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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
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[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
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[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第二部十節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:562093a6 前を表示する / 次を表示する
Date: 2007/12/26 07:53



10.少女の死



 真田紫子は恋を知らずに育った。異性には決して触れなかった。両親は彼女と同じく厳格な信仰者であり、彼らは親というより教師だった。その生き方を踏襲するべく彼女は教育された。
 貞淑に、厳正に、清潔を旨にして神を愛した。
 信仰の発端とはなんだろう? それは啓示だと彼女は思っている。
 周囲の同類たちも、その意見には異を唱えない。誰もが、彼女の言わんとした微意を掴み得なかったためである。彼女は神を愛していた。経典をそらんじて熱心に戒律を守った。
 ただし内実は空疎だった。
 そうあるべくと教えられた。強いて逆らうほどの意思を彼女は持たなかった。がんじがらめの要素は彼女から自発的な行動を大方奪ったから、生来の大人しい気性は自分を元からそうした人間なのだと納得させ、さらに定義づけた。
 だが、信仰に関してはどうしてもよくわからなかった。思春期のはるか以前から彼女は真剣に考え続けた。神について、信仰について、御業について、奇跡について、天国について思惟した。答えはもちろん出なかったが、紫子はその理由を内に求めた。明解でないことは、自分自身に理由があるのだと強く思いこんでいた。
 どこかで、神に対して疑いを抱いていたのかもしれない。彼女は神に救われたこともなければ、信仰に心身を支えられた経験もなかった。七難八苦に遇されない身上が、常に後ろめたかった。教えを仰ぐ上位者が当然のように神の愛を説くことに対する嫉妬も、意識はされなかったが、あった。
 そのまま育った。
 挫折とも恋愛とも反抗とも無縁のまま、十九歳になった。義務教育を終え、高校を卒業し、成績優秀ではあったが進学は選ばず、神の仔となるべくそのまま尼になった。周囲では多くの人が彼女の選択を奇異な目で見つめた。紫子はまだ若く、美しく、優れていた。少々思い込みが強く空想癖はあったが、愛嬌で済ませられるものだった。そんな少女が社会に背を向けて僧籍へ入るのは、やはりひとしなみではなかったのだろう。
 紫子もそれは自覚していたが、疑問は持てなかった。これでいいのだ。そう信じていた。
 でなければ、自分の一生とは、なんだったのだ?
 悩むことが信仰なのだ。疑いを抱くことは罪なのだ。篤信こそが美徳であり、信じて殉じることが生涯の命題なのだ。紫子は潔癖で、お仕着せであろうとも十数年の生涯を覆すことはできそうもなかった。彼女はけがれを知らないまま、僧服に身を包んだ。
 啓示は得られないままだった。
 ときおり、とてつもなく寝苦しい夜がある。下腹部が疼き、全身が熱を帯びる。それは主に生理の直前に彼女を襲った。つよく抑圧された意識下で、自制を餌に育った衝動は近ごろほとんど怪物と化していた。
 夢でなら彼女は奔放だった。
 ありえざるべきことだが、夢中、偶像化された神と彼女はみだらに交わることさえあった。秘めることさえはばかられるような内容で、起き抜けに嘔吐感を催すこともしばしばあった。古今の聖職者が誰しも折り合いをつけられずにいた問題である。紫子は性欲に強い忌避を持っていた。にもかかわらず潜在意識のあらわれとされる夢で、彼女は放恣な妖婦なのである。撞着した理性は、負担を増し続けた。
 誰かに相談すればよかったのだろう。
 しかし、そんな相手は紫子の周囲にはいない。
 同じ教会に身を置く人々からは、常に妙な距離感と疎外感を感じていた。同僚の九条むつみは頼れる女性だったが、彼女の振る舞いは明らかに戒律から逸脱しており、紫子はむつみに対してはあこがれと軽蔑を同時に抱いていた。ジョセフ・グリーアに至っては父親ほどの年齢差があるとはいえ異性である。何を持ちかけるはずもない。
 他は年下ばかりだった。寮監でもある紫子と触れ合うのは主に風華学園の生徒たちで、彼女らにとって紫子は頼るべき対象でしかない。もしくは、口うるさい指導者か。紫子もそれは重々承知しており、またそれほどに親しくできるような存在も寮内にはいなかった。
 友人は、かつてはいたような気もする。しかし、今となっては皆無だ。風華の大学へ足を運べばいつでも会えるし、向こうは気安い顔をするかもしれないが、積極的に紫子とつなぎを取るような存在はいなかった。昔から紫子は周囲から浮いていた。生真面目すぎる姿勢がそうさせていたのだろう。悪感情からでなくとも、人は孤立しうる。
 本当に、容易に、人間は独りになってしまう。
 真田紫子の不幸は、それを理解できなかったことにあった。神と差し向かいするには、彼女の根幹は少女でありすぎた。

