<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

その他SS投稿掲示板


[広告]


No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[2120] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン 前を表示する / 次を表示する
Date: 2006/08/23 01:53







1.Fragments 








 鴇羽巧海の朝は早い。というよりは、病院で迎える朝は総じて早いというべきかもしれない。なにしろ患者の健康回復を目的とした施設なのだから、入院すれば結果として生活習慣の改善がなされるのは自明の理である。よってその人生の大半を『病人』というレッテルをつけて生きてきた巧海にとっては、病院の朝が早いということはすなわち彼が早起きであるということにも繋がる。
 それをさしおいても、巧海にとってその日の始まりは近来にない快適さであった。新しい環境に越してきてからは既に一ヶ月が経過していた。病院で過ごした日数は二十日を数えている。わけても、やはり今朝の目ざめは随一である。
 きょうは何かいいことが起きる。巧海は仰向けのまま冴えた目を天井に向けてそう考えた。あるいはこの先起こる飛び切り悪いことの帳尻合わせかもしれない、とも。
 時刻は八時を回る。姉の手料理に比べると嫌がらせに近い朝食を平らげると、巧海は散歩をすることに決めた。

 大なり小なり人が寄り集まって暮らす場所では、朝は慌しさと切り離せない。とりわけ激務で世に広く知られる看護士たちは、だからとぼとぼと廊下の端を歩く巧海をいちいち気に留めたりはしない。巧海も目立たないよう気を配りながら真新しい建物を探検していく。
 入院患者の重篤さは、基本的に病棟や病室で区分けされる。中には一日中どんな時間帯であってもまったくの静寂に覆われているような場所もある。現在巧海がいる病棟は、幸運にもそれほど陰気な場所柄ではない。今回の入院は、実質の名目が検査であるためだ。
(これで問題が何もなければ、学校へ通える)
 と、姉や主治医からは説明されていた。
 もちろん生い立ちから年齢の割りに達観した所のある巧海は、彼らの言葉を額面どおりに鵜呑みしているわけではない。夏を前にして、日に日に躰の調子が悪くなりかけているのは彼も自覚する所なのだ。具体的になにか明確な症状が表れたのではない。全体的に悪い。巧海はそう感じている。ちょうどぜんまいが切れかけたオルゴールのように、近ごろ彼の躰はしばしば息切れする。
 巧海は長いこと心臓を患っており、現状では率直に言って完治する見込みはない。根治のためには移植手術が絶対の条件で、それは現在の日本においてはほぼ不治であることと同義だ。彼にとっての死の水位は、発作の沈静や対症療法としての薬物投与でどうにか日常を繋ぎとめるのがせいぜいといったレベルであった。

(そろそろ、だめなのかな)
 後ろ向きに考えない。姉からは常々口を酸っぱくして言われているが、こればかりはどうしようもないと巧海は思う。むしろこの状況で前向きになれるとすれば、それは完全に死を吹っ切ってしまった人間の心境でしかありえない。巧海は育った環境からすれば奇跡的といっていいほど健全な少年である。だから自分の存在が周囲、とくに姉に及ぼしている影響を知っているし、負い目を持つ。死ぬのは怖くない。適当な理由を見つけてそう達観するのは実は容易である。単に目を逸らすだけで済むからだ。
 怖がりながら生きることこそ苦しいのだ。

「ちょっとぼく、危ないからぼうっとしちゃだめよ」
「あ、はい、すみません」

 通路の角であやうくぶつかりかけたのは、長い黒髪が印象的な妙齢の女性だった。巧海ははっと我に返って、自分が歩いている場所を確認する。考えにふける内に、外科病棟まで足を伸ばしていたのだ。
 しきりにわき目を振る様子を見て勘違いしたのか、女性が腰を落として巧海に話し掛けてきた。

「あら。もしかしてあなた、迷子?」
「い、いえ、大丈夫です」

 近づいた面立ちは美しくも少し冷たい感じがして、さらに少し慌ててもいるようでもあり、だから結局真偽に関わらずそう答えるほかはない。女性はやたらに恐縮する巧海をじっと見つめると苦笑して、

「本当に? ひとりで大丈夫?」
「はい」重ねて問われ、少しだけむっとして巧海は頷いた。
「そう。男の子だものね。……じゃあ、お大事に」

 そう言い残し、去っていった。リノリウムを靴底が叩くリズムは足早だ。お見舞いかな。巧海は思った。もしかしたら、子供を見舞いに来た母親かもしれない。彼が抱く漠然とした母親像はほとんど姉そのものである。だから今しがたの女性はイメージにずいぶんそぐわなかったが、ほんの少し、胸につかえのようなものが生まれた。彼は善良で純粋だが、だからこそ歪な形成である。その感情を僻みと呼ぶことなど知る由もなかった。
 首を捻りながらさらに歩くと、妙な二人組を見た。

「今度ばかりは死ぬかと思った。本当に。走馬灯を見た」横手の病室から、背広に腕を通しながら眼鏡に痩身の男性が退室してきた。頭と首に真新しい包帯を巻いている。「っていうか、学園ではどうなるんだあれ。さすがにニュースになるだろ?」
「公的発表はいまだ原因不明の火災、事故原因については現在調査中とのことです。それよりも先生、早く病室に」

 答えるのは、前髪をかなり短く切り詰めた短髪の少女である。日本人ではないらしいことがその髪の色や顔立ちでわかったが、巧海の目をひきつけたのはむしろ彼女が着る制服だった。
(あれ、お姉ちゃんと同じのだ)
 つまり、風華学園の生徒ということになる。いわば巧海の先輩である。
 先を行く男。その後ろを少女がついていく。二人のさらに後方を、興味しんしんで巧海は陣取った。

