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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第三部九節1
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/09/21 01:05
8.イリデッセント(虹彩)



 まばらな環視に晒されて、救急隊員の手で生徒が運ばれていく。担架に乗せられ毛布に包まり、寸毫も身動きしない人影は、中等部か、さもなくば初等部といった風情の小柄な少女だった。人垣越しに認めた顔色はひどく青白い。肌の露出した華奢な両肩からも血の気が失せている。
(でも、知らない子だ)
 その顔に見覚えがないことを確かめて、安堵しかける己を、鴇羽舞衣は戒めた。囁きを交し合う生徒たちの物見高さから距離を取るようにして、二歩三歩と後退する。汗に張り付く襟ぐりを摘んで空気を取り入れながら、きびすを返しかけた。
 その矢先に、耳元で囁く声があった。

「貧血だそうですよ」
「わひゃっ!」

 品の良い香水の芳しさに吐息の生暖かさがほの混じる、掠れとかすかな異国のアクセント。文字通りの至近距離で呟いたのは、ロザリー・クローデルだった。

「あ、ああ」首筋に鳥肌を張り付かせて、舞衣はロザリーから離れた。「え、えーと、ロザ、じゃなくて、変態、でもなくて、そう、クローデルさん。ヘンタイの」
「どちらにしろ枕詞はそれですか」ロザリーは優雅に微笑した。「マクラコトバ。使い方、あってます? 菊川さん」
「え、ええ、まあ」

 振り返るロザリーの視線の先に、舞衣のクラスメートである菊川雪之がいた。目立たない女生徒ではあるが、執行部に所属しているだけはあり、舞衣に対する迫害めいた行為にも参加した素振りはなかった少女である。そしてそれだけで、舞衣が好感を抱くには十分だった。

「おはよ、雪之ちゃん」舞衣はにこやかに手を振った。「っていうには、ちょっと遅いけど」
「ううん。おはよう、舞衣ちゃん」雪之も柔和に笑んだ。「どうしたの? 夏休みなのに……部活、は確かまだ入ってないままだよね?」
「ああ、うん、そう、ちょっと碧ちゃんに用事があってね」
「あの運ばれている女の子」と、口を挟んだのはロザリーだった。碧眼に退屈の色を浮かばせて、ささやきを交わす生徒たちを眺めている。「ちょっとまずいですね。この状況はけっこう致命的ではなくて?」
「は、え。なにがですか?」舞衣は目を瞬かせてロザリーを見返した。
「想像力を働かせなさいな」ロザリーは嫣然と微笑んだ。「貧血で倒れただけならまだしも、あの娘、発見当時に全裸だったそうですわ。それをこんな好奇の目に晒してしまって……。事実はわたくしも存じ上げませんが、周囲はもう彼女をレイプ被害者としか見ないんじゃないですか?」

「対策は打ってあります」厳しい声で割り込んだのは珠洲城遥だった。「そうした口さがのなさを放置するほど、我が校の風紀は乱れてはいませんわ。そして、ミス・クローデル。これは当学園内の問題ですので、どうかお構いなく。それよりも、もう見学はよろしいんですか?」
「そーですね。ま、だいたいは。ね、菊川さん?」切りかかるような遥の言葉を、ロザリーは気にした素振りもなく受け流した。「なので、もう案内は結構ですわ。そのうち飽きたら帰ります。……あ、そうだ。たぶんこれから毎日遊びに来ますので、紅茶はいいもの用意してくださいね!」
「はあ」と遥は曖昧に頷いた。「……はあ!? 毎日!? 何いってんの貴女! 部外者を自由に出入りさせるわけないでしょう!」
「あん、もう、スズシロさんったらオデコが硬いんですね。そんなんじゃボーイフレンドも逃げてしまいますわ。ねー、菊川さん?」
「は、はあ……」雪之が目線を右往左往させた。「え、そ、そんなことないですよ? 遥ちゃんかわいいし、スタイルもいいし……」
「そもそもが余計なお世話よ! しゃらっぷ!」顔面を高潮させた遥が両腕で全身をかばった。
「ほほお」ロザリーが好色そうな目つきで遥の全身を舐めまわした。「あーはん? 確かに、男好きのしそうな体ですわね。あら、なにげにそっちのマユゲ太い娘よりおっぱいが大きいわ。2センチ……ううん、1センチくらい? ウエスト、ものすごく細いですね……。すばらしい。その体で処女ではさぞかし夜泣きして大変でしょう? オナニー週何回してますか?」
「見るな! 想像するな! 黙ってちょーだい! っていうかなんなのこの外人! こんな下劣な方面で日本語うまいとか最悪じゃない! 存在が条例違反じゃない! 雪之! 塩もってきて! 塩化ナトリウム中毒にして事故に見せかけて殺すから! もしくは欧米人がデビルフィッシュと恐れるタコを釣ってきて!」
「えええ、無茶だよ遥ちゃん」それでも一応、塩やタコの姿を視界に探す雪之だった。
「触手プレイですか」ロザリーが神妙な面持ちでうなった。「さすがは名だたる日本の女子高生。それはさすがに未体験。アウターゾーンですわ」
「マユゲ、ふとい……」関係がないのに端的に特徴を表現された舞衣は、盛大にうなだれた。「ちゃ、ちゃんと手入れしてるもん。太くないもん。たれ目だから今くらいのバランスがいちばんいいのよ……」
「あら、気にしているんですか? ごめんなさい、鴇羽舞衣さん」ロザリーがしおらしく謝罪した。完全に表面だけの仕草だった。「でも、キュートですよ。ほら、しょーりしょり」

 驚くほどすばやく身を翻すと、一撫で二撫で、ロザリーのしなやかな指先が舞衣の眉毛を愛撫した。

「それ、あいぶれーしょん。しょしょりしょーり」さらに調子に乗った。
「さささ、触るなぁ! へんたいがうつったらどーする!」
「感染りませんよ」ロザリーが苦笑した。「粘膜接触しなければ」
「生々しい保障をしないでよぉ!」舞衣は今までにないタイプのロザリーに相対しすでに半泣きであった。

 と、そこで、杉浦碧の声が場に割って入った。

「おい、あんたら」腕組みをして仁王立ちの彼女の目は、明らかに怒りを湛えている。「あのね、病人が出てるの。楽しそうで結構だけどさ、そういうのはどっか別の場でやってくれない? そこのクローデルさんも」

 よりにもよって碧に注意され、しょげ返る学生とは対照的に、ロザリーは面白げに碧を見返すだけだった。

「ハイ」
「この時期に、学校に来て、そういう目立ち方をしてる」碧が唇だけを弓状に吊った。「つまりあなた、あたしらの関係者なのかしらん?」
「……」

 にわかに表情を引き締めると、ロザリーは押し黙った。いきおい、舞衣も口をつぐんで息を呑む。遥と雪之は、好機とばかりに環を離れ、搬送中の下級生の様子を見に向かう。
 唇を一舐めすると、碧は続けた。

「さっき運ばれた子の名前は野々宮清音ちゃん。中等部の子で、合唱部に所属してるそうよ。いま話題になってた通り、さっきランニング中の剣道部の子達が、木陰にマッパで倒れてた彼女を保護、即通報、保険医の鷺沢先生の診断によると、症状は貧血による失神みたい、――というわけなんだけど、ね」
「服を脱がされていたにも関わらず、暴行の形跡はなかった、ですか?」含みのある碧の視線を悠揚と受け止めて、ロザリーが接ぎ穂を加えた。
「よくわかるじゃない?」碧が肩眉を上げた。
「そんなの処女でもなければにおいでわかりますわよ、普通」ロザリーが当然のように言った。
「いやいやいやいや」予想だにしない答えに碧が一瞬途方に暮れたのを、舞衣は見逃さなかった。
「ああ、すいません。別に特定の非モテ層を揶揄する意図はないんですのよ?」挑発的なまなざしを送るロザリーだった。「ただ、なんというか……、ふふ、失礼。杉浦さんでしたかしら? 貴女、彼氏いない暦何年ですか? 不倫にはまって破滅する相が見える気がします」

(ひええ! こわ! この人、こわ!)

 舞衣は胸中で戦慄した。
 ロザリー・クローデル。変態だが、直観力にはただならぬものがあるらしい。
 かすかに、碧の背に鬼気が揺らめいた。

「……あのね、今執行部の子に確認したら、詳しいことはわからないまでも、同じような事件が市内でも最近二、三度起きてるって話なんだよ。被害状況的に、他にもいくつか潜伏してるケースがありそうだけど、とりあえず目下判明してる範囲では、そのどれもが、若い女の子が通り魔的に襲われたが幸い怪我はなくものも盗られなかった、って届出ばかりなんだってさ。さて、服を脱がされたかどうかは、まあ警察が教えてくれるわけないから推測するしかないけどね。いまの野々宮さんにしたって、貧血とショックはありそうだけど、クリティカルなダメージは負ってない。……これ、どう思います、クローデルさん」
「どうって、不幸中の幸いというものではないかしら? コトワザで言うならば」ロザリーはあっけらかんと答えた。「犯人は女性の裸自体が目的なんでしょう、普通に。そういうジャンルの変態さんです。最低ですね。死ねばいいのに」
「正直あたしにはどっこいなレベルだなあとしか……」

 舞衣はしんみり呟く。
 そして見た。
 碧の額に青筋が浮かんでいた。

(うわ、これはマズイんでは)

「よし! とりあえず選択肢から変態を外そう!」碧が自棄的にわめいた。眼が据わりつつあった。「はい変態消えた! もういませーん! さあ、それじゃあどうして犯人は女の子の裸に興味があるのか! 碧ちゃんはきっとそこになんらかの特徴を探してるからだと思いましたっ!」
「なんて、決め打ちの推理」ロザリーがはしゃぎ始めた。「素敵ですわ、こうやって陰謀は進行するのですね」
「ええーいもうまだるっこしい!」とうとう、碧が外聞をかなぐり捨てた。鋭鋒のごとく人差し指を突き立てると、ロザリーに向けて突きつける。「ミコトちゃん! そのヒトはどう考えても妖しい、もとい怪しい! やっておしまい!」
「ええー……」わざわざ出を待っていたらしい命が、珍しく腰の引けた様子で現れた。「なんか、いやだ。そいつ。気持ち悪い」
「碧ちゃん、ちょっと、理事長のお客さんにそれはまずいんじゃあ」心中で支持しつつも、舞衣は一応常識人としての立場を堅守した。
「だいじょうぶ!」碧が力強く請け負った。「このタイミングでやってきた時点で怪しさ大爆発だよ。今はなつきちゃんのためにも、どんな些細なことでもいいから情報が欲しいんだ。真白ちゃんも警察も頼りにならない。恭司くんもいない。なら、あたしらが動かなきゃならない。……それにさ、その人なら、間違えて殴っても、なんか気持ちいいからとかいって許してくれそうだし!」
「最後! 碧ちゃん最後に本音が!」

 ロザリーは鼻で笑う。絵になる動作で、豊かな金の巻髪をかきあげ、肉体を誇示するように胸を張った。

「だいたい合ってます」

 そして、その場で命だけが、ロザリーの次手を認識できていた。枕をほぼ消した動作で半歩分右足が進んでいる。進路には碧がいる。命は肩にかけた長剣ミロクを地に落とす。その落下を追いかけるように自身も体躯をたわめ、ロザリーの膝よりも低い姿勢で地を蹴り加速した。

「ちょ、速っ」初めて、ロザリーが焦りの声を上げた。

 そのときには、命はもう肉薄している。
 激突を予感して、舞衣は反射的に瞑目した。
(――!)
 大地が震えた。
 そう錯覚するほど、鈍く重い音が響いた。

「……マジで?」

 呆然と響いたのは碧の声だ。恐る恐る、舞衣は瞳をひらく。ほどなく、薄目は驚愕の瞠目へ転じた。

「……っ! ……っ!」

 そこに、額を抑えてのたうち回る命がいた。
 そして、青ざめた顔で下腹部を押さえ、うずくまるロザリーがいた。

「はう、ぽんぽ……ぽんぽ痛い……ほんっと、痛い……痛気持ちいい……とか、そういう余裕はなく、痛い……」

 うわごとのような呟きが聞こえた。

「あ、だめ。寝ます。もう」とロザリーがいった。すぐにこてんと地べたへ転がった。「きゅぅ」
「う、うう。かなり頭痛いぞ」命がふらつきながら立ち上がり、碧を見た。「おい。やったぞ碧」
「……」碧は返事をしなかった。「そんな馬鹿な。あっけなさすぎる……」

 未だ衆人の目があることを思い出しつつも、舞衣もまたギャラリーの一人と化して、碧を冷たい眼で見つめた。
 来客の外国人に人間凶器をけしかけ、気絶させた。
 そういう絵にしか見えなかった。
 困り果てた様子で、碧が舞衣を振り返った。

「舞衣ちゃん、これ、どうしよう」
「あたしに聞かないで」

   ※

 風に錆のにおいが混じった。大海を望む風華の立地は潮と酸化から切り離せない。肌となく髪となくまとわりついてくるこの海風が、結城奈緒は嫌いではなかった。海岸の生臭さにだけは辟易しないでもないが、潮騒も、水のはらむ人間と一線を隔す怜悧さも、悪くはない。少なくとも人間の吐く息よりはずっと好ましい。
 いま、領空を望める高楼に彼女はいて、白雲に対峙するように佇み、孤立している。猛烈な日差しに焼かれて、資材でごったがえすビルの屋上に落ちる影は濃い。目線はどこでもない場所で浮いている。時折だらりと下げた両手の指先が痙攣するようにうごめいては、表情ともつかないわずかなふるえが奈緒の細面で波立った。
 少女のそれでしかない小柄な体躯の内奥で、意識をどこまでも沈下させていた。
 水底に漂い、決して浮上しない澱のように注意ぶかく、指先とその延長に有るイトに心を沿わせていく。
 まず姿勢が、次に呼吸が、そして最後に有りようが、奈緒の望むかたちに最適化され始めていた。

「聞いたところによると」耳障りな幻聴を、奈緒は意識の末端で聞いた。「すべては思いこみなんだ。フッサールにも顔をしかめられそうなメソッドだが、いま一度ルネ・デカルトの境地に立ち返る必要がある。できるとは思うことはできる。もちろん、できないことはできないが、可能なことはすべて可能になる。HiMEならぬ身には想像するしかない話だが、どうなんだ結城、いまの話に何か感じいることはあったりするのか? まあなくても別にいいや」

 子細はともあれ、力の実感が奈緒にはある。男の言葉の意味はわかったし、発信源への好悪は別として、実践する価値もあった。
 彼女が試しているのは巨大な綾取りだ。両手指十本に装着したエレメントから、それぞれ微細な糸を無辺に伸ばす。糸は意思を持って光を透過させ、不可視となって這っていく。速度はない。気を抜くとまま風にさらわれてしまう。普段ならばありえないほどの辛抱強さで、奈緒は糸を繰っていく。
 張力は要る。だが硬度も軟性も不要だ。この世でもっとももろく張りつめた繊維を、奈緒は自身が巣食うビルの四方に張り巡らせた。
 文字通りの警戒網を築くためだ。
(6……いや、5……も、だめだ。4くらいか……)
 十本の糸全てに注意するのはまず無理だった。異能ではない純然たる能力の頭打ちがある。克服には訓練と時間が必要になるだろう。思いつきにそこまでの労力を割く気はない。リソースがひどく限定されている以上、索敵だけに全力を振るわけにはいかない。かといって鳴子では相手にも気取られるリスクがある。理想は、指から切り離した状態でも糸に触感を同調させることだが――。

(……面倒だな)

 暑気と倦怠が、ふいに集中を断絶させた。我に返ったのかもしれない。
 今更何を警戒するというのか。
 結城奈緒が警戒するというのなら、それは周囲の世界全てであった。目新しいことは何もない。いつも通り慎重に、抜かりなく、敵があれば欺いて陥れるだけのことだ。

「あほらしい」

 吐き捨てると、奈緒は足を階下へ通じる扉へ向けた。長く立ちすくんでいたせいか、影がとけて地面と混ざったようだった。歩みのたびに足がコンクリートに張り付くように感じる。その鈍重な歩調に合わせて、この十数時間を想起した。
 高村恭司と決別した。玖我なつきを捕らえた。いたぶった。嗜虐心を満たした。一夜と昼を費やして、起こったのはそれだけのことでしかない。
 玖我なつきは、奈緒が何かをする以前にもうほつれていた。見せ物としてはなかなかでも、折り甲斐のある芯はすでに失われていたのだ。そんな形骸をいたぶったところで、それは常から奈緒が嗜んでいる遊びと何ら変わりがない。
 奈緒の意識下で、急激に玖我なつきへの感情が褪せつつあった。あるいは、それは何事によらず、同じなのかもしれなかった。
 今さら地べたで人狩りに精を出す気にもなれない。ならば他のHiMEでも狩るのだろうか。たとえばあの気に入らない鴇羽舞衣を?
 悪くないかもしれない。
 だがそれだけのことでしかない。
 美袋命や杉浦碧を敵に回してまで、得るべき対価では明らかにない。
 とたんに、奈緒は吹き出した。あまりにも自分が無目的であることに気づいたのだった。刹那に生きているつもりだった。だが、瞬間の中にひらめく余興さえ、今ではとっさに思い浮かばない。動かないための理由を数えすらして、退屈を受け入れ始めている。
 変化といえば変化だった。その理由を求め、袖を引かれた素振りで奈緒は足を止めた。
 日陰へ届く一歩のすんでで、はかったように胸元に納める携帯電話が着信を知らせた。淀みのない手つきで液晶の表示を確認すると、見覚えのない番号が通知されている。少なくとも、高村恭司の番号ではない。眉をひそめて、奈緒はスピーカを耳に寄せた。