 ある平凡な昼だった。彼女はオルガンに向かっていた。清掃や寮の管理を終えて手持ち無沙汰になると、向かうような場所は教会しかない。神との対話は毫も彼女を慰めない。無心に鍵盤を叩くのは楽しかった。いつしか没頭して、賛美歌からクラシックへ流れ、童歌へ移って、誰も聞いていないのをいいことに街で耳に挟んだような他愛ないラブソングをアレンジして奏でた。踊る指は無意識になって、神も信仰も性欲も苦衷も瞬間、脳裏を留守にした。あとにいたのはひとり、少女の真田紫子だけだった。
 小一時間もうたっていただろう。気が済むまで弾き終えて、紫子は腰を上げた。それからほんの数秒で、彼女はシスターとしての全てを取り戻すはずだった。いつも通りの、矛盾と無自覚に満ちた日常へと再帰する。
 その直前の、もっとも無防備な瞬間を見られた。
 いつの間にか教会に闖入者がいた。紫子よりもいくつか年上の、ぎりぎり青年にとどまる年頃の男である。どこかで見た顔だと思えば、学園の美術教諭だとわかった。手にスケッチブックを持った彼は、やわらかい表情を紫子に向けていた。
 バタン! とオルガンの蓋を後ろでに閉じると、紫子は赤面してあたふたと弁解を始めた。寝姿を見られてもこうはなるまいというほど動揺して、涙目になって、どうか他言はしないでほしいと哀願し、真っ先に保身を考える自分に絶望して何も言えなくなり、うなだれた。
 美術教師はそんな彼女を見てちょっと笑った。恨みがましく紫子が顔を起こすと、彼は謝罪して、無礼かと思いましたが、とスケッチブックに描かれた鉛筆画を紫子に見せた。
 その少女は楽しそうに笑っていた。放心して絵を見つめる紫子に向かって、よろしければと画用紙が差し出される。無反応にそれを受け取るのを見届けて、教師は教会を出て行った。紫子はしばらく、オルガンを弾く自分を眺めていた。

 その後に、オーファンや、チャイルドや、またそれらにまつわる悪意を持った勢力についての話を彼から聞かせられる。そのために紫子は事態へ関わっていくのだが、それはさしたる問題ではない。重要なのは一点だけだった。
 つまり、彼女にとっての啓示が、この瞬間だったかもしれないということだけだ。


 ※


「どういうことだ?」

 予兆らしきものは何もなかった。海からの帰り道、ただ気がつけば、きりのない道に迷い込んでいた。
 センターラインを縁どる白線が、いつまでも続く。迂遠な高速道路でならばともかくも、美星海岸沿いの道路は広くはあるが基本的には一般の車道に過ぎない。安全運転を心がけているとはいえ、二十分も信号にも交差点にも行き当たらないはずはないのだ。
(迷ったのかな。どこかで道を間違えて……)
 もっともありえそうな可能性を検討したが、すぐに断念せざるを得なかった。
 高村は困惑しきった眼差しをナビゲータに向けた。逐次衛星とリンクして周辺の地図を更新する装置の表示は正しい。鳥瞰図は問題無く帰路を保証していた。
 しかし何かがおかしい。
 明文化できない違和感を視線に込めて、彼は後部座席を見やった。
 深優の紅い双眸は揺らいでもいなかった。

「何か?」
「何か、じゃない。わからないのか?」
「……何のことです」

 深優・グリーアは嘘をつかない。とぼけるということもない。
 明確な論拠があるわけではない。強いて言えば、彼女のパーソナリティにそぐわないというだけである。しかし高村は半ば決め付けるようにして深優の無器用な実直さか、もしくは融通の利かなさとでもいうべき印象を信じ込んでいた。

