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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第三部二節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:a8580609 前を表示する / 次を表示する
Date: 2008/11/15 07:17
von diu swer sender maere ger,
der envar niht verrer danne her.

それゆえ恋物語を欲するものは
ここより先へ行くなかれ




1.アドゥレッセント(揺籃)(38日前~)





 昼間の個室を薄暗く感じるのは、窓がひとつしかないせいだ。雨曇りは太陽を覆い隠し、南向きのビジネスホテルは日の恩恵に浴さない。分厚い窓は雨音と大気と騒音を遮って、市内を走るパトカーのサイレンだけを通している。
 結城奈緒は皺だらけのシーツにくるまれて、ベッドでうつ伏せに溶けていた。まどろみに漸近する覚醒のうちで、聴覚だけがテレビから流れる音を捉えている。枕元のデジタル時計の表示は十七時を示していた。

『――あたしたちは、正義の味方だって! そう言ったのは貴方でしょう!』
『それは今でも変わらないさ。掲げた思想を違えるつもりは私にもありはしない。だが、それでも君は知っているはずだ。人がそこにいて争う限り、安穏な、継続した経済活動など望むべくもない。とりわけこの植民地化した日本では。古人も言ったよ。戦争が軍隊を養うんだ。経済はその流れの中でも生じている。レジスタンスはボランティアではない。抵抗活動をするかたわらでも、家族は養われねばならない。だから私は彼らに給料を払うさ。地下銀行も整備した。だが、そのための資金はどこにある? 君はその金策について少しでも考えをめぐらせたことはあるか?』
『それは――! でも、たからって麻薬を売るなんて!』
『そう、それが正しいんだよ。その美意識を君は常に持ち続けねばならない。君の母親を貶めた悪魔の産物を、君は決して許してはいけない。私は悪を巨悪で討つものだ。だからといって君がそうする必要はない』
『……ひとつだけ聞かせてください。ここ半年、世間を騒がせているブリタニアの通貨買占め。アレも、貴方の仕業、なんですか……?』
『ほう。異なことを言う。世界に名だたるヘッジファンドや資産家に対して、一介のテロリストである私がどう働きかけると? だが私見を言わせて貰えば、昨今の流れはブリタニアに対して極めて不利ではあるだろうな。確かにあの国は常勝不敗の強国だ。EUや中華連邦を下すのにも、あと十年は要るまい。だがそれは、裏を返せばあの国にはそれ以上戦い続けることができないということも意味している。莫大な戦費をまかなうのは戦勝国の特権たる賠償金と植民地化政策による各種の利権だ。この国のサクラダイトはその最たるものだろう。……しかしあの国はあまりに戦後を軽視している。むしろ無視しているというべきかな。優生劣滅の思想を称揚する一方で、植民地への治世などお粗末なもの。戦後復興など夢のまた夢……。心当たりはあるだろう?』
『…………はい』
『武力には限りがある。我々が現在国際社会で認知された国体でない以上、いやそうであったとしても、資本には厳然たる頭打ちが存在するんだ。――そう、これは言わば毒さ。それもとびっきり強烈な。……無論、私も麻薬は撲滅されるべき所産だと思っている。事実軍内でそんなものが蔓延しないよう、細心の注意を払ってもいる。君の抱く嫌悪感はもっともだ。忌避も軽蔑も甘んじて私は受けよう。だが決して幻滅はしないでほしい。虫のいい話ではあるがな』
『そんな! 私は貴方を軽蔑なんて! ただ……少し驚いただけです。ごめんなさい、深い考えもないのに……』
『違うな、間違っているぞ。言ったはずだ、その感性は正しいのだと。そんな君だからこそ私は親衛隊を任せることができた。だから、君に新たな役目も与えたい』
『あ、新しい仕事ですか? だけど、私には戦うことくらいしか』
『構わないさ。憲兵というものは君も知っているかな。要は軍内の風紀を取り締まる警察だ。近ごろ人員の増大と共に物資の流れも複雑化している。横領や着服が徐々にではあるがはびこりつつある。それは組織にとって危険極まりない瑕疵となりうる。だからこそ、この荒んだ状況下でも正しさを忘れない君にこの仕事を任せたい。……受けてくれるか?』
『は、はい! もちろんです! やらせてください!』
『(――堕ちたな。強烈なカリスマに追従する憲兵隊の進路……それは畏怖と孤立を招くものでしかありえない。眼に見えぬ優越感と特権が、君の正義感によらず君を周囲から隔離するだろう。同時に君は私を弾劾する芽も失ったのだ。条件は全てクリアーした。あとは操った投資家による一斉の通貨の売り浴びせで、ブリタニアをぶっ壊……)』
『あ、あの、それともう一つ、お知らせしたいことが……』
『ん? なんだ?』
『実は私、あの、ル、じゃなくて――貴方の赤ちゃんができたみたいで!』
『……なん……だと……!?』

 そこでエンディングに突入した。
 景気のいいBGMと共にナレーションされた次回予告のタイトルは、『産婦人科でも 仮面』。
「……」
 半ば夢中にあって、奈緒は眉をひそめる。
 これはひどい。
 なんだか、夕方の時間帯だというのに非常に生臭い話が繰り広げられていた。昼メロと紛わんばかりだ。
 憂鬱な息を吐き出して、身を起こし、テレビのスイッチを断つ。シャワーを浴びるべく服を脱ぎ、ユニットバスの備えられた浴室に踏み入れる。
 そこには両手足を拘束された高村恭司が転がっていた。
 奈緒は二秒たっぷり、息を吸い込む。高村は手錠のかかる手先を顎の下で組みながら、死んだ眼で衝撃に備えている。

「なにやってんだテメェー!」
「お前がやれって言ったからやってるんだろうが!」

 二人は風華市から百キロも離れた街にいる。


  ※


 明けた空梅雨の間違いを取り戻すように、雨がまた降り出した。創立祭は表面上つつがなく終わり、日暮あかねは病院へ搬送され、倉内和也の遺体は失踪した。少女たちは異能の意味と目的を押し付けられ、同日新任の男性教師を確保に向かった組織の人員は、蛻の空のアパートを眼にすることになった。野分の合間に訪れるぬるい凪の中で、風華の地を取り巻く各勢力の均衡が崩れつつある。
 一番地は名目上国家の公機関である。しかしその実独立派閥としての趣が強い。オカルトを標榜して長年オフィサーとして振舞い続けたのも、せいぜい戦前戦中までの話だ。およそ六十年前、敗戦直後、表裏同時に致命的な失策を犯して以来、地縁と皇家に連なる権力地盤は幾度となく削がれ、揺らがされ、疑問視された。いまとなっては孤立はさらに深まっている。この機に復権が叶わなければ、早晩風華の地は解体も同様の憂き目にあう。古くからこの地に住まい、幾ばくかでも事情を共有する人々は、そうした危機感を共有していた。

「……」
 
 儀式が遂げられない場合の被害を思えば、そんな心配など馬鹿げている、とは思わない。
 姫野二三には、それらの懸念も人間の業としてある程度理解することができた。今回の祭は、そうした意味で試金石でもある。『世界の崩壊』を真剣に受け止めているものは、組織の長を含めてどこにもいない。楽観視しているわけではなく、問題視するにあたらない、それはただの現実だった。
 なんとなれば、『祭』の達成条件そのものは、全く難しくない。むしろ容易である。二三の知る限り、四つの勢力が即日勝者を一人に絞り込める工作を終えていた。
 本当に『手段を選ばない』のであれば、一日を俟たず悲劇は終わる。誰もそれをしないのは、制止のための強大な力が働いているからだ。それだけの話でしかない。
 本来ならば、それは儀式を取り仕切る一番地の仕事である。しかし今の一番地にそんな力はない。
 古式ゆかしい茶番のプロセス。それを律儀に踏襲させようとしているのは、よりにもよって舶来の勢力だった。

「シアーズ――」

 その目的も意図も、二三には未だ読みきれない。ただ一髪千鈞を引くほどに緊張だけが高まっていく。彼女は肌でそれを感じている。
 恣意的に状況を混沌へみちびいている。二三の主人は彼らの暗躍をそう評した。

『その果てにあるのは、おそらく』

 そこで言葉を切ると、少女は憂い顔を伏せて、唇を噛んだ。
 二三は何も問わない。好奇心も疼かない。ただ、できるかぎり彼女の傍にいるだけだ。何年も前から、そのためにだけ生きようと決意している。

 崩れた空の模様はそのまま一気に傾斜した。長雨に煙る代休中の風華学園はその色彩を落としている。巨大な桃の木の前に群生し、重たげに花をつけてうなだれる紫陽花から目を切ると、二三は肩にさした傘を手中でもてあそんだ。
 穏和に細められた瞳が、背後に立つ異邦人へと向かう。