「誰?」
「やあ、石上です」明朗な声が奈緒の耳朶を打った。
「は?」予想だにしない名前に、寸時言葉に詰まる。
「一応、君にとっても教師で、そしてつかの間だけど家主でもあった、あの石上亘で間違いないよ。結城奈緒さん」

 声と名乗りと、その持ち主の顔を繋げた後で、奈緒ははばかるように声を低めた。

「なんの用?」
「玖我なつきの身柄がほしい。むろん、ただとはいわないよ。見返りは用意してある」

 作為的なほど時機をとらえた単刀直入さに、奈緒はまず監視の可能性は疑った。大いにあり得る話だ。

「あいつはもうHiMEじゃないってのに、今さら何のようがあるわけ? シスター……紫子のほうにでも頼まれた?」
「彼女はきみが玖我なつきを拉致したことなんて知らないよ。僕も教えていない。一応、消息を絶ったらしいということだけはそれとなく教えてあるがね」
「あらあら」奈緒はわざとらしく呆れてみせた。「いいのかなぁ? 石上センセイってば、シスター紫子の"オモイビト"ってやつなんじゃないの? そうじゃなくたって、高村の話じゃ裏でこそこそツルんでるみたいじゃない。それなのにそんな相手に黙ってあたしに他のオンナをよこせだなんて取引持ちかけちゃって、後ろめたくないんですかァ?」
「ああ。とくに思うところはない」石上の語勢に迷いはない。
「ふうん。だと思った」白けた口調で奈緒も応じた。

 学校生活ではほぼ没交渉であり、マンションでの短い日々においても、奈緒と石上が交わした言葉など数える程度のものだった。にも関わらず、奈緒は、そしておそらく石上も、互いにある種の共通点を見いだしている。
 それは欺瞞の色彩だった。二人は赤と紫ほど違うが、紫と赤程度には通じているということでもある。
 石上はそれを感得してなつきの身柄を要求したのだろう。彼が切るカードは、奈緒をして満足せしめるものに違いない。
 だが、奈緒は別の見解を持っていた。彼女の関係性に対する哲学は大前提に拒絶がある。合目的的か否か、利益があるかどうかは、考慮されることもあれば、無視されることも往々にしてある。
 まれにその垣根を越えるものもいる。だがそういった例外は、得てして奈緒とはまったくそぐわない特性を持つ場合が多い。
 自分に少しでも近いと感じる人間に、奈緒は寸毫も妥協する気はなかった。
(こいつは論外)
 奈緒は即座に断じた。

「お断りだね。何がねらいなんだか知ったこっちゃないけど、あいつはあいつでこっちも利用するつもりなんだ」
「そうかい。残念だ」動じるふうもなく、石上はこたえた。「取引がかなわないなら、奪うしかない。まあ、それでもきみはかまわないと言うんだろう。けれど、対価が何かくらいは聞いてもいいんじゃないか?」
「喋りたいなら止めないけど」奈緒はせせら笑った。「ま、試しにさえずってみたら? うまく歌えば、あたしの気も変わるかもね」
「きっと気に入ってくれると思うんだ」

 石上が、前置きもなく核心にふれた。

「きみの家族が殺された事件の真相を、知りたくはないかな?」

   ※

 高村恭司と優花・グリーアの出会いに劇的な要素は皆無だった。あえて言うなら出会った場が教会であるという一点が奇異なのかもしれないが、それにしてもジョセフ・グリーアが神父を務めていたからにすぎない。
 高村の母が週に一度足を運んでいた日曜の礼拝に、高村が渋々同行したのが契機だった。他の幾人かの子供たちを交えて交わした目線が、高村と優花がした最初の疎通だ。
 そこで高村は優花の銀髪赤目に対して興味を示し、幼少期から聡明で機敏であった優花はありふれた反応にただ嘆息で答えた。そういったわけで、むしろ優花の側は、当初好奇心が旺盛で少年らしい無神経さに満ちた高村を嫌い、避けていた節さえあった。
 ただし年齢が小さいこともあって、少なくとも高村の側には男女の意識は存在しなかった。だからこそ、単純接触の原理が正常に機能したのだろう。顔を合わせる機会と交わす言葉の数が増え、共有する記憶が一定の割合を越えると、ふたりは自然に打ち解けた。どちらかといえば、優花のほうが歩み寄る姿勢を見せたのだ。
 その時節、優花は浮き世離れした少女だった。頭はいいはずなのに、雲を追いかけて町外れまで歩き、警察に保護されるような抜け目があった。高村はしばしばそんな道行きに付き合わされては、一緒になってジョセフ・グリーアに説教をされた。そのころ、主導権を握っていたのは優花であるのに、周囲は高村を優花の保護者と目すようになっていた。理由は単純だった。
 いつの間にか、優花が高村に懐いていたからだ。
 きっかけは、あったかもしれない。なかったかもしれない。高村の記憶には目立った原因は見あたらない。
<それをこそ知りたいのに>

「きょうじくん」

 やや舌足らずな発音を、高村は日に何十回も耳にした。優花はいつも笑んでは、高村を観察するようについて回った。今の彼が備える面倒見の良さは、こうした経緯で形成されたのかもしれない。
 やがて男女の性差が否応なく意識される年齢になると、距離を取ったのは意外にも優花のほうだった。同級生をはじめとして、人の目がある場では不自然なほどよそよそしい反応を示すようになったのだ。
 優花はそういった意味でも聡かったのだろう。幼い高村は、潮目のように引いた優花にかえって気を惹かれた。隣に彼女がいないことに違和感をおぼえ、次に寂漠を感じ、中学に上がる頃には焦がれるようになった。優花が日毎に美しく成長し、病的だった白子の様相が、性格相応の快活さをたたえ始めたのもそのころだ。周囲は優花を放っておかなかった。高村はさらに焦りをおぼえた。しかしそれは、ほどなくして諦観に変わるであろう感情だった。高村の世界もまた、優花だけで閉じていたわけではない。新しい環境や新しい友人は彼にも用意されていた。
 
<彼女はなにを考えてそんな振る舞いをしたのか?>

 そして高村恭司が十四歳になった夏に、優花・グリーアは彼を監禁しようとした。

 計画は年単位で考え尽くされ、練り尽くされ、計算し尽くされていた。万が一にも露見される恐れはないと判断し、優花は実行に踏み切ったという。むろん、仮に突発的な事態によって事件が外に漏れるとしても、高村やその家族と優花の父であるグリーアは決して表沙汰にはさせないだろうという予測も働いていた。
 優花は、長年連れ合っても恋人気分の抜けない高村夫妻が例年夏になると二人だけで長い旅行に行くことを知っていた。父親が娘の夏期休暇を見計らい、学者としての用事で本国に一時帰国することも織り込んでいた。高村の交友関係を調べ尽くし、彼のスケジュールに三日以上の空白が生じる日時を心得ていた。高村が決まった曜日の決まった時間に近所のコンビニエンスストアへ雑誌を立ち読みしに行くことなど知っていて当然だった。

 その日優花は、気の抜けた格好で家を出た高村に声をかけてきた。優花の当日の装いは、鮮烈なまでに高村の記憶に刻まれている。日差しにとても弱い肌のはずなのに、胸元に大胆なカットのある白いブラトップにベージュのショートパンツという、比較的露出の多い出で立ちだった。真っ白なスニーカーにはほこりひとつの汚れもついていなかった。そうした健康で活動的な身なりから、差したレースの日傘だけが浮いていた。様々な要因から、高村はそんな優花にどぎまぎしはじめた。

 一方優花は、あくまで偶然を装っていた。遊びに誘い、素直ではない高村が戸惑いがちに断るという可能性も、むろん念頭には入れていた。しかしそれでもなお意に介さず、優花は疎遠になった幼なじみを強引に教会兼自宅へ招いた。
 グリーア不在の閑散とした聖堂には、住み込みのシスターも帰省のため留守だった。父子家庭であるグリーア家には他に家人はおらず、教会はそう狭くない敷地の隅々まで静まり返っていた。つまり、優花の行動を邪魔するものは、もうなにひとつなかった。最後まで一切の油断をせず、ついに優花は高村を、本人にさえ気取られず監禁するための手はずを整えた。
 優花は小学生の折からたんたんとその機会をうかがっていた。感情の萌芽だけならば、もしかしたらさらにその数年前から芽生えていた。

「ずっとそんなことばっかり、考えていたんだ」後に優花は悪びれず高村にそう語った。「子供の頃から。ほんとうに、びっくりするくらい小さな頃から。どうにかしてきみを閉じこめて、独り占めにして、わたし以外の全部から遠ざけたかった。そんなのムリだって知ってたし、本気で実現させる気も少ししかなかったんだけど……、なかったはずなんだけどね。だって、犯罪だもんね。でもね、やっちゃった! あはは!」

 いみじくも十年後の夏に彼が横たわっている場所と似た、優花の生家でもある教会の地下に、高村は気づかないまま閉じこめられた。すべては徹底的に試算され、慎重に慎重を期して大胆に実行された。唯一の不合理があるとすれば、それは優花がこのような行動に踏み切るというその一点だけだった。

「恭司くん」と、後ろ手に地下室の鍵をかけた優花は熱っぽくささやいた。

 名前そのものが祈りの情感を孕んでいた。
 その声にこもる温度に気づかず、高村は口を開けて始めてみる地下室を観察していた。

「恭司くん」と優花は夢見るように繰り返した。「恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん恭司くん」
「なんだよ、急に?」突如自分の名前を連呼しはじめた幼なじみを、のんびりした顔で高村がかえりみた。「グリーア、おまえな、おれたちもう中学生なんだから、おまえも苗字で呼べよな」

 優花は笑った。

「ぜったいに、いや」と言った。

 地下室は空のワインセラーだった。オーク材と思しき痛んだ棚の列と、酒気の名残を帯びた空気だけが漂う打ち捨てられた空間である。光源は即席で備え付けられたらしい裸電球がひとつきりだった。地下の冷気よりも夏がはらむ暑気に浸されて、高村と優花は共に汗ばんでいた。ゆっくりと閉じた天扉を背に石段を降りながら、優花はきっと尋常ではない覚悟を秘めていた。自らの望む言葉を高村から聞き出すためならば、何日であろうと彼を閉じこめるつもりでいた。そんな異常な結論に至るまでに、優花の中で高村の与り知らない葛藤がいくらでもあったに違いない。

<しかしその感情は、まだ回収できない>

 どちらにせよ、このときの優花・グリーアは踏み切ったのだ。あるいは振り切れたのだ。
 膨大な感情の質量がそこにある。
 社会性の埒外にひそむ、恋慕の怪物。
 どこまでも平静のまま恋情と倫理をはかりにかけ、いともたやすく前者を択る、それは仕組まれたワルキューレの資質であったかもしれない。

「優花と呼んでよ、恭司くん。前みたいに」優花の懇願は、半ば命令のニュアンスを持っていた。
「ええ、いやだよ」高村はまったくそんな機微に気づかなかった。

 そんなすげない反応も、優花にとっては予測済みだった。

「わかった。しょうがないなあ恭司くんは。いつまで経っても恥ずかしがりやさんなんだから」肩をすくめ、余裕ありげに優花は嘆いた。ただし、声も肩も足も手も、高村には気づかれない振幅で震えていた。「それじゃあ、名前はしばらくあきらめる。そのかわり、ひとつ、わたしのお願いを聞いてほしいな」
「なんだよ、それ。無茶なことじゃないだろうな」高村は半眼で優花を見やった。「まあ、簡単なことならいいけどさ」
「簡単なことだよ、もちろん!」優花は勢い込んで請け負った。「誰にだって条件を満たせばできることです。もちろん、恭司くんにもね。ただ今すぐってわけには行かないと思う。だけど、努力とか、そういうものは要らないよ。そういうのはわたしが全部してあげる。だから、恭司くんは今うなずいて、約束してくれるだけでいい。本気じゃなくてもいい。ただ、忘れなければいい。ねえ、簡単でしょう?」
「その念の入れようが逆に、なんか詐欺っぽくないか?」高村はやや及び腰になった。「それで、具体的になにを約束しろっていうんだよ」

「結婚しよう」

 と優花・グリーアはいった。
 十年前の高村恭司は、思考を停止させた。

「いま、ここで、うなずいてほしい。恭司くんがそれをしたら、わたしはわたしにできる全部を使って、恭司くんを幸せにする。そして、賭けてもいいけど、ぜったいにきみはわたしを好きになる。好きにさせて見せる。だって、わたしよりも恭司くんを好きになれる人は、世界にきっとそんなにいないよ。きみの鈍感で視野が狭いところや、いざとなったら怖いくらいに極端なところや、理想論に傾いてるくせに結局踏み切れない情けなさを、わたし以上に正しく愛せる人なんかいるはずないって思うよ。だから、きみにわたしがいない明日なんて想像もできないくらいにする。その目にわたししか映らなくする。心のいちばん深い場所にわたしを植えつけてみせる。たとえ今そんな気持ちがほとんどなくても、絶対に。絶対にだよ。言葉だけでも、今日ここできみがそれを誓えば、未来は絶対にそうなる。そうしてみせる。
 ねえ恭司くん。黄金時代って知ってる? ひとが、いちばん幸せに輝けるその瞬間のことだよ」

 呆然と、高村は首を振った。

「わたしがきみのそれだよ」優花は語った。言葉には確信しかなかった。「そしてきみが、わたしのそれなんだ」
「ちょ、ちょ、落ち着け、優花」高村は完全に混乱していた。「なに言ってるんだ? 俺なんか……、いや、その、気持ちはうれしい。けど結婚とか、俺たちまだ中学生だぞ? いやいや、意味わかんねえよ、やっぱり! ドッキリか! なんなんだ!」
「落ち着けってねえ、きみ、ピントがずれすぎだよ」優花が嘆息した。「これは、落ち着いて、きみを好きだなって自覚した四年前くらいから、熟考に熟考を重ねた上での結論なの。今後の戦略とか人生設計とかプロセスとかもうかんっぺきに網羅してるの! あとはきみが頷いてくれたら、わたしはゴールへ向けてスタート切るだけなんだよ。レーンに入って、ブロックに足をつけて、クラウチングスタイルを取る。あとは合図を待って、さあ! 走り出そうってところで、ピストルを掲げたスターターが、『おい、選手たち。まだ準備が足らないんじゃないか?』なんて言ったところで意味はないでしょう? 恭司くんの心配はそれと同じだよ。あ、でも、名前で呼んでくれたね。嬉しい!」

 ほころんだ表情に、高村は光明を見た。

「そ、それじゃあ、約束もなしで。名前で呼ぶからさ。ああ、もちろん返事はするよ。だけど、急な話で、ちょっと時間が」
「それは駄目」優花はみなまで言わせず却下した。「わたしのことは名前で呼ぶ。返事もここでする――ううん、ちょっとね、落ち着いて状況を考えてみてほしいな。ここはずっと教会に通っていた恭司くんも知らない地下室で、鍵はわたししか持ってない。そしていまうちには誰もいない。恭司くんのパパとママもお留守にしてる。恭司くんがわたしとここにいることを、この世の誰も知らない。だからね、考える時間ならいくらでもあるんだ。ここで、いま、わたしの前で――」

 薄暗がりで、優花がわずかに輝いたように、高村には見えた。

「きみは、頷くの。誓うんだよ。それをしないと、ここからは出られない」
「……本気か」
「これを冗談で済まそうっていうんなら、わたしはまずお医者さんに行くべきだと思う」冗談めかして、優花はいった。

 高村はまったく笑えなかった。
 気おされ、狭い地下室で後ずさる。ラベルの剥げかけたワインボトルを目端でとらえる。壁の漆喰は一部が欠けており、赤錆の浮いた鉄骨が内臓のように露出していた。頼りない光源に照らされる優花の表情は真剣そのものだ。若干十四歳の少女の真摯さは紛れもなく実在する。だが真摯さがパッケージングする意思の中身は普通ではない。
 まんじりともせず、高村は沈黙を余儀なくされた。言葉が思い浮かばないわけではなかった。頷くことはたやすかった。もとより、優花ほど苛烈ではなくとも、彼女に対する好意は存在したのだ。だが、優花がここまで追い詰められた行動を起こす理由が気になった。

「譲ってよ、恭司くん」優花は切迫した面持ちで、希った。「きみの、時間をさ、わたしにも一緒に過ごさせてよ」

   ※

 この時期の優花は、と高村は思った。たしかに焦っていた。追われるようだった。結果的にこの場で、高村は頷いた。そうせざるを得なかった。了承を得た直後、優花は腰から崩れ落ち、へたり込み、子供のころより激しく泣いた。そんな彼女を抱きしめることも、高村にはできなかった。優花の抱えたものが、あまりにも隔絶していると感じたからだった。優花はすぐに泣き止み、胸のつかえが取れた様子で高村に謝罪した。そして、赤裸々に監禁計画を語り、高村を閉口させた。
 そうまでして自分に迫る幼馴染の心理を気にするほどの余裕は高村にはなかったし、この一件は翌日以降、なぜかほとんど二人の話題に上ることはなかった。ただ結果として特別な関係になったという事実だけが生まれた。
 恋人関係は三年間続いた。三年続いた末、優花が事故で他界し、全てはあっけなく終わりを告げた。優花の葬儀は行われなかった。事故後すぐに、教会の人々は丸ごと姿を消した。翌月には、新しい神父が教会に赴任した。ジョセフ・グリーアと優花の遺体の行方は杳として知れなかった。
 高村には致死量の絶望と、一握の夢だけが残された。