「へえ、あれを誤魔化せるのか。情報処理に関してはとんでもないな。十歩くらい先をいかれているんじゃないのか」
「これだけの限定された条件下では、むしろ相応の強制力というべきでしょう」小難しい言い回しで少女は答える。真実応答している、というにふさわしい口ぶりであった。「とにかく、お嬢様からは休むようにとのお達しです。病室にお戻りください」
「いいじゃないか。どうせ今日は半ドンなんだし。だいたい労災も出ないし……終わったら自宅でゆっくり休むよ。それにレポートも必要だろうから。どのみち、ここであんまりじっくり静養するわけにもいかない」
「それは、その通りですが」あっさりと、銀髪の少女は翻意して頷く。「ところで、エックス線撮影は」
「大丈夫。背中は特に撮られていないはずだ。まあ、火傷や打ち身擦り傷は数え切れないくらいだけど、特に骨身に影響がなかったのが幸いしたな。美袋に感謝、ってところだよ。それにまあ、万が一撮られてても、切開しなきゃ問題は無いはずだ。一応聞いておくけど、レントゲンでおしゃかになるほどやわなつくりでもないんだろ」
「はい。ですがそれとは別件で、お父さまからもう少し運用には注意を払うようにという要求が来ていますが」
「そんなこといってもなあ」自販機の前で、男が足を止める。少女もそれにならう。「緊急事態は基本的にどうにもできないよ。こっちから首を突っ込んでいるわけでもあるけど、だからってどうにかなるようなレベルじゃないって身をもって実感した。それよりなあ、またいくらか追加してほしいシーケンスが出来たんだけど」
「その種の陳情は私ではなくお父さまかシスターになさるのがよろしいかと思われます。そのための同居でしょう」
「ううん」難しい顔で唸りながら、眼鏡の男は懐から小銭入れを取り出す。「でもそうすると、一日がかりになるんだよな。あのひとも忙しいから、なかなか心苦しい」
「必要な措置です」

 無感動な言葉に男は渇いた声で笑って、自販機が小銭の代わりに吐き出したスチール缶を手に取った。
(何の話だろう)
 壁際の手摺にもたれて耳をそばだてながら巧海は首を捻る。会話から理解できたのは、あの眼鏡の男性は入院患者で、しかし早速退院しようとしているらしい、という程度だ。

「とりあえず、そろそろ行こう。連中の膝元にいるってのはいかにもぞっとしない。だいたいもう一時間無いし、早くしないと深優も遅刻しちゃうだろ」

 腕時計を見下ろした男がそういうと、少女も頷きを返す。まさかあの二人はこれから学校に行くのだろうか。と巧海は呆れた。風華学園ならば確かに時間的には問題なくたどりつけるだろうが、なんといっても男性は痛々しい包帯やらガーゼに顔を巻かれているのだ。
(そんなに学校が好きなのかな)
 もちろん、許されるならば巧海も学校には通いたい。ため息混じりに、羨望の視線を送った。
 そのせいというわけでもないだろうが、自販機から離れた男性と少女が近づいてくるのを見て、巧海は内心ぎくりとした。若干体を硬くしながら、何食わぬ顔ですれ違おうとする。
 胸の中央に痛みが生まれたのは、そのときだった。

「あ……」

 音に聞こえそうなほどの不整脈に冷や汗が流れる。巧海は豊富な経験則から、数秒後に自分の躰の自由が利かなくなることを察知した。寄りかかっていた手摺を強く掴み、自室から離れすぎたことを後悔する。胸に当てられた手が、パジャマ越しに別の生きもののような鼓動を感じ取って、巧海はあまりの忌々しさにやるせなくなった。
(さっきまでは、あんなに調子が良かったのに)
 こんなにも容易く崩れ去るのだ。痛みよりも、体の不出来さに涙が出そうになる。助けを求めて視線をさまよわせても、具体的に声をあげることが出来ない。早朝は外来が大量に来る時間でもある。
(もういいや)
 そう、巧海は思った。倒れていればさすがに誰かは気づくだろう。そして何もせずとも病室に帰してくれるに違いない。
 膝が落ちる。巧海の発作はすぐさま意識を刈り取る類のものではない。息苦しさに喘ぎながら、腕一つ動かせない倦怠感に体を満遍なく浸して、それでも眠りにはつけないのだ。
 そのまま倒れかけた彼を、誰かの手がしっかりと支えた。

「……っと。ちょっと君、大丈夫か?」

 慌てた声には聞き覚えがある。それも、ごく最近に。
 だからといってすぐに反応もできず、巧海は力なく太い腕の持ち主を見あげた。
 柔和な、はっきりといえば子供っぽい顔立ちの男が、眼鏡越しの素顔に困惑を表している。

 これが鴇羽巧海と高村恭司の、馴れ初めだった。

 ※

 呼び出しを受けた。目的地である理事長の私宅でもある風花邸は、何の衒いもなく豪邸である。鴇羽舞衣は広大な敷地と瀟洒な佇まいを目にしたとたん、朝から振り払えなかった気鬱も忘れ、アングリと口を開けた。

「なに、あれ」

 突如として欧州の景観が日本の山奥に越してきた違和感がぬぐえず、舞衣は騙し絵でも見ているような心地になる。延々と抉られた山肌を背景に伸びる青芝の先に、その洋館はあった。遠近感が狂うほどの建物面積は、それだけで庶民感覚に慣れきった彼女を仰天させるに充分だ。館に住んでいるのがほんの数人だと聞けば、根拠のない憤りさえ芽生えかねなかった。

「すげえだろ? 映画みたいで」生徒会会長補佐として舞衣を理事長宅まで案内した楯祐一が、苦笑混じりにいった。「金はあるところにはあるっつーかなんつーか……。我が町の大邸宅っていやあそこん家なんだけどよ。まあ、でけえゼネコンとか旧家とか、なんかわかんねえけど風華ってポツポツ金持ちがいるから、実際はあそこもあんまり目立たねーんだけどさ」
「目立たないって、あれで」

 茫然と疑問を呈す、舞衣である。まさに圧巻といった佇まいに、半ば中てられての受け答えだった。
 私学における理事長とは正しく首脳だ。特別枠に中途入学で滑り込んだ奨学生とはいえ、いち学生が直接理事長に目通りすることは、だから稀だった。よって当然、舞衣は風花邸を直接目にするのも初めてである。

「あのすっごい花壇にも驚いたけど、ホントにあんなお屋敷に住んでる人っているんだー……」
「まあ」楯が意味ありげに笑う。「家主がアレだからよ。色々とくだらねえ噂も尽きないんだけどな」
「家主? くだらない噂って?」
「家主って言えば決まってんだろ。例の少女理事長だよ」祐一が、何を今さらと肩を竦める。「家族もないらしいし、どうしたってゴシップの的になっちまうんだろうな」
「ああ、あの……」

 案内書に同梱されていたパンフレットと映像資料には何度か目を通している。春まで都内にいた舞衣としては、頼る術も持たない遠方への転居はかなりの冒険である。それだけに、選択には細心の注意を払ったつもりだった。
 もっとも結局は奨学金と学費免除に飛びついたのだが、風華学園の環境については重ねて目を通してある。中でも一際目を引いたのが、学園の名物理事長、風花真白についての項目である。
 特筆すべきは、やはりその幼さだ。彼女の年齢は当年とって十一歳。これは舞衣の弟とほとんど同年代である。そんな少女がマンモス校の理事長職についているのも充分驚きだが、彼女は海外で博士号まで得ており、さらに芸能界からオファーが来そうな美形ときては、誰にとっても笑うしかない存在である。
 舞衣にしてみれば前評判としてのラベルからして大仰過ぎて、そんな人間が自分を呼びつけるなどというのはどうにも実感の湧かない話だった。風花真白が経営する学園に舞衣はいるのだから、もちろん接点はある。しかしそれを現実的に想定できるかといえば別問題である。
 出来すぎていて、物語の中の人物のよう。そんな印象は、舞衣の脳裏にこびりついて離れない。