「当学園は本日全面的に休校となっております」
「存じ上げていますよ。ヒメノフミさん。今日はいつものスタイルではないようだ。よくお似合いですよ」

 男の風貌からは、日本人ではない、という情報以外は何も読み取れない。何度か出会っては剣呑な別れを繰り返したエージェントの全身を、二三はくまなく観察した。
 整形暦があるのは間違いない。体もアスリートさながらに鍛えられている。秀でた額からは相応の年齢を感じさせるし、違和感のない日本語の発音は間違いなく長期にわたる習熟を経たものだ。二三の学んだ知識に照らせば、言語は個人の文化背景を推察する上でもっとも有意な要素のひとつである。呼気と発声と滑舌を耳にすれば、おおよその語圏を把握できる自信が彼女にはあった。
 しかし、目前の男にはそれが通用しない。不自然なまでに完璧に、男からは個性が消されている。

「御用向きがおありでしたら、ここでわたくしがうかがいますわ。五人目のミスター・スミス」
「おや、もうそんなになりますか。このやり取りも何度目になりますかね。なんだか私は、あなたに親しみめいたものを感じていますよ」

 微笑みながら、ジョン・スミスが一歩退いた。スーツの肩に留まった水滴が振り落とされて、雨中に散った。同時に円形の波紋が足下のアスファルトに描かれる。
 二三はかすかに傘を揺らめかせた。パンプスを履いた足が霞むほどの速さで八字を切って体を捌くと、背後の路面に亀裂が走り、延長線上に立つ鉄格子が音もなく拉げた。
 電柱ほどの胴回りを持つ腕が、拳の鉄槌を振り落としたのだった。ただしその輪郭は雨滴でかろうじて視認できる程度である。追撃に移るべくたわめられた肘の関節部に左足を打ち込むと、余勢を駆って二三はとんぼを切った。
 中空、旋転する視界で、荒らぶる獣の鼻息を風と雨の間に聞く。巨腕の持ち主は、筋骨粒々とした鬼である。シアーズの人工オーファンの亜種に相違ない。
 二三は花柄の模様を突き出すように傘を手放して、胸元にひそめた刀子を鞘から払った。
 着地と同時に、横殴りの一撃が彼女を襲う。這うほどに身を伏せてやり過ごすと、腕の戻りを待たずに懐へ入り身した。息づかいを感じるほどに接近して、怪物の体温を肌が感知する。頭四つ分は高い位置にあるおとがいへ、刀子を深々と突き刺し、引き抜いた。無色だが粘着質の液体が勢いよく噴出した。巨体がうずくまり、跪拝するように二三へとこうべを垂れる。少女は様相を変えず、眉間と耳穴とこめかみを一度ずつ深々と刺突した。巨躯は二三度大げさに痙攣すると、そのまま動かなくなった。
 二三はさらに手首を返す。半ば伏せた目を物言わぬ鬼へと投じると、液体に滑る刀身を五たび振り下ろした。
 由来を鎌倉まで遡る業物をそうして、オーファンの延髄へ突き刺した。硬い感触とともに手の内を返すと、場違いな拍手があたりに響いた。

「お見事」ジョン・スミスがいった。
「裏芸ですわ」返り血をぬぐわず、姫野二三は観客を一瞥した。

 断末魔もなく、『不可視』の特性を持った怪物が本物の空虚へ融けていく。髪も服も雨に濡れるに任せて、捨て置いた傘を二三は手に取ると、畳んで見せた。ゆるゆると持ち手を確認する。特注品の傘の先端部は不必要なほど鋭利だった。ビスクドールにも似て、完璧な曲線で構成された二三の面差しが、軽薄に手を叩く異邦人へ向いた。

「いやいや、何度見ても凄まじい、」

 四メートル近い距離を一瞬で潰して、口上半ばのスミスの胸部を一尖がぬいた。正常な人体であれば正確に肋骨を抜いて臓器に届く一撃は、奇妙な手ごたえを残して不発に終わった。スミスはずいぶんと遅れて自らの胸元に空いた穴を見下ろすと、哀れを請うような笑みで二三を見た。

「手厳しいですな」
「今日は、茶番にお付き合いする気分ではありません」
「残念です。人形遊びがお好みと聞いたのですが」
「ひとつ、お伺いしたのですが」
「貴女からご質問をいただけるとは光栄です。答えられるかどうかはわかりませんが――」
「この、彼らの」漠然とオーファンの死体が散った空間を示して、二三は朧々とたずねた。「素因に、人間を用いましたね」
「ほう」スミスが感嘆した。「やはりそういう違いはわかるものですか? いや、実はそうなのですよ。あまり費用対効果は良くないのですがね、先日貴重な物資の盗難を許した方々への、まあ罰則といったところですか。オリジナルには及ぶべくもありませんが、彼らくらいのエーテルでも集めれば即席の使い魔くらいは精製できるのです。ご存知でしたか? HiME研究の副産物というか、援用というか、スレイヴ・システムと呼ばれるものです。出力は……しかし、見てのとおりでして。武装した人間が数人もいれば、処分も難しくはありません。これでも一応二十人ほどに燃料を供与してもらったのですがね、どうも『変換』のさいにどこかで決定的なロスが生じてしまうようだ」
「その、人たちは?」二三は声を抑えていった。
「死んだんじゃないでしょうか。いま貴女が倒してしまいましたから」スミスは関心なさげに頭を振った。「いや、眼福でしたよ。まさか触媒どころか火器すら使わずに――で、貴女は結局ワルキューレなのですかね。それを確認することも仕事なんですよ、実は」
 
 二三はきょとんとスミスを見返した。
 次いで致命傷を受けてそ知らぬ風の男へと、たおやかな微笑みを手向けた。

「ミスター・スミス」と二三は言った。
「はい」
「わたくし、折り入って貴方にお願いができました」
「ほう。なんでしょうか」
「今すぐ消えてくださいな」

 笑みを崩さないまま、二三の手元が霞んだ。スミスの眉間へ傘の先端が埋まった。
 双眸の間に剣呑なオブジェを生やしたままで、スミスが最後に呟いた。

「これでも目は肥えているつもりですが、貴女の腕前だけは未だに上限が見えませんな。しかし、これで消えては芸がない。きょうは私も工夫してきました」

 異邦人の面影に、物質にはありえないノイズが走る。
 身震いのようなさざなみが、輪郭をまたいで大気へ波及した。転瞬、その全身が、巨蜂の群へと変成した。
 高次物質化の応用である。炎凪が常用する術式を、三段は落とした稚拙なものだ。だが彼のようなほとんど擬人化された神に近い存在の能力を、模倣できるというだけで冠絶している。
 シアーズの力は底が知れない。思惑と同様に。距離を取りながら、二三は足場を確かめる。
 簇々と蝟集する大群は、攻撃的な羽音を撃って彼女の四囲を瞬時に巻いた。

「芸がないというなら、これこそそうでしょう」

 全身を雨に濡らした二三は、僅かに弾む呼吸を調息すると、虚ろな目で傘を一振りした。切先はろくろく狙いもつけずに放たれて、正確に拳大の蜂の胴体を貫通した。
 ふいに、閃いて散り、溶けて消える光のイメージが二三の脳裏に去来した。
 だが、手も足も、休める理由にはならない。侍女の歩調はゆるぎない。眼は決然と死線の包囲網に対峙した。毒針を凶悪に隆起させた二百匹余のオーファンが、斉に二三へ襲い掛かる。
 二三は四十秒でそれらを殺しつくした。
 ようやくあたりが静かになると、使い物にならなくなった傘を丁重に抱えて、壊れた門扉へ背を預けた。雨は相変わらず降り続いている。天を仰いできつく目を瞑ると、彼女は強く唇を噛んだ。
 押し出すようにうめき、無限の波紋を連ねる路面を、見るともなしに見た。運命をうたう大樹も、醜く傷ついた景色も、何一つ変わり映えしない。今日、二三の手によりどこかで消えた命の群も、大河の一滴でしかない。燃えるように熱い身から、焼けた吐息を搾り出す。
 主人の名を祈るように囁く二三に、声をかけるものがあった。