 優花の言葉通りに魅了されたのかどうかは、今もってなお高村自身には判断がつかない。優花は死に、その死を経てなお、高村は生きている。天河諭や考古学との出会いが立ち直らせたと見ることもできる。だが本気で娘を蘇生させようと試みているジョセフ・グリーアからすれば、娘の恋人は薄情な男なのかもしれない。
 何も言いつくろえない。
 高村は、死んだ恋人の記憶を、矮小な復讐を遂行するための代償に選んだ。グリーアさえ知らない優花の顔が、あるシステムの完成には必要だった。それを差し出すことで、高村は少なくない見返りを得る。
 幼馴染であり恋人でもある少女と、育んだ無数の時間があった。
 社交性に溢れた優花である。そのエピソードの網羅は不可能に近い。だが、彼女がもっとも世界を共有したのは、父と、そして恋人だったことは間違いがない。
 記憶は記憶でしかない。秘匿に値する機密だったというわけでもない。世界でただひとり、ジョセフ・グリーアにとって有意義な秘密で、高村にとっては、大切だが余りある思い出の群れに過ぎない。
 何も失われてはいない。
 だが、喪失感が高村を襲った。
 泣きながら、彼は目覚めた。

   ※

 碧は理事長邸に呼び出しを受けた。確実な減俸を予感して逃走をはかる彼女を捕まえたのは姫野二三だ。子牛のように泣きながら、十七歳を名乗る私立教師(24)は抵抗むなしく連行された。
 残された舞衣は、なぜか気絶したロザリーを運ぶ羽目になった。華奢な見た目に見えて、存外西洋の女性は骨格肉付き共によく、重たい。肉体労働で鍛えた舞衣の体力でも難儀するほどである。
 どうにかようよう保健室にたどり着くと、部屋の主である鷺沢陽子は不在だった。先般の下級生の付き添いで救急車に同乗してしまったらしい。汗まみれでため息をついた舞衣は、袖まくりの仕草で、まず額を真っ赤に腫らした命の治療にかかった。

「それにしても、珍しいわね。あんたの石頭が、こんなおっきいタンコブ」
「指の関節で打たれた。ほんとうは目と目の間をねらってたんだ」命が興味深そうに軟膏をにおいながらいった。「あとちょっと頭を沈めるのが遅れてたら、危なかった」
「ふうん……よくわかんないな」と首を傾げながら、舞衣はつぶやいた。「碧ちゃんは頭からあの人のこと疑ってかかってたみたいだけど、命はどう思った?」

 問われた命は鼻の頭をかいた。あまり深刻ではなさそうに、中空を見上げる。丸くて黒い瞳から伸びるまつげは意外に長い。そうと気づいてみれば、命の顔立ちはとても整っている。ただしその造作も、大臼歯まで見えるあくびをしては台無しだった。

「HiMEでは、ないとおもう」
「それは、あたしも同感」舞衣はうなずいた。「だったら何かっていったら、そりゃ怪しい人なんだけどね。昨日の今日だし、碧ちゃんがなつきのことと繋げて考えるのもわかるんだけど、どうもそういう露骨な裏がある人には見えないんだよなぁ。それとも、あたしたんに、人を疑いたくないだけかな?」
「わたしにはわからない」命は首を振った。「……そういえば、前に恭司がいったことがある。信じたいことを信じなくてはならないときと、信じたくないことに備えなくてはいけないときがあるって」
「高村先生が?……に、しては、常識的っていうかなんというか、ふつうにいい台詞ねえ」
「前から思ってた」命がふと不安げな顔つきになった。「舞衣はもしかして恭司のことがあまり好きではないのか?」

 不意打ちに近い質問に、へっ、と舞衣は間の抜けた呼気を漏らした。
 脳裏をよぎったのは弟の顔と、弟と談笑する高村の顔だった。

「いや、……そんなことはない、けど」
「よかった」命が安堵のため息を漏らした。「じゃあ、好きなんだな。わたしと同じだ。最近は、あまり会えなくて寂しいけど」
「まあ、嫌いではないけどね。巧海も懐いてるし」舞衣はあえて言葉を濁した。「懐いてるっていえば、命はまあ仲良くなればだいたい同じかもしれないけど、アリッサちゃんもそうだよね。あの人って、子供にもてるオーラでも出てるのかな」
「……わたしは子供ではない」命が頬を膨らませた。
「そう? あたしはまだまだ子供でいたいけどねぇ」舞衣は微苦笑で応じた。「急ぎ足ではやく一人前になりたくもあり、今を楽しみたい気持ちもあり、まったくままならないなぁ」
「そういえば、舞衣は黎人のことは好きなのか?」突然命が爆弾を投下した。
「そういえばって」舞衣は頬をひきつらせた。「な、なんでいきなり黎人さんの話題が出るかなっ? 前フリ全然なかったじゃない!」
「昨日、なつきが恭司と遊びに出かけた話をしたら、千絵とあおいが、じゃあ舞衣のホンメイは黎人か祐一だといっていた。ホンメイというのは好きなひとのことだ。舞衣はあのふたりが好きなのか? って思ったから、聞いた」
「あ、あの二人」舞衣は肩を落とした。「やっぱり女子寮って教育上良くないなぁ……。って、祐一!? 楯がなんでまたそこで出てくるわけぇ!?」
「それは二人に聞いてくれ」命が至極もっともなことをいった。
「まったく、女の子ってつくづくコイバナが好きよね。あたしも嫌いではないけどさ。こんな時でさえなかったら」
「こんな時ってどんな時ですか?」
「なにいってんのよ。そりゃもちろん、」

 そこまで言いかけて、舞衣は二の句を飲み込んだ。
 命の合いの手ではない。
 ロザリー・クローデルが、青ざめた顔のままベッドの上で半身を起こしていた。

「あ、っと、っと、っと、えーと」舞衣はとっさに鍛え込まれたスマイルを繕った。「おかげん、いかがですかっ?」
「なんですのその笑顔。気持ち悪い」ロザリーが辛口で評した。「二重の意味で気分悪いです。ちょっと、そこの子供。わたくしにいったい何の恨みがあるんですか。返答次第じゃ一生の思い出を今ここで作っちゃいますよ」
「み、碧がやれといった」身震いするほど不吉な予感におそわれたのか、命が動揺混じりに責任転嫁をはかった。「おまえが悪いヤツだと聞いたから……んん」
「素直すぎるのも考え物ですねぇ」

 ロザリーが慨嘆しながら、ベッドから足をおろした。さらけ出された脚部はシーツと比べて遜色ないほど白く、そしてなまめかしかった。あれなら見せたい気持ちもわからなくない、と舞衣も一瞬考えてしまうほどだ。

「主体性があまりないのはどうかと思いますよ」けだるさを語調に引きずって、ロザリーが命を投げやりに指さした。「あなたすごく決戦用暴力装置って感じですね。美袋翁もろくでもないデザインをしたものです。……ま、亡くなられたのならしょうがないですね」
「ミナギオウ?」命が首を傾げた。「わたしと苗字が一緒だな。誰だ?」
「あなたのおじいさまのことですわ、美袋ミコト」とロザリーはいった。
「ジイを知っているのか!」命の瞳が驚きにまるく見開かれた。
「直接の面識があるわけではないですけれど」ロザリーがこたえた。「タカムラのことはご存じでしょう? 童貞くさい眼鏡のお兄さんです。そういえばこの学校で教師をしてるのではなかったかしら。春先に彼があなたのおじいさまを訪ねたのは、わたしの手引きだったんですよ」
「え? ちょっと、待ってください」突然の見知った名前を危機とがめて、舞衣は口を挟んだ。「クローデルさんって高村先生と知り合いなの!?」
「恩人の教え子ですよ。知り合いですけれど仲良しではないですわね」ロザリーが驕るように鼻を鳴らした。「まったく、思い出したらお腹が勃起してきました。あのヒトを囲ってた理不尽なセキュリティを二度も無効化するのにわたくしがどれだけ他人の骨をへし折ったか……。シアーズなんかとまともにやり合ってたら命がひとつじゃ足りませんわ」
「あのっ」

 矢継ぎ早に繰り出される意味の分からない単語はひとまず置いて、舞衣は追求に身を乗り出した。行方が知れないのはなつきだけではない。一緒にいたはずの高村も同じなのである。

「高村先生、今行方不明なんです。どこにいるか知りませんか? 連絡先とか、心当たりとか、なんでもいいんですけど!」
「期待を裏切るようで悪いですけれど」ロザリーはあっさりと否定した。「そこの美袋さんとの件で関係があったのは事実ですが、いまタカムラがどうしてるのかなんて知ったことじゃありませんわ。老婆心ながら忠告させていただきますが、基本的に彼とはあまり関わらないほうが無難ですわよ」
「な、なんでですか」垣間見た光明を見事に空振りして、舞衣は眉を下げた。
「破滅型ですからね、彼」ロザリーは不治の病人を語る医者の口振りだった。「ブレーキが壊れているのは、まあよくいるといえばよくいる人間ですけれど……、ただ、異常なほど悪運に愛されてるから始末に負えません。酷い戦場で独りだけ生き残って、だらだらどーでもいいこと引きずって、それで結局その後自爆テロをするアホですよ、あれは。マトモにつきあってはいけませんわ」

 舞衣は閉口するしかなかった。淡々と知人を狂人のように語り始めたロザリーにもだが、彼女が話す人柄が、とても高村への印象と符合しなかったからだ。

「いなくなったというのなら」ロザリーは構わずに続けた。「そうですね、高い確率でもう死んでいるんじゃないかしら」
「……そんな、まさか」

 軽々しい口振りに、舞衣は陰鬱な否定だけを返した。

「おい」黙して語らずにいた命が、剣呑な表情でロザリーを睨みやった。「恭司のことを悪くいうな。……とても不愉快だ」
「へぇ」ロザリーは楽しげに目を細める。「よく手懐けられていますね。彼のことが好きなんですか、美袋ミコトさんは?」
「恭司も、舞衣も、わたしは大好きだ」命は力強くうなずいた。「そして、わたしの好きな人間を困らせるヤツが嫌いだ」
「嫌いな人も好きな人も多そうで、たいへん結構なことですわ!」とロザリーはいった。「で、疑問なんですけど、中でもいちばん好きなのはどこのどちらさまなんですの? タカムラですか? そこの鴇羽さんですか? それともわたくしの知らないほかの誰かかしら?」
「それは」

 答えかけたところで、命が口ごもった。困惑に目が泳いでいる。

「決められないんですか? あらあら、たぁいへんですわぁ。考えたこともなかったのかしら。月面の旗みたいに健全な娘ですこと」ロザリーがわざとらしく眉をしかめた。「でも、そんなはずはないです。決めかねるなんて、そんなことは、絶対にないですよね。貴女、考えたことがないのではなくて、考えないようにしているだけです。ねえ、恥ずかしがらないで言ってみて御覧なさいな。あなたのいちばん大事な、誰より尊い人は誰なのかしら? ほら、勢いでもいいんですよ。いま、頭の中でぐるぐる回っている面影は、みっつかしら、それともふたつかしら? 言葉にしてみればいいんですよ。想いのシニフィエを」
「……うるさい」命が突っ慳貪につぶやいた。
「残念です」

 ロザリーは目を奪うほど美しく微笑した。


「予言しましょう。貴女は決めあぐねたその全てを、いずれ失います」


「……おまえ」

 そうと知れるほど命の目尻が歪むのを、舞衣は見逃さなかった。風華にやってくる以前の来歴を、舞衣もつぶさに承知しているわけではない。ただ、命が永い間酷く孤独な時間を過ごしてきたことは察せた。何かを失うといった物言いに、命は酷く敏感である。夜毎舞衣のベッドに潜り込んでくるのも、人恋しさと不安の現れであろうと踏んでいる。ロザリーの言は残酷なほど的確に命の急所を衝いていた。

「やめてください」押し殺した声で舞衣はいった。「もう、いいです。用が済んだのなら、帰ったらいいじゃないですか。服脱いだりとか、高村先生やミコトの悪口言ったりとか、そんなことがしたくてここにいるんですか」
「全然」ロザリーがあっさり答えた。「でも、その言い様はどうかと思いますよ。わたくしだって、突然お腹を殴られてたいへん痛い思いをしたのですから。その意趣返しをしただけで悪者扱いですか? おとなげのなさがわたくしのチャームポイントなのに、過保護ですねえ、どうも」
「それは……たしかに、すいませんでした」正論に鼻白みながら、舞衣は頭を下げた。まともなのか異常なのか、ロザリー・クローデルという人間の実体が計りかねた。
「貴女に謝罪されるいわれはないでしょうに」そこでふっとロザリーは表情を緩めた。「でも嫌いではないですよ、そういうの」
「命も、ほら、謝って」

 舞衣が促すと、口を尖らせながらも、命は素直に頭を下げた。

「……ゴメンナサイ」心底嫌そうな口ぶりだった。

 その頭に、ロザリーが触れた。

「よしよし。いいこいいこ。わかりました。これでお互い、うらみっこなしですわ!」満面の笑みでロザリーは手を打ち合わせた。「さて、それじゃあちょっと真面目なお話をしましょうか」

 そして、おもむろに服を脱ぎ始めた。

「またかぁ!!」舞衣は絶叫した。「いい加減にしてください! 子供の……っていうか、誰の前でも! 脱がないで! はしたない!」
「ちょっとちょっと、誤解を招くような物言いはやめてくださいな」ロザリーがブラジャーを外しながら心外そうにいった。「そんな人を……露出狂みたいに」
「ほかに! どう! 解釈しろと!」舞衣は力いっぱい抗議した。
「お聞きなさい。鴇羽さん」やおらロザリーが真剣な表情をつくった。「ひとは誰しも――生まれたときは裸です。そして」
「そ、そして……?」
「狂気の沙汰ほど面白い……!」
「自覚してるじゃないですか!」舞衣は頭を抱えた。「だめだ……正しい意味での確信犯だ……」
「まあ冗談はほどほどにして」ロザリーがふにゃっと笑った。脱ぐ手は休めていない。
「冗談!? 何が冗談!? そのぱんつ脱いでるのがですか!」
「しようがないですわ」ロザリーがいう。ショーツを明後日の方向へ投げ捨てた。「脱がないと感度が上がらないんですから」
「感度!?」

 舞衣は雷鳴に打たれたかのごとく身を震わせた。必ずやこの淫猥狎褻の女を除かねばならぬと決意した。

「そ、そういう意味ではないですわよ」舞衣の反応の意味を察したロザリーが顔を赤らめた。「言葉通りです。嫌ですわ。鴇羽さんくらいのお年頃ではしかたないのかもしれませんけれど……エロ脳です、エロ脳」
「ほかにどういう意味があるっていうんですか……」もはや反論する気力もない舞衣だった。
「こういう意味です。フムフム、ちょっと失礼」

 微笑んだロザリーは、またもやソックスを残してほぼ全裸の様相だった。頓着のない素振りで舞衣ににじり寄ってくる。無造作に伸ばされた右手が舞衣の首筋を狙っていた。
 舞衣は貞操の危機を予感した。思わず眼を閉じ、両肩をこわばらせ、棒立ちになった。声も出なかった。
 恐らく命のものであろう、息を呑む音が、やけに耳についた。
 ロザリーの指が優しく舞衣の制服に触れる。

「ん……!」

 そして、すぐに離れた。
 一瞬だけの感触のあと、舞衣は十秒たっぷり硬直し続けた。
 想像だにせぬ恥辱にただ怯えるつかの間を過ぎて、いつまで経っても続きがやってこないことを悟り、訝り、薄っすらまぶたを押し開く。

「……?」

 正面五センチの距離にロザリーの顔があった。
 驚きに声を上げるまもなく、似つかわしくない野趣溢れる眼前の笑みに言葉を奪われる。顔と顔の間にある微々たる隙間に、ロザリーの指がつまむ小さなボタン状の何かがあった。

「な、なにそれ」
「いけない虫です」ロザリーが囁いた。

 さして力を込めた様子もないのに、摘み上げられたそれは容易く指の狭間で圧壊した。プラスチックと金属の入り混じった破片が、舞衣の鼻先で落下していく。指先に吐息しながら、ロザリーがこの場にいない何者かを鼻で笑った。

「うら若い少女に盗聴器とは、どこの誰だか存じ上げませんが、卑劣千万な糞野郎ですわね。――あら、失礼」
「と、盗聴器!?」舞衣は反射的に襟元を探った。「あ、そ、それ、今、あたしの制服についてたんですよね? なんで。洗濯したばっかりなのに……いや、そもそもどうして」
「さて、どうしてでしょうね。心当たりくらいあるんじゃないですか?」とロザリーがいった。「この保健室はまだ少ないほうですが、この学校、さっきざっと歩いただけでも、迷彩されたマイクやカメラの数が十や二十ではぜんぜん足りませんでしたわ。もちろん、防犯カメラ以外のもの限定で、です。トイレにまでありましたし、ほとほと酷いところですね」
「うそ」舞衣は青ざめた。こみ上げる嫌悪感に口元を押さえる。「え、ええ? そんな、ずっと? 嘘やだ、どうしよう。嘘」
「まあまあ」ロザリーは朗らかに笑った。「見られたものはしょうがないです。減るものじゃないですし、ともかく落ち着きましょう」

 舞衣は唇を引きつらせた。ロザリーの白々しい笑みが異様に癇に障った。
 困惑ばかりが膨張している。思考に幾筋もの亀裂が走った。玖我なつきと高村恭司の行方、弟の病状、HiMEの前途、そして目前の現実。夏の暑気も、胸を圧迫する不安の重みに一役を買っている。震えた喉から吐き気を逃がし、舞衣は両腕を握り締め、爪を立てた。
 ふと、背後に気配を感じた。猛然と振り返ると、カーテンが風に揺れる景色があるだけだった。昼下がりの日光に含有される禍々しい熱に、舞衣は眼も眩む思いだった。

「舞衣?」命が気遣わしげな声を発した。
「……もう、嫌」舞衣に応じる余裕はなかった。眼を硬くつむった。

 衝動が決壊に転じつつあった。まずいなと、舞衣の内部で呟く部分があった。でもそろそろ限界かもしれないな、ともそれは言っていた。もう無理だった。普通のように装っても、限界はすぐそこにある。そう指摘する理性が存在した。
 舞衣はうずくまりたかった。疲労が彼女の肩に一斉にのしかかりつつあった。腹部に刺すような痛みを感じた。脂汗と冷や汗が彼女の背筋を伝う。不規則な呼吸で、舞衣は視線を当て所なくさまよわせた。

