こえず、気炎を上げる黄巾の雄たけびが響き渡っていた。「まずい! 急いで敵を陣から追い出すっ―――!?」一刀が声を上げると同時、一刀の真横を通り過ぎていく、人馬。ただの一人で駆け抜けていくその者の手には大刀。黒い髪を靡かせて、ただ一騎で官軍の前曲に飛び込んでいく。『春蘭―――!?』「夏候惇さん!? どうして!」「どけぇぇぇ!」気迫の篭った、怒声にも似た大声と共に大地へ打ち付けるように夏候惇の七星餓狼は唸りをあげて叩きつけられた。瞬間、宙を舞う黄巾の群れ。10.11人は居るだろうか。それらは吹き上がるようにして中空に浮かび、そして落下した。ただの一撃、ただの一振りで官軍、そして黄巾の兵はその動きを止めて原因となった彼女を見た。夏候惇は下馬し、武器を片手で肩に掛けてゆっくりと破壊された穴の前へと歩く。同時に、夏候惇から後ずさるようにして黄巾党はその輪を歪めた。圧倒的な武を、黄巾党の兵は初めてみる訳ではない。孫堅や孫策、文醜や華雄といった時代を代表する武将と今日まで激突しあってきた。しかし、この戦場で彼らの武は疲労から完全であるとは言えなかっただろう。防衛に継ぐ防衛、一日、一日と削られる気力と兵数。ただ、自らの武のみに気を配ることは出来なかった。それは黄巾とて同じことだ。今、一騎で駆けて強大な武を見せ付けた夏候惇に、彼らは新鮮さと共に恐怖を抱いたのである。そんな事態の中心に居た夏候惇は告げた。短く、一言で。「この陣に入れば屠る」「か、夏……あ、いや、元譲殿……」「まさか、援軍に来てくださったのか」「ふん、私一人ならば文句は無かろう!」これでどうだ、問題ないだろうが、と言いたげにそっぽを向きながら夏候惇は音々音と皇甫嵩へと答えた。それを隙と見たか、何人かの黄巾兵が勇を奮って夏候惇へと突撃した。危険を知らせる兵の声。 それに答えるように、低い声が周囲に響く。「越えたな?」瞬間、夏候惇の身体がぶれて、3つの首が舞い上がり泥を跳ね飛ばして地に落ちた。無駄の無い、ただ力任せに横へ一薙ぎしただけのそれが、死の暴風となっていた。「馬鹿め、隙など見せるか……どうした、越えてこないのか? 貴様らのせいで華琳様に名乗りを禁止されるわ、三日も閨禁止にされるわで頭に来ているのだ。 ほら、早く攻め掛かって来い、ほらっ、ほらっ!」「ぷっ、あははははっ!」武器を携えていない方の手で、挑発するかのようにクイックイッと手首を返す夏候惇。その様子を見て、一刀は笑ってしまった。何と心強いことか。この苦しい状況で攻めて来いなどと、誰が言えよう。笑いを堪えることなど無理だった。総大将である一刀の笑い声と夏候惇の不敵な態度に、官軍の兵は高揚した。この余裕、まだまだ官軍は負けていないと、はっきりと伝わったのである。その認識が誤解かどうかなど、この場では些細な問題であった。「敵を追い出すぞ!」「腑抜け共がっ、来ないなら私から行くぞ!」「わ、うわあああああっっ!!」二度の突撃を敢行する夏候惇と、そして意気高揚した官軍の圧力に黄巾はその士気を挫かれて、ついに陣の外へと押し出されてしまう。即座に皇甫嵩の部隊が資材を持って穴を埋め、防衛に成功した。「はーっはっはっはっはっは! 見たか! 私の武を! あー、くそっ、名乗りたい名乗りたい名乗りたい! しかし、華琳様を裏切るわけには……ええいっ! お前らのせいだ、覚悟しろ賊徒共がぁっ!」ついには陣の外まで一人で飛び出して暴れまわる夏候惇は、実に楽しそうであったという。この一事を持って、黄巾党はついに陣から離れ始めていく。貫くという意志の矛は、守るという決意の盾に敗れた。夕日が沈み、月が空へ浮かぶ時刻であった。・黄巾党の決戦の矛を交わした官軍は満身創痍であると言っていい状況であった。一万余で陣を支えた兵は言うに及ばず、将にも少なからずけが人が出ている。3万を越える大群と僅かな兵で陣の前に立って激突した二人の将。孫堅は右の腕を、文醜はわき腹を負傷して治療を行っている。特に、孫堅の右腕の状態は悪く、利き腕で武器を持つことも出来ないほどであるそうだ。孫堅の南海覇王がその手から毀れ、絶対的な危機を迎えてこれを助けたのは、華雄だったという。嫌な予感がすると言っていた孫策がそっと胸をなでおろしていたのが印象的だった。幸いと言っていいのだろうか。文醜の怪我は、そこまで深くは無く行動するのに支障は無い。それらの様子を窺ってから、一刀は音々音に用意された天幕に入り、椅子に腰を降ろした。自分の天幕は、袁紹の案によって防衛の資材として使ってしまったのでここしか一刀が休める場所が無かった。深く腰掛けて、天井を仰ぎ見る。誰も居ないせいか、天井の布を打つ雨の音だけがシンシンと響いていた。ふいに、一刀の体は震えた。寒いわけでも、雨に身体を打たれて冷えたからでもない。実を言うと、最近一刀はこの肉体の痙攣を戦の直後に何度も経験している。初陣でこれだけの戦を行っている本体を気遣うような声が脳裏に響く。『本体、少し休んでいるか?』『俺達が変わるよ?』(……いや、平気だよ)『そうか、無理はするなよ』(違うんだ……怖くないんだよ)『え?』(怖くないから、怖いんだ……)それは脳内の一刀達も知らなかった、本体の本心だ。もしかしたら、自分はこの戦争で心の何処かが壊れてしまったのではないかと思った。目の前で人が矢に倒れ、斬り裂かれ、血を流し、臓物を撒き散らしても怖くなどなかった。確かな殺意を持って群がる黄巾党の鬼のような形相を目の前にしても萎縮はしなかったのである。当然、何も感じない訳ではなかったが、それでも無感情に近い。人が、命を散らしているのに。そんな自分に気がついてしまったら、もう駄目だ。