「風邪引くぜ」

 夏服に男装のたたずまい。結んだ襟足を長く伸ばして揺らすのは、尾久崎晶だった。安物のビニール傘を片手に、冷めた眼差しを二三へと注いでいる。

「尾久崎さん」反射的に姿勢を正すと、二三は完璧な侍女の姿を即座に取り戻した。「ごきげんよう。なにか御用でしょうか?」
「ああ、ゴヨーだゴヨー」晶は剽軽に頷いた。「聞きたいのはひとつだ。余計な言葉はいらん。今のも一部始終見てた。シアーズ財団広報四課のあのハゲとの二度目の交戦からも見てた。当然高村恭司や杉浦碧との一件もだ。監視者には気づいてただろ?」
「ええ。候補者は絞りきれていませんでしたが」
「いや、気づくだけすげえと思うよ。アンタくらいのはオレも知らない。納得できるって意味なら、まだあの機械人形のほうがわかりやすいくらいだ」

 二三は無意識に身構える。それを知ってか、晶はぎりぎり間合いの外に留まっている。既にその手中にはエレメントが招かれていた。無機質な双眸が、濡れる二三の肢体を捉えて離さない。
 彼――いや彼女は、すでに観察の段階を終えている。二三はそう直観した。たしかに、ここ数日手の内をさらしすぎた覚えはある。
 そして、二三は学園の経営側である。晶がどういった素性かも詳しく心得ている。そうした存在を晶が嫌うことも、無論理解していた。

「貴女の素性でしたら、わたくしどもには守秘義務があります」
「それはいまはいい。どうせこうなったらあまり意味がない」晶は仏頂面で言い切った。「祭とやらのメンツも昨夜までにだいたい把握した。確証にはあとちょっとかかるだろうけど、時間の問題だ。まあ、そっちを教えてもらえるとは思ってねえよ」
「でしたら、何を?」

 あくまで落ち着き払って、二三は促した。
 対する晶は焦れている。苦無を指先でもてあそびつつ、切り込むように二三を見た。

「姫野二三、アンタ、HiMEか? 是なら今すぐやろう」
「お応えしかねます」
「そっちの立場もわかってるけどよ。なあ、ご同業、選手がフィールド外で傍観者気取りってのはこすくねえか。そういうの気に入らねぇんだ、オレは」

 心も体も、幼少期から人為的に誘導操作された少女は、常の怜悧な風貌を落とし掛けている。垣間見えるのは年相応の情緒の揺れだ。二三はそうと知れぬ程度に眉を寄せる。
 危険な兆候に見えた。
 中部地方に根を張る素破の末裔。そう称せば冗談のようだが、尾久崎の血筋は五百年、連綿とその本義を失していない。『儀式』に関しても、独自の口伝を残している。ただし、晶個人の資質は別にある。二三は彼女一流の直観で、そう感じた。

「さしで口を利いてしまいますが、隠密としては、尾久崎さんはあまり向いていないような気がいたします」
「ほっとけ」晶は口を尖らせたが、否定はしなかった。

 気のない仕草で傘を畳んだ。
 その動作に半瞬先駆け、二三が大きく後退した。入れ違いでアスファルトに弾着があった。晶が小声で、まじかよ、と呟いた。遅れて銃声が轟いた。二三はかるく発射地点と思しき高台に手を振ると、やりきれない笑みを浮かべた。

「なんで今のタイミングで狙撃が避けられるんだ」晶がしかめつらで言った。
「コツはたゆまぬ精進とここ一番の集中力。そして奉仕の心でしょうか」
「うそつけ」

 晶は傘を振り捨て、エレメントを手中に具現化させる。さてどうやって逃げ切るかと思案しながら、二三は水澄ましのように路面を滑った。


   ※


「うぁー」

 情報屋から受け取った紙束を、玖我なつきはひとしきり眺め終わる。得られたのは有意義な真相というよりも、不毛な確信だった。OAチェアに体重を預けて、眼精疲労に喘ぐ首から肩を揉みほぐす。凝り固まった筋肉に血流が通う感覚は、うら若い乙女が味わってはいけないものである気がした。

「ああああ」
「…………」

 徹夜に軋むこめかみを、指先で突く。取り寄せで購入したボトルにアロマキャンドルを乗せ、マッチで火をつけた。無機質な灰色をした机上から立ち上る香気を吸いながら、なつきは闖入者へ半眼を向ける。

「はあああぁ」
「五月蠅い」
「ごめんなさい」

 素早く居住まいを正し、ソファで正座したのは鴇羽舞衣だった。昨日の打ち上げの帰り、学園の門前で凪から『宣告』を受け取ると、そのまま美袋命を伴いなつきの居室に押しかけたのだ。つまり二人はなつきの部屋に一泊したということになる。藤乃静留さえ軽々に侵害しない生活圏を乱されて、なつきは険相を崩せずにいた。それでも邪険になりきれないのは、命はともかく舞衣は未だにほとんど部外者だという意識があるためだ。
(どういったものか)
 『祭』についての知識が、なつきにはある。形式や具体的な詳細は舞衣と同じく初耳ではあった。しかし想い人や媛星、HiMEという力の由来を探っていけば、そこに何らかの思惑が存在することは読み取れる。利得のない行為に介入する組織など存在しないし、代償のない巨大な力もまたありえない。なつきと舞衣を隔てるのは、知識というよりその気構えの差異と、何より実際的な脅威の不在に他ならない。
(少し後ろめたくはあるが、しょうがない)
 なつきは腹芸が不得手だ。だから、率直に困惑する舞衣を正面から見つめた。

「鴇羽」
「はい」

 答える舞衣の顔は、青白い。日暮あかねの処遇や、チャイルドのシステムを明かされ、それが相応に堪えている。なつきがするのは、しかしその軽減ではなかった。

「おまえ、どうする?」
「え?」と舞衣は鼻白む。
「つまりだ」なつきは極めて淡々といった。「凪の言った『祭』、『儀式』に乗るのか反るのかという話だ。世界の崩壊をもたらす媛星を回避するために、われわれHiMEは相争わなくてはならない。チャイルドを人間との角逐に用いなければならない。そしてチャイルドが敗北した場合、媒介である想い人もまた失われる。想い人を――それこそ、日暮あかねのように失いたくなければ、道はふたつにひとつだ。つまり、戦って戦い抜いて、最後の一人になるか。もしくは」
「徹底的に戦わないで、……チャイルドも、死なせない」
「そうだ、な」〝死ぬ〟という強い言葉を舞衣がチャイルドに用いたことを、なつきはひそかに危ぶんだ。すでに感情移入が深まっている。思えば、舞衣には最初からその傾向があった。「まあ、その様子なら今すぐわたしと戦おうって気分じゃないようだ」

 と、

「そんなのあたりまえでしょ!?」

 壁が震えるほどの声量だった。むしろ悲鳴に近い。打ち上げで興じたカラオケの名残か、あるいは単に疲弊のためか、掠れた声は裏返っている。対するなつきは楚々として、憤慨する舞衣をなだめにかかった。

「落ち着け。美袋が起きるぞ。ただ、まあ、考えてみろ。普通なら、おまえの意見が大勢だろうさ。世界が滅ぶと聞かされたって、事実、今のところ眼に見える範囲で何がどうこうってわけでもない。加えてHiMEには顔見知りも多い。碧が言っていたように、明日行くという海で、『休戦協定』とやらを結ぶに、わたしだってやぶさかじゃないさ。ただ、考えてみるべきだ。わたしたちが『戦わない』と言って、果たしてそれは通ると思うか?」
「思うかって言われたって」舞衣は困惑した様子で肩をすくめた。「思うしかないでしょ……。だいたい、おかいしいよ。本当に世界がどうにかなるの? 確かにあの赤い星、前より大きくはなってるけどさ、だからって他の人には全然見えてないものなんだよ? 地球に隕石が降ってくるようなものなのに、あたしたちしかどうにかできないなんて、ふつうに考えてありえないよ」
「もっともだ。そのあたりはわたしも懐疑的だが、あいにく個人では検証のしようもないからな。ただ、そうなると信じている層は確かにいるし、そいつらは馬鹿にならない力を持っている。デタラメに踊らされる連中が、人死を隠蔽するほどの工作や、人から記憶を奪う技術なんか持っているはずはない。また、高次物質化能力については、わたしたちこそが生き証人なんだ。それにしたってせいぜい山火事がせいぜいの出力だが……、とにかく、そこはしっかりと認識しておけ」
「……一番地、だっけ? 玖我さんが追いかけてるとかいう」山火事のくだりで頬を歪ませ、舞衣は神妙に頷く。「あのナギってやつもそう? ただの中学生じゃないとは思ってたけど」
「というか、あんな生徒は存在しない。前に言わなかったか? たぶんあいつは人間でもないと思うぞ」
「人間じゃないって、じゃあなによ?」
「しらん。というかそこは別にどうでもいい」なつきはすげなく言って、話題の修正をはかる。「それよりも意図的に話を逸らしているな? 目下おまえがもっとも注意すべきは、おまえの媒介――『想い人』の存在だぞ。それが誰かは、あえて聞かなくても、わたしにだって予想がつくが」

