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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
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[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
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[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
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[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第三部三節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:a8580609 前を表示する / 次を表示する
Date: 2008/11/15 07:16





 記憶も記録もくしけずられる。さほどの時間を遡らなくとも、今となっては当人以外の誰もが忘却した日々があった。十年以上むかし、青年は少年だった。彼は神童であり、地縁で結びついた偏狭な共同体で、長らく誕生を待たれた出色の寵児と目された。実際に彼がそれほどの傑物だったのかどうかは、当時それほど問題ではなかった。時宜というものがあったのである。暗がりの木陰にたたずむ闇がしばしば妖しく映るように、彼という少年は誰もが望んだ塑像に押し込まれた。何しろ期待があった。待望の三百年紀だった。そこで選ばれた血筋から彼はすんなり現れ出でた。
 誰もが確信したのだ。
 彼は〝黒曜の君〟であると。
 物心を得て頭角を現し始めると、彼は元いた家から養子に出された。代々の長を襲名するその家に入ることこそ誉れであり、彼がゆくゆくは〝黒曜の君〟と成りうる証左だ。親類縁者はこぞって彼に高度な教育をほどこした。いと高き人がそうであるように、少年は私的な全てを抹消された。元の家族、元の記録、元の好悪、元の関係。いずれもただの思い出となった。やがて思い出ですらなくなった。記憶は削除されたのだ。
 〝黒曜の君〟とは神の名代だった。その階梯をのぼらされる少年は、だから全能へ至るために万能であらねばならない。世界が丸ごと様変わりするほどの積年、その妄執を彼はその身ひとつで受け止めた。つまり――
 少年は万能の人間を目指された。
 求められたのは全てだ。あらゆる人間的な瑕疵は否定された。個性というものが欠落で、人格がその集合体であるならば、人間とはくまなく凹凸に飾られた球体である。それがない人間とは、真球の存在に他ならない。完全で巨大な球体が少年の目指すべき地点だった。もちろん全員が狂っていた。完璧とは幻想上の産物でしかない。重力と大気に満ちた地上でいっさい歪みのない球形を目指すならば、現実を拒む以外に処方はなかった。大前提に狂気があったのだ。だから全員躊躇なく狂った。少年も満遍なく狂った。
 そして失敗した。
 当然の帰結である。少年は空手徒歩で現実の最果てから狂気の海へ飛び込んだ。圧力は彼をあっさり潰した。原型が失われるほど拉げてしまった彼を見て、周囲の人間は失望と困惑を浮かべながらも、自分らの過ちをようやく、薄々と、認めた。誰も少年を責めはしなかった。少年は何しろ〝黒曜の君〟となるべき人材である。その不興を買うわけにはいかない。
 以来少年は、最低限欠くべからざる義務だけを履行すればよいだけとなった。すでに飽和し心を砕かれていた彼は、日がな与えられるだけの存在と成り果てた。かつてあったかも知れない野心、復讐心、向上心、それら一切はばらばらに砕かれて、かろうじて在りし日の面影を残す残骸がこころにまばらに落ちている。彼はそれを見つめる日々を送った。
 やがて肉が与えられた。
 高次物質存在と呼ばれるものの血肉である。
 〝黒曜の君〟は、それを啖べなくてはならない。黄泉戸喫と呼ばれる儀式であり、生得の舞巫女ではない男児が〝黒曜の君〟となるには、必ずせねばならぬ通過儀礼であった。なぜならば彼らの長は人ではない。むしろ神に近い。人の身で神となるからには、血も肉も心も魂も刷新されねばならない。それによって強い力と強烈な呪力を、人は得ることができる。捕食とはもっとも単純な存在の強化法である。単純で、そして根本的なのだ。人より上たらんと欲するのであれば、人以上の存在を食わねばならない。王化の法から逃れでて、少年もまた化外の住人となることを要求された。
 換骨し、奪胎するにひとしい外法である。当然のように行為には苦しみがつきまとう。もっとも、死ぬものはいない。それが原因で不具となるようなこともない。直接精神を害されるわけでもない。
 ただし、永遠に消えない痛みを孕む。
 眠りも安らぎも、彼からそれを取り除くことはできない。それは不意にやってくる。骨身が腐り、爪が剥がれ、筋が分解され、歯神経が酸にひたる。その種の痛みが場所と時を問わず宿主を冒しつづける。耐えることは難しくない。ただし、途方もない時間を耐え続けなくてはならない。そして肉は常に喫し続けていかなくては意味が失せる。
 千年も前から、代々の長はその地獄を越えてきた。一番地と呼称される集団の長、三人の老婆が齢二百を越えてなお健在であるのも、血肉を喫したためである。
 当然、〝黒曜の君〟はこの責め苦に耐える。やすやすと乗り越える。痛みを感じるとも決して漏出させず、王者の振る舞いで臣下を睥睨する。そうでなくてはならない。少年がこの期待に応えることを、やはり、誰もが疑わなかった。残骸を見つめていた少年もまた、その気になった。

 そして、やはり、駄目だった。

 少年は失敗した。
 不要と断ぜられた。
 烙印を押されたのだ。
 少年は養子に出された家を、放逐された。元の家には戻されなかった。どことも知れない平凡な家柄に堕した。衆愚に伍するを良しとせず、などという観念さえ持ち得なかった彼は、ただひたすら、流されるままだった。拗ねることも嫉むこともなかった。選民的な思想など彼には育つ余地もなかった。彼は常に一人だったからだ。優越感など持っていなかった。唯一の座標だけが提示され続け、彼は漠然とそれが決して届かぬ極みであることを悟りつつ、鈍く歩みを進めていたからだ。
 それも全て徒労に変わった。いや、最初から徒労でしかなかったし、少年も実はそれを理解していた。ただ、思ったよりもずいぶんと早い結末に、拍子抜けした気分があった。
 いったいだれが、と彼は呆然と考え続けていた。

 あんなものに耐えられるっていうんだ?
 カミサマになるって、なんだ?
 それは人がすることか?
 していいことなのか?
 するべきことなのか?
 どんな人間が、あんな、矛盾した思想の刷り込みに応え切れるというんだ?

 そんなものはいるはずがない、と彼は結論付けた。
 挫折は始めから運命付けられていた。王座は空位でありつづける。長い、本当に永い不遇と圧迫が、一番地の思想を偏向し、変質させてしまったのだ。
 集団の大望はヒステリー化してありもしない偶像をつくりあげた。彼らは永遠に、決して現れない救世主を待ち続けるのだ。少年の域からは脱しつつあった彼は、むしろ哀れみに近い感興を抱いた。それがたとえ自分の心を守るための心理であったとしても、胸中にはかすかな、しかし確かな未練があったとしても、そう感じたのは事実だった。

「永遠にそこで待てばいい。朽ちてしまうまで」彼は言葉を捨てた。「あなたがたが思う聖者など永遠に現れないんだ。それは芸術の極点にひとしい存在なんだ。かつての〝君〟だとて、それほどのものであったはずがない。なぜなら、結局何度の蝕を越えても世界は存続しているからだ。連続性を保っているからだ。この不完全な世界を、神が本当に全能なら許容するか? そんな神は、誤謬を認めない不完全者でしかない。巨大な力を持っただけの人間でしかない。八百万もいるうちの一柱でしかない。あなたがたも本当は気づいているはずだろう! 失われたミロクが真実万能の神器だとしたのならば、そもそも失われるはずなどなかったのだと! 弥勒は利器に過ぎず、黒曜は星を模した石でしかない。……どうして気づかないんだ。僕だからだめじゃなかったんだ。僕たちは最初から間違えていたんだ! 僕は……もう止める。言われるまでもなく降りてやる。僕は絵を描く。この不完全な世界で美しいものを探す。それを描くんだ。どうだ、あなたたちには、こんな真似はできないだろう! 僕は絵を描くんだ。ほんとうにきれいなものを、描き出してやるんだ! ……あなたがたは、そこで待っていればいい。ゴドーはいつまでもやって来ない。さようなら。腐ってしまえ」


  ※


 だが、〝黒曜の君〟は、現れた。
 誰もが望んだかたちで。
 彼がかつてそうあろうとしたかたちで。

「しょうがないことなんですよ」〝黒曜の君〟は彼に向かって言った。「あなたはただ劣っていただけだ。世界は劣勢を咎めない。ただ淘汰するだけだ。そこは居心地がいいでしょう? 低く暗く湿っていて心地よいでしょう? 天蓋からのぞける濁った陽射しの温かみに落ち着いてしまうのでしょう? ならばあなたは自分の居場所とやらを見つけたんでしょうね。うらやましいことです。正直、僕はこの玉座さえ、物足りなく思えるのだから」