身体の震えを抑えることは出来なかった。(戦が始まってからずっとそうだった、ねねと出会った時は真剣を見たら足が竦んでいたのにな……)『……そう、だったんだ』『もしかして、俺達の影響か?』『ありうるかもね』華佗が診断した結果、意識体の数だけ一刀の中には気が存在していると言っていた。基本的に一人の人体に宿る気質は一つだけだとも。本体一人の中に北郷一刀の意識が10以上も詰め込まれているのだ。どこかしら、精神的な部分で干渉があっても可笑しくないように思えた。事実は分からない、だが可能性はありそうな話だ。カタン、という何かが落ちた音が響いて身体を起こす。どうやら、僅かな間ではあるが眠ってしまったようだった。身体の震えは止まっている。ぐるりと周囲を見回すと、腕にあたったせいだろうか。卓の上に置いてあった凸の置物が地に落ちていた。茫洋と見つめていると、入り口に人影を認めて一刀は視線を巡らした。「一刀殿、何進大将軍から伝令が参りましたぞ」「ねね……ああ、それでなんて?」「明日の朝には、だそうなのです」一刀は地に落ちた置物を拾い上げて、卓の上に置いた。もう隠す必要は無い。決戦を挑んで来た黄巾党、7日目である明日、戦乱を駆けた脳内の経験と軍師達の知恵。きっと、これで最後だ。「ねね、将を全員この天幕に集めてくれないかな?」「わかったのです」何進からの書を卓の上に置くと、音々音は踵を返して天幕から飛び出して行った。黄巾党の決戦はいなした。今度は、こちらが決戦を仕掛ける番だ。「疲れているだろうけど……」『これで最後になる、頑張ってもらうしかない』『そうだね、辛いだろうけど』『うん、兵士の皆には後もう少しだけ働いてもらおう』「最後にしよう」 ■ 虹に、手を突き上げて波才は黄巾党の本陣へと戻って来て、兵に休息を取らせると、明け方に最後の糧食を与えて備えさせた。決戦にあたり、多くの食事を与えたために全軍へ配給できる食事はこれが最後となる。しかし、悲観はしていなかった。陣を抜く事は出来なかったが、確かな手ごたえを感じていたからだ。もはや、官軍の盾は傷ついてボロボロだ。新たに落とされた中央の門には、驚き戸惑ってしまったがその後の攻勢で、新しい門も時間をかけずに抜くことが出来るくらいに消耗させている。夕日が差す頃には、弓矢も殆ど飛んでこなかった。せいぜい、真上から岩のような物を投げつけてくるだけで、注意していれば被害も少ない。如何に官軍の将が一騎当千の力を持つ者が4,5人居ようとも万の兵で押しつぶしてしまえば良いだけだ。初日ならばいざ知らず、ここで見敵してからもう7日も立つのだ。将であろうと人間。剣を振るえば疲れるし、鼓舞をすれば体力は減る。今日こそはきっと抜ける。何か、官軍にとって予想外の事が一つでも起きれば確実に。実際、波才の見立ては正しい。官軍が手をこまねいて、現状のままであればの話だが。昨日よりかは幾分、雨も上がってその量は弱い。今日は途中から晴れることだろう。徐々に、真っ暗闇であった世界が息づいていく。木々は緑を彩り、大地は黄をたたえて、そして雨が上がれば天が覗く。黄天の世が、確かに息を吐き出していくのを波才は感じた。声を張りあげる。「背水の陣と心得よ! これより、我らは前だけを見て進む!」戟を掲げる。「右翼と左翼も中央に集めて、正門を突き破るぞ! 伝令は走って伝えよ!」そして、馬を走らせた。「突撃せよ!」一丸となって波才率いる黄巾党の中央は突出するようにして陣へと突き進んだ。波才の命令が届けば、両翼も後に続いて、全軍で群がることだろう。今日抜けなければ飢え死ぬ。全員がそれを知っているのだ。これだけの条件を揃えれば満身創痍の官軍と、その盾を抜けないはずがない!確信を持って突き進む波才の視界に、官軍の陣が異様な動きをしているのが映ったのはその時だった。黄の旗がゆっくりと立ち上がり、官軍と当たって砂塵と泥を巻き上げていたのだ。よくよく耳を凝らせば、剣戟の音が馬蹄の響きに混ざってにわかに聞こえる。果たしてあれは何なのか。波才の隣を馬で走らせていた黄巾の兵が、叫びをあげた。「は、旗印は馬です! 波才様っ!」「まさか、馬元義か! はっは、生きていたのか! あいつめ!」「陣の後方から官軍を脅かしている模様です!」「はは、ハッハッハッハッハ! よぉぉし! 同志の援軍が来た! 皆、意気を上げて官軍を打ち抜くぞ!」思わぬ援軍を受けた事を知った黄巾党は、火の玉になって官軍の陣を目指して突き進んだ。―――「明日、俺は馬元義になります」 「ほう?」「天代様、それはいったいどういうことですか?」昨日、諸将を集めた一刀は全員が揃ったことを確認してから口を開いた。真意を掴みかねた皇甫嵩や劉表が眉を顰めて一刀に尋ねる。それに一刀は、自らの策を全員を見回しながら話していった。まず、陣の外で一刀の隊は馬元義の旗を掲げて、官軍と争う振りをする。それを見た波才は、間違いなく突っ込んでくるはずだ。抜きたくて溜まらない陣が、危機に陥っているのを目の当たりにし、援軍が来たと思い込むのだから。馬元義の死亡は、まだ噂に広がっていない。朝廷も、賊と内応していたことがバレるとまずい、ということで情報を規制しているからだ。波才が、馬元義の死を知る方法はなかったはずであり、一刀の流した欺瞞情報くらいしか手元に無い筈である。「どちらにしろ、もうこの陣は使い物になりません。 それならば、欲しがっている相手にくれてあげましょう」一部の者を除いて、周囲がざわめいた。それに構うことなく、一刀の言葉尻を引き継いで音々音が話始める。兵糧や資材を最低限運び出し、後は全て残して陣を放棄する。