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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第三部八節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/07/27 00:36



7.クレセント(上弦)





 八月九日の午後、前日の快晴を引きずってか、空は続いて好天に恵まれている。蝉の生を謳歌するひたむきさも手伝い、炎天下の不快指数は右肩上がりである。
 額に汗をまぶして風華学園の敷地内を疾駆する鴇羽舞衣は、進路上に風花邸の姿を認めると趨走の歩幅を縮めた。
 弾む胸を鎮めるよう、呼吸の拍子を広く取る。じっとりと湿る襟元を扇ぎながら見上げる邸宅は、時勢に置き去りにされた過去さながらの装いだ。
 以前舞衣が風花邸を訪れた際には、楯祐一の先導があった。屋敷の内部では主人であり学園理事長でもある少女と、高村恭司を交えて一戦に近いやり取りを交わしもした。それらの記憶は、舞衣にとってあまり快いものではない。そして今日再びこの蒼然とした邸宅に招かれた理由も、明るいものとはいいがたい。
 玖我なつきが消えた。
 杉浦碧を通してその連絡があったのはその日の早朝だった。

『舞衣ちゃん。落ち着いて聞いてね。きのうの夜、なつきちゃんが――』

 深夜と早朝の電話は凶報しか告げない。舞衣はそのジンクスへ抱く負の信頼をよりいっそう深めた。
 命のための朝食を用意している最中に一報を受け取った舞衣は、腰が砕けるような脱力感をおぼえた。日暮あかねの敗北を後になって知ったときと同じ感覚だった。ついで反駁するように碧の勘違いを疑った。ほんの一日前に、舞衣と碧は共謀し、高村に誘われたというなつきを一人で『デート』へ赴かせたばかりなのだ。
 不運が何を囁こうとも、日常は崩れない。舞衣はそう信じたかった。異変はあくまでスタンダードのスパイスなのだ。決定的に平和が崩れてしまうような事態が、これ以上自分の知己に訪れたなどとは、どうしても考えたくなかった。
 そもそもなつきは一人暮らしである。そして彼女が軽薄だとは思わないが、ひょっとしたら舞衣が思う以上に親しいのかもしれない年ごろの男女が、出かけた先で予期せぬ進展を見せることもあるかもしれない。そうした邪推をすればきりがない。または何らかのトラブルに見舞われ外泊したとも考えられる。
 舞衣が思いつく程度の発想ならば、当然碧にとっては検討済みだった。
 元々は野次馬根性と年長者としての配慮から彼女がした勘ぐりが発端であったという。深夜から夜明けにかけて、碧がなつきと高村の双方に何度か取った連絡はことごとく不通であった。顔を直接合わせなくなって数週間になる高村はともかく、意外にもなつきは情報の交換に対して真摯な姿勢を見せていた。必要な用件であれば、時間を問わず彼女は何らかのアクションを返していたのである。にも関わらず、とうとう日が昇るまでなつきからの返信は碧へ届けられなかった。高村も同様だった。
 以後なつきが自宅に帰った様子はなく、朝駆け同然に風花真白を強襲して問い合わせたところ、市外で玖我なつきが消息を絶ったという情報がもたされたのだった。
 碧の言葉を受けて、舞衣は午後に風華邸で落ち合う約束を取り付けた。外せない予定でもあった午前のアルバイトを、舞衣は手のつかない状態でこなした。シフトは夕方まで組まれていたが、気もそぞろな舞衣を見かねて、上司が暇を出した。
 われながら危機感に欠ける行為だと、舞衣も思わないわけではなかった。途方もなく重い命運を負わされた人間が、友人の危地を二の次にして労働に勤しむ心理は、薄情なのかもしれない。だが舞衣には日常化が必要だった。たとえすでに名残であろうと、かりそめの安定を欠いた瞬間に、自分は転ぶ。その確信が舞衣にはある。
 なつきもまた、舞衣にとってはもはや日常を同道する少女だ。異常な縁が結んだとはいえ、どうにも上手く行きかねている学園生活で、新たな友人を得て嬉しくないわけがない。
(なのに、なんでいなくなるのよ)
 舞衣は思わずにいられない。
(普通だったじゃない。昨日まで)
 黒々とした思念が、彼女の腹腔を満たした。歯噛みの奥で、飲み込まざるをえない事実がある。経験が、今まで幾度も舞衣に教えたことだ。不幸は時も場所も選ばない。狐雨のようにいたずらで、嵐のように容赦がない。慈悲もない。時おり気まぐれに落としていく救いを、すがった刹那に摘みもする。
(来週はお祭りだって、暇だったら遊ぶって、なつきも言ってたのに)
 母がそうだった。
 父もそうだった。
 弟の病も同じだ。
 あかねも、その恋人も、舞衣やその仲間を取り巻く得体の知れない理不尽が荒らし、奪い去っていった。

(これは……暴力じゃないの?)

 天意や運命と名づけられた瞬間、人は頭を垂れ、唯々諾々としてそれらを受け入れるようになる。母を喪った幼けな時分から、舞衣は巨大すぎて影すらつかめないその存在に、無形の敵愾心を抱いていた。
 誰もに受け入れがたく思うことを強いるそれが、舞衣は不愉快だ。打ち砕きたかった。だが何をどうしたところで、永遠に主体が不在の概念に指は届かない。
 そんな敵を心に据えているからこそ、舞衣は空元気の効能を熟知している。彼女は常に自身の内部に器を思い浮かべていた。容器の中身はちょうど月の虧盈のように、あるいは潮のように、満ち引きを繰り返し、年経るにつれ舞衣は情動を手繰る術を体得していった。こころを液性を含んだ器物として、いつも見つめていた。彼女の自制心と平衡感覚は、そうしたある種虚無的な思想に端を発している。そしてだからこそ、空虚であろうと外面に見せる努力や気宇が憂いを払うことを、舞衣は疑わない。
 だが物質として措定した以上、罅隙はどこかに生まれうる。安定を願う気持ちにはもうほつれがある。舞衣は唇をきつく結ぶ。直視を拒む太陽は熱を輻射して地面を焙る。影がまんじりともせず地面に寝転んでいる。舞衣は自分が立ち止まっていた事に気づく。

「舞衣ちゃん」その時、炎凪の声がする。

 白い髪と白い肌。夏服の少年は涼しげな面立ちだ。舞衣は無言の敵意を乗せて彼を睨む。凪はおどけたそぶりで手を挙げた。

「怖いな」と彼は言う。「真白ちゃんが待ってるよ」
「わかってる」

 そのまま凪の横を通り過ぎた。声が後方から追いかけてくる。

「何をしてもしょうがないよ。無理なことっていうものがあるんだよ。そんなの、きみはとっくに知ってるじゃないか」

 舞衣は答えなかった。振り向きもしなかった。蔦の這う格子の門を抜け、敷石のアプローチを小走りに進んでいく。周囲には夏期特有のむせ返るような熱気と、かぐわしさにもいささか過剰のきらいがある花香が満ちている。舞衣の胸元近くまで繁茂した花垣は迷路のように通路を囲っていた。文化財にまで指定される建物に加え、これほどの造園を維持、剪定する手間とはどれほどのものだろう。舞衣は反射的に勘定してしまう。悪癖だという自覚もあるにせよ、家計を預かる人間にとっての麻疹のようなものだ。
 玄関では美袋命が待っていた。てっきり以前のようにいるものと思っていた侍女、姫野二三の姿はない。命は張り詰めた舞衣の顔に萎縮したように、普段に比べるとずいぶん小さな声で話しかけてきた。