 切り出した本題を突きつけられて、舞衣が息を呑む。面相はありありと恐怖に飾られている。それを失う未来を常に案じ続けてきた彼女だ。恐らく、他のどのHiMEよりも実感は強い。

「巧海、だよね。やっぱり……」恐る恐る、口にする。それだけでも忌まわしいというように、舞衣の声は震えていた。
「他に好きなやつや、恋人がいないのならな」
「……いないって。いるわけ、ないって。そんなヒマ、なかったし」

 苦笑いすら、痛々しい。なつきが舞衣を危ぶむとすればこの点だ。HiMEの間にある愛情の多寡を論じるのは無意味だが、舞衣は、意識せずとも現時点でもっとも『祭』の主旨を体現している。想い人のために身を削り、献身し、心を砕いている。その遠いようで近い延長線上に、まさしく『祭』は存在している。些細なことで、彼女を良識に押し止める堤は砕けるのではないかと、なつきは懸念していた。

「たとえば。そうだな、たとえばだが――」ふいに、嗜虐と自虐につかれて、なつきは口走った。「弟を、誰かに人質に取られたとする。秘密裏にだ。そして誘拐犯は、おまえに力をつかって戦うことを要求したとする。この街にいる以上、警察はおまえを助けてはくれない。友人も、HiMEの存在に関知しない以上、誰も、おまえを助けられない。そうしたら、どうする? ただでさえおまえの弟は病身だ。そうしたら、おまえは、どうする?」

 舞衣を挑むように睨みつつ、意地の悪い問いだと、なつきは自覚していた。だがかつて己の身に降りかかったことでもある。それを強いた一番地への容赦も寛容も持ち合わせずとも、今ならば理解はできる。もし本当に世界が滅びるのならば、それこそ手段を選ぶ余地はない。誰もがあらゆる手をつかい、なつきを、舞衣を、闘争に駆り立てるだろう。
 舞衣は、真直ぐになつきを見詰め返した。
 そしていった。

「玖我さんに、助けてもらうわ」
「悪くないな。及第点はやろう」なつきは澄まして答えた。「だが、それだけだ。もしわたしがその気になっていたら? あるいはすでに、他のHiMEに敗北していたら? どちらもありえない可能性じゃないぞ。もちろんわたしはこのくだらんイベントに興味はない。ただでやられる気もない。平和主義ではないんでな、降りかかる火の粉は払うさ。だがそれも絶対じゃない。状況は変わるし、協定も絶対じゃない。これは推測が混じるが――たぶん」

 一息を置いて、なつきは告げた。

「わたしたちは、『想い人』のためなら、世界を滅ぼせる。たまたまじゃない。そういう人間しか、HiMEにはなれないんだろう。ああ、見境がないと言ってるわけじゃない。ただ、状況次第でそうなりうる素養があるというだけだ。誤解を恐れずに言えば、異常者しかHiMEの力には親和性を持たないんだろうな。近視眼的というか、盲目的というか、とにかく、そういう傾向がある。これはわたしやおまえ、美袋に碧といった類例から考えただけの仮説に過ぎないが、なんというか、わが身ながら説得力はあると思う」

 熟慮の間を挟み、舞衣も消極的に首肯した。それでも双眸には反発の色がある。なつきはやや彼女を見誤っていたことを認めた。

「でも、あたしはやっぱり、誰とも戦いたくないよ。玖我さんだからとか、命や碧ちゃんだからとかじゃなくて、それもあるけど、もっと根っこのところで、そんなことするべきじゃないって思う。しちゃいけないって思う。大事な人の命なんかがかかってるのなら、なおさらだよ。誰にも、そんな思いはさせちゃだめだよ。あかねちゃんだって……。ねえ玖我さん。あかねちゃん、本当に、倉内くんも、もう……」
「酷なようだが、それはほぼ間違いがない。結果自体にうそをつく意味がないからな。それにあれは凪たちにとっても予想外のようだった。まあ、疑心暗鬼を煽るためにあえてイケニエにした、というタチの悪いことも考えられないじゃないが」
「そんな!」考えもしなかったのか、舞衣は素直に憤った。
「……が、やはりそれはないと思う。日暮をやったのが誰か、はわからないが、糸を引いている連中についてなら、実は少し想像がついてるんだ。というか昨日、文化祭の最中にわたしも接触を受けた」
「じゃあやっぱり、一番地、ってやつら?」

 はばかるように声色を落とした舞衣に首を振る。
 ――シアーズだ。
 そう告げるのは容易だが、なつきはあえて言葉を押し止めた。現状で舞衣に余計な負担を強いるのは得策ではない。舞衣のチャイルドはなつきが知りうる中でもっとも強力だ。暴発の危険性はどんな小さいものでも摘み取っておくにしくはなかった。
(言うのも聞くのも、まずは高村だ。あいつ、どこに行ったんだか知らないが――)
 黙りこんだなつきを不安そうにうかがい、舞衣はぽつりと呟いた。

「高村先生にさ、相談したいな」
「はあっ?」素っ頓狂な声は、思考と同期した名前に動揺したためだった。咳払いしつつ、「あ、ああ。そうだな。昨夜からあいつとも連絡が取れないが、碧はメールで海へ行くことは伝えたと言うから、ヒマなら来るだろう。あの怪我じゃ来ても泳げなそうだが……」
「やっぱり、玖我さんの好きな人って先生なの?」唐突に舞衣がいった。
「……。ええ?」なつきは唖然と応じた。「え? なに? なんで?」
「あ、違うのか。ゴメン」すぐに舞衣が笑って誤魔化しにかかった。「はは、まあ、そういうのは聞かないほうがいいよね。さっきの話じゃないけど、なるべくさ。ただ、ちょっとそうなのかなーって思っただけだから。なに言ってんだろ! 気にしないでね?」

 いや、と生返事を返しながら、胸に生じたさしこみのような感覚を、なつきはいぶかしんだ。空調の作動音をなんとはなしにとらえながら、喉元に手先を添える。高村恭司のことを考えてみた。
 すぐに、止めた。
 距離感を間違えている、という自覚だけを思考に刻む。藤乃静留や、目の前の鴇羽舞衣、何度も好意を告げてくる武田将士、それに高村恭司。
 なつきを戸惑わせるのは、拒絶の壁を意図的に抜いてくる人間だ。彼女は望んで孤立している。強さを保たなくてはいけないからだ。舞衣に言ったように、HiMEは強力だが、ひどく脆い一点を持っている。それは情だった。
 人間の理性が、感情の制御をする。だが『力』を操っていると、しばしば倫理や道徳が消し飛ぶ瞬間がある。なつきのエレメントが拳銃を模しているからこそ、その認識は顕著だった。はじめは人に向けるのもはばかられた凶器を、今では頓着せず脅しに使うことができている。必要とあれば発砲もためらわない。必要だから慣れたのか、必要になる前から慣れていたのか、彼女には区別できない。解離症状――ヒステリーに似ているようで、違う。衝動の暴発と切り離せないはずの罪悪感を、今のなつきは一切覚えなくなってしまったからだ。
 親しい人間ひとりのために、大した葛藤を伴わず大勢の人間を殺せる。なつきには冷たく硬い確信がある。その異様さと危険性を知っているから、誰とも深い関係を築きたくはなかった。

「……鴇羽。これからどうする?」
「ん? ああ、とりあえずミコト連れて、いったん帰るわ。その前に病院寄るかな。で、明日に備える! 晴れるといいよね」

 そういうことではない、と言いかけて、なつきは笑った。舞衣がこのまま弟から離れずに日々を過ごすつもりではないかという不安を、あっさり否定されたからだ。

「おまえ、大したやつなのかもな」
「それ、ほめてんの?」
「いや、呆れてるんだ」そっぽを向いて答えた。

 そこでちょうど隣室から出てきた命が空腹を訴えて、三人は外出することにした。

 翌日は快晴になった。生徒会と執行部、文化祭実行委員に判明しているHiMEを召集しての海水浴は、問題なく決行された。
 ただし、高村恭司と、そして結城奈緒の姿はそこにはなかった。


  ※


「どういうつもり」

 ホテルをチェックアウトし、スモークを貼ったワゴンで市内を走る。車内では、空調とワイパーの作動音、時おりする身じろぎの衣擦れが、寒々しい空気を演出している。ところが始終寡黙だった奈緒は、目的地に近づくにつれ剣呑な気配を発し始めた。

「どういうつもりって」ステアリングを保持しながら高村は答えた。「本土まで来てこの街にいるんだから、結城はてっきり想像がついてるものだと思っていたよ」
「それが、どういうつもりかって聞いてんだよ」

