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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第二部最終節2
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:a8580609 前を表示する / 次を表示する
Date: 2008/02/11 03:52


 ※


 ひそんだ低い声だった。
(――)
 背後から、首筋を掴まれる。瞬間的に体がこわばった。振り返ろうとして、制される。

「そのままさがれ。ゆっくりと、だ。周囲に気取られないように」

 声だけが耳朶に囁かれた。

「振り向くな。貴様には私を見る必要がない。言葉での応答も要らない。頷くか、首を振ればいい。高村恭司だな?」

 高村は頷く。言葉どおりに後退する。さらに背中からかすかにスーツを押し上げる、突きつけられた異物の存在を知る。
 鋭い利器を思わせる指先が、人ごみに紛れて高村の死命を握っていた。さらに鉄の感触が背部の急所に添えられている。身動き一つで、容易に命を奪われる。圧倒的な実感が、高村を酩酊から一息で引き離した。

「私はドクター九条の同志だ。ここで貴様に危害を加える理由はない」
「なん……」言葉が漏れかけた。背中を痛みが刺した。刃物だ。わずかに皮膚を破っている。
「喋るなといったな」

 発言の内容と、態度がかみ合っていない。高村は混乱冷めやらぬまま、唾液を喉に送った。

「説明をしている暇はない。貴様に人並みの頭があれば、いまに嫌でも理解する。だから、要件だけを簡潔に言おう」
「……」
「初夏からこちら――」声の調子が不意に和らいだ。「よくやったな。頑張ったな。多くのワルキューレと接触し、教員として勤め上げ、彼女らと生活をともにした。すばらしい働きだ。望外の成果といえる」

 高村は反応を返さない。
 いまだ凶器は皮一枚を貫き、内臓を狙っている。背後の声の主に腹蔵があることは嫌でも知れた。
 声は続けた。

「だが、無駄だった」口調には断定だけがあった。「私は貴様を少しばかり観察したのだがな、失望したと言わざるをえない。この一ヶ月弱のうちに、貴様がやったことはなんだ? 手札をさらし、無駄な危険を冒し、あまつさえ消費すべきワルキューレにまで情を移した。それで、どうするのだ? 貴様は何がしたいのだ? 最後から二番目の切り札まで用いて、残っているのはその身ひとつだ」
(勝手な、ことを――)

 歯を噛んだ。刹那のいとまに、行動すべきか、高村は逡巡した。切先を逸らし、背後へ向き直り、瞬時に相手を拘束する。技量を勘定にいれなければ、実行だけはできるかもしれない。
 声は、そのためらいを切り払う。

「私は迷っている。貴様を、……のぞくべきなのか」

 悪寒が内股から腹部へ駆け上がった。ユニットが今さらながら、起動する。

「貴様は衝動で動いている。目先の倫理でたやすく、軌道を変えてしまう。平時ならばそれでいいだろう。だが、今、その体はシアーズに帰属するものだ。……どうなのだ? 私はひどく不安だ。貴様は、もしもの時、たやすく全てをなげうってしまうように思える」
「……」
「――それとも、貴様に理解をうながして是正するべきなのか。貴様がドクター九条のもとにあるのなら、選ぶべきは後者だ」

 是正。どうしようもなく不吉な単語に、高村は棒立ちのまま、めまぐるしく思案した。外界は変わらず、アリッサの歌に狂っている。高村は望まぬままそこから放り出され、理不尽な脅威にさらされている。
(……九条さんの、同志だって?)
 そんな話は聞いていない。
 無論、九条むつみが高村を用いて企図する所は彼も知っている。ならば、計画に携わる人間も他にいるのだろう。少なくない数の協力者がいなければ、到底実現しえない目的だからだ。
 たいていの人間は、利得を頭に入れて動くものだ。彼らが信倚するのは予想であり、予定であり、つまりは把握できる絵図である。その種の信念からすれば、高村の動きが目障りであることは、理解できなくもない。
(だからって、自称仲間に刃物を突きつけられるなんて)
 皮肉も極まった感がある。高村は場をわきまえずに苦笑した。虚言を疑うのは、現実的ではない。この場合問題となるのは、真偽ではなく意図だ。
(とにかく、殺すつもりは薄い。ないとは言い切れないが……優先順位は低いはずだ。でなければ、こんな迂遠なやり口をしてもしょうがない)
 あえて楽観を押し出して、ともかくも死の可能性を追いやった。瞬間まみえる程度ならまだしも、持続的に向かい合うには、死は思考を傾倒させすぎる。その存在感を受け流すほどの剛胆は高村にはない。
 高村はいやます鼓動を意力で伏せる。思索の糸をからげて、この忠告者の真意を探る。

「貴様が本当に王冠であるなら、局地的な流れに拘泥するのもいいだろう。ままごとに最後まで付き合って、世界の命運とやらの裁量を受け継ぐがいい。無知な女子供と、手と手を取って」

 一センチ、刃先が傷を深く抉った。
 高村は、ただ、呼吸のために、喘いだ。

「その場しのぎの選択を繰り返せば、いやでもそうなる。そしてこのまま変わらないつもりであれば、もう、貴様は我々に関わるな。すでに邪魔でしかなくなりつつある」

 後頭部に焦げつくのは視線だ。燃犀の眼が、残像となるほどに集中するのを感じる。

「試してみるか。できるか、できないか。今ここで、貴様の覚悟を問うてみる。黙って、見届けてみろ」

 ふっと、視界の右端に影が過ぎった。背後から手が伸びていた。左手で凶器を突きつけられているのだと、高村は悟った。有益な情報だ。しかし、それにもまして見逃せないものが、眼前の右手に握られている。
 小口径の拳銃だった。ひたすらに鈍いマズルは、つや消しされたように黒い。雨だれに濡れた銃身は、その重々しさに比して、あまりに突拍子もなかった。
 ふらりと銃口がさまよう。品定めの動きだった。高村は痛みにでも恐怖にでもなく、体を緊張させる。咄嗟に手を伸ばすべきだと思う。とたん、さらに強く背中の刃物が押し込まれる。血が流れて臀部に達するのを彼は感じた。本気で刺してくる、という意思表示だろう。ブラフはどちらだ、と高村は思った。銃か、ナイフか、それともすべてか――。
 交渉をしかけるべきだった。高村は口を開きかけた。
 間に合わなかった。

「撃つぞ」

 宣言と同時、ほとんど間断なく、三度、引き金が引かれた。気の抜けた空気の音が耳元で爆ぜた。
 照星の先にいたのは、鴇羽舞衣と巧海の姉弟だった。時間が延びるようなこともない。転瞬、舞衣の背中に二発、巧海の肩甲骨に一発、弾着があった。
 高村が悲鳴を押し殺せたのは、意思によるものではない。ただ動顛のあまりだった。
 発射されたのがペイント弾だと、気づくのが遅れたのもそのためだ。たっぷり数秒かけて、変わりなくコンサートに興じる二人の姿を眼に収め、すぐに小ぶりの雨による染みと見分けがつかなくなった塗料を確かめて、高村は大きく息を吐いた。

「いま、見捨てたな」

 吐いた息が凍った。

「見捨てたのだ。制止する余地はあったはずだ。貴様の能力と資質から、それが可能だと、少なくとも私は判断していた。だが、しなかったな。結果的にあの二名は無事だったが――」
「詭弁だ」高村は強く言葉を吐いていた。
「そのとおりだ」あっさりと、声は認めた。「大事なのは結果だ。肝に銘じておくのだな」

 言葉と同時に、高村は背中を突き飛ばされた。たたらを踏んで、振り返る。
 人いきれがそこにあった。高村のいる場も例外ではなく、全方位を人間の垣根に囲まれている。不自然にあたりを押しのけて逃走をはかる影などは、まったく見当たらない。
 白日の夢に近い数分を、証するのは確かに薄く貫かれた背中だ。疼いて痛みを発する傷口に触れ、流血を確かめて、高村は顔をしかめた。
 ついで、スラックスのポケットに手を運んだ。別れ際に何かを差し込まれた感触があったのだ。果たして、指が触れたのは、一枚の紙片だった。流麗な筆記体で短いメッセージが記されている。

 ――正門の前に結城奈緒を連れて来られたし。

 何度確かめてもそう読めた。高村は紙を握りつぶすと、アリッサ・シアーズの歌の終わりを待たずに、結城奈緒の姿を求めて人ごみをかきわけだした。


  ※


「凄かったねえ千絵ちゃん……。今のライブ」
「うん……。いや、本気で、一生モノかもしれない」
「あとでアリッサちゃんにサイン貰っておく?」
「それいいね。なら、高村先生に頼んでおこうか。あ、舞衣、高村先生は?」
「え、あれ? さっきまでここにいたんだけど……。はぐれちゃったみたい。って、命と玖我さんもいないや」
「そういえば、あかねちゃんと倉内くんもいないね」
「あの二人は、まあ、そっとしておいてあげようよ」


  ※


 倉内和也が日暮あかねに告白されてから、三ヶ月ほど経っている。世間的には、まだまだ序の口というところだろう。和也自身もそう思っている。
 部内の仲間にあかねとの関係の進展を尋ねられると、たいていは曖昧な笑みでかわした。ごく僅かな親しい友人にだけは、ふたりの間にいまだ性を感じさせる接触がないことを打ち明けている。すると彼らは、いずれかの反応を示すのだ。さもありなんと頷くか、または、遅すぎると呆れるか。
 性行為は、学生の社会生活で隠れたバロメータのような位置づけにある。よほど放言しなければ、どうとでも虚偽でつくろえる程度のものでしかない、つまり取るに足らないことであると和也は思っているが、全体的に見れば彼は少数派に属した。大半の男女は、きそうように恋人か、あるいは不特定の相手との交渉を、披露するしないに関わらず、勲章のように考えているふしがある。未熟か、成熟か、経験の有無でそれらを断ずるのは真っ当なことである。しかし付随する諸々の煩瑣なやり取りを欠けば、ただの排泄に成り下がるのが性行為だ。薄利で自前のそれをさばく人間を、和也はどうしても受け付けなかった。
 それを軽薄だ、と感じる心象は、和也の育ちに起因している。