「舞衣。大丈夫か?」
「大丈夫よ。へいき、へっちゃら」舞衣は笑って見せた。「ありがとね、命。じゃ、行こうか。碧ちゃんはもういるんでしょ?」

 扉を開ける。適度な空調が館内を冷している。外界を焼く熱がすぐに遠い出来事になった。舞衣は大股で長く柔らかい廊下を歩いていく。ところどころに置かれたアンティークや壁にかかる額縁を、果たして見るものがこの広大な邸にどれだけいるのだろうかと彼女は思う。意味があるのか? これは僻みかもしれない。まず間違いがない。だが考えずにいられない。焦りと苛立ちを舞衣は自覚する。短慮を起こしかけている。このまま風花真白や杉浦碧に出会えば、必ずよからぬ失敗を犯すに違いない。
 舞衣は目的地である客間の前で足を止める。深呼吸する。長剣を担いだ命が戸惑うように舞衣を見上げていた。舞衣は荒々しく息をつく。

「そんなすぐに気持ちが切り替えられるかってえの」と笑う。
「舞衣は辛いのか」命がいった。「なつきは、きっと大丈夫だ」
「当たり前よ」

 応じて、ノックして、名乗ると、ノブを握った。
 重厚な扉を、蝶番を軋らせながら押し広げる。上辺から下辺まで三メートル近くある大きな窓から、風と陽射しが室内に注ぎ込まれている。揺らめくカーテンの影が躍るそばに、杉浦碧が立っていた。彼女から数メートル離れた位置に、車椅子に腰掛ける風花真白と、その傍に控える姫野二三が見える。
 ここまではいつもの配置だった。最後に真白とティーテーブルを挟んで対峙する女性の姿を認めて、舞衣は眉を集める。
 初めて目にする人物だった。どころか、日本人ですらない。舞衣の位置からは顔が見えないが、小さな頭から伸びて華奢な肩と背中を隠す長い金髪は明らかに自然の産物だ。アンティークドールのような真白の向こうを張っていささかも違和感を覚えさせない服装も、舞衣の感性に含まれないものだった。

「誰?」

 と舞衣は手を振って近づいてきた碧に訊ねる。碧は首を捻って「お客さんだってさ」と答えた。

「でもずっと英語で話してるから何言ってるんだかわかんないんだよねえ」と碧がいう。「いやあ、コプトエジプト語とラテン語ならわかるししゃべれるんだけど」
「そっちのほうがよっぽど凄いと思うけど……」舞衣は咳払いして話題を変えた。「それより、なつきのことは? そもそも他にお客さんいるのにあたしたちここにいていいのかな?」

「構いませんわ」

 と、いったのは碧ではなく、真白と対談中の女性だった。長い巻き髪を振り向きざまにかきあげながら、舞衣と碧へ蒼い双眸を寄越してくる。想像よりもずいぶん若い、清楚な面立ちであった。白色人種でも民族によって顔立ちは異なるが、あくまで知識でしか事実を捉えていない舞衣にとって、異国の女性に抱いた第一印象はとても単純なものである。
(なんかテニスやってそうだなぁ)
 巻き毛だけしか見ていなかった。
 舞衣の直截な感想など露知らず、女性は欧米人特有の大げさな身振りを交え、訴える。

「そこのあなたたちからもこのこども理事長を説得してくださいな。私はちょっと学園を見学させてくださいって言っているだけですのよ? なのにこの娘ったら、しのごの理由をつけて」
「あ、日本語うまい」碧が暢気に呟いた。
「ほんと。ぺらぺらじゃない」舞衣も同意する。
「でも礼儀はなってないぞ」よりによって命が突っ込んだ。
「いえ、……ですからあの、ミス・クローデル?」真白が弱った様子で女性を見上げた。「あなたのおっしゃるようなお知らせを当学園は受け取っていませんし、それは事務でも確認済みです。たってのお願いということで当家にお招きはしましたが、やはりアポイントもなしに部外者を学内で自由にさせることは致しかねます。その、『ガルデローベ』でしたか? そちらの機関に今ここで連絡が取れないのでしたら、一度お引取りいただいて、確認を取り次第正規の手続きを行ってください。わたしから申し上げられるのはそれだけです」
「まあ!」クローデルと呼ばれた女が、眼を吊り上げた。「戦地をまたにかけて女性の権利向上のため日夜奮闘する英雄的国際NGOの代表代理人であるこのロザリー・クローデルに対して、ずいぶんな言い草ではありませんか! だいたい何をそんなにナーヴァスになっているんですか。まさかテロリストに狙われているわけでもなし、こんなに可愛らしくて美しい私が講演をしたいといっているのですからさせてくれればいいのに!」
「えっ」真白が眼をまるくみはった。「あの、見学というお話では? というかその、今は夏期休暇の最中なので、部活動に参加している方々しか生徒もいらっしゃらないのですが……そもそも講演って、いったい何を」
「わかりました、わかりました。みなまでおっしゃらないで。そんなに言うのでしたらしょうがないわ!」

 ロザリー・クローデル女史が、うんざりしたように肩をすくめる。次に彼女がやおら椅子から立ち上がると真白はほっと一息をつきかけていた。だが舞衣はなにやらよからぬ胸騒ぎを感じている。

「潔白を証明します!」ロザリーが宣言した。「ごらんなさい! 私の何が危険だというのか!」

 そして脱いだ。
 萌葱色のワンピースを落とし、その下のドレスシャツのボタンを外し、あっという間に下着姿になり、惑う間もなく紐同然のブラジャーを投げ捨てる。
 すべてはリズム良く運ばれた。ロザリーの脱衣速度はためらいを微塵も感じさせない。ついに残る牙城は一見ショーツに見えなくもない布切れとハイソックス、ローファのみである。
 ほとんど全裸だった。

「はあー!?」そこでようやく、舞衣は我に返った。「なんで!? どの流れで!?」
「どうやらまだ満足していないようですね」

 ロザリーが頬を紅潮させつつ不適な顔で真白を挑発的に見つめた。実際のところ真白は、珍しいことに姫野二三も、あっけに取られているだけのように、舞衣には見える。ロザリーはお構いなしだった。

「相手にとって不足なし。ええ、安心なさい。靴下は脱がないから!」

「へっ、へんたいだー!」舞衣は驚倒した。
「そこの人、淑女とおっしゃって!」

 そしてロザリーは、一息にパンツも脱ぎ捨てたのだった。

「とくと見なさい。Il faut qu'une porte soit ouverte ou fermee――妥協を許さないその姿勢、少女としてまずは見事といいましょう。ですが何事にも寛容さは必要です。杓子定規なばかりでは大切なものを見失ってしまう……私は年長者として、あなたがそのような大人に育ってしまわないか、不安に思います」

 ロザリーがひとりで何かを言っていたが、他の誰もが固唾を呑んでいた。
 舞衣は言わずもがな、碧と命さえ絶句している。ロザリーは仁王立ちで腰に手を当てて、真白と二三へ明け透けに己のヌードを見せつけていた。要所を隠そうともしていない。後姿だけでも確かに同性さえ見惚れさせるような肢体だが、それとこれとは完全に別だと舞衣はぼうっと思考した。

 蝉がみんみん鳴いていた。窓から見る夏の日差しはきらめいていた。風に枝葉がさえずり、木漏れ日がつくる陰もつられて踊った。
 真白が紅茶を飲んだ。二三は微妙に腰を引かせていた。命は気まずげに長剣へ眼を落としている。碧は顔を引きつらせている。
 そして謎の外国人は靴下以外何も身につけていない。

(なに、この……なに?)