「いや」

 言葉を濁して、再度黙考に戻った。
 こと状況認識の正確さにおいて、深優を疑うのは現実的ではない。深優・グリーアが何も異常を感じとっていない。ならば変化は外部ではなく高村自身にあるということになる。
 心当たりはいくらでもあった。昨夜遅くまで発熱していた体は疲れきっていたし、いわずもがな彼の全身はいたるところに傷がある。
 精神的な磨耗も無視できない。既視感や未視感といった認識の錯誤は、一般に脳が困憊するほど増加するといわれている。まことしやかなその説を、今の高村に否定する理由はなかった。
 だが胸騒ぎがぬぐえない。
(なんなんだこれは)
 何もおかしいことなどない。道は続いている。途切れなく、永遠に繋がっている。それはまったく、地図のとおりだった。彼の仕事は、道なりに車を走らせることなのだ。過誤はない。
 一時間が経った。
 高村はまだ車を運転していた。先刻と寸分違わぬ道を走っていた。アスファルトの継ぎ目の数さえ、もう暗記できていた。
 もはや疑う余地はない。道は完全に閉じていて、どこにも通じていない。
(それは、はたして道なのか?)
 脳裏が疑問符で埋め尽くされる。不可解なのは、後部座席の二人がこの状況に何ひとつ疑問を覚えていないことだった。アリッサははしゃぎ疲れて寝こけていたし、深優はじっとその寝顔を見つめたまま、飽きるということを知らない。
 しかし何にもまして納得が行かないことがある。それはなぜ自分が運転を止めないのかということだった。
 ラットのように環をなぞる徒労を、高村は実感していた。後続や対向車がいっこうに通りかからないことも手伝い、彼は白日夢でも見ているような心地になっていた。助手席の窓越しに見える水平線の上で、日が照っていた。日没までにはまだ時がある。ガードレールの帰先を視線がたどる。途切れ目に崖が見える……。
 ふいに、車体に震動を感じた。高村は虚ろな目を進路に向けた。索漠とした意識で、前方を捉える。
 すぐに目が醒めた。
 対向車が真正面にいたのだ。

「――ぅお!」

 反射的にブレーキを踏もうとする足を押し止めて、高村はまず右側にハンドルを切った。トラックのフロントがすでに数メートルも置かない距離にあった。間近すぎてナンバープレートの表示まではっきり見えるほどだった。兵庫ナンバーだった。
 こめかみを焼く危機感に肩を強張らせながら、高村はアクセルを踏んだままサイドブレーキを上げ、拍を置いて下げる。
 甲高い音とともに車体のフレームがぶれて路面をスライドした。
 シートベルトにかかる慣性と連動して悲鳴を上げる傷にうめきをもらしたものの、なんとか無接触でやりすごすことができた。いつの間にか止めていた呼吸を再開し、崖の足下で偶然綺麗に停車させた状態で、高村は冷や汗をぬぐう。あまり上等ではなかった自分の運転技術を見直したいところだが、もちろんそんな暇はない。高村はシートの背後に首を向けた。

「アリッサちゃん、深優、」

 振り返ったとたん、高村の世界が暗転した。



 ※



 夏日の昼下がり、濛々と陽炎の立つ路上に、佇立するオブジェクトがある。

「ヴラス」

 ナイトのマテリアルを模した彫像の傍らで、胸に手を寄せ顔を伏せるのは、烈日に不釣合いな尼僧服の女だった。



 ※



 ――どうやら意識を失っていたようだった。押し問答のような声に高村恭司は覚醒を促された。

 いつの間に寝たんだろう。
 ぼんやりと呟いて、まばたきを繰り返した。バスの中は騒然としていた。おまけに、少しばかり傾いてもいるようだった。
 すぐに、彼が大学で所属する研究室の旅行先で、事故に遭遇したのだと思い出した。
 高村は窓際に座っていた。すでに日は暮れており、外の景色を見るともなく窓ガラスへ頭を預けていたとき、ふいにクラクションの鳴り響く音が聞こえたのだった。
 直後に体ごと振り回されるような衝撃を感じ、気がつけば気を失っていた。
 ようやく正気づくと、高村は顔をしかめた。
 窓枠にぶつけた頭がじんわりと痛んでいたが、ともかく大きな怪我はしていないようだった。それから彼は、隣席の同級生の無事をまず確かめた。眼を閉じた様に一瞬肝を冷やしたが、呼びかけると唸り声が返ってきた。どうやら気を失ってはいても、大事はないようだった。
 次いで、通路を挟んで座っていた教授の娘――天河朔夜の姿を探した。しかし、彼女の姿はどこにも見えなかった。
 朔夜がベルトを締めていたかどうか、高村はとっさに思い出せなかった。締めていたような気もする。しかし確信は持てない。ひょっとすれば、事故の衝撃でどこかに投げ出されたのかもしれない。
 彼女の名を呼びながら、慌てて高村はシートベルトを外し、席を立った。あちこちから苦悶の声が上がっていることに、彼はそのとき初めて気付いた。頭痛のためどこか現実味はなかったものの、たいへんなことになった、とぼんやり考えていた。ゼミの旅行は中止になるかもしれないと思った。
 彼の担当教官である天河諭教授は、最前列の席にいるはずだった。ふらつきながらも彼の姿と助言を求めて、高村は不安定な通路を歩いていった。
 彼がようやくバスの外の光景に注意を払うのと、ごく身近でくぐもった悲鳴が上がるのとは同時だった。
 悲鳴を上げたのは、バスの運転手だった。高村がそう判断したのは実際に運転手を見たためではなく、車中で知らない声というものに他に心当たりがなかったからだった。彼の眼差しは茫洋としたまま、びっしりとひびに覆われた窓の隙間から見える異形に、釘付けにされていた。
 けものだった。