黄巾党が食料に難があるのは蜂起に至るまでの時間や決戦を仕掛けてきた時期他にもアニキ達の内応や官軍の斥候から割りと正確に把握していた。陣へ突き進むだろう黄巾党は、飢えを脳裏に過ぎらせて死に物狂いで突撃してくるだろう事は予測できた。手に入れた陣に、大量の食料があればどう思うだろうか。答えは簡単だろう。―――馬の黄旗が戦場に揚がる時、偽報を使って相手の混乱を促して欲しい。アニキ達が一刀に洛陽で頼まれたのは、これだけであった。諸葛亮と鳳統、軍師の暗殺などの依頼はむしろオマケに過ぎない。だからこそ、両翼にてアニキ、デク、チビの三人は常にそのタイミングを窺っていた。馬の旗はあがり、時は来た。唯一つ、予定に無いといえば黄巾の軍師としてこの地に立った少女が隣に居ることだろうか。羽扇を握り締めて、黄巾党の右翼で馬上に乗る孔明を見上げつつアニキは頬を掻いた。「なぁ、逃げた方が良かったんじゃあねぇか?」「いいんです、アニキさん。 最後の戦でも良いって、決めたんです」「そうかよ、まぁそれならいいんだが……死なないですむかも知れねぇのに、わっかんねぇなぁ」波才の出した諸葛亮と鳳統の殺害。横着して、ただの一兵にだけしか伝えなかったことが命取りだ。右翼、左翼の多くの兵士が、未だに孔明と士元の二人を黄巾の軍師だと勘違いしている。波才の意志が全黄巾党に広まっていれば、この場で羽扇を振る事など無かっただろう。アニキの言うように、逃げることくらいしか選択肢は無かったはず。「まぁとにかく、御使い様の作戦がやり易くなるってんなら文句はねぇ! 諸葛亮、頼んだ!」「はい!」孔明は一歩前に出ると、黄巾右翼へと命令を出した。木柵を越える素振りを見せて、陣へと突撃した本隊を援護すると。右翼が意気を上げて前進を始める直前、左翼も同じように動き出すのを確認する。鳳統と、そしてチビとデクが黄巾左翼に命を下したのだろう。「お、おい! 波才様の命令は中央への突撃だぞ! 何を勝手に兵を動かしておるのだ!」「あー、あんた、わりぃ! まさか波才様の伝令っすか!?」「そうだ! おい、すぐに兵を戻っげぇ!?」「邪魔なんだよっなっっと、ちょっと先に死んでてくれ」アニキを無視して孔明へと声を上げて迫った男の背後から、心の臓を突き刺す。当然、伝えられてはまずい内容なので口を封じる必要があるのだ。「後は御使い様次第、ですよね……」「ああ」―――陣からは酷く散漫な抵抗しか起きなかった。馬元義により裏手を攻められて、陣の防衛もままならないほど混乱しているのだろう。言葉の意味として伝わらない、叫び声のような物と喧しい程の銅鑼の音が波才の耳朶を打っていた。「今ならば門をぶち壊せるぞ!」「運べ! 丸太だ!」「オオオオオォォオォォォォォォォオオォオォ!」何度も陣の門へと攻勢を仕掛けたからか、その動きはかなり錬度の高い物となっていた。殆ど、障害もなく丸太は門へと確実に速度をつけて吸い込まれていく。一度だけ弓による斉射があったが、それだけだ。言い知れぬ高揚感が波才を、そして黄巾党全兵に伝わって広がるのが手に取るように分かる。抵抗らしい抵抗を受けず、ついに中央の門は大きく穴を広げて一気怒涛に陣内へ黄巾党がなだれ込んでいく。「勝った!」「勝ったぞぉおお!」「よぉーし! 官軍を蹂躙してしまえ!」雄たけびを上げる黄巾党。その様子に自身も興奮しながら波才はできるだけ冷静さを装って命を出し自らも陣内へと馬を走らせていった。誰かが言った。 食料があると。耐えること叶わぬと見て、官軍は陣を捨てたか。そう胸の内で勝利に酔っている波才はしかし、陣の中に入り周囲を見回すと酷い違和感を覚えた。「な、なんだ……あまりにも敵が少ないぞ」官軍の姿は、一応見える。全員、背を向けて一目散に陣の外……馬元義の旗を目指していた。一体どういうことなのか。そもそも、陣を捨てるのならば官軍が僅かにとはいえ兵を残す必要など―――「しまった! まさか、罠か! おい、全軍を停止させろ!」罠の可能性に気がついた波才であったが、その命令は最早遅すぎた。先の命令で、波才の後に続く黄巾の兵がドンドンと陣の中になだれ込んでいるのだ。必然、止まろうとする波才の周囲も人の波に押されて陣の奥へ、奥へと流されてしまう。必死に声をかけて制止を促す波才であったが、一度勢いづいた物は人の流れであろうとも容易には止まれない。ついに、彼は陣の中でも奥深い、兵糧がたんまりと残された場所にまで追いやられてしまった。「くっ! おい、その兵糧は無視してしまえ! 聞いているのか!」飢えて死ぬかもしれない。それを自身によって脳裏にこびりつけられていた黄巾党の兵は波才の制止があるにも関わらず一目散に兵糧へと群がり、そして――――――「せっかく捨てる陣ならば、それを有効に利用しない手はないわよね。 兵糧を誘導路にして、落とし穴を作って嵌めてあげましょう」「火が使えれば、捨て置く物資を燃やして恐怖を煽るのもいいかも知れませんね」賈駆はメガネを持ち上げながら、一刀と音々音の策を聞いてそう言った。周瑜も頷いて、賈駆の言葉に補足するように自らの案を重ねる。その為に、昨日は一刀が言ったように、疲れている中でも頑張ってもらわねばならなかった。5千の兵を選抜して、賈駆の指示によって誘導する道を作り、兵糧を積み上げ、穴を掘った。幸いであったのは、豪雨によって随分と掘削しやすい地面であったことだ。乾いていれば、それこそ全軍を挙げて掘らなければならなくなり今日、作戦を映す為の兵数が確保できなくなってしまう。劉協が胸を騒がしていた雨。それは間違いなく、官軍にとって利となる雨であったのだ。「何進大将軍が率いている5千の兵が戻ってきます。 