(物語ね。でも考えてみたら、こっちに来てからはそんなの珍しくないのかも)

 思い直して、舞衣は意識して目を逸らしていた光景を顧みる。
 疲れきり、取るものもとりあえずいっそ夢であれと眠りについた昨晩だ。
 しかし一夜明けても悪夢は覚めず、学園の裏山には『落雷による火災の影響』ということになっている傷痕が、まざまざと残されている。
 自分があれを引き起こした。その自覚は確かに舞衣にある。しかし、思い出すには痛みが伴う。カグツチに破壊を命じた瞬間の彼女は、明らかに心神喪失状態にあった。もっと正確にいうならば、件の不可思議な怪物――チャイルド、と玖我なつきは読んでいた――を呼び覚ましたとたん、その圧倒的な力の奔流に、舞衣は溺れたのである。
 そして、危く人間をひとり、殺しかけたのだ。
 結果的には高村恭司以外の人的被害はなかったということだが、遠目から山肌の惨憺たる有様を見てしまうと、それがどれほどの幸運なのか悟らずにはいられない。
 寒々しい感覚が背を走る。舞衣は身を竦め、その恐怖を忘れようと努めた。
(高村先生、大丈夫かな)
 昨日、事件のあとに意識を失った高村恭司を介抱し、命と二人で学園の保健室まで運んでから救急車を手配させたのは舞衣である。
 要領を得ない命の説明を整理すると、どうやら彼は命や玖我なつきをかばって怪我を負ったらしかった。あの鈍そうな男がよくぞと見直した、などという以前に、ただ感謝の念を覚える舞衣だ。彼の立ち回り次第では、事態はもっと深刻になっていたのかも知れない。

「鴇羽、オイ鴇羽」
「あっ、なに?」

 声に振り返ると、楯祐一が数メートルも先の方で足を止め、舞衣に不審な眼差しを送っていた。

「なに、はこっちの台詞だっつの。いきなりぼうっとしちまって」吐息して、楯もまた山の惨状に顔をしかめる。「ひっでえよな、あれ。カミナリであんなふうになるのかねえ。あんがい、放火だったりして」
 肩を強張らせて、舞衣は瞳をそぞろに彷徨わせた。「……そんなこと、あたしが知るわけないじゃない」
「そりゃま、そうなんだけどさ。それより聞いたか? 新任の高村、あれに巻き込まれて救急車に運ばれたんだってよ。来た早々、ついてねえ人だよまったく」
「うん……」ますます顔色を冴えなくして、とうとう舞衣はうつむいた。「ひどい、よね」
「どうも、おかしなことが続くよなぁ、最近。この学校でも物騒な事ばっかだし、あのフェリーの時にしてもそうだしさ」

 嘆く楯の台詞を聞いて、舞衣ははっとする。
(そうだった。あのとき、こいつも一緒にいたんじゃない)
 あやうく失念しかけていたが、一度思い出せばそれはなかなかに鮮烈な出会いである。きっかけは海面に漂っていた美袋命がフェリーの甲板に拾い上げられてすぐの救命劇だった。なぜか素人の舞衣が命に人工呼吸を施すはめになったのだが、その場には偶然、楯も居合わせていたのだ。

「そういえばさ、フェリーといえば!」話の矛先を変えるため、やや不必要に明るく舞衣はいった。「あのとき一緒にいた子、えと、なんていったっけ」
「詩帆か?」
「あ、そう、詩帆ちゃん」兄妹だとすれば不健全なまでに楯にべったりだった少女を思い出しながら、続ける。「あの子って、あんたの彼女?」
「違う」本人が聞けばさぞかし不満に思うだろう速さで、楯が即答した。「ガキの頃から付き合いがあるだけだよ、ただ。田舎ってすぐ家ぐるみの付き合いになるし、学校も特に変わんなかったから、そのままズルズルとな。って、これあん時もいったぜ」
「そうだっけ。でも家族っていうならともかく、普通中学生の女の子が年上の男の子と旅行に行くの、許したりしないと思うよ。向こうはそうは思ってないかも」
「すぐ悪乗りするのも、田舎の悪いところなんだよ。手近なトコで済ませようとしやがって」仏頂面の楯は、明らかにこの手の話題を嫌っていた。
「あぁー、そういうのはあるかもね」

 誤魔化し笑いを混ぜ返しながらも彼に芯から〝その気がない〟ことを見て取って、舞衣は少なからず意外に思った。寄せられた好意に気づいていないわけでもなく、気恥ずかしさから照れているのでもなく、楯は単に面倒を感じているのだとも理解できた。
 それはまったく理性的な往なし方である。恋愛そのものに興味がないのかもしれない。
(スケベだと思ったら……意外と硬派なのか、それとも単純にガキっぽいのか)
 一方的に熱をあげている少女を不憫に思いながらも、舞衣は胸中で楯の印象をやや修正した。普通あれだけ露骨に好意を示されれば、とくにその気がなくとも〝付き合って〟しまうのが年ごろの男であり、女というものだ。理由は単純極まりなく異性へ興味。平たく言えばセックスのためである。
 少なくとも舞衣が以前いた学校では、男女ともに性への関心から適当に相手を見繕うという風潮が、それなりにあった。――とはいっても、当の舞衣はアルバイト三昧の日々で、そうした青春らしい青春にはまるで無縁である。そのためか、舞衣にはやや耳年増のきらいがあった。
(それをしないってことは……なんだ、けっこう大事に思ってるんじゃん)
 第三者的な恋愛観については、だからいくぶんすれている舞衣だ。楯が詩帆に対してどういった感情を抱いているのかもなんとなく察せられた。

「ふーん」ひとり納得して、舞衣はにやにやと楯を見つめた。
「なんだよ、その顔」
「いやぁ、意外にいいお兄さんしてますなぁ」
「は? ワッケわかんねえし」
「で、ある日突然いつも隣にいたアイツの魅力に気づかされるわけか」