(ちがうだろう)

 傾いだ視界のなかで、体表面を黝い毛並みに覆われた四足の獣が、喉を鳴らして高村を凝視していた。
 大きさが異常だった。二十人は乗れるマイクロバスの窓の高さに、その牙を剥き出しにした顔が見えているのだ。立ち上がれば、体長はあきらかに三メートルを超える。象でもなければありえない巨体だった。
 金縛りを解いたのは、獣のものと思われる低いうなり声が、高村の耳を打ったためだった。
 ――ひっ。
 我知らず、高村は息を呑んだ。ふだんならば、理解が追いつかずただ戸惑うべき場面のはずだった。しかし常識に先立つ本能的な恐怖があった。
「うわ、きょ、教授。教授、だれかっ」
 助けを求めるには、あまりにも芯のない、か細い声だった。運転手の悲鳴はいつの間にか途絶えていた。早々に失神したのだ。運転手も合わせて、高村の声に答える余裕のある人間は車内にはいないようだった。頼みの綱の天河は、これは娘と同様、いつの間にか姿を消している。
 生唾を喉へと送り込みながら、ともかく早くけが人を連れて脱出しなければと高村は思案した。横転しかけた車内に留まって、展望が開けるとも思わない。しかし、外に出た場合、皆をあの得体の知れない獣の前にさらすことになる。
 そこではっとある仮定に行き当たって、高村は表情を強張らせた。行方の見えない天河とその娘は、もしや外に出てしまったのではないか。少なくとも車内に二人の姿は見あたらない。となれば、発想の正否はともかとして、このまま見過ごすわけにはいかなかった。
 高村が意を決するまでにさほど時は要さなかった。彼は痛む頭を抑えつつ、昇降口へと体を向けた。案の定ドアが半開きになっているのを見ると、懸念はさらに深まった。
 いざ踏み出そうとすると、目蓋の裏に獣の眸が放つ剣呑な光が閃いたように思った。とたんにぎくりと体が凝って、彼は怯懦に立ちすくんだ。

(そうじゃない)

「教授、朔夜」
 かたく眼を閉じてそう呟き、高村は迷ったすえ運転席の脇に備えられていた発煙筒を手に取った。頼りないが、ないよりはましだと思った。
 一足で外に飛び出ると、高村はまず獣の姿を探した。道路は規模の小さな崖の谷間にあるらしく、周囲は薄暗かった。数十メートル先に街灯の光が見えたが、当座の助けにはなりそうもない。怪物と称するにふさわしい、得体の知れない獣の姿を思い浮かべながら、高村は呼吸を早めた。
 そろりとフロントを迂回して、サイドミラーの陰にひそむように、高村は獣がいた場所をうかがった。なにかの幻覚か、動転した自分の見た妄想であって欲しいと、心底から願っていた。
「そう。ツキヨミっていうんだ。うん。わかるよ……もう大丈夫だから」
 舌足らずな声が聞こえると同時に、はかない希望はあっさりと打ち砕かれた。獣は変わらず、うっそりとバスの側面に沿うようにして佇んでいた。
 さらに、その間近に朔夜の姿を認めると、高村は矢も盾もたまらず飛び出した。
「朔夜!」
 獣の注意を引くために、両手を振りながら大声を上げた。しかしびくりと肩を震わせたのは獣ではなく朔夜のほうで、その幼い顔が、いたずらを見咎められたような怯えに飾られて、高村を振り向いた。
「だれ!」
 緊張した声が、高村の姿を見つけると、すぐにゆるんだ。
「なんだ、お兄ちゃん」
「そいつから離れるんだ、朔夜」
「え、どうして?」
 事故に遭遇した直後であり、異常な怪物のすぐそばにいながらも、朔夜の声色は平静のそれだった。高村はむしろその変わり映えのなさに混乱した。もしかしたらあの怪物が見えているのは自分だけで、実は頭を打ったショックで脳に異常が起きたのではないかとさえ思われた。
 朔夜は、なだめるように微笑んだ。
「大丈夫だよ。ねえ? お兄ちゃん、この子、ツキヨミっていうんだって。けがしてるんだよ。かわいそうだよ。怖い人に追いかけられて、ここまで逃げてきたんだって。朔夜を探してたんだよ、ずっと」

(ああ……そうだ)