 裂いたイーゼルが目前にあった。少年と言うのも差し支えるほど幼い主君を前にして、彼は呟いた。

「いま、あなたは、僕を討つべきだ」
「へえ?」
「でなければ、いずれ僕はおまえを否定しに行くだろうから」
「ああ、それはいいな。楽しみにしていますよ」〝黒曜の君〟は美しく笑う。絵に留めたいほどに綺麗に。「世界は簡単すぎる。僕は敵がほしい。だからあなたは悪意を撒いてください。毒を盛ってください。それでも駄目なら剣を向けてください」
「大物ぶるなよ、ガキが」いつしか、彼の心には感情が生じていた。純粋ではなく、空虚でもない。卑近で醜い、劣情と呼ぶべき焔が燃えていた。「簡単だって? 君がこの世の何を知っているっていうんだ。君はただ優秀なだけだ。本当にただ、それだけだ。哀れだよ。心から哀れだ」
「僕も同感ですよ。僕は本当に優秀すぎます。それに確かに、とてもかわいそうなんだ。わかってるじゃないですか。だから同情してくださいよ、そうやって妬まれるのでもなんでもいいんですよ。僕はあなたにちっとも関心はないけれど、そんなあなたも、僕を無視することができないわけだ。これは、すごく、いい気分だなあ」〝黒曜の君〟はいった。「だいたい、僕が大きく見えるなら、それは僕が装ってるからじゃない。あなたが小さすぎるだけですよ。――凪、彼には手を出すなよ。好きにさせておけばいい」
「はいはい、了解マスター」どこからともなく声がした。「物好きだねえ。陰湿ー」
「後悔させてやるぞ」

 内にこもるような宣告だった。
 事実それは、彼自身に向いた台詞でもあった。

「……後悔させてやる! 人は、そんなものには、なれないんだよ!」
「生まれつきそうだっただけですよ」

 それほど昔のことではない。

「このくらいで、言いたいことは全部ですか? なんだ、案外とつまらなかったな。あなた結局、芸術だなんて言って、のめりこむこともできてないじゃないですか」

 ただし、もう彼以外、誰も覚えていない。
 そんなことが、あった。




 2.レティセント(沈黙)




『石上が高村に接触しました』
「そう、あの子が来たの。……なるほどね」雑音を交えて少女の声を伝えるスピーカを受けて、九条むつみは口元のマイクへ短く返す。「では状況を始めます。結城さんのほうはどう?」
『そちらには真田紫子がいるそうです。対象は病院施設内を遊歩しています。会話の内容からして、真田は結城の勧誘の任を負っているようです。確保しますか』
「放置でいいわ。あの子じゃどうせ何も知らないでしょうし、無駄に損害を受けて終わりだろうから」潔癖の同僚であった少女の顔を思い浮かべながら、むつみは即答した。「当面そちらは監視だけを続行しなさい。顕著な戦闘行為、ないしその前兆があると判断した場合のみ指揮所に回して。もし結城さんが恭順の素振りを見せても、強いて奪回や説得の必要を本部は認めていません。これは戦闘の帰趨についても同様よ。彼女の進退そのものに、我々は無関係でいること。いいかしら?」
『了解』

 返答に頷きながらも、むつみはひっきりなしに手を動かしている。彼女は三方をモニタとインタフェースに囲われた、二畳半ほどの個室にいた。左側面には高村恭司と石上亘の密会を望遠で捉えたリアルタイムの画像が映し出されている。同様にして正面には倉内和也の遺体が鳥瞰されており、右面は九千キロ離れた北アメリカ西海岸部に属する都市の映像を中継していた。

「高村くんのほうは、記録できている?」
『画像は御覧のとおりです。音声は、かろうじて』
「繋げられる?」
『少々お待ちください。……どうぞ。回線はE2です』

 一時会話を切断し、むつみが耳を澄ますと同時に、安くない集音機が捉えた音の洪水がスピーカから流れ出した。といっても情報の大半は雨音に塗りつぶされている。記録はしているので後でノイズをキャンセルすれば問題なく内容は把握できるとはいえ、いまはむつみの好奇心が勝った。意識して聴覚をそばだてる。高村には発信機と盗聴機が外科的に埋設されているため、一方の声だけならばクリアに拾って補正することはできた。

『気づ……ですか』雑音を縫って、石上の声がする。教会でも幾度か聞いた、穏和で耳心地の良い低音だった。
『実のところ、割と早い内に気づいてましたよ』と高村。『第一の証人は楯です。あいつ実はその月杜の人斬りだか辻斬りだか言う失笑ものの怪人の被害に遭ってるんですよ、一度。つまり実際の犯人を見たことがあるわけで、それは一年前の話だったそうですが、まあ要するに身体的特徴が記憶と合致しなかったというわけです』
『……れだけ……か?』
『それはどちらかというと傍証のひとつですね。というか、これだけじゃ辻斬りとかいう気狂いが複数人いるってことしかわからないですよ。むしろ他の身長とか体重とか、俺が打った腹をかばう動きとか知り合いが患部の熱探知やったとか、あの日足取りのつかめなかった風華学園関係者だとか、そういう枝葉末節の集合が大きいかな。でも一番の決め手は普通に物的証拠、指紋です』
『指紋?』雨脚が弱まったのか、トーンが上がったのか、石上のその台詞だけが鮮明に浮いた。
『指紋』と高村は答えた。『つまんない種明かしで悪いですけどね、あのときあんた美袋の剣を振ったでしょう。さすがに指先を覆ってあの剣豪っぷりは無理でしたか、やっぱり。でまあ、今日び指紋取るくらい小学生でもできますからね。問題はその同定だけなんですけど、まさか警察に持っていくわけにもいかないし、と思ったら、偶然! 俺の生徒に目視で指紋の確認ができるという稀有な特技を持っているやつがいました。あ、すごい怪訝な顔していますが本当ですよ。プライヴァシーを考慮して実名を伏せてM・Gとしますけど、いやまあご存知の通り深優・グリーアなんですけど、こいつにお願いしたら3秒で先生の名前を挙げてくれました』

「また深優にそういう変なスペックの無駄遣いを……」一応末端ながら開発に携わった研究者として、むつみの口から慨嘆が漏れた。「先月、高村君が刺されたときの話か……。それにしても、彼が通り魔、のニセモノとはまた、……くだらなくなってきたわね」

 呟いて、雨中の会話から興味を失った。回線を戻して哨戒に当たっている少女へ話しかける。

「状況はどう? 相変わらず実働の規模は小さいままかしら」
『肯定です。とはいえ周辺警戒に当たっているチームは錬度が高いように見えます。また、指揮車に類する拠点が発見できません。石上本人が使った足はただの乗用車のようですが』
「そう、なら確定ね。今回の件に一番地本隊は関与していないみたい」むつみはうっすらと微笑んだ。「『会談』の運びがどうあれ、石上亘の切れるカードの底が見えたわ。とりあえず現状は映像と音声の収集に専念してください。素材が集まり次第編集して、いつでも切れるようにしておいて。二日前の襲撃の件と合わせてね」
『了解。……石上との交渉には用いないのですか?』
「それはむしろあちらが望んでいることでしょう。実際、あのタイミングなら深優はともかくアリッサをそのまま逃がしたのは不自然だわ。まあ、あちらはあちらでどれくらいコンセンサスが取れてるかわからないから予断は禁物だけれど、その件で高村くんに対して一つ貸しをつくったと考えれば、この周りをはばかる接触の目的も見えてくる。叛意……とまでは行かないかもしれないけど、シアーズに独自のパイプを通しておきたいのかもしれない。今となってはかなり了見違いだけど、それを正してあげる義理はないしね。向こうの要求があったとして、せいぜい悪化しつつある高村くんの身柄の擁護と引き換えに、頭越しにわたしへの交渉材料を呈示するていどでしょう。それならば、こちらも応じる用意がないわけじゃない。遠慮なく利用させてもらいましょう」
『であれば、高村が口外する危険性は検討しなくてよいのでしょうか』
「大丈夫よ。彼にはわたしたちのバックについてはほとんど何も教えていないし、気づいているとすればせいぜいわたしが組織だって動いているってことくらいかしら。教えたところで余計な気を回させるだけだし、それなら自由にさせておいたほうがいいわ」
『では、石上がそのことに感づいた場合、面倒なことになります』
「さあ、どうかしら。高村くんもそこまで間が抜けているとは思いたくないけど……、どう転ぶにせよ、もうちょっと強かに立ち回ってもらわなくちゃね。それにどうも彼、石上先生は、独断で動いている公算が高いわ。シスター紫子……ワルキューレを独自に囲っているようだしね。それは一番地のシステム運営に反した行いなの。非合理ではあるけれど、あそこはそういうことを大事にする場所なのよ。だから彼個人との交渉には価値はほとんどないわ。とにかく一番地本部につなぎを取れれば構わない。さて、高村くんのほうは膠着しているようだから、その間に続きを進めましょう。あの調子なら穏便に進むでしょうし」

 言って、むつみは和也の遺体に医学と科学と形而上の三面でアプローチを試みているチームに指示を下した。昨夜強奪した現状唯一の停止した『媒体』への実験は、夜通しで行われている。現在のところ、蘇生治療、投薬、高次物質による干渉などあらゆる手段を用いての試みはことごとく失敗に終わっていた。倉内和也の心臓は停止しており、脳波も同様にフラットな線を引き続けている。

「高次物質化エーテルの投入でも反応はなし。生物的には完全に死亡か」

 汚物を吐き出すような心地でむつみはひとりごちる。頭痛と疲労と不快感は際限知らずに彼女を責めさいなんでいたが、何一つ行為を止めるつもりはなかった。必要な以上彼女はやる。幸い倫理観を無視することにも、その揺り返しに苦しむことにも、彼女は慣れていた。好奇心を充たす高揚と罪悪感による希死念慮は、むつみにとってもはや十年以上付き合った隣人である。
 そして現実としてわたしは今も生きている、と彼女は思う。ならばこの後悔は結局免罪符でありその辛酸を余さず味わう義務が自分にはある。そう硬く信仰している。