 彼はいわゆる富豪の息子だった。親は風華でも指折りの名士である。片田舎では、そうしたラヴェルは存外大きい。旧い家柄を保ち、今なお財をたくわえる親族は、誇りの意味を知っていた。
 注目を受ける存在にとって、矜持とは常に外面に示されるものであった。それは本来のあり方とは切り離されて評価される。親、子供、孫……連綿と紡がれる家系に、向けられるのは善悪問わず多数の視線だ。
 牢記すべきは、警戒は悪意にだけ向けるものではないということだった。油断をすればのぞかれる。のぞかれた箇所が隙であれば、権威に傷がつく。傷は錆を招き、やがて骨身を腐らせる。
 スキャンダルと一口で片づけられない闇が旧家にはある。彼らは何より醜聞をいとう。風土と、文化と、気質が、そんな性を育てる土壌となっている。和也もまた、幼い頃からその環境に親しんできた。
 そつなく生きることを求められた。失敗をしても挫折をしても構わないが、逸脱だけはしてはならない。愛を持って彼を育てた家族は言葉にしないまま、和也にそれを伝えていた。誰にとってもなかば習性のような気概である。あるいは誰一人意識していなかったのかもしれない。
 地元の近い年代に神崎黎人という傑物がいたこともあり、誰も完璧であることを和也には求めなかった。ただ、無難であればよいとされた。ただしそのアヴェレージは、一般のラインよりは引き上げられている。
 とはいえ、さすがに男女交際を厳しく制限するほどではない、と和也は思っていた。
 だから意識下の防波堤に、日暮あかねの告白は妨げられなかったのだ。
 屋上に呼び出されたとき、彼が最初に懸念したのは、上級生による呼び出しか、もしくは悪質ないたずらだった。可愛らしいシールで封緘された丸文字の手紙というのが、あまりに定跡を思わせて、ためらいを呼んだ。
 倫理は比較的強固だという自負はあっても、過ごした時間はあくまで現代に沿っている。交際といえば、メールか電話か、もしくは身内からの紹介で、というのが和也にとっての常道だった。ゆえに彼の思考は迂回路を右往左往して、あまりにストレートな出口にたどりつかなかった。
 かなり緊張した様子で和也を待ち受けていた少女には、かろうじて、隣のクラスで見かけたことがある、という印象だけを持っていた。とすると、手紙に署名がある「日暮あかね」とは間違いなく彼女のことなのだ。そこでようやく本物のラブレターだ、と多少呆気に取られた和也に向かって、哀れなほどどもりながら、あかねは単刀直入に切り出した。

「あっ、あの、きっ、きてくれてありがとうございますっ。あ、わ、わたしと、その、だめだと思うんですけど、つつ、付き合ってください!」

 視線は逸れていた。おまけにあかねは頭を下げて和也に手を差し出している。漫画みたいな子だなと、動揺しながらも和也は思ったものだった。
 ありふれてはないにせよ、奇抜な馴れ初めだったわけでもない。
 三ヶ月を経てもあかね本人にすら言えずにいる秘密がある。このとき逡巡した和也が咄嗟に告白を受けたのは、実のところ、あかねが泣きそうだったから、という程度のものだった。軽佻浮薄な気風に対する反骨とは矛盾するかもしれないが、彼もやはり異性には興味があった。中学時代も何度かそんな空気を感じたことはあるが、気恥ずかしさが勝り、まともに女子と向き合えずにいた。
 見たところあかねは可愛らしく、一見で断る理由もなかった。和也にも、特に気にかかるような女性がいなかったこともある。
 告白を受けると、あかねは信じられないような顔をした。
 そしてやはり、泣いたのだった。
 予想と違っていたのは、それが顔を歪めるような泣き方ではなかった点だ。嬉し泣きや悔し泣き、というのを和也はしたことがない。子供の頃から続けているサッカーでも同じだった。辛勝しても惜敗しても、それなりに喜び悔いはしたが、落涙するほどの経験はなかった。
 悩んだことも気にしたこともなかった。他愛ないことだ。
 しかし、日暮あかねは、それをたやすくしてみせた。
 瞳全体が潤み、下睫毛のふちに滴が溜まるのを和也は見た。震える目尻に水滴が傾いていった。決壊の瞬間はほどなくやってきた。涙はあふれ、こぼれて、まるいあかねの頬の輪郭をなぞっていった。
 感情の結晶だ。和也は、子供のように感心した。
 興味の始端はこのときだった。あるいは、和也もこの瞬間にあかねに恋をした。
 互いに初めてづくしの交際は、一日とも気の休まるときはなかった。思うように詰まらない距離、体臭を感じただけで勃起するどうしようもなさ、手を握る一事さえ、思うように運ばない。初めて家に招き、翌週に母親が和也に伝えた言葉。それは日暮あかねとの絶交をやんわりと勧めるもので、理由は彼女の家柄にあった。もちろん和也はそんな横槍は問題にしなかった。父だけが、こっそりと和也を応援してくれた。それらの大半は、あかねには当然おくびも見せていないが――
 付き合い始めて少し経ったころ、交わした約束があった。

「くらう、じゃなくて、ねえ、和也くん?」放課後の帰路だった。バイトをともにせず、まだ名を呼びなれないあかねが、はにかみながらある提案を持ち出した。「あのね、あたし考えたんだけど」
「うん」
「ルールが要ると思うんだ」
「ルール?」部活疲れもあって、心持ち思考のめぐりが悪かった和也は、鸚鵡返しに尋ねた。「それは、俺たち二人にってこと?」
「そう」あかねは神妙に首肯した。「そういうのあったほうが、長続きするんだって」
「ああ……その番組、俺も見たよ」
「あ、ばれちゃった」あかねが舌を出した。「で、でさ、どう思う?」
「いいんじゃないかな。実際守れるかどうかってのもそうだけど、何が大事かって相手にちゃんと教えるの、いいことだと思うし」
「だよね!」勢い込んで力を得たあかねが、勇みつつ指を折り始めた。「まずね、浮気はしない!」
「それは当たり前でしょ。ルール以前だ」
「そ、そっか……ごめん」いきなりしなびて、あかねがため息をついた。「あっ、倉内くんのこと信じてないってことじゃないよ! でもね、倉内くんって……」
「和也」
「か、和也くんって、すごく、もてるの。人気あるの。だからあたしがかってに不安になっちゃうの」
「え、そうなの?」水面下で人気があるといわれて嬉しい気はしないが、どうせならもっと早く知りたかったと思う和也である。「でも、それをいったらひぐら」
「名前!」
「あかね、ちゃん、も、もてそうだけどな」女性を名前で呼ぶのは、和也にとってあんがい気恥ずかしいことだ。
「ええっ。そんなことないよ、全然!」

 咳払いで話題を変えた。

「いや、褒め殺しあってもしょうがないんだ。ルールの話でしょ、ルール」
「そうでした」あかねが上目遣いで和也を見た。「えー、でも、あと何かあったかな。うーん、体重は聞かない、じゃなくてー。……そだ、デートは割り勘!」
「えー」
「えーって! なんでだめなの! 和也くん、だって今、バイトも何もしてないでしょー」
「いや、男にはさ……体面っていうの? そういうのがあるんだよ。それに、バイトはそのうち始めるってば。今、部活に慣れるのが優先ってだけでさ」
「そうなの? じゃあ、よかったらあたしと同じバイト先にするといいよ。ちょっと忙しいけど、給料いいし、カワイイ子が多い……から、やっぱり止めようか……」

 見る見るうちに渋くなっていくあかねの顔を横目しつつ、

「あかねちゃんはさ」と、和也はいった。「自信、持っていいと思うよ。俺、たぶん、あかねちゃんが思ってるより、あかねちゃんのこと、好きだよ」
「そっか。そうだと、いいな。うれしいな。ありがとう」赤面するかと思いきや、あかねは率直に、喜色をたたえて微笑した。「でも、たぶん、あたしのほうが、もっと和也くんのこと好きだと思う。どれくらい好きかって知ったら、きっとひいちゃうくらい。地球より好き」
「地球って、大きく出たなぁ」
「それくらい本気ってことです」あかねが胸を張る。「あ、もういっこ思いついたよ、ルール。こういうのどうかな。『隠し事をしない』」
「俺は別にいいけど」和也はにやりと笑ってみせる。「あかねちゃんはいいの。聞かれたら恥ずかしいこととか、聞いちゃうかもよ」
「そ、そういうのじゃないの! もう」頬を膨らませて、あかねが人差し指を立てた。「なんでもかんでも話すってことじゃないよ。誰にだって、話したくないことはあるもの。あたしにも、たぶん和也くんにもあると思う。だから、隠し事っていうのはそういうのじゃなくて、二人がね、うまく付き合っていくために、きっと色んなことがあると思うんだけど……」
「たとえば、不満とか?」
「そう」あかねが頷く。「あたし、けっこうヤキモチやきだから、それで困らせちゃったりとか、あると思う。自分でも気をつけるけど、それを忘れちゃうこともついあるから、そういうときには、和也くんが、ちゃんとしかってほしい」
「叱るのとか、苦手なんだけどなぁ」
「だめ。ちゃんとするの」いたずら含みに、あかねが笑った。「ただくっついてるだけじゃなくて、それだけでもあたしは十分幸せなんだけど、あたしはできれば、和也くんにも幸せになってほしいんだ。だからね、相手に言いたいことがあるときや、甘えたいときや、叱ってほしいときは、ちゃんと、そうとわかるようにしたい。してほしい。そうすれば、素敵だと思うんだ」