疲れているでしょうが、5千の兵を割いて、この罠の準備を進めます」そして、『5千』の兵で事に当たったのは当然理由がある。その数は、今一刀が言ったように何進の率いる兵数と一緒だ。つまり――――――兵糧に手が届こうかとした時。突然に地面が揺らぎ、大量の人馬が落下して消えていった。馬に押しつぶされて圧死するもの、落下によって骨を折ったもの。無数の悲鳴が陣のあちらこちらから響いて聞こえてくる。黄巾党中央の部隊に多くの被害を齎した落とし穴は、ここだけでは無かったようである。人により押され続けた波才も、この穴に落ちて馬から放り出された。波才自身に怪我は無かったが、しかし。この落とし穴、ご丁寧に縁の部分が反り返っている。這い出るには時間がかかりそうであった。「落ちた賊を閉じ込める! 蓋をあげい! 味方の兵が身を削って作った死の穴から、逃れさすで無いぞ!」手を土に食い込ませ、人や馬を足蹴にしながら外を目指した波才であったがそれは徒労に終わる事になる。どこかで聞いた事のある男の叫びが聞こえたと思うと、穴を埋めるように四角い網状に組まれた木の蓋が、落とし穴を埋めるように覆いかぶさって来たのだ。その木に咄嗟に手をかけた波才は、その木を掴んで這い上がる事が困難であることを知る。掴んだ場所が、くるくると回転を始めて木の蓋にぶら下がり続けることすら難しい『からくり』が施されているのだ。「ぬぅぅ! あ、あれは、何進か!」波才は隙間から見える馬上の人間を見て、その名を呼んだ。一騎打ちを行った相手を見違うはずなど無い。自分の貫いた肩に、多くの布を宛がっていることから、断言できる。「お、おのれ!」「這い出ようとする者は槍で貫いてしまえ! 外に残る者は追い立てて滅せよ!」何進の大声に、5千の兵はキビキビと動き出す。隙間から降りかかってくる青銅の槍の嵐に、落とし穴に落ちて無事であった黄巾党の多くが貫かれ、果ててゆく。波才は慌てて身を隠し、死体や馬を盾にしながら落とし穴の中を移動した。地面が昨日の雨でぬかるんで、モタモタとしながら。彼は歯軋りをして悔しがった。罠にはめられた事は理解できるが、たとえ中央を抑えたところで黄巾党の両翼は万を越す軍勢が居る。陣を捨てたことは官軍の最後の悪あがきに違いない。その痛撃を、自らが受けることになるとは何と言う無様であろうか。「だが、ここを生き延びれば助かる! 両翼の味方が来るまで、生き延びれば!」垣間見える敵兵、必死に這い上がろうとする同志。その後ろで燃え盛る陣を見上げながら、波才は両翼の援軍の到着を待った。波才は分からぬことであったが、偽報によって木柵へと詰めている右翼から真紅の呂旗が揚がったのはその時であった……―――「敵を罠にはめるのは分かった。 しかし、残りの抑えはどうするのですか」劉表は得心するように陣を空けることに賛成した。だが、この陣の罠はとても黄巾党全体を収容するほどの規模ではない。あぶれ、漏れた敵が居るはずなのだ。中央、左翼、右翼、そのいずれかを罠に嵌める事が出来るかどうかといった所だろう。彼の言葉は最もであり、その対策も練ってある。音々音は凸の置石を一つ持って、敵の右翼の傍にそれを置きながら言った。「呂布を用意するのです」「呂布だと?」「丁原殿の援軍が来てくれたのか?」諸侯からの疑問に、音々音は首を振る。本当に間に合っていれば、それこそ良かったのだが残念なことに丁原軍は間に合わなかった。こちらへの援軍に向かってることは報告されているが、時間的に到着は難しい。と、なれば一足先に流布して黄巾党、そして官軍に衝撃を与えた呂布の武名だけを利用することにしたのだ。この策は音々音が主導で行っている。「真紅の呂旗は用意できているのです。 本来ならばこの旗を立て、孫堅殿に兵を率いてぶつかって貰おうとねねは思っていたのですが」チラリと孫堅の方を見る。その視線に彼女は気付き、肩を竦めた。右腕の怪我は酷く、片手で武器を振るえなくも無いが馬上では難しいだろう。「私がやるわ」それらの様子を孫堅の後ろで眺めていた孫策が、ずっと前に出てそう言った。呂布を騙ろうというのだ、武のある者で無ければ難しい。夏候惇と華雄は、残念ながらあまり良く分かっておらず名乗りを上げることは無かった。「母様の怪我の仇、とってきてあげるわよ」「ふっ、いいだろう。 任せたぞ雪蓮」「……呂布に化した孫策殿は、今から部隊を率いて外に待機しておくのです。 時期を見て、横撃を加えてください。 呂布の名が広まっている以上、相手は必ず混乱をするはずなのです」「相手がわざわざ人をかけて木柵を撤去してくれていた場所がありますので そこから一気に相手を押し上げて反包囲しましょう」音々音の言葉に頷く諸将に、田豊の声が重なった。陣の外から横撃を受けて混乱する黄巾党を、野戦で撃滅するというのだ。名が上げられたのは皇甫嵩、劉表、孫堅、周瑜、黄蓋、華雄、賈駆、顔良、文醜、張勲。官軍のほぼ全軍を上げて、木柵の外から飛び出して相手を押し上げるというものだった。「失敗すれば、我らの負けですな」「ふん、ここまでお膳立てされて失敗するようならば、負けて当然だ」「確かに」「曹操殿へ、連絡を送らなくてよろしいのか」一刀はその心配に、薄く笑った。そして、夏候惇へと声をかけたのである。「夏候惇さん、曹操さんの元へ戻り、横撃に出る準備を」―――銅鑼の音が、戦場に響き渡った。立ち上がるは真紅の旗。旗印は呂。突然の戦鼓と共に起き上がったそれを見て、自然に声は上がった。「呂、呂布だぁあぁー!」「呂布が来たぞ!」「か、官軍の援軍だ!」「行くわよ! 呂布の名で怯えを見せている敵など、恐れるに足らないわ! 今こそ勇を奮う時、進めぇー!」