「問題は、彼が『いつ死んだか』」疑問すると同時に思考は数十の回答を提示している。指先はほぼ自動的に駆動し、ディスプレイに十行ほどの結論をタイプした。

 ワルキューレとチャイルドの存在にも増して非合理なのが媒介の存在である。現状システムを円滑に進める人質以外の何物でもない彼らが、強制的に儀式へ組み込まれている状態にはいくつかの不自然さが見受けられる。
 つまり、思想が近代的過ぎる。
 神話の御世から続く慣習にしては、あまりにセンチメンタルだった。
 人質という概念自体は旧態依然としたものだ。だがその取捨選択が現代性を帯びている。かつて、むつみを始めとしたシアーズ財団に籍を置く技術者たちは、こぞってその矛盾を指摘した。そうすることがHiMEの力を強固にする、とむつみと同じように一番地から引き抜かれた、ある男は言った。だがむつみも在外の人々も、そんな弁には到底納得し得なかった。『想いの強弱』という測定のしようもない方法で『唯一の人間』を選択するのは誰なのか? 宿主の識閾下が行うのならば、その決定のタイミングが問題となる。チャイルドを従えた瞬間なのか、あるいは、産まれたときから、ワルキューレは最愛の人間を呪いながら生きているのか。むつみの考えではこれは否だった。
 単に因子を持つ候補者だけならば、シアーズが把握しているだけで千は下らないほどにいる。実際にチャイルドと契約する少女とそれ以外の候補者たちには、厳然たる差異がある。
 現時点で、本当の意味でチャイルドを失い想い人を失ったワルキューレは日暮あかねただ一人である。倉内和也の身柄だけはすんでで押さえたものの、むつみの陣容ではあかね本人には手の出しようがない。それ以前に恋人を失い喪神した少女を前に自分がどの程度科学者でいられるかの見当も、彼女にはつかなかった。

「歳ね」

 意識的に軽飄にうそぶいてみる。ところがそれは逆効果で、思考と身体に募る疲労はその自覚がまったく正当なものであると訴えていた。集中力が切れた瞬間にせき止めていた様々なものが溢れ、深く腰掛けた椅子と体幹と内臓が混ざり合うような錯覚を起こした。視力もかなり落ちている。

「高村くんの用件が済んだら、さすがに仮眠しないとね。ほんと、いやだわ、時間って」

 誰にとも向けていない発話が増えたのも、端的な睡眠不足の症状だった。いまベッドとアルコールを与えられたら、そのまま二度と立ち上がれなくなる自信がある。別室で待機する部下にコーヒーを頼もうとしたところで、ホットラインの一つに着信があった。

『九条!』
「やおら人の名前を呼びつけなんて、あなたらしくもないわね」疲れを微塵もにじませぬよう腐心して、むつみはいった。「まあ、それを言うならあなたがわたしに直接連絡を取るというのもたいがいだけれど」
『無駄話をする気はない。今どこにいる?』硬質な声は、明快に相手の状況を教えていた。
「ずいぶんせっかちじゃない。余裕ぶった話し方を貫くのが趣味なのかと思っていたのに」
『今、どこにいるんだ』焦燥に怒気が混じって、むつみの耳朶を打った。
「答えるわけがないでしょう。自分で把握すればいいのよ」むつみは幼子に言い聞かせるようにいった。「シアーズ極東方面管理責任者さん」
『その名はもう形骸だ』不意に、糸が切れるように男の声色から角が落ちた。『二人めのアリッサ・シアーズを名乗る娘が来日しているのは知っているな。昨夜零時付けで、そいつが今後プロジェクトを仕切るとさ。何の冗談か知らんが会長はあの人形に本気でご執心らしい。悪夢を通り越して喜劇だよこれは。どうせ君が一枚噛んでいるんだろう?』
「そこはイエスでもありノーでもあるわね。でもそれならべつにあなたが更迭されるってわけでもないでしょう。追われる身としてはその点だけでもうらやましいわ」

 むつみは内心驚嘆していた。予期していた一手ではあるが、投入の時期が一ヶ月以上早い。通話を続けつつ、手振りで部下を呼びつけると、この誤算が及ぼすスケジュールの組み換えを目まぐるしく計算し始めた。

『馬鹿にしているのか。私への処置も事実上の軟禁だ。信頼できる部下は全て遠ざけられた。身動きなど一切取れん。この連絡も、最初で最後になるだろう。今は機械人形が身を固めている。おまけに――おまけにだ、九条! あの娘がこの国に何を持ち込もうとしているか、知っているか?』
「私兵でしょ」
『軍隊だ! 艦船を領海に招くんだとさ! 大真面目にだぞ?』男は乾いた笑声を弾けさせた。『教えてくれよ九条。会長は狂ったのか? 日本人のガキどもがふけってる戦争のごっこ遊びに本腰をいれようとしているらしい。あの老人の頭からは政治も経済も吹っ飛んでしまったのか?』
「さあ」むつみは冷然と告げた。「あなたも知っての通り、わたしは今や反会長派の走狗です。殿上人の思惑だなんて、とてもとても」
『では君は何を知ってる?』
「あなたはわたしのことが嫌いだと思ってたけど」
『嫌いに決まっている。君がそうであるように私は君が嫌いだ。WASPだなんだと脳が硬質化したような意味で言っているのではない。本当の意味で君を慕う者などシアーズにはいないよ。我々は矜持と研鑽と能力を持って、それぞれの務めをまっとうせんと励んでいる。銀の匙をくわえて産まれたものもいるさ。逆に泥水を啜って生きてきたやつもいる。きれいごとも汚いものも含めて、皆、手ごわいコンペティターだったさ。だが君はどうだ? 君が何をした? 研究者ふぜいが、妙なオカルト技術を引っさげて、鳴り物入りでデビューだ。おまけに会長に遺伝子を提供したと思ったらとんとん拍子に出世だ。領分を侵し、政治に顔を突っ込み、知らん顔で私の視界に入ってきた東洋人の女。これで好けというほうが無理だ。おまけに若作りで美人というのが気に入らない!』
「……ああごめんなさい、ちょっと耳を離してたわ。もう一回いってくれる?」
『そういうところが嫌いだと言ったんだ!』
「というかあなた、もしかしてわたしを口説こうとして失敗したことを根に持っていたの? ちなみにわたしは、別にこれといった理由とかはなくて、ただ顔とか声とか思考回路が生理的に受け付けないからなんだけど」
『地獄に落ちろ』
「そのうちね」むつみは軽やかに応じた。「で、用件は恨み言で終わりかしら。もうこうして話すこともないでしょうね。最近じゃいちばんのニュースだわ」

 会話を断とうとしたすんでで、制止がかかった。

『待て。私もそちらに噛ませろ。幹部会は何を考えている? クーデターか?』
「そんなのどうあれ、わたしから話せるわけがないでしょうに」冴え渡っていたかつての同僚を思って、むつみは本心から落胆の息をついた。
『私もなりふり構っていられないんだ。なあ九条、財団はこのプロジェクトをどうしたいと思っているんだ。確かにAエネルギーの獲得は魅力的だ。が、その割に周辺の動きが胡散臭すぎる。OPECやスリーメジャーズもだんまりだ。なのに諜報機関の動きが異様に活発化している。それもフウカではなく、トウキョウでだ。まあ、そもそも高次物質のエネルギー転用には私も懐疑的だったが……、なあ、君は何を知って動いているというんだ。私を脅迫し、さんざんいいように使ったのだから、その恩を返してもいいんじゃないか』
「さっきみたいにわたしのことを認識していて、弱みを握らせるほうが馬鹿よ。はっきり言って」むつみはいった。「あなたも本当は察しているんじゃないかしら。薄々わかっているはずよ。今わたしたちを取り巻いているものは、状況自体が関連の許諾を選定するたぐいの非常識なの。それがわかっているから、会長もあの子を寄越したんでしょう」
『またオカルトか? そういうはもうたくさんだ、私は……』

 心底から弱りきった素振りは、おかしくもあった。ただむつみとしては、愉快さと憐憫が半々というところだ。利用したこともされたこともある。どうあっても好意的には転化できない関係が、二人の間柄だった。

「そうこだわらず、〝二人目の〟アリッサにつけばいいだけではなくて?」
『それは無理だ』男はきっぱり言った。『私にはあの娘は理解できない。理解できないものには尽くせない。そもそもあれは私を必要としていない。むしろ、君にいたく感心があるようだ』
「……そう」

 複雑な心境は、声にも及んだ。男は耳ざとくそれを聞き取ったようだが、指摘はしなかった。本当にもう余裕がないのだろう。改めて疲れを持て余しながら、むつみはようやく変化が起きはじめた右側のモニタを注視した。日本からは十六時間の時差があるその街は、現在未明だった。きのうときょうの境界にあって、大都市の燐光は炯々として目映い。
 その俯瞰からの光景に散在する光が、一瞬、蛍火のように揺れた。