 幻でよかった。
 嘘であってほしかった。
 高村は『いま』、そう心から思う。
 だが、『このとき』の高村はそう思わなかった。
 むしろ、突如として舞い込んだ不可思議な体験に胸を躍らせさえしたのだ。
 彼の目の前に広がる景色はあまりに精巧だった。何もかもが寸分違わず四年前を再現していた。だからこそ彼は乖離に気付けた。過去と現在との隔たりは、それほどに大きく、深かった。連続性を持った自己でありながら、高村恭司のありようはそこまで偏向していたのだ。
 彼は胸に鈍痛を覚えた。
 その中心には空虚な穴が空いており、深淵の底では鋭鋒が常に彼を狙っている。このあとに起こるすべてを彼は知っている。おそるおそる朔夜に導かれるまま近寄って、異様な獣に触れようと伸びる自身の手を、高村はきわめて客観的に観察した。
(やめろ)と高村はいった。
「ツキヨミって?」『高村』がたずねた。
「だからぁ、この子の名前だってばぁ。ね、大丈夫でしょ」朔夜は無邪気に笑っていた。

「ばかめ」と、誰かが彼をあざけった。

 ささやきは過去に置き去られることなく、時間に追いついた。体内の空洞で反響する言葉に、高村はその通りだと相槌を打った。かなうならば泣きたいと思った。本当は死にたかった。このとき彼はつまり、絶望を学んだ。
 時間軸が錯綜する。
 嗚咽が喉の戸に押し寄せた。
 吐気をこらえるように、高村は両手で顔面を覆った。
「お兄ちゃん?」

「ちょっとお兄ちゃん?」アリッサ・シアーズの声がした。「そろそろ起きて!」


 ※


 女の手が、熱いものに触れたように跳ね上がった。目尻にアクセントをつける黒子の上を、冷や汗が伝った。

「どうしました?」傍らで無線機を手に趨勢を見守っていた男が、いぶかしげな視線を送ってくる。

 それに対して曖昧に首を振りながら、彼女は震える手でエレメントを握り締めた。
 揺れる眸の先には、ふらふらと危なげに振れる車体がある。

「もうひとりいる……?」


 ※


 盛大に火花が散った。フロントガラスが粉々に砕け、高村の目前で断末魔の悲鳴を上げる。同時にばきんと物騒な音が腰の下で響いた。背後からとんでもない力でシートの背もたれを引き倒せば、そんな音を鳴らすはずだった。
 九十度近く変転した視野に映るのは閉塞感あふれる天井ではなく、透きとおった青空だった。さらに、豊かではないがそれなりに質量のある乳房が、鼻先をくすぐっている。
 高村に覆い被さるような上半身は深優・グリーアのものに違いなく、彼女の手は高村に替わってハンドルを巧みに操作していた。

「なんだなんだなんなんだ! いつの間にオープンカーになってるんだこの車!」

 深優は一言で疑問のすべてを氷解させた。

「襲撃です」
「なるほど」高村は裏返った声で答えた。「は? なんだそれ。いつのまにそんなことになってるんだよ」
「ちょうど八十秒前、運転の途中で先生がこちらの呼びかけにいっさい応答しなくなったのと同時に弾着を確認しました。アリッサお嬢様のおみ足が先生の頭部に触れなかったら、先生の体積は八パーセントほど減失していたと予測されます」
「八十秒? 俺が? なんのことだか――」舌を噛んだ。「いてえ。まあそれはいいや。で、どこの誰の仕業だ!」
「本気でいっているのですか」さすがに深優の平板な声にも呆れが差した。
「言ってみただけだよ」高村は投げやりに呟いた。
「……」

 昨日の今日である。あれだけ奔放に敵の本拠地で好き放題暴れておいて、これまでのようなお目こぼしを期待するのはさすがに都合が良すぎる。そういう理屈なのだろう。理解はできる。
 しかし、

「それにしても、これは急展開過ぎないか……」

 高村は渋面で助手席へ退避しようとしたが、即座に深優の手に体を押しつぶされた。

「対物ライフルで狙撃されています。私が許可するまで絶対に体を起こさないでください」
「いや対物ライフルて……」顔色を急速に蒼褪めさせて、高村。「それたしか人間に向かって撃っちゃ駄目なやつだろう? 当たったら原形止めないうえかすっても死ぬってやつだろう?」

 深優は答えなかった。
 その沈黙が高村の危機感を煽った。面積を半分方に減らした天井から吹き込む強風はやけに涼やかだった。
 ところで、深優が思い切りよくハンドルをきった。銃弾を避けているらしいが、高村にはいったいどういう原理でそんな真似ができるのか理解できなかった。

「深優ミユ深優!」後部座席で身を潜めていたアリッサが声を上げた。「どっちどっち? どこから!?」
「弾道計算開始します」深優が正確な動きで手足を駆使するたび、魔法のように滑らかに車体は奔った。「終了しました。方角西北西、誤差は二、仰角二十三、距離二百――」
「わかんないよそんなの! 指でさして!」
「あちらです」

 すっと伸びた白い人差し指の示す方向を、アリッサの碧眼がとらえた。
 と、彼女の背にきらびやかな双翼が生まれた。幾何学的な模様の這う羽は軋みながら総体をかたどり、鋭利な切先が主の意識にしたがってうごめいた。シートが切り裂かれて綿が舞い、彼女はまるで天使だった。