 と、楯でも舞衣でもない男が会話に割って入った。
 そうそう、と聞き覚えのある声に頷きかけて――舞衣は、一瞬ならず思考を停止させた。

「……はい?」
「やあ、ご両人」

 顔を包帯と絆創膏で武装した高村恭司が、気だるげに立っていた。

「なッ」楯が瞠目して、高村を指差した。「なにやってんすか先生!」

 驚くのも無理からぬことで、どう見ても高村の風体は異常である。白色まぶしく糊のきいたシャツに折り目正しい暗緑色の背広がいつも通りであるだけに、傷の痛々しさはひとしおだった。

「怪我人をやってる。あと教師」と答えて、高村は腕時計を見る。「あー、結局授業には間に合わなかったな。話が弾みすぎたか……。まあ、いいよな。しょうがない。入院してたんだし」
「ちょっと、高村先生っ」のんびり呟く高村の襟首をつかまえて、舞衣は楯から離れた場所に引きずり始めた。
「なんだよ鴇羽。ちょっと苦しいぞ」
「……あれっ?」

 力を抜いたおぼえもないのに、あっさりと拘束を外される。余勢でつんのめりながらも絶妙の身体感覚で転倒を回避すると、体を起こす勢いもそのままに、舞衣は高村に詰め寄った。

「なんだじゃなくて! 昨日救急車で運ばれた人がなんでこんなところにいるの!?」
「こんなところっていわれても、ここ俺の職場だし。あと顔、顔近いって」
「病院は!?」構わず、舞衣は口角泡を飛ばす勢いでまくしたてる。
「ふつうに退院した。まあ軽傷だったからな」襟を正しながら、高村はいう。「それに着任したばっかりなのにもう欠勤とかありえないだろ。社会は厳しいんだぞ」
「そういう問題じゃないでしょ……」眉を落として、舞衣はため息をついた。「玖我さんが呆れるのもわかるわ、ホント」
「それを言われると耳が痛い」伝染したのか、高村も深々と吐息する。「昨日はぼけっとしててセクハラを働いてしまった。PTAにでも駆け込まれたらまずいよな?」
「あー、いや……そういうことじゃないと思うんですけど。――でも、ほんとに大したことないみたいで、良かった。それで、あの、先生……」

 ごめんなさい、と頭を下げかける寸前で、高村に制された。「気にするな、とはいえないけど、あれは不可抗力だっただろう。自分の身も守れないのにあんなところをうろついてた俺も悪かったんだ。お互い様だよ」
「そういってもらえると助かるけど」素直に頷くわけにも行かず、舞衣は曖昧に作り笑いを浮かべた。きっとずいぶんぎこちないに違いない。「でも、やっぱりごめんなさい、かな」
「律儀だな、鴇羽は。高校一年生とは思えない」
「それってオバサンっぽいってことですかぁ」と、半眼を高村に向ける。深刻な空気を緩和するため、舞衣は故意におどけてみせた。

 ともあれ、いつもとまるで同じ調子の高村に、安堵した舞衣はまる一日ぶりに人心地つくことができた。相変わらず威厳に欠ける態度は教師としてどうかとは思ったが、重篤の彼を見舞うよりはずっと良い。

「ま、こうして無事に済んだのも美袋のおかげだから、改めてあいつには礼を言っておかないといけないな」しみじみと高村がいった。「俺もまだまだ偉そうに人のことを言えたものじゃないよ。もうちょっと考えて行動するべきだった」
「……そういえば、先生ってなんであのとき玖我さんと一緒にいたの?」

 さり気なさを装って挟まれた、それはかねてからの疑念である。昨日、舞衣が炎凪と名乗る少年に声をかけられてからの記憶は曖昧だ。ずいぶんと長くどこかを歩いた気もするし、いつの間にかあの倒壊した洞窟に立っていた感もある。そして我に返った舞衣の前には怪物がおり、そこに玖我なつきが高村恭司を伴って現れたのだ。彼女に理解できたのは、事態が暴力的なまでの性急さで推移しかけていたということ、加えて見知った顔が脅威に晒されつつあったという状況だけである。実情は、何ひとつわかっていないといってよい。
 誰も説明できるものがいなかったためだ。
 事件当時、玖我なつきは高村に腹を立ててさっさとどこかに行ってしまったし、高村は気絶して物言わぬ人となっていた。命に関しては問いただすだけ徒労だった。結局、舞衣は一日近くが経過した現在も、件の不可解な出来事について何らの了解を得ていない。なにやら訳知り顔の二人を、
(アヤシイ)
 と思わずにはいられなかった。

「それについては、追々な」芸のないはぐらかし方で、高村が手持ち無沙汰の楯に視線を向けた。「楯もあのまんまじゃ気の毒だし、話はここらで中断だ。そろそろ行こう。呼ばれてるんだろう、理事長に?」
「そうだけど、先生も行くの?」
「そのつもりだ」といって、高村は手に持った折箱を舞衣の面前に持ち上げた。

 箱の中身は、ケーキだと思われた。

 ※

 廊下には足首まで埋もれそうな絨毯が敷き詰められ、導かれた応接間は少なく見積もっても三十畳はあった。極めつけはアンティックなエプロンドレスに身を包んだ家政婦の存在である。車椅子に腰掛けた風花真白に目通りした時点で、舞衣の健常な経済観念は粉砕されかけていた。

「ようこそいらっしゃいました、鴇羽舞衣さん。それに……高村先生も」
「いや、事前の約束もなしに不躾な訪問、こちらこそ突然申し訳ありません、理事長。これ、つまらないものですが」
「あ、はい。座ったままで失礼します」高村に差し出された箱を受け取って、真白が少女らしからぬ微笑を浮かべる。「まあ……ケーキですか。お気を遣わせてしまい申し訳ありません」
「いえ、とんでもない。よろしければ後でお召し上がりになってください」
「では、今ご一緒してしまいましょう? 二三さん、こちらをお茶と一緒に」
「はい、ただいま」ケーキを受け取った侍女は、優雅な仕草で一礼すると足音も立てず退室した。
「……」

 そして、一連の場面を絶句したまま傍観する舞衣である。
 完全に雰囲気に呑まれた形であった。
 高村は二度目なのだろうが、それでも受け答えには緊張や呆れが見て取れる。舞衣には自分より歳下の人間を上司に仰いだ経験はないが、この『理事長と教師』という構図には、不自然どころではない歪みがあった。
(どっちかっていうと小学校の先生と生徒なのにねえ)

「お怪我の具合はどうでしょうか。きのう、救急車で運ばれたと仄聞しましたけれど」

 包帯を一見して愁眉を開く真白に、高村は力なく笑った。

「ご心配なく。無傷とはいきませんが、職務に支障はありませんよ。ちょうど明日は休日ですし」
「ご無理はなさらないようにお願いします。怪我が悪化してかえって悪いことになっては元も子もありません」
「はい。そのあたりは重々、承知しています」