「ねえ、あなたそういえば、出身はシスコだったかしら。そうなら89年のロマプリータ地震は経験した?」
『いきなりなんだ。もちろんしたよ。あれは酷いものだった。娘が産まれたばかりで……、ちょうど今の季節だったな。幸い、身内に被害は出なかったが、友人の家族が不幸に遭った。あのときはこの世が終わったのかと思ったよ。こちらに来たら地震にも慣れてしまったが……、それがどうかしたか』
「いま、ご家族はまだあの街に?」
『いや、一家そろって日本にいる。家族は一緒にいるべきだろう』

 耳が痛いな、と思いつつも、「ならよかったわね」とむつみは言った。『なにがだ』と男が問い返してくる。

「いま、サンフランシスコが、崩れたわよ」とむつみは言った。


   ※


 石上との対話は、近ごろの高村としては珍しく大方穏便に終わった。食事でも、という厚顔な誘いは流石に断って、高村は奈緒の姿を探すべく病院へ足を戻した。
 黄昏と驟雨にけぶって、車窓越しにそびえる病院のシルエットは墓碑を思わせる相を呈している。ビニル傘に猫背を押し込めて歩く高村は、想像よりもあっさりと奈緒を発見した。不機嫌そうな、もの問いたげな顔か、あるいはそれなりの確率で絶縁状を突きつけられるかと思いきや、少女はごく淡白な反応しか見せなかった。ちらと眠たげな半眼を高村に向けると、彼の手から柄をひったくり、さっさと歩き出す。無言の反抗といった風情でもなく、まったくいつも通りの結城奈緒だった。

「シスター、来なかったか?」何となく釈然としないものを感じて、高村はつい自分から話題を切り出した。

 奈緒はやはり沈黙を通した。ただ傘がくるりと回って、高村の後背を漠然と示した。
 そこに、真田紫子がいた。私服のせいでふだんは目立たない女性的な曲線がはっきり見えて、高村には彼女がまったく別の人間のように見えた。といって何か彼女にかける言葉があるわけでもない。高村は無難に会釈をして、自らもきびすを返しかけた。

「高村先生」
「はい」

 唐突に紫子からかかった声だったが、高村はさほど動揺もせず足を止めた。そういうこともあるだろうと思っていた。紫子は、怯みと剄さが混じった瞳を、高村に正面から突きつけてきた。
 高村には、紫子がどの程度石上の意図を受けているのかは判じかねた。ただその視線から、何らかの隔意があることは容易に読み取れる。深優、アリッサを交えた遭遇と先ほどの石上との会話から、彼女がどういった能力を有しているかの推察はおおよそついていた。そしてその場合、一般的な人間が彼に対して抱く心象と言うのは、想像に難くない。

「あなたが何を考えているか、わたしは知っています」かすかに震える声で、紫子が言った。「わたしは、あなたを、最低だと思います」
「そうですか」とくに意表をつかれることもなかったので、高村はただ頷いた。「それじゃあ失礼します。石上先生によろしく言っておいてください」
「え?」

 きょとんと、可愛らしく目を丸くする紫子の顔を観察したい誘惑を振り切って、高村は歩みを止めない奈緒の背中を大またで追った。紫子に対する、じゃっかんの後ろめたさが彼にはあった。
(同じだな。俺と結城と、石上とシスター)
 立場も事情も違っても、構図は相似を描いている。そうと意識しながら、紫子の糾弾に些細だろうと抗弁する気にはなれない。同じようにして、石上へも紫子の件についての詳しい追求は避けていた。
 コンパスの違いで、先行する奈緒へ追いつくのは簡単だった。いつも不機嫌そうな少女なので、その心中がどうであるかを推し量るのは、高村には荷が勝ちすぎている。とりあえず歩きながら買っておいた缶コーヒーを目前に提示すると、奈緒は目線で開封を命じてきた。高村は素直にプルタブをあけて奈緒に手渡した。
 奈緒は迷わず缶を逆さに返すと、その中身を歩きながら全てばら撒いた。琥珀色の液体が濡れたアスファルトに短い線分を刻んだ。高村は苦々しく顔を歪めた。

「本当に可愛げがないな、君は」
「アンタの出した飲み物は、金輪際飲む気がしない」
「すいませんでした」半分以上自業自得だったので、高村はせめてもと罪のない飲料の冥福を祈った。「ところで、突然だけどなんとか風華に帰れる目途が立ちそうだぞ」
「……」奈緒が不意に足を止めた。「ていうか、今の今まで帰れないことになってたわけ?」
「結城はどうか微妙だけど、俺はそうだった。厳密に言うと帰らないほうが面倒が少ないことには変わりないんだけど、土地に足を踏み入れた瞬間どうこう、という可能性は減った、と思う。石上先生との口約束だから信憑性はまだ微妙だけども」
「石上……センセイ?」
「そうだ。結城も知ってるだろう。美術の石上先生。あの人と紳士協定というか、取引をした結果、ある程度一番地から俺への追求の手は緩みそうなことになった」
「ああ」ふと、奈緒が目を細めた。「そういえばあのシスター、美術の石上とデキてるとかいう話があったっけ。マジだったんだ?……はん、結局そういう繋がりなわけか。なに寝言いってんのかと思ったら……、純真無垢ってツラしてけっこうあのシスターもヤることヤってんじゃん?」
「シスターの口説き文句はお気に召さなかったわけか」
「別に。存在自体ウザいだけ。アンタと同じにね」
「俺と同格って、またずいぶん凋落してるなシスター」
「……」奈緒がなんとも言いがたい顔になった。「そういう、まあ、……そういうわけ」

 奈緒の険相の理由が自分ではなく紫子にあると見て、高村はいぶかった。奈緒の高村に対する心象は底を打っているという自覚が彼にはある。その嫌悪感を措いてまで紫子に毒づくというのが意外だった。もっとも、二人の相性が良いようにも思えない。奈緒の敵意は常時全方位的に発散されており、高村の知る限り例外は美袋命か瀬能あおいの二人きりだ。
 ほどなく乗用車にたどりつき、シートに腰を降ろし、エンジンを回して病院を後にするまで、高村と奈緒の間に会話は一切なかった。もっとも奈緒を相手にした関係性の構築や間を持たせる努力の放棄を宣言した以上、断絶に近い没交渉は高村にとりいっそ気楽に感ぜられた。ハンドルを握りながら思弁に没頭すると、ラジオが緊急ニュースを報じ、アメリカ西海岸で最大マグニチュード8.3の大地震が発生したことを告げた。
 高村は無言でパワーウインドウを下げた。ぬるい風に打たれながら、思い出したように奈緒にいった。

「腹へった。なにか食いたいものあるか?」
「カニ」後部座席の対角線で窓と睨めっこしていた奈緒は寸分の迷いもなくいった。
「ああ、カニいいなあ」高村も異論はなかった。「でも殻剥くのめんどうじゃないか? あれ」
「きまってんじゃん」奈緒が鼻で笑った。「アンタはカラを剥く係、あたしは中身を食べる係」
「指でもしゃぶってろビッチ」
「あァ!?」

 夏の夜はいつも通りに更けていく。


   ※


「だーめだ、やっぱ恭司くん繋がんないや」

 携帯電話を放り投げて、杉浦碧が投げ槍にぼやいた。チューブトップにホットパンツの装いで、無防備にベッドへ寝転がっている。現在彼女らが集っている部屋に男性はいないとはいえ、玖我なつきにとって碧の粗暴さはやや目に余った。
 生徒会執行部の慰安旅行に便乗する形で碧がHiME関係者を巻き込んだイベントは、折りよく晴天に恵まれた。ただしやはり、高村恭司と結城奈緒の姿はなかった。高村からは早い段階で不参加の旨を伝えるメールが届いたというが、以来直接の連絡は途絶えているらしい。すでに一日目の泳ぎは終えて日も暮れかけ、珠洲城家提供のコテージには、厄介な問題を共有する面子が集まっていた。
 主催の杉浦碧、鴇羽舞衣、美袋命、そして押し切られる形で参加したなつき。ここに奈緒と既に『脱落』した日暮あかねを含めた六名が、現状で彼女たちが把握しているHiMEの総数だった。現状維持という面で碧の提案した不戦協定は悪くない対処ではあったが、参加者が母数の三分の一では心もとないというのが、なつきの見解だった。

「そうでもないよ」皮肉に傾いたなつきの意見を、碧が否定した。「うーん、言い方は悪いけど、このメンバーでも抑止力としては充分だと思う。なにより、なつきちゃんの存在が大きいわ。たぶん、HiMEの中でも君はかなり事情通なんでしょ?」
「それは言い切れない。わたしもすべてを把握しているわけじゃないからな。現に結局、今、この状況に至ることをどうにもできなかったわけだ」
「ま、そういうジギャクはあとあと」勢いをつけて立ち上がると、碧がウインクした。「ここらで事情の整理といきまっしょう。まずうちらが置かれてる状況の再確認から。おーけ?」
「構わない」
「お願いします」舞衣も真剣な面持ちで、固唾を呑んだ。

 ただし命は寝ていた。
 一瞬白けた気配を発しながらも、碧は咳払いして、なつきと舞衣に視線を戻した。そして始めからそのつもりだったのだろう、旅行鞄から小ぶりのホワイトボードを水性マジックを持ち出すと。いくつかの文言を箇条書きにした。