 舞衣はなつきの安否を気にかけつつ、この前衛的な空間をどうしたものかと、途方に暮れた。


   ※


「こんにちは。あなたが生徒会長の藤乃さんかしら?」

 昼下がりの風華学園生徒会室には主が不在だった。ロザリー・クローデルと名乗った金髪碧眼の女性は、にこやかに珠洲城遥へ握手を求めている。差し伸べられた右手を取りながら、遥は引きつった顔で訂正した。

「……いえ。藤乃は体調が優れず欠席しているため、本日は私が会長代理を務めさせていただきます。珠洲城と申します。お会いできて光栄ですわ、ミス・クローデル」
「あら、日本風でいいですわよ。気さくにクローデルさんでも、なんならロザリーさまでも」ロザリーは巻き髪を揺らして、小首を傾げる。「スズシロというと、ひょっとして珠洲城建設のご親戚でらっしゃいます?」
「父が代表取締役をしています」誇らしげに遥が答えた。

 こういった場面で、一切萎縮や謙遜をしない遥を、菊川雪之は純粋に尊敬する。高名な縁者を持つ人間であれば誰もが持たざるを得ない卑屈さから、珠洲城遥はもっとも縁遠い少女だ。学園の生徒は彼女を指してヒステリックと称するが、雪之からすればそれはとんでもない思い違いだった。遥はたんに近視眼的で頑固で融通が利かないだけである。

「そうなんですか?」ロザリーが顔を輝かせた。「実はかねてからこの国の慣習について不思議に思っていたことがありまして、ぜひお伺いしたいことがあるんです。よろしいかしら?」
「もちろん。遠慮なくなんっでも聞いてくださいまし!」豊かな胸を逸らして、遥が請け負った。
「日本の建設会社ってみんなマフィアなんでしょう?」

 ロザリーの質問は本当に遠慮がなかった。

「い、いえ」遥がこめかみを震わせて否定した。相手が客人でなかったら怒鳴り声か拳が飛んでいてもおかしくはないと、雪之は傍から分析する。「なんとか組とか、そういうきらいがないわけではないですし、よく勘違いされますし、まあ作業柄荒っぽい性格もあるかもしれませんが、必ずしもそういうわけじゃありませんよ? ね、ねえ雪之?」

 そこで振られても困ると如実に顔に出しつつも、雪之は苦笑いで頷いた。
 すると一転、関心をなくした様子でロザリーが肩をすくめる。その仕草を眼にした遥の怒張がさらに膨れ上がるが、雪之にできるのは珠洲城遥の自制心というインフレ下の紙幣にも等しい概念を信用することだけだった。

「それにしても、日本の夏って本当に暑いです」

 夏期休暇中の生徒会室では、空調は使用されていない。湿気を払う素振りのロザリー・クローデルは、とても外国人には見えなかった。
(そもそもこの人、なんなんだろう。NGOの人って言われても)
 ボランティアやなにがしかの保護団体とは、また趣が違う組織であるらしい。題目はフェミニズムに寄っているようだが、ロザリーには思想家特有の熱がない。
(というか、こんなきれいな人がそういう活動するってイメージわかないなぁ)
 雪之はモデルのような美貌に圧倒されながら、ひとりごちた。
 困惑交じりにロザリーの来訪と校内見学を伝えてきたのは理事長の風花真白である。日ごろは私立の理事長らしく表立つこともなく、学園の運営について滅多に口を挟んでこない少女が、珍しく用件を下達したかと思えば、正体不明の外国人を遣わしてきた。
 昨日まで藤乃静留、神崎黎人と連れ立って市外へ出ていた遥としては、連日の接待である。家柄ゆえか社交に慣れていないわけではない遥だが、喋りながら自分の言葉にストレスを感じるタイプであるから、生来の短気も手伝い歓待やもてなしといった行為には不向きであった。そしてその方面では高校生とは思えぬ無類の強さを発揮する会長と副会長の両人は、本日揃って欠席である。結果、心労はいつも通り雪之が一手に引き受けるはめになっている。

「えーそれでなんですか、うちの施設を使ってクローデルさんは講演がしたいと」

 一気にぞんざいな口調になった遥がロザリーへ水を向けた。こくこくと頷く異邦人の前で聞こえよがしにため息をついて、雪之をはらはらさせる。

「あのですねえ、本来でしたらそういったイベントというものはまず学園事務を通すかぁ、PTA、教育委、もしくは市、県などの推薦か斡旋を経て行われるものなんです。何の研究してんだか知らないけど本出してる学者だの、テレビで干されかけた芸能人だの、歴史小説書いてる小説家だの、檀家増やすのにも飽きてワイドショー出てみたりしたい坊主とかが、そうしてドサまわりして小金をせびっていくわけです。アダージオだかネオジオンだか知りませんけど、それをいきなりきて、が、ガガ、ガチロリデローベ……?」
「遥ちゃん、『NGO』と『ガルデローベ』だよ」雪之はいつもの訂正を入れて、何となく心の安息を得た。
「私はもちろんロリもいけます」ロザリーが不要かつ不穏なカミングアウトを果たした。
「――ともかくっ」遥が荒々しく咳払いした。「急な話ですし、理事長直々のご依頼でもありますから? とりあえず来週の登校日に機会をもうけますがっ、当方としては謝礼金といったものはそれほど出せませんし、宣伝もせいぜいHPや掲示板に張り出す程度になります。それでもよろしいかしら!?」
「もちろん、構いませんわ!」両手を打ち合わせ、感激した様子のロザリーが遥の手を取った。「ありがとうございます、おでこの人! 尊敬と親愛を込めてデボチンって呼んで差し上げます! ナイスデコ! でもそのアイシャドウ、紫はちょっとどうかしら」
「ゆきのーゆきのー、この人ぶっ飛ばしたら外交問題になったりするのかしらー」遥の声が上ずっていた。
「大丈夫だろうけど、……止めておいたほうがいいと思う」雪之は半歩引きながら提言するに留めた。

 日時と場所の都合がつくと、ロザリーとするべき話はほとんど残らなかった。遥も向学心より癇癪を刺激される客人とあっては、長々会話をする必要はないと判断した。雪之に目線で命じ、体よく校舎の案内を押し付けてくる。
 この結果を覚悟していた雪之は、不安を極力隠してロザリーに微笑みかけた。初対面どころか他人そのものと話すことが不得手な雪之だが、異国でひとりであるロザリーもまた心細いであろうという希望的観測がある。

「じゃ、じゃあよろしくお願いします。申し遅れましたが、わたしは書記の菊川雪之です。……あの、クローデルさんはどこか見たいところとか、あるでしょうか?」
「それがわかんないから案内するんでしょ。しっかりしなさいよ、雪之」遥が呆れた顔で半畳を入れた。
「あっ、ごめんなさい」早速の失敗に、雪之は目元に熱が灯るのを感じた。

 そのやり取りを眼にしたロザリー・クローデルは、薄っすらと微笑んだ。凄艶ささえ漂う目つきで、こぼすように呟いた。

「仲がいいんですね、ふたりは」

 何気ないその言葉に、理由もなく雪之は寒気を感じた。端麗だということ以外汲み取りようのない異人種の顔色は読み取れない。過剰な身振りを除けば、雪之にとってロザリーはやはり典型的な異邦人であった。なまじ言葉が流暢であるため、その懸絶が浮き彫りになっている。