「鴇羽さん」ロザリーが、優しい仕草で舞衣の手を握った。余った手は、背中をゆっくりと擦りあげてくる。「深く、呼吸をしてください。顎を上げて」

 舞衣は言われるままにした。目の前の女の正体に対する猜疑心が、不意に鎌首をもたげた。その心理を自覚して、舞衣はほとほと嫌気をおぼえた。

「眼も閉じて。――そうです」

 言われるままにしてから、「眼?」と舞衣は思った。
 瞳を開けた。
 キスをされた。

「――――!?」

 探るような先触れが舞衣の項で悪寒に変わった。全身の毛穴が開く感覚と共に舞衣は全力でロザリーの体を押し返そうとする。が、舞衣の右手をきつく握る手と背中を硬く抱く腕は微塵も緩まなかった。
(ちょっまっ)
 助けを求めるように命を横目で見た。
 命は目元を赤らめて視線を逸らしていた。
 そうこうする間に今度は顎と後頭部を押さえられた。上唇が啄ばまれた。下唇が吸われた。歯列をくまなく舌が這った。舌鋒は緩急と剛柔を自在に使い分け、懸命な防御に一点の瑕疵を見つけるやたやすく隙間を抜いてきた。異常に長い舌がとうとう舞衣の口腔に進入した。
(…………)
 とてつもなくいい匂いがした。吐息の熱が意識を焦がした。舐られ、噛まれ絡まれ、ほどかれ吸われ、舞衣の脳にどんどん熱が溜まった。鼻から抜けるような甘い声を聞き、耳の裏側をくすぐられ、砕けた腰を支えられ、舞衣はとうとう考えることを止めた。涅槃の境地に達して遠い眼をした。なんとなく、楯祐一の顔が思い出された。気持ち悪いくらい気持ち良かった。
 気がつくと接吻は終わっていた。舞衣はロザリーのかたちの良い乳房に顔を埋めていた。ほぼ全体重を受け止めてもロザリーは微動だにせず、舞衣を抱きかかえて、頭を優しい手つきで撫でていた。

「落ち着きましたか?」

 一仕事終えた声で、ロザリーが尋ねた。

「おちつきました」舞衣はロボットのような声でいった。

 目じりの涙を指先で拭う。一連の行為の末に、絶対に認めてはならない類の感情が胸に兆していた。ゆっくりと重心を移し、両腕でそっとロザリーの裸身を押しのけた。それからハンカチを取り出し、注意深く、丹念な手つきで自身の唇を拭う。

「ま、まい?」恐る恐る、命が声をかけてきた。

 舞衣は答えず、冷静な素振りで周囲を見渡した。心は完全に平静だ。腸は完膚なきまでに煮えくり返っていた。スチール机を見つけ、パイプ椅子を認めて、重たく息を吐いた。

(ファーストキスは命だった。セカンドキスは痴女だった)

 また涙が溢れそうになった。その衝動を振り払い、舞衣はパイプ椅子を掴みあげると振りかぶった。
 ロザリーがそそくさとパンツを履き直そうとしている。

「あ、やだ、ちょっと待ってください鴇羽さん、落ち着いて落ち着いて!」ロザリーが逼迫した様子で叫んだ。「せめて! せめてパンツははかせてください! そうしたらいいですから!」
「じゃあ、それが遺言ってことで」舞衣はこの日、殺意を知った。
「きゃー!」

 手加減なく振り下ろした。
 ロザリーは自ら倒れこみ一撃を回避すると、衣服を回収し、ベッドの足元を滑るように潜り抜け、鮮やか過ぎる速度で保健室から逃げ出した。数秒後に、いたいけな男子生徒のものと思しき悲鳴が聞こえた。
 舞衣は時間をかけて体の緊張をほぐすと、椅子を元の位置に戻す。空しい勝利の味は忘れえぬ苦渋で満ち満ちていた。

「はぁーあ」と力いっぱい、嘆息した。「ねえミコト」
「う、うん。なんだ舞衣」恐々としながら応える命だった。

「なんか、嫌だね、こういうの」
「……うん」
「いや変態がって意味じゃなくて」
「…………うん?」

 首を傾げる命に乾いた笑いを送って、舞衣はふとスカートのポケットに異物を発見した。
 それは丁寧に折りたたまれた紙片だった。折り目を開くと、流麗な筆記体で綴られたアルファベットが眼に入る。短文を構成するのは難しい単語ではない。それこそ、舞衣でも読み解ける程度のものだ。

 ――明日夜21時 風華駅前 HiMEの件について

 何度確かめても、そう読めた。

   ※

 八月九日の深夜、結城奈緒は風華市内のビジネスホテルに宿泊していた。室内に二つ並んだベッドの窓側で、はめ殺しの窓から代わり映えのしない夜景を眺めている。地方都市の夜は酷く静かで、今夜に限っては夏の夜も休眠を謳歌しているようだった。
 高村恭司からせしめた金銭は、当座生活にしのぐだけならば十分残っている。夏休み中ということもあり、服装と出歩く場所にさえ気をつければ宿泊する場所にも困らないし、補導員などに声をかけられる心配もさほどない。
 石上との取引について、考える時間と場所が奈緒には必要だった。
 落ち着ける場所だというならば、何もホテルではなく寮に帰ってもよかった。玖我なつきをさらったのが奈緒だと確実に知っているのは、現状では石上だけである。その石上にしても、市外から奈緒をマークしていたからこそ知りえた事実なのだ。鴇羽舞衣や杉浦碧は今ごろなつきの失踪を知って行方を探っているかもしれないが、なつきと奈緒とを結ぶ発想があれば、彼女たちはまずは奈緒に連絡を取ろうとするだろう。現時点でそれがない以上、それほど警戒の優先度は高くない。
 そして高村恭司は、なつきの身柄を欲する連中に既に捕らわれている。情報源はやはり石上である。確度のほどはともかくとして、高村や九条むつみ、深優・グリーア、そしてアリッサ・シアーズからは今のところ何の音沙汰もない。そもそも、高村の預かりになって以降の奈緒が、彼女たちにどう認識されているのかもわからなかった。
 シアーズどころか高村とも決裂した以上、次に奈緒が深優とアリッサに見えれば今度こそ戦闘は最果てまで行き着くことになるだろう。目下、直接的な脅威としてもっとも大きいのはこの二人である。戦力的にも、性格的にも、それは確実だった。
 頭を枕に預けて、ひとしきり考えをまとめ終えると、奈緒は山積する厄介事の数にうんざりした。時間が経つにつれ、奈緒を取り巻く状況がどこまでも悪化し、複雑化している。気がつけば周囲には敵しかおらず、先行きの目処はまるで立っていない。

(面白いじゃない)と奈緒は思った。

 孤独を実感すると、心は奮い立った。五体に力が湧いてきた。
 ドアが開閉される音を聞き流しながら、左手を軽く握る。

(他には――ああ、そういえばまだ生徒会長がいたっけ)

 石上亘と高村恭司を除けば、なつきの失踪に関わる当事者とも言うべき人間がもう一人、いた。風華学園生徒会の長を務める藤乃静留である。
 藤乃静留が取るに足らない人間である、とは奈緒は思わなかった。静留のなつきに対する執着は、奈緒の目からはやや行き過ぎに見えた。昨夜の状況下でチャイルドを召喚した奈緒の前に立ちはだかるメンタリティは、健常のそれではない。意気を振り絞ったという気負いも、静留からは感得できなかった。生徒会長として、ある程度HiMEの存在に通じているというだけでは説明がつかない振る舞いだ。
 いみじくも静留本人が指摘した通り、奈緒は人間を観る眼に長けている。生まれつきの観察眼もあったであろうし、環境が育てた側面もある。その経験則が静留に対して鋭く高い警鐘を鳴らしていた。
 藤乃静留は空ろな人間だと、以前の奈緒は思っていた。ほぼ全てを備えているが、その能力を持て余している。子供の全能感と大人の諦観の中腹で、ただ亡羊と漂っている。そんなイメージだった。
 だが、なつきを前にした時の静留を見た瞬間、印象は払拭された。静留はそれほど生易しい生き物ではない。見た目は似ても似つかないが、内面には美袋命に近いものがある。そう奈緒は判断を改めていた。取りも直さず、それは奈緒にも近しい性質であることを意味した。

「ねえ」と奈緒はいった。「藤乃って、あんたの何?」

 シャワーを浴び終え、黙然と濡れ髪をタオルで拭いていたなつきが、捉えどころのない目つきを返してきた。


 次第によっては今晩限りの但し書きがつくが、いまのなつきは奈緒のルームメイトである。
 手首と両足には変わらず奈緒のエレメントによる糸の枷がある。だが伸縮性にはずいぶん遊びを持たせていた。走ることはできないが、タクシーから降りてホテルまで歩くのに苦労するほどの拘束ではない。
 夏場に人間をひとり、誰の眼にも触れずに隠しておくというのは、奈緒が思ったよりもずっと難易度の高い所業だった。完全に自由を奪うならば、食事の世話も、排泄の世話も要る。そんな真似を奈緒がしてやる気はまるでなかったし、かといってどこかに放置しておくわけにもいかなかった。なつきの身柄を欲する酔狂な人間が複数いるとなればなおさらである。
 石上が――認めるには癪な事実だが――看過できない対価を提示した以上、なつきにはこれまでとは違う価値が生じてしまった。それは奈緒の中で褪色した『玖我なつき』の項目にぴたりとあてはまった。彼女は既に奈緒が蹂躙するべき敵ではなく、ただ今後を占う賽の目のひとつに過ぎない。
 幸か不幸か、なつきは監視が緩められても逃げる素振りも見せなかった。その双眸には、奈緒どころかなつき自身さえ映っていない。いつか映画で観た、情動を奪われた人間のようだった。
 そんな評価を裏づけるように、なつきは朴訥とした言葉で奈緒にいった。

「……友人だ。いちばん大切な」
「口で言うのは簡単よねえ。プロフィールを読み上げてるみたい」奈緒はせせら笑った。「じゃ、あんたはどれだけ生徒会長のこと知ってるのよ? 逆に、自分のことをどれだけあいつに話してたわけ?」
「……いわれてみれば、そこまでプライベートな話をしたことはないかもしれない」なつきは自嘲気味にいった。「母のことにしても、死んだ、という事実以外は教えてなかった。わたしも、静留のことはほとんど知らない。あいつも母を亡くしている、と聞いたことはあるが、それくらいだ」
「だいいち、学年ふたつも違うじゃない」奈緒はかねてからの疑問を口にした。「あんたから近づくってガラじゃないわよね。おおかた、向こうからちょっかい出されたんでしょ」
「よくわかるな」なつきは頷いた。口ぶりに違えて、少しも感心している様子はない。親友との馴れ初めを想起させる会話に、何ら心を響かせている気配もない。
「その様子じゃ、あんたはトモダチでも、向こうはどうかわからないね」何かに苛立ち、口早に奈緒はいった。「寂しいモノ同士でくっつきあって、本音は何も話してない。それで『いちばん大切』ぅ? そんなの、他に何もないからたまたま目に付いてるってだけじゃん」

「そうだ」なつきはうつろに呟いた。「わたしは、そんなことばかりだ」

「だから可哀想だって?」唾棄するように奈緒は返した。
「いや――」なつきは浮かされたような口ぶりだった。「そんなふうには、思わない。わたしは馬鹿なのかもしれない。道化で、それ自体は、惨めだと思う。だけど奈緒」
「気安く呼ぶな」
「……何かを大事にしていて、それが人から見て滑稽だったとして、それは何かを間違えているから滑稽なんだろうか」なつきの言葉は自問に近かった。「履き違えた間抜けさが、勘違いした巡りの悪さが、失笑に値したとして、それを哂う誰かは、そんなに確固とした何かを持っているんだろうか」
「はあ?」奈緒は唖然となつきを見た。仰向けのなつきは、天井の回らないフィンを凝然と見つめていた。「くっだらない。アンタ、そんな意味わかんないこと考えてんの」
「似たようなことを」なつきは頷いた。「これまでのことを、ずっと考えている。ずっとずっと、考えている。でもわからない。どんなふうにすれば、今みたいにならなかったのか。あるいは、今が本当に最悪なのかどうか」
「ずっと敵討ちをしてやろうと思ってた母親に裏切られて、もっと底に行けそうなら教えてよ」奈緒はあくびをかみ殺した。「ま、あたしにとっちゃどうでもいいけど。それはきっと、結構な見世物だろうからさ……」

 奈緒は断りも入れずに照明を落とした。
 睡眠剤には持ち合わせがなく、隣に他人がいては、眠れるはずもない。だが暗がりで瞳を閉じるだけでも、体と思考を休めることはできる。
 家族、と奈緒は思った。奈緒にとっては、もはや観念だけでしか存在しないものだ。家族の定義を結ぶ家は解体されて既にない。病室で眠る母は、相変わらず生と死の水際にいる。それ以前に、今までの人生で、奈緒は家族に対して実感を持ったことがない。同じ家に住んだだけの人間ならば、余人と比べて抜きん出て多いとさえ言える。だが、心の底から何かを共有できるような他人には、出会えた記憶がない。
 ――あるいは母とさえも。
 暗鬱な思考を断ち切ろうとした奈緒は、暗闇に鼻をすする音を聞いた。鬱陶しげに鼻梁を歪めて、鋭く呟いた。

「うざったいなっ! いつまでメソメソ泣いてるんだよ、気持ち悪い!」
「その通りだ」ぞっとするほど平然としたなつきの声だった。「この涙はどこから来るんだろうな。どのわたしが泣いてるんだろう。わたしは壊れてしまった気がする。わたしは何を悲しんでいるんだろう」
「知るかよ……そんなの」奈緒は身を起こしかけた。このまま朝まで夜の街に出かけようと思い立った。いまの玖我なつきは、少しならず不気味だった。
「へんな感じだ」となつきはいう。「落ち着かない。夜、眠る時に、おまえが隣にいるなんて、想像したこともなかった」
「そりゃ――こっちのせりふよ」

 大いに共感しかけて、奈緒は戸惑った。些細な波紋が重なった。そんな気がした。

「おやすみ」となつきは言った。

 奈緒は応えなかった。不快感に、顔をしかめる。

「そうやって、手近な何かで間に合わせようとするのがアンタの弱さよ」奈緒は囁いた。「あたしは絶対に違う。考えたりしない。何が悪かったかなんていちいち悔やまない。それは取り返せないものなんだ。どうしたって、もう、手なんか届かない。お生憎様、あんたは明日、売られるの。そうしたらもうサヨナラよ。好きなだけ大好きなママのことでも何でも考えて生きていけばいい」

 寝息が聞こえた。奈緒は遣る瀬無さにため息をついた。
 そして、相変わらずの眠れない夜を過ごした。

   ※


 藍色の闇に、虎の死体が輝いていた。エメラルドグリーンの燐光は、狂った蛍の軌道で死骸を取り巻き、螺旋を描いて空へと上る。粒子は見上げる高さに至ると、一瞬強くひらめき、すぐに淡く中空へ溶け消えた。
 雨だれに打たれるままになって、日暮あかねは放心していた。
 あかねのチャイルドであるハリーは破れた。年端もいかぬ小柄な少女に、正面から力でねじ伏せられ、屠られた。血塗れの急所をさらけだし地面に寝そべる猛虎の巨躯に、今や生気は皆無である。完全に絶息し、エーテルの波へ還元される渦中にあった。
 チャイルドの喪失。その意味するところを、あかねは正確には知らなかった。契約の際、炎凪はただチャイルドを得る代償を「何よりとうといもの」とだけ称した。必然、それは容易に命へ結びつけられた。
 だが、別の危惧もあった。
 大切なものが、必ずしも命とは限らない。ことが生死にかかわるだけに、一度だけ、あかねは凪を問いただしたことがある。ハリーの死が自分を殺すのかという露骨な疑義に、凪は言葉を濁した。言明しなかった。ただ、このように繰り返した。

「大切なものだよ。何よりも。それを亡くしたら、きみたちは死んでしまうだろうね」

 不吉な予言が、成就するときが迫っていた。死か、それに比肩しうる恐怖に迫られて、あかねは遅ればせながら慄然とする。縋る心理が求めたのは恋人の姿だった。単純に、刺され、拳銃で撃たれた倉内和也への心配が先立ったせいもある。
 果たして、気絶と見えた和也は意識を保っていた。うつ伏せに泥濘に倒れ、痛みに悶えながらも、瞳は力強くあかねを見つめていた。あかねは安堵と恐怯を同時に感じた。永遠に見つめられていたい視線から、次の瞬間にも自分は永遠に隠されてしまうのかも知れない。いてもたってもいられず、萎えた足を奮い立たせた。膝頭についた泥の汚れにも構わず、和也の元へ歩きだした。
 ハリーを下した少女、夢宮ありかは、満身創痍だった。この場で次に命を失う可能性がもっとも高いのは、間違いなく和也よりもありかのはずである。それほどの深手だった。
 だが、やはりありかに死の兆候は見られなかった。恬淡とはいかずとも、和也よりも重い傷を負いながらしっかりと両の足で地に立っていた。鼻腔も口腔も血であふれ、衣服はほとんど布切れの状態にあり、表情は憔悴と苦痛にまみれている。ただ場違いなほどに溌剌と、両の碧眼が光っていた。

「かず……くん、かずくん……」

 あかねは死出にあるように恋人を呼ぶ。異能者ゆえの優れた直感が、思考と認識の埒を飛び越えほぼ正確に未来を察知していた。
 その様を見て、たまりかねたようにありかが重体に鞭打ち足を踏み出した。

