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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第三部九節2
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/03/19 02:00
   ※

 商店街のアーケードでは提灯が鈴なりだった。地元企業や有志の名が連なる様は、万国旗さながらだ。週末に控えた玉響祭では、都心の夏にもおさおさ劣らない数の花火が打ち上げられる。今年は風華学園の創立祭に倍する人の出入りが見込まれており、例年になく機運が高まっていた。

「なーんか、最近いつもお祭りの準備してる気がする。学祭が終わったばっかなのに、もう今週は玉響祭かぁ。そしたら次の日は登校日でー、もう夏休みが残り二週間になっちゃう。はぁ、いやだなぁ」

 嘆じた宗像詩帆が、踊るようにその場で回る。進路に背を向けたまま歩き始めた年下の幼なじみを見るともなく、楯祐一はうだる暑さに不平を吐いた。

「ただでさえ暑苦しいのに、この時期は人があっちこっちから来るからなぁ。そういや、おまえんちもそろそろなんかやる時期だろ」

 詩帆の祖父が神主を務める封架神社では、元来の地祇に宗像の神を勧請して合祀している。というのも、宗像家は代々風華に根付いた家系ではなく、昭和後半、詩帆の祖父が神主として派遣されたのが発端なのである。そのため神道の組織図としては親に他社を持つ形を取ってはいるが、神社そのものの歴史は大変に古いと言われている。
 宗像が派遣される以前から封架神社では有志によって文献のたぐいが管理保管されており、ために研究者等ごく一部の好事家に名が通っていた。反面単純な神社としては、参拝客など年末年始の隣人しか詣でない零細である。地鎮祭は土地の貸し出しに並ぶ、宗像家の貴重な収入源なのである。

「そうだねえ。今年も巫女のバイトしておじいちゃん手伝ってあげなきゃ」詩帆が閃いた顔つきになった。「お兄ちゃんも好きでしょ? 詩帆の巫女姿」
「見慣れた」
「えー」詩帆が舌打ちした。「それじゃあ、旅行しようよ、旅行」
「ふざけんな。つながってねーだろ」祐一はしたり顔をした妹分の提案を一蹴した。「だいたい金もねえし、ゴールデンウィークに似たようなことして散々な目に遭ったの覚えてないのかよ」
「ああ、あれは凄かったね」詩帆が往事を振り返り神妙な顔になった。「ま、まあ、誰もケガとかしなかったみたいだし、見ようによっては貴重な経験だったのかも?」
「危うく海の藻屑になるとこだったっつーの」
「大丈夫」詩帆は力強く断言した。「溺れても、きっとお兄ちゃんが助けてくれるもんね。人工呼吸で!」
「それは鴇羽にでも頼め」
「女の子同士なんで不毛だからヤ」
「それ、人工呼吸じゃねえだろう」

 不毛と言えば不毛な会話を交わして、二人は日陰を選びながら歩いていく。目的地は大量のテナントを納めた地方にありがちなショッピングモールで、目当ては今更新調すると言い出した詩帆の水着であった。

「もう八月も半ばだぜ。海だってそろそろクラゲが増えるし、プールは休みが終わるまで人の海だろ。せっかくの小遣いなんだから別なモン買えばいいのによ」
「いいの! 初めて見たときから絶対買おうと思ってたんだから。この夏をあの水着が乗り切ったのはかんっぺきに運命なんだもん。あの渦巻き柄は、詩帆を待ってるんだよ」
「それはふつうに売れ残ってるだけじゃねえかな……」

 四つ尾という奇抜なヘアスタイルからも伺い知れることだが、詩帆のセンスには独特を極めた感がある。若干十三歳にして独自のファッションを確立しているのならたいしたものだが、祐一としては虫の習性に近い嗜好にしか思えなかった。
 もちろん、詩帆があれこれと理由をつけて誘いをかけてくることの意味はある程度心得ている。気落ちした彼を、慰めようと言う趣旨もあるに違いなかった。
 親しい友人である倉内和也が恋人の日暮あかねと共に消息を絶って、一ヶ月近くが過ぎていた。巷間は名士の令息である和也の失踪を駆け落ちとして取り沙汰したが、祐一にはそんな楽観的な見方はできなかった。
 和也は確かにあかねに関して盲目的な部分はあったが、元来聡明で堅実な少年である。いくらアルバイトでの蓄えがあるとはいえ、周囲を巻き込んで事件に発展しかねない軽挙に走る性格ではない。ましてや、身内にも友人にもいっさい前兆を気取られずに大胆な計画を実行できる人間ではないはずだった。
 いわゆる非行に走った過去のある祐一とは違い、和也には友人も多い。無責任にゴシップを堪能する外野でなければ、祐一と同じような違和感を抱くものがいてもおかしくないはずである。
 しかし実際には、本来もっとも騒ぎ立てるべき倉内家の人間が不気味なほど沈黙を保っているのが現状だった。日暮あかねの実家もまた、二人の失踪以来何らかの行動を起こした気配はない。もっとも、日暮家については、倉内家よりも明らかに立場が弱いという背景もある。娘が名家の跡取りと逐電したことについては、別の意見があるのかもしれない。
 いずれにせよ、問題はうやむやのまま、学園は夏期休暇に突入した。話題としてさえ、二人の消失は一過性のものとして扱われた。生じた空白を、いまだに持て余している自分が奇態なのかと祐一が自問するほど波風は立たなかった。
 責められるべきは誰なのか。
 数日前に、祐一がぽつりとこぼした心情に、生徒会副会長である神崎黎人がそんな疑問を呈した。「恋愛禁止」を校是に掲げているにも関わらず未然に事態を防げなかった学園。本人らの近い場所にいても前兆を気取れなかった家族。あるいはほかの何か。

「物事には落とし所が必要なんだとさ」祐一は神崎の発言を気まぐれになぞった。
「でも実際には、あかねさんたちのこと、誰も問題みたいにしてないよね。お家の人なんか、ふつうならここぞとばかりに学校に文句言いそうなものなのに」
「そうなんだよな」祐一はため息をついた。「落とし所どころか、誰が悪いなんて話さえ出てこない。みんなあっさり、あいつらがいなくなったことを飲み込んじまった。いくらなんでも物わかりよすぎねえか?」
「お兄ちゃんは、それがずっと気になってるの?」

 前触れのない発言ではあったが、詩帆は言葉の由来を正確に察したようだった。時折不思議な鋭さを見せる幼なじみである。

「そりゃあ、色々あんだろうさ」祐一はいった。「そのことにしたって、俺らに話が伝わってこないだけで、どっかで何かあったっておかしくねえし。大人連中がカタつけちまったってことだって、ありえるだろうよ」
「ある日、突然さ」詩帆が明るく笑った。「結婚しましたー、とか、子供ができましたー、なんて手紙が二人から来たらさ、素敵だよねっ」
「んな……」うまくいくかよ、という言葉を、祐一は飲み込んだ。「……ま、そんなんなったら、なんもかんも全部、笑い話だよなぁ」

 苦笑して、祐一は街路樹の木漏れ日に目を細めた。
 現実には、と彼は思った。和也とあかねの失踪が駆け落ちであるという見込みさえ、確実ではない。二人の失踪に事件性がないと端から決めつけられた一連の動きは明らかに不自然で、それはただの高校生である祐一にさえ気取れる違和感だった。
 だが、それを詩帆や他の誰かに対して口にすることの無意味さもわかっていた。邪推は、あるいは真実の一端を掠めているかもしれない。だが残酷で、何より噂と同程度無責任だった。
(それがわかってて、俺はあいつらを、探そうなんてしてもないんだ)
 幼い罪悪感の自覚が、沈黙を選択した由来だった。無力感を共有することの不毛さくらいは、祐一も知っている。

「参るなぁ」万感を込めて、祐一はつぶやいた。「暑くてよ。毎日、毎日」
「ほんとだね」

 同意した詩帆が、若干の驚きをもって祐一を見つめていた。祐一の返答を意外に思ったのだろう。互いに、それがわかるほどの時間は積み上げている。だからこそ祐一は詩帆に対して時折やりきれなくなる。彼女が寄せてくる真っ直ぐな感情を重荷に感じる。
 祐一は、ずいぶん長い間、いずれ詩帆を手ひどく傷つけることを予感している。むしろ、そうせねばならないと覚悟を決めようとしている節さえある。少年らしい潔白さが彼に結末を促し、だが一方で、詩帆が寄せる好意に、何ら具体的な返答をしないまま甘受しつづけてもいる。
(悪くはねえんだ。そうしたところで、何が悪いってわけでもねえんだ)
 逃避している自覚が彼にはあり、だから常になく詩帆との距離が近いこの夏は、多少息苦しかった。目的地であるショッピングモールの他を圧する威容が視界に入ったとたん、だから彼は安堵する。とにかく何かで詩帆に報いている間、祐一の感じる後ろめたさは軽減されるからだ。彼は思考を取り留めのないもので埋めていたかった。
 そんな散漫さが、彼に偶然の発見をさせた。

「あ」と祐一は声を上げた。

 進路上のカフェテラスに、少女がいた。アイスに大口でかぶりつく顔には碧眼が光り、目鼻立ちに異国の情趣がある。一見して目立つ容姿だった。身長に比して長い手足が、活動的なタンクトップとホットパンツに映えている。栗毛を後頭部でまとめてお下げを二つ揺らす仕草に、祐一は見覚えがあった。
 学園祭後の夜に一度だけ話した顔に間違いなかった。名前は確か聞いていない。名乗った覚えもない。ほんの数分、雨宿りを共にしただけの間柄である。昼日中に偶さか見つけて、判別がついた事実に軽い驚きすら覚えるほど浅い縁だ。

「んー?」

 と、少女が祐一を見返した。これもまた、奇遇の出来事だった。祐一は軽く手を振り、目礼した。アイスを手に持ったまま、少女が腰を浮かした。どうやら、祐一のことを覚えていたらしい。
 そのまま、すれ違う。少なくとも祐一はそのつもりだった。顔見知り未満の関係である。再会したところで話題もない。何より、詩帆は嫉妬深い。見知らぬ少女と話す祐一を見て、無闇に火種を起こさないとも限らない。