 理想論といえばそうに違いない。しかし目に見えない含蓄がある、あかねの言葉だ。和也は何度も頷いた。

「そうだね。それは、すごくいいと思う」
「でしょ。だから、あまり考えたくないけど、考えるだけでも辛いけど」言葉どおり、あかねがしんから怯えた素振りで、つま先を見つめた。「和也くんに、ほかに好きな人ができたり、あたしが嫌いになったりしたときは、ちゃんと、言ってね。あたし、もしかしたら、また泣いたりしちゃうかもしれないけど、でもさ」
「あかねちゃん」和也はあかねの言葉を遮った。
「はい!」あかねがぴんと背筋を伸ばして、和也を見つめた。

 彼女へ和也は手を伸ばした。気概は体ごとぶつけるほどだ。心の距離を詰めるため、臆している場合ではなかった。
 あかねは凝然と差し出された掌を見る。

「えっと?」

 和也は、切りつけるように重々しく、いった。

「俺と、手を繋ぎませんか」
「はい」ぽかんとあかねが答えて、手を取った。「つなぎましょう……」

 はじめは握手のかたちだった。それでは歩きにくいことに気がついて、どちらともなく、指をからめた。あかねはしきりに、水仕事で荒れていて恥ずかしいという類の言葉をいったが、和也はただ強く握り返すことで応じた。
 それから岐路にさしかかるまで、ほとんど眼を合わせなかった。手を繋ぎながら、関係のないことばかり喋りあった。
 そのときのことを、倉内和也はよくおぼえている。まだ寒々しい五月の風が、無言の約束でわざと遠回りをして通るあぜ道が、暮れた日が飛ばす紫と緋の雲の切れ端が、強烈に和也の記憶に残っている。

 ――そして、ここのところずっと塞いでいたあかねが、いま、ライブを終えて、はしゃぎつかれている。

 はじめ控えめに歌を聴いていた彼女も、観衆の熱気にあてられ、徐々にまとめていた髪を振り乱すほど歓声をあげていた。右手をステージにふる傍らで、和也は彼女の左手をずっと握っていた。ライブがはけても、ずっとつないだままでいた。あかねも拒まなかった。
 人垣から離れ、無作為を装って、和也はひとけのない方へと歩を進める。

「はは。汗びっしょりだ。すごいんだね、ライブって」あかねに笑いかけた。
「あたしも」あかねが薄く笑った。「やだ、汗臭くないかな」
「平気だよ。雨もちょっと降ってたし」
「そうなの? ぜんぜん気づかなかった。それにしても、暑いね……」
「うーん、じゃ、裏山のほうに行こうか。こっち通ればすぐだし、あそこなら涼しいと思う」
「あ、でも、舞衣ちゃんたちに何も言ってない」
「大丈夫。楯にさっき言っておいた」嘘ではない。あらかじめ、あかねと二人きりになって話をするつもりが、彼にはあった。「よかった。少し元気出たみたいだ」

 数拍息を詰めて答えあぐねたあと、観念したように、あかねは目を細めた。

「……うん。そうだね。カズくんのおかげ」
「だといいんだけど、どうも、思ったみたいにスマートにはいかないね」苦笑で受け止めた。「正直、あの初等部の子のおかげって感じがしてしょうがない」
「あの子、すごかったもんね」今度こそ屈託なくあかねが笑った。それから、深く息を吸った。「――あのね、カズくん」
「あ、ちょっと待って」

 タイミングをはかるあかねの機を、和也はあえてずらした。引いていた手を離し、かわりに彼女の正面へ向き直り肩に手を置いた。されるがままのあかねの顔を間近で見つめた。

「カズくん?」

 そうして、自分としては慎重に、あかねにとってはかなり性急に、唇を重ねた。汗や、雨や、草の立てるあおい匂いに、遠のいた喧噪を背後に回して、ただ触れるだけのキスをした。あかねの肩がわずかにこわばったが、それもやがて和らいで、柔らかな手が和也の胸に添えられた。
 唇が離れると、やや上ずった声で、和也はいった。

「俺は、あかねちゃんが好きだよ。たぶん、これからもずっと、なにがあっても、好きだと思う」
「うん。……うん」
「言っておくけど、地球より好きだよ」
「あは、それ覚えてたんだ」
「当たり前だよ」
「嬉しいな。ただ好きっていってくれるだけでも凄いのに、そういうこと言われちゃうと」

 人差し指と中指で己の唇に触れながら、あかねもまた、かすれた声で答えた。

「俺さ」考えをようよう整理しながら、貴石でも並べるような心持ちで、和也はいった。「『隠し事はしない』っていうあの約束、ちゃんとおぼえてる。あかねちゃんが迷って、悩んでるのも、きっとそういうことなんだろうなって思う。それで、すぐに言えないってことは、きっととても大変なことなんだと思う。それなりに必死に、ずっと考えてたから、足りるかはわからないけど、覚悟はしてる。……ああ、うまくまとまんないな。だめだな俺。だから、あのさ、結局はこういうことなんだ」

 気を抜いた。背伸びをやめて、和也は率直に、あかねに告げた。

「相談してほしい。力になるよ」
「……うん。ありがと」

 手が背中に回される。和也は体温ごと、あかねの心を受け取った気がした。
 和也は今また、あかねの感情の結晶を見た。心が満たされる。触れて通じるだけで、ただの他人がここまで近しくなるのだ。これはとてつもないことだ、と彼は思った。素晴らしいことだ。

 ――そこに、第三者が割り込んだのだ。


 ※


「すいませーん。ちょっと聴きたいことがあるんですけどー」

 年のころ13、4と思しき少女だった。やや野暮ったいシャツと白い麻のパンツを着飾っており、あかねよりもやや小柄で肩幅も狭い。それでいて華奢な印象がないのは、全身に活力が見て取れる溌剌さがあるためだ。日系の造作で際立つのは、天然であろう編まれた茶色の髪と、双眸の蒼だった。

「そちらのヒトは、ヒグラシアカネさんでいーですか? あの、人違いじゃないですか?」
「え、ええ……」あかねが、戸惑いながら頷いた。突然の闖入者に反応しきれず、いまだ和也の腕の内にいた。
「ああ、よかったぁ」少女がほっと胸をなでおろした。「間違えたらタイヘンですからね。ふふ。あっ、自己紹介しなくちゃ!」

 そこでぴしりと敬礼の所作を取ると、少女は元気に声を張り上げた。

「あたしは夢宮ありかっていいます。中学二年生です。よろしくお願いしますね、アカネお姉さま!」
「あの、あたしになにか……?」

 訝りを満面に込めて、あかねが問う。和也は口を差し挟む機会を逸していた。少女、夢宮ありかの独特な調子にも一因はあるが、もっとも大きい理由は、ありかが完全に和也を無視していることにあった。
 意図は感じられない。悪意もないようだ。ごく、当たり前に、和也はありかの視界から外れている。闊達で軽躁な挙措とその陰湿な行為が結びつかず、ひたすらに言葉を封じられる。
 ありかは変わらず笑んでいる。爛漫な瞳の輝きに、底が知れない。大げさな身振りで両手を広げると、訴えるように胸で組む。表情ひとつに、わかりやすい言葉が見えた。請願のゼスチュアだ。
 どこまでも真摯にありかがいった。

「あたしと、戦ってください。世界と命と未来を賭けて」

 乞われたあかねは、返事すらできなかった。間近にいた和也が、突如としてくずおれたからだ。
(え……?)
 膝から地面に落ちた和也も、声ひとつ漏らせない。脇腹が熱かった。異様な熱と極端な冷たさが、腰の上から上半身全体へ拡がった。

「かっ、カズくん!?」

 頭上で慌てるあかねの声が、いやに大きく聞こえた。力の抜けた下半身を膝でどうにか支えつつ、左手で熱のもとを和也は探った。
 冷たく、硬い感触がそこにある。腹部から生えている。形状は細く鋭く小さい。視線を下げれば、小ぶりなナイフが深々と、腹に突き立っていた。夏服の生地を、赤黒い液体が次から次へと湧き出して朱に染めている。
 痛みはない。
 恐怖と困惑がある。
(なんだこれ)
 全てに対して、和也はうめいた。

「抜かないほうがいい」

 四番目の声も、頭上から落ちてくる。
 またもや少女だった。いつからいたのか、ヨットパーカーとショートパンツでラフに装った異国の少女が、鋭く乾燥した目つきで和也とあかねを見つめていた。この少女に刺されたのだ。遅まきながら和也は事態を察した。

「やだ、血が」

 震えるのはあかねの声だ。和也はわずかな身じろぎもできない。自分の体内に金属が埋まっているという事実が恐ろしい。へたな動きがどれだけ悪い事態を招くか予想もできない。あとから溢れる血はひきもきらない。逆さにしなければと彼は思う。このままでは、体中の血がこぼれてしまうのではないか。
 白む視界の上方で、変わらず明るい声が響いていた。