「まず、これが基本構造よね」

『A.我々はHiMEである
  a.HiMEとは呼称であり高次物質化と呼ばれる超能力の名称でもある
  b.HiMEは複数存在し全て少女である
  c.HiMEはチャイルドを従える
 B.HiMEはオーファンと敵対する
  d.オーファンはHiME以外による打倒が困難である(暫定)
 C.ある勢力XにとりHiMEは戦うべき存在である(暫定)
 D.HiMEがチャイルドを失った場合媒介として人命が失われる(暫定)
 E.世界は滅びに瀕している(暫定)
  e.HiMEが互いに争い勝者を規定することにより世界は救われる(暫定)
  f.HiMEが戦わない場合世界は滅ぶ(暫定)
  g.勝ち抜き最後に残ったHiMEは世界を手にする権利を得る(暫定)』

 項目を頭から終わりまで二三度見返すとペンを置き、碧は注目を促すように手を打った。

「ハイ、まずラージエーからラージイーまでが、現状を貫通する主幹、主軸になります。これはなるべく客体に近い、余分なものを漉した観点に立脚させてみた。この内AからCまでは、一昨日までのあたしたちにとってもある程度まで合意の取れていた共有知だよね。んでDとEが新たに判明した事実で、この確認は取れていないながら、あっさり無視するわけにもいかない厄介なものとなっているわけだ。そしてスモールエーからスモールジーまでの項目は、主軸にまつわる枝葉。枝葉つっても情報構造として見た場合の話で、あたしら当人にとってはやっぱり厄介ごとには変わりない。――それじゃあご意見ご要望をどしどし応募しまーす」
 
 理不尽なほど達筆な文章を見て、なつきは手を挙げた。

「はい! なつきちゃんどーぞ!」
「……少女?」
「やだーもうなつきちゃんったらナルシィ!」碧が『少女』の前に『美』を付け足した。「これで文句はあるまい!」
「いちいち突っ込まないぞ」なつきは白眼をつくり、「勢力Xというのは、つまり一番地ということか?」
「名称はしんない。それもなつきちゃんから聞いただけだしね。実態も話だけじゃピンと来ないし。でも、とりあえず何らかのバックグラウンドがこの仕組みに存在するのは当確路線。てことで、エックスです。それに、これはカンだけど、そのコミックバンチさんだけとも限らない」

 なつきは一寸感心した。鋭いところを衝いている。恐らく高村の行動から類推したのだろう。

「はい……」舞衣がおずおずと挙手した。「その、かっこのなか、なんて読むの? ごめん、無知で」
「ざんてい」碧が答えた。「まだ未検証だけど、とりあえずこうだ、とあたしたちに示されていること、だね。真実か事実かは、やっぱりわかんない。世界滅ぶとかスンゲーうそくさいし……、ま、普通は信じないでしょ」
「でも、昨夜」
「はいストップ」碧が舞衣の意見を遮った。「気持ちはわかる。でもそれは保留にしよう。余計なものはしょいこまないほうがいい。そもそもだよ、『世界が滅ぶ』と言われたって、それがどんなかたちで訪れるのかあたしらには明示されていない。それが自然現象として起こるかもわからない」
「そ、そっか。そうだよね。偶然だよね。きっと」舞衣が半分以上納得していない口ぶりで言った。「でもホント、いきなり世界が滅ぶとか言われても困るよ。映画とかでさ、隕石が落ちてくるとかあったけど、ああいう感じなのかな」
「媛星が落ちてくる、という可能性はわたしも検討した」なつきも口を挟んだ。「眉唾だが、真白の話ではあれは知性を有した存在全ての陰、シャドウらしい。つまり原理的にはわたしたちのチャイルドと同じ説明になる。それが正しければ、チャイルドやオーファンの規模を単純に数千、あるいは数万数億倍に拡大したものと考えてよいだろう。縮尺については、天体望遠鏡などを通した場合姿を見失うため、目測で同時期に同程度の光量と大きさを持つ他天体からの距離を比較して、大雑把な直径を計算したことがある。去年の話だしそもそもあれは恒星じゃなくて隕石に近い上、あの現象を光と見なしていいのかもわからんが、だいたい百キロ前後だ。いま引き合いにだしたが、これが隕石と同じ勢いで地球に落下し、激突時に物質化するような仕掛けだった場合――」

 舞衣が固唾を呑み、碧がにこにこしながらホワイトボードに落書した。

『地球\(^0^)/終わった』

「……」舞衣は黙り込んだ。
「……おまえな」なつきは呆れていた。

 碧が戸惑った。

「え、笑おうよ。シリアスやめようよ……。場を和ませようって努力してんのに……」
「が、媛星の接近速度は非常に緩やかだ。またあの大質量が単純に落下するだけの物体だとすれば、そもそもHiMEやらなにやらの介在する余地があるとも思えない。どう手を講じようと地球はとっくにダイエットに成功して、月以外の衛星がとっくに生まれていただろう」
「じゃあ、とりあえず落ちてぶつかる心配はしなくていいってこと?」
「たぶんな」なつきは舞衣に向かって頷いた。「かといって、安心していいかどうかはわからない。実在する存在ならば、今言った通り何もわたしたちが何かをする必要なんてないわけだからな。政府なりなんなりが必死で策を講じるだろうし、その成否に限らずわたしたちに許されるのは祈ることくらいになる。他人に命運を託すという点では意見がわかれるかもしれないが、本音を言えばこのほうが面倒はない」
「同感。ま、そりゃそうよ」
「しかし、結局のところ、より大きな組織なり国家なりが現状どう動いているかは、当然わたしたちでは把握できない。極端な話、我々が共通した幻覚を見ている可能性も捨てきれないわけだが、そうするとチャイルドやオーファンに伴う物理現象の説明がつかなくなる。この説はオミットだな。同じように現象の根源を媛星を求める論拠も稀薄だが、この手の疑念を突き詰めても不毛なだけだ。やはりペンディングする。
 さて、今組織と言ったが、単純に問題に対抗し、解決しようとする場合、もっとも効率的なのが専門家、ないし機関に頼ることだ。餅は餅屋、飴は飴屋というわけだな。そして大雑把に説明してしまうと、一番地こそがそれにあたる、とわたしは考えている。というのも、あの組織はもともとHiMEの力を研究していたからだ。いや、三百年周期で媛星の危機が訪れると言うのを真に受けるならば、いま取り上げた『機関』そのものが、一番地に当たるのだろう。実際、媛星、HiME、オーファン、チャイルド、その媒介――いずれもやつらにとっては既知であり、われわれHiMEはやつらによってこの風華の土地に集められた。わたしがこの問題についておまえたちよりいくらか情報を得ているのも、一番地を探っていく上で知った副産物という面が大きい」
「要するに、ほんとうなら真っ先に頼れる専門家の人たちが、あたしたちに、その、……戦えって。そう、言ってるってこと?」舞衣が考えをまとめるように、核心を口にした。
「違う」なつきは首を振った。「心得違いをするなよ? わたしたちには演繹的にその解決策が処方されたわけじゃない。連中は頭からわたしたちに戦うよう言ってきたんだ。それも、ある程度わたしたちに交わりが生じてからだ」
「腑に落ちないのはそこなんだよねー」碧がいった。「本当に国難っつうなら、あたしたちはもっと以前から、問題に対してずっと自覚的であるべきなんだ。心構えのあるとなしとじゃ大違いだし、それこそ三百年前ならともかく、人権どーのと叫ばれて久しい昨今、てめーらいいからしのごのいわずにバトれや的なことを頭ごなしに言われるっていうのが……ピンと来ない。なのにあたしたちはほとんど事情も知らないまま事態の真ん中に押し込められている。そうこうする内に、あかねちゃんが、不幸な目にあっている。それがイレギュラーだったにしても、どうせどこかのタイミングで同じようなことが、誰かに起きていたと思う。このやり口はうまくないよ。情報を意地悪して伏せとくメリットが見当たらない。実際こうしてあたしたちは誘導に反発してるわけだし」
「あ、いっこいいかな」頭をひねりながら、舞衣が問うた。「玖我さんがその一番地に詳しいのは、そいつらをやっつけたい、からだよね」
「そうだ」なつきは頷いた。「もっと言えば、わたしは幼い頃、一番地に関わっていた。HiMEの力も研究されていたんだ。本当の最初に能力が目覚めたのも、そこでの実験が元だった」
「あ、ごめん……」