   ※


「困ったね」と杉浦碧が呟いた。

 同調するかたちで、舞衣も頷いた。命を合わせた三人は、すでに必要な情報を得て風花邸を後にしていた。当面行くあてもなかったため、現在は碧第二の根城である社会科準備室に上がりこんでいる。
 夏休みの風華学園はひと気に乏しく、反面音に富んでいた。吹奏楽部が各所で鳴らす多様な楽器の音や、グラウンドで交わされるコーチや運動部員の怒声が天然のバックグラウンドを埋めている。総合体育大会真っ最中の季節ということもあり、全国圏の運動部も多い学内には不在の部活動もあったが、目に見える成果を残せず夏を迎えた部も少なくない。中学以来クラブ活動を経験していない舞衣としては、懐かしくもあり羨ましくもある雑音だった。
 だが、黙って耳を傾けるには、今の舞衣は忙しなさ過ぎる。腕を組み、唸り声をあげつつ、彼女は天井を見上げた。

「なつき、HiMEじゃなくなったのかあ」

 鼻息と共に漏れたのは、真白から得たばかりの情報だった。碧も苦笑して、紙コップに注がれた麦茶を飲み干した。

「寝耳に水だったけど」嘆息交じりに碧がいった。「よかった、って言うべきなのかな。幸いにして誰かが亡くなったってことでもないようだし」
「ううん、わかんないな」舞衣は自問するようにいった。「昨日高村先生と遊びに行くまでは、普通だったんだよ。そこで何があったのかはわからないし、実際なつきがいなくなったことには変わりない。安心はできないよ」
「そりゃま、そうか」

 真白から伝え聞いた玖我なつきの消息は、舞衣と碧が把握しているものと大差はなかった。かろうじて、失踪に至るまでの経緯の詳細が明らかになったことが収穫といえる。
 昨日、やはりなつきは高村と行動を共にしており、その姿は真白の消息筋でも確認されている。彼女らは昼過ぎに風華市を出て、フェリーで本土の港に降り、そこからバスで市街へ向かった。以後夜まで一度姿を見失い、なつきが一人で繁華街を歩いているところで結城奈緒が襲った。すんでのところで偶然近場に居合わせていた藤乃静留が合流しことなきをえたが、その時点でなつきはすでにHiMEの力を喪失していた。すぐに予約を取って生徒会とともにホテルへ宿泊する手はずを整えたのも静留である。
 だが、夜半、静留がほんの数分目を離すと、なつきは部屋から消えていた。現場には司直の手が入り、検証の結果はどういうルートでか真白のもとにも伝わった。『一番地』の影響力の賜物だろう。そしてなつきが力を失った事実を確認した彼らが下した結論は、ひどく舞衣たちを憤らせた。

『一番地は、玖我なつきさんの消息を放置することを決めました』と真白は語った。『組織、人員、時間のいずれをも、割いて向けるつもりはないということです。……つまり、探すのであれば、尋常の手段……橋向こうの警察の方々や、もしくは、貴女がたのような有志の力を用いるしかありません』

 苦々しさを込めて言うと、真白は頭を下げた。

『身勝手極まりない話であることは、重々承知しています。すべては、わたくしの力不足が原因です。……申し訳ありません。せめてわたくし個人だけでも、微力を尽くしてお手伝い差し上げようと思っています。そして、……心苦しいですが、この件に関して官憲が積極的に動く目算はあまりないのです。一番地……われわれの上部組織は県下一帯に影響力を持ち、国政にも発言力を持つとはいえ、やはり警察権力とは一線を画した非合法な存在です。とみに近年においては、水面下での衝突も少なくありません』

 日常的に接しすぎて忘れがちだが、少なくとも国内において、非日常の集積地点として有数なのが警察である。彼らが事件を扱う以上、一番地との角逐は避けられない。完全な地元であれば掌握できるイニシアティブも、外部では逆転することもある。
(理屈はわかるけどさあ)
 それはただの『常識的』な現象でしかなかった。だからこそ舞衣は苛立ちを堪えきれない。非常識どころか明らかな異常を押し付けてくる存在が、そんな当たり前の制約に縛られるというのだ。

「日ごろの行いが因果となって返ってきた、と。人類滅亡とかスケールの大きいこと言っておいて、ずいぶんとまあありきたりな足の引っ張りあいですこと」碧が皮肉を隠さず呟いた。「自業自得って笑ってやりたいところだけど、煽り食らってるのがうちらじゃあ、そうもいかないよねえ。……しっかし順当に考えて、やっぱり恭司くんが何かしたのかしら」
「なにかっていったって」舞衣は沈鬱に答えた。「なにかしたらHiME辞められるなら、あたしもあやかりたいもんだわ。それに高村先生も一緒にいなくなってるんでしょ?」
「それは、まあ、元々ふらっとどっか行くようなやつじゃん」

 舞衣は口をつぐむと、思考をめぐらせる碧を観察した。後ろ前にOAチェアに腰掛けて、背もたれに腕を載せる碧は、深刻さに欠けていた。少なくとも舞衣にはそう感ぜられた。なつきの安否に関して、彼女には舞衣にも明かせない何らかの担保があるのかもしれない。もしくは単に、HiMEではなくなったなつきが危険な目に遭うことはないと楽観視しているのかもしれない。いずれとも考えられたが、舞衣には違うように思えてならなかった。 
 高村恭司について、同じような隔意を、なつきからも感じたことがある。
 舞衣から見た青年教諭の印象は、弟を通した交流を経て贔屓目があるという点をのぞけば、出会った当初からほとんど変動していない。不真面目さと生真面目さが同居しており、奇矯な言動が目立ち、顔に見合わず妙に腕が立ち、そのせいか厄介ごとによく巻き込まれ、痛々しい怪我を負っている。なつきと張り合い、命をよく構って、碧に振り回され、弟やアリッサ・シアーズに懐かれている……。
(それだけの人、じゃ、ないよね。やっぱり)
 HiMEについて、舞衣よりよほど知悉しているとった疑念の断片を、なつきなどから漏れ聞くことがあった。一度などは命に積極的な能力の行使を求めてきた。疑心というほどではないが、総じて鑑みると、部外者というにはあまりに人間関係に偏りがある。なつきや碧が彼を気にかける理由は、舞衣が知らない彼の一面に由来しているに違いなかった。
 問えば、碧は答えるだろう。だが率先して告げない意味に考えが至ると、軽々に口にすべきではないとも舞衣は思う。確信に至っていないからこそ、碧は言葉を濁しているのだ。
 荒む空気の緩和を、舞衣は命に求めた。

「ミコト?……って、あんたさっきからどうしたのよ」

 ところが思惑に反して、命の立ち居は鋭い緊張を含んでいた。物怖じはせずとも警戒心が旺盛なため、元々真白に相対する際の命は攻撃的になる。だが風花邸を後にしてしばらく経つ今も、彼女は長剣ミロクの柄を抱いていた。窓際から校庭へ顔を向けたまま、塑像を思わせる半眼を維持して微動だにしない。声をかければ答えは返るが、明らかに意思はなく気はそぞろだった。
 二の句を次ぎかね、舞衣は口をつぐむ。目尻をわずかに歪めた命がふと言った。

「空気が変だ」
「なにそれ」苦笑を交えて碧が問う。
「舞衣、わからないか?」戸惑いがちに命が舞衣を見た。「ざわざわする。なんか、こう……とても、へんだ」
「そういわれても」

 碧と二人、舞衣は目線を交わした。命が余人に知れない何かを感得するのは珍しいことではない。たとえば道を歩いていれば、いつの間にかふらふらと炊事のにおいに誘われもする。単純に嗅覚が優れているというより、時機に対する直感が並外れて鋭いと評すほうが正しい。
 その命の野生が、警鐘を鳴らしている。逆説的に、言い知れぬ悪寒を舞衣は感じた。