「いけえ!」

 完全に屋根が吹き飛んだ。
 アリッサのエレメントが放つ攻撃は、逆流する光の滝だった。合板を吹き飛ばし、勢いを緩めないまま、沿岸の山肌を抉っていく。松林に大量の羽は吸い込まれて、針葉樹の葉をあたりに散らせた。

「当たった!?」
「いえ」深優が無情にかぶりを振った。「次弾来ます。数八」
「ハチ!?」アリッサが素っ頓狂な声をあげた。
「ああ、そっかそっか」蚊屋の外で納得する高村だった。「まあまともに考えたら、相手がひとりなわけはないよね」
「お兄ちゃん、のんきすぎるよー!」
「マルチプル・インテリジェンシャル・ユグドラシル・ユニット、起動」

 深優の左腕が剣へと変わる。
 無言の一閃直後、彼女の肩が大きく撓った。と見るや、耳を聾する不協和音が甲高く響く。
 飛来した大口径の弾丸を弾いたようだった。
(――なんだそりゃ。本格的にもうだめだな、これは)
 高村は呆れながら目立たない程度に両手を挙げた。
 もう自分が介入できる次元を遥かに越えてしまっている。
 諦めの吐息がねじを緩めたように、自動車のバランスが崩れた。タイヤを狙われたのだ。
 コントロールを失ったボディを、深優は絶妙の舵取りでガードレールにぶつけ、緩やかに停止させようと試みる。鮮やかなブレーキ痕をアスファルトに描きながら、最終的に車体が落ち着いたのは足下に海岸を臨む、山肌に沿うカーブがもっとも膨らんだ地点だった。おあつらえむきに遮蔽物は存在せず、そしてやはり周囲にほかの車や人影は見えない。
(海水浴客はどこに行ったんだ)
 それとも、「どこか」へ来たのは自分たちのほうなのか。いまだ白日夢の名残から抜けきらず、浮かぶ思考は実を結ばない。
 その間もアリッサはめくらめっぽうエレメントによる射撃を続けていたが、間を縫って飛ぶ深優の警句には、翼を閉じて防御に専念することを余儀なくされていた。
 高村は頭を低くしながら、唇を噛んだ。
 乗用車の装甲はライフルの前では紙も同然だ。その上足まで止められた。
 襲撃地点はあらかじめ設定されていたとして、気がかりなのは敵の規模だった。初期位置からはある程度移動したにもかかわらず、射撃は数を減じていない。相当な大規模で囲まれていることが予測されるが、だとするととどめの役を担う後詰めもすぐにやってくるだろう。しかし……。
(ハリウッド映画じゃないんだぞ)
 まさか白昼堂々、少なくない数の動員をして銃火器を用いた襲撃をしてくるとは予想外だった。襲撃の絵図を描いているのが一番地であることは疑いないが、この報復は彼らの第一原則である隠匿に真っ向から反するリアクションだ。不自然といえば、それは確かに不自然だった。
 気がかりはまだある。
 果たして、襲撃の主眼が高村に置かれているか否かという点である。前者ならば深優とアリッサは名目上巻き込まれたことになり、自ずから彼女らの異常性も露見したことになる。それ自体は構わないが、しかし後者だとした場合、多少問題があった。これほど早いレスポンスである以上、敵はシアーズの腹蔵をあらかじめ承知して風華に招き入れた可能性が生まれるのだ。

「ん?」

 と、そこで高村は己の過ちに気付いた。

「あぁ……。そうだ、そういえば昨日二人とも出張ってるんだった……なんだ、じゃあ気付かれて当たり前じゃないか」
「誰のせいだと思っているのですか」
「ごめんなさい」いつになく厳しい深優の口調におそれをなして、高村は首を垂れた。
「もー!」
 ふたりをよそに、アリッサが癇癪を起こしている。エレメントを展開して追撃を防いでいるようだったが、現状では打開策がないことに苛立っていた。
「しつこい! うざい! めんどくさい! 深優、いいよね!?」
「いけません、お嬢様」せわしなく全方位に注意を向けながら、深優が主人を掣肘した。「敵は使い魔ではありません。それに未だ――」
「知らない! せっかく楽しかったのに、もう、台無しじゃない! アリッサ、怒ったんだから!」