 見た目からして子供然とした真白はともかく、高村の立場を踏まえた応対は社会人としてごく自然なものだ。現在学生であるというプロフィールを踏まえ、彼をどちらかといえば『今風』を気取った教師であると類別していた舞衣にとっては、少しく意外な一面であった。
 女という性に生まれ、かつ様々なアルバイトを趣味とするだけあって、鴇羽舞衣という少女にとっての人間観は多様性と多面性に立脚している。人の性格は決して一面的でなく、時として常識を期待できない相手を向こうに回すこともある。接客業の荒波に揉まれ、泣きを見た経緯からその観念は培われた。むろん、年若い価値観は甚だ未熟なものではある。
 そんな彼女からすると、性格面は置くとしても、高村恭司には教師としての自覚が欠けているように見えたのだった。生徒にする砕けた会話や、面白いがどこか趣味に走った授業態度の端々から投げやりな態度が見て取れた。熱意がなく、程よく斬新に、刺激的であれと効率化された手際だけが目立った。その姿勢は教育者というよりは講師に近い。そして両者は似て非なるものだ。単に塾や予備校で講師を務めた経験があるだけかもしれないと思っていたが――。
 舞衣は考えを改めた。ざっくばらんな態度は高村の人格に由来しているのではない。真白への態度や物言いから鑑みれば、ある程度企図されたものなのだ。おそらく、高村にとって教職は腰掛けなのだろう。でなければ、本意ではない立場のどちらかだ。舞衣にも経験がある。長々と勤める気がないから、いっそ大胆に振る舞えるのである。
 同じような印象を受ける人間を、もうひとり知っていた。

(……そう、なんか碧ちゃんに似てるんだ。性格とか軽さとかは全然違うけど)

 舞衣のクラス、一年A組の担任は、現在のアルバイト先で『元同僚』だった杉浦碧である。舞衣は彼女にも高村に似た身の軽さを感じていた。
(ま、どっちも臨時採用っていうしね)
 たしか大学で専攻している科目も似ていた気がするし、研究者肌の人間とは概してそういうものなのかもしれない。そう舞衣が納得し終える頃には、高村と真白の社交辞令的な会話も終わっていた。

「それでは、鴇羽舞衣さん」器用に車椅子を操って、少女が舞衣に向き直る。

 頭脳に容姿に富にと恵まれ、およそ瑕疵に無縁の風花真白が持つ唯一の欠点が不具の足である。また血色も良いとはいえず、お世辞にも健康体には見えない。しかしそれがいっそう彼女の儚い、浮世離れした美しさを際立たせていた。顔といわず手足といわず、真白の体躯は全体的に小作りで、妖精のようである。
(顔小っさー……人形みたい)
 俗な感想を抱きつつ舞衣は唾液を喉に送り込んで、得体の知れぬ緊張を飲み下した。

「――はい」一度はらをくくれば、舞衣は物怖じというものをあまりしない。双眸は決然と真白をとらえた。「あの、ご挨拶が遅れてすみませんでした。……無茶な時期だったのに奨学生の枠を頂いて、本当に感謝しています。ありがとうございました」

 嘘偽りのない本音だった。舞衣は目の前の少女が主催する風花奨学金によって、なんとか学生生活を諦めずに済んだのである。
 それだけに、次の言葉には目をみはった。

「いえ、お礼には及びません。あなたの入学は、こちらにも思惑があってのことでした」
「え」鈴を転がすような声に戸惑いつつ、舞衣は言葉の意味を案じた。「……あ、はい。もちろん勉強の方はがんばります。せっかく奨学生として招いてもらったんだし、理事長……さん、に恥をかかせるわけにはいきませんから」
「それはもちろんですが、鴇羽舞衣さん。わたくしが申し上げているのは、そのことだけではありませんよ」

 真白が絶やさなかった柔和な笑みに、ひと刹那だけかげりが浮かぶ。
 ちくりと、嫌な予感が舞衣の胸を刺した。

「その、どういう意味ですか」
「あなたは昨日、見たはずですね。そして、高村先生もあの場所で」真白が視線を移す。その先には精緻な細工の施された窓がある。窓外には、いやでも目につく地を抉る創痕。「あれは、オーファンと呼称される怪物です」
「ちょっと、待ってください」にわかに暗雲垂れ込めてきた話の行く先を、舞衣は思わず遮った。「なんの話ですか。あたし、何のことだか……」
「今日来ていただいたのは、説明のためです。一晩経って、混乱もいくらか落ち着いたことでしょう」
「あ、ええ……と」

 知られている。真白の口ぶりに、舞衣は確信した。 
 言い逃れはできそうにない。唇を噛んで、舞衣は逡巡した。落ち着きなく両手を絡めて、視線を膝に落とす。認めてしまうべきか否か。確かに山を半分燃やしたなどと、許されることではない。だがあの場合はどうしようもなかった。何しろほとんど意識がなかったのだ。心も体もまるで自分のものではないようだった。
 だがそんなことは、なんの免罪符にもならないだろう。瞬時にいくつかの剣呑なイメージが舞衣の脳内を駆け巡った。謹慎、停学、退学。いずれも被害の規模に照らせばまるで足りない。警察に突き出されても文句はいえないのだ。
(……どうしよう)
 助けを求めるように、隣席の高村を見た。しかし、頬に貼られたガーゼが舞衣の罪悪感を煽るだけだった。冷静に考えれば頭の傷や細かな擦過傷は舞衣の仕業ではないのだが、このときにはそこまで考えが及ばなかったのである。
 その視線を敏感に気取って、だんまりを決め込んでいた高村が会話に割って入った。「よろしいですか、理事長。理事長は、鴇羽に何らかの処分を下すつもりで彼女をここに呼んだのでしょうか」
「あ、いいえ」わずかに慌てて、真白が首を振った。「誤解なさらないように。わたくしはあれについて詰責するためにこの場を設けたのではありません。今いった通り、純粋に、鴇羽さんの役割を説明する必要があると判断したのです」
「あたしの、役割?」舞衣は安堵しつつ、きな臭い単語に眉をひそめる。
「はい」
「それって……あの化物に関係あるんです、よね」
「ええ、その通りです」
 
 と、真白が頷くのに合わせて、トレイを手に戻ってきた侍女が、各人にケーキとティーカップを配膳し始めた。
 テーブルに置かれた透明なティーポッドのなかの湯は鮮やかに紅く、色づいている。かぐわしい芳香が舞衣の鼻腔をくすぐった。ポッドのフィルターでたゆたうのは茶葉ではなく、薔薇のつぼみであった。