足並みの崩れた黄巾党右翼へ、孫策率いる『呂布軍』は突撃した。中には、孫策の姿に気がつき相手が呂布ではないことを知る者も居たがそれでも混乱広がる黄巾党の全軍の中でも僅かに過ぎなかった。見たことも聞いたことも無い呂布という武の噂は、確かに黄巾党全軍に伝播していたのである。「旗を揚げよ! 全ての苦労が報われる時が来たぞ!」真紅の呂旗が黄巾党右翼に突き刺さると同時に、黄巾党左翼へ向かう蒼旗があった。掲げられた旗印は曹。楔陣形で先頭を走る夏候惇は大剣を構えて突撃していた。そのやや後方、馬上にて鎌を持ち、天へと突き上げながら声を出す者。三国志でのぼる英雄の中で、最も大きく飛翔する龍が気炎を上げて突撃していた。曹操が自軍に響き渡る檄にて、鼓舞する。「ここに至るまでの強行軍を思い出しなさい! 全ての苦行はこの一戦の為! 声を出せ! 声を出せ! 声を出せ! 目の前の黄巾を、我が曹旗の下で全てなぎ払い、この乱を終わらせるっ!」「オオォオオォォォオォオォォォオォオォオオォオオォオオオオ!」「な、何だ奴らは!」「何処に隠れていたんだ!」曹操率いる2000の、まったく疲労を残さない、これが初めての戦となる新兵の突撃。夏候惇が開いた道へと雪崩れ込む曹軍は、新兵とは思えぬ働きを見せて黄巾党左翼を真一文字に切り裂いていく。仲間を置き去りにしなければならない程の強行軍。必死になって辿り着けば、戦争にはすぐ参加するなという始末であった。これでは置き去りにされた仲間が報われないではないか。そうした不満の矛先を、曹操は巧みに敵である黄巾党へと兵の思いを誘導してきた。この一撃のために、曹操軍の士気は天井知らずに揚がっていたのである。今、この時、この場所に置いては、ここにいるどこの官軍よりも精兵であるかもしれなかった。それこそ、呂布の名によって混乱に陥った右翼と変わらぬほどの混乱を見せ黄巾党はズタズタに引き裂かれたのである。「あれが、曹操……はははっ! 面白い! 血がたぎってきたぞ!」木柵の裏で、一部始終を目撃した孫堅は獰猛に笑い、皇甫嵩へと視線を向けた。早く私も行かせろ、そう言っているのが言葉にしなくても伝わってくるようであった。「銅鑼を鳴らせぇぇぇぇぇい!」それらを受けて、皇甫嵩は雄たけびを上げた。一喝のもと、皇甫嵩の部隊に居る兵が、木柵を支える一本の長大な軸を抜きさる。同時に、ゆっくりと加速して、200Mほどの木柵は大地へと倒れ伏したのである。号令が響き渡って、官軍の旗が揚がる。「混乱する敵を一気に屠るぞ!」言いながら、孫堅は怪我をしていない手で剣を振るい、馬を弓のように逸らせて矢のように走らせる。官軍全体が、混乱する黄巾党を押し上げ始めた。・止めとなったのは、本物の呂布……すなわち、丁原軍が援軍に間に合ったことだった。混乱しながらも、数に勝る黄巾党は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。その僅かに残る冷静さを吹き飛ばしたのは、丁原が先行して送り込んだ兵3000を率いる呂布本人であった。馬元義の旗の下に居る一刀は、その戦場が良く俯瞰して見れた。一番に陣へと飛び込んだ中央は、完全に制圧したと言ってもいい。数多の黄巾党は穴に落ち込み、ぬかるみに嵌り、這い出ようとした所に槍で突かれた。落ちなかった者も、陣全体に広がる炎によって恐慌していた為か何進が率いる疲労の無い部隊によって簡単に駆逐されていった。荒野では、アニキ達の偽報によって踊らされたことを敵が気付く前に孫策、曹操による強烈な横撃に完全に混乱を引き起こした。それまで、陣の防衛を行っていた官軍全軍による一気果敢の突撃。これを防げる手など、黄巾党は持ち合わせていなかった。殆ど半包囲での殲滅に等しかった野戦は、呂布の参入によって全方位となる。抵抗はだんだんと止み、それは官軍による一方的な蹂躙へと変化の兆しを見せていた。戦の趨勢は決まった。「わらわ達の勝ちなのじゃー!」「おーほっほっほっほっほっほ! おぉーほっほっほっほっほ! 大勝利ですわねっ!」一刀と同じ確信を抱いたのだろう。同じ場所に配置された袁紹と袁術が、ほぼ確実に手に入れた勝利に手をあげて喜んでいた。彼女達の役目は、馬元義に扮した一刀の部隊と遊戯のような剣戟を交え叫びをあげることであった。勿論、何か起きればそのまま後詰めとして働く役目も背負っている。勝った。それはきっと、疑いようの無い事実だ。一人の伝令らしき騎馬が、一刀の前に居る音々音の元へ走ってくる。恐らく、優勢を知らせる兵であろう。首を巡らして、一刀は空を見上げた。雨はまだ降っているが、とても弱く、すぐにでもやみそうであった。雲に隠れていた陽が、ついにその顔を出そうとして……「お、おい止まれ!」「何者だ貴様!」前の方で、突然数人の兵がざわめき声を上げた。異常な様子を感じ取って、一刀は視線を前に向ける。伝令だと思っていた、官軍の鎧を身に着けた騎馬は一直線にこちらへと向かっていた。一刀が視線を戻したとき、数メートル先まで迫っており守るように道を塞いだ音々音へと凶刃を向けていた。「陳宮様っ!」「ねねぇーーーーー!」一人の兵が覆いかぶさるようにして、馬上から陳宮を引き摺り落とすのと同時に騎馬兵の戟は彼らに突き刺さった。赤い血しぶきを上げて、倒れこむ様子が、一刀の目にしっかりと映り込む。どちらの血であるのか、一刀の位置からは判断できなかった。敵。伝令だと思っていた騎馬兵は、官軍の鎧を着込んだ黄巾の兵だった。勢いをそのままに、一刀へと迫る黄巾の男。誰もが、突然の凶行に身体が硬直し、驚きに動けぬ中で、男は鬼の形相で声をあげた。