 舞衣が言葉に詰まる一方で、碧がさらに疑問を深めた。

「て、ことはだよ。あたしたちを争わせたい人たちは、やっぱりあたしたちに余計な知恵をつけてほしくはないってことだ。だって、具体的に何がいつどうなるのかはわからないけど、この期に及ぶまでHiMEがどこの誰か全然わからなかった、それが最近になってようやく判明したって線は、今のなつきちゃんの体験談で消えたわけだからね。……うん。どうなるにせよ、ちょっと希望が見えてきたかもしれんねこりゃ」
「え、なんで」舞衣が訊ねた。
「わたしたちの知識を限定しているということは、この『ゲーム』の主催側に、知られては困る事実がある可能性を示唆しているからだ」なつきが答えた。「どう扱うにせよ躍らせるならそのほうが都合がいいからな。まあ、へたに知ると余計身動きが取れなくなる可能性もあるが」
「それは確かにある」碧があっけらかんと同意した。「混同しがちだけど、『媛星が落ちてくる』ことと『HiMEが争う』ことに直接の因果関係はないからね。あくまで前者を防ぐ手立てとして後者を促進しようとしている層がいる、ってことを頭にいれておかなければならない」
「てことは」舞衣が結論を取りまとめた。「あたしたちがすべきことっていうのは、こうよね。まず、HiME同士で戦わない。かといって、その、一番地をただどうにかすればいい、ってわけでもない。戦わずに媛星が落ちてくるってピンチを、どうにかしなくちゃいけない。オッケー?」
「おっけー」碧が親指を立てた。
「あくまで媛星が落ちてくる、という前提に立った場合だがな」なつきも条件付きで支持した。碧が方針をボードに書き込む様を尻目しつつ、「もったいぶってもしょうがない。わたしが知っていて、かつ個人的でない事柄を、この際開示してしまおうと思う。
 まず、HiMEの総数だ。確定した情報ではないが、これは十二人であると、以前凪が口を滑らせたのを聞いたことがある。実際は多少前後することもあるようだが、ひとまずこれを念頭に置いて、わたしは動いていた。具体的にはHiMEが集まるのを妨害していた……さっき言ったように、これは徒労に終わったがな。……判明しているHiMEは、さっき確認した通り、わたし、鴇羽、碧、そこでずっと寝てるバカ、結城奈緒、そして仄聞だが日暮あかねの六名だ。つまり残り最低六人のHiMEが存在することになる」
「あ、あとさ」と、右手でペンを動かしながら碧が左手を挙げた。「真白ちゃんのメイドさん。姫野フミさん? あの子、一応HiME候補にしておいて。かなり怪しい」
「そうなのか? 個人的にはシロだと思うが、まあいい。説得でも対応でも、HiME同士の積極的交戦の回避が方針なら、現状でまずするべきは残りのHiMEの正体を明らかにすることだ。そして可能ならば協力を、最低でも一定の理解を得ること」
「でも、どうやって? HiMEにだけわかる方法で、そうだ、チラシとか配ってみるとか」舞衣が手を打つ。
「集める方法も重要だが」なつきは明言した。「あくまでこちらに敵対を選ぶ相手がいる場合についての対応をまず明らかにしておこう。碧、『協定』と言い出したからには、わたしたちの集合を抑止力にしようと考えているんだろう?」
「ま、そりゃね。あくまで最終手段だけど」碧が肯定する。
「え、どういうこと?」舞衣が目を白黒させた。
「分からず屋には容赦しない、ということさ。そのために複数のHiMEを集めて自衛の戦力を充実させたんだ」なつきは舞衣の顔色が見る見る曇る様を見た。「おい、アレルギー的な浅慮でかんしゃくを起こすんじゃないぞ。これはおまえのチャイルドみたいに加減の効かない馬鹿出力を案じての方策でもあるんだ」
「……えっと? なんか馬鹿にされてるあたし?」
「ええい、わからんやつだ」なつきは嘆息した。「やる気のやつがいる。おまえは一生懸命説得する。だが聞く素振りはない。チャイルドを出せ、勝負しろ、さもないと殺す……と言ってくる。凶悪なやつだ。さあどうする。戦うか?」
「やだ」舞衣はきっぱり言った。
「いや、嫌だじゃなくてだな、じゃあ殺されるのか? 無抵抗非暴力不服従実弟過保護か? おまえはガンジーか? あいつはCivだと容赦なく核撃ってくるぞ?」
「とにかくイヤ」どこまでも頑なな舞衣だった。「あたしは、大事な人を失うのも、失わせるのも、そんな可能性のあることをするのも、嫌、よ。これははっきりいっとく。あと過保護ってなによー! 弟可愛がって何が悪いの!?」
「おまえなー! だからだな!」

 ばんばんとベッドを叩くなつきを見、碧が苦笑しながら換言した。

「つまり、なつきちゃんは、そういうどうしようもないとき、こっちのほうがずっと強ければ、相手を説得しやすくなるし、なるべく安全に取り押さえられるってことを言いたいわけよ。子供同士のケンカならふとした弾みに行くところまで行っちゃうけど、分別のある大人なら、子供が殴りかかってきてもいなせるでしょ。そういう感じで」
「あ、なるほど。なんだ、そうならもっと簡単に言ってよ」
「言ったろ。わたしちゃんと言っただろ。……まあいい。とにかくそんなわけで、具体案は追々詰めるとして、敵対的なHiMEにもし遭遇した場合、こちらが独りで説得が難しいと判断したら、すぐに逃げることを徹底しておけ。そして、わたしなり碧なりそこの美袋になりすぐに連絡を取れ。よっぽど戦いたくないんだろう?」
「あたしに限定してるのがそこはかとなくアレだけど……、わかったわ。ありがと」
「後は、残りのHiMEについてだが、これは待ちに徹したほうが懸命だろうな。とりわけわたしと美袋はあからさまに面が割れているから、あまり他者を刺激しないように振舞うべきだろう。とくにそこの単細胞と結城奈緒には注意が必要だと思う。おいわかってるのか保護者」
「うっ……」舞衣も不安に駆られた様子で胸を押さえた。「き、肝に銘じます」

 高村恭司の縁者である天河朔夜については、黒に近い灰色ながら、なつきは言及しないことにした。彼女について取りざたすれば、自然高村のかなりプライベートな部分にまで踏み込まなくてはならない。ここ数日その件について確認をしようとしているのだが、すっかりすれ違っており、タイミングを逸し続けている。本来ならば秘めるには重要な情報かもしれないが、無断で漏らしていい過去でもない。碧などはかなり怪しんでいるようだったが、説明するつもりはなつきにはなかった。

「続いて、碧がやたらこだわるHiMEとこの状況に関わる『勢力』についてだ。察するところ一番地以外に心当たりがあるんだろう? 今まで触れずにいたが、これに関しては、実のところ学園祭の日にわたしは接触を受けている。連中の名称は『シアーズ』。あのアリッサ・シアーズと同じ名だが、これがあのガキの保護者であるシアーズ財団と同じ組織だとすれば、はっきり言って民間人の手には余る大物だな」
「アリッサちゃんが関係してるの? まさか……あんな小さい子だよ?」舞衣は半信半疑といった口ぶりだった。
「あれに関係してるかどうかは、今のところわからない。予断は禁物だ。まあ、せっかくのご指名だからな、この件についてはわたしが独自に探りをいれてみるさ。ちょうど、いくらか心当たりもある」
「……ふうん。じゃ、そっちは任せちゃうわ」

 そう言って碧があっさり引いたのは、なつきにとって結構な意外だった。なつきの言う心当たりが高村であることには気づいているはずだ。というよりもあからさまに示すことで出方をうかがうつもりであった。
(透かしてきたか。曲者だな、こいつは)

「最後に」鼻腔から息を漏らしながら、なつきは宣言した。「凪の言う『オモイビト』、チャイルドの媒介についての同意を得たいと思う。もし明らかに害意を持ってわれわれに接する場合、そういった連中が真っ先に狙うのは直接武力を持ったHiMEではなく、こちらにアプローチをかけるだろう。同様にして、たとえばこの協定における最大の懸念もそこだ。わたしたちを離間させようとするなら、この想い人を人質に取るのがもっとも効率的だからな」
「あたしも」舞衣が真剣な面持ちで頷いた。「そのことをずっと考えてた。とくにあたしなんかバレバレだもんね」
「返答に困る言い方をするな……。そういう例も含めて、言い方は悪いが、想い人についての事案は慎重にあつかうべきだと思う。対象を打ち明けるか打ち明けないか、保護に協力を求めるか求めないか、それは各人の意思によるべきだ。協定という題目に矛盾するようだが、この時点で他人に心臓を預けろと強制するのは難しいだろう。特に、今後この協定に参加するものにとってはな」

 いるとすればの話だ、とは思っても、口中に留めるなつきだった。

「もっともなんだけど」ここで碧が難色を示した。「そうするとさ、協定自体がナンセンスなものになっちゃうんだよね。嫌な言い方だけど、この状況じゃ、それこそ弱みをさらけだしておかないと、信用なんて難しいでしょ」
「それは、そう、だな」なつきは口元を手で覆う。「だが、どうする? わたしは構わない。鴇羽も事実上周知に近い。美袋は、どこの誰かはわからないが、存在だけははっきりしている。例の『兄上』だろう。……こうなると、碧、おまえがこうむるデメリットが一番大きい」
「あれ、心配してくれてるんだ」碧が破顔した。「ありがと。でもいいよ。言いだしっぺだしね。それに、この好きな人告白――うーわ、よく考えたらこれ旅行の夜そのものじゃんね。まだ夕方なのに。もうちょっととっとくべきだった。えへん、うん、告白だって、信憑性は結局それぞれの判断に任せられるじゃん? うがった見方をすれば、舞衣ちゃんに弟くんじゃない想い人がいる可能性も、命ちゃんのお兄さんは実は性転換して姉上になってる可能性もあるわけで……」
「なに!?」命が叫んだ。「兄上は姉上だったのか!?」
「うおおおびっくしたぁ! いきなり起きないでよ!」碧が素面で驚嘆した。「いや、たとえ話。ああちょっとべそかかないでよ。大丈夫だよ、きっとニューハーフにはなってないよ。工事前だよ。モロッコは遠いよ。……というわけで、あたしの好きな人だけでも、みんなにはオープンにしたいと思う。まあ、年長者っていうか責任者的な立場なわけだしね」
「碧ちゃん……」舞衣が感動していた。
「それぞれの胸の誓いなの」小学三年生っぽい高音で碧が言った。
「年を考えろ」なつきが引いていた。
「うっさい。それじゃあ、改めて改訂版を書いてみました」