「高村先生にいただいたシフォンケーキと、ローズティーです。ジャムはお好みでどうぞ」
「ありがとう、二三さん」

 饗されたケーキも紅茶も舞衣の食欲をかきたてたが、手をつける気分では今はなかった。胸中の懼れを拭うように屹然と、真白を見つめる。

「なんなんですか、役割って。それに、なんであんなワケわかんないものがいるんですか、ここ。もしかして、他にもまだいるの」
「はい。未知数ですが、あれで終わりということはありえません。オーファンは」真白はソーサーを持ち上げながら悠揚といった。「この世ならざるもの。人を襲う魔です。……といってしまうと、逆に真実味が薄れてしまうのでしょうね。わたくしからいえることは、ああいったものがこの風華の地には厳然と存在するということ。そして、鴇羽舞衣さん。あなたが出会った玖我なつきさん……それに美袋命さん。あなたがたHiMEには、オーファンを倒すための力が与えられている、ということのみ。いいえ、オーファンを打倒できるのは、HiMEの力を持ったあなたがただけなのです」
「――あの二人の事も知ってるんですか」飛躍した話題についていけず、舞衣はどうにか言葉尻だけをとらえた。「それにその、それだけじゃなくて、倒すための力って、ヒメって」
「それはもちろん、あなたが召喚したチャイルドのことです。HiMEとはチャイルドを従えるもの。あなたはHiMEなのですよ」

 答えて、真白が紅茶を啜る。
 舞衣は、唖然として二の句を次げない。

「……なにいってるんですか」ようやく言葉を紡がせたのは、反感だった。「またHiME? HiMEってなによ。あたしなんでそんなことに巻き込まれてるんですか。あなた、あたしをからかってるの?」
「見たままが現実です。舞衣さん。心苦しいでしょうが、お認めになってください。あなたはHiMEなのです。そして、オーファンと戦う運命――そう、星のもとに生まれついた。わたくしどもは、そのためにあなたをこの地にお招きしました」

 その言葉に――。
 かなうならば今すぐにでも忘れ去りたい光景が、舞衣のまぶたの裏で瞬いた。
 フェリーの沈没。玖我なつきと美袋命の戦闘。洞穴でみた怪物。少年の誘いに乗って呼び覚ました、カグツチ。
 厄介なことに巻き込まれた、と楯祐一はいっていた。舞衣もそう思っていた。自分はあくまで運悪く場に居合わせただけの被害者なのだと。
 しかし、全てはあらかじめ自分を含めて織り込まれた出来事だった。風花真白はそういっている。
(ずるい。ひどい)
 連鎖的に、季節はずれの奨学生枠に推薦された瞬間の事が思い出された。当時の教師から薦められた風花奨学金に、彼女は一も二もなく飛びついた。転居の経費に生活費、そして弟の治療費と、舞衣を悩ます諸々の金銭問題が、たとえ苦しいにしても働きさえすればどうにかやりくりできるという光明が見えたからだ。高校生に支給されるにはいささか多すぎる奨学金を、舞衣は単純に努力が認められた結果だと浮かれていた。アルバイトに打ち込みながらも、学業を決しておろそかにしなかった甲斐があったと、なんの疑いもなく喜んでいた。
(ひどい。最悪。あたし、いい人がいるもんねなんて、馬鹿みたいに)
 そんなうまい話があるわけがなかったのだ。
(餌で釣るみたいに、人を!)
 まんまと食いついた自分が、滑稽に思えてしかたない。
 気を抜くと、悔し涙が溢れそうになる。唇を噛んで、衝動をやり過ごした。

「それじゃあ、それじゃあ」それでも否定を欲して、舞衣はすがるように真白を見つめた。「最初から、あたしが奨学生に選ばれたのも、アレと戦わせるためってこと、ですか」

 真白はよどみなく首肯した。酷薄な優しさがその眼差しには見て取れた。

「そうです」

 同時に、激昂が舞衣の胸裏を満たした。それはむしろ醒めた怒りとして孕まれた。

「馬鹿にしないで」口早に舞衣はいった。
「はい?」
「馬鹿にしないで!」相手が理事長であることは、考慮の外だった。「変なことに、あたしを巻き込まないで! あたしは他にやることがあるの! 余計なものに関わってるヒマなんてないの! なによ、戦えって。そんなの警察とか、自衛隊の仕事でしょ? どうして学生にそんなことやらせるのよ。おかしいわよ!」
「もしかして、弟さんの事でしょうか?」心配顔で、少女は呆気なく舞衣の地雷を踏み抜いた。「もしよろしければ、わたくしが援助を」

 発作的に、舞衣の手が冷め遣らぬ紅茶がなみなみと注がれたカップに伸びかけた。あまりの怒りに目が眩むほどだった。後先を考えず、中身を真白に向けて撒き散らしてやろうと思った。
 その手を制したのは、高村だ。さりげなく舞衣のソーサーをずらして間を外すと、彼は「落ち着け」と短く呟いた。

「あたしは落ち着いてます!」

 噛み付くように吼えて、舞衣は大きく息を吐く。

「落ち着いてないだろう。今なにをしようとしたんだ、おまえ」
「……落ち着いてます」

 顔をしかめる高村に、舞衣は理不尽な失望を感じた。根拠もなく彼は自分の味方をするものだと思い込んでいたのだ。しかし立場上、彼は理事長につくのが当然なのである――。
 そう見切りをつけかけた矢先に、高村が真白に向き直った。

「風花理事長。僭越ながら、これは教員ではなく、若輩であっても少なくともあなたよりも年配の人間としてお伺いしますが」
「……はい」
「つまり理事長は、はじめからそちらの都合に巻き込むつもりで鴇羽に奨学生の打診を持ちかけた、ということでしょうか」
「そうなります」あっさりと真白は認めた。

 薄々理解できていても、やはり堪える事実だ。舞衣は歯がみして顔を伏せる。

「では」と高村が続けた。「そちらは以前から鴇羽を、その、特定していた、ということですね」
「それは、お答えできません」
「あくまで鴇羽とあなたの間の問題ですから、私は責めるつもりも資格もないんですが、話せない、というのは? 何か理由が?」
「……お答えできません」
「鴇羽を調べていたってことですよね。もしかしたら、他の人間も。具体的にはいつから? どうやって?」拒絶を取り合わず、高村は畳み掛けた。「オーファンといいましたね。あの怪物。あれはどこからやってくるんです? なぜ鴇羽たちでなくては倒せないとわかるのですか。それとも……ガキのようなことをいっていると笑わないでほしいのですが、我々一般人が知らないだけで、ああしたものは実は日本のどこにでも現れているのでしょうか。風華学園はなにか、全国的な秘密組織なのですか?」