「あ、あ、あ! 見つけたー!」

 しかし、少女はそんなことはお構いなしに大声を上げた。祐一を指差し、席を立ち、小走りで駆け寄ってくる。

「やっと見つけた! ほんとに探したよ、もう!」
「え、だれ」詩帆が呟いた。「知り合い? ウチの学校のひと?」
「いや、さあ」祐一は正直な心情を吐露した。
「このあいだはどうも!」腰を折って少女が辞儀をした。めりはりのある動作だった。「いやー、そのセツはお世話になりました!」
「えっと、そんなたいしたことはしてない……よな」思いのほか律儀に接されて、祐一は戸惑った。
「いえいえいえいえ」少女が失敗を悔いるように、神妙な顔で首を振った。「あたし、よく世間知らずって言われるの。だからもう、なんていうか、お兄さんには恥をかかせるようなことをしてしまい、だけどそれは誤解で……まずはお互い、お友達からがいいかなあって」
「ちょ、ちょっと待て」祐一は言い募る少女を制した。「なんだ。なんの話してるんだ」
「な、なんのはなしって……」少女が頬を赤らめた。うつむき、アイスを一口舐めて、手足をもじもじさせた。「あ、あたし、なな、ナンパなんて生まれて初めてだったから」
「ナンパぁ!?」詩帆が声を裏返らせた。「お兄ちゃん! なにそれ!」
「ナンパ!?」祐一も喫驚した。
「その、流儀っていうのかな?」少女は続けた。「そういうの、ぜんぜんわかんなくて、ただ親切だなーって思ってたの。でもセンパイにお兄さんのこと話したら、それはナンパだって……だからあたし、びっくりしちゃって」
「違えぞ。それは違え」祐一は少女を落ち着かせようと試みた。詩帆が容疑者を見る視線を右から刺していた。「あれはナンパとかじゃねーって。落ち着いて、冷静に考えてみろ」
「ええ?」少女が上気した顔で上目遣いをした。まず親指を折りながら、「まずぅ、夜、あたしがひとりでいたら、声をかけてきて」
「おう。だよな」
「ダウト」詩帆が早くも割り込んだ。
「それで次に、おごってくれる、って言われて」人差し指が折れた。「ジュースをおごってもらって、とっても美味しくて」
「う、うん」祐一は一寸声のトーンを落とさざるを得なかった。
「ダウト!」詩帆が鋭く言った。
「それでそれで、雨が降ってたから、これを使いなよベイビーって、自分が濡れるのも構わずレインコートを貸してくれて」
「ベイビーとかは言ってねえぞ!」祐一は訂正した。
「ダウト!!」詩帆が叫んだ。
「最後に」四本目の指が折れた。「また会おうねって約束した」
「それそっちが言っただけじゃねえか!」
「ギルティー!」詩帆が高々と有罪を宣告した。よどんだ眼で、祐一の脛をリズミカルに蹴り始める。「あぁーあ、あぁーあーあ。最近よーやくちゃんとしてきたと思ったのに。グレてた頃の悪いお友達もすっかり縁を切ったと思ったのに。どうしてこう、綺麗にしたと思っても後から後から湧くのかなぁ?」
「痛えから止めろバカ」

 言いざま、詩帆の蹴り足を掴み取った。ホールドした足首を胸元まで持ち上げると、当然の帰結としてマイクロスカートがめくり上がった。色白な脚の付け根までを露出させて、詩帆は瞬時に赤面した。抗議の拳を振り上げる。

「話せばかー! うわきものー!」
「浮気っ」少女が耳ざとく詩帆の発言を捉えて、祐一から一歩距離を取った。「も、もしかしてそこの人、お兄さんの恋人なの? あたし、もてあそばれた!?」
「そうよ!」詩帆が即座に肯定した。「あなたなんかねぇ、どこの誰だか知らないけど、ぽぽいのぽいっ、よ!」
「違うって」祐一は沈鬱に否定した。「浮気でもねえし、そもそもナンパなんかしてねえ。めんどくせえな、もう。俺、帰っていいか?」
「……もっと慌ててくれたっていいのに」ため息をつくと、詩帆はあっさりと糾弾の姿勢を解いた。「ごめんお兄ちゃん。おこんないでよ。詩帆、べつに本気じゃないから。お兄ちゃん、年下の子ってあんまり好きじゃないもんね。……足、放して?」

 祐一もまた、嘆息をもって詩帆の謝罪に応じた。いつものことだった。とかく詩帆は、祐一の異性関係に過敏になりがちである。同時に苛烈でもあって、その女性性のようなものはしばしば祐一を鼻白ませた。詩帆も自らの性質に自覚的で、そのために祐一に疎まれることを酷く恐れている節がある。
 十年来の付き合いである祐一には、ある程度慣れがある。問題は二人に巻き込まれる側だった。詩帆の嫉妬に対して、表れる反応はわかりやすい二つしかない。寛容か敵対である。祐一の頭を本当に悩ませるのは、その点だった。詩帆はほとんど謙るということをしない。憚ることもない。感情の抑制が不得手であり、自意識のある部分にとても鈍感だった。そこに人見知りの性格が合わさって、彼女の人間関係を限定的なものにしている。
 様子をうかがうように、祐一は少女を横目した。融けかけたアイスクリームを慌てて舐め取る素振りに、怯えや怪訝は認められない。少し話してすぐにわかったことだが、どうやら少女は一風変わっているようだった。豪胆かつ大雑把という表現がぴったり合う気がした。

「あれ? お話はまとまりました?」少女がお下げを揺らしながら問うた。
「あなた、なんかへんな人ね」詩帆が顔を引きつらせていった。
「あはは、まあそれはそれとして」少女が顔中で笑った。「ナンパはともかく、あたしこっちに来たばかりで知り合いとかぜんぜんいないんだ。そんでね、せっかくだから、二人には友達になってほしくって。お兄さんもそっちの子も、風華学園の生徒でしょ? あたしもね、ちょっとの間だけど、九月から通わせてもらうことになってるの」
「転入生なんだ。って、そういえば日本語上手すぎて忘れてたけど、外国の人っぽいもんね」詩帆がやや警戒心を薄くして、少女をまじまじ見つめた。「お兄ちゃん、そういう話聞いてる?」
「いんや」記憶を探ったが、祐一に心当たりはなかった。「そういや最近、学校に外国のお客さんが来たとか、そんな話聞いたけどよ。あれは違うかな」
「全裸の痴漢が校内に出没してパトカーが出動したって、詩帆は聞いたよ」
「それ初耳だぞ」執行部長の剣幕を思って、祐一は青ざめた。「ま、まあ夏休みだし、ほとぼりもその内冷めるか。てか、この炎天下に立ち話ないだろ。いい加減なか入ろうぜ」
「あ、うん」自侭に歩みを再会した祐一を、詩帆が追う。笑顔で少女を振り返った。「あ、それじゃああたしたちこれから買い物に行くから――」
「はい!」少女が頷いた。「ぜひ、ご一緒させてくださいね! うわあ、楽しみ!」
「え゛っ」詩帆が露骨に顔をしかめた。「いやいや、ちょっと貴女、空気読みなさいよ……」
「南南西の風ですねー。ぬるいですー」少女がにっこりと笑った。「あ、名前名前、そういえばまだ自己紹介してなかったじゃん! これは失礼しましたっ」
「いや、名前とかは別に」
「あたし、夢宮ありかっていいます!」溌剌とした名乗りだった。
「わざとよね!? あんたそれわざとでしょ!?」詩帆がついに声を荒げた。
「俺は楯祐一」肩越しに詩帆と夢宮ありかを振り返り、祐一はなおざりに応じた。「そっちは宗像詩帆。まあ、そいつトモダチすくねーからよ、良かったらよろしくしてやってくれよ。……って、そーいやおまえ、何年だ? たぶん中等部だよな」
「えーと」ありかが記憶を探る目つきになった。「ばっちゃが今年十四歳くらいって言ってたから……」
「? 今年十四なら二年だな。なんだ、学年も詩帆と同じかよ。よかったな、友達増えたぜ」
「詩帆友達少なくないもん!」詩帆が祐一の腕を激しく揺さぶった。「お兄ちゃん、これは話が違う! デート! リコール!」
「しゃあねえだろ」祐一は嘆息した。「ここでそれじゃあっつって別れたら仲良くする気はありませんって言ってるようなもんじゃねえか」
「する気、ないもん!」
「なんなら俺帰るからよ、二人で遊んできたらいいんじゃね?」
「そんな選択肢はありえないでしょぉ!?」大げさに地団駄を踏む詩帆だった。「せっかくのデートなのにぃ……」

 落ち込む詩帆をよそに、祐一は空を見た。
 濃厚な碧空の半面を、佇立する建物のシルエットが切り取っている。美術展の開催を告げる垂れ幕が壁面に流れ、左方の立体駐車場は混雑している様子だった。この分では、建物内も人いきれに違いない。実際カフェテラスの窓から見える店内には、うんざりするほどの人間が行きかっていた。主な客層はやはり子供を連れた家族である。恋人同士と思しき組み合わせも間々見えた。無意識に和也とあかねの姿を探している自分に気づいて、祐一は自嘲した。
 無為な休日に、名目を与えて自分を慰めようとしていることに気づいたのだった。
 汗ばむ体は、体力を持て余している。日ごとに鈍る肉体は運動を渇望しているのに、障害の残る腕だけが黙然として主人に何も応えようとしない。
 友人が消えた夏に、彼は腐ったままだった。少なくとも、自分ではそう感じてならなかった。
(何やってんだ俺は――)
 言葉を聴いた。
 

「――あ。二人とも、そのまま歩くと死んじゃう」


 意味まではつかめなかった。
 転瞬、祐一の身頃を強大な力が握りこむ。さらに観れば右手にすがりついていた詩帆の髪が二房、鷲づかみにされていた。まともに首を痛める制動をかけられて、詩帆が痛みに小さく悲鳴を上げる。喉を絞められた祐一も、同様にうめいた。
 唐突な横暴を行ったのは、無論夢宮ありかに違いなかった。風変わりな少女へ早速抗議の視線を向けようとして――