「総大将、天の御使いだな! 貴様だけは、貴様だけは連れて行くぞぉぉぉぉ!」「うわああ!」『本体っ! 貸せぇ!』突き入れられる戟。一刀の体はその瞬間ぶれて、左手の鎧の手甲で、その一撃目をいなした。手綱を引いて、馬の方向を御すると、勢いでぶつかってくる敵騎馬と身体をあわせる。一刀の乗る騎馬、そして敵の突っ込んできた騎馬の後ろの腿同士が激突しそれに反応して馬は加速を始めて走り始めた。馬上にて戟を握るは顔半分を火傷で失った波才。相手取るのは一刀―――“馬の”「うおおぉおおお!」「はぁああぁっ!」陣の中に飛び込んだ一刀と波才の戟が交わる。凪ぐように、突くように、そして払うように。形を何度も変えて激突する戟の応手。陣で指揮を奮っていた何進が、いの一番に気がついた。「あれは! いかん、誰かあの一騎打ちをやめさせよ!」その声は遅かった。一刀と波才の馬も馬上での激突に興奮しているのか。お互い、馬同士が睨み合うような形で併走し、どんどんと加速していた。「貴様が波才かっ!」“白の”が“馬の”を引き継いで戟を交えて問う叫びはしかし、波才の戟にて返って来た。その一撃、よほどの膂力が込められていたのか。一刀の戟を半ばで圧し折って、突き抜ける。腰に刺した二本の内一本の剣を引き抜いて、唸りを上げて差し迫る一撃を、顔の真横でギリギリ打ち弾いた。“白の”が出来たのはそこまでだった。一瞬、一刀の身体がだらりと力抜け、波才の振りかぶった頭上への一撃をかわす。次の瞬間には“呉の”が立ち上がり、刃を交えた。進む。進む。進み続ける馬はついに陣を飛び出して、官軍と黄巾が乱戦している荒野へと飛び出した。「天代様っ!」「波才様っ!」二人の一騎打ちは、終えることなく、小高い丘を登り始めていた。怒鳴るように言葉を交わす一刀と波才。一刀の元へ多くの将は向かおうとして、しかし距離から諦めざるを得なかった。それは、官軍の作戦の弊害でもあった。官軍の武将は完全に荒野の中央へと寄せており、陣の近くで矛を交わす一刀を知っても援護に行くには時間がかかりすぎる。「諸葛亮と鳳統は!」「殺してやったわっ!」「貴様がかぁーーー!」“無の”の一撃は波才の腕を突き刺していた。確かに突き刺し、血を噴出させているのにも関わらず、その腕を持って波才の一撃は一刀へと迫った。“董の”へと変わった一刀の元に、予想外の奇襲となって襲ったそれは受け止める事に成功するも、馬上から吹き飛ぶように落とされてしまう。それを見て、波才は自ら馬から飛び降りると、落ちた一刀の下へと走って大上段からの一撃を見舞う。瞬間―――衝撃。落馬したばかり、その隙を見逃さずに一撃を振るった波才は自らの頭に走った衝撃に何が起きたのか理解することはできなかった。落馬によって意識を失った“董の”に変わった“南の”が器用に戟を受け流し刀を軸に変則回し蹴りを、波才の頭部へと叩き込んでいたのだ。一刀と波才の打ち合いは、都合40を越えてなおも続いていた。いつの間にか、周囲に居る官軍も、黄巾党も、諸手を挙げて自身の総大将を鼓舞する。命を削る一撃が交じり合うたび、轟音となって周囲へ声を響かせていた。剣を引き抜いて、よろめく波才へ突き入れる。弾かれ、膂力で負けていた一刀の剣は空へ飛んだ。最後の一本を腰から引き抜いて構え、そして脳内の皆は意識を落とした。「貰ったぁッ!」それまで動き続けていた、その動きが止まったのを見て波才は地を蹴って戟を突き入れた。空気を切り裂いて、一刀の顔へと迫る。動きを止めた一刀は、その戟が確かに迫るのを見つめ波才は口角を吊り上げた。一刀は動かない―――脳裏に走る意志に頭を打たれていたから。春蘭が―――「そうなった時は前に出ろ、首を刎ねられるぞ北郷!」祭が―――「勇を欠けば、討ち取られる。 気持ちは前へ、じゃ」鈴々が―――「お兄ちゃん、鈴々は前に出るのだ! 運がよければ、怪我ですむのだ!」愛紗が―――「常に気持ちは前へ向ける。 一騎打ちで臆せば、相手に負ける前に自分に負けているのだと、そう思います」翠が―――「あたしなら、たとえ負ける戦いでも前のめりに倒れたい。 だから、そうなったとしたら前に出るぜ!」猪々子が―――「まぁー結局その辺は運なんだけどさー、あたいなら前に出る。 その方が燃えるじゃん!」美以が―――「猪のように前に出ると、案外助かるにゃ、だから前に出るのにゃ」恋が―――「……? 大丈夫、ご主人様は恋が守る、でもそうなったら前に行った方がきっといい」星が―――「主が一騎打ちすることは、まずありえませんが……そうなった時、気持ちで負ければ誰が相手でも勝つのは難しいと思いませぬか?」華雄が―――「戟に向かう勇なくて、何故戦えるか! 前に出ろ、前に!」本体は、その瞬間、確かに全員の画が見えた。見たことの無い少女も、見たことのある少女も居る。それが、脳内の彼らのイメージであること、そして今の自分に向けたメッセージである事を理解して死の暴風が吹き荒れる波才の戟へと、身体ごと飛び込んだのである。兜は砕け、後方へ弾き飛ばされた。その中に入れた額宛も、完全に砕けてその場に崩れ落ちる。皮膚を一枚削いで、しかし、そこで波才の放った必殺の戟の猛威は終わった。前だけを見て進んだ一刀の目の前にそれはあった。伸びきった腕、突き出されていた戟。構えた両の腕は自然に動き、空気が切り裂かれ、刃は天を向く。「て、天の御使い―――っおっ!?」音が消えた世界の中、戟は太陽へと向かう。波才の腕は、肘から先を完全に喪失して、その手に持っていたはずの戟が波才自身に影を落とした。痛みはなく、顔は歪んだ。噴水のように噴出した血の奔流が、一刀の顔を濡らす。時が、止まったように時間は緩やかだ。