 そう前置きして、碧が再度ホワイトボードを呈示した。

『A.我々はHiMEである
  a.HiMEとは呼称であり高次物質化と呼ばれる超能力の名称でもある
  b.HiMEは複数存在し全て【美】少女である
   b´.HiMEの総数は十二人である(暫定)
  c.HiMEはチャイルドを従える
 B.HiMEはオーファンと敵対する
  d.オーファンはHiME以外による打倒が困難である(暫定)
 C.ある勢力X(一番地)にとりHiMEは戦うべき存在である(暫定)
  C´.XはHiMEを招集したがHiMEが事情に精通することを嫌っている
  C´´.ある勢力Y(シアーズ?)は事態に介入している(暫定)
 D.HiMEがチャイルドを失った場合媒介として人命が失われる(暫定)
 E.世界は滅びに瀕している(暫定)
  e.HiMEが互いに争い勝者を規定することにより世界は救われる(暫定)
  f.HiMEが戦わない場合世界は滅ぶ(暫定)
  g.勝ち抜き最後に残ったHiMEは世界を手にする権利を得る(暫定)』

「続いて、以上のルールを踏まえてあたしたちがするべき具体策でーす」

『みどりちゃんの すごい わかりやすい! HiME☆戦隊 の方針!!

 1.HiME戦隊のメンバーは相争うなかれ
 2.HiME戦隊のメンバーは可能なかぎり他のHiMEを探すべし
 3.HiME戦隊は新たなHiMEに対して理解を得るべく尽力せよ
 4.HiME戦隊は世界が本当に滅びるのかそこんとこ実際どうなのか探りかつ回避する手段も探れ
 5.HiME戦隊はHiMEを利用している組織を逆に利用する気概を持て
 6.HiME戦隊メンバーによる想い人の告白は杉浦碧以外自由意志に任せる
 7.HiME戦隊のメンバーは死んだらいけない死なせてもいけない飲んだら乗るな乗るなら飲むな

 以上七か条を違えた場合下着姿で「レイプ希望(はあと)」と書かれたプラカードを持って街を歩くべし

 結成メンバー
 杉浦碧(レッド)
 鴇羽舞衣(レッド)
 美袋命(レッド)
 玖我なつき(イエロー)

 ※HiME戦隊リーダー杉浦碧の想い人は在籍していた大学の担当教授である佐々木教授(既婚)である 』

 舞衣が噴き出した。

「ちょっと! これ! 罰がかなりガチなんですけど!? ほんと洒落にならないんですけど!?」
「街は危険が一杯なの?」また小学三年生になった。
「碧ちゃんキモい!」今度は一蹴する舞衣である。
「そりゃ社会的に殺す気だモン」碧は可憐な笑みで言った。「命かかってるのに不逞の輩に容赦するほどあたしゃ温厚じゃねーぞ」
「ひいい……」戦慄する舞衣だった。戦慄しながら、舞衣もまた、自らの媒介が鴇羽巧海である旨を、最下段に書き記した。「うっう、こわぁ。やらないってわかってても、こわぁ……」
「ノンキだなおまえらしかし、っておい。なんでイエローなんだ。ブルーだろ。わたしは普通ブルーだろ!?」
「え、でもなつきちゃんカレー好きじゃないの?」
「判断基準それだけか!」

 肩を落とすなつきを横目に、前後を把握していない命までもが、『兄上』と書き連ねた。
 舌打ちしながら、なつきは結びの文言をしたためた。

『玖我なつきの想い人である母は、既に鬼籍の人である』

 室内の温度が、一気に冷えた。


   ※


 深夜、寝付けない舞衣がコテージを抜け出すと、テラスに神崎黎人が佇んでいた。群雲から降る月光に照らされた立ち居は役者のように絵になっていて、声をかけるのがためらわれるほどだ。
 おかげで、先に見つけたにも関わらず、声をかけたのは神崎からだった。

「あれ、舞衣さんじゃないですか」
「ど、どおも」

 五月、フェリーの水没事故の翌日に出会ったころからそうなのだが、この二つ年上の青年は、後輩の舞衣を常にこう呼ぶのだった。父親以外の男性に名前で呼ばれた経験がない舞衣としては、それだけでなんとも気恥ずかしい相手である。とはいえ、神崎は申し分のない男であった。そのために気後れする部分があるとはいえ、あからさまに優しくされて何も感じないほど、舞衣も晩生ではない。

「どうかな。楽しんでいるといいんだけど」
「あ、はい。それはモチロン」ぎくしゃくと舞衣は答えた。「ってまあ、昼間バイトやってて言うせりふじゃないんですが……」
「いや、立派だと思うよ」
「あはは、ありがとうございます」

 と、返しながらも、ふと思うことがあった。この人は果たして、アルバイトなんてしたことがあるのだろうか。舞衣には神崎があくせく労働に従事する姿が全く想像できない。善し悪しや釣り合いではなく、本当の意味で繋がらないのだ。
 冗談を通り越して悪夢のような話だが、風華の生徒会執行部は場合によっては億単位の金額が動く事業に関連するという。まさか率先して携わるはずもないとはいえ、末端だけでも舞衣には及びもつかない世界という意識があった。若い身空で勤労に専心した弊害か、何とはなしに、舞衣には己の労働を金額に換算する勘所のようなものが働いていた。能力や効率や経験に実績を反映して、このまま努力を積み、順調に成長し、ある程度の運不運に左右され、自分がどの程度の場所に行けるかが、かなり現実的に予想できてしまう。
 悲観するほどの余裕はない。ただ、舞衣も若い少女である。ごくまれに、虚ろで茫漠した現在を劇的に変える存在を待望することもある。けれどもその空想に浸るほどの容量も、畢竟いまの舞衣にはないのだった。

「アルバイトをしたこともないくせに、って思ってるかい」

 ぎくりとした。取り繕った。だがまたも神崎は見透かして、微笑んだ。

「構わないですよ、別に。事実だしね。ただ、だからって苦労知らずのおぼっちゃんだなんて思われてるなら癪だけど」
「さすがに、そうとは思ってないですよ」舞衣は感慨を込めていった。「苦労を知らずに生きてる人なんていないし、そんなの元々比べるものじゃないでしょう? もし苦労と縁がないみたいな人がいるんなら、それって知らないんじゃなくて、わからないだけなんじゃないかな」
「苦労が、わからない?」
「うん。そうじゃないかなって、思うだけなんですけど。なんかわかる気がするんです。辛いこと、きついとき、誰だってあるんだけど、そういうのが、ふと、どうでもよくなるというか、頭からサッて消えちゃう瞬間ていうのがあるんですよ、あたし」
「ああ」神崎が、吐き出すように呟いて、深く頷いた。「それは、わかるな。すごく、わかる気がします」
「そ、そうですか?」思いもかけず同意を得て、舞衣ははにかんだ。「あのね、自分が飛んじゃう感じなんです。夢中ってよくいうけどホントそんな感じで。頭の中が晴れ渡って、とても涼しい風が吹いてるみたいで、でもカラッポみたいな感じもして、手足から糸が見えてるみたいで……ってうわー、言ってることワケわかんなくなってる」
「いや、続けて」
「は、はい? あー……って、まあ、そんな長い話でもないんだけど。――まとめるとですね。そういう時の自分って、なにか、すごく惨めなんですよね」
「惨め?」神崎が目をしばたかせた。「何故ですか? 聞いているだけだと、それはそんなに悪くなく思えるのに」
「上手く言えないんですけど」舞衣は緊張しながら言葉を選んだ。「すっごいシンプルになっちゃうというか、わき目も振らないというか、そういうときって、周りが目に入らないのね、あたしの場合。他人はなんだかそういうのを見て凄いねとかどうしてそんなに頑張るのとか言うんだけど、あたしは全然そんな意識なくて、その『ズレてた』時間っていうのが、出来すぎているみたいで、まるで自分じゃないというか……後ろめたい、のかな」
「……うん」
「で、それが時間とか場合とか全然選ばないの」舞衣はもう、全てを吐き出す気でいた。慣れない敬語も忘れていた。「そういうふうになるのにはコツみたいのがあって、だいたいそういうのも、あたしはわかってる。今はそうでもないんだけど、ここに来る前、すぐ前、ちょっと大げさなんだけど、もう人生どうでもいいやー、みたいな時があったの。だけどそういうわけにもいかないし、でも辛いしでワーっとなっちゃって、そうだ、ならあのボーっとした感じでずっといればいいやーって思ったら、本当に、色んなことがスムーズに片付いたんだ。お葬式とか、挨拶周りとか手続きとかさ。本当だったら歯を食いしばってがんばらなきゃいけないことも、『そのあたし』はきちんとこなしちゃった。で、ひと段落ついたなぁって思ったとき、
 ――あ、平気だな。
 って、感じたの。そしたらすぐ、もの凄く怖くなった。我に返って振り返ってみて、本当にいろんな物事だけは上手く納まったんだけど、代わりに、いろんな人が遠のいてた。巧海も……、弟も、心配してた。けど、その時すぐには、なんでこんなことになったのかわからなかった。何が怖いのかも、どうしてみんなに距離を取られたのかも。でもね、そういうの全部、ある朝鏡を見たら、一発でわかっちゃった」
「鏡、ですか?」
「そう!」舞衣はつとめて大げさに振舞った。「それがもう、すっごいブス顔で! え、なにこれ、あたし!? ってあっけに取られちゃって! スマイルは嘘くさいし、目元にはクマ! もうありえないでしょ? 花も恥らう乙女なのに!」