「 あ ?」

 かなわなかった。
 熱のこもった風が、不意に前方で膨張した。皮膚の数ミリ先で火炎が燃え盛る熱を感じる。と覚えた刹那に、祐一はたたらを踏んだ。何の誇張もなく、吹き付けてきた突風で体が浮いたのだ。
 足先から吹き飛ばされそうになる体を片手で抑えるのは、祐一よりも頭ひとつ以上小柄な少女の腕力である。考えるまでもなく異常だが、ありかの怪力よりもなお信じがたい景色に祐一の意識は奪われていた。
 何もかも不可思議な光景だった。
 左でベンチが直立していた。
 右で詩帆がありかに庇われていた。
 胸に詩帆を抱きしめた夢宮ありかの、視線の行く手は正面に座すショッピングモールの一階である。祐一は無音の暴風の中で、かろうじてその視線を追った。
 地獄が見えた。
 視界で一際目立つのは全面が蜘蛛の巣のような罅に覆われ、今にも崩れ去る寸前のガラスだった。印象は過たず、半秒後ガラスは全て砕け散った。詩帆と祐一を異様な怪力で引きずったありかが、立ち上がったベンチの影に滑り込んだ。祐一は硬直したまま、目端に捉えた光景に息を呑んだ。風の暴発に遅れて、赤い焔が膨れ上がるのが見えていた。どう見ても自分の半分ほどしか背丈のない子供が、二人まとめて火に飲まれるのが見えた。アスファルトを冗談のような勢いで滑る物体が、子供を抱いた女性だとすぐに気づけなかった。
 最後に、音が来た。
 耳を劈いた衝撃に、遅ればせながら祐一は思考を再開させた。
 爆発した、と彼は思った。爆発した。何かが、今まさに足を踏み入れようとしたショッピングモールで、爆発したのだ。
 そうと気づいた瞬間、はっとして祐一は即座に動いた。詩帆と、そしてありかを守らなければならない。直前に自分がまさに守られたことにまでは、まだ考えが回らなかった。
 激痛が両耳の奥でほとばしった。鼓膜が破れたのかもしれない。だが頓着せず、彼は身近な少女二人を抱きすくめ、地面に引き倒した。詩帆が胸にすがりつき、何事かを口走るのが触覚でわかった。お兄ちゃん、と言ったのだろう。
 砂利が、飛礫か、もしくは硝子片が、ベンチの障害を貫いて祐一の体を打った。祐一は何事かを叫んだ。言葉にならない悪罵だった。
 死のイメージが頭を過ぎった――。
 かつて、腕に刃を突きこまれた瞬間と同じだった。怯えに身が竦んだ。守るようでいて、頼るように祐一は腕に込めた力を強くした。
 その腕を、ありかの手が優しく叩いた。そのまま彼女の手は、蹲った姿勢で耐える祐一の両耳に添えられた。いぶかる余裕もない祐一は、ただ至近距離にある顔を見つめ返した。
 暖かい何かが、ありかの手から流れ込んできた。
 痛みが潮のように引いていった。嘘のような唐突さで。

「大丈夫だよ」とありかが言った。優しさに溢れたその声ははっきりと聞き取れた。「大丈夫。大丈夫だから」
「何がだよ」消え入るような声音で祐一はいった。

 ありかは応えなかった。するりと祐一の腕から抜け出し、その場に立ち上がった。これまでの印象にそぐわない、無表情に近い面持ちが印象的だった。
(なんなんだ)
 祐一は咳き込んだ。掌をついた地面に滲む太陽の熱が、今は別種のものに感じられてならない。汗を拭うつもりで頬に触れると、指先に血液が付着した。大した痛みはないが、鮮血の赤さは平静を失調させる不吉な色だった。
 頭上には真黒な煙がたなびいていた。周囲で輻輳する悲鳴と泣き声が聞こえた。誰かを呼ぶ声も絶え間なかった。大挙して変わり果てた入り口から逃げ出そうとする人の群れがあった。女性の長髪に火が灯り、それを同行する男性が必死の体で消そうとしている。転んだ子供の手を引こうとした年長の少年が、乳児を抱いた中年の男性の足に激突して自らも転倒した。
(なんなんだよ)
 覚束ない心地のまま、祐一もまた身を起こした。正義感や義侠心に持ち合わせがあるつもりはない。
 だが、何かをせずにはいられなかった。
 ふらつく足取りを、だが、引き止めるものがあった。

「お兄ちゃん……っ」

 詩帆だった。腰が抜けたように座り込んで、祐一の腕を決して放そうとしなかった。激しくかぶりを振って、この場に放置されることを拒んでいた。それを一瞬だけ都合良く思って、祐一は吐き気をこらえた。偽善にも偽悪にも関心はない。だが、彼の自意識は醜さに敏感だった。

「こういうのは、嫌だな」ありかが呟いた。見開かれた瞳から大粒の涙を流していた。「嫌いだ。嫌いだよ……酷い」

 そう言って、ありかは頭上へ眼を向ける。挑むような目つきだった。

「……上?」

 憔悴した祐一もまた、ありかが認めた異形をすぐ眼にすることとなった。
 轟音とともに、十数メートル離れた地点に着地する巨体があった。
 瓦礫が散逸する。駐車場であったスペースを滑る様は、むしろ墜落といった様相だった。はじめ祐一は、屋上の貯水槽が落下してきたのかと考えた。地階の爆発による影響でそこまでの衝撃は考えにくいが、落下物はそうとでもしなければ頷けないほどの大きさだったのだ。

「……え?」だが正体を認めて、祐一は呆けた声を上げた。

 蜘蛛の怪物。
 そう評するしかない代物だった。
 歩脚と触肢、そして鋏角――シルエットと機敏な動き、いびつに膨らんだ前体と後体は日ごろ見かけるそれと同様である。違いは中心部に屹立する女性を象った彫像と、スケールしかない。
 ショック状態が奏功したのかもしれない。非現実的な物体を前にして、恐慌を来たすでもなく、祐一はまず自身の正気を疑った。だが、彼と同様に、他の人々も同じ異形が見えているようだった。反応は示し合わせたように一様で、皆々が口をつぐんで、じっと眼前の物体を注視していた。悲鳴や混乱そのものは蜘蛛に対するものではない。不気味な一拍の静謐を、目撃者たちは共有した。

「なに、あれ」詩帆が上ずった声を発した。「なんなのよぉ」
「……さぁな」彼女をかばう位置に立って、祐一はぶっきら棒に応えた。

 それよりも、眼を引かれてならないものがあった。大蜘蛛の化物は体積にして人に十倍する威容を誇っている。人間を運搬することなど容易く思えた。そして、実際に蜘蛛は人間を二人、載せていた。

(あれ?)

 もっとも、目視は一瞬のことだった。大蜘蛛は八本の足をたわめると、一転高々と跳躍し、濛々と黒煙を吐く壁面へ二脚を突き刺し張り付いた。さらに巨躯にそぐわぬ機敏な動きで、三十秒も経たない内に、衆人の環視から脱した。

「あ」と漏らしたありかが動き出しかけて、ふと迷う素振りを見せた。

 呆気に取られる祐一と、怯える詩帆を顧みる。表情には戸惑いが見て取れた。
 が、すぐにそれも消える。あたりの惨状に眼を向けると、夢宮ありかは毅然と宣言した。

「あたし、ちょっと中に入ってけが人さんたちを運んできます!」

 止める間もなく走り出し、ありかは文字通り一瞬で、いまだ炎上する店内へ消えた。見送る祐一は、根拠もなくありかの無事を確信していた。物理的にありえないことだが、ありかが何かに害される、というイメージがどうしても浮かばない。

「情けねえ話だ」ため息しか出なかった。無力感にうなだれかけて、自分を見つめる詩帆に気づいた。「怪我は?」
「ないよ。ありがと」詩帆が、強張った表情で、無理やりに笑った。「お兄ちゃんが、守ってくれたからだよ」
「俺はなんにもしてねえよ」

 何もできなかった。ただ巻き込まれただけだ。以前、高村恭司を交えてあの辻斬りに出会ったときと同じだった。
 ただ場に居合わせて、そして流されている。息巻いて不貞腐れ、結局動き出せない。
 空は、数分前と全く変わりない。ただ地上は、何もかも様変わりしている。詩帆の手を引いて助け起こしながら、祐一の意識は別の場所に飛んでいた。先前、眼にしたものが網膜に焼き付いていた。
 蜘蛛の化物に跨っていた二人の顔は、どちらも彼の見知ったものだった。

「あれは、玖我と……結城奈緒じゃねえか」

 サイレンの音は、どれだけ待っても聞こえてこない。

   ※

 首尾を確認して、石上亘は吐息する。痛ましい犠牲が大量に出た。良心が痛むのを感じた。真田紫子の前で涙を流し、懺悔して見せた。
 紫子は、それを赦すことしかできない。
 それを知っていて、石上は愛を囁いた。
 はじめ、紫子の体を奪った際には薬を用いた。だが二度目以降、紫子は罪悪感を訴えながら、むしろ積極的に石上に抱かれている。真田紫子には、淫乱の気質があった。同時に間違いなく聖女の素質を有している。この矛盾した女を、石上は確かに愛していた。とても優れた道具として、愛着も感じている。それは概ね、余人の語る愛情と区別できないものだった。紫子も石上の言葉を嘘ではないと感じているからこそ、彼から離れられずにいる。
 だが、石上の目的がある面で人道にもとると察して以降、紫子の顔が晴れることはなくなった。愛し合うときばかり、彼女の反応は激しくなった。石上について離れず、ことあるごとに翻意を呼びかけた。その全てを、無論石上はかわしている。

「きみがHiMEである限り」石上はいった。「紫子、きみはぼくの女神だ。変わらない愛を誓うよ。神にだって、何にだって」
「……亘さん」

 髪を撫でられ、紫子の目が細まる。と同時に、石上に連絡が届いた。不満げな素振りの紫子は、珍しく稚気を見せている。その彼女に沈黙のサインを送って、石上は携帯電話を耳元へ当てた。

「はい。ええ、お察しの通りです。――ええ。やり方は一存するとおっしゃられたので、そうしました。いささか乱暴ではありますが、効果は覿面でしょう。この機に乗じようという輩はすでに手引きしてあります。ほどなく、風華の地は飽和状態に陥るでしょう。であれば、僕たちの共通の宿願である黒曜の命も、貰い受ける機会が巡ってくるというものです。……ですから、必要な犠牲ですよ。そうでしょう? これまでだって何百年も、命を見捨ててきたのです。今回だけだなんてそんなうまい話はないのですよ」

 通話の相手は、口ごもる。
 石上は冷笑とともに、空を見上げた。

「そうそう、結城奈緒と玖我なつきがあなたを頼るかもしれませんが、心得ていますね。それをしては台無しというものです。彼女らこそ、尊い人柱です。――お願いしますよ、風花理事長」