「もう眠ったほうがいいです。アカネ……さん」
「だまれ」

 十六年余になんなんとするあかねの生涯において、ついぞ覚えのないほどの剣呑な声音がこぼれた。全長数メートルの虎に物怖じしなかった夢宮ありかが、息を詰めておし黙る。
 同じく黙しながらも、ありかとは対照的に表情を変えないものもいた。和也を刺し、撃った長身の女である。既に銃口は降ろしていたが、立ち居振る舞いに弛緩した点は皆無だった。
 自然、あかねは少女と目線を交わすことになった。倒れ伏す和也の眼前に位置取る少女に、退く気配は見つからない。

「どいてよ」
「なぜだ?」少女がいった。「意味がない。貴様は負けた。善戦したな。だが、敗れた。もう終わりだ」
「いいからどいてってば!」

 相手が拳銃を所持していることも忘れ、あかねは激した。反射的に彼女が行使しようとしたのはHiMEの力だった。だがもちろん、今の彼女はただの娘でしかない。超常的な現象は何一つ起きなかった。
 力の喪失は、あかねに多少の悲しみをもたらした。それよりも遙かに勝るのは、やはり安堵と不安なのだ。懸念を衝動で埋めるように、あかねは吼えた。脱力感に満ちた五体を引きずり、丸腰のままに地を蹴り進む。力任せに、押し退けるようにして躰を少女へぶつけた。
 腕が触れたと見えた。
 一瞬で天地が逆転した。

「ぅあっ」

 強烈な衝撃が背中からやってきた。受け身も知らないあかねは、首と後頭部を守ることもできない。呼吸を阻害され、大きく喘いだあかねの口腔に雨粒が入り込んだ。
 すぐさま立とうとした。できなかった。足腰へ意思が伝わらない。
 悔恨に歯噛みして、指が湿った土へ爪痕をつけた。せめてもと抵抗の意思を込めて、自らを放り投げた少女を睨みやろうとした。
 そして、あかねは絶句した。
 和也が立ち上がっている。
 酷い顔色だった。息は荒く、眼の焦点も合っていない。白いシャツの背部は黒ずんだ血に汚れ、色合いのためそうとは見えないズボンも同じく血塗れのはずだった。

「かっ」あかねは叫んだ。「だめだよっ、カズくん! 動かないで! いま救急車呼ぶから! そうだ、携帯っ」
「それは、させない」

 スカートのポケットをまさぐろうとするあかねの手を、女の腕がつかみ取った。関節は一瞬で固定され、延髄に膝の重みがのしかかる。激甚な痛みが肘にはしったが、あかねは委細構わず身をよじった。骨よ折れよとばかりに暴れても、しかし、拘束を解くには至らない。涙と汗と泥で顔面を汚して、あかねは無力感に嗚咽を漏らした。

「ラウラ先輩」おずおずと、口を挟んだのは夢宮ありかだった。「もう、いいんじゃないかなぁ。もう……」
「怖じたか、夢宮」ラウラと呼ばれた女が、鋭い目をありかへ向けた。
「そんなんじゃないよ」ありかは目線を落とした。「ただ、見たくないだけ。わかりきってるし、感じるもん。そのひと、もう、終わるよ。今すぐにでも」
「貴様が渡した結末だ」女はいった。「最後まで見届けるべきではないのか?」

「どうでもいいけどさ」

 ラウラとありかのやり取りに、口を挟んだのは和也だった。
 明らかに朦朧とした意識を、気力で必死につなぎ止めているのが見て取れる。あかねの素人目では、一見して彼がどの程度重篤なのかは計り知れない。ただただ痛ましいだけだ。だがその容態でなお、和也は力強く告げた。

「あかねちゃんから、今すぐどけよ」

 若干の間があった。あかねは首を捻り、凝然と地べたから和也を見上げた。自分がいま、どんな感情でどんな表情を浮かべているのか、とっさに理解できなかった。

「ラウラ先輩」誰よりも早く応じたのはありかだった。「その人の言うとおりにしよう。責任は、……うう、あたしのせいってことでいいから」
「貴様に責任を取らせる人間も、貴様がとれるような責任も、ありえるとは思えない」言いつつ、女はあかねから身を退いた。「だが、まあいい。どのみち時間を使いすぎた。死体を回収する時間はない。散るぞ」

 拍子抜けするほどの他愛なさで、ラウラと呼ばれた女は身を翻し、その場から鷹揚とした足取りで離れた。あかねと和也どころか、満身創痍のありかすら一顧だにしない。

「おまえも」和也がありかにいった。傷の痛みに耐えかねてか、絞り出すような声色だった。「消えろよ。僕は正直何もわからない。疑問もたくさんある。けどとにかく、今はあかねちゃんの前からいなくなってくれ」
「そうします」ありかは素直にうなずいた。「あの、でも、その前に、ひとつ」
「え?」ありかの視線を受けて、和也の横顔だけを注視していたあかねは、はっと向き直った。

 ありかが、あかねへ向かい、粛々と告げた。

「忘れないで下さい。あなたから、何より大事なものを奪ったのは、このあたしです。だから、絶対に忘れないで下さい。恨むのでも、憎むのでもいいから、その想いを無いものにはしないでください」

 ありかが全てを言い終えると同時に――。

 和也の足から力が抜けた。精魂が尽きたとしても、あまりに前触れのない転倒である。前のめりに地に伏す和也を目の当たりにして、あかねは目をみはった。

「え?」
「それじゃあ」ありかは平坦な声でいった。「さようなら。……ううん、またいつか」

 その言葉はあかねの耳に届いていたが、意識を毫も揺らすものではなかった。日暮あかねの全神経は、今度こそ微動だにしなくなった和也へ注力されている。
 手を伸ばした。
 名前を呼んだ。
 手を伸ばした。
 名前を呼んだ。
 反応はなかった。

「かずくん?」

 遠ざかる少女の姿も、目に入らない。
 力ない恋人の肩に触れたあかねの目に、立ち上る燐光が見えた気がした。
 ハリーの骸が煙らせた命の光に、それは酷似している。
 発作的に両手を伸ばした。しかし、掌が掴むのは雨滴ばかりだった。感触もなくすり抜けた光には、なぜか涙を催すような温もりだけがあった。
 そしてやはり、前触れもなく粒子は散逸した。瞬間に、名状しがたい絶望があかねの胸裏を塗りつぶした。理性や知識を一足で乗り越えた理解が、現実を知らしめた。
 倉内和也は、死んでいた。

「…………ええ? なんでえ?」

 笑みすら浮かべて、あかねは問うた。和也の体へ縋った。引き起こした彼の顔は、苦悶の表情しか認められない。目を見開き、口角は歪み、まるで別人のようで、あかねは左右に本物の和也の顔を探したが当然あるはずもない。指先の震えが止まらない。和也の頬に触れようとしても、うまく狙いが定まらない。震動が全身に伝播しているからだ。さらに耳障りな音も聞こえていた。薄気味が悪い唸り声だった。
 あかね自身の叫びだった。

「あああああああああああああああぁ」

 喪ってしまった。
 喪われてしまった。
 絶対に手放してはならないものだった。
 何よりも大切に守らなくてはいけない宝物だった。

 なのにもう、手から零れてしまった――。

   ※

 ゆっくりと、瞳を開いた。
 日暮あかねの意識が捉えたのは、赤い照明とけたたましいサイレンである。明滅する光と、防災訓練で稀に耳にするような警報は、容易に危機感を呼び起こした。
 次に視界に移ったのは、女だった。見知らぬ、中年の女性である。白衣を着ており、一見医者のように見えた。その印象を裏付けるように、右手には針のついた注射器を持っている。鋭い針先からは透明な液体が滴っていた。残る左手は、寝そべる姿勢のあかねの左腕に添えられていた。

「なにしてるんですか?」とあかねはいった。

 問われて初めて、驚きに凝固していた女が反応らしい反応を見せた。すばらしい速度で、取り繕うような笑みがその顔に浮かんだ。完璧な微笑だった。象られる過程を見ていなければ、あかねも釣られて微笑んだに違いない。

「落ち着いて、日暮あかねさん」女性は穏やかな口ぶりでいった。「あなたは入院したのよ。ちょっとした、病気ってほど大げさなものじゃないんだけれど、そういうのでね。体に痛むところはない? このお注射はね、痛み止めだから心配は」
「カズくんはどこですか?」遮断するようにあかねは訊ねた。

 女性の表情は、変わらず笑みを保っていた。

「ああ、すぐに会えるわ。心配しない、」

 半ばまで女性の言い分を聞いた時点で、あかねは億劫な体に迅速な行動を命じた。半身を起こし、意識の空隙をついて苦もなく注射器を奪い、ためらいなく女性の首に針を突き刺した。
 語尾を間延びさせて、女性が牧歌的な悲鳴を上げかける。だが、針を引き抜いた傷口から驚くほどの血液があふれ出すと、悲鳴は声帯を軋らせるような奇怪な音へ変じた。
 あかねはそっと女性の口元を抑え首に手をかけると、自分が身を横たえていたベッドに遮二無二引き倒した。
 血走らせた両の眼を、息がかかる距離まで女性に寄せる。
 赤黒い血液に汚れた注射器を振りかぶると、女性の顔が恐怖に引きつった。
 先前女性が浮かべたそれに比べて大分無様な笑みをつくると、あかねは囁いた。

「うそつき」

 腕を振り下ろし、注射針を突き刺した。

 ――枕へ。

「うそつき。カズくんは、もういない」

 くぐもった悲鳴が、あかねの手中で生暖かい呼吸に化けた。耳を聾するサイレンのなかで、断末魔は小さなノイズに過ぎない。あかねは奥歯が欠けるほど歯を食いしばる。掌中のアンプルが半ばで砕け、枕へ刺さったままの針も中途で折れた。液体と血液と、女性が排泄した尿が混じりあい、臭気となってあかねの鼻腔を刺した。
 眉をひそめて、あかねは身を起こし、ベッドから離れる。思い出したように女性が甲高い悲鳴を上げる。ぼんやりと傷と血と破片と薬剤にまみれた右手を眺めやり、あかねはここはどこだろうと呟いた。四囲は壁。窓はなく、扉がひとつだけある。部屋の中心に置かれたベッドには種々雑多なケーブルと、それらと端子で繋がれた計器が設置されている。枕元と、そして天井の二箇所には、カメラの姿もあった。
 そうしたオブジェに感慨を持つこともなく、あかねはまっすぐに扉を目指した。内開きのドアは外側にだけ物々しい鍵が取り付けられている。部屋が面する通路は、天井ばかりが高く道幅は狭隘で、圧迫感を覚える構造だった。やはり外界の情報が得られるような窓はない。壁にはカレンダーとホワイトボードがぶら下げられ、右側奥には化粧室が見えた。赤色等が明滅しているのは室内と同様で、気のせいか熱気まで感じられた。あるいは、火災の最中なのかもしれない。

「火事なんて、初めてだなぁ」とあかねは呟いた。

 ところで、建造物全体が揺れた。
 直下型の地震に並ぶほどの震動だった。その動揺に見舞われた人間ならば、あかねならずとも致命的なものを感じ取っただろう。中核的な何かが損なわれる感触に、しかしあかねはさしたる危惧を覚えなかった。澄み切った感性の命じるまま、出口と感じる方角へ足を向かわせる。
 喧騒、悲鳴や、慌しい足音。そういったものを所々で耳にしながらも、あかねは一切人間に会わぬまま、通路を抜け、階段を降り、扉を開いた。すると、ふいに毛色の違う空間に出くわした。
 全体的に閉塞性に満ちたこれまでの間取りとは異なり、そこは右手側の全面がガラス張りにされた回廊だった。ようやく得た眺望から、時刻は夜もかなり深い時間であること、自分がいまいる建物は岬に面していることなどを、あかねは知った。だからといって、やはり感興は起きない。そんな情報よりも、よほど見捨て置けない光景に、あかねの目は釘付けだった。

 巨大な蛇がいる。
 頭ひとつだけで、今はもういないあかねのチャイルドに匹敵するほどの、多頭の大蛇である。
 そんな怪物が、裂けた顎の内側で舌の代わりに炎をちらつかせている。夜に聳える濃緑のシルエットは、うそ臭いほどに禍々しい。ああ、あの怪物に、ここはいま襲われているのだと、あかねは納得した。

「怖いね、カズくん。怖いよ」

 目覚めてはじめて、あかねは人間らしい感情を覚える。ただし、それは建物もろともに彼女を消し炭に変えんとする怪物を対象にしたものではない。
 蛇頭に悠々と佇み、長物を携えた人影をこそ、あかねは恐怖した。
 今にも焔を放とうとする大蛇の射線にさらされて、永らえた敗者は独語する。

「でも、あなたがいない世界ほどじゃないよ――」

 火焔が放たれる。計五つの紅蓮が、つかぬま、白昼の太陽に匹敵した。
 未明の夜空を、火線が真っ二つに引き裂いていく。

 ――風華市沿岸部に居を構えていた『一番地』の施設は、この夜こうして焼失した。死者、重軽傷者は多数にのぼり、被害程度は甚大だった。
 決して公開されない行方不明者の名簿には、日暮あかねの名も連ねられた。

   ※

 石上亘が指定した玖我なつきの引渡し場所は、風華市民なら誰もが知る大型のショッピングセンターだった。いわゆるアウトレットモールである。地元生え抜きの企業が幅を利かせる一帯では珍しく、国内の商社と提携した外国資本が出資した施設で、単純な来客数では市内でも随一を誇っている。
 テナントにはシネマコンプレックスも含まれているが、商店街の外れにある寂れた名画座を贔屓にする奈緒自身はさほど足を運んだことのない場所であった。美袋命や、稀に瀬能あおいに引き連れられて数回訪れた記憶はある。だが施設そのものに肌の合わないものを感じて、このアウトレットモールを、奈緒は敬遠していた。言葉にいわく言いがたい、演出された健康的な空気にどうしても馴染めなかったのだ。
 開店間もない昼前の店内は、七割ほどの客入りだった。施設全体の集客率から換算すれば、現時点で既に数百人単位の人間が集まっているだろう。紛れ込めるほどの雑踏はないが、逆に群集から注視された場合は、ほぼ気づく手段がない。
 石上が信用ならない相手であるということを、奈緒は直感的に理解していた。奈緒らが施設に足を踏み入れた時点で監視がつけられたと見て間違いない。そもそも、取引自体の信憑性も疑わしい。真偽は措いても、くだんの話題をカードとして切れば、高い確率で気を引けると踏んでいたはずである。
(真相、ね)
 あからさまな餌に、食いついた自分が奈緒は少しだけ不思議だった。
 事件。事件だ。奈緒はかすかに、口角を吊った。
 結城奈緒の人生に分岐点を数えるとして、もっとも大きなジャンクションであることは間違いない。だが奈緒自身、自分がどのようにあの一夜を位置づけているかは不明瞭だった。
 ある人間は疵と呼んだ。そして大抵の人間は、『それ』を奈緒にとって思い出したくもない、忌まわしい記憶なのだと勝手に解釈した。概ね間違いではないのかもしれない。悪夢とさえ言えるかもしれない。だが、事実から少しだけ離れてもいる。
 そもそも忘れられるはずのない出来事だった。それでいて、故郷から離れた風華でも、知っている人間は知っている、ただの事実でしかない。他者に過去を知られることについて、今や奈緒は特段感想を持っていなかった。一家を襲った不幸を、隠しておきたい秘密とも認識していない。ただ、知られれば面倒であるため、強いて口外はしないだけである。
 麻痺している自覚はあった。事件直後の環境では、周囲に奈緒の身に起きた事件を知らないものはいなかった。奈緒が見知らぬ人々の誰もが、奈緒のことを知っていた。可哀想な少女として彼女を見つめていた。吐き気しか催さない状況であった。
 警察には幾度となく事件当夜の記憶を口述させられた。カウンセラーの中にも事件の記憶を掘り起こさせようとするものはあった。忘れえぬ一夜は惨劇として銘打たれ、ラッピングされ、デザインされた。そのように奈緒の記憶は他者や自己の手によって解剖され、つまびらかになり、手垢にまみれた。
 事実として、奈緒にとって深い傷ではあるのかもしれない。だがあまりにもあからさまで、事件そのものに、奈緒はもう何らの痛痒も感じることはなかった。繰り返し要求された客観化が、当事者の奈緒をさえ疎外したのだった。
 情報化された事件は、金銭を目当てにした複数人による犯行であることと、死者二名、重傷者一名という数字と、目覚めなくなった母という結果だけを奈緒に残した。他のものは、すっかり奪い去られた。既に何もかもは奈緒の手を離れており、事件の裁判さえ、もはや二年以上会っていない親族の手に委ねられている。
 家族を害した犯人たちの顔を、奈緒はもうよく覚えていない。一審では主犯に死刑、従犯ともに無期懲役との判決だった。遺族と検事は控訴をしたはずである。恐らく、犯人たちは次の判決を待ちながら、宿にも食事にもあぶれることのない暮らしを謳歌しているのだろう。そのことを思えば、確かに、奈緒は憤らずにはいられない。

 だが何よりも、よく、わからなかった。
 事件に対して奈緒に何か思うところがあるとすれば、不可解という一言に尽きてしまう。
 これまで奈緒を担任した教師は、全員奈緒の経歴を知っている。理事長である風花真白は当然として、保険医の鷺沢陽子や、寮長である真田紫子もどこからか情報を得ていた。無断外泊を常とした奈緒に堅物の紫子がさほど強く踏み込んで来ずにいたのは、性格の相性よりも主として奈緒に対する同情心が原因だと思われた。干渉を避ける方便として、奈緒の悲劇的な来し方は非常に有効だった。積極的に活用するほど割り切れていたわけではないが、かといって都合のよい扱いをまるでしてこなかったわけでもない。
 その程度のものだ。
 すべては今さらだった。
 奈緒の足元にへばりつく濃い影の因果はそこにある。だが、生れ落ちた以上、素因はどこまでも素因でしかない。
 深刻な沈思を試みれば、発作のような動悸と頭痛、吐気が奈緒を苛んだ。結局、奈緒の心理には雑多なままに放置された未整理で不可侵の一角が根付いている。奈緒自身も持て余す闇の深さは、結論どころか問題の提示さえも拒んでいた。
(それを、今さら――)
 新しい意味づけをして、何がどう変わるともわからない。石上がどんな戯言を提示するかは、ある程度想像がつく。石上がもたらす情報は一石を投じるのかもしれない。投じたところで、何も変わらないのかもしれない。何れにせよ、自分がどんな反応を返すのか、奈緒には興味があった。玖我なつきを持て余したという単純な事実に次ぐ理由があるとすれば、その屈折した好奇心だけだ。