 少女は決然と翼を広げた。

「――Sancte deus」

 潮風が渦を巻く。

「――Sancte fortis」

 金色の髪が不意に輝いて、か細い腕が悠々と十字を切った。

「――Sancte misericors salvator」

 紫電が空間を縦横によぎる。帯電した大気は光背へ化成する。
 視えざるエーテルが、少女の唱に応えた。

「わが前に、メタトロン!」

 ――人造の天使が現れた。 
 イオン化する大気は居合わせた人間の鼻腔に、嗅ぎなれぬにおいを届ける。
 横薙ぎに衝撃が大地を舐めた。路面に光のナイフが突きとおされる。
 天使から放射状に放たれる熱波に吹きさらされ、高村は手庇の向こうに浮かぶ荘厳な威容に目を細めた。
 アリッサ・シアーズが擁するチャイルド、メタトロン。シアーズ財団が獲得したHiMEという力の最高峰といえる怪物だった。
 天使の名を冠した二翼の巨体は、単純な大きさだけで言えば高村が一度だけ見た鴇羽舞衣のチャイルドをも凌駕していた。肉眼で間近に捉えるその容姿は、神々しさよりも単純な生物的畏怖を呼び起こす。

「やっちゃえ!」

 指揮棒を振るうように、アリッサの指が漠然と空間を切った。と同時に、メタトロンの有機的な躯体が発光をはじめる。ほとばしるのは紫電であり、稲妻の穂先は四方へと無辺際に伸びていく。轟くのは、雷をスケールダウンさせたような鋭い響きだった。
 さすがにチャイルドの召喚は予想外だったとみえ、襲撃者たちの銃撃は一時的に停止していた。危地を脱したと判断し、高村も警戒を解いてメタトロンを見上げる。

「なんだか、前よりもでかくなってるような……」

 圧倒される高村をよそに、深優は無表情ながら仁王立ちするアリッサの背中を凝視していた。

「どうかしたのか?」
「いえ」深優はいつでも動きだせる姿勢のままだった。
「アリッサちゃん、うまく使えてるみたいじゃないか」
「当然です。彼女はアリッサ・シアーズなのですから」しかし、と深優はいいたげだった。「先生は追撃がないと予想しているのですか?」
「うん? それはそうだろう。だって、アリッサちゃんがHiMEだってばれた以上、こっちを爪弾きにする理由は少なくとも向こうにはないはずだ」

 一番地はHiMEを集め、HiMEの存在を完璧に隠蔽するが、HiME自身に積極的に干渉することはない。むしろ不自然なまでに巫女たちからは距離を置いている。
 何らかの規約によるものなのか、もしくは高村らの与り知らない理由が存在するのかはともかく、状況はほぼ確実にそのルールを裏付けている。鴇羽舞衣、美袋命、杉浦碧、そして結城奈緒の例を見ればそれは明らかだった。
 現時点で唯一の例外は玖我なつきだが、彼女にしても一番地の肝煎りというわけでは決してない。因縁から積極的に敵対しているというだけのことだ。
 そうした傾向に則するならば、アリッサがチャイルドを顕したいま、一番地があえて敵対する根拠は薄いように思えた。単純に戦力だけをかんがみても、HiMEを敵に回したところで利はないからだ。ならばすぐこの騒ぎも収まる。高村はそう分析している。
 だが深優の意見は別にあるようだった。

「そもそも」と彼女は言った。「ヴァルハラの門を管理する彼ら一番地が、もっとも重大事である一連の儀式とワルキューレたちの身柄についてそれほどの慎重策を取るメリットが未だ明確になっていません。現状での傾向がそうであるからというだけでの楽観は禁物です。ことは我々の生死に直結するのですから」
「それはもっともだが……」高村は不承不承、頷いた。「HiMEと距離を置く理由なら、例の刀のせいなんじゃないのか? あれが連中の核のはずだ。そしていまは美袋の手にある。少なくとも十五年遡っても美袋に一番地との接触がなかったのは調査部の人が行方不明者とか出しながら調べたから確かだぞ」
「しかし、霊刀ミロクの遺失から半世紀以上を経てなお、激動の時代を越えてくだんの組織は存続していたのです。そしてなによりも要目すべきなのは、ここ風華の土地のプロパティは彼らにあり、剣がいまやその胎内にあるということではありませんか?」

 高村は瞑目し、深優の言葉を注意深く吟味した。
 刹那に、メタトロンによる砲撃が途切れる。
 広がる感覚野に触れる異物感を正しく捉えて、高村は姿勢を正した。

「正論だ。そしてたぶん、その認識のほうが正しいな」

 目差した先に、不可思議な物体が在った。
 一見した印象は、一角獣のオブジェだった。
 もしくは、チェスの駒だ。生気の無い馬のデスマスクは石膏のように滑らかな質感に飾られて、浴びているはずの陽射しを全く照り返さない。そしてじっと見つめて高村も初めて気付いたのだが、その物体には影がないのだった。

「オーファン……」
「ちがうよ」深優の呟きを訂正したのはアリッサだった。「アリッサ、わかるよ。あれ使い魔だよ。メタトロンと同じ感じがするもの。メタトロンよりずっと弱そうだけど、なんかヘンな感じ」