 媛星の姿が、いまの彼には見えていた。

   ※

 風華市内で大規模な『爆発事故』が発生した同時刻、尾久崎晶は例によって鴇羽巧海の入院する病院へ足を運んでいた。決してほかにすることがないわけでも巧海にほだされたわけでもない、と自分に言い訳する晶の足取りは軽い。生まれてこの方得たことの無い気心の知れた友人を訪う楽しさに、彼女の鋭さは少しならず鈍っていた。
 心中、危惧を囁く声は確かにある。
 連日、一番地の施設を襲撃するHiMEの存在も正体も晶は知っていた。シアーズ財団と本社の間に不穏な動きが見えることも、異国の諜報員が風華市に潜り込んだことも心得ていた。この時点で、晶の持つ情報的なアドバンテージは市内を跋扈する組織と比べても決して遜色はなかった。そして晶の正体を知るものは、一番地を除けば間違いなく皆無である。そうした状況に対する余裕が、今ならば多少の油断は許されるという意識へ晶を誘導していた。
 スケッチブックを小脇に抱え、歩を進める晶の装いはいつになく軽装であった。襟ぐりが深く肩を露出し、つるりとした脛を外気にさらした格好は、少年と少女の区別を曖昧にさせる。その面立ちの端麗さもあいまって、今の晶を初対面の人間が見て男性と判じる確率は低い。言語と印象の狭間で、晶は巧海に自分の正体を見破られるかもしれない、というスリルを楽しんでいた。無論知られれば晶は巧海を殺さねばならない。だが晶が否定する限り巧海が真偽を判別する術はない。出目のわかっている博打はつまらなくも面白い。浮ついた気分で闊歩する晶はいま、少女でしかなかった。
 だからだろう。
 巧海の病室へ向かう道中、人間ではない少女人形とすれ違っても、全く気づくことはなかった。その少女が巧海の部屋に置かれていたノートPCを持ち歩いていたにも関わらず、晶は見過ごした。炎凪の隠行を一瞬で見破った彼女の犀利さは、このときどこかに捨て置かれていたのだ。

 病室の扉を開けるその瞬間まで、巧海の笑顔が自分を迎えてくれると、晶は信じて疑っていなかった。

   ※

 四年前、高村恭司の実家で、それは起きた。

 満天と身体を徹底的に圧する暗闇と、物理的な重量感。脊椎に何か平たく硬く重たいものが押し当てられ、内臓を潰そうとする勢いで迫ってくる。
 やがて、肺が持ち合わせた呼吸のすべてを諦めてしまう。酸素は血液からも搾り取られ、眼球は盲いた黒から眩んだ白を直視する。肋骨の軋む音が聞こえる。咽喉をなま暖かい流動物が通り過ぎる。鼓膜が高周波のような耳鳴りをとらえ始める。口唇から唾液の糸が落ちた。
 気がつけば涙も流していた。半身の感覚が失せていた。下腹部をあいまいに浸す不快な温もりは大方糞尿に由来するものであると想像がついた。惨めだった。だが惨めだから泣いているわけではない気がした。叫びを打つべき喉はただ胃液を生む楽器になっている。目は用を為さず涙滴を排泄し続ける。毛筋ひとつの身じろぎも許さない拘束は痛みと狂おしいほどのもどかしさを伴った。途切れる呼吸の狭間で言葉に満たないうめきがいくつもこぼれ落ちた。精神の汚濁を煮詰めて抽出されたその意思はいっそ純粋で、途方もなく美しいのかもしれなかった。ただし無意味だった。
 何の意味もない美しさが、どうしようもない無力さに符合する。遠彦に似た己の喘鳴を聞きながら、利己的な狂気と向かい合い続ける。音に届かない声を振り絞り続ける。
 願いがあった。
 単純なひとつの希求だった。それを自意識のゲシュタルトが砂礫になるまで繰り返しこいねがう。切望する。ほんのひとかけでもこの祈りが届くならば、他の何もいらないと心底思った。
 天河諭は死んだ。朔夜に殺された。その朔夜にしても最早死人も同じだった。殺してやるのが明らかに慈悲だった。だが手ずから教え子を殺める意気はない。どこか隔たった場所で誰かが朔夜に手を下すのだろう。それを悼むことを責務に選びたかった。たとえば優花・グリーアのデスマスクをまとったあの少女人形が、子犬のように自分に懐いていた娘を殺めるのだ。痛ましい出来事だった。永遠に距離を置いておきたかった。

 高村恭司は死にたくなかった。

 勇敢さを振り絞った瞬間もあった。ほんの数十分前の出来事だ。ある生命のために己が身命を賭すことにためらいも悔いもなく、彼は荒れ狂う怪物の鼻先に剥き身の魂をさらした。
 生まれつき、高村には極端な性が備わっていた。そうでなければ、行動力溢れる幼なじみに感化されたのかもしれない。普段の穏和さとかけ離れて、彼は必要と判断した暴力の行使にまったく迷いを覚えなかった。その根幹には他に類を見ない責任感か、もしくは使命感とでもいうべきものがあった。特に自任した役割を果たすためならば前後を省みないところがあって、そのために他者と衝突することさえまれにあった。今度もまた、異常な状況であっても、教え子のために危地へ自ら躍り出た。
 結果、家族が死んだ。
 陽気な両親だった。年を経ても夫婦仲はむつまじく、子供ながらに家庭では疎外感を味わうこともあったが、それでもふたりは一人息子に惜しみなく愛を注いだし、その甲斐と恋人の存在もあって高村の精神的自立は早かった。彼が家を出た後は、肩の荷を降ろした様子で、夫婦水入らずの生活を楽しんでいるのを、高村自身も屈託無く喜んでいた。今回、季節外れの帰郷にも、二人は素直に喜んだのだ。まさか、息子が自分たちの死を運んできたなどと、思いもよらなかったのだろう。
 自責はある。悔恨がある。怒りも復讐心も悲しみもある。だがそれらの何一つ、意味はなかった。高村自身もまた孤独と闇の中で息を絶やそうとしている。呼吸の実行さえ危ぶまれる危地に追いやられ、徐々に思考は単純な直線に集約され始める。
 過去も、未来も、消えていく。
 死がこころを埋める。いや、心そのものになる。希死と拒死の念慮がせめぎあい、言葉がほつれて形をなさなくなり、彼はやがて考えることを放棄する。

 ――。

 それは夢ではなく、彼の現実だった。それから四年近くが過ぎたいまでも、高村恭司の一部は同じ場所にいる。
 まぶたの裏には、暗闇や安息ではなくもう一つの世界があるだけだ。
 瓦礫に埋もれたすぐ傍で、だから彼はいつでも両親に会うことができる。入院中に荼毘にふされた二人は、彼の心象において一抱えの骨壷だ。ものいわぬ無機となった両親の名残を、悪夢にする己の心理を高村は憎む。
 長く退屈な夜を夢の中で過ごすことで、疲労は確かに癒えていく。だが、代償は重い。この場に立ち返るたび、高村は追憶を要求される。内界にあって外的な出力が働き、高村に最低の夜を繰り返し体験させている。
 何がそうさせているのかを、高村はすでに知っている。
 だが、何のためにこんな思いをせねばならないのかは、まるで理解できなかった。

「そろそろいくの?」という声は、優花・グリーアのものだった。姿はない。この世界で肉体をもつものは高村だけだ。
「そろそろ起きなくちゃな」と高村は答える。「いいかげん妄想と現実の区別がつかなくなってる。俺はもう飽き飽きしてる。懐かしいおまえの声をつかってありきたりな自問自答を繰り返したって、それはせいぜいトートロジカルな開き直りにしかならないんだ。ばかばかしいよ。そうだろう?」
「結局」声だけが、生々しい情感を持って、再現された。「恭司くんはもう、わたしのことは、消化してしまったんだね」

 高村は答えなかった。確かに、優花の夢などここ数年の間、一度も見たことがない。先刻再生された優花との思い出は、ジョセフ・グリーアと深優・グリーアによる処置のためだ。優花の面影を強いて悼むのは決まって深優を通してのことで、それはきっと薄情なのだろう。

「でも、もうすぐ会えるよ」と優花はいう。深優の顔で。深優の声で。
「でも、それはおまえじゃないんだ」と高村はいう。あたりを指し示して、どこへともなく言い聞かせる。「この世界と同じなんだ。どう思う? わかりやすい、陳腐な風景だ。まるでツールだ。罪悪感や後悔やらをいっしょくたにして、心象風景でございなんて顔をしてる。俺は正直、うんざりしてる。もうわかったよってずっと思ってる。十分苦しんでるし、そんなことを、わざわざ誰かに言い続けられなきゃならないなんて、自業自得とはいえ面倒すぎる。そう思わないか――『ほら、ここに傷があるぞ』って、いったい誰が誰へ主張してるんだろうな。俺か? それとも朔夜か? どっちにしても、妄執の産物なんだよ。それは希望なんかじゃないんだ。きっと、ただの慰めでしかない。そんなものなんだよ。本当に……」

 昨夜と同じだった。顔面が引きつっている。泣きながら目覚める感覚があった。
 だが頬に濡れた後はなかったし、泣き喚いたあとのような空虚さも感じない。
 あいも変わらず、眠った気がしないなと彼はごちた。

「本当に、惨めなだけだ」高村はあくびをしながら繰り返した。 

 寝台から上体を起こすだけの動作に、随分と労力を払わなければならなかった。清潔なシーツを握りしめ、歯を食いしばり、全身にびっしりと細かい汗を浮かべて、仕果たしたのがそれだけの運動だ。鍛えた肉体も、今は重たい枷でしかない。
 昨晩、一度目覚めた際、体の自由はまったく利かなかった。しかたなく目を閉じて都合のよい眠りを期待したが、意外と言うべきか、近年では稀有なほど熟睡したようだった。その間に深優・グリーアに押し倒された部屋からは移されたようで、見渡した空間の調度に見覚えのあるものはない。
 例外は、隣の寝台で目を閉じて仰向けに横たわる九条むつみだけだった。
 時間の感覚は曖昧だったが、およそ一日半振りの再会である。その間に、高村は見通しと満足な体をまた失い、むつみは右手の指をいくつか失った。それを示すように、むつみの右手先には仰々しい包帯が巻かれている。左腕からは点滴が延びて、微動だにしない顔の血色はとても悪い。麻酔が効いているのか、彼女は昏睡に近い状態にあるようだった。
 いまのむつみが夢を見るとすれば決して穏やかなものにはならないことは、高村にもわかる。彼女の眠りがなるべく深くあるように、高村は願った。
 数秒、むつみの寝顔を眺めていた。健やかとはいいがたい寝息を立てる女が、十七の娘を持つ母と言われたとして、高村ならば猜疑する自信がある。
 むつみはかつて顔を変えたが、美容整形ではなく単に外科的な処置であったと聞いている。だからか否かはともかく、彼女は決して非現実的な美貌を備えているわけではない。どんな目方にも符合しない若々しさがあるのでもない。むつみのまとう陰や儚さは、生来の雰囲気にとけて区別がつかないほどだ。能力やキャリアが飛び抜けたむつみに対して、若輩極まる高村が根本的な気後れを抱かずにいられる理由はそんな印象にあった。