「ここががんばりどころですよ! 勇気を出して、ファイトです!」

 あかねを逃がさねばならない。
 急激に乾く喉に空気を通しながら、和也は湧き出す汗を鬱陶しいと思った。目の前に水平な地面が見えた。いつの間にか横たわっていたらしい。怪我は大したことがないはずだ。無理やりにでもそう思い込んだ。足腰に力が入らないこの感触には覚えがある。貧血だ。
 こんなものは我慢していればすぐに直るのだ。
(あかねちゃんに伝えなきゃ。平気だって)
 なのに、声が出せない。情けなくてしようがない。

「カズくん! カズくん!」

 胡乱で狂った世界のなかで、あかねの声と顔だけ鮮明に感じた。曇空を背負ったあかねの顔から涙が伝っていた。彼女をこういうふうに泣かせたくはないのにと、彼は思った。


 ※


 蝶が飛んだ。玖我なつきの視界をゆっくり横切った。誰にも何も告げず、なつきはライブ会場から離れ、校舎へと足を向ける。招くような蝶の動きに、誘われるかたちだった。玄関の靴箱を抜けると、蝶は墜落してリノリウムの上に咲く花となった。水仙が白い花弁を広げ、即座に萎れて朽ちて落ち、残骸が白いうさぎになった。うさぎは「遅刻だ、遅刻だ!」と叫ぶと、後ろ足を跳ね上げ、さらに学校の奥へと走っていった。

「ずいぶんと、メルヘンな趣向だな」なつきは皮肉な笑みを浮かべた。

 手にはもうエレメントを提げている。
 行く手に待ち受けていたのは異界へ通じる穴ではなく、使われていない無人の教室だった。開いたままの扉を抜けると、完全な午後がなつきを迎えた。
 外界と隔絶された昼下がりがそこにあった。陽光の育てる黄金に満ちたテラスに、白いテーブルひとつとデッキチェアが二脚、あつらえられている。
 椅子のひとつに、なつきへ背を向けて座る人がある。なつきは微塵も油断せず、引き金に触れながら誰何した。

「凪じゃあないようだな」
「ええ、違います。彼はここには来れませんから」

 幼くも上品な声が返される。はじめて聞く調子にも関わらず、その声に、なつきは覚えがあるよな気がした。

「子供か」
「そう、子供です。貴女と同じですね、玖我なつき」
「アリス気取りの賢しらなガキに、ガキ扱いはされたくないな」
「それは失礼しました」

 金色の髪が揺れて、正面に回ったなつきの眼に目映く見えた。蒼い瞳の直視を受けて、かすかになつきはたじろいだ。
 全天を圧する力が、少女の五体からあまねく投射されている。先刻感得した異様な力と、それは同質だ。容貌の相似性に感覚が後押しをして、なつきはとある名前を口にした。

「アリッサ・シアーズ……?」

 顔は違う。雰囲気も違う。体格も年齢も違う。同じなのは髪と、眼の色くらいのものだ。しかし、座して紅茶をすする少女は紛れもなくアリッサだった。

「そうですね」と、少女は頷いた。「わたしはアリッサです。名前ではなくそういうシーニュです。今となっては……たんなる記号、銘辞にすぎない。ですから、シアーズと認識していただければよいでしょう」
「どういうことだ?」なつきがいった。「さっき歌っていたアリッサとは、どういう関係にある」
「姉妹ですよ」と『シアーズ』は答える。「貴女と同じにね。彼女と貴女につながりはありませんけれど、わたしと貴女にはつながりがある。そういうことです」
「姉妹、姉妹か」なつきは口はしを歪めて黙考する。「まて。わたしとおまえだと?」
「あの子は最高の性能を有しています」シアーズは一方的に続けた。「システムから離れて独自のアカウントを形成した。外的な要因が、それをさせたのでしょう。そこは、もとのわたしに似ているかもしれませんね」
「招いたのなら、わかるように喋れ。貴様は……つまり、シアーズ財団の手のものだな?」
「わたしの元の肉体には玖我紗江子の遺伝子が、一部流用されています。姉妹とはそういうことです」
「―――――――え?」

 不意を討って、予想だにしない答えをつきこまれる。致命的だと知りながら、なつきの思考は一瞬で漂白された。

「貴女はとても優秀で直線状です。最終的には誰よりも真相に近づけるでしょう。けれど、脆弱ですね」

 いとけない仕草で、シアーズは笑う。注がれた紅茶に何度も息を吹きかけ、慎重に液体をすする。

「待て……待て。何を……言ってる……? 玖我、紗江子だって? 貴様が、わたしの、母さんの?」
「しかたのない人」シアーズがため息をついた。「感情が、思惟を阻害していますね。大切なのは、どちらでしょう? 玖我紗江子の存在ですか? それとも貴女のなかの彼女の記憶?」

 目眩がなつきを襲う。気付けに舌を噛み、凶悪に眼を眇めて、彼女はシアーズに銃をつきつけた。

「嘘を、つくな。こんなペテンにかかってたまるか。母さんに、わたしのほかに子供なんて、いるはずない」
「そうですね」シアーズはやすやすと頷いた。「彼女は、わたしを、娘とは認めないでしょうね。そもそも、わたしはどこにもいないのかもしれません。この世界と同じですね」
「……もう、いい。わたしが聞きたいのはそんなことじゃない。シアーズについて」
「世界をどう思いますか?」
「真面目に会話する気がないのか」
「いえ、ありますよ」シアーズは苦笑した。幼さに見合わない表情だ。「ただ、この階層ではいろいろと、不都合なことが多いもので……。いけませんね、伝えることに、横着になっています。玖我なつき。わたしが言いたいのはこういうことですよ。なぜ、この広い世界の中のこの狭い地域に、世界の命運がかかるのか? どうして、その天秤を少女が担うのか。疑問に思ったことは、あるはずですね」
「どうやら、ずいぶんと事情通のようだ」なつきは捨て鉢にいった。「考えたことはあるさ。だが、貴様にはかかわりのないことだ。それでも答えるなら、そうだな、運命とかいうヤツの仕業じゃないのか? それをさらにどうして、だなんて考えたって意味がない」
「もっと考えてみてください。真剣に、世界の実相を透徹する俯瞰に立って視るのです」アリッサは教師のように丁寧に言い含めた。「見えてくるものがあるはずです。ワルキューレならば。この、不自然に傾斜した世界のありように気がつくはずです」
「哲学者の仕事を奪うつもりはない」
「それをしているのが、まさしくこの世界なのですよ」シアーズは冷めた顔で告げる。「因果が、一段高みで操作されている。高きから低きへと流れ込むように。このとき、この場所以外のすべてが、ないがしろになるように。錆びたマキナのデミウルゴスが、馬鹿げた箱庭をつくって遊びに興じているのです。創世と末法を繰り返し、矮小な価値観と狭隘な掌の上で」

 なつきは馬鹿馬鹿しさに鼻を鳴らした。

「宗教の勧誘ならよそでやれ。わたしは無神論者だ。運命とはいったが、それが神の手によるものだとは思わない。媛星も、滅びも、HiMEだって、すべては現象だ。説明はできるんだ。オカルトを持ち出すなよ。そういう年ごろなんだろうが、な」

 アリッサは紅茶を飲み干すと、ゆっくりと否んだ。

「神の話はしていません。それを冒涜する偽神のお話です。ヤヤウキ・テスカトリポカ、あるいは――」

 そこではじめて、敵意を見せる。意思によらず漏洩する、それは冷えた殺気だった。

「『黒曜の君』と呼ばれるものです」

「ハイ、それまで」

 とたん、空間がひび割れた。
 ガラス質の破砕音を立てて、一面が光の粒へと融けていく。
 演出された昼下がりが、もとの塵埃と湿気と暑気に侵食されはじめる。ティーセットも机も椅子も、蜃気楼のように揺らめき、消えかける。当惑するなつきに向かって、シアーズはゆったりと微笑みかける。

「言霊を呼んでしまいましたね」
「それ以上喋るのは許可してないよ」聞いたこともない、鋭い声色で、炎凪がシアーズをねめつけていた。「キミはなんだい? ずいぶん物騒なことをするね。へたをしたら、この学園ごとそっち側にまっさかさまだ」
「血を分けた人との歓談です。大目に見てください」シアーズは凪を一瞥さえしない。
「だめだね」凪の眉目が、さらに険しくなっていく。「読めてきたぞ。高村センセに手を加えたのも、キミかい。ひとが一生懸命考えた脚本を台無しにしてくれちゃって、どうしてくれよう」
「さて」シアーズは答えない。「ではまた。いずれ、殺しにうかがいます。貴方の上役ともども」
「……化物め」

 敵意もあらわに、凪は吐き棄てた。
 シアーズは意にも介さず、なつきを見つめた。

「生き残りたければ、高村恭司を使ってください。彼も真の黄金時代は迎えられないとはいえ、有用な道具ではあります」
「待て。高村は、高村が……」咄嗟に言葉をうまく紡げず、なつきは結局押し黙る。
「時間が余りましたので、もうひとつ忠告を。これから出会う騒がしいあの子が粗相をするかもしれませんけれど、死にたくないのであれば、決して彼女と干戈を交えてはいけませんよ」
「……待てといっている。おまえは、本当に……」

 妹、なのか。
 最後の言葉が吐き出せない。それを留めるものの正体は、なつきにもわからない。
 見透かしたようにシアーズは笑うと、軽く小さな手を振った。

「ごきげんよう。見知らぬ異国のお姉さま。また、午睡する世界でお会いしましょう」

 無邪気な笑みとともに消えた。
 立ち尽くすなつきと渋面の凪だけが教室に残された。


  ※


 奇形の大樹が、節くれだつ幹を地に据えて、甘いにおいを漂わせている。桃は夏が収穫の時期である。しかし、『運命の樹』とも呼ばれる風華学園前に生えるこの樹木になる果実を、食そうという人間はいない。異常があからさまだからである。