 酷く低い声が、不機嫌を全面に表していた。
 昨夜、高村、奈緒、九条むつみの三人は、倉内和也の体を搬送する一番地の車を襲い、そのまま風華市から逐電して県境を抜け、さらに西へと進路を取った。むつみは二三善後策を提示すると、和也の遺体とともにいずこかへと発っている。残された高村と奈緒は、そしてある場所へ向かった。

「昨日のスミスとの話、忘れたのか?」高村はため息を交えずにいった。「おまえのお母さんの病院もマークされてる。だからどうこうってわけじゃないけど、様子くらい見ておくべきだろ」
「要らねえよ」切断するように頑なな語調であった。「だいたい、これからどうすンの? なんかいい手でもあんの? あのオヤジをやっちゃってさ、シアーズとかいう連中とアンタら、もう切れちゃったわけでしょ? なんか知らないけどさ」
「それはまだわからないな。あと俺たちだけじゃなくて、おまえもだ。あの状況で結城ひとり、無関係を決め込めるとは思ってないだろう?」
「そこまでメデタクはないっつの」苛立ちを隠しもせず、奈緒が細い足でシートを蹴りつけた。「あーあ、メンドくさ。どうなってんだよコレ。まあ、別にどうだっていいけどさ……」
「どっちだよ」高村は軽く笑う。赤信号を目にして、ブレーキを踏み込んだ。「まあ、俺のほうはともかく、結城はひょっとしたらお咎めなしの可能性はあるな。お祭はもう昨日付けで見切り発車したようだし、おまえたちの立場は一晩でだいぶ変わってると思うよ。スミスの脅しも、今の時点では見せ札でしかないはずなんだ。だからって、切らないとも限らないけど」
「オマツリ、ね」

 気のない口調で唱える奈緒も、すでに炎凪から儀式の詳細を受け取っている。高村やむつみに対して彼女が何かを自発的に話したわけではなくとも、雰囲気でそうとは察せられた。にもかかわらず戸惑いの気色が薄いのは、元々シアーズに引き込んだ時点で、彼女に他のHiMEとの敵対を示唆していたためだろう。
 高村は、だからその話題を振ることに特に頓着しなかった。積極的に渦中へ巻き込んでおいて悪びれれば、奈緒はかさにかかってあざけるだろう。ヒールを気取る少女が準じる規則性のようなものを、この頃の高村は見出しつつあった。

「で、結城はどうする。やりあう気なのか? 他の連中と」
「もちろん」奈緒は即答した。「って言ったら、どうすんの? 怒るワケ? アンタの立場で。だったらうけるんだけど」
「怒りはしないけど、一応止めるかな」挑発的な態度をかわしつつ、高村も応じた。
「へえ。なんで? センセイだから?」
「それは当然ある」信号が青へと変わる。アクセルを踏みながら、サイドミラーで後続車を確認した。「あとパターン的な問題もあるな。こういう……、バトルロイヤルっていうのか? 十年位前の小説以来、プロレスくらいでしか見なかったこの単語、妙に市民権を得てきたけど、概念自体はイメージしやすいよな。四面楚歌というか、同舟相救うというか。そういう場面でだ、率先して興行に参加するやつって、だいたい場と状況を引っ掻き回して消えるんだよな」
「ばっかじゃないの?」奈緒は鼻で笑って取り合わない。「そんなんつくりごとの話じゃん。現実だったら先手必勝がいちばんだよ。特に、……オメデタイ頭してるヤツが多いみたいだし」
「いやいや、そういう『お約束』はこの世界じゃなかなか馬鹿にできないみたいだぞ。胸糞悪いことに」
「なにそれ?」
「……ま、それはいいとして、結城にやる気がないでもないっていうのはわかったが、ちょっと遅かったな。碧先生は明日、判明してるHiMEを集めて遊びに行って、状況確認と休戦協定を結ぶそうだ。俺も、あとおまえも一応誘われてるけど、当然参加はできないな」
「はっ。そんなん元から行くつもりもないし? いいんじゃないの、群れたいのは群れてれば。どうせオチは見えてる」
「それも、一理あるんだけどな」

 文字通り昨日の今日で打たれた杉浦碧の対応は、舌を巻くほど迅速で的確だ。思惑がどう転ぶにせよ、この状況下で彼女のリーダーシップは少女たちに心強さを与えるだろう。もっとも、部外者である高村の懸案はその先にこそあった。実質は遅滞効果を狙った方策であり、おそらく碧自身は『協定』の瓦解を視野にいれている。
(問題は、そこで碧先生がどう動くかだ)
 一ヶ月の間職場を共にして、結局高村は杉浦碧を計りきれなかった。信頼できる人物ではある。能力もある。力と、それを行使する意味も知っている。
 だが、ほとんど本音を明かさない。高村の持つ白紙委任状を渡すことを、思い切れるほどの関係は築けなかった。
(半分自業自得か)
 高村がむつみとの目的を果たすには、ある程度〝蝕の祭〟を進行させる必要がある。そこには誤魔化しようもなく、見知った人命の取捨選択が存在する。計画を前倒しするならば、実のところ、奈緒が踊るのは好都合といえる。ただしその過程で高村は極力彼女のフォローをしなければならない。最善を尽くして誘導し、操縦し、必要ならば心身をすり減らし、奈緒を共犯者に仕立て上げる。
 むつみや他人に命じられたわけではなく、それは彼にとって、もうひとつの責任だった。

「なんでよりによっていきなりカツアゲしてきたガキなんだろうなぁ……」
「なにセンセイ、カツアゲなんかされたの? アッハ、だっさ!」
「死ねよおまえ」少し本気で苛立った。
「あぁ!? ケンカ売ってんの!?」
「それはおまえだろうが。ちくしょう……おまえなんかどこを探しても顔とカンくらいしか取りえもないくせに」

 毒づく声に、バックミラーの顔がふいっと逸らされた。

「うざい。キモい」
「いい加減その手の悪口は聞き飽きた。ニワトリだってもっとバリエーション豊かにディスってくるぞ。ちなみにこれはおまえの脳みそをチキン以下だって言ってるってことだからな。わかるよな? もっとわかりやすく言ったほうがいいか? もっとひらがなとかふんだんにつかったほうがいいかバーカバーカ」
「ぶっ殺す!」怒らせるだけならば、実にたやすい結城奈緒だった。

 伸びてくる手を意識しつつ、高村は急ブレーキをかけた。
「ぐえっ」と鳥のように鳴きながら、身を乗り出しかけた奈緒が後部座席で横転する。悪口が飛んでくるが、目的地には到着したので取り合わない。市街地からはやや離れた、ホームセンターと農地に囲まれた立地にその施設はある。直方体の建物に刻まれた『○○府立総合病院』という文字を認めながら、高村は一転穏やかに語りかけた。

「行ってきたらどうだ?」
「……」無言で、奈緒はねめつけてくる。鏡越しの表情には、怒りと、若干の訝りがあった。
「結城の想い人って、ここで入院しているお母さんのことじゃないのか?」
「……違うし」
「違ってもなんでもいいけど」高村は嘆息していった。「せっかくなんだからお見舞いくらいしてこいよ。あんだけ反応したってことは、大事にしてるんだろう、お母さん。いちばんかどうかはともかくとして、家族なんだからさ」

 ある程度予想はしていたが、奈緒はそれを上回る苛烈さで応じた。

「はぁ!? 何決め付けてんの!? ンなわけないだろ!」
「怒るなよ。違うなら何ムキになってるんだよ」高村はつとめて穏やかに返した。「じゃあ他に心当たりはあるのか? 別に俺に言う必要はないよ。ただもしその人の身柄をだ、どっかの悪い奴らに利用されるとか、」
「そんなもんいない」早口で奈緒は言い切る。
「はい?」
「そんなモンいねぇつってんだろ!」表で通行人が車を振り返るほどの叫びだった。「しつっこいんだよ! ……だいたいなに馴れ馴れしくしてんのアンタ。オモイビト? オモイビトぉ? ――なにそれ。んなもん、あたしにいるわけないじゃん? いないもんに心当たりなんかあるわけないでしょ? わざわざこんなトコまで連れてきて、気を利かせてるつもりかよ。余計なお世話なんだよなにもかも! あんたなんざ適当に悪巧みしてヘラヘラ笑って思わせぶりな台詞でも吐いてオナってりゃいいんだよ! マトモな大人ヅラなんか、今さら過ぎてヘドが出んだよ!」
「はいはいそうですね結城さんは正しいですね」
「っ、バカにしてんだろ!?」
「いやもうどう答えればいいんだよ」
 