 清潔な床を踏みしめ、エスカレータを昇り、先行する奈緒は背後のなつきを顧みもしなかった。奈緒自身の感性からすればやや野暮ったいパーカのポケットに納めた両手には、エレメントを装着している。余人からは眼を凝らしても見えないほど細く、しかし頑強な糸が指先から伸びて、なつきの首と腰、そして足を戒めている。
 二日前から着の身着のままのなつきは、変わらず澄ました顔立ちだった。物憂げにうつむく造作は、同性の目から見ても非の打ち所がない。実際に喋ればその印象は覆るものの、なつきが美しい少女であることは余人の言を俟たないだろう。事実、すれ違う人間はまず奈緒の顔を見、すぐになつきの雰囲気と容貌に目を奪われた。
 一路上階へ向かう内に、開店間もない店内は人影も疎らになりつつあった。しかしテナントの職員すら見当たらなくなると、流石に意図的な演出を感じざるを得なくなった。
 石上の指定したフロアに到着し、無人の周囲を見回すと、奈緒は思いついたままの疑問をなつきへ投じた。

「復讐って何をすればいいのか、あんた知ってる?」
「……?」なつきは視線で訝りを表現した。
「ああ、違うか」奈緒はしきりに頷いた。「あんたは、どんな復讐をしたかったの? オメデタクも全部無駄だったわけだけど、そうなる前は。誰を殺してやるとか、そういうの」
「組織を潰そうと思っていた」なつきはいった。「だが、知っての通り、無為だし……無理だった」
「へえそう。よかったわね」奈緒はおざなりに相槌を打った。「ま、そんなもんか……」

 ふと、なつきの目が焦点を遠景に結んだ。

「前に、高村と似たような話をしたことがあるよ。同じ疑問を、あいつにも尋ねてみたらどうだ。退屈しのぎの無駄話くらいは聞けるかもしれない」
「興味ないわねぇ」奈緒は鼻で笑った。説教癖の教師が言いそうなことは、容易に想像がつく。「と、お待ちかねみたいね。いよいよ、アンタともお別れのときがきたかしら」

 石上亘は、特に勿体をつけることもなく姿を見せた。ショッピングモールの多くがそうであるように、この建物もまた採光を考慮してフロアの中央が吹き抜けになっている。石上がいるのは、各階に何箇所か存在する休憩用のスペースだった。四脚ほど木製のベンチが並んでおり、石上以外に人の姿は認められない。薄手のジャケットとスラックスはともに白く、薄緑のシャツを合わせたプレーンな出で立ちの石上は、懐中に布で覆われた棒状の物体を抱えていた。ちょうど腕を広げた程度の尺である。奈緒は眉を上げて、唇に指先を触れさせた。
(武器?)
 石上に腹案があることは疑いない。確実に奈緒となつきから確認できない場所に人員が配置されているだろうが、無論、意に介する奈緒ではなかった。
(いざとなれば、ジュリアを使えばどうとでもなる)

「ここに来てくれたということは」石上は開口一番本題に触れた。「僕との取引は呑んだものと解釈していいのかな」
「さあね」奈緒はわざとらしく嘯いた。「まずは話してみればいいじゃない。どうするかは、それから決めるわ」
「そうだなあ。何から話したものか」

 石上は不自然なほど朗らかに笑う。中空を見る瞳に、感情らしい感情はない。奈緒が事前に想定していたような、わかりやすい本性の発露はなかった。
 面と向かってわかることもある。脅迫も恫喝も、石上は必要とあれば躊躇わないはずである。奈緒の来歴について知悉しており、真田紫子と通じているということは、当然奈緒の母に関するカードも手札には含まれていると見るべきだ。
 組し易い相手と見ていたわけではない。
 だが、予断があった。せいぜいが、高村恭司と同程度の人間と踏んでいた。いくらでも裏のかきようがある獲物だと思っていたのである。今となっては、楽観が過ぎたと認めざるを得ない。
(これは、ちょっと面倒だな)
 表面上の恭順も含めて、打つ手を考える必要がある。奈緒は目を凝らし、石上の挙動に集中した。わずかなりとも、この男に関する情報がほしい。

「まず、そうだな、きみの知りたいことから、やはり始めよう」と、石上はいった。「その様子じゃ予想はしているみたいだね。少し甲斐がないが、しかたがない。ああ、きみの思っている通りだよ。それが『真相』だ」

 奈緒の腹部に、得体の知れない圧力がかかる。
 石上の言葉を反芻して、茫洋と奈緒は尋ね返した。

「そんなどうとでも取れる言葉はいいからさ。はっきり言ってくれない?」
「きみの家族を殺したのは『一番地』だ」

 石上の吐露に――。

「……なに?」

 目を見開いたのは奈緒ではなく、部外者であるなつきだった。

 予期はしていた。ただあまりにも陳腐な真実の開陳に、奈緒は嘆息で応じるしかない。むしろなつきのほうが衝撃そのものは大きいようだった。二日前からこちら、ようやくなつきが見せた人間らしい感情の発露である。

「どういう、ことなんだ?」聞き取りにくい声でなつきがいった。「殺されたって?」
「どういうことも何もないわよ。言葉通りの意味しかない」

 奈緒はつとめて軽快に振る舞った。実際は、表に見せる反応ほど淡泊な心境ではない。古くとも傷は傷だった。他人に触れられれば、何の痛痒も感じないというわけにはいかない。ただなつきの前で、以前の彼女がまとっていたものと同種の深刻さを見せるのが癪だった。

「それで」奈緒は石上に向けていった。「もったいぶってばらしてくれてどうもですケド、それがどうかした? それを教えてもらったところで、結局あたしが何を得するっていうの?」
「得をするかどうかは、きみが決めることだ」石上がいった。「明言したことはなかったが、そちらの玖我さんも、薄々感づいているかな? きみと仲の良い迫水先生はご同輩というわけだ。僕もまた『一番地』に籍を置くものだよ。ま、この風華の地においては、誰であろうと潜在的に一番地の構成員ではあるが、そういうのとも違う。いわゆる重責の末端をも、僕は負っている。そんなわけだから、手前味噌ではあるが、ある程度情報の信憑性は請け負えると思うよ。どうだい? 興味は惹けたかな」
「……結城奈緒」玖我なつきが低い声で呟いた。「わたしの進退はさておき、あの男はおまえの思考を誘導しようとしている」
「は? 何言ってるか意味わかんない。つか、あんたは黙ってろよ、景品なんだから」奈緒は必要以上に刺々しくなつきの言を退けた。石上を睨みやり、意図を探る。「そもそも犯人はもう捕まってんだけど。別に真犯人がいるとでも言い出すつもりかしら」
「ああ、そうだ」石上が頷いた。「きみはのんびり眠っていたから、もう覚えてないのかな? あの夜、きみの家族を殺したのは僕だ」
「――――」

   ※

 水面下の夜。
 月の光も歪んでいる。
 階段の影からのぞいた臥所に、影が見える。
 母に圧し掛かる黒く大きな獣がいる。
 助けを求めよう、と彼女は思う。
 けれども体と心は、意のままにならない。
 やがて生臭いにおいと毒々しい太陽が体を刺す。

 全てが終わったあと。
 結城奈緒は、その夜に起きたこと全てを、忘れてしまう。

   ※

 音が消えた。

 奈緒の表層意識をオペレートしていたあらゆる見境が消し飛んだ。人格さえ霞むほど圧倒的な衝動の出力が起きた。思考だけが奇妙に平静で、本来肉体の主導権を把握するべき意識は、唐突に手綱を奪われ、呆然とするばかりだった。ポケットから両手を抜くと同時に、抜き打ちのように双方からワイヤーによる斬撃を放った。耳に障る音を立てて、視界に映る様々なものが両端から寸断されていく。進路上に、石上亘がいる。ああそうか、と奈緒の意識は納得した。あたしはこの男を殺すんだな。
 挟撃に対して、棒立ちの石上は、わずかに腰を落とし、獲物に右手を添えてみせるだけだった。瞬きの瞬間にスライスされる人体を思っても、奈緒の変性した感覚はまったく忌避を伝えなかった。
 先に絡みついたのは右手の糸だった。正確には、緩やかに石上が振った棒に、五本のワイヤーがことごとく絡め取られたのだ。エレメントがただの鋭い糸でしかなく、奈緒が高村恭司と一戦を交えた時のままの認識であれば、右手は死に体である。
 だが、今の奈緒は想念の自在さを、HiMEという力の本質を、一端なりとも心得ていた。
 想えば徹る。
 だから奈緒の衝動は、糸に対して圧縮を命じる。
 空気の変質が、空間にはっきりと兆した。奈緒の指から伸びる赤い糸の群が、一際紅く輝きを発した。石上によって逸らされた軌道が、物理法則にあらがって慣性を帳消しにした。と同時に、棒状の物体を自ら幾重にも巻き取り、圧壊させようと蠢き始めている。奈緒は右手を引いて、石上の手から棒を取り上げた。
 宙を舞う棒、真剣の鞘をよそにして、奈緒は左腕を振り切った。手応えは皆無だった。残る五本の糸のうち、四本までもが石上が抜いた白刃に断たれている。残る一本は、軽く屈んだ石上の頭上を行き過ぎた。
 即座に新たなワイヤーとアンカーを生成しつつ、奈緒は平行してチャイルドを召喚した。玖我なつきのデュランという例外をのぞけば、HiMEがチャイルドを召喚し、その本体が顕現するまでには数秒以上のラグがある。アウトレットモールの一角を異界に変えて、節足を床に突き立て這い出る巨大な蜘蛛を、悠長に待つ気は奈緒にはない。石上も恐らく同じだった。
 エレメントから繰り出す糸の射程を、奈緒は恣意的に絞った。間合いをせいぜい向こう二間まで減じさせ、アンカーの質量を加重する。甲高い音を立てて旋回させた糸の刃を、駆けだした石上の横面に振るった。
 高村恭司なら避ける。
 だから石上亘が切り返しまでをもよりあっさりと避けて見せたとしても、驚くには当たらなかった。日本刀などという時代を勘違いした武装を選んだ以上は、心得があるに決まっている。三足の間合いまで踏み込んできた美術教師を、奈緒は見開いた眼で見つめた。
 一秒も経たず、石上の膝から下は切り落とされる。奈緒が誘導した石上の進路上に、エレメントから分離させた極細のワイヤーがある。初動が欠点であることは、何度かの小競り合いで奈緒も十二分に自覚していた。そのためフロアに足を踏み入れ、石上を認めた瞬間に、荒事を見越して奈緒は不可視の伏線を張っていたのである。

(死ね)

 心中冷酷につぶやく奈緒は、最後まで何がそれほど自分を怒らせたのかについて、考えが至らない。半瞬後に訪う惨劇を思い、わずかに溜飲を下げたその刹那に、しかし、石上が足を止めた。
 弾む息。細められた目つきはそのままに、長身から無機質な意思が奈緒へと落ちる。
 抜き身を下げて、石上は微笑んだ。

「もちろん、いまのは嘘だ」と、いった。「だがそれを、きみはほぼ確実に察していたな。つまり、いまの殺意は僕個人へ向いたものではない。試された事実に即刻思い至るほど、きみは聡くもない。よって、怒りを端緒とする反応でもない」
「変わった遺言ね」

 奈緒もまた微笑んだ。
 前後して、ジュリアがその全容を表し終えた。
 巨体とはいえ、八つの足はチャイルドを道理に反した機敏さで駆動させる。単純な速力ではなく、限定された空間内であれば、ジュリアの機動力は全チャイルド中でも屈指である。障害物もなく開けた空間にあっては、対峙した人間に逃げ場などない。

「なんだかんだいって、人を殺すのは初めてなんだ」奈緒はいった。自身意外なほど円滑に、彼女は殺人を決意した。考えたところで、石上がそれほど癇に障った理由はわからなかった。「よかったわね、アタシのはじめてがもらえてさ」
「待て、奈緒」なつきが何かをいいかけた。
「防衛本能が、きみにチャイルドを招かせた」石上は淡々と言い募った。「きみの攻撃性の本体とは、つまるところそんなものだ。慎重に結びつかない臆病さが、価値観を従容と受け入れることへの抵抗が、そのチャイルドと結びついた。なるほど蜘蛛とは、きみにふさわしい半端な神のかたちだな」

 石上に向けて、ジュリアが衝角を差し込んだ。刃の背で硬質の皮膚を滑らせながら、石上はゆったりと後退を始める。奈緒は無言のままエレメントを振るう。唐竹、袈裟、逆袈裟、水平と、矢継ぎ早に繰り返した攻撃はすべて防がれるか、かわされた。石上の動きは決して早くない。ただ適切なだけだった。日本刀そのものの、度を超えた頑丈さも、あるいは奈緒の攻勢を凌ぎうる一因だ。それが刀本来の特性か、あるいは石上の技量がもたらすものなのかは、判別しかねた。

「呼び出され、誘い込まれたその場所で、前後も省みずきみは力を行使する」防戦に傾注する石上は、表情に焦りを見せつつも、口調の余裕は決して失わせなかった。「きみには未来という発想がない。そして過去を決して見たがらない。きみは現在しか見えないという障碍を持っている。であれば、結城奈緒、きみはけだものと同じだ。異能を備えようと、おそれるには値しない。……高村先生がきみに目を付けた理由が、よくわかるよ。きみはどのHiMEよりも聖人から遠く、俗物から遠い。素質を与えられただけの数合わせ、にぎやかしの道化、舞台を進行させるための装置だ」

 石上の長広舌の間に、奈緒は四度殺すつもりで仕掛けた。すべてやり過ごされた。悠々とではなく、手傷を負いながらも、石上は五体満足でジュリアと奈緒の勢力圏から逃れてみせた。

「古来、異能を得た人間に人生を狂わせなかった例はない。けれどきみは、例から漏れる稀有な人間かもしれないな。たとえHiMEでなかったとしても、きみは当たり前にほつれていっただろう。緩慢に、確実に、愚かな女として。薬か男か、はたまた金か、それは与り知らないが」
「いい加減」

 ジュリアが跳躍した。奈緒は全霊を込めて、エレメントを振るう。

「その口を――閉じろよッ!」

 雲霞を払うように品物を吹き散らしながらも、石上を捉えることは適わない。床下を貫くチャイルドの追撃もまた、同じようにすんでの所でかわされた。

「怖いな。死ぬところだった」

 頬に汗と切り傷を浮かべながらも、石上は余裕の体で身を翻す。返したきびすの行き先は、より奥まったフロアである。家具や細々とした雑貨が展示されたショーケースの立ち並ぶ目抜き通りを、石上亘が駆けていく。ジュリアの俊足であればたやすく先回りができる速度だった。
(見え見えの罠。……だけど、なんなんだよ。くそっ)
 呼吸を挟んでやや鎮静化した胸裏で奈緒はつぶやいた。石上の言を認めずとも、一理を感じないわけにはいかない。ここまで招かれ、取引に応じる心づもりでいた。それを、些細な揺さぶりで覆したのは誰あろう奈緒自身である。
 常に思い、決して悩まなかった問いがある。
(あたしは、何がしたい?)
 生き残った意味は棚上げにした。そのうちに意味などないと知った。ふとした不運で奪われるのが宝物だった。奪う側に立つ優位性を知った。優位であることのくだらなさを知った。眠れぬ夜の長さを知った。長い夜の退屈さを知った。退屈がはらむ毒を知った。毒が至らせる死と同義の生を知った。思考の無意味さを、理性のつたなさを、感情の所在なさを、彼女は一から十まで知っていた。
 あえて石上を追い立てず、ジュリアを従えて、奈緒は悠揚と歩を進めた。足音を刻むたびに冷静になる自意識と、何としてもここで石上を除かねばならぬとわめく衝動が拮抗した。その衝動と奈緒は、とても長いつきあいだ。幼い頃からそうだった。彼女には生まれつき、未来を思い描く能力が欠如している。
(知った風なことを、わざわざ面と向かってあたしに言ってくる……)
 その性質を、この場で石上亘が指摘する意味がある。挑発ならば、石上本人が姿を現す必要はないはずである。玖我なつきの確保が目的であるとするなら、今この時が絶好の時宜だ。しかし念のため顧みても、なつきは悄然と立ちすくんでいるだけだった。予想していたような手勢が現れる気配は、一向に見えない。

「……あ」

 直感が閃いた。
 奈緒は上方を眇め見た。追従するジュリアは警戒音を発し、足を止めて待機する。

「利用されて捨てられるんだ、きみは」石上亘の声だけが、どこからか響いた。「親族に、一番地に、高村恭司に」
「……最高におめでたい勘違い、してるわ」奈緒はいった。「そもそもあたしは、誰にも拾われたことなんてない。もたれることもしない。捨てられた覚えもない。……あたしは! いつだって! 捨てる側だ!」
「なおさら、哀れだよ」

「ジュリアぁ!!」

 チャイルドが、咆哮した。巨体が小刻みに震動を始め、質量などないかのように振舞っていた体躯が突如として重みを得た。自重によって頑強なリノリウムの床がたわみ、軋み始める。ジュリアの頭頂部では五つの複眼が赤く輝き、人型の胸部があぎとのように開かれる。常は毒と粘液を射出する胸郭が、陽炎を立たせるほどの熱を輻射した。
 汗ばむ熱気の傍らに身を置いて、奈緒は冷然とジュリアに命令した。