「ここで、何があるっての?」

 不意に押し黙った高村を見もせずに、奈緒があくび交じりにいった。コンサート会場から彼女を連れ出すのは存外簡単だった。あの空間が、よほど耐えかねたものらしい。

「用ないならショップの出店はやく行かない? 新しいケータイ買わないとなんないし」

 なんとも答えかねて、高村は引き続き沈黙した。
 奈緒はあからさまに気分を害した様子で、舌打ちした。

「シカトかよ。感じ悪いな。アンタって、なにがしたいの?」
「……結城も、それを聞くんだな」思わずうつむく高村だった。「俺はそんなに行動に一貫性がないか」
「イッカンセイ? わかんないけど、説明は別に要らない。まあ、なんか、あれよ。……ちょうど、あたしもセンセイに聞きたい事があったんだ」

 居心地悪そうに両手を組みながら、奈緒がそっぽを向いて、口を開きかけた。

「色々とあるんだけど、やっぱあれ? あたしって、アンタに、助け――っと?」

 彼女のセリフを切ったのは、樹の前に横付けした高級外車だった。黒塗りのメルセデス・ベンツである。背後のナンバープレートを目にして、高村はひそかに息を詰めた。
(青地白抜き。ってことは、外交官ナンバーか)
 いよいよ、庶民の世界からかけ離れてきた。
 奈緒は停まる高級車に、じろじろと不遜な眼を向けている。
 ほどなく後部ドアが開くと、高村は前に踏み出した。

「まさかこれに乗るの?」嫌そうに奈緒がいった。
「そういうことだ」負けず劣らず、高村も気が進まない。

 息を整え気を引き締め、くるぶしまで埋まりそうな絨毯へと、高村は安物の革靴を押し込んだ。
 車内は空調が利いていた。革張りのソファ、テレビ、ワインクーラーが、クリスタルのテーブルを中心に配置されている。

「ヒッデェ内装」奈緒が呆れてぼやいた。

 高村も同意見だった。彼も外交官仕様の車に二三度乗ったことがあるが、ここまで悪趣味に飾られた車は見たことがない。

「私も、これはさすがにどうかと常々思っています」苦笑で答えたのは、上座に位置どる男だった。「ようこそ、高村恭司さん、結城奈緒さん。私はシアーズ財団広報四課のジョン・スミスと申します」
「ジョン・スミス……」

 呟き、奈緒がしかつめらしく眉を集めた。映画に明るい彼女だ、ジョン・スミスがあからさまな偽名であり、相手にそれを隠す気がないことを悟っているのだろう。奈緒ならば仮装空間ではなく西部劇のほうを連想するのだろうと考えながら、高村はスミスに向き直った。

「お名前はかねがね。それで、用件はなんでしょう」
「直截でよいですね」スミスが破顔した。「そういうのは、好みです。では前置きを省いてこの会合の主旨をご説明いたしましょう。まあ、確認と、報告と、相談ですな。手始めの確認というのは言うまでもなく、そちらのお嬢さん――結城奈緒さんでしたね。彼女についてです」
「……」容易に口は開かず、奈緒は品定めするような目をスミスへ射る。
「ある程度のことはドクター九条から説明を受けていると思いますが、具体的には何を? 簡潔でよいので、答えていただけませんか」

 奈緒は興味なさげに視線を切った。ついでのように、投げやりに答える。

「他のHiMEと戦うってだけ。別に、誰を、とかは言われてない」
「ああ、それだけわかっていただければ十分ですね」スミスがわざとらしく安堵した。「それで、条件は飲んでもらえたのでしょうか?」
「条件もなにも」奈緒が笑った。「選択肢なんてないでしょ。たとえば、ここでイヤだって言ったらどうなんの?」
「まあ、死んでもらうことになりますね」スミスが穏やかに答えた。「貴女にも、貴女のお母様にも」

 奈緒の余裕が一瞬で切り崩されるのを、高村は見た。

「……なんで……」

 慄然と、奈緒が口元に手を当てた。急にせわしなく視線がさまよった。
 スミスは平然と、奈緒を真正面から見詰めている。事務的な口調は変わらずに続いた。

「結城奈緒さん。風華学園中等部三年、女子寮在住。実家は○○県■■市。19××年六月十三日生まれ。血液型はABO分類でB、Rhではプラス。スリーサイズの情報も一応ありますが、レディの気持ちを鑑みて、省略させていただきましょう。――とまあ、この程度は十秒もあれば誰にでも調べられますな。家族構成は、母ひとり子ひとり。もとは四人家族でしたが、五年前、奈緒さんが十歳のおり、実家に強盗が押し入り、お父さまと弟さんが殺害されておりますね。ああ、お母さまもこのとき暴行され意識不明の重体に陥り、今なお快復の兆は見えない。……端的に言って、なかなか珍しい環境でお育ちのようだ」
「あ……ぐ」奈緒の顔色が見る間に褪めていく。
「スミスさん」高村は思わず口を挟んだ。「それ、なにか意味があるんですか?」
「ありますよ。ですから確認といったでしょう」スミスはこともなげに頷いた。「情報に過誤があれば大事ですからね。――さて、事件の後、お母さまは入院、結城さんは父方の祖父母のもとに引き取られるも、折り合いがつかず、転校した小学校でも問題を起こし、さらに母方の伯父夫婦の元へ転居。ああ、この機会に父方の親類とは絶縁状態になっているのですね。しかし残念ながら、この伯父夫婦の下でも、問題が起きた。児童相談所に届出の記録が残っています。しかしこの際、当局の介入はなかったようですな。その後、当時の担任の勧めで心療内科に通院し、PTSDの症状が認められるが、三度めの来院以降、徹底して治療を拒否するようになり、この頃から素行が荒れ始める。地元の中学校にも進学後、三ヶ月で不登校になっていたそうですね。しばらく家にも帰らない日々が続き、それが二週間を越えたところで、かつて住んでいた町で補導され、家出が終わった。それから一ヶ月ほど学校に通いますが、今度は学内で傷害事件を起こし、自主的な転校を要請され……そこに風華奨学生制度の勧めを担任から受け、現在の風華学園に編入した。……どうでしょう。ここまでの記録に間違いはありませんか。ないようでしたら、先を続けますが」
「やめろ」

 爪を噛む奈緒は、スミスを殺しかねない目で睨んでいた。音がなるほど歯を軋らせ、一度だけ俯き、次に顔を振り上げると、もうそこには敵意しか残っていなかった。

「なにか質問でも?」スミスがいった。
「死、ね」瞬く間にエレメントを装着し、奈緒が手を振るった。
「では、お母さまを道連れにさせていただきます」

 アンカーがメルセデスの天板を引き裂き、耳障りな音を立てた。ソファが深く切り込まれて、内部の綿が露出した。ワインボトルが中途から割れて、アルコールの饐えたにおいが車内に充満した。
 異常に気配を研ぎ澄ます結城奈緒は、すんででスミスへの攻撃を止めている。しかし害意を収める気配は毫もない。爛々と濡れる瞳は血走って、彼女を狂猛に駆り立てた。

「そんなんで、脅しになるとでも思ってんのかよ。あんな死に損ない、今さら死んだって誰も困らないんだよ!」
「事実を言っただけですので」スミスは動じない。「そう、最後に貴女がたのガーディアンが敗れた場合のリスクについてです。これはご存知でしたか?」
「命だろ」唾を吐くように奈緒は答えた。
「……そうらしいですな」スミスが軽く肩をすくめた。「では、次は報告です。私も忙しい身ですので、これは手短に済ませましょう。ドクター九条が失踪しました」
「ちょっと待ってください」高村はすっかり割り込む機会を逃していた。突然の言葉に、慌てて身を乗り出す。「失踪って? 九条さんは昨日沖縄に行ったんじゃないんですか」
「ですから、そこで、失踪したのです。以降の足取りはつかめません。事件と事故の両面から目下調査中ですが、さて、叩いて埃さえ出てくるものかどうか」
「そんな……」脱力して、高村はシートに背中を預けた。
「ということですので、以降貴方にはジョセフ・グリーアの指揮に従って行動していただきます。なに、基本的にはなにも変わりませんよ。なんなら、教師を続けてもらってもいいくらいです」

 高村は目頭を押さえ、大きく深く息を吐いた。不意に意識されたのは、傍らでいらいらと足を震わせる奈緒の存在だ。落ち着きなく揺れる頭が、引きつった目尻が、浅く早い呼吸が、彼女に余裕のないことを示している。
(俺が、しっかりしないとだめだろう)
 じくりと刺された背中が疼いた。痛みが苦い訓戒を教えている。
(うまく、行かせるんだ。できることで、最善に導くんだ)
 昨日、深優とアリッサに対してしたように。
 本当の無力などない。高村は、吃とスミスと瞳をあわせた。

「それは今後考えましょう。それで、最後の用件は。確か相談だとか言ってましたが」
「ええ、そうなのです」スミスは最後まで変わらずに穏やかだった。「今日、今からワルキューレをひとり落とします。予定を元に戻したいのでね。それで、誰からにしたものか、貴方に決めていただこうと思いまして」
「――」