 加減を見ていらえつつも高村は困り果てた。つくづく奈緒は扱いが難しい。命や瀬能あおい、そうでなくともむつみと話す際には、こうまでヒステリックな反応は起こさないのだ。ならば問題は、高村にもあるのだろう。珍しく上機嫌になったかと思えば、すぐに曲線は下降する。思春期という安易な言葉だけでは片付かない不安定さが奈緒にはある。
(家族ってのが地雷なのかな)
 高村は、奈緒との親密な関係の構築は出会って十分で放棄している。今なおその印象は覆っていない。結局、彼もまた歩み寄ろうと見せかけているだけで、実質は何もせずにいるのだった。高村は胸の内を何一つ奈緒に語っていないし、語ろうとも思えない。
 要は、と高村は思った。こういうことだな。

「なあ結城、俺なあ、おまえが嫌いなんだよ」
「え――」
「いや嫌いというか、もう、ぶっちゃけ面倒くさい」
「……あ、そ」

 犬歯を剥いていた奈緒が、不意を打たれて眼を白黒させる。高村は一気呵成に喋り続けた。

「大人げないことを言ってるのはわかってるんだが、まがりなりにも教師として心がけといて自分がこんなこと言うのはちょっと信じられないんだが、どうもそうらしい。というか、このことについてはおまえをあんまり子供だとかは、思わないで扱ったほうがいい気がしてきた。寄ると触ると弾けて、よほど俺が気に食わないんだろう? それはわかるよ。昔は俺もこんな感じじゃなかったんだけど、て言ってしまうのはいいわけがましいな。……だいたい、おまえも俺のことは嫌いだろうから、別にそれについてどうとは思わないだろう? だからともかく、俺はそれでいいと思う。俺が疎ましいなら、俺は別におまえにわざわざ構ったりしないよ。おまえも俺を気にしなければいいと思うよ。おまえの大切にしているそのラインに、俺の存在はまとわりついて邪魔なんだろうけど、ただそれだけは眼をつぶっていればいいんだ。他には何もしないし、当面おまえの敵に回ったりとか、不利益になるようなことはしない。これは信用してくれていい」

 奈緒は黙然としてうつむいている。爪を噛む仕草は目まぐるしい思考の表れだろう。高村は、丹念に言葉を織った。

「そういっても信じる気にはなれないだろうが、俺はそこまで責任は持てない。ただそうしてもらうための努力はする。これはおまえへの好悪とは別のことがらなんだ。……なあ結城。おまえはとりあえず人の心情については鋭いというか過敏みたいだから、俺やむつみさんが、悪意を持っておまえを陥れようと感じてるなら、一人でどこへなりとも行けばいいんだよ」
「……いまさら」奈緒は忌々しそうに吐き捨てた。「放り出そうっていうんだ? 無責任……」
「いや、放り出しはしないよ」高村はかぶりを振る。「ただしおまえがどこか行ったら、俺はおまえを追いかけるよ。それで、不満を聞くし、話をするし、なんならまた喧嘩しても構わない。で、おまえを説得して、必ず連れ戻す。他の人はみんな忙しいから、俺がそうするしかないっていうのは微妙かもしれないけど、どこにいったって俺は結城を見つけるよ。ストーキングしまくるよ」
「いやそれ、……さっきと言ってることが違うってーの。きもいし」奈緒が苦笑する。
「いや違わない。そうなった時俺がおまえを追うのは、別に好きや嫌いの話じゃないからだ。なぜなら、おまえはHiMEだし、俺は俺だからだ。俺はなんだか成り行きでおまえをこっち側に引きずり込んで、ただでさえハードな状況に、余計な荷物を持たせた負い目がある。だから、俺は、おまえを守る責任があるんだ。教師だし、加害者として。そうしなければ、たぶんおまえは今ごろ日暮の代わりにベッドにいて、倉内の代わりにおまえの大事な人間が誰か死んでいたんだろうけど、だからって今後それがおまえの身に起きないと約束されたわけじゃない」
「だから! そんなのいないって」

 先ほどよりも随分落ち着いた語勢も、高村は言下に退けた。

「それは、ないんだ。そんなむしのいい話は、世界のどこにも落ちてないんだよ。……何度も言うけど、俺はおまえのそれが誰かなんてことを、聞こうとは思わない。興味がないというだけじゃなくて、それはあくまでおまえの問題だからだ。どう処理するべきかという方策も、おまえにはあらかた全部提示されてる。そう考えれば、おまえらはむしろ恵まれているほうなんだよ。だから誰も今のおまえや、他のみんなに、そんな約束はできない。残念だけど、もう世界の誰一人、可哀想なだけの女の子たちにばかり感けてられる場合じゃなくなってくるからだ。俺みたいにやけになってる関係者以外は」
「世界が、滅びるって、やつ? あれやっぱりマジなの?」心なしか引きつった顔で、奈緒が問う。信憑性など欠片もない脅迫に、現実感が伴っていない。
「滅びるよ。むしろ滅びなきゃ困るな」だからこそ軽く、高村は肯定した。助手席のダッシュボードから、クリアファイルにとじられた航空写真を十数枚取り出し、奈緒に手渡す。「そんなわけで、じきに異変も表面化するだろう。ちなみに、それはエクリプス01ていうインチキみたいな性能の人工衛星の画像をパクってきた写真だ。場所は、どこだったかな、オーストラリアと南北アメリカと東南アジアのどっかだと思うんだけど、その写真見て、なにかおかしいと思わないか?」
「……」

 奈緒は無言で目の粗い写真を手繰っていく。数秒もすると、その眉根が深いしわをつくった。

「まあ一発でわかるよな。それは三枚一組で、十秒おきにある街なり地域なりの特定のポイントをフォーカスしたものなんだけど」
「……二枚目で、人が、消えてる」感情もなく奈緒が引き取った。「なのに三枚目で人が戻ってる。フーン。確かに時間はそんなに離れてないみたいだけど、こんなのどうとでも作れるでしょ」
「まあな。合成ですらないよな。うさんくさいだろう」高村は薄く笑んだ。「でも本当なんだよ。その瞬間、写真の地点から半径十キロ以内の人間は消滅したんだ。正確には観測ができない状態に『ばら撒かれた』らしいけど、俺にはよくわからない。本人たちはだけど、自分が消えていたことには一切気づかず、消滅から三秒後に現世……うん、現世に復帰している。ボスがキングクリムゾン使ったときみたいなジャンプは、ちなみにない。彼らの意識も動作も、調べた限りでは全く連続している。ただし、人間は一回の異変につき三十人くらい、――消えたまま、戻ってきてない。シアーズの広報さんたちの調べによればな」

 くだらないとこぼして、奈緒が写真をつき返してきた。

「そんなのニュースにも何にもならないわけないじゃん。ハイハイゴクローさま。そこそこ面白かったケド?」
「なってるよニュース」受け取りながら、高村はおどけてみせた。「現地では結構騒がれてるよ。日本でもネットのニュースサイトで挙げられたりしてる。今のところ場所がばらけてて範囲が広いからそうでもないけど、ただ北アメリカではわりと厳しく統制されてるな」
「は……。マジで?」信じられないと言いたげな奈緒だった。
「まあこの消えた人たちはたぶん高次物質化エーテル化したんだろうって言われてる。要するに消えたまま融けちゃったんだな。そのままオーファンになったり、オーファンの顕現のよすがになったりしてるんだろう。……おまえそう『うっそでー』みたいな顔してるけど、それなりに大きな国ではわりとあちこちこれ、騒がれてるみたいだぞ。少なくともあと二ヶ月以内にはリアル日本沈没するとか言ってる人もいるしな。俺は日本以外全部沈没のほうが楽しいと思うけど」
「んな、バカな話って、ありえんの?」もはや開いた口が塞がらないという様子で、奈緒は高村の話を半分以上鵜呑みにしていた。高村は思わず笑う。
「バカな話なんて、クモの化物がおまえの前に現れた瞬間から始まってるんだよ。なに寝ぼけてるんだ? 変なところで常識を後生大事に抱え込んでるみたいだな。ここじゃ何だって起こりうるんだって、おまえはチャイルドやオーファンと付き合って少しでも思わなかったのか? 鴇羽のチャイルドは知ってるか? あれが学校の裏を焼いたって話はしたよな? あのチャイルドなら三十分で風華市を焼け野原にできるぞ。一ヶ月あれば日本の主要都市も半分灰にできるな。まあその前に当然対処されるだろうし、鴇羽はそんなこと絶対にしないだろうが……。でも、おまえにだって似たようなことはできるじゃないか。たとえば今から新幹線で東京へ行くだろう? 上野で降りて一泊して翌朝地下鉄で国会議事堂前に結城が向かう。そこでチャイルド……ジュリアだっけ? あいつを呼び出す。ガードマンをぶっとばす。次に議員をぶっとばす。銃で撃たれてもチャイルドは平気だ。それにおまえはすぐ逃げる。犯行声明をネットでばら撒く。それだけで歴史に名を残せるぞ。国は別にそれでも大して問題なく動きそうだけど、でも類を見ない犯罪には違いない。簡単だろ?」
「……ま、言うだけならね」奈緒はあんがい悪くない案だとでもいうように、頬を緩めた。
「そりゃそうだ。極論だ。言っておくが絶対実行しようとかは考えるなよ。そのときはお前の寝ゲロ画像やおねしょ画像が全世界に流出する覚悟を」
「しねえよ!」奈緒が吠えた。「そのネタひっぱんなよ!」
「問題は想像力なんだよ」高村は無視した。「ありえないとか言ってる場合じゃないんだ。ありえないことが起こっただろ。それはおまえの世界に深く食い込んだだろ。残りの『ありえない』の全てはその『ありえたありえないこと』の延長上にあるんだよ。世界だって、だから滅びるんだよ。それがあのクソ媛星のせいかはともかく、みんなだっていずれ世界は終わるだろうなっていう漠然とした予感はあったはずなんだ。末法とか末世とか、ハルマゲドンとかなんとかさ。そういうものがいよいよ来るかもなっていうタイミングなだけなんだよ。そう大したことじゃない。なんだか話が飛びまくっているけどさ、俺がいいたいのは、つまり」
「つまり?」