刀を戻した一刀が波才の左方から振り上げるようにして銀閃を向ける。刀剣に反射した光が一瞬視界を染めて、次の瞬間には魂の底から突き上げる声が自然に出ていた。「き……貴様がっ、貴様がっいなければぁっ!」獣のような声が聞こえ波才はそこで初めて、自分の腕が切られ獲物を失ったことに気がついた。と、同時に唸り声は自分のものだと波才は知る。視界は広がった、首筋に唸る煌き。「うわああぁあぁああぁ"ぁ"ぁ"あ"」一刀の裂帛の気合と共に放たれた一閃が、波才の首を飛ばした。そして波才は天を見上げることになる。いつの間に晴れたのか。太陽が彼の視界を埋め尽くしていた。(おお……見よ……黄天の世が……)そこで彼は考える能力を失った。波才の首が地に落ちて、剣を掲げるまま、一刀は立ち尽くした。両腕で剣を天に掲げ、雨の上がった太陽の光。そして……後ろに七つの色をたたえ弧を描いた虹が天へ昇ってやがて陽にかかった。それは、一枚の絵画にも似た、まるで神話のような姿であった。その姿に黄巾党は、誰からとも無く膝を突く。黄天は、虹に彩られ姿を変えた。それを、分かってしまった。吐き出した息を吸い込んで、一刀は天を見上げる。『本体』「ねね……後は任せたよ……」『ああ』そこで本体は意識を脳内に預けて、一刀の声は轟いた。腕よ、天へと届けと言わんばかりに大きく振って。「黄巾の総大将波才、天の御使い北郷一刀が討ち取ったぞっ!」両手を挙げるもの、武器を掲げるもの、誰もが天に拳を突き出して一刀を喝采した。将も、兵も、馬でさえも興奮したように嘶き。地響きに似た音は遠く洛陽の都まで轟きついて、勝ち鬨は上がった。「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」―――洛陽の戦いは、幕を閉じた。 ■ 天代マジパネェよ一際大きな天幕に、黄巾とぶつかりあった官軍の将は集まっていた。決着を付けてから既に時刻は、夜深い。何進が都へ戻り、持ってきた資材で組み上げられた臨時の天幕は、酷く不恰好ではあった。そこでは、今までにない諸侯の笑い声で満たされていた。「はっはっはっは、天代様が描いた策、お見事でございましたな!」「まさしく、漢王朝へ降りた天の御使いでありましょう」杯を酌み交わして、酒を持って勝利を祝う。戦勝を祝った、小さな宴がこの場で開かれていたのだ。中には、飲みすぎて倒れている者すらちらほらと見えた。上座にて、一刀はしかし、そんな彼らのテンションとは真逆で微妙に沈んでいた。音々音は無事であったが、落馬のせいで腕を折っていたのだ。波才の戟から身を挺してかばった兵は、一刀が土砂で埋もれた時に助けた人であった。残念ながら、その人は出血の多量が原因で命を落としている。戦で勝ったのは喜ぶべきであるのだが、音々音の怪我とその兵への感傷で素直に喜べない一刀である。それに―――『波才の懐から出た、それもあるしな』「うん……」そう、あの一騎打ちの直後、死体となった波才の懐から飛び出た血判状。諸葛亮と鳳統の文字が綴られているこれを発見し、一刀は自らの懐に入れていた。孫策によって捕らえられ、今は官軍の捕虜として即席の牢に入れられている。彼女達の今後は、明るくない。何とかしなければ、洛陽へ着いて戦後の処理が始まったときに死ぬことになってしまうだろう。「わっはっはっは、いや、しかし天から来られたというのでは、言葉も色々と違うのでしょうな」「確かに、時たま天代様は我々に分からぬ言葉を使いますからな」「そうだ、天代様、こういう勝利を祝う言葉は無いのですか」『おい、本体』そう尋ねられているのに、戦後の感傷に浸っていた本体は気がつかなかった。波才を自らの手で切り殺した。大切な身内が怪我をした。それだけでなく、諸葛亮や鳳統を含めた今後のこと、戦争の最中の出来事。そういうものを心の中で振り返っていた一刀から漏れ出た言葉は、これだった。「……マジパネェよ」『あーあ』『本体、マジパネェな』「え?」そして、手遅れとなる。何進が一刀の傍へ寄り、酒で満たされた盃を差し出して「天代様、マジパネェですぞ」同じように皇甫嵩が酒を注いで満たされている盃を諸侯全員に見えるように掲げて「北郷様、マジパネェよ!」「マジパネェよ!」「マジパネェよ!」「マジパネェですわ!」諸侯全員が合唱して、一刀を褒めちぎった。一瞬、何が起きたのか分からない一刀はその様子に驚き固まった。再び騒ぎ出す諸侯を置いて、孫堅が一刀の元へ近寄ると珍しく獰猛でない、柔らかな微笑みを称えて杯を重ねた。「ふふふ、まずはマジパネェよ……といっておこう、北郷殿」「そうね、私からも言わせて貰おうかしら」引きつった笑みを浮かべた一刀が声のした方向へと首を向けるとそこには金髪をツインにまとめてドリルにした歴史に名高い乱世の奸雄殿が笑顔を向けて立っていた。曹操に差し出され、その盃に一刀は何となくしなければならない様な気になり、自分の物を重ね当てる。「マジパネェよ」「……あ、ありがとう……」「あら、あまり嬉しくなさそうね?」「そ、そんなことないよ、ははは」乾いた笑いをあげつつ、一刀は自分の酒を煽った。ぐいっと一気に。というか、自分の失言のせいだとはいえ、こんな状態では酒を飲まずには居られなかった。いくらなんでも、そう、理不尽ではなかろうか。自業自得とはいえ、こんな祝いの言葉を浴びせ続けられるのは罰ゲームみたいなものだ。とはいえ、流石に今更、実は違うんですミ☆、とは言えなかった。その位、盛り上がってしまったのだから。「はははは、天代様もイケル口でございますな!」「ふふ、私からもお酌してあげるわよ」いつの間にか一刀の近くに集まっていた諸将の酒を受けて、一刀は飲みまくった。