 淡々と告げられた。言葉は鮮やかに理解のくぼみへ落ち込んだ。スミスの意図するところも、これから自分がすべきことも、あの忠告の意味も、瞬間で高村は理解した。
 心が乱れてまとまらない。思考はほつれて、結べない。織り上げ磨いた意思が、頼りない。高村は決めかけた覚悟が揺らぐのを感じた。
(やるか? ここで、こいつを)
 抜き身の刃を握る心地で、真剣に吟味する。
 ところで過ぎったのは、やはり先ほどの忠告であった。
 衝動で何もかもを擲つとは、まさにそうしたことだ。
(……だめだ。まだ、だめだ)
 牙の使いどころをわきまえなければ、獣以下でしかない。高村は少なくともまだ、人間であり続けなくてはならない。
 ジョン・スミスが並べるのは、見知った少女ばかりの顔だった。
 鴇羽舞衣。
 美袋命。
 杉浦碧。
 そして、玖我なつきだ。
 隠し通せていると思っていたわけではないが、現実的に提示されると、動揺は隠せない。高村は掌中ににじむ汗を、スラックスにこすりつけて隠した。
 本来ならここに、奈緒が加わるのだろう。そもそも、最初に選択されたのはまさしく結城奈緒なのだ。彼女は今にも敗北しようとしていた。そして、その負債を背負う寸前だった。
 見過ごせずに防いだのは高村だ。全てが己に返ってきているだけだ。そうと知っても焦りを消せない。
 さらに二人の少女の写真が、テーブルの上に並んだ。
 アリッサ・シアーズ。

「ちょっと、待て……」高村は震える声で呟いた。「なんだ……。どういうことだ。どうして、アリッサちゃんを?」

 スミスは、そこで初めて笑みを消した。

「差別はいけない。それだけです。彼女もまたワルキューレなのだから」

(バカな)
 媛星の力を手に入れる。それがシアーズの目的だと高村は考えていた。であればワルキューレ=HiMEの存在は必須なのだ。アリッサは、ラグナロクとかいう、馬鹿げた名前の作戦に不可欠な要素のはずだった。
(それを切り捨てるのか)
 あるいはこの会話自体が高村に対する試金石なのか。即時に判断するには、あまりに急迫しすぎていた。
 そして、最後のHiMEの顔を高村は知っている。しかし、彼女がHiMEであることは知らなかった。
 日暮あかねだった。
 はじめて受け持ったクラスの、はじめての生徒だった。今日も、今の今まで、行動をともにしていた。恋人の倉内和也と歩いていた。微笑ましく見ていた二人のうちの一人だ。
 吐気がこみ上げた。自己嫌悪のためだった。高村はすでに、計算を終えている。このなかで、誰が消えれば都合がよいか? 誰が落ちても支障がないか? 感情の箍から遠い場所で、脳内の算盤が勘定を遂げた。答えは明白だ。もっとも親しみがなく、もっとも付き合いが浅く、もっとも利用価値が低い少女。
 日暮あかねを切り捨てる。
 答えはあきらかだった。傷が痛んだ。心が言葉を反すうした。衝動が高村の体内で暴れまわっている。自問が反響している。全てを台無しにしてやれ。あいつに任せてしまえばいい。スミスを殺し、運転手も殺し、そのまま逃げてしまってもいい。世界の終わりなんか無視するべきだったのだ。九条むつみに乗ったのが運のつきだったのだ。短い余生と知っても、どこか自分と関わりのないところで、知らない少女が命をかけて世界を救うのなら、安閑としていられるのだ。それでいいんじゃないか。およそ、世界はそんな風に回っているのだから。車輪の下にしだかれた、瓦礫や骸を数えたところで不毛なだけだ。
 いや――
 それでも選ぶべきだと思った。苦しみを飲み偽善を排して、理性の判断を支持しなくてはならない。自分の手を汚したくないばかりに全てを擲つことこそ害悪だ。正しく、多数を救える方策を選ぶ。
(それでいいのか。あのトンチキな祭りと同じで、いいのか)
 独りでは決めかねることもある。答えの出ない問いもある。解に苦痛が伴う場合は山ほどある。それでもせねばならない。
 人間が、そんな折よすがにするものが二種類ある。両者は相反している。すなわち――

「スキか、キライかだ」
「……は?」奈緒が妙な目で高村を見た。

 気配を感じつつ、高村の腹は決まった。
 あとは言葉にするばかりだった。

「俺の……選択次第で、彼女たちの誰かを?」
「参考にはさせていただきますよ」スミスは計る眼で高村を観察する。

(決めたぞ。俺は覚悟を決めた)高村は拳をつくった。心が折れたとき、比喩ではなく高村恭司という存在は死ぬ。(見捨てる覚悟じゃない)と、高村は胸中で半ば暗示のように繰り返す。感情の地平までをもさらって、思いつくためらう要素を、軒並み吹き飛ばす。

(なげうつ覚悟を、決めた)

 暴挙に出る活力がほしい。手ごろな場所に、結城奈緒の追い詰められた顔がある。
 実のところ、いけすかない少女だ。世を拗ね大人を舐めて、そのくせいやに鋭く頭が回る。顔がかわいいのが始末に終えない。下手に出ても懐かないし、上手に出ればともかく反発される。爪に毒があり、大仰な牙を隠し持っている。塵界に背を向けひとり街を行く、彼女はまるで野良猫のようだ。
 高村は、そして猫が嫌いではない。

「結城」
「……んだよ」奈緒が刺々しく答えた。「早く決めれば? カミサマ気取りで。は! いい身分じゃんか」
「そうだな。まあそんなことはどうでもいいんだ。おまえはいつか、いいこと言ったぞ」
「は?」
「『やりたいことを、やればいい』」

 固めた右手を打ち出すまでの半秒間に、いくつかのことが起こった。
 まず車体が急停車した。仕切りの向こうで運転手が「ミスター、オートバイが一両併走して」と言ったところで、耳をつんざく激突音が、車を横から揺さぶった。
(バイク、乗れたのか)
 玖我なつきの顔を思い出しながら、ともかくも高村はスミスへ拳を突き出した。それを悠々といなして、スミスがため息をついた。奈緒は衝撃で床に投げ出されている。
 続けて、重い音が立て続けに四度響いて、断続的にメルセデスへ振動を伝えた。スミスの横手の窓に、拳大の凹凸が音の数だけできていた。窪みの周辺は細かくひび割れており、窓の外の様子はまったくうかがえなくなっている。スミスは表情を変えないままで冷静に呟いた。

「防弾仕様の窓ガラスです。無駄なことを――」

 そのセリフをあざけ笑うように、金属板を靴底に仕込んだブーツが、窓ガラスを蹴破った。
 飛び込んだ足はそのままスミスの顎をしたたかに打った。不安定な姿勢で腰を落としたスミスの眼前で、穴のあいた窓ガラスから次々と破片が零れ落ちてきた。ソウドオフ・ショットガンの台尻で突き崩しているのだ。米国産車上荒しもかくやというほどの手際で枠以外の全てを綺麗に削り落とすと、革のジャケットの袖とレミントンの銃口が車内につきこまれて、ぴたりとスミスをポイントした。

「こんにちは」と銃の持ち主はいった。「元シアーズの九条むつみです。ご機嫌いかが? あ、全員、手を挙げてね」

 遅いですよ、と思いながら、高村は「銃が相手じゃ勝ち目がないな」とわざとらしくいった。
 奈緒はひきつった顔で笑ったあと、不貞腐れたように「ちょっと、アンタらのことがわかってきた」と呟いた。
 反対側のドアを開け、這うようにして高村は路上へ出る。続く景気の悪い奈緒に手を差し出すと、鼻を鳴らして跳ね除けられた。

「調子が出てきたみたいじゃないか」
「……やっぱ、知ってたんだ」虚ろな目つきで、奈緒が高村を見た。
「ああ、お母さんのことか? 入院してるのは知ってた」高村はあっさり頷いた。とりわけ隠していたつもりもない。「しかし、過去のことはあんなに詳しくは知らなかったぞ。どうでもよかったから、基本スルーだ」
「どっ――」
「面倒だろう。好きでもない女の子の事情には、俺はそんなに深く関わらないことにしてるんだ」

 もう遅いけどな、と思いながら、かねてからの本心を打ち明ける。

「どうでも、いいって……」

 奈緒が、ぽかんと口を開けた。一瞬、なんともいえない顔になる。眉を下げて唇をゆがめたあとで、堪えきれなくなったように高い声で笑った。

「は――ははっ。あははっ」
「今のやりとりのどこに笑いどころがあったんだ?」
「はは、うっさい、バカ!」奈緒が、エレメントをつけたままの手で、高村の背を思い切り撲った。「バーカ、バーカ! アンタ、むかつく! あはは!」
「いってーなバカ!」傷口に響いて、高村は少し本気で腹を立てた。「おまえのほうがムカつくっていうの!」

 腹立ち紛れに、奈緒の足を払って転ばせる。地面に転がっても、奈緒はまだ断続的に笑っていた。気味が悪くなって、高村は彼女から目を切った。

「……」

 窓越しにスミスに銃を突きつけたままのむつみは、眼だけで高村を促した。学園へ戻れと言っているのだ。
 今しばらくは、彼女と行動をともにはできない。高村は頷くと、くつくつと笑う奈緒を引きずり起こした。

「立て、結城。たぶんまだ終わってない」

 周囲の景色にはあまり見覚えがないが、車内に居たのはほんの十数分だ。タクシーでも捕まえればすぐ学園に帰れるだろう。
 高村は最後にもう一度むつみを見た。強い頷きが返される。
 奈緒の手を引いて、走り出した。


 ※


「やはり、裏切りますか。どうしても、母親という役にこだわりたいらしい。なぜですかね?」
「あなたが知る必要はないのよ、ミスター・ジョン・スミス」九条むつみは平坦な調子でいった。