「全部、貫け」

 一閃がジュリアから奔る。
 それはエーテルで精製された鋭利で細い刃だった。粘性を帯びた刃は真っ直ぐに伸びきり、秒を待たずに広大なフロアの端に行き届き、バックヤードを貫き、外壁を砕いて建造物を内側から縫いとめた。
 胸郭の中央部から糸を突き出したジュリアは、さらに大きく身を仰け反らせ、尾部から聳える剣が天を刺すほどになった。震動が最高潮に達すると同時、張り詰めた糸が前触れなく撓んだ。本体の震動が伝播し、次いで二本に枝分かれした。分裂は瞬く間に幾度も行われ、分かたれた糸と糸とが組み替えられ、空間を行き交い、途上にあるものすべてを区別なく刺し貫いた。
 フロア全てが、奈緒とジュリアを基点とした蜘蛛の巣に包まれる。上下左右前後を網羅したそれは、三次元の鋭利な檻だった。
 建造物の柱石を含め、切り裂かれた物体が聞くものを不安に駆り立てる悲鳴を上げ始める。だが人の声は一切聞こえない。意識的に避けた心算はなかったものの、見れば棒立ちの玖我なつきは全く動いていなかった。にも関わらず無事であるのは、奈緒にしても奇跡としか思えない。
 そして、同じ奇跡が同じ瞬間に起こることはまずありえない。
(これで生きてたら、人間じゃない。けど)
 石上は凌ぎきったはずだ。奈緒には確信がある。
(いるんでしょ……シスター紫子が)
 雨の日、母を見舞った病院で、停戦を呼びかけてきた真田紫子。その後直接顔をあわせることはなかったが、石上と高村の会話を仄聞し、紫子と石上が親密な関係にあることは察している。
 石上がこの状況で暗躍するというならば、その傍らに紫子がいないはずがない。奈緒はそうあたりをつけた。
 その予測を裏付けるように、奈緒の耳に足音が届いた。赤い線が張り巡らされた空間を、規則正しく歩むものがいる。石上の靴音ではない。たとえば女性が履くようなローファが立てる音に、それは酷似している。

「やっぱりね」奈緒はエレメントを構えた。「いると思った。だよね……石上が、アンタの〝オモイビト〟なんだもんねぇ!? そうでしょ、シスター!? いくら強くたって、普通の人間じゃあ、この通り! あたしが本気になればすぐ殺せる! だったらさぁ、やっぱりHiMEが守ってあげなきゃなんないよねえ!?」

 ジュリアに命じて、奈緒は〝巣〟の糸を蠢かせる。それは構造物にとってほぼ致命的な瑕疵となった。天蓋が軋み、白く清潔な外装に深く大きな亀裂が走る。巨大な照明が落下し、派手な音を立てて砕け散る。奈緒の眼前にも、拳大のコンクリートが落下し、床を陥没させた。石膏交じりの白煙が、其処彼処で立ち上る。
 足音は、勿体をつけるように近づいてくる。かろうじて限界を残す商品棚の影に、その持ち主はいるようだった。奈緒は気まぐれにエレメントを振るう。
 人体を両断しうる速度で迸った二本の糸は、しかし一瞬で空間に散った。

「……?」

 防がれたとしても、奇妙な手ごたえだった。いぶかしむ奈緒の眼前で、スチールの棚が断末魔の悲鳴を上げて倒れ始める。
 足音の主が現れた――。
 果たして、そこにいた。

 深優・グリーアが。

「…………え?」

 制服姿ではない。袖を切り落とし裾を靡かせた、革に似た光沢を放つコートを深優は着込んでいる。左腕は半ばから、切っ先が地面に届くほどの大剣に変じていた。
 瞬間に、奈緒の脳裏に黄昏が蘇った。高村恭司と杉浦碧に巻き込まれ、学園地下の水路を巡った記憶だ。剣を突きつけられ、チャイルドを召喚し、交戦した相手がまさしく深優だった。

「結城奈緒」と深優はいった。「契約に基づき、貴女にはわれわれの指揮下に属する義務がある。抵抗を止め、玖我なつきとともに来なさい」
「え、いや、なんで……ちょっと」奈緒は反射的に後退した。
「否であるのならば、かつての続きをいたしましょう」深優は粛々と通告した。「貴女を救う恭司は、ここにはいない。選択しなさい、結城奈緒。未来の如何に関わらず、われわれはその意思を尊重します。――安心なさい、ジョン・スミスのように、ご母堂の命を楯に取ることはいたしません」
「なんであんたが」奈緒は混乱のまま、疑問を口走った。「石上といるのよ?」
「アリッサもいるよ!」ひょっこりと深優の背後から姿を見せたのは、アリッサ・シアーズだった。だが奈緒には興味がないようで、半眼で深優を見上げている。「……ねえ深優、いまキョージって言わなかった?」

「冗談じゃない」奈緒は吐き捨てた。脳裏では、逃走の算段をつけ始めている。「アタシがアンタに従うって? そんなの、高村が勝手にあんたらとしただけの約束でしょうが。あたしは納得したおぼえなんてないし、そもそも、高村もシスターむつみも、もうあんたらとは仲間割れしたんでしょ。だったら――」
「無論、そのことも踏まえた上での問責です」深優は言い切った。「だからこそ、貴女の自由意思に任せると申し上げています。服従か、敵対か。至極単純な選択であると思われますが」
「敵敵。敵でいいよ」アリッサが挙手してわめいた。「あのおねえちゃん、アリッサあんまり好きじゃないしぃ」
「お静かに、お嬢様」深優が微笑んでアリッサを制した。
「おおっ?」アリッサが目を丸くして、従者を凝視した。「ふーん……へー……やっぱり深優、ちょっと変わったねぇ」
「そうなの『かもしれません』」応えた静謐な少女の横顔から、視線が奈緒へと飛んだ。「――石上亘、貴方の役目はこれまでの筈ですが」

「いや、これで仕上げだよ」奈緒の至近で、石上が答えた。「ここまで来て逃げられてもつまらない。そうだろう?」

「な――」

 奈緒が反応するよりも数段早く、石上が白刃を振るった。無防備な左半身を晒していた奈緒は、側面からの一撃をまともに受けた。膝下からひかがみにかけてを、冷気と熱を同時に宿した物体が通り抜けていく。痛みや恐怖よりも先に、暖かい液体が切り口から漏れる感覚が脳へ届いた。それから数瞬も経ず、激甚な痛みが奈緒の全身を劈いた。

「ぃあ、あああぁっ」

 漏れかける悲鳴を歯軋りで抑えた。傷に宿る熱と痛みが思考を塗りつぶす。気づけば奈緒は地面をのた打ち回り、悶え苦しんでいた。ジュリアが石上を脚の一つで跳ね飛ばすも、危なげなく受身を取って着地する光景が見えた。

「うっ、あ、つ……く、そっ、くそっ、糞!」大量の血で塵埃にまみれた床を更に汚しつつ、奈緒は蹲り、立ち上がろうと試みた。ついた手が血溜まりに滑り、服が赤黒く染まった。「ぃ、ぃいっ痛、痛い、っつ、よくもっ、糞! 殺してやる、殺してやる! 絶対、絶対絶対殺してやるっ」

 目じりにためた涙を落とし、奈緒は石上へ殺意を向ける。
 呼応したジュリアが、胸部の大口を威嚇するように軋ませた。
 それを遮るように、アリッサ・シアーズが立ちはだかる。

「ねえ、おねえちゃん。いまのお話、聞いてなかったの?」苛立たしげに少女がいった。「なんで答えないの? なにも決められないの? どこへ逃げるつもりなの? どうせどうせ、そのままだったら死んじゃうのに」
「どけよっ、クソガキ!」奈緒は血走った眼で、至近距離からエレメントを振るった。
「――こどもなのは、そっちでしょ」

 鉄さえ断つ糸が、刹那に展開された金色の羽に吹き散らされた。輝く弾丸が、アリッサの背後に次々と装填されていく。荘厳な光景を前にして、痛みと憎悪に染まった奈緒の意識が、一瞬だけ萎縮した。

「運なく思慮なく志さえなく、自らの能を浪費する塵芥。誇りの当て所さえ自覚しないものは、ワルキューレどころか人間ですらありません」

 蒼い瞳が茫と耀く。アリッサの言葉に、常と異なる趣が混ざりこんだ。

「――結城奈緒、貴女は失格です。未分化の想いもろとも、ここで潰えて消えなさい」

 奈緒が面罵する間もなく、光の雨が彼女の体を打ち据えた。弾幕は満遍なく降り注ぐ。かろうじて割って入ったジュリアの装甲さえ、羽弾は削り取っていった。庇い立つチャイルドを、光弾は曲線を描いて避け、奈緒自身を執拗に狙い打つ。痛みが脳を揺さぶり、体を打ち据え、絶叫を上げながら、奈緒は心中で毒づいた。
(役立たずのチャイルド。役立たずのあたし)
 腹部に重い一撃が来た。胃液を吐き出しながら、奈緒は薄っすらと微笑んだ。
(死ぬのか)
 諦念が兆した。
 拒絶がそれを、切り裂いた。
(――いやだ。いやだいやだ)
 拳を握り締める。
 目を見開き、体に力を込める。
 だが、活路は見出せない。意志を振り絞ったところで、奈緒は既に袋小路にいた。アリッサ・シアーズを深優・グリーアを出し抜いて逃げ延びる術など思いつかない。
(糸、を――)
 屋内の縦横を貫く糸を、イメージでより合わせていく。拡散から集中へと、属性を変化させ、ひたすらに身を守る防壁を欲した。
 赤い格子を織り上げる。ジュリアと奈緒を取り巻くように、筒状の繭を編み上げた。一重が弾丸に散らされ、二重が解かれても、三重の壁が攻撃を凌ぐ。絶え間なくエレメントから糸を放出しながら、奈緒はジュリアにもたれるように立ち上がった。

「へえ」アリッサが感嘆の声を上げた。「おねえちゃんは、結構力の使い方がわかってるほうだね。うんうん」
「……うっ、さいんだ、よ、くそがき」息も絶え絶えに、奈緒は唾棄した。急場をしのいでも、死地にあることに変わりはない。「とはいえ、ちっ、どうすればいいんだか……ぇほっ。……うげっ」

 口中の胃液を吐き出すと、大量の血が混ざり合っていた。どうやら奥歯が一本折れている。痛みとは別の次元で悋気をおぼえて、奈緒は鼻をすすった。飲み下した液体は、血の味しかしない。呼吸のたびに右半身が痛み、左手を動かそうとすると激痛が走った。鎖骨や肋骨に異常が生じている様子だった。そして、石上がつけた足の傷はもっとも深い。恐らく骨まで達している。溢れる血に、止まる気配が見出せなかった。貧血の症状も併発しているのか、立っているだけで後頭部が冷え、視界が眩みつつある。
 往生際の悪さが信条の奈緒といえども、両手を挙げるしかない状況だった。

「わたしに考えがある」と、玖我なつきが耳元で囁いた。
「うぇ!?」驚きに身をよじって、奈緒は走った痛みにうめきを漏らした。「っ、って、あんたなんで、いふのまに近ふに来てんのよ……」
「歯が折れたのか。舌も……」奈緒を見て顔をしかめながら、なつきは答えた。「別に、さすがに弱いものいじめを見るに見かねただけだ。で、仲裁しようとしたら、この目に悪そうな悪趣味な糸に囲まれた」
「……あ、そ。余計なお世話ね」奈緒は痛みを忘れるほどの不快感をおぼえた。よりによって、玖我なつきにだけは同情などされたくなかった。「エレメントも出へあい。チャイルドだっていないくへに、アンタになにができうってんだか」
「人質になれる」なつきは大真面目に言い切った。
「……なにそれ」
「わたしもよく知らないが、シアーズとわたしにはちょっとした因縁があるようだ」なつきは自嘲気味に答えた。「あの石上がわたしの身柄を要求したのも、どうやら一番地ではなくシアーズよりの目的とみえる。であれば、アリッサとグリーアにも交渉の余地はあるだろう。……しかしあの二人、関係者だろうとは睨んでいたが、二人ともHiMEなのか? グリーアのほうは少し毛色が違うが」
「……急によくひゃべるじゃない。いじけるのはやめたわけ?」
「さあな」なつきはいった。瞳は変わらず、虚無的な色をたたえている。「正直なところ、どうでもいいというのが本音だ。おまえやわたしの生き死にも含めてな。ただ、……なんだろうな、そう、浮浪者に貞操を捧げずに済んだおまえの気まぐれに対して、わたしも気まぐれで応えるのもいいか、と思った」
「……ふうん」

 呟いた奈緒は、断りもせず、なつきの首にエレメントを巻きつけた。うっ血するほど締め上げると、なつきは顔色を赤くして咳き込むが、抗議の声はなかった。人質を取って逃げ出すとは、ますますあの日の焼き直しだ、と奈緒は思った。

「相談おわったー?」アリッサがタイミングよく声をかけた。「うーん、そっちのおねえちゃんをヒトジチにしても、べつにいっしょにやっつければいいだけなんだけど……でも、たとえばさー、ここから逃げられたとして、おねえちゃんたちそのさきのこととか、考えてる?」
「……正論だな」なつきがいった。「確かに、戦わずに逃げたところで、追跡を振り切れるわけじゃない」
「っていうか、そもそも人質が無駄っぽいじゃない」奈緒はため息をついた。
「差し出口、いいかな」観客に徹していた石上が、思い出したようにくちばしを挟んだ。「可能性はさておくとして、ここから逃げるという手は悪くないが、そちらのアリッサ・シアーズが言ったとおり、問題はその後だ。というのも、いま、結城さんの立場というのが、実は酷く悪くてね」
「……ああ?」隙あらば頭越しに攻撃を加える意図を隠しもせず、奈緒は石上を見やった。
「昨夜……いや今朝もか。昨日今日の未明にね、一番地の施設がHiMEのチャイルドによって壊滅させられた」石上はいった。「当然、組織は上へ下へのおおわらわさ。だからこそ、僕が今日ここでこうして大胆に女の子と密会なんてできているわけだがね」

 なつきが静かに息を呑んだ。
 奈緒は意味がわからず、眉根を寄せた。

「だからなんだってのよ」
「いや、容疑者とか、動機とか、そういうのはさておきね」石上は愉快げに笑う。「『それ』の犯人は、結城奈緒、きみってことになっている。まあ、僕がそう仕向けた。さて、当然だが、この二夜に行われた襲撃は、これまでそちらの玖我なつきがしてきたような嫌がらせとはレベルが違う。それなりに大打撃だ。元々死者も出ており、もみ消すというには苦労する被害さ。一番地は元々あまり資金が潤沢な組織というわけでもないし、立場も非常に繊細で、おまけに非営利団体だ。……そこでまた話を変えるが、HiMEというのはね、結城さん、きみが思ってるよりも世界中で注目の的なんですよ。当然、隙あらば身柄をさらおうと思っている連中は五万といる。シアーズがその最右翼だ。そして、そうした連中からHiMEたちの情報を守っていたのも一番地だ。だが……果たして、本格的に牙を剥いてきたHiMEを、それも元々力をほしいままに行使し、後処理に苦渋を舐めさせられてきたHiMEを、組織はそれでもかばいつづけると思うかい?」
「……ああ、そういうこと」事態を飲み込んで、奈緒は辟易した。「ふまり、あたしを、ハメようってわけなんだ。くそ、本っ気で……ああ、胸糞悪いわ。アンタ」
「襲撃での死者、怪我人は数十人はいて、その家族にも、伝えて問題のない場合はきみのことを包み隠さず教えてある」付け加えられた石上の言葉は、看過するには重過ぎるものだった。「そして、報復は特に禁じていない。想像できるかな? まあ、とはいえこの風華市内において、いまきみを恨みに思い、何らかの報復を実行する行動力があるような人間は、せいぜい数人といったところだ。道を歩いていて、突然刺されるような不運は……宝くじに当たるよりは、少し高いくらいかな」
「……冗談じゃ」
「ああ、公共機関は、もう使えないと思ってくれよ」石上が楽しむ素振りで付け足した。「一番地は地域密着型の組織だから、役所やら病院やら銀行は……チャイルドで襲いでもしなければもうきみには門戸を開かない。きみが今よく使っている高村先生のキャッシュカードも含めて、使用は制限させてもらった」
「病院、も、……ね」

 悪態をつく気力も萎えて、奈緒は奇妙に浮ついた心境にある。
 足場が信じられないほど不確かで、それは手に入れた力で左右できない類のものだった。
 力を発揮するには土台が要る。石上はその基底から切り崩した。そうして奈緒は、直接干戈を交えるまでもなく八方を塞がれた。煎じ詰めれば、この上なく合理的な手法だった。
 言外に、石上は奈緒の母についての進退も示唆しているとわかった。あからさまにそれを口にしないのは、反発を予期してのことだろう。

「なによ、それ」馬鹿馬鹿しさも極まった。奈緒は苦笑する以外に、反応を思いつけなかった。

 石上が一方的に述べた内容を、すべて把握したわけではない。傷の痛みや疲労が、奈緒の思考力を大幅に低下させてもいた。だが、言葉の一端なりとも理解すれば、状況が絶望的であることは理解せざるを得なかった。

「……いいわね」奈緒は自棄的に笑う。腰から力が抜けて、ジュリアに半身を寄りかけた。「卑怯で……は、は。そっ、か。そういうことも、できちゃう、わけだ……」
「それで」なつきが奈緒に代わるように言葉を発した。視線は深優へ向かっている。「そうした諸々の不具合から、庇護できる力を持つのはシアーズ、という筋書きか」
「そういえば、まだ答えとやらを聞いてなかったね」石上が肩をすくめた。「そういうことになるかな。迷う余地はないと、僕は思うよ。……ちなみに、玖我さん、きみにはそういった考慮はされていない。きみに関しては完全にゲーム・オーバーだ。シアーズがきみの身柄を欲する所に、一番地の意図は噛んでいない。そしてそれを守ることもないだろう」
「承知の上だ。それに、やはり貴様らの世話になるのは業腹だからな」なつきは捨て鉢な気色を交えて応じた。

「それで、どうするの?」

 問うたのはアリッサだった。倒れた棚のひとつに腰を下ろし、悠然と脚を組み、頬杖をついて奈緒を眺めている。赤い格子の守りを越しても、余裕は圧倒的だった。控える深優も、交戦の姿勢を解いてはいない。逃走を図ったところで、脱出するまでに迎撃されるだろう。抗戦を選んだところで、消耗した自分に勝機があると思い込めるほど、奈緒は楽観的になれなかった。窮鼠の恃みであったなつきという人質は、どうやら機能する気配がない。手向かいの代償には、命を奪われないとしても、それに準じるものを捧げなければならないだろう。
 だが従ったところで、無事が保証されるとも限らない。少なくともこの場で脱落せずに済む可能性があるというだけだ。シアーズの目的の一端程度は、大まかに奈緒も聞き知っている。

「飛鳥尽きて良弓蔵められ、狡兎死して走狗烹らる」深優・グリーアが、その内心を読んだかのようにいった。「貴女の危惧はもっともです。そして正しい。シアーズは、確かに強いてその身の安全を請け負うことはしないでしょう。知っての通り、服従したところで、貴女に課されるのは他のワルキューレとの戦闘です」
「そういうことか」なつきが顔を手で覆った。「周到なことだな。……そこまで自信があるのか。こんな下らないイベントに、企業ともあろうものが大真面目に乗るなんて、世も末だ」
「まさしく、その通りだ」石上が笑みをかみ殺した。

(なんなのよ、これは)
 酷い理不尽と敗北感を、奈緒は苦杯として味わった。論理を構築すれば、この場にうまうまと誘き出された時点で、奈緒に降伏以外の選択肢は用意されていなかったとはっきりわかる。
 痛苦と憔悴と諦念が、奈緒の足を絡め取る。鋭く痛む頭部に手で触れながら、震える声で呟いた。

「ここで、どっちかを選んで……たとえばアンタらにつくって言ったところで、それを信用できるっていうの? 高村のときみたいに、一緒にどっか行くってこと?」
「いいえ。玖我なつきの身柄は預かることになりますが、当面、貴女の行動を縛る予定はありません」深優は簡潔に否定した。「繰り返しになりますが、貴女のこの街における生活は、もう破綻しています。これまで行ってきた自侭の振る舞いの報いが与えられたとして、今ならばまだ能力を用いて対処することもできるでしょう。ですが、一度でも敗北すればその限りではない。そちらの玖我なつきのように、なにかの拍子で全てを失わないとも限らない。力を備えていても、反応できない瞬間に致命的な危害を加えられる可能性は否定できない」
「きみに未来はない」情感を込めて石上が補足した。「風花奨学金も、当然今月で打ち切りだ。生活の基盤はこれで全滅かな。学費も払えない。すぐに寮を追い出されるということはないけれど、この非常時ではなんともいえないな。帰る家も、残念ながらない。――なに、若干唐突で、確かに悲劇的かもしれないが、よくある程度のハンデでしかないよ。きみのバイタリティなら、シアーズからも一番地からも逃れて、身一つで生きていくことも可能かもしれない。健全な手法で、となるとハードルは跳ね上がるけれど」
「むつかしいことはよくわかんないけど」アリッサが朗らかに結論した。「おねえちゃんはシアーズに従って使い捨てられるか、ここで負けてボロボロになっちゃうか、あと……すっごい大変だけど、アリッサにもミユにも勝って、ほかのワルキューレも全部ひとりで倒して、イチバンチもシアーズもやっつけちゃって、その間おねえちゃんの大切なひとをいろんなものから守り続けることができるなら、それもありかなぁ」

 具体的に口にされて、その不可能性を悟らないわけにはいかなかった。足がもつれ、視線が右往左往した。惨憺たる有様のショッピングモール内にいて、奈緒は精神の均衡が欠けていく過程をまざまざと感じる。罅割れた内装に心象を見る。どこか懐かしく、そして二度と繰り返すまいと決めた、失調の感覚だった。
(どうしようもない)
 力を手に入れた。
 劣るものを蹂躙した。
 そして、その上を行く力に、されるがままになるしかない。
 横隔膜が痙攣する。涙が目じりに滲む。嗚咽をこらえたのは、最後の意地だった。

「解せないな」

 と――
 静かな声で疑問を口にしたものがあった。
 玖我なつきが、首に赤い糸を巻いたまま、醒めた顔で場の人間を睥睨していた。

「まずひとつだ」注目が集まる間を取りつつ、なつきは二の句を次いだ。「いま貴様らが結城奈緒に提示した全ての事由は、この場で言いそやす必要のないことばかりだ。稚拙な脅迫、いや恫喝だな。だが、そうしたものはカードとして用いてこそ意味がある。そいつは実際頭がいいつもりの馬鹿というもっとも御しやすいタイプの人間だが、それにしても心を挫くためだけに直接チャイルドとの交戦という無意味な危険を冒す理由がない。恐らく、そこの石上が言ったような処置は既に行われているはずだな?」
「……続けたらいい」石上が興味深げになつきを見た。
「ふたつめ。……これは結城奈緒のみならず、HiME全般に言えることだが、われわれの存在価値には大別して四つの種類がある。ひとつは儀式の勝者足りうる可能性。ひとつはそれとは逆の敗者、儀式のための人柱となる必要性。ひとつはそうした内向けのヴァリューからは隔絶された、外部から見た、介入するための媒介である『状況の当事者』である有用性。最後は、それ以外のなにか。わたしは敗北以外のケースで脱落したというレアケースだが、それでも恐らく後者ふたつの価値は残されている。わたしの身柄を欲そうというのは、恐らく九条むつみか――」

 その名を口にした瞬間に、なつきの顔があからさまに歪んだ。

「――ともかく、そういったものに関連した理由があるんだろう。いい迷惑で、本音としては知ったことじゃないといいたいところだが、な。そして、翻って奈緒はというと、まだ、HiMEとしての意義は何一つ失われていない状態だ。さんざ脅してすかして、社会的基盤を奪うのは、控えめに見ても極道のやり口だが……、ふん、まだまだ詰めが甘いな。揺さぶりをかけて傀儡に仕立てあげるにしても、やり口が直接的過ぎる。『どちらでもいい』と口にしながら、本気で奈緒を仕留めようとしたのは一瞬だけだった。その後は、何のかんのと理由をつけて、始末を引き伸ばしている。不自然さが、際立っているぞ?――そもそも、一番地を名乗りながら、石上はなぜ単独でここにいる? どうしてシアーズの名代が女こどもしかいない?」
「へえ……まぁまぁじゃないか」石上が手を叩き、深優の睨みにさらされ、沈黙した。
「そうした状況的な不自然さを、権力の行使で補っているのがみえみえなんだよ」なつきは続けた。「嘘はついてないんだろう。一番地の施設は確かに襲撃され、その犯人が奈緒という情報をでっちあげたんだろう。だが、その浸透性は? 持続力は? 妥当性はどのように用意した? 儀式を取り仕切るのが一番地の本分であれば、まさかHiMEの反逆を予期していないはずはない。そうだな、差しあたり、図抜けて強力な舞衣、それに無鉄砲なそこの奈緒なんかは、監視対象として相当、重視されているんじゃないか? どう考えてもトリックスターの一人である高村恭司に手引きされていた奈緒から、常識的に考えて目を離すか? その程度のリスクヘッジができない連中が、わたしに暗示をかけるなんていう上等な策を弄せるとは思えない」
「すごい」アリッサが呆れて呟いた。「すごい、じしんかじょー……」
「うるさいぞ幼女」
「ふんだ。そっちこそしゃべりすぎよオバサン」アリッサがめかこうした。
「おばっ……」なつきの額に青筋が立った。「……ふうっ。とまあ、ことほどさように、貴様らの手口は荒が目立つわけだ。急造の陰謀だな。本当に精神的に追い詰めたければ、動物の死体を枕元に置くところから始めるべきだ」
「なんてヒドイこというの!?」アリッサが怒りを露にした。
「たとえばだよ。しかし……あっちはともかく、おまえはぜんぜん似てないな」ふいに、なつきが肩から力を抜いた。「以上のような考察から導かれる結論はこうだ。貴様らは相応に追い詰められており、結城奈緒とそのチャイルドをキーカードとして欲してもいる。なるべくなら倒したくはないが、しかし展開次第では始末することも考慮に入っている。そして、現時点では無用な危険を冒しただけのこの会合には、まだ最後の一手が残されている――」

 ぽかんと口を開けて、奈緒はなつきの独演を聞き終えた。当事者ではないからこその視点でもあるのだろうが、蒙を啓かれたような感覚がある。不思議と屈辱感はない。唐突に視界が広がったような心境だった。
(って、それじゃあ)
 なつきがしたのは状況の分析であり、盤面を覆したわけではない。
 変わらず彼女は死地にある。
 だが、少なくとも奈緒には利用価値がある。そう思われている。
(だったら、付け入れる)
 萎えかけた意思に喝を入れる。

「おいおい」そんな奈緒を見て、なつきがいった。「別に、ピンチであることには何も変わりはないぞ。おまえの人生がほぼ終わったことも事実には違いない。結局、こいつらに従う以外の手はないんだ」
「うっさい」奈緒は鼻を鳴らした。「知ってるわよ、そんなのは。けど、だからって卑屈になる気もない。だってつまり、こいつらにはあたしが必要だってことなんでしょ?」
「……ここまでいいようにされて、おもねるのか」なつきの顔が嫌悪感に染まった。「信じられないな。プライドはないのか」
「そんなもんにすがった結果が、いまのアンタの無様でしょ」奈緒は薄く笑った。「頭がいいでちゅねー、なつきちゃんは。ははっ、大好きなママに似ててよかったじゃん?」
「くそがきが」
「マザコンが」

 なつきが鋭く舌打ちして、奈緒から目線を切った。
 アリッサが不可解を満面に浮かべていた。

「よくわかんないね、あのふたり」
「私はわかりやすいと思いますが」深優が無表情に応えた。
「ご名答だ」石上が、降参だとでも言うように両手を挙げた。「すばらしいな。さすがは至上の才媛、玖我紗江子の忘れ形見だよ。――けれど、ひとついいかな?」
「なんだ」なつきが仏頂面で応じた。
「その推察、この場で全てしたのでなければ、なぜ彼女に警告しなかったんだい?」
「今日いちばん頭の悪い質問だな。おい奈緒、仲間がいたぞ、よかったな」なつきが嘲笑した。「美術の……石上だったか? 貴様、策を弄して策に溺れるタイプか。あのなぁ、なんでわたしがこいつに忠告なんてしなければならない? こいつはわたしが嫌いだし、わたしもこいつが嫌いだ。貴様らがこいつとつるみたいなら、好きにしろ。そしてもうひとつ」
「ふむ」石上が頷いた。「なにかな」

 鬼気が揺らめいた。

「不用意に、わたしの前で母の名を出すな」となつきがいった。「殺すぞ。必ず、殺す」
「そういう言葉も、十分みっともないがね」石上は軽飄に笑んだ。「おぼえておこう。女性の不興は買いたくない」

 昨晩までのしおらしい姿は消えて、なつきは全身で苛立ちを表現していた。無気力な表情のなかで、怒りだけが炯々と目立っている。

「なんか、まとまっちゃうねぇ」アリッサがつまらなげに呟いた。「あーあ、べつに良かったのにな、倒しちゃっても。ていうか、倒していい?」
「ご自重ください、お嬢様」言い含めて、深優が石上を一瞥する。

 心得た素振りで、石上が奈緒に告げた。

「さて、紆余曲折あったが、取引はまとまったと見ていいのかな」
「選ぶ意味はないんでしょ」殺意を隠さず、奈緒はようやく、ジュリアの守りを解いた。左足の傷は、出血こそHiMEの力で収まったものの、痛みは全く引いていない。
「きみは玖我なつきの身柄をわれわれに引渡し、そちらのシアーズに今後従ってもらう。報酬は、これまでと、そして『これから』起こる悲劇の容疑からの解放だ」
「これから?」奈緒はうんざりと、訊き返した。「この上、まだなんかあるのかよ」
「あるよ」石上がいった。「このモールの地階を爆破する。大勢人が死ぬだろう。きみにはその犯人になってもらう」

「…………は?」

 何度目かの絶句が、奈緒から体温を奪っていった。

「チャイルドを引き連れて、そのまま街を闊歩するんだ」石上は淀みなく告げた。「儀式に反対するHiMEはきみを追うだろう。きみが何がしかの罠に嵌められたと気づいたものも、きみを追うだろう。そこで弁解するのも、交戦するのも、きみの自由裁量に任せるとのことだ。きみには勢子になってもらう。追うものと追われるものが逆になるが、そこはご愛嬌だな」
「じょっ、冗談じゃ」奈緒は慌てて石上へ詰め寄った。「そんなことしたら、誤解も何もないだろ!」
「当たり前だろう」石上は柔和な微笑みを崩さない。「まさか、まだ『元の日常に帰れる』なんてむしのいいことを思ってたんじゃないだろうね? ないよ。そんなものは二度と来ない。だからもう、諦めなさい。ああ、不思議な顔をしているね。何が返らないのかと思ってるんだろう?――全てだよ。思い描いたもの全てだ。それは、もう、二度ときみの手には戻らないよ」

 その言葉を裏付けるように、地の獄から吹き上げたかのような爆音が、建物全体を震動させた。先ほどのジュリアの攻撃に倍する衝撃に、奈緒の足が膝から折れた。またいくつか、天板が床へ落下する。

「あ……」

 断続的に響く轟音と震動に、奈緒は階下の惨劇を直感する。
 休日のショッピングモールだ。
 どれだけの人間が訪れているのか、想像もつかない。

「じゃあ、なるべく早く逃げたほうがいいな。僕らも危ない」と石上がいった。「くれぐれも、チャイルドを使って逃げてくれよ。……僕たちの目は、とても多い。逃げるなら、この国から出る心算でなければいけないよ」
「クズが」なつきが吐き捨てた。「……おい、グリーア。わたしを連れて行くつもりか」
「その予定ですが」深優が心なしか冷たい口調でなつきに応じた。
「逃げはしない。わたしはしばらく奈緒についていくぞ。こいつ一人じゃ、上手くやれることもできなくなるだろう」
「……シアーズに協力すると? 意外ですね。貴女はわれわれを嫌悪しているはずですが。ですがどちらにせよ、その提案は呑めません。貴女の身柄はこちらの前提条件です」
「なら、わたしはここで死ぬ」

 静謐な覚悟を込めて、なつきが言い切った。

「つまらないフロックです」深優は断じた。なつきへ一歩、足を踏み出す。
「そうか。じゃあ、しかたがないな」

 と、いって、なつきが目を閉じた。首にかかったままのエレメントを、手で握り締める。奈緒が何を言う間もなく、そのまま一息に糸を――

 引き絞ろうとしたところで、光弾に手の甲を打ち抜かれた。苦悶するでもなく、なつきは半眼を金髪の少女へ向ける。

「親切だな、意外と」
「だめだよ、深優」アリッサが素早く告げて、深優の腕を引いた。「いま、そのおねえちゃん、本気だったよ」
「……」改めて、深優が凝となつきを観察した。無機質な面に、あるかなきかの波紋が揺れる。「貴女は恭司の教え子だと思っていましたが、そうではないようですね」
「誰だって?」なつきが歪んだ笑みを浮かべた。
「今夜午前零時に、再度その身を引き取りに出向きましょう。お嬢さまとともに。――結城奈緒、貴女の首尾も、そのころまでには決しているはずです。指示は都度、通信端末にて送ります。死力を尽くしてください」

 一方的に言い捨てると、深優はアリッサの手を引き、きびすを返した。階下への通路ではなく、屋上へ続く階段を目指し、シアーズの少女たちは歩み去る。後には奈緒とそのチャイルド、なつき、石上が残された。

「追い詰められてるな」なつきの声は、死を連想させるほど静かだった。「わたしたちも、シアーズも、恐らく一番地も。それだけ佳境ということか」
「佳境など来ないよ」石上が、真摯な声音でそういった。「その前に、全ては終わるんだ。……では、僕も行くよ。なんだかおかしなことになったが、健闘を祈っている。しかし、僕ときみたちとでは、もう会うこともないかな」
「ぬけぬけと、よくもまぁ」

 嘆息した奈緒は、石上の背中へ全力でエレメントを放った。
 五つの斬撃が、赤い軌跡を残して男へ殺到する。

 その全てを、飛来した銀色の矢が打ち払った。

「……誰だ?」なつきが訝った。
「ほらね」奈緒は笑う。「いるんじゃん、やっぱり」

 直線距離にして数十メートルは離れた一角に、その女はいた。黒い衣装と、対照的な白いチャイルドを傍に控えさせている。構えたエレメントは長弓のかたちを模していた。いまも、紫電のように光る矢がつがえられている。
 真田紫子の表情は、この距離ではまったく伺えない。
 奈緒はそのことを少しだけ残念に思った。

「爆破テロを平気でやらせるようなやつに、それでもアンタはついていくんだ?」と奈緒は言う。「もとからそうだったのか、それともそれでもいいってことなのか。どっちにしろ、くっだらないわ」
「……あれは、シスター紫子か」なつきが沈鬱な顔で呟いた。「石上と、か。そう、か。そうなったのか」

「さてと」

 傷の痛みと、疲労と、屈辱と、様々なものを込めて、奈緒は唇に笑みを象らせた。
 体は重く、心は重く、未来は暗く、過去はない。

「テロリストに、なりますか」

 だが、生きている。


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