 質問を募らせていく高村を見て、今度は舞衣のほうが彼を押し止めるべきか迷う。横目で顔色を窺えば、真白の穏やかな表情はどんどん能面じみたものへと変貌しつつあった。
(先生、やばいんじゃない)
 こっそりと肝を潰すが、退けない場面というものが舞衣にもある。ここは高村の尻馬に乗るべきであると判断した。
 だから控え目に意見した。

「あたしも……知りたいです」
「オーファンは古くからこの風華の地にだけ現れる存在です。具体的なことはいまだ判明していません。……その他の質問については、お答えできません」
「なぜ」
「高村先生。気になるお気持ちはわかります。わたくしどもの不手際でお怪我を負ったのですから、保障もいたしましょう。ですがこれはみだりに踏み込んでいい話題ではないのです。どうか、ご了承ください」
「俺には関係ないと?」
「いえ。そうではありません。あなたはもはや、関係者といってもよいのでしょう。だからこそ、これ以上は係わり合いにならないほうがいいのです」悼むように真白が眉根を寄せた。「ご心中、察するに余りあります。天河さんのことは大変な……」
 
 とたんに生木の爆ぜるような異音が響き、真白の口上が途切れた。舞衣にとっては何もかも一瞬の出来事であった。高村の体が椅子に深く沈んだと見えた次の瞬間、彼の腰掛けていた椅子の足がひとつ折れていた。当然バランスを崩して傾いだ背もたれを、すっと伸びた細腕が柔らかく受けとめた。時代錯誤なエプロンドレスに身を包んだ、それは真白の侍女の手に他ならない。
 いつの間に、と舞衣は思わず視線を行きつ戻りつさせた。あのメイドさん、今の今まで、あの子の後ろにいたのに。
 ひきつった顔の高村が、ゆっくりと背後に顔を向けた。

「まあ」のんびりと侍女が微笑んだ。「大変な粗相、すみません高村先生。こちらの椅子、どうやら老朽化していたようですわ。すぐに替えをお持ちします。少々お待ちいただけますか?」
「いえ。お構いなく」硬い声で答えて、高村は立ち上がる。降参するように両腕を挙げると、ため息をついた。「そう構えなくたって、社会人としての礼儀くらいわきまえていますよ」
「はい、もちろんですわ」どこまでも侍女はにこやかであった。
「それから、理事長」毒気を抜かれた様子で、高村は再度真白に水を向けた。「みだりに踏み込まないというなら、俺にとってその話こそそうなんですがね。いえべつに、たんなる不幸な出来事だったんですが、ほら。ごくごくプライヴェートなことですし、生徒の前で話して聞かせるようなことではないでしょう?」
「……はい。軽率でした」
「いや、こちらこそ、何か事情がおありのようなのに無神経に根掘り葉掘りと不躾でしたから」社交的な笑みを見せて、高村は取り残されている舞衣を見下ろした。「それで、鴇羽。俺はもうお暇するけど、おまえはどうするんだ」
「え、と、あたし?」
「そう、おまえ」
「あたしは」何かを訴えかけるような風花真白の顔から視線を外しながら、舞衣は呟いた。「あたしは物乞いじゃありません。あたしたちのことは、あたしたちでやります。……もちろん奨学金のことは感謝してます。今でも。だけど、危ないことなんてあたしはもう、二度としたくないです。それでこの学園から出て行けっていうなら……」

 次の言葉は、たやすくは接げなかった。今になって、玖我なつきの言葉が身に染みていた。
 持てるだけの勇気を振り絞って、それでも居残る事を選択した舞衣だ。
 その決意が、今は揺らぎかけていた。
(だからって、どうしろっていうの?)
 苦々しく、舞衣は吐息した。
 どうしようもないのだ。
 ここで真白に援助の打ち切りを宣告されれば、明日から舞衣は路頭に迷う事になる。真白がそんなことをするような人間には思えないが、可能性があるというだけで充分な脅威である。
(なんでこうなるのよ……)

「ですが」あくまで諭すような真白の口調だった。「オーファンを退治することは、引いてはあなた自身やその周囲の人々を守る事に繋がるのですよ」
(そりゃ、そうなんでしょうよ)

 そんな理屈は舞衣にだってわかる。ただ非凡さの塊である目の前の少女にはわからないことが、舞衣の基礎なのである。非日常が音を立てて舞衣の日常を侵食しようとしている。最初の譲歩が、きっといつかすべてを食い潰すことになるのだ。舞衣は確信めいた予感に、陰鬱となる。

「考えさせてください……」冷静さは時に毒だ。やっと紡いだ言葉は、当初の勢いを失っていた。

 あーあ、と高村がそんな舞衣を見て苦笑する。脛を蹴飛ばしてやりたい、と舞衣は心から思った。
 お人よしの己が性格とは十五年の付き合いだ。近い将来なし崩し的に厄介ごとに巻き込まれる自分が、舞衣にははっきりと見えたのだった。

 ※

「彼、まずいんじゃないの」

 客人を送り出したばかりの応接間で、炎凪が手付かずのケーキをつまんでいた。

「高村先生のことですか」唐突に現れた少年に驚きもせず、風花真白は瞑目して答える。
「なんかヘンなバックに取り込まれたみたいだしさぁ。妙なこと吹き込まれてるよ、絶対」
「そうだとして、わたしたちに何ができるでしょう。すべては筋書き通りに運ばれるだけです。彼が好んで舞台に身を投じるというなら、それを止める権利はきっと何ものにもありません」
「ま、あくまで主役はHiMEだしね」
「そういうことです」

 背もたれに体重を預ける真白の矮躯は、諦観から来る気だるさに支配されている。白昼に憂える美貌は絵画のような非現実さをたたえていた。

「そういえば、真白ちゃんは高村センセと面識があるわけ? 僕、聞いてないんだけど」
「連絡を頂いたのは先月で、直接出会ったのはそのときがはじめてです」
「命ちゃんのときか。でも……それじゃ計算が合わなくないかな」

 椅子の残骸。砕けた足と拉げた肘掛を見比べて、凪は掠れた口笛を吹いた。

「ええ。それよりも以前に、彼は一度この土地に来ていました。かの人々と縁を持ったのも、そのときの出来事が元なのでしょう」
「ふうん。ま、どうでもいいんだけどさ」ケーキを平らげた凪は冷めた紅茶に顔をしかめると、口はしを吊り上げた。「首には鈴、つけておくべきだと思うね。きみの管轄だろ?」
「手は打ちます」
「そ。さすが」