 銃口は逸らさない。

「彼らを向かわせても、もう遅いのですよ」とスミスはいった。「ひとりめには接触済みです。さきほど連絡がありました」
「そのために二人を引き離したの……」
「べつに理由はそれだけではありませんが、まあ、そうですな」スミスの眼が試すようにむつみを見た。「それで、どうなさるおつもりですか、ドクター。条件次第では、この行為にも眼をつぶっても構いませんが」
「あら、寛大ね」むつみは顔色を変えずにおどけてみせた。「じゃあ、そうしてもらおうかしら」

 固定したまま、彼女は引き金に指をかけた。

「娘のためなら殺人も辞さないと?」
「違うわ。わたしはわたしのために、あなたを殺すの」むつみはいった。「だいたいスミス、あなたおこがましいわ。もう人間でもないくせに」

 そのまま発砲した。
 結果を一目して、運転手がまだ意識を失っていることを確認すると、むつみは再びバイクにまたがり、アクセルを絞った。


 ※


 一度上がった雨が、また降り始めた。


 ※


 倉内和也の体温は刻一刻と下がっていく。周囲から懸絶した竹林の中枢で、日暮あかねは既に理性をひも解きかけていた。原初の感性にもっとも近い部分が、強引に表層へと引きずり上げられていくのを感じる。彼女のおよそ平凡だった半生で、ついぞ味わったこともない出力が脳を驚くほど撹拌していた。
 憎悪と殺意。
 絶望と敵意。
 憤怒と害意。
 ある種の感情の組み合わせは、人間から人格を失わせる。今のあかねもまたそれに近い状態にあった。どこからか召喚されたオーファンを一顧だにせず召喚した虎のチャイルド、ハリーで殲滅した。盛大な拍手を惜しまない夢宮ありかは、それを見て、あかねにこう言った。

「じゃあ、次はいよいよ本番です。今度こそ、あたしと戦いましょう!」

 さすがに鼻白むあかねを後押ししたのは、ありかに同行するもうひとりの少女がした、和也への銃撃だった。今度もまた、ためらいなく彼女は和也の足を打ち抜いたのだ。

「断れば、こうなる」と、少女がいった。流暢な日本語である。「撃てる場所があるかぎり撃つ。そのたび、この男の生き残る可能性が減っていく。死ぬ前に、そこの夢宮ありかを貴様が倒せばいいのだ。ルールは簡単だろう?」

 その情報をあかねが認識したとき、感情が沸点を越えていた。

「ゆる、せない」

 呼吸がうまく行えない。
 涙がこぼれて止まらない。
 好きな人には絶対に見せられない、修羅の貌で、あかねは刹那に決意した。

(この人たちを、殺そう)

 ハリーが二回りも体躯を増大させ、獰猛に吼える。無手の夢宮ありかは、その様子を見てもひるまない。腰を落とし、両腕を広げ、正面から猛獣を迎え撃つ体勢だった。
 直に、創立祭が終わる。
 夕暮れが近づいている。
 後夜祭を前にして、緋の燃える空に、大きな花火が上がった。

「すぐ終わりにするからね、カズくん。そしたら病院へ行こう。あたし、毎日お見舞いにいくよ」

 穏やかに独語した。
 構える夢宮ありかを指差した。
 昏い眼が少女を捉える。チャイルドが唸りをあげて四肢をたわませる。変質した少女の殺意は、指向性を有してありかへ刺さった。

「倒して、ハリー」

 巨像ほどもある虎の後肢が炸裂した。

「あ。これ、やばい」

 と、ありかが言った。咄嗟に差し出した左手がハリーの前足を受け止め、しかし御しきれず、あっさりとへし折れる。残る手を地に付きながらロンダートを切って、着地した瞬間に追撃が彼女を襲った。頭からの体当たりで軽く数メートルほど吹き飛ばされながら、ありかは泣き顔で「ミス・マリアのうそつき! むりじゃんこれぇ!」と叫ぶ。よろめきながら着地して、その場でえずくと胃のなかみを吐き出した。胃液には血が混じっていた。ハリーは間を置かない。即座にありかに飛びかかり、前脚でありかの体をあっさり押さえつけた。
 あかねは病的な眼差しで、和也と、銃を持つ少女を見やった。

「……まだ、やるの? ほんとに殺しちゃうかもしれないのよ?」
「構わない。夢宮を殺さなければ、この男もおまえも死ぬだけだ」少女にはまったく脅えたところがない。
「――そう」

 心を以って、あかねはチャイルドへ許可を与えた。ハリーがありかへ向けてあぎとを開いた。牙が少女の鎖骨と肩甲骨を丸ごと噛み砕き、柔肌を貫いて、赤々しく流血した。夢宮ありかは悲鳴を押し殺し、両腕を封じられた姿勢で、まだ諦めていない。驚異的な柔軟性で足をハリーの首に押し付けると、

「よい――っしょぉ!」

 勢いだけで跳ね上げた。
 ハリーの体が浮いた。

「……うそ」
「あー。死ぬかと思ったよぉ……痛い、かなり痛い」

 ようよう立ち上がるありかの顔色は冴えない。その左上半身は、酸鼻を極める状態になっていた。皮が引き裂かれ、筋肉どころか骨まで薄く見えている。内臓も傷ついているのだろう。口角から血混じりの泡が零れている。ありかはしかし、なおも戦意を消さなかった。蹌踉としつつも腰を落として、動く右腕を突き出して、無傷のハリーへ挑みかかる。

「さあこい!」
「っ」もう後には引けない。あかねは倫理をねじ伏せて、絶叫した。「ハリー!」

 転じた刹那に、虎は四肢を爆発させてありかへと殺到した。視認も難しい速度は一切の小細工を排した突撃だった。大質量の激突は、それだけで人体を砕く。
 ありかは、それを真正面から受け止めた。
 え、と茜が呆然と声を漏らした瞬間に、ハリーが身を細らせるような苦鳴をあげた。見れば、ありかの小さな手がその胴体に食い込んでいる。

「やっ、た。あは、は」

 獣を相手にがっぷりと四つに組んで、しかしありかもまた痛みに顔面を歪ませていた。首筋にはふたたび鋭利な牙がまともに突き立っている。ホラー映画で見るような派手な血飛沫はなく、傷口からはゆったりと、しかし大量の血液が規則的に湧き出していた。
 あとは茜が介在する余地のない死闘になった。
 首筋を噛み切られたありかの肉が地面に落ちる。鼻口を血で濡らしながら、致命傷を負ったはずのありかは止まらない。突き上げるように彼女の足が地を踏むと、ハリーに食い込んだ手先が肘ほどまで埋め込まれた。身をよじる虎は咆哮を上げて怨敵の顔面を一飲みにかかる。ありかは苦悶するまま、咄嗟の動きで左手を虎の眼窩へ埋め込んだ。もはやハリーは吼えなかった。ありかも軽口は叩かない。静謐のままに、戦局が最終局面へ移行した。
 いつしか、あたりは夜になっていた。
 再び花火があがる。
 笹が風に揺れて、竹林をざわめかせた。
 呼吸を合わせた約束のように、ありかとハリーの体が分離する。両者が遠のき、足を地に置き、そして地を這うほどの低さで対手を見定めたのは全くの同時だった。真夏の匂い起つ青臭さのなかに、吐気を催すほどの血臭が混ざり合って、茜の現実感を奪っていた。
 血まみれのありかの眼は、もはや焦点が合っていない。瞳孔が明らかに拡大している。足取りだけは確かなまま、体幹もハリーへと垂直に向いている。

「ハリー……」

 と、夢宮ありかが呟いた。

「ハリーかぁ。ハリー……いい名前ですね。いいコだよね。あー、そうだ、……先に、いっておかなきゃ。
 ハリー。さようなら。じゃあ、またね。世界はあたしに、まかせてね」

 光が見えた、とあかねは思った。
 十七秒後に決着がついた。

 ハリーは斃れ、倉内和也は死亡して、雨に濡れるままの日暮あかねが発見されたのは、それから一時間以上も経ってからのことだった。


 ※


 傘も差さずに、高村恭司は地面に寝そべっていた。空から落ちる雨だれが針のように見えた。白けた顔で、彼は長いあいだ考えていた。思考の矛先は、守れたものについてだ。間に合っても間に合わなくても、結局のところ、高村の手が届いたのは、自分の心までのことでしかない。結果的に日暮あかねは敗北し、倉内和也は死んだ。いま、後夜祭の打ち上げにいるであろう鴇羽舞衣といった他のHiMEにその情報は伏せられているが、今夜中には炎凪が彼女らの元に訪れるはずだ。
 そしてルールを発表するに違いない。
 祭、あるいは星詠の舞と呼ばれる儀式が始まる。
 エントリーするのはHiMEもしくはワルキューレと呼ばれる異能の少女達だ。
 そして、彼女らが賭けるのは、地球の命運と、最も大事に想うものの命である。
 馬鹿げたその内容を、さも重大そうに発表される少女らの心境を想って、高村は同情的な気分になった。
 結局先ほどまで一緒にいた奈緒には、あかねを見つけた時点で全てを話した。近場にいた凪もそれを止めなかった。
 反応は、ほぼ皆無だったといっていいだろう。結城奈緒は、あまりに複雑すぎる。心をのぞくような人間でもなければ、彼女の全景を見通すことはできない。見通せたとして、理解できるかは別の話だ。
 些少なり、理解するには踏み込まなくてはならない。ときにそれは攻撃とも取られかねない。
 侵攻、あるいは侵犯。干渉は常に反発の可能性を孕んでいる。
 相手が人であれ、世界であれ、それは同様だ。
 そして高村恭司は、ようやくここで、自分の意義をさとった。
 正義では、彼は戦えない。愛は恐らくもう、枯れている。本質的に、彼という人間はもう終わっていた。四年前からそれは変わらない。それだけの時間をかけて、わかったことはひとつかふたつだ。
 ならば、それを後生大事にするだけだと思った。
 息を吐く。細く長い。糸のような。
 決して途切れないつもりでいたところで、いつか限界はやってくる。肺のすべてを虚ろにして、高村はしばらく、呼吸を止めた。鼓動の音に耳を澄ませ、眼を閉じた。
 足音と、涼やかな声を聞いた。