 吐息して、舞衣は神崎に向き直った。

「で、もうやーめたって思ったんです。大変なことを他人事みたいにして、それでなんとかこなしたって、それはなんか違うんじゃないかなって。大事なことを当たり前に大事にするんなら、大変なことも、大変にしなきゃだめだなって。……そっ、そんだけ、です! うわ、語り入ってましたねあたし、超恥ずかしい……」

 血が頭に上る感覚に耐えかねて、手で頬を仰ぎつつ、舞衣はその場から立ち去ろうとした。どうも間が持たないとおかしなことを喋ってしまう。
 その矢先、コテージから離れた砂浜でゴムボートを牽引するなつきの姿を見つけた。渡りに船と、「あ、玖我さんだ」とわざとらしく呟く。

「何してるのかなぁ! ちょっとあたしもいってみようかしら!」
「舞衣さん」
「はい」双眸を線にして、舞衣は神崎を振り返った。
「今、好きな人とか、いますか?」と、神崎が言った。

(うわ)

「いや、今は特にそういうのはいないですねうんいない」極めて口早に舞衣は言い切った。空々しくそれじゃあと言ってテラスから地面へかかる階段に足をかけた。

(うわ、うわ、うーわー)

 右手にある部屋で、いかにも寝起きでございといった様子の楯祐一が、仏頂面で舞衣を見ていた。突然後ろめたい気持ちが湧いた。意味がわからない。目を泳がせたまま、舞衣は大股で砂浜を横切った。

「玖我さん! どこいくの!」
「向こう岸だ。そこの廃墟にむかし、母が勤めていたのを突然思い出してな」既に気づいていたのだろう、水着に着替えたなつきは、舞衣に驚かない。「用事は終わったのか? 口説かれてたように見えたが」
「は、はいっ!? ぜんぜんそんなのじゃないし!」
「余計なお世話だろうが」と前置きして、なつきはいった。「誰と親しくなるにしても、その結果を考えてから動けよ。わたしたちは、一方的な都合で誰かの全てを奪いかねないんだ」
「――あ、うん」凄まじい冷や水を浴びせられて、舞衣は一気に醒めた。同時にもの悲しい思いにとらわれた。つまりなつきは、ずっとこんな気分で生きてきたのだろう。「ごめんね。ありがと。……ねえ」
「なんだ。おまえも一緒に来るのか? 言っておくが、たいしたものはないぞ、たぶん」なつきはつっけんどんだった。彼女も今しがた、何かあったのかもしれない。
「それもあるけど。あのさ、なつきって呼んでいいかな」そう切り出すのには、少し、勇気が必要だった。
「はあ? 好きにしろ」なつきは怪訝な顔で答えるだけだ。

(コヤツ、かなりニブい)と呆れる舞衣だった。してみると、いつか直接的になつきへアプローチしていた上級生のやり方は、存外正しいのかもしれない。

「んじゃ、なつきもあたしのこと名前で呼んでいいよ。呼んでみ呼んでみ。会長さんにしてるみたいに」
「馴れ馴れしいなおまえ。なんだいきなり」なつきが面食らいながら、ボートのエンジンを引いた。「静留は中学からの親友だぞあつかましい」
「いいからー。呼んでみてよー」舞衣はわざとらしく絡んだ。「一昨日から、まあ昨日地震のニュース聞いてからずっと怖かったんだけど、旅行来てホント良かったよ。やっぱり相談できるっていいよね。なんか、ぐっと気分が楽になったもん」
「実質的には状況をまとめただけで何一つ快方には向かってないぞ」なつきはにべもない。
「なつきってマジで盛り下げてくるよね……」
「フン、性分だ」あくまで彼女はふだん通りを貫くようだった。「ぼやっとするな。行くなら早くするぞ、舞衣」
「――はいはい。じゃ、行きますか」

 伸ばされたなつきの手を取って、舞衣はボートに乗り込んだ。数時間後に目の当たりにするヒッチハイクの顛末で、またなつきに対する印象が変わることになる。ただなし崩しだった命とはまた違う経緯で、舞衣は奇矯な友人を得たのだと、この日はっきり認識した。


   ※


 慰安旅行から一週間が過ぎた。風華学園は夏季休暇に突入した。なつきは旅行から帰って以来妙に気だるい体を引きずっている。
 炎凪は仰々しく開戦を宜ったが、これまでの日常に如実な変化は、今のところ見当たらない。水面下でどうかはわからないが、日暮あかね以外のHiMEが墜ちたという話もない。そのあかねはというと、一切消息を絶っていた。恐らくは一番地の治療施設へ運ばれ、記憶の処理を受けているのだろう。
 炎天下の陽炎に、白い校舎が揺れている。静まり返った学び舎を後にして、なつきは徒歩で自宅への道のりを踏み出した。単車は整備に出したばかりなのだ。
 日常の大勢に、変化はない。
 高村恭司は、学園祭以降、今日に至るまで一度も姿を見せていない。
 風花真白には病欠の旨連絡があったという。クラス担任の代理は、別の教師が務めた。碧やなつき、舞衣には何一つ音沙汰がない。中でも碧は何度か結城奈緒に接触を取っていたが、結局回答は得られないようだった。
 どうやら奈緒と高村には独自のラインがあるらしいが、奈緒が高村の現在地を知らないことには間違いがない、となつきは思っている。自分が知らないのだから、奈緒が知っているはずはないのだ。
(……?)
 近道の公園を横切ろうとしたところで、急な立ちくらみに襲われた。白煙に巻かれるように白む視界と、急激に血が降る感覚が催吐感を煽った。なつきは手探りでベンチを求める。揺らめいた手が、異様に熱された金属のポールに触れた。何度も唾液を喉に送り込み、空えずきをして、冷や汗をかいた。もつれるようにベンチへ腰掛けると、上体を倒し、木目と向かい合って容態が落ち着くのを待った。
 そこに、声がかかった。

「おい、玖我。大丈夫かおまえ。顔面蒼白だぞ」
「……あ?」

 高村恭司だった。当たり前のようにいた。怪我は大方治っており、眼鏡も戻り、腕も吊っておらず、安っぽいスーツも初めて会ったときと同じものだった。なつきは彼の素顔をずいぶん久しぶりに見た気がした。
 急にどっと力が抜けて、なつきは力なく笑んだ。

「おまえ、どこ行ってたんだ、今まで……」
「ちょっと野暮用だよ。サボりだ」高村はまったく気まずい素振りも見せない。「あと、ケガの治療」
「この、不良教師が……」なつきは大きく呼吸した。「あのな、言っただろう。おまえには、いろいろと、聴きたいことが、……はぁ、あるんだ」
「ああ、そういえば俺もあるよ」
「なんだそれは……もういい。どこか、適当に、喫茶店でも、……ああだめだな、なるべくひとがいないところがいい、か。どこが、どこか、ええっと……」
「頭回ってないぞ玖我。ちょっと失礼」高村の手が伸びて、なつきの首筋に触れた。意図しない声がなつきの喉から漏れた。「結構熱あるな。風邪か」
「どうもそうらしい。気安くさわるな……セクハラだぞ」手を払うだけの仕事が、ずいぶん億劫だった。「馬鹿じゃないからな。風邪くらい、ひくさ」

 言い切ると、息も切れた。動悸が増した。これは弱っているなと、客観的な視点がなつきに告げていた。こういうときは誰かに関わるべきじゃないぞと、それは言っていた。これは隙だ。おかしなことになりかねないぞ、と。
 だが、ずいぶん勿体つけられた高村だ。ここで逃がすのは、碧や舞衣にも申し訳が立たない。そう腹に決めてなつきは高村の背広を強く握った。身動きできない高村が途方に暮れているのがわかった。だがあいにくと、なつきも本調子にはほど遠い。まとまらない思考が常の百倍は遅い感覚だった。
 ややあって、高村が鋭く舌打ちした。妙にその音に竦んで、なつきは上目遣いに男をうかがった。高村はやるせなげに笑っていた。

「相当参ってるな、おまえ。悪いけど、家まで遅らせてもらうぞ」
「え?」

 否定も肯定も待たずに、高村がなつきの体を抱えあげた。抵抗もできず、いつの間にかなつきは彼の背中に納まっていた。暴れて降りようとしても、両手が太腿のかなり微妙なところに添えられており、下手な身動きができなかった。

「ちょ、おまえ、何してるんだ、離せ馬鹿! こんな、こんな格好で……!」
「ああはいはい、何期待してるんだよこのゲーム脳が。通りに出たらすぐタクシー捕まえるに決まってるだろ」
「ぐ……」

 あっさり説き伏せられて、なつきは腹いせとばかり、高村の鎖骨の隙間に親指を突き入れた。ただごとではない様子で咳き込む声を遠くに聞きながら、なつきは目を伏せた。
 そして、囁くように、訊ねた。

「おまえ、シアーズだろう」

 答えを待たないまま、都合良く訪れた睡魔に身を委ねた。







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