 シート越しに、高村は奈緒を振り返る。上目遣いの瞳を、覗き込むようにして、彼は少女に告げた。

「俺はおまえの味方をするってことだ。一番の、ではないし、おまえのことは好きじゃないけど、行きがかり上、そうなった。借りができた。縁が、できてしまったから」
「……だ、だから?」
「いちいち、噛み付かなくてもいいってことだよ。試すな。考えろ。回りをバカだ偽善者だって言うんなら、おまえこそ思慮深くあるべきなんだ。やたら吠えるのは格好よくないだろ。……そう、これが言いたかったんだ、俺は。おまえが突っかかってこようが唾吐こうが喧嘩売ろうがパンツ脱ごうが、俺は気を悪くしこそすれ、このスタンスは変えないと……」
「脱がねーよボケ!」目尻を染めて奈緒が怒鳴る。「なんでいちいちオチつけんだアンタ! 最後まで真面目にしゃべれクズ!」
「玖我と同じこと言うなよ。それになんか照れるだろ、中学生にこんな少女漫画のつっけんどんなヒーローっぽい台詞……。うわあ気持ち悪い。おまえどうしてくれんだよ!」
「なんで逆ギレしてんの!?」
「うるせー!」高村もまた語気荒く反駁した。ドアを開けて降りる。霧雨が肩口を濡らす。そのまま表から後部座席を開け放ち、腰を引こうとする奈緒の首をつかむ。「いいからお見舞い行って来い! 俺はこれから密談があるんだよ! それでも行きたくなかったら霊安室前のベンチでひたすらうなだれて泣き真似しながらナンパ待ちでもしてろバーカ!」
「ええー!? なにその無茶振り!」

 そのままうっちゃった。空中で一回転しつつ危なげなく路面に着地する奈緒を置いて、高村は再び運転席に飛び乗る。エンジンの点いたままの車体は、アクセルを踏むと滑らかに走り出した。

 サイドミラーの奈緒は、途方に暮れたようにその場に立ち尽くして、雨に濡れていた。


  ※


 二ヶ月振りの院内は、やはりいつも通り森閑としていた。一般病棟と重篤患者のそれを分かつ、不自然なまでの静謐がある。廃墟を思わせるこの重く沈んで澱んだ空気が、奈緒は嫌いではなかった。
 受付も介さず足を踏み入れて、真直ぐに目当ての病室へと向かう。平日の昼日中、病棟を私服で歩く奈緒に、すれ違う看護婦が若干怪訝な眼を向け、会釈をよこした。奈緒は顎先だけで応え、やがて目的地へたどり着く。
 重たい遣戸越しに、クリーム色の照明が漏れている。奈緒は緊張とは別種の感覚に襲われ立ち尽くした。伸びかけた手が拳をつくる。ジョン・スミスの警句を思い出し忙しなく眼を左右に走らせたのは、警戒ではなく時間稼ぎのためだった。実際、高村が危惧したような脅威は、今のところ見当たらない。
 とても、静かだった。
 奈緒は慎重に扉へ触れる。
 最近では病室に名札が貼られることは少なくなった。この病院でも例に漏れず、だからもし患者が移動していた場合、改めて来院受付を通す必要がある。しかし奈緒の見舞いのあて先には、そんな心配は無用だった。

「……」

 踏み入れた先には、ただ現実が置かれている。
 物言わぬ女性は横たわっている。いくつもの管を体から生やし、栄養剤の点滴で生かされ、肌は青白く、ところどころ黄味がかってさえいる。見えない背中にはひどい床ずれがあることを奈緒は知っている。電子音と呼吸音が生命が発する生存証明で、今の奈緒は、その痛々しさも、見慣れた光景としてしか捉えられなかった。
 病室には生活感がない。かつては足しげく通っていたのであろう病室の主の親類も、昏睡状態が数年に及べば、常時詰めているというわけにもいかないだろう。その意味で奈緒は誰を咎める気もなかった。
 高村に連れてこられなくとも、以前まで、月に三度は病院を見舞っていた。その足が遠のいた理由を考えようとして、止める。オーファンの存在を危ぶんだことや、異能に酔いしれていたこと、いずれも理由には当てはまる。ただ本当のところは、奈緒の行為に殊勝な意味などなかった。緘黙した女性――母を、奈緒はただ遠ざけた。それだけのことなのだ。本当にごくたまに、生物的な痙攣として、目覚めない母はまぶたを薄く開け、閉じ、また身じろぎし、容態を急変させる。昏睡という状態が文字通りの完全な眠りではないと思い知らされたのはずいぶん前のことで、ただの反射に恢復の予兆を見出しては落胆することも、奈緒が中学に進む前に止めた。 
 病室の母に、美しい思い出など何一つない。追憶すら拒むほど苦々しく、毒に満ちている。だから奈緒は、この眠る物体に、つとめて感情を持たないようにしていた。大きく固く冷たい容器を用意して、厳重に封鎖し、さして深くもない胸裏の底に放置した。夜明け前に一瞬だけまどろみ、見るイメージがそんな具合だった。奈緒は硬質の寝台に横たわる自分そっくりの少女の腹を割くと、いきものを麻酔にかけて解剖するような気持ちで、疵口から内臓をつまみあげ、観察し、その臭気と毒々しい色合いに顔をしかめる。あるいは息を詰めるほど美しく、触れがたい宝石が、時おり痛んだ臓器からまろびだし、ひたすら怖気に駆り立てられる。それほどにわかりやすく感情が換喩されるのは、それだけ何度もくりかえし思考が及んだ領域だからだ。奈緒は自らが飼う怪物にある程度自覚的だった。生来機微に聡い彼女を悪意に走らせる根源がそこにあることも理解していた。
 病室の母を訪うたびに、これが死なのだろうなと、奈緒は意識させられる。反応せず、返答せず、自発せず、生存だけをしている。他のすべてをはぎとられて、緩慢にいつ来るともしれない結末の汀に遊んでいる。やがて隣人は突きつけられる絶望を受け入れ、馴化して、忘却の手続きを踏む。今では、誰もが母の死を予期している。奈緒も例外ではない。期待と諦観は並立する。手が届かない場所にあるものに明け渡すしかないときに、人は歩みを止めるのだ。
 それだけの、まっさらな、営みだ。
 感情を排他して、心安らかに、母は眠っているのだろうかと奈緒は思う。それとも苦しんでいるのだろうか。あるいは何もないのだろうか。
 奈緒はエレメントを具現化する。命を容易に刈り取る凶器を右手にたずさえ、穏やかに語りかける。

「ママ、ママ。まだ生きてたいですか?」

 母と母であったものの中間にいる女性は、何も奈緒に返さない。意識と眼を凝らして傾注する奈緒にも、何ら意思の発露は認められない。生きたいとも死にたいとも、母は思っていない。生かしたいとも殺したいとも、奈緒には思えない。
 エレメントを消して、奈緒は踵を返す。
 誰にも会わないまま、病院を出た。駐車場に通じる裏口から、いまだ雨もよりの天を仰ぐ。