「ナースコールがないのは残念だな」

 うそぶく高村は、断崖を臨むように恐々と寝台から足を落とした。半身の緩やかな麻痺は痺れに止まっている。自由は利かないが、ユニットが制限されたからといって完全な無感覚に陥ったわけではないようだった。深優の温情でないのならば、費やした数年が、高村の肉体を快方に向かわせているということだ。あともう何年かをかければ、生活に不都合のない程度の回復は望めるのかもしれない。
 意味は、全くない仮定だった。

「さて」

 目覚めたタイミングを計った誰かが、一から十までを説明してくれる幸運には恵まれなかった。であれば、彼が頼れるのは己だけである。
 九条むつみを覚醒させるという選択肢は浮かばなかった。怪我をおもんばかったためでもあるし、根本的に、彼女はすでに目的を果たした人間であると高村が判断したためでもある。実子に事実上の決別を宣言した直後の母親に、これ以上何かを要求するのははばかられた。
 無論、不要な気遣いではあった。高村にしてもそれはわかっていた。ただ、気の進まないことをあえてやるだけで好転するような状況ではないことを、悟っていただけである。
 足を引きずり、汗を垂らして、彼は部屋を出た。鍵はかかっていなかった。扉ひとつを隔てて、すでに見慣れた地下道に出くわした。潮のにおいと錆びた風。シアーズが一番地からもぎ取った空間に、人の気配はない。アリッサの騒がしい声も、深優の落ち着いたつぶやきも聞こえない。水路を流れていく水音を耳に捉えて、高村は歩きだした。
 目的であるジョセフ・グリーアの部屋からは、明かりが漏れていた。当然ながら地下には日の光は届かない。まばらに吊られた即席の電球が唯一の光源である。潤沢な光は闇の中で目映かった。
 高村は、ノックもせずに戸を開いた。
 視界に入る室内は、いつもと同じく意想外のギミックに満ちている。身震いするような室温と、仰々しくうなりをあげるサーバ、そして正装の神父の背中。モニタに向かい合い途切れなくキーをタイプする初老の男に、高村は声をかけた。

「お役に立てましたか」
「望外の結果だったよ」とグリーアは答えた。「すでに九割方、私という人間の目的は果たされた」

 振り返らない背中に、高村は白けた視線をぶつけた。古い知人に対するにしては、彼自身意外なほど冷え冷えとした心地だった。グリーアの能力と心境に対して嫉妬をしていることを、高村は自覚した。

「グリーアさんの九割は、優花が持っていってしまったんですか」
「そうではない」グリーアは手を止めずに答えた。「あの子の死は、やはりあの子だけのものだ。私はただ、傲慢で勝手なだけの父親だし、人間だよ。愛がそうさせるのだとは、言うべきではないな。きわめて利己的な感情に基づき、私はあの子を再生させようとしている。……ああ、これで最後だ」

 そこでようやく初老の神父は高村へ顔を見せた。差し迫った状況下だからというわけでもなく、グリーアの面貌に高村は不意をつかれた気がした。
 老いた男がそこにいた。優花はグリーア夫妻にとって遅くできた娘ではあったが、それでもジョセフ・グリーアは未だ壮年といっていい年齢のはずである。激務による疲労や、愛娘を失ってから過ごした年月が、彼から様々なものを取り去ったのは間違いない。時間、若さ、信仰、倫理、あるいは他のなにか。たとえば、ありえたはずの生き方すべてだ。
 それを惜しむ男には、きっと深優・グリーアを起動させることはできなかった。正誤はいさ知らず、高村にしてもその点には感服する他ない。
 高村と視線を交わして、グリーアは微笑した。到底、神のしもべにふさわしい穏和な笑みではない。野心の成就に手をかけた男のそれだった。

「まず、何を措いても礼をさせてくれ」グリーアは真摯な瞳で高村を見つめた。「きみなくして、深優の……今のかたちでの完成はありえなかっただろう。ありがとう。本当に、ありがとう」
「その言い振りだと、俺抜きでも完成形はいくつか見えてたようですね」
「それは当然だ」グリーアはいった。「結局のところ、作品としての深優とは、やはりユグドラシルユニットの入れ物でしかない。パーソナリティは堅持せねばならないが、それが人為的なものである必要はなかった。むしろ、余人の意思が介入することは好ましくなかっただろうな」
「でも、あなたは深優をつくった」高村はいった。「優花に似せた顔、保存された生体部品に、声色。からだつきまで、そっくり仕立てた。俺は、四年前に彼女をみたとき、優花が蘇ったのだと思いました」
「それはとんでもない誤解だ。心外なほどだ」グリーアはいった。「四年前のあれを優花と間違えるなど、娘への冒涜だよ、高村くん。深優はあくまで器にすぎない。優花のアイデンティティに連続性を持たせるための、いわば演出の一環だ。開発の進展にともない、赤子も同然だったインタフェースに、パーソナリティともいうべきルーティンが生じたのは望外の結果だった。長足の進歩なのだろう。だが、それでもやはりMIYUとはいまだスタブ以上のものではない」
「そうですか」高村は神父の多弁に抗さなかった。信念を持った人間と論議することの無意味さは知っている。

 ジョセフ・グリーアには悲願がある。
 死んだ優花・グリーアの復活である。
 無論、狂気の沙汰でしかなかった。ジョセフ・グリーアが聖職にあることも、同時に科学者であることも問題にはならない。
 なぜならば、人に魂はない。
 高村には不思議な確信があった。突発的な不遇が植え付けた後遺症なのかもしれない。宗教や思想、信心や志操は関係ない。この世界の人間は、誰一人、魂と呼ぶべきものを有していない。
 その点において、高村はグリーアほど深優と優花を区別はしていなかった。両者の隔たりは、魂や精神の有無ではない。もっとずっと私的で卑俗な差異である。生前の優花を知らない人間にとり、深優は深優でしかない。あるいは兵器であり、あるいはアンドロイドであり、世界を救う鍵であり、従者であり、少女なのだろう。それは深優だけが持つ特殊性であって、優花・グリーアの入り込む余地は無い。

「深優があなたにつくられたと知って、まず疑ったのは技術よりも正気でした」
「私のかね? それとも君の?」グリーアがいった。「だが、君がいまペンディングした技術という一面をとっても、MIYUは狂気の沙汰なのだよ。いまのユニットが本番運転に漕ぎ着けるまでに、どれだけの人材と時間が費やされたと思う? そしてそれらのほとんどは、実質無為だったのだ。入力、出力、学習、データベース、……そもそも、既存の設計という概念では、人間はつくれない。まあ、システムと人間性は、根本的なところで相反する。これは致し方ないことだ。開発モデルそのものを一から創造するようなもので、完全性など求めるべくもなかった。みなが本音では思っていたのだ、『こんなものなど実現できるはずがない』とね。だから、奇跡に頼るしかなかった。……そして人為の奇跡は起こり、すべての障害と労力を取り払い、実現に手をかけたところで、人間らしい人形のプログラムが出来上がるだけだ。レプリカですらない。ただの模型、おもちゃだよ」
「知性や知能の創造というだけなら、何もHiMEを用いなくとも可能性はあったと聞き及んでいます」
「そうだな」グリーアは頷いた。「私の思う困難さとは、結局優花の再生に根付いていた。何が娘を娘たらしめるのか。それは肉体、記憶、環境、そして選択の蓄積と、観点だ。このうちいずれか一つでも瑕疵があれば、それはよく似た別人となる。いや、そもそも――」
「同一人物をつくろうという意思が働いてしまっている」高村は呟いた。「その想いがある限り、まったく同じものを作り上げたとしても、意味はない。それは畢竟高度な作品でしかないからです」
「そうだ。だから、私は優花をつくろうと思ったことはない」グリーアは瞳を伏せた。「技術、資源、能力、すべて瑣末だ。ひとを蘇らせるとはそういうことではない。発想が間違っているのだ。ほんとうにかけがえの無いものを、また作り直そうなどと、造物主どころか人間そのものへの侮辱なのだ」

 だから、と神父は語った。

「私は死の定義を変えた。すると、道は開けた。優花は、ここに、そこに、確かにに生きている」グリーアの指が、自身と高村を順繰りに指した。「きみが言うとおり、世界も私も狂ったのだろう。量化された想念など、もはやメルヘンの領分だ。だが実在するとあらば、その狂気をこそ、私は歓迎する」

 言わんとするところを悟って、高村は渋面をつくる。
 グリーアの言葉は、額面そのままの意味だった。胸の中の面影を偲ぶ行為。それは健全な追悼である。擦り切れるほどに使いされたフレーズで、つまりはそれほど多くの慰めを与え続けた概念だということだ。
 だが、この場でのそれは、百八十度意味が変わっている。
 かつて、高村恭司は優花・グリーアの短い終生を伴う恋人だった。実父であるグリーアを除くか、あるいは含めても、優花についてもっとも多くの記憶を保持しているのは高村に違いない。優花自身がある時期から寸毫も高村について離れなかったこともあり、客観的な視座において、高村と優花の歴史は大部分が共有されている。
 身体の不具を解消しうるユニットの移植と引き換えにグリーアが高村に求めたのは、まさしくその記憶だった。同時に、高村自身の肉体にも、HiMEは綿密に関わっている。ユニットを完成させても優花の復活に挫折していたグリーアにとって、高村の存在は天恵そのものだった。高村の体を切り開き、心を供託することで、グリーアは彼岸の娘へと距離を詰める。高村は生きる目的と理由を同時に手に入れる。
 誰にも損の生じない取引だった。高村が後ろめたさを感じるとすれば、それは彼自身の『優花』に対してだ。それはやはり、グリーアの想う『優花』とは異なっているのだろう。