マジパネェ、という微妙な賞賛を受けながら。 ■ 暗雲を払って晴天を見ゆもう、明け方に近いだろうか。暗い大地が、徐々にその姿を光によって明るさを取り戻し始めた明け方。未だに笑い声が響く天幕を、酒と戦勝、そして興奮して自らの戦功を話し合う諸侯の目を盗んで一刀はそっと抜け出した。劉表が、孫堅と何か言い争っていたが、酒の席だ。大事にはならないだろう。本体が酔いつぶれて意識を落としてしまったので、今は脳内の彼らが身体を動かしている。こうして諸侯の目を盗んで外へ出たのは、“無の”と“蜀の”の希望に沿ってだった。休息をしながら、同じように戦勝に祝い酒を交わしている兵から食事を貰って歩く。どこからもれ出たのか、天代様、マジパネェよ、と声を掛けられながら。天幕を離れて、さびれた場所へ向かう一刀の様子を曹操は見逃さなかった。先ほどまで酔いつぶれた様子であった一刀が、何処へ向かうのかと後をつけたのである。そんな曹操には気付かず、一刀はある場所で立ち止まって、コンコンと木で作られた牢を叩いた。「……あ、あれ?」「あ、あわ、て、天の御使い様……」「寒くないかい?」柔らかい微笑みを向けて立つ一刀に、二人は驚いた様子で眼を丸くした。一刀はお互いにくっついて眠っていた諸葛亮と鳳統の元へ訪れたのである。お互い、これが最後の戦として望んだ洛陽の戦いが終わり、あとは官軍の採決を待つだけの身。いわば、死の覚悟を決めた二人にとって、天の御使いがわざわざ訪れることなど青天の霹靂以外のなにものでもなかった。食事を牢の柵の隙間から手渡し、二人に渡す。「「だ、大丈夫です」」慌てたようにして声を揃える二人に、一刀は笑った。なんで、ここに来たのだろう、と不思議そうな眼差しを向ける二人に一刀は懐から血判状を取り出した。途端、二人の顔は青ざめて俯いた。波才が持ち歩いていた血判状、これこそ官軍に楯突いた事実を表す明確な証拠である。それが、天の御使いである一刀の元に渡ったということは、自分達の終わりを決定付けたものだった。書を取り出して、一刀は読み上げる。波才と、諸葛亮、鳳統、たった三人の名を呼び上げて。一つ息をついた一刀は……いや、“蜀の”は血判状の両端を持って呟いた。「この血判状だけど……君達の意志なんかじゃ無いんだろ」「え?」「とりあえず、二人の身柄は俺が預かることになっているけど 洛陽へ戻れば、君達の処罰は決められる。 それはきっと厳しいものになると思うけど……耐えてほしい」何を言っているのだろうか、と二人は思った。ただ、目の前に居る天の御使いの声は柔らかく、励ますものであったことは分かった。一刀の背に隠れていた陽の光が、頭を飛び越して諸葛亮と鳳統を照らしていく。「二人の志を、俺は知っているよ。 助かるように何とかしてみせる……だから信じて生きるのに絶望しないでくれ。 きっと、なんとかなる」そう言って、一刀は持つ両手に力を込めて血判状を引き裂いた。左右に別れていく、賊軍に加わった確かな証拠。上下に、左右に、何度も引き千切られていき、一刀は風に乗せるように書を周囲へと投げ捨てた。諸葛亮と鳳統は、その一刀の行った行為を理解するにつれて、例えようのない感情が身体の奥底から込みあがってくるのを抑え切れなかった。何故会った事のない自分を信用しているのか、とか。どうして雛里以外に知るはずのない自分の志を知っているのか、とか。そういった彼の不思議な部分など、取るに足らないくらい突き上げてくる思い。この洛陽の戦いの最中。決して顔を濡らすことの無かった孔明の頬に、自然と雫が垂れ落ちた。陽の光を浴びて柔らかに微笑む一刀に、顔を歪ませて泣いた。「う、う、あうっ……」「ズッ……朱里ちゃん」「ふぇぇぇぇぇ」ついにはその泣き声を響かせて、孔明は天を仰いだ。諸葛亮と鳳統の二人に突然降りた闇は、目の前に居る柔らかな陽に溶かされたのだ。天の御使いである、北郷一刀を前にして。 ■ 一を聞いて十を知る……?それらの一部始終を見守っていた曹操は、ぶるりと身体を震わせていた。声が聞こえてきた訳ではないが、なんとなく分かる。北郷一刀は、捕虜である二人の前で何かの書をビリビリに引き裂いて少女達は泣き叫んだ。「……北郷一刀、恐ろしい男ね」曹操が捉えた限りの会話だけでも、寒気がするくらいだった。「君達の意志」「二人の身柄を俺が」「処罰は下される」「厳しい」「耐え」「志」「生きるのに絶望」耳に捕らえた言葉を総合すると、一刀はこのような事を言っていたに違いないのだ。それは、相手が賊軍であることが何よりの証拠。お前達の意志は砕かれ、もはや起き上がることは無いだろう。身柄を預かった俺の下す処罰は厳しい。どれだけお前達は耐えることができるかな?志を挫かれ、官軍に楯突いたお前達に与える罰によって生きることすら絶望になるほどの責め苦に打ち奮えているが良い。恐らく、このような言葉を敗軍の将へと投げかけて、彼女達は泣き叫んだ。破り去った書も、何か彼女達にとって大切な物だったのだろう。拷問か、それとも別の何かか。官軍に楯突いた彼女達を、最大限まで利用して大陸に蔓延っている黄巾党の士気を挫くつもりなのかもしれない。諸侯が勝ち戦に現を抜かしているこの時間にも、北郷一刀は次の一手を即座に打ち込んでいる。抜け目の無い男だ。「……かわいそうにね。 あの子達も……」盛大な勘違いをしたまま、曹操はその場を後にした。洛陽の戦いに決着をつけた官軍は、翌日に戦場での処理を終えて二日後、都である洛陽へと堂々と凱旋し、大きな歓声を受けることになった。こうして『天の御使い』である一刀の名声は、大陸に広く轟いたのである。 ■ 外史終了 ■