「やめてよ。この上何があるって……」

 最後まで言い切れない内に、舞衣は絶句を強いられた。
 救急車の来訪を告げるサイレンが、休閑する学園に響き渡ったからだった。


   ※


 感覚の鈍磨が高村恭司の意識を茫洋とした区画へ導いていた。薄い膜のような麻痺が右半身を間断なく蓋っている。彼にとっては懐かしい感覚だった。ただ決して親しみを覚えることのない他者でもある。

 彼が重傷を負う契機となった事件がある。高村はその際に両親と恩師とその娘を同時に失った。肉体の完全性はいわばついでに損なわれたものだ。だが後々を生きていくのならば、それはあるいは前者よりも深刻な後遺症だった。
 肉体がもっとも活性する時期に与えられた障害を、安閑と受け入れる達観も器量も物分りのよさも、若い高村には備わっていなかった。だから九条むつみが示し、ジョセフ・グリーアがちらつかせた取引に飛びついた。ちょうどリハビリテーションの苦痛にもっとも打ちのめされていた時期だったことも手伝っている。その先に待ち受けていたのはさらに妥協のない甚大な苦痛だったが、ともかくも彼は目前の辛酸から顔を背けたかった。二度とまともに歩けず身寄りもない自己を直視するには、あまりに時間が足りていなかった。
 高村に話を持ちかけた人々は恐らく、彼のそんな弱さを見抜いていたのだろう。

 もたらされた結果がM.I.Y.Uユニットの敷設と、二度と得らるまいと尋常の医師に太鼓判を押された満足な五体の復活、そしてある面では以前の高村恭司では及びもつかない特性だった。

 もちろん、施術にリスクがないわけではなかった。まず一度ユニットをインプラントした場合、高村は以後二度とその恩恵なしには生きていけなくなることが説明された。並行して行われる脳手術の結果いかんでは、即日死亡する可能性も示唆された。術後一年は憲法が保障する基本的人権の範疇から外れる扱いを受けることにも、法的効果の怪しい幾枚もの書面で同意しなければいけなかった。何より、彼は厳密な意味では人間ではなくなることへの覚悟に備えねばならなかった。
 全ての条件を、高村は満たしたわけではない。恐らく彼に実感はなかった。突きつけられた言葉の内実をすべて理解する経験も余裕も、高村恭司には足りなかった。後に彼の脳を披いた人々もきっとそれを悟っていた。その上で利用したし、されたのだ。
 ユニットを生身の人間に移植する目的は、麻痺の治癒と神経系の制御、そして運動の遠隔操作である。それらは当該分野において長らく不可侵の領域であり、今後も解き明かされない難問のひとつとして人類に立ちはだかる壁の打破を、公然とする行いだった。
 そもそもM.I.Y.Uとは人工の知性、総体としての世界を再現するための装置である。深優・グリーアが戦闘兵器として目される最大要因である躯体性能など、ほんの瑣末事であった。莫大なコストを投じて人型の兵器をつくる理由が、財団にはない。ほかのあらゆる軍事機関でも同じ事だった。深優の製造に費やされた人材と技術と資金の全てを用いれば、戦術的には何倍も有意な兵器が生産できるからだ。
 当たり前の計算から逸脱したM.I.Y.Uには、だからチューリングテストでまかないきれない人の秘奥をも解き明かす、懸絶した技術の粋が用いられている。開発の代表的人物こそジョセフ・グリーアだが、つぎ込まれた人材と資産は決して個人の範疇に納まりきるものではない。

 純然たる希望と熱意が、渾然とした利権と妄執が、ユニットの開発には凝集されていた。それはとうてい一学生がたまさかに浴していい代物ではない。いわば人類の未来を担う宝物が、どこのものとも知れぬ東洋人の不具者に与えられる完全な善意を、さしもの当時の高村も信じたわけではなかった。九条むつみが私情を交えて高村を取り込みにかかったのと同じことが、グリーアと高村の間にも起きた。ただそれだけのことだ。
 つまり二人はごく私的な、そしてありふれた互酬の関係にあった。グリーアが高村に力と体を与える代わりに、高村もまたグリーアが欲する事物への用意がある。生体へのユニット移植は、プロジェクトとして秘されながらもシアーズ財団の内外から被験者の公募が行われた。数十項目に及ぶ守秘義務と違反した場合の罰則を承知で、なお数百数千のモニタが集った。椅子は限られていた。だが誰もが満足な体を欲していた。中には生来歩いたことさえない小児すらいたという。
 高村が、自分がグリーアに対して迷いもせず手を挙げた意味を知ったのは、結局すべての術式が終わってずいぶん経ってからのことだった。
 希望者の中から高村恭司が選ばれたのは、だから何の奇跡でも偶然でもない。グリーアに言わせれば、彼と高村がある少女の死と年月を経て再びこうしたかたちで再会した運命そのものが、『主の御心』なのだった。抽選の過程を飛び越え、たんにグリーアの失われた娘ともっとも親しかった青年だというだけで、高村恭司は慮外の権利を手に入れた。

「後ろめたいかね?」老神父は青年にいった。「だが幸運とはこんなものだ。不運も同じだ。人為がたずさわろうと、だからそれは人智の及ばぬ領域にあるのだよ。冒涜の汚名を恐れない不信心者だけがそこをのぞける。きみはまだそうではないね」

 神父の能力と人柄を信じる、全ての人間への、それは背徳に違いない。だが真っ向から罪を受け入れて、グリーアは全く揺るぎがない。彼が口にしたのは確かに平凡な事実だった。生きていけばどんな局面でも突き当たる論理でしかない。
 高村は納得しなかった。
 だが手に入れた結果を跳ね除ける勇気も、彼にはなかった。

「だがそれだけで君が選ばれたわけではない」と、グリーアが語ったこともある。「残念ながら、本当の意味では、人類が尽くせる手立てだけではまだまだM.I.Y.Uの想定性能には及ばない。足元にも、届いていないかもしれない。だから我々は、その丈を埋める手段を探した。求めた。答えは、わたしにとってだけ皮肉なことに、あんがい近い場所にあった。わかるかね? それはHiMEだよ、高村くん。高次物質化能力は、ユニットの構成に不可欠なものだった。むろん将来的には脱却しなければならない課題だろうが、今はともかく、使えるものならば使うつもりだ。そして君が選ばれた必然性もそこにある。わかるだろう? 君の中に根ざしているHiMEとの親和性が、君を今の状態へ導いたのだ。――なあ、これはただの幸運なのだよ。そう思ったほうがいい。いくらか負い目をきみが抱こうが、では、再びあの不満足な状態へ戻れるかね?」