 記憶から実存を取り出す。
 失われた命を、情報として再生させる。

 グリーアが今まさに手をかけている優花・グリーアの蘇生とは、その不可能事の実現に他ならなかった。

「画餅のような話ですよね。絵に描いた餅を、取り出して食べてしまう。まるで頓知だ。そしてそれはどちらかというと、哲学の領分なんです」と、高村はいった。「現象に対置されて本質が存在し、世界という相を見る人間は態という視点に縛られる。人類に次の進化があるとすれば、それは精神的なものだろうなんていうのは、古今SFで使い古された命題ですよ。その意味で、ワルキューレの特性はこれ以上ないブレイクスルーだっていうのは、何も理論を知らなくたって感覚的にわかります」
「とはいえ、その悟性の体得はきみ独特のものだ」グリーアの瞳に、わずかだけ酷薄な色が差した。「そう日本語をめかしこまなくとも、結果はシンプルだよ。空想を実現させる力。それを技術によって後押しすれば、この世に悉皆死別の悲劇は消えうせる。わかるだろう、この意味が。天国が、降りてくるのだ。なあ、高村君。私には見えない媛星とは、結局のところ人類が神代から空想し続けた『死』という概念の顕現なのだと感じるよ。そこには全てがあるのだ。喪われたものが、古今、誰もが観測し得なかった想いとやらが……」

 熱っぽく語るグリーアへ反駁しかけて、高村はその無意味さを悟った。紛れも無く高村はグリーアの協力者だったし、そもそも優花が真実蘇るというのならば、倫理はどうあれ、高村恭司はそれを否定できない。むろん歓迎することもできない。波のまにまに遊ぶように、成り行き次第で対応はどうとでも変わることだろう。
 生命そのものの在りようが問われる命題であろうとも、高村を悩ますのは卑近な疑問だった。果たして、そうして復活を果たした優花・グリーアは、いまの自分を見てどう思うのだろう? 高村にとって肝心なのはその点だけだ。他は想像すら覚束なかった。

「お疲れ様です、としか俺にはいえません」高村はため息をついた。「ともあれ、これでもう、俺に支払えるものはすべて支払いました。首尾も上々なんでしょう。……深優は、どうなるんですか?」
「どうにもならない」グリーアは答えた。「あれはあれだ。……予想外といった顔しているが、それほど不思議なことかね? どれだけ膨大な情報量とはいえ、人間一個の人格に左右されるほど、MIYUは柔ではない。ユグドラシル・ユニットというオペレーティングシステムが、深優・グリーアというハードウェアにインストールされている。この上に走るアプリケーションが人格だ。一つや二つ追加されたところで問題は生じないさ。ユニットにとって、個性とはその程度のものでしかない。ただし、ダウンロードと再構築には相応の……そう、少なく見積もっても数十日の時間は要するだろうがね」
「そのころに、世界があればいいんですが」
「似合わない台詞だな」グリーアは痛ましげに高村を見た。「いまのきみを見れば、優花は悲しむだろう」
「いや、それは絶対にないです」反射的に高村は反駁していた。口にしてから、わずかに驚きを見せるグリーアを認めて後悔をおぼえた。「……ないと、思いますよ。あいつは、そういうのじゃない」
「そうかね」やや気分を害した様子で、老神父はいった。「いま、懐かしい感情をおぼえたよ。きみに対する嫉妬だ。わたしの知らぬ娘の一面を知るきみへのな。まったく、父親などなるものではない。そうよく思ったものだ。最終的には、愛娘を他の男にやらねばならない。無様な感情だ」

(でも、優花は死人だ)

 胸裏に湧いた思いを、高村は言葉に換えなかった。分別ではなく、グリーアへの共感がそうさせたのだ。

「……それで、これから俺をどうするつもりなんでしょう」
「アリッサ次第だな」グリーアの返答はあっけないものだった。「あれが敗北し、死ぬようなことがあれば、きみは自由だ。同様にきみへの興味を失っても、きみは自由になれる。気に入らないからと殺せるほど、あのアリッサも幼い性分ではないからな。だが、きみがどこかで期待しているように、父であるシアーズ氏を差し置いてきみを第一に思うようなことはないよ。こればかりは、プロダクトとしてのアリッサの基本要件なのだ」
「そこまで虫のいいことは考えていませんよ」
「そうかね」グリーアは鼻を鳴らした。「――早い話が、ほんとうにきみがわれわれを見限りたいのであれば、アリッサに嫌悪の情を告げればいいのだよ。あるいはあのひたむきで幼い好意を踏みにじればいいのだよ。赤子の手を捻るように簡単なのだ。それを知り、しかしきみは、アリッサの望むように振舞っている。深優をまるで独自の少女のように扱っている。それでいて、まるでこちらに現状の原因があるようなことを言う。それは、どうなんだね? ほんとうに、きみに問題がないといえるのかね?」
「いえませんね」強いてあっさりと認めることで、高村は正論の痛みを韜晦した。
「まあ、しようがないことだ。この数年、きみにとってわれわれは新たな家族だった。分かちがたく思うのは、人情というものだ。――だが、未熟だな。なあ、高村くん。私ときみは古馴染みだ。だからとは言わないが、老婆心ながら忠告させてもらうよ」

 そこで神父は、高村をじっと見詰めた。彫りの深い造作の奥で、灰色の光が揺れていた。

「きみには無理だ」とグリーアは言った。「誰かを見捨てることも、生き延びるために自侭に振舞うことも。ましてや世界を滅ぼすことなど、夢物語を通り越している。ただのポーズだよ。無様だし、哀れだ」

 生理反応に近い怒りが、高村の喉から漏れかけた。それを押しとどめたのは理性ではない。
 グリーアがデスクの抽斗から取り出した拳銃が、高村へとその銃口を向けていた。
 予想だにしない、というほどの出来事ではなかった。高村とて、想像もしなかったわけではない。ジョセフ・グリーアが亡娘へ向ける愛情は常軌を逸している。その質量ではなく、形態が狂っている。性器まで具した、娘の似姿を取らせた人形を作る。蘇生を目論む。知性を与える。空想の段階に、誰もがとどめざるを得ない絵空事を実現させつつある。
 それはもう、愛ではない。少なくとも高村の感性は、もっと悍ましいものと捉える。
 一度も口にしたことも突き詰めたことも無いが、彼はグリーアの情念を単なる親心とは捉えていなかった。

「なにを――」高村は押し殺すように囁いた。「裏切るんですかだなんて、言ってしまえば、さすがに見下げられるんでしょうね。俺を殺すのは……、嫉妬ですか?」
「そんな気恥ずかしさを誤魔化す半端な分別こそ、わたしがもっとも見下げ果てている部分だよ」凶器にそぐわない穏やかな声音でグリーアはいった。「ずっと不思議に思っていた。優花はなぜ、きみを選んだのだろう? 親の欲目ではあるが、あれはできすぎた娘だった。容姿も、知性も、才能も、常人の枠に留まるものではなかった。誰より広い世界を見る高みへ、たどり着ける子だった。幼い時分でさえ、そう感じていた。だが、あれを地に縫い付ける何かがあったのだ。飛ぶ羽を温存して、空を舞うことよりも優先すべき何かを、選んでいる風情があった」
「同じ事を、俺も思ってましたよ」高村は卑屈に笑った。「あいつは何かに追い立てられてた。生まれながらに制限されていた。そしてその中で、俺を……俺と、いなきゃいけない理由があったみたいだ。結局それは、わからずじまいでしたが」
「そうだな。きみは結局、何もわからない。だが、わたしにもひとつ言えることがあるよ。それは、だからといってあの子が嫌々きみといることを選んだわけではないということだ」

 グリーアの手の中でバレルが回転した。銃把を高村に向けて、神父に似つかわしくない仕草で肩をすくめる。

「撃つ権利は、あると思いますよ」恐々としつつも高村は強がった。
「きみの体を人でなしにした。それだけでも、娘を取られた代価にしては大人げがなさすぎたほどだ」グリーアは笑おうとして失敗したようだった。「……きみの殺害命令は出ていない。また、今の時点ではだれもきみの消滅を望んでいない。海上にいるアリッサは、きみをつかって何かを企んでいるようだ」
「海上の……?」

 不自然な表現に対して、高村は首を傾げた。

「ああ、そうか。それもきみはまだ知らなかったな」グリーアが大儀そうに息をつく。「いま、きみがよく知るアリッサ……あれが正常に分娩された存在でないことは知っているね。そしてまた、そうした『アリッサ』がひとりではないことも」
「それは、まあ」高村は頷いた。

 七月の終わりに、玖我なつきの部屋で聞いたせりふが脳裏を過ぎる。
 ――もうひとりのアリッサ・シアーズが、創立祭の日にわたしに接触してきた。

「九条さんから聞いてもいますし、最初に会った深優もそんなことを言っていました。……つまり、もうひとりのアリッサちゃんがいて、その子も日本に来ているってことですか?」
「そうだ」グリーアは首肯した。「アリッサという名前は、ずいぶん以前に亡くなったシアーズ会長……『元』会長の娘の名だよ。生まれつき免疫系に不備があり、延命のため人も設備も惜しまなかったが永くは生きられなかったと聞く。それで妄執にとりつかれるというほどシアーズ氏はナイーブではなかったが、彼がこの世ならざる力に本腰を入れ始めたきっかけにはなったのだろう」

 財界に伝説を残したほどの男が、娘の死によって歯車を違えた。そんな悲しい、だがありきたりな話ではないようだった。九条むつみやジョセフ・グリーアから伝え聞くシアーズには、ほとんど人間性らしきものが見出せない。娘と同じ名前を持つ少女に異能をパッケージングして戦場へ送り込む心根に、親心など汲み取れるわけもない。

「元々、シアーズという集団は」高村はいった。「魔術結社というか、オカルト的な集団に起源があったと聞いていますが」
「起源は起源だ。間違いはないのだろうが、それは本分とは別のものだよ」と、グリーアは答えた。「……さて、『アリッサ』たちは代を重ねる。亡者を連綿と襲名していく。それはいつしかシアーズの一部で人工生命研究そのものを指す言葉へと変わった。クローンが絵空事ではなくなっても、会長の感心は肉の器にはまるでなかった。彼はひとの意識そのものを解き明かしたがっているようだった。だから『アリッサ』は様々なかたちで生成された。ゴーレムだとか、ホムンクルスだとか……話しているほうもが恥ずかしくなるような単語だが、その題目のために行われていることはれっきとした学術的な研究だった」