 賞賛の声にまぶたを上げると、そこに白髪の少年はいなかった。部屋にはただ、真白とその侍女、姫野二三が変わらず佇んでいるだけである。

「二三さん」静かに真白が告げた。「高等部の教務主任に連絡を。高村先生には創立祭準備会の臨時顧問に就いていただきます。藤乃さんにもその旨よしなにと」
「はい、真白さま」
「わたしは偽善者でしょうか」窓外に目をやって、真白は寂しげにそう漏らした。午後の燦々たる初夏の陽射しが、彼女の目を灼いた。「でも、正しいことは必ずしも善いことではないのですね」
「真白さま。偽善は、人の為の善と書きます」二三の手が、気遣うように細い肩に触れる。「どうか、そのように思いつめないでください」
「ありがとう」微笑んで、真白はふたたび目を閉じた。「少し……眠ります。お昼寝なんて、はしたないかしら……」

 車椅子の傍らに膝を屈すると、二三は静かに首を振った。

「こんなに気持ちの良い午後ですもの。どんなに忙しい方にだって、午睡をするくらい許されますわ」

 ※

 その夜――

 ※

 怪我人の体で歓迎会に出席した高村恭司を、杉浦碧は保険医兼悪友の鷺沢陽子と連れ立って、夜遅くまで引きずりまわした。とかく若年者にとっては気苦労の場になりがちな宴席を愉快なものに終始させたのは、彼女の人徳と押しの強さゆえによるものだといえただろう。

「夜はまだまだ長いよーッ」

 ※
 
 ロールシャッハという名のバーで、玖我なつきは懇意の情報屋に不正コピーした高村恭司の履歴書を手渡し、調査を依頼した。ヤマダと名乗る情報屋がおれはストーカーの片棒は担がんぞと冗談めかすと、なつきはスパークリングウォーターを不機嫌そうにちびりと飲んでこう言った。

「わたしはそいつが大嫌いだ。そのての冗談は二度と言うな」

 ※

「う、……うまい」
「あはは、大げさよ、あんたは」

 鴇羽舞衣は美袋命と、何の変哲もない夕食を囲んでいた。命がうろ覚えの兄についての話をすると、舞衣は自慢の弟の話をし返した。迷いはまだ何ひとつ吹っ切れてはいない。それでも、弟の顔を見れば大抵のことはへいちゃらになるのが、鴇羽舞衣のメンタリティである。それはちょうど命にとっての食事にも似た、いのちの洗濯なのだった。

「そういえばさぁ、ウチの弟ね、なんだか今日親切だけどヘンな人にお世話になったらしいんだけど、その人のこと師匠なんて呼んじゃってさ――」

 ※
 
 結城奈緒はいつも通り、夜の街にいた。目的はなかった。美人局も使命感に駆られてしていることではない。気が向かなければ、何もしない夜はある。チャイルド・ジュリアを駆ってビルの屋上に立ち、粘つく六月の潮風に髪をなびかせながら、うつろな眼差しで下界を睥睨していた。汲み尽きぬ苛立ちと鬱屈が彼女の全てだった。何もかもが煩わしく、どれもこれも消えてしまえばよかった。夜明けが近づいた頃にようやく訪れる眠気をただじっと待って、奈緒は内なる暴力の炎に身を焦がし続ける。

 ※

 浴室から出た藤乃静留は、携帯電話が着信を報せているのを聞いても慌てない。彼女にかかってくる電話というのはたいていが煩雑なものである。予算百億超の風華学園生徒会を預かる身分ともなれば、公私の別などないも同然だった。というよりも、静留の生活には〝私〟の要素が極めて薄いといったほうが正しい。実際二つ所有している携帯電話のうち、私用が急を告げることなどほぼ皆無だ。しかし寝室に入って着信音が明瞭になるや否や早足になって、静留は受話器を耳に当てた。

「――なつき? どうしはったの、こんな時間に。うちは今お風呂出たところやけど……もうかどにおるて、なんで? ……ふふ、そらこないな時間やし、ガソリンスタンドはしまってはるやろねぇ。えらい難儀おしたな。――ええよ、したらそこにいよし。すぐむかえに行きます」

 ※

 アリッサ・シアーズは深優・グリーアに見守られ、穏やかに眠っている。アリッサの寝相は驚異的に良く、深優は必要とあれば呼吸の振動さえ欺瞞できる。そんな二人の寝姿は、しじまに息する一対の彫像だ。しかしアリッサの寝言の名前によっては深優の顔色がわずかに変動することもあるが、余人はいざ、近しい人間ですら知らない秘密である。

「……うーん、お兄ちゃん……」
「……」






ワルキューレの午睡
第二幕
「舞」






 ――そして、ある夜に。

 高村恭司は、山深い森で一体の巨妖と向かい合う。梢を揺らす獰猛な唸り声に慄然としつつ、男は平静を保つために呼吸を繰り返す。彼は申し訳程度の武装として、腰のベルトに軽金属製の短棒を差していた。異形に相対する相棒としては甚だ心許ない得物である。正真正銘の怪物を対手に、無手同然で臨むなど、紛うことなき気違い沙汰だった。むろん、高村もゆえなく素手を保っているわけではない。まさか武術家ではあるまいし、おのれの肉体に自負も矜持も彼は持たない。
 欷歔のように不可知の獣は吠え立てる。存在の苦しみに対する、まさにそれは鋒鋩である。嬰児のように頑是無く怪物はわめく。己を生み出した世界を憾んでいる。仕えるHiMEを持たないオーファンが根本的に抱える寂寞は、耐えがたい苦痛となって彼らを責めさいなむのだ。
 高村には、聞き慣れた夜泣きだった。
 じりじりとオーファンから距離を取りつつも、宵闇にぼうと点る緑の三つ目は高村を逃がさない。

 たわむ巨躯。
 緊迫を孕んだ夜気が凍えた。

 動き始めたオーファンを、高村の両の目は捕捉する。危機意識がトリガーするのは連鎖的機構の第一段階だ。脊椎と脳皮質に埋蔵されたシステムの中核が神経を駆け巡る電気刺激に反応する。それらは計上するのも罵迦らしい情報量をそれ以上に理不尽な速度で処理化し、変換された疑似パルスが命令を伴って人工フィラメントをくだっていく。『高村恭司』という動体を導く何もかもが0と1に分解され、再結合される。蓄積・プログラミングされた膨大なコードの中から状況に最適な動作がデジタルな解として選択され、アナログな行動へと昇華される。
 それは失われた運動機能を代替するための施術。
 凡人に与えられた一欠けらの牙だ。

「Multipul
 Intelligential
 Yggdrasil
 Unit-Implant」

 ユニットを起動して、高村は敵を迎え撃った。






前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.032778978347778