「立てるでしょう?」
「もちろんです」

 九条むつみに、強がって見せる。見つけたもののかすかな光が、高村の全身に行き渡っていく。
 これでいい。このままいけばいい。そう思えるだけの価値があるはずだ。同じ道を行く先達を、高村は眩しく見つめた。差し出された手を、やんわりと握り返す。ほとんど力は借りずに立って見せた。
 なんとなく立ったままで、ふたりは見詰め合う。飛び交う沈黙と視線に無数の意味が込められて、届かずに落ちていく。時おり琴線に触れても、それはかすめる程度だ。わかりあうには、人と人には、あまりに距離がありすぎる。ゆえにかすめた音の響きだけで、相手の心を慮るしかない。
 むつみは、穏やかに高村へ訊いた。

「教え子だったのね。日暮さんは」
「そうです」(笑え)
「もう、いやになった?」
「いえ、それはあとでしますから」(笑え――)

 高村は笑う。無理なく微笑する。九条むつみが、かすかに驚きを見せた。

「どうってこと、ないですよ」


 ※


「ひゃあ。すげえ雨」

 雨合羽を着ての撤収活動を手伝い終えて、楯祐一はげんなりと肩をすくめる。祭は準備も最中も楽しいが、後片付けばかりは救われない。無数の波紋を石畳に描く雨粒を数えながら、下駄箱のある玄関へと向かった。さっさと打ち上げに合流して、みなとともに騒ぎたい気分だった。今ごろ、舞衣や命、詩帆などはカラオケにでも興じているのだろう。
 やるせなくため息をつく。そのとき、照明のない軒先でぽつねんと立ち尽くす少女を見つけた。

「何してんだ」
「あ……」

 びくりと、所在なさげにしていた少女が震える。楯を見る眼が蒼いことに、まず驚かされた。

「えっと、中等部のヒト?」年ごろと制服姿から類推して、訊ねてみる。「もう帰ったほうがいいぜ。友だちでも待ってんのか?」
「あ、いえ。はい? うん、えっと、どっちだろう……まだ?」少女は困惑して、しかめつらになった。
「なんだそりゃ。用がないならとっととけーれけーれ」
「……ム」

 不満げに見上げられる。言い方がまずかったかと、楯は弱る。つい詩帆と同じような調子で接してしまう。
 謝るべきか迷ったところで、少女の腹が盛大に鳴った。可愛らしい、とはとても思えない音である。笑うべきかもしれないが、いまひとつそんな気にもなれず、楯は、

「ハラへってんのか」

 と、いった。

「そうみたいです」と少女は答える。
「ああ、じゃあ、メシとは言わないけど、ジュースでもおごってやるよ。ちょっときな。すぐそこに自販機があんだ」
「え。あ、はい」

 少女はおずおずとついてくる。人を疑う様子もない。なんだか心配になってしまう無警戒ぶりであった。問題なく到着し、薄暗い踊り場でほの光る自販機を指差すと、少女は強張っていた顔をわずかにほころばせた。

「キレイだなぁ」
「……」またヘンなやつと知り合いになった、と楯は思った。「何飲みたい?」
「はい?」少女がきょとんと聞き返した。「あ、ああ。じゃあ、おいしいので」
「なんだその注文。ここは夏なのにあったか~いもあるレアな自販機なんだぞ。バリエーションもけっこうあるんだ。もっとちゃんと選べや」
「そ、それじゃあ、その、あったか~いので」
「じゃあココアな」

 コインを入れて購入する。楯自身は、無難にスポーツドリンクをあがなった。念のためプルタブを開けて渡してやると、少女は戸惑いがちに、飲み口へ唇を寄せる。小さく喉を鳴らしてココアを嚥下すると、あからさまに顔が明るくなった。

「うんまいですねコレ!」

 一瞬で一缶を飲み干し、無言のうちに楯におかわりを要求してきた。乗りかかった船である。楯は調子に乗って連続で四杯ほど与えてみた。そのすべてをあっさり乾して、口の周りをココアで汚しながら、少女は淑やかさのかけらもない仕草でゲップした。

「ご満足いただけたようで」
「はい! ありがとうございました!」勢いよく少女が頭をさげた。「このご恩は一生忘れないですよ。ばっちゃが言ってた。受けた恩は犬でも忘れないって。あたし犬じゃないんで、忘れるかもしれませんけど……」
「いや、そんな大げさなことじゃねえし」楯は苦笑いで答え、ゴミ箱に缶を投げ入れた。「じゃあ、俺、行くわ。アンタも早く帰れよ。守衛に見つかったらどやされっぞ」
「あ、ちょっと待ってください!」少女がぴょんと跳ねて、楯の前に立ちはだかる。「ご恩ついでに、ちょっと相談に乗ってほしいんですけど!」
「通販じゃねーんだぞ。……まあ、いいけど。なに?」
「好きです!」
「はえーよ! なんだそのスピード展開!」
「ま、間違えた!」少女が頭を抱えた。こほんと咳払いする顔は、赤い。「スイマセン。ち、ちがうんです。今のは、忘れて」
「そーする」
「あ、あのですね。あたし、いいことをしたんですけど、したと思うんですけど」言葉を選びつつ、少女がゆっくりと話し出した。「でも、それは、ある人にとっては、ひどいことなんです。さっきまで、わからなかったんですけど、急に、ひとりでいたら、わかってきちゃったんです。それで、ちょっとあたし、どうしたらいいかわからなくなって……。どうでしょう。そっちょくな感想かもしくはアドバイスが欲しいんですけど」
「わりぃ、何言ってるかわかんね」

 楯は率直な感想を吐いた。
 少女は打ちひしがれた。

「よくわかんねえけど、俺なりに噛み砕いてみるとだな」楯は義理で生真面目に考えてみた。「良かれと思ってしたことで、実際いいことなんだけど、それを迷惑に思うやつもいたってことだろ?」
「そ、そうです、そうです!」少女が喝采した。「頭いいですね、センパイ!」
「い、いや。そんなことはねーけど」照れる楯である。
「で、どう思いますか」
「まあ、しょうがねーんじゃねえの? 誰にとってもいいことなんて、世の中にはほとんどねえしさ。だったら、せいぜい、自分が良いって信じることをこつこつやってくしかねーんじゃね。つか、俺に聞かれてもなあ。そんなのはもっと立派なやつに聞いたほうがいいぜ?」
「信じて、こつこつ……なるほど!」

 やおら少女は立ち上がる。力強く頷くと、両手を組んで感謝のポーズを取った。

「なんだか迷いが晴れた気がします! たびたびありがとう!」
「いや、そんなたいしたこと言ってねーし。アンタどんだけ簡単なんだよ……」
「えへへ」
「褒めてねえ」

 はしゃいだ様子でそれじゃあと立ち去りかける少女を、今度は楯が呼び止めた。

「あ、おい。カサ持ってんのか?」
「カサ? 持ってるように見えます?」ヒラヒラとスカートの裾をつまみながら、少女が聞き返した。
「み、見えた」
「え、どこに?」
「いやそっちじゃなくて」楯は目線を外して、脱いだカッパを少女へ差し出す。「じゃあ、これ貸してやるよ。夏っていっても雨に打たれたら風邪引くかもしれないしな」
「……あ」

 呆然とそれを受け取って、少女は楯をまじまじと見る。それから、見ているほうがつられてしまいそうな笑顔で、はにかんだ。

「じゃあ、借りる! ちゃんと返すから!」

 走りながら、手際よくレインコートを着込む少女だ。うさぎのような後姿を和みながら見送っていると、少女は途中何度も振り返って楯に手を振りながら、やがて校門の外へ消えていった。


 ※


 夜――海岸道路。
 道にひとけはない。倉内和也の死体を搬送する無音の救急車は、悠々と病院ではない施設へ向かっている。車内ではほとんど会話もない。呼吸も鼓動もなくなった和也の死体の周囲には治療器具さえない。運転手はこのところの重労働に眠気を覚えながらハンドルを切って、なだらかなカーブを走っていく。

 その道の先に障害物がいた。巨大な蜘蛛の怪物と、爪を持った少女である。
 
 資料にある姿に、運転手は瞠目する。急ブレーキで車体を止め、至急連絡を取ろうと電子機器へ手を伸ばす。その手を遮ったのは紅い光の一閃であった。車体を中央から両断する勢いで、半部をこの上なく鋭い糸が引き裂いていく。
 何を、と声をあげたところで、後部から筒状のケースが投げ込まれた。間もなくケースからは多量の煙が吹き上がる。呼吸を止めるも間に合わず、微量を摂取したところで、運転手の意識は闇に落ちた。
 眠りに就く寸前で、可愛らしい猫の鳴き声を聞いた気がした。

「ニャァオ」

 





 









ワルキューレの午睡
第二幕 「舞」
これにて読切り
三幕へ続く


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