 その話し振りに、高村はふと閃くものがあった。

「グリーアさんとシアーズとの付き合いは、ひょっとしてその頃から?」
「そうだ」グリーアは苦笑した。「さすがにかつて鳴らしたとはいえ、所帯を持って後島国にこもって時折学会に足を運んでいた程度の身分でシアーズにポストは貰えん。そういった意味では、アリッサの誕生にもわたしは関わっているといえるかもしれない。――そうして創りだされた『アリッサ』だが、この名を名乗れるのはもっとも優れたナンバーだけだ。つまり、最高の高次物質化能力を保有し、最強のチャイルド、メタトロンを従える160番目のあの子のことだ。だから、厳密には『もうひとりのアリッサ』という言い方は正しくない。いま海上にいて黄金艦隊の名代となっているあの少女は、『前代のアリッサ』と呼ばれるべきなのかもしれんな」
「俺の信じていた常識ってものは、世界のいろんなところで踏みつけにされてる」高村は不快感を吐き出した。「もうひとりだの前代だの、コピーペーストするみたいに軽々しいですね」
「それでも、こと『アリッサ』に関してはそう表現するしかないのだよ」グリーアは淡々と告げた。「父性への渇望を生後すぐ定着させられる彼女らは、ここ十年の間に猛烈な勢いでプロダクトされた。無論倫理はもとより法に背く行いだったから、一時はFBIに尻尾を掴まれかけ、財団が危地に追い込まれかねない場面もあった。だが会長は生産ラインを止めようとはしなかった。誰が見ても自滅行為だったのに、彼にはなんとしても間に合わせる必要があったのだろう。この地で起こるであろう『蝕の儀式』にね」
「まず、どうやったら世界有数のお金持ちが、日本のローカルなフォークロアに興味を抱いたのかが気になりますよ」
「答えは簡単だ」とグリーアはいった。「彼が蒐集した末世の神話とはなにも日本に限ったものではなかった。世界中のありとあらゆる滅びの歌をシアーズ氏は集めた。財団の力を使ってね。文化的側面もある、というより文化的側面しかない行いだったが、キャッチィな題材であるだけに資料や研究者には事欠かなかったようだ。きみの師であったアマカワ・サトシもそのなかのひとりだよ」
「先生のことは興味深いですけど、それ、答えになってないですよね」論点の摩り替わりを、高村は指摘する。
「ふむ」

 問われ、グリーアは口を閉じた。これまでの饒舌さがなりをひそめて、表情に苦いものがきざし始める。手元の拳銃を今さら持て余したかのように眺めると、早口で呟いた。

「シアーズ氏には疑念があった。あるいは確信を持っていた。だがその確信には根拠がなかった。ある種の妄想に衝き動かされていたのだと見るべきなのかもしれない。その裏づけを得るために、シアーズ財団は創設された」
「お金持ちの考えることってのはわかりませんね」高村はいった。「で、結局なんのためにですって?」
「世界配列(ユグドラシル・ユニット)を証明するため、だそうだ」グリーアはつまらなげに告げた。「率直に言って、錆付き、古びた世界観だよ。シェークスピアよりもずっと前から、賢しらな人々の口にのぼりつづけた考えだ。いわく、この世は大樹である。枝葉は可能性である。幹は時間である。そして樹幹は……終末である。われわれは神ではなく、それを模したシステムによって幾度と無く生まれ、滅び、再生し、また滅んでいる。繰り返し、繰り返し、可能性の粒が現在時点に堆積し続けている。それらは無限のシークエンスを経てあらゆる事象を孕んでいる。奇跡は、だからやすやすと引き起こされる。ある種の人間にとって、祈りとは通天するものではなく手指で引き寄せるものとなる。だから――」

「だから世界は、傾斜している」

 口をついた言葉は、高村本人のものではなかった。どこかで誰かに囁かれたものだった。だがグリーアの言葉を、高村は実感を以って受け入れることができる。
 疲れた口ぶりで他者の思想を語ったグリーア神父は、同情を込めた目で高村を見つめた。

「馬鹿馬鹿しい話だ。子供の妄想のような思考実験だ。だがきみもグリーア氏も、どうやら思い当たる節があるらしい。であればひょっとしたらわたしも、この荒唐無稽な論説の支配下にあるのかもしれんな。だが、どちらにせよ、きみらは哀れだよ。いまやわたしがいえた義理ではないが、主はお嘆きになるだろう」
「グリーアさんは信じてないんですか?」むしろ意外に思えて、高村は首を傾げた。「では、高次物質化能力っていったいなんなんです? ひとの想念を物質化させる現象なんて、そもそも理にかなってないんだ。俺は、わかる気がします」
「そうではない。わたしが哀れといったのはスタンスの問題だ。高村くん。きみは、そしてシアーズ氏も、『それ』と戦う気でいる」
「そこまで大層な心がけかはともかく、まあ、お気持ちだけありがたく受け取っておきますよ」高村は微笑んだ。「さて、随分長々話しましたね。どちらにせよこの体じゃあ満足に逃げられるわけもないですけど、結局あなたは俺に何がいいたいんですか? まさかお礼を言いたかったわけでも、思い出話をしたかったわけでもないでしょう」
「ただの気まぐれだよ」グリーアが笑う。「きみはその身ひとつでこれからも戦おうというのだろう? シアーズとも、一番地とも。ならば、その敵についてわたしの知る情報くらいは与えようと思っただけだ。なにしろ高村くん、きみはあるいはわたしの息子になっていたのかもしれないのだから」
「……そうですか」グリーアの率直な厚意は複雑な思いを高村に与えた。発言を素直に受け止めることができないことも、居心地の悪さを助長する。

 うなだれかけた高村に対して、グリーアが無造作に銃を放ったのはそのときだった。とっさに左手で銃身を受け止めて、高村はグリーアの真意を探る。

「こんなもので、俺に何をしろと? 自殺を勧めてるんですか?」
「それだけは絶対に許さん。きみ、わたしの生業を忘れたのか?」唐突なほどの剣幕でグリーアが高村を睨み据えた。「くだらんことを言うな」
「ご、ごめんなさい」反射的に頭を下げかけて、高村は幼年期の呪縛について苦々しく思いをはせた。「じゃあ、あなたを人質にでもとれっていうんですか?」
「その必要はないだろうな」とグリーアはいった。「この場からきみが逃げるための用意は別にしてある。……コード・アルファ・セブンナイナーだ」
「Aの79番」高村はいぶかしげに繰り返した。「なにかの符丁ですか」
「深優に仕込んだ裏コードだよ」グリーアがこともなげに答えた。「一時的にプライマリを上書きすることができる。だから当然、深優に『見逃せ』といえば通じるだろう。仮に自害を命じたとしても、恐らく強制させられる。ただしアリッサについてだけは……何が起きても不思議ではない。保障はしかねるな」
「そんなことするわけないだろうが」語気荒く高村はグリーアの語尾を奪った。「わからないな。ほんとうに、あなた、俺に何をさせたいんですか。深優の裏コードだって? 馬鹿馬鹿しい。あんな機密の塊に、たとえ製造責任者だろうがそんなデッドロジックを誰にも気づかせないで仕込めるわけがないでしょう」
「普通ならそうだ。普通ならな」含みを持たせた口調だった。「使うも使わぬもそれはきみの裁量だよ、高村くん。まあ、まだ時間はたっぷりとある。深優やアリッサが戻ってきたところで、決断をしなければならないわけでもない。いずれにせよ、シスターむつみの覚醒を待たないわけにはいくまい? きみはこのところ働きすぎたし、傷つきすぎた。休む時間が必要だよ。さあ、改めて、祝杯を挙げようじゃないか。我らふたり、形は違えど優花を愛したもの同士なのだから」

 高村に否やはない。思考は完全にグリーアの言葉に奪われている。否定を口先だけのものにしない自信は、彼にはなかった。

   ※

 白昼、衆目のある街をチャイルドが疾駆する。頭上を飛翔する異形にまるで気づかないものもあれば、不可思議な視線を送るものもいた。ただし大多数の興味は爆発の起きたアウトレットモールに向いており、人々は消防車や救急車の出動がないことに首を傾げている。
 意識の合間を縫うようにジュリアが跳んだ先は、玖我なつきの指示したマンションだった。奈緒はそこで初めて、二日前まで自分も入り浸っていたマンションになつきが住んでいることを知った。
 深優・グリーアの指示に従うにせよ従わないにせよ、奈緒には治療が必要だったし、なつきにも考える空間が必須だった。チャイルド一度送還し、自室に奈緒を招き入れたなつきは仏頂面のまま部屋中をひっくり返した。沸騰を知らせる薬缶と同じ頻度でため息をつきながら、彼女が奈緒へ放り投げたのは消毒液と包帯、湿布である。

「自分の世話くらいは自分でできるな」

 なつきは反問のいとまを与えずそう言い切ると、服を脱いで浴室へ飛び込んだ。ほどなくシャワーの音が聞こえ始める。
 奈緒は不慣れな手つきで擦過傷と打撲を処置すると、石上によってつけられた切り傷へ慎重にふれた。予想に違わぬ鋭い痛みが患部に走る。だが痛みそのものはさして問題ではない。膝下からふくらはぎにかけての麻痺こそが深刻だった。石上の一刀は奈緒の筋骨を断ち、神経までをも傷つけている。HiMEの力が肉体の性能をどの程度向上させるかについては、具体的な指標はない。奈緒はこの麻痺を快癒への過程であると楽観することにした。いまこの時に、傷の容態を深刻にとらえても処方はない。石上の言を信じるならば、病院へは駆け込めないのである。
 陰鬱な吐息を漏らして、奈緒は玖我なつきの部屋を一通り品定めした。まさか足を踏み入れるとは夢想だにしなかったが、まったく奈緒の印象を裏切らない光景だった。とうてい、高校生が一人で暮らすような物件ではない。

「はあっ……」

 ソファに体を沈めて、中空を仰ぐ。蛍光灯のカバーにうっすらと積もるほこりが見えた。何の気なしに壁時計へ目をやれば、まだ正午にもならない時間帯だった。これから訪れる一日の長さを思って、奈緒は今更ながらにおののいた。
 その震えに同期するように、携帯電話が着信を知らせた。液晶にはついぞ登録した覚えのない深優・グリーアの名が浮かんでいる。訝ることも面倒で、そういうものかと納得した。呼吸をひそめ、奈緒は唇を手中に寄せる。