 明らかな慰めを、高村は肯定も否定もしない。悩むことそれ自体を釈明に換えるほどの愚かさも持てなかった。ただ皮肉に思っていた。
 皆が運命を口にする。天河諭も、天河朔夜も、九条むつみも、ジョセフ・グリーアも、そして壊れた最初の深優・グリーアも。どうやら高村の身近にいた人々は運命論者で、世界と社会の骨子としての構造を信じていた。高村自身はその思想を拒みはしない。否むこともない。思想は人間があまた持つレンズの一つだ。過度な歪曲をもたらすものでなければ、誰もが多少の偏向を視野に施している。それは当然であって、ただ持つというだけで指をさされる類のものではない。
 だが、優花・グリーアが高村にそんな台詞を吐いたことはない。
 そして高村恭司の人生で、両親よりも天河諭よりも巨大な薫陶を受けたのが優花の存在だった。最至近の異性。そして兄妹であり姉弟のような他人。高村の心象にいる彼女は多義的で奥深く、永遠に汲みつくせない黄金の泉だ。優花はどこまでも人間を信じていた。少女期がもたらす傲慢さと紙一重でありながら、明らかに隔絶した高みに彼女はいた。高村恭司の優花・グリーアは実存のイデアだ。そして少しまぬけな幼馴染でもある。将来を問われればいつも傍らに置いてしまうような恋人が、優花だった。優花は高村の妹であり姉であり友であり敵であり師であり恋人であり、幼馴染だった。かといって尊崇しているわけではなかった。高村は優花の生々しさも不完全さも熟知していた。だからこそ触れ合えたし、万事に優れた彼女のそばに高村はいることができた。
 記憶に美化の傾向があるのは、高村自身も否定できない。今はもう永遠の面影になってしまった少女だ。一葉の肖像のなかで、優花はいつまでも変わらない。
 その生き写しが、あるいはデスマスクが、ユニットを限定停止させられ身動きの取れない高村の、目前にいる。視力によらずとも、独特の透明すぎる気配が、彼に彼女の存在を教えていた。

「深優か」

 声を虚ろに響かせながら、その名を呼んだ。牢獄を連想させる部屋に置かれたひとつきりの寝台に、高村は横たわっていた。彼の衣服は下着を残してすっかり脱がされている。あちこちに手術痕の目立つ上半身もあらわになっていた。その肉体の真上に位置する天井からは無影灯がぶら下げられており、壁面にはタイルが張られ、床は排水溝を中心に緩く傾斜のついた構造になっている。

 アリッサ・シアーズに拘束された後のことは、おおよそ覚えていた。四年前に手術を受けて以降、高村は強い薬に頼らなければ深い睡眠に陥れなくなった。不思議とそれで肉体や精神が衰弱するということはなかったが、おかげで気絶して肉体的な痛みから逃れるという真似もやりにくくなっていた。七月初旬の海岸で石上亘と真田紫子の襲撃を受けた際も、同じ要領で意識を取り戻して交渉したのである。
 翼のエレメントから打ち込まれた波状攻撃は、高村をもろともに彼がいた一帯を恐慌状態に陥れた。人、建物、オブジェ、全て万遍なく、アリッサは打ち砕いた。高村がグリーアの出した車に連れ込まれる頃には、周囲は無残な傷跡を残すばかりとなっていた。風華から出て前線に赴いた事も含めて、極力無関係な犠牲を避けていたアリッサとグリーアの方針には実にそぐわない行動である。
 だが厳然として起きたことだ。アリッサの変心の理由も、おおよそ察しがついている。グリーアが以前言ったとおり、紫子に喫した敗北が、純粋な少女の意識下に変調をもたらしたのだろう。攻撃性は恐怖の裏面である。もともと敵対者を屈服させるためには容赦しない傾向のあったアリッサは、より苛烈な手段を用いることにためらわなくなったということだ。
 目隠しをされ、手足を封じられ、さらにユニットまで制御権を奪われて、高村に残されたのは思惟だけだった。一度短いまどろみをおぼえ、覚醒し、眠気と空腹の状態から逆算して、すでに日付が変わってずいぶん経っていることは察せられる。また、昨夜あの場に深優・グリーアが不在であった意味も、薄々と理解できていた。
 仰向けのまま、高村は深優のいるであろう方向へ質問を投げた。

「君は九条さんを確保しに向かったのか」
「はい」

 久しぶりに聞く深優の肉声は、記憶のとおりだった。高低には差があるが、抵抗をすり抜けて高村を無警戒にさせる響きはそのままだ。

「深優なら上手くやったんだろうな」

 ため息混じりに、高村は不思議な信頼を寄せた声を発した。九条むつみと行動を共にしていたであろう人々の安否も、さほど心配していなかった。彼らの元がシアーズの所属なのであれば、深優やアリッサが無闇に傷つけるとは考えにくい。金銭的な懲罰もしくは司法によった処分はありえるが、暗黙裡に殺害するような行為はまずありえない。シアーズ財団はマフィアではないし、構成員も高村のようなちりあくたからは程遠い人物ばかりだ。思慮なく彼らを手にかける真似には害しかないはずである。数年をかけて元のイメージを矯正された高村だけに、その認識は確固としていた。
 だが、深優はあっさりとその思考を否んだ。

「いえ。九条博士は重傷を負い、背任を共謀した四人も死亡しました」
「……なぜ?」

 まったくの考慮外ではない。だが意外には違いない。高村は半身を起こそうとして失敗しながら、再び尋ねた。

「シアーズ本社の円卓会議において、財団ならびに現会長への不信任が採択されました。それにともない九条博士のバックアップに暗躍していたメンバーが更迭され、彼女の身柄と活動の痕跡を全て抹消し、シアーズ全体の方針としてこのプロジェクトから撤退する旨が決議されたのです。私が九条博士の身柄を確保したとき、すでに彼女以外のメンバーは遺体ごと処分された後でした。おそらく小隊規模のチームが動員されたものと思われます」

 深優の回答は簡潔だった。この上なく明快で、絶妙に言葉が足りない。要を得た深優の答えから、高村が事情を大まかに察するまでさほどの時間はかからなかった。

「つまり」まとまりを欠いた思考を束ねて、高村はいった。「俺は企業の事はよくわからないけど……、シアーズの、本社のほうでクーデターに近いことが起きた。その動きは九条さんのスポンサーを追い落とすもので、ついでにいえば財団のトップでもある現会長の失脚が決まったってことだから、……深優たちはもう、戦う理由がなくなったってことか?」
「そう認識していただいて構いません」といったあとで、深優が付け加えた。「もっとも、最後以外の話です。アリッサ様の父君は確かに本社の頂点から退かれましたが、直属の機関である財団に対する人事権は本社にもありません。また、父君が所有する持ち株や個人資産も、依然本社の幹部が無視できる規模ではありません。現状は膠着状態であると表現できるでしょう」
「まあ、そうだよな。いってみただけだ」高村はぼやいた。「結局、盤上から小粒なのが弾かれたってだけの話か。九条さんは流れに乗り遅れてその波に巻き込まれた。深優たちはたぶん、蚊帳の外にされてるくせにいつまでも現実を見ないわがままばかりほざいている俺への抑えとして九条さんを確保にかかって、その後だか前だか最中だかに、シアーズ本社の意向を受けた物騒な連中と揉めた。結果、九条さんは怪我を負った、と。ああ、ようやく頭が少し回るようになってきたよ。……重傷って言ってたけど、九条さんは無事なのか」
「右手の指を三本切断されました」深優があっさり答えた。
「……まさかとは思うけど、拷問か?」
「いえ、違います」高村に眼を剥く間も与えず、深優が続けてくる。「お父さまが止血はいたしましたが、処置が遅れたこともあり、予断は許さない状況です」
「グリーアさんが?」高村は顔を青ざめさせながら首を傾げた。「っと、そっか、そういえばあの人はもともと医者だったな。どっちかというと研究者だったらしいけど。……命に別状はない、と思っていいのかな?」
「断言はできません。しかし確率的にはそうお答えして差し支えないと考えます」

 ともあれ、高村は安堵した。吉報とはいいがたいが最悪の結果ではない。ちらと、昨夜の玖我なつきの顔が思い出されて、彼の胸が痛みを発した。同時に、去り際の背中が思い返される。
(結城は……大丈夫だろう)
 気鬱な疼痛が、抵抗をともなう沈思を阻害する。まとわりつく存念を振り切って、高村は話題を変えた。