「……つか、お金ないんだった」

 新しい携帯電話は与えられていた、アドレス帳にはまだ高村恭司の名前しかない。こちらから連絡を取るつもりは毛頭ない奈緒は、あっさりそのデータを消去した。陰湿な達成感があった。同時に、この端末につなぎをつけるものがいるとすれば高村以外にはないのだという自嘲が、感慨に水を差した。あの男を待つ必要はないし、チャイルドを用いるか、あるいは恐喝を働けば学園に帰ることは難しくない。だが雨に濡れてまで向かう場所を、奈緒は持たなかった。
 庇の下で、雨どいから落ちる水に眼を向ける。タイルに広がり、アスファルトを群青にけぶらせる液体は、ひたすらに生ぬるい。足をそろえて腰を落とすと、突然、視界がかげった。

「……?」

 茫洋と顔を上げる。

「こんにちは。……結城さん」

 幾度となく奈緒に説教をした女が、傘を広げてそこにいた。常の尼僧服ではない、落ち着いた夏の装いだが間違いない。驚きに眼をみはり、驚愕を即座に緊張と警戒へ転化して、奈緒は忙しなく立ち上がる。

「なんでアンタがここにいる?」
「あなたとお話がしたかったの」真田紫子が、泣き黒子のある目元を柔らかく細めて言った。「わたしもあなたと同じだから」
「……どこの神サマの電波受信してんの?」

 軽口を叩き、二歩下がる。如実に広げた距離に悲しむそぶりも見せず、紫子は口を引き締めた。

「わたしもHiMEなの。結城さん」と、紫子がいった。「すこし、歩きましょう?」


  ※


 奈緒とわかれてすぐに、高村は病院の外周を車で流した。同居人からの連絡で、風華の自宅にすでに監視が入ったことは知っている。だから一番地ないしシアーズ本隊からの接触を当て込んだのだが、結局どちらも空振りに終わった。本来ならいてしかるべき連絡員の姿も見当たらない。単に高村が見落としているだけという可能性も高いが、彼の心情はスミスのブラフを受け入れたがっている。

「まあ、考えても埒があかないか」

 どう解釈したところで、独力で解決できる問題ではない。そもそも危機回避能力自体は、奈緒のほうが高村の何倍も高いのだ。
 嘆息を交えつつ、高村は『密談相手』に連絡を取った。まだ待ち合わせまでには間があるが、存外近くにやって来ているらしい。慌てて近場の有料駐車場に停車すると、準備を整えることに専心した。
 ダッシュボードから小ぶりな医療キットを取り出し、ミネラルウォーターで各種タブレットを計三十錠嚥下する。ついで手早く左の二の腕にバンドを巻くと、新品の注射器を開封し、針を取り付けアンプルから薬品を吸い上げた。傍目にはどう見たって薬物中毒だとうそぶきながら、高村は迷いなく血管を探り当てる。関節部は、目立たないながらも注射痕でやや変色し、皮膚が硬質化していた。

 薬剤が血流を巡る実感がなくとも覚醒効果はすぐさま表れる。瞑目して二分で高村は全能感に包まれる。世界の果てを見渡せるようになる。無闇な力が内奥から湧きあがる。思考が加速作用を起こす。混沌そのものの単語が口からあふれ出る。時系列を砕かれた場景が眼球の表面を慌しく飛びかう。氷塊が内耳の奥から小脳へ突き進む。冴え冴えとした痛覚が針状となって視床下部を捉える。limbiqueをパペッツ・モデルになぞらえられた電流が帯状に走り抜けた。小さな小さな意を持つ粒子が穴だらけの情動を補填しようと悪戦苦闘する。
 M.I.Y.U.が作動する。意思に反応して点滅するエーテル素子が、確率変異を起こしながら高村恭司という記号にいくつかの新規コードを上書きしていく。注入された高次物質エーテル群は情動サーキット網を掌握すると、抑制性細胞を強制的に発火させる。辺縁皮質上に存在する帯状回(認識)と眼窩前頭皮質(決定)が瞬間的に麻痺させられて、つかぬま、高村恭司は廃人であった時代に戻る。エーテル素子がその時点での記憶と意識に結節され、扁桃体・乳頭体に干渉する。
 高村は須臾のまにまで、擬似的な過去遡及を体験する。数千倍に加速された偽時間感覚において、M.I.Y.Uに入力された経験が幾度となく再演される。高村はほどなく記録を己がものとしてしまう。しかしそれは感情やエピソードを伴わない学習だ。彼はただのオルガンとなって音譜をなぞっていく。十二分に不快な状況に高村の意識とその深層に眠る獣とその獣を飼いならす少女はいたく気分を害するが、九条むつみが手ずから《高村恭司》の銘辞に埋設した器物が覚醒を徹底的に許さない。それどころか側坐核を介さないまま、脳内報酬系へと化学物質の分泌を要請しさえする。その命令は簡単に実行されて、高村は満足する。高村と彼を構成するそれ以外の意識に解離が生じ、高村恭司は浮上する。……
 火花が、鼻梁の根元で大量に破裂する。火薬の匂いが満腔に盈ち、虧ける。
 感慨は皆無だ。高村はこの異質な絶頂を完全に統御している。だから中毒にはならない。
 意思ではなく、器械が彼にそれを許している。それは克己による達成と何ら差異はない。

 数分の行為だった。
 四十度近くにまで上昇した体温を感じながら、高村は青息吐息だ。見れば右手のドアに拳大のへこみが生じており、治ったばかりの右手の皮膚が裂けて赤い血を流している。強張る拳を広げてみれば、粉々に砕けたシリンダーの破片が掌中に突き刺さっていた。足もとに落ちた使用済みの針を回収し、こんこんと流血する鮮やかな液体を舌で舐め取りながら、高村は降車した。
 地面に足をついた瞬間、上下と自他の区別が曖昧になった。服薬後にはままある症状で、副作用というのもはばかれるほど些細なものである。と、高村は思っている。
 彼はうつろに、天を仰ぐ。度のないレンズ越しに雨の軌跡を二百近く捉えて、これが針ならばおれはすぐ死ぬ死ぬ死ぬなと、ほとんど平常の声音でいった。

「あそこか」

 と、四十メートルというほとんど耳元に近い距離で誰かが大声を出した。ここで顔をしかめる高村ではない。なぜならば来訪者は待ち人である。
 長身に眼鏡のたたずまいに、暗色の傘を連ねた姿は、どことなく高村自身を連想させる。人を無条件に油断させる穏和な雰囲気も近い。ただし彼のそれは高村の物腰よりも遥かに洗練されている。針金を立てたように伸びた背が、高村の視線と直角に交わった。
 おぼつかない足取りで、高村は待ち人へ歩み寄っていく。なるだけ陽気に振舞った。

「ご足労ありがとうございます、石上先生」
「いえいえ」と風華学園美術教諭であり一番地の構成員でもある石上亘は微笑む。「お元気そうで何よりです。昨日もご活躍だったようで、頭が下がりますね」
「ええまあ。先日はどうも」高村はきわめて朗らかに笑う。「おかげでようやく怪我も治ってきましたよ」
「誤解なさらないでいただきたいのですが」石上は眉を下げる。「一昨日の件については、決して高村先生を標的にしたものではないこと明言させていただきたい。貴方については静観するようにと、上からのお達しもありまして」
「いやいやそっちじゃないですよ石上先生!」高村はいった。今はもうギプスのない腕を示した。「俺が言ったのはこっちのことです。そ知らぬふりってあんまりじゃあないですか? さびしいなあ! ねえそうでしょう。そういえば今日は刀は持ってないんですか?」

 緩やかに雨が落ちてくる。その向こうで、虚飾の微笑が張り付いた面がかすかにこぼれる。細い双眸からのぞけたのは蛇の目のそれだ。
 高村の知覚が押し拡がる。全身の毛穴が開く感覚とともに、駐車場の出入り口にある石塀の陰、左斜め後ろに停車する乗用車の背後、車道の向こうで自然体を装ってたたずむ人影と、計七つの関係注察を感得した。
 相手が単身乗り込んでくると考えるほど高村も暢気ではない。九条むつみの差配で、こちら側も高村に知れぬ形で人員は配置されているだろう。気配の発する警戒心のベクトルにまで観察を及ぼせば、なるほど全てが全て石上に属するものではないようにも思えた。
 問題はこの感覚が錯覚や追尾妄想と区別できないことだが、高村は頓着しなかった。払える気は全て払うだけだ。ユニットを敷設されてからの高村は一度もその種の警戒を怠ったことはない。
 受容体が貪欲に稼動する。あらゆる情報体を咀嚼し、峻別する。左足薬指の裏が踏む小石の形状さえ三次元的に把握しながら、高村は石上に笑いかけた。

「――月杜の辻斬りさん?」
「なんだ、気づいてたんですか」と石上亘は言う。





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