「もしもし」
『そこにこれから敵が訪れます』

 深優の言葉は直接的にわかりやすく、だからこそ難解だった。

「……なんて?」
『私が人間ではないことはご存じですか』
「いちおう、高村から聞いて、知ってはいるけど」実感しているかと言えば、否といえた。科学的な常識云々ではなく、そもそも深優ほど精巧な人形と人間の区別が、奈緒にはつけられないためである。
『貴女がいまいる玖我なつきのマンションに、私の同型機が向かっています。数は二。戦力は、現時点でやや私に劣る程度でしょう』
「はあ」実感の薄い危険を知らされて、奈緒は曖昧に言葉を返した。「そいつらも、なんていったっけ、アンド……ロイド、だっていうわけ?」
『少なくとも一機はその通りです。もう片方は、人間の姿態とはいえない匡体ですが』
「ふうん? そいつらを使ってほかのHiMEと戦えっていうことか。気が利いてるじゃん」
『いいえ』と深優はいった。『二機の目的は玖我なつきの身柄を確保することです。つまり、我々とは敵対的な勢力に分類できます。貴女の殺傷も含めて、手段を選ぶことはないでしょう。本来であればこちらで対応する予定でしたが、玖我なつきが貴女についたため、即応した模様です』

 数秒、奈緒は耳元から携帯電話を引き離した。喉元に不快感がこみ上げ、下腹部に得体の知れない重みが加わっていく。服のボタンをうまく留められない時のような、発作的で衝動的ないらだちが心身をさざ波立たせる。瞬時の激発を抑えたのは生傷の痛みと、そして嘆息の効能だった。

「つくづく、あの女は疫病神ってわけだ」奈緒は口調にあきらめをにじませた。「それで、いつごろ来そうなの、そいつら……」

 尻すぼみの語尾にかぶせるように、スピーカが突然のノイズを吐き出した。擦過音に似た音響は一瞬で止み、代わりに澄んだソプラノが奈緒の耳朶を打つ。

『今』

 明らかに深優・グリーアの音声ではない。
 そしてとうてい、人工のそれとは思えぬ発音だった。

『――すぐに』

「そう」

 奈緒はすでに装着していたエレメントを解放した。

「ま、そんなとこだろうと思ってたわよ」

 そうして、煮詰めたような刹那が訪れる。
 瞬間の火花に似た複数の事態が、玖我なつきの部屋を襲った。
 衝撃は下方と左方、二面から訪れた。甲高く耳障りな音が、堅牢な玄関の末期を知らせている。廊下に対して水平に飛ぶ扉という光景は、少しだけ見応えがある。ソファの上で反動をつけて立ち上がった奈緒の足に、激甚な痛みが走る。安っぽいジオラマのように崩れ始める床下を眺めやり、片足で飛んだ直後、下方から現れた直径二メートル弱の半球がソファを弾きとばした。エレメントを天井に突き立てた奈緒は空中で揺らめきながら、黒く光沢を放つその物体を観察する。
 半球の全容は、一見ジュリアに似たフォルムを持っていた。昆虫的なシルエットからはマニピュレータが突き出ており、アシダカクモに近い機動で自ら突き破った床から這いだそうとしている。80年代後半のB級アクション映画の敵役を思わせる見目である。
 顔をしかめた奈緒が視線を転じた先には、ありふれた格好の少女が、ありふれた笑顔を浮かべて立っていた。姿形から唯一見いだせる奇異な点は右手に握ったコンバットナイフで、刃渡りだけで三十センチはある得物は鈍く輝き、奈緒の脳裏に石上亘の白刃を連想させる。
 玖我なつきが濡れ髪をなびかせ、全裸にタオル一枚を引っかけて浴場から飛び出してきたのはその瞬間だった。
 出し抜けに刃物を持った人間に対する反応としては、なつきの対処は完璧を通り越して出来すぎているといってよかった。なつきの露わな姿を目にした少女が何事かを口走ろうとしたのと同時に、水滴をまとった裸足がひらめいている。上体を反らせて一撃を回避した少女の胸を、返しの足刀が押し退けた。バランスを崩して廊下の壁に背をついた少女の顔面を、三度蹴撃が襲う。
 塗り壁と少女の後頭部が激突し、不吉な音を立てた。

「なんだ! なんなんだいったい!」着地した勢いで盛大に足を滑らせたなつきが、心底慌てた様子で叫んだ。「どうなってるんだおい、――っと!」

 艶やかな髪が水しぶきと軌跡を置いて宙を滑る。尻餅をついたなつきの足があった場所へ、少女が振り降ろしたナイフが突き立った。側転して難を逃れたなつきの肢体から、水気を含んだタオルがはらりと落ちる。

「あんたが目当てなんだって」投げやりに奈緒はいった。「シアーズからのお客さん」
「わたしに? シアーズが?」目を白黒させかけたなつきは、瞬きひとつの間に事情をほぼ了解したようだった。「……こんなざまだということは、グリーアやアリッサとは別口というわけか。くそ、面倒にもほどがあるぞ。落ち込んでいる暇もない。……くちっ」
「へんなくしゃみ」奈緒はいった。

 振り子の反動をつけて、崩落した床を飛び越え、ベランダ側へ降り立った。踏みしめた地面に危なげな印象はない。伊達に高級マンションではないということなのか、豪快に床を砕かせながらも、即座に部屋ごと崩壊する気配はなかった。
 玄関からは、ナイフを持った少女、ほぼ全裸のなつき、オーファンに似た怪物、そして奈緒という位置取りになる。

「あたしがいちばんまともなわけだ」全身に塗り込まれた倦怠と傷痍の疼きに渋面をつくって、奈緒はつぶやいた。

「提案がある」赤面してタオルで前を隠しながら、なつきが少女向けて挙手をした。
「はい。なんでしょう」

 存外、穏やかに、見知らぬ少女は応答した。なつきは意外げに眉を上げながらも、投げやりな調子でこういった。

「まず服を着させてくれ。話はそれからだ」
「バカなの? 死ねば?」奈緒は反射的に感想を述べていた。
「なんとでもいえ」なつきは真剣だった。
「どうぞ」少女は朗らかに快諾した。
「いいんだ……」
「いいのか……」

 もそもそと髪を拭きながら、なつきは少女を警戒した素振りで脱衣所に出戻った。
 渦中の標的が消えてしまうと、場には自然、居心地の悪い沈黙がやってくる。そろりと怪物から距離を取る奈緒を、少女のまなざしが柔らかく貫いた。

「貴女に関しては、特に用事もないのです。邪魔をしないのであれば、ここから消えてかまいませんよ」

 おや、と奈緒は思った。

「それは結構なんだけど、そもそもどいつもこいつも、玖我になんの用があるのよ。いっとくけど、あいつはもうHiMEじゃあないわよ」
「ワルキューレの資質は、この際問題ではないのです」少女は親切にも返答をしてみせた。「アリス・エーのアクセス権限を彼女が有していることこそが問題なのですよ」
「アリス・エー?」奈緒は鸚鵡返しにつぶやいた。
「Artificial-Legion-Yggdrasil-System of Synonym-Alyss――ただのノタリコンですわ、お嬢さま」
「はあ」奈緒は乱暴に髪を掻き毟った。「そういうさぁ、意味ありげな単語とか口走るけど、説明してるようで、実はわからせる気とか全然ないってやつ。あんたロボットっていうわりに、ニンゲンの頭悪いとこマネしてんのね」
「おっしゃる意味がわかりかねますが」人工的な微笑を崩さず少女はいった。

 頬にかかる髪を払うと、奈緒は唇を吊り上げた。

「ぶっ壊れろって言ったんだよ」

 刹那に部屋全体に紅い死線が張り巡らされた。5センチ辺で編み上げたエレメントの壁が、奈緒と襲撃者の狭間に現出する。首を掻き切る仕草と同時に、調度もろとも獲物を切り裂く格子がほとばしった。
 少女と異形の動作は全くの同時だった。奈緒に向かうのではなく、なつきが引っ込んだ浴室周辺を守る位置に布陣する。完全に予想通りの動きを見せた相手に、奈緒は笑みを深めた。

「バラバラになっちゃいな!」

 梁や鉄骨が致命的な傷を負う音が聞こえた。今度こそ本格的な崩落が始まる。揺らぐ足場を確かめ、ジュリアの召喚に意識を割きながら、奈緒は半球形の瘤を背に持つ異形へエレメントが食い込む手ごたえを感じていた。
(よし、押し切れ、)

 奈緒の頬に爪先が食い込んだ。

 疑問や衝撃、痛みを置き去りにして、奈緒は床に叩きつけられる。揺れる脳が視界を砕く。

「……っあ、ぐっ」

 吐気が神経を焼き、それに倍する熱の怒りが奈緒の全身を行き交う。合わない歯の根を強引に噛み合わせ、手をつき膝をこすって振り返った奈緒が見たのは、寸前まで確実に存在しなかったもうひとりの乱入者であった。

「なんっ、なん、だ、よっ」乱動しようとする眼球を必死でとどめて、奈緒は誰何した。
「黙ってろよ、屑」

 返答は息を呑むほど怜悧な視線だった。
 矮躯といえる総身から、抜き身の剣呑さが発されている。目深に被ったパーカと口元を覆うマスクで表情こそ隠されているが、その人物が怒り狂っていることは自明だった。
 だが、怒りならば奈緒も負けていない。よりによって顔を蹴られた。決して許せない。なつきや少女のことも忘れ、奈緒の敵意は目前へ集中する。

「あんっ、た、ふざ、ふざけんじゃ……」
「うぜえな。黙ってろ。殺すぞ」

 それを全く意に介さず切り捨てて、第三の人物はある一点を凝視していた。
 視線の先には、奈緒の攻撃で傷ついたオーファンがいる。正確には、鋭利な傷口がある。たとえば人間であれば一人二人は十分に格納できる大きさの瘤は、傷口から乳白色の体液をとめどなく流している。乱入者の目線を追った奈緒は、その間隙にありえないものを見て一瞬だけ戸惑う。

(子供の手?)

   ※

「返せよ」と、尾久崎晶はいう。「そいつはオレのだぜ」
「高次物質化反応を検知」と呟いたのは、傷ついた異形の影に佇むナイフの少女――MIYU-M4-Aprilだった。「ようこそ、新たなるワルキューレ。私どもは、貴女を歓迎いたします」

「来い、ゲンナイ」

 晶は呟く。手には苦無のエレメントがすでにある。
 崩落するマンションの一角にいて、彼女の目は、鴇羽巧海からひとときも離れない。
 
   ※


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