「それで、財団の事情が変わったことは、君たちにどう影響しているんだ?」
「訂正させていただきます」深優が冷たくいった。「『われわれ』の内部には、未だ貴方も含まれていることをお忘れなきよう」
「もったいないお言葉です」高村は空とぼけた。
「まず、現状での指揮権はジョセフ・グリーア博士から後詰の『黄金艦隊』へ完全に移っています。九条博士の更迭に端を発した命令系統の空洞化をつかれるかたちで、彼らは我々の指揮下にあった人員と機材をほぼ完全に接収いたしました。よって計画の中枢近くには未だ踏みとどまりながら、お父さまとアリッサお嬢さまの立場はほぼ孤立したものとなっています」
「俺と深優は?」
「私と高村先生については、始めから備品扱いです」深優がいった。「状況は極めて繊細です。黄金艦隊の帰属そのものは財団にありますが、トップである極東支部の責任者はシアーズ本社からの出向であるため、後詰として差し向けられた財団の構成員とは緊張関係にあるものと判断できます」
「判断?」高村は深優の物言いに疑問を覚えた。「直接事情を確かめたわけじゃないのか。孤立しているっていってもそこまで村八分ではないだろうに」
「現在、われわれに指示を下しているのは、支部長の代理を名乗る人物です」深優は答えた。「ですが彼らは引き続き当初財団が推し進めていた計画を続行し、かつ実行を早めるよう要求しています。これは本社の意向と相反するものであり、また拡充された人員があくまで財団の方針に拘泥し本社との対立を辞さない構えならば、依然本社側からの掣肘が昨夜の暗殺任務に限ったものであることに疑問が生じます。大掛かりな人事の刷新が気配を見せない現状を鑑みて、おそらく現在進行形で水面下での政治的な取引が行われており、計画そのものが水際にある状態だと推察されますが、お父さまの現在の権限ではそれらのネゴシエーションに介入することも全容を知ることも不可能です」
「にもかかわらず相変わらずせっつかれているってことは」高村は深優が言及を避けた部分を衝いた。「決戦はもう避けられないってことか」
「はい」

 濁すこともなく、深優は肯定した。
 高村は無力だ。肉体を封じられて、アリッサと深優につかまった以上、グリーアはもう寛恕を見せない確信がある。彼が電話越しに伝えた台詞は寸毫の余地もなく本気だった。

「俺たちの動きをそっちに教えたのは石上亘だな?」残る気がかりはひとつだった。「彼は何の目的で動いている? どうして俺をかくまい、一番地に背いてごたついているシアーズに協力した? 単にその動きを察知してなかった親シアーズ派だったなんてオチじゃないことを祈ってる」
「彼が我々に明かした意思、見返りに求めた協力はひとつです。真偽の判断はしかねますが」
「構わない」高村は促した。

 深優はわずかの遅滞も見せずに語った。

「学園占拠の手引き、人員配置の隠蔽」と彼女はいった。「そしてその際に彼が行う、一番地首魁、〝黒曜の君〟の暗殺への協力」

 高村は、ぽかんと口を開けた。
 石上の叛意を嗅ぎ取っていた。破滅的な予感も同様にあった。
 だが、そのためにここまで手段を選ばない選択を取ることは、考慮していなかった。
 素人目に見てさえ、あまりにも勝算が低い。無差別なテロリズムに比肩するほど無謀かつ、周囲に被害を撒き散らす行動である。

「本気か」かすれた声をあげ、高村は身じろぎする。痺れた体に活をいれ、どうにか起き上がろうとした。
「お嬢様の進退は瀬戸際に追われています」深優は頓着せず続けた。「他に選択肢がない以上、彼の手引きを利用し、六日後、アリッサお嬢さまと私は、黄金艦隊のバックアップを受けて風華学園を占拠。のち生徒を人質に取り、殺害も辞さず、残るすべてのワルキューレに対して決戦を要求します」
「負けるぞ」高村は、あがきながら、簡単な予測を披露した。「まだ全員の身元も割れてない。生徒を見捨てる思い切りと不意打ちを決める肝が相手にあっただけで、無抵抗の一撃を受ける羽目になる。最悪、複数から。それに、一手も間違えなくたって人が死ぬぞ。大勢、怪我をさせるぞ。アリッサちゃんをそんな眼にあわせるのか? そんなものを見せるのか?」
「私がお嬢さまを守ります」
「何から」
「無論、全ての敵から」
「その敵の顔も、わかってないんじゃないか!」高村は思うまま激した。無責任な言葉を吐き散らかした。「それが黄金時代とやらの礎だっていうのか? 忘れてないよな。アリッサちゃんは死に掛けただろう? 怖がっていただろう。助けてって言ってたよな。……学校の占拠なんて、後々どう立ち回るつもりだ? それに運良く生き延びて、万が一残りのワルキューレを全部倒せたとしてだ、そのあと君らがどうなるかなんて分かりきってるだろう? 面倒だから体よく死ねって言われてるんじゃないか。なんでわかっててわからないふりをするんだよ。深優、君がアリッサちゃんを守るなら、まずそいつらからだろ。あの子を死なせるかもしれないものを放置して、何を守ってるっていうんだよ……」

 言葉を募らせるほど――
 高村の喉元に、空々しさが積み上がった。語尾は尻すぼみに融けていく。口先ばかりの台詞の全てを、一句も余さず深優は記録したに違いない。羞恥とやるせなさが、高村からそれ以上の追求を奪った。

「そうだとしても」

 怖気をふるうほど怜悧な声に重なって、軋む寝台が悲鳴を上げた。
 高村以外の重みが、一畳に満たない手狭な台座に加わった。
 深優・グリーアが、両手諸膝をついて、間近から高村を見返していた。
 赤い瞳に揺れはない。波立たず、静かで、人工的だ。

「逃げたあなたが、私に言える言葉ではない」

 高村は緘黙した。
 これ以上ない正論の槍が衝き込まれた痛みもある。
 だが、最大の要因は別にあった。
 おとがいをそらし、青白い深優の首から鎖骨をたどり、胸部へ視線を滑らせていく。視界に納まった深優の全容に、高村は息と唾液を飲み込んだ。

「深優」
「はい」

 眩むほどに肌は白く、傷も染みも見当たらない。太腿に接した肌の触感は、陶磁といえば陳腐だが、深優に対する形容としては皮肉なほどふさわしい。
 彼女の滑らかすぎるテクスチャの正体は不明だった。ただわかるのは、深優の体には当然ながら産毛すら一本も生えていないことだ。オリジナルの少女も白子であり、全体的に透明な印象を見るものに与えたが、深優のそれはまたニュアンスが違っていた。だが柔かみも、気のせいか温かみも、人工の質感は備えている。整いすぎた造型が人間性を減じており、それはかえって高村に倒錯した刺激を与えた。覆いかぶさる姿勢から重力に従って垂れる乳房の慎ましやかなふくらみを、高村から遮るのは薄く白く味気ない綿の下着一枚である。腰骨と骨盤のラインをあからさまにした深優の下半身がまとうのも、やはりただ一切れのショーツだった。
 深優は無臭だった。彼女の皮膚は擬似的な代謝をも可能にするが、人間の生理とは意味合いが違う。だが必要ならば呼吸さえ再現してのける躯体には発声器官はもとより内臓まで搭載されている。深優・グリーアは、生物と無機物の中間にいた。アンドロイドというよりはホムンクルスという形容が近いのかもしれない。
 高村の視線と赤い目が絡み合う。
 両者は言葉も持たず、吐息のかかる距離で停止した。
 異様に乾き始めた喉に唾を送るべく四苦八苦して、高村は引きつる舌をもどかしく回す。