 それはチャイルドであると少女は言い切った。
 であれば、と高村は思った。
 宿主がいることになる。

「……まいったな。いきなり仮説が崩れたわけか」
「好都合でしょう」

 応える深優の双眸は、太陽にあらがうように冷たい光をたたえたままだった。全身に帯びる空気もまた凍えている。
 焼けそうなほど熱をはらんだアスファルトに膝を落としながら、高村は表情にためらいをのぞかせた。
 機先を制するようにして、深優は彼を横目する。

「横槍はもうご遠慮ください」
「……」
「高村恭司。その人道的な配慮に、我々は一定の理解を示してきたつもりです。しかし」深優の言葉には力があった。「シアーズの総意に刃向かうのならば、よく考えて選ぶべきです。貴方の信条がどうあれ、また同じことを繰り返すのであれば、それはお嬢様の信頼に対する裏切りに他なりません。返報を、お覚悟の上で――」
「気のせいかな」高村がいった。
「何がです」
「説得してるみたいに聞こえる」

 深優は口をつぐみ、応えなかった。
 高村もまた、底意地の悪い質問だと理解している。
 緩衝材となりうるアリッサは、現れたチャイルドに釘付けされていた。友好的でない存在なのは確かだが、数十メートルほどの距離を置いて動きを見せないのは不気味である。救いなのは、正体不明のチャイルドが現れてから、厄介な銃撃がぴたりと途絶えていることだった。しかしそれももちろん、相手に退く気配が見えない以上は一時的なものだとしか判断できない。
 現状でもっとも警戒すべきことは、高村にとってそのいずれでもなかった。先刻から幾度も感じている意識の途切れや認識の錯誤についてだ。単純に『病状』が悪化しているということも考えられるが、タイミングが敵の襲撃と符合しすぎている。何らかの仕掛けがあると考えておくべきだった。
(いや、俺の頭じゃ休んでるのと同じだ)
 高村は頭を振ると、深優に向き直って苦笑してみせた。

「止めたりはしない。この状況でそんなことを言うくらいなら、最初から君らに協力なんてするべきじゃなかったんだ」
「賢明です」
「そういうわけで、俺はこの場を離れたほうがいいんだろうな。さすがに戦争屋とは張り合えない」

 嘆息を交えながらも、肩をすくめて軽口を叩く程度の余裕が高村にはあった。男としては含羞してしかるべき場面かも知れないが、そんな殊勝な心地に浸るには深優もアリッサも規格外に過ぎる。

「『離れる』。なぜでしょうか」と、深優が表情豊かであれば『なに言ってるんだコイツは』とでもいいたげな調子で、「戦力的にもっとも貧弱である先生が分離する意味がありません」
「あ、いや……そうなのか?」一緒にいたほうが危険だというのは、やはり素人考えなのだろうか。
 高村が前言を翻そうとした矢先、深優が手振りでそれを制した。

「いえ、そうですね――」

 深優は簡素に肯うと、口早に逃走経路を指示し始める。高村は何がなんだかわからないまま、彼女の言葉に耳を傾けた。
 そうして提示された行動方針は単純だった。深優がオフェンス。そして高村はディフェンスとして逃げの一手を打つという形になる。

「アリッサちゃんは?」
「お嬢様は」

 そこで言葉を止めると、深優は目線で背後のアリッサを、次いで真正面の高村をさした。何気ない仕草で自らの胸元を指先で叩き、かるく顎を引いて、高村をじっと見つめた。
 横目でふたりをうかがっていたアリッサが一瞬眸をさまよわせ、すぐに破顔一笑して歯を見せた。高村も深優の言わんとするところを察して、頷いてみせる。

「……お嬢様には、こちらに残っていただきます」
「ああ、わかった。まあ、なんとかなるだろう」

 海岸沿いの丘陵地帯を抜ければすぐに樹林帯に接するため、いくら土地鑑のある追手がいようとも逃げきれるだろうというのが深優の読みだった。

「待ち伏せされてるかも」
「できませんか?」

 口にして見せた不安には、挑戦的な眼差しが返された。

「まさか」
「ならば結構です」

 実際に深優の表情に変調があったわけではない。ただ、高村にはそう感じられたのだ。

「何を笑っているのですか」
「いや、少し惚れた」
「――では時計を合わせてください」深優は顔を逸らした。「ホットラインは確保していますね。しかし通信はほぼ確実に傍受されるでしょう。秘匿度の高い情報についてはいっさい口にしないでください。固有名詞にも符牒を利用するように。先生に異論が無いのならば、ユニットの上位権限で暗示を促進させることもできますが、」
「じゃあ頼む。正直そっちのほうは全然自信がない。自慢じゃないけど、俺は迂闊だ」
「正しい自覚であると支持します」
「容赦ないなぁ……じゃ、よろしく」

 脊