「どうして、そんな格好なんだ」
「お父さまからの言伝です」と深優はいった。「『約束を果たしてもらう』といえば、意図は伝わると」

 瞬時に事情を了解した高村はうめきを漏らした。


   ※


 ぬるい水を頭から浴びせられて、玖我なつきは半端なまどろみから復帰した。前髪を経由した水流は頬をつたい、うなじを這い、鎖骨をたどって、丸一日着たきりの衣服を湿らせる。

「……」

 身じろぎを試みて、それを封じる幾重もの拘束を意識した。鉄骨が突き出した床に張り付いた目線を、胡乱にさまよわせる。身体をきつく束縛するのは、結城奈緒が擁する蜘蛛のチャイルドによる糸だった。硬質の粘性を具した感触はなつきの頚椎にまで及び、一端は天井にまで伸びて、なつきが爪先立ちになってようやく床に届く状態で固定されていた。完全に体重を預ければ、即座に頚部が圧迫され、おちおち意識を切ることもできない。
 既に十時間以上を、なつきは同じ体勢で過ごしている。
 それを強いた結城奈緒はというと、身動きできないなつきを過剰にいたぶるでもなく、どころか今となってはほとんど話しかけてくることさえなかった。空のペットボトルを片手に、半眼で濡れ鼠のなつきを見やって、鼻を鳴らす。

「オハヨウ」

 なつきは返答しなかった。
 奈緒がしたたかになつきの頬を張った。
 素手による一撃は鋭く、痺れと痛みは確かになつきの感覚を刺激した。だがそれだけだった。なつきは首を傾げたような姿勢で、腕を振り切った姿勢の奈緒を見返した。奈緒が忌々しげに舌打ちした。

「アンタ、もう壊れちゃったわけ? それとも、……ああ、まあいいわ。どうでも。なんか飽きたわ、もう」

 それきり、ブルーシートの敷かれた床に腰を落とし、奈緒は手中で携帯電話をもてあそび始めた。施工途中の天蓋を抜けて、ほこりを切り取る光線が差していた。茫洋と舞う粒子に指を伸ばしつつ、奈緒は物思いにでもふける様子だった。まさか殊勝な動機のはずもないが、奈緒もまたなつきと同じように一睡もせず夜を越えている。にも関わらず眠たげな素振りは皆無だった。何か、内圧が高まっていく機関を連想させるたたずまいのまま、結城奈緒は玖我なつきを黙殺し続けている。
 昨夜の様相との落差はなつきを戸惑わせたが、他の全てと同様に、それ以上の何かを感じさせるものではなかった。無気力と倦怠感だけがなつきの心の水位を占めている。岩礁のようにささくれ立つ心地が全ての思考を引き裂いて、聡明な知性は見る影もない。
 時おり、呼吸さえ忘れた。
 息を詰め、気がつくと、九条むつみと名乗った女のことばかりを考えている。
(たかが、考え違い程度のことで……子供だったのは、わたしも同じか)
 唇をゆがめるだけのことに、途方もない労力を要した。そうまでしたところで甲斐はなかった。痛みのない自嘲があることを、なつきは知った。この疲労感が単純に母親に対する失望によるものだけであるとは、自意識が認めてはくれない。そんなときに縋るのは、高村恭司がなつきに告げた一番地による暗示だった。
(そうだ……この気持ちも、痛みも、吐気も……全部だ。本来は、わたしのものじゃない……きっと……高村の言ったことは正しかった。わたしが弱いんじゃない)
 客観的に見て、なつきが打ちひしがれることなど起きていないはずだった。誰もが自身の状況と理と利に沿って判断し、選択し、行動しただけのことだ。結果として、思い込みの激しい少女が一人、数年の徒労に気づかされた。
 それだけのことだ。
 それだけのことに、なつきは意味もわからないほど傷ついていた。奈緒を目の前にして、外聞もなく涙さえ流した。嗚咽だけはこらえたが、隠しきれたはずもない。

 藤乃静留の部屋をチャイルドで強襲し、なつきをさらったのは奈緒である。彼女はそのまま海路で風華に帰還し、月杜町の一角にある建設途中のビルのフロアを占拠して一夜を過ごした。
 奈緒は折々で、携帯電話を手にどこかに連絡しようとする素振りを見せては、それを思いとどまっていた。
 鬱屈が、なつきから一次的に食欲を奪っていた。そのために空腹で時間は計れないが、体内時計はすでに中天を過ぎたことを教えている。
 更に一時間以上、なつきは奈緒と沈黙を共有した。
 不意に、なつきを見ないまま、奈緒がいった。

「そのまま、服でも脱がせて、そのへんの男どもにレイプさせようかなって思ってた」
「…………」

 唐突にされた物騒極まりない告白に、なつきはこれまでとは別の意味で言葉を失った。憔悴に陰った瞳を見開きながら、ようようもつれる舌で言葉を紡ぐ。

「……言っておくが、そんなことをされるくらいなら、舌を噛んで死ぬからな」
「そうね」奈緒が頬杖をついて、なつきに流し目を送った。「今のあんたにそんな度胸があるかはさておき、考えてみたら別に、それってあたし自身はあんまり面白くないじゃない? 気持ち悪いから見る気もしないし。だからやめたわ」
「それは、助かる、が」はらわたから搾り出すように、なつきは囁いた。「そんなに気持ち悪いのに、……おまえ自身は、どうして体を売るんだ」
「はあ? ばかじゃん?」そこで初めて、奈緒がまともになつきへ顔を向けた。「演技じゃなけりゃ男なんかに指一本触らせるかっつーの。ましてや、抱かれるなんて絶対にありえない。それこそ死んだほうがまし」
「……そう、か。悪かったな」深く、なつきはため息をついた。

 奈緒は一瞬だけ眉をひそめた。口をつきかけた台詞を飲み込むような仕草を見せた。最終的に、彼女の顔にはいつもの露悪的な笑みが浮かんだ。細められた双眸がなつきを刺した。

「だからって、安心されてももっと白けるのよね」奈緒は芝居がかった手振りを加えていった。「そこで考えたのよ。あんたはもうHiMEじゃない。でもHiMEのオトモダチがいっぱいいるじゃない? だからさ、せっかくだから――」
「エサになれ、と?」
「……察しがいいじゃない」
「ああ、すまない。悪気はないんだ」なつきは無表情のまま、ぼそぼそと弁解した。「陳腐すぎて、反射的に先取りしてしまっただけだ……よければ、続けてくれ」

 頬を引きつらせて、奈緒がシートを蹴飛ばした。

「……あんたってやっぱ、ほんっと、……むかつくわ。調子出てきたわけ?」
「お互い様だ」

 手も足も出ないまま、なつきは笑おうとした。ほんのかすかでも、それが出来たのなら、動き出せる気がした。
 だが実際には、こぼれたのは笑みではなくまたも涙だった。奈緒が、げ、と身を引いた。途方に暮れて居るのはなつきも同じだった。
 母を失って以来、誰にも、父や親友の藤乃静留にさえ、玖我なつきは涙を見せたことなどなかった。慟哭の代わりに、暴力に身を染めた。唇を噛んだ。拳をつくった。知性を働かせた。それらはすべて鎧だった。
 いま、外殻は砂になって崩れ、散って消えた。弱虫だった玖我夏姫が、久し振りに帰ってきたのかもしれない。なつきは涙を流し、鼻水を垂らし、唸るように声を漏らした。身をよじり、歯噛みして首を振った。
 滲んで揺れる世界で、奈緒がしかめ面のまま立ち尽くしている。
 彼女もまた泣きたそうに見えたのは、壊れたなつきの錯覚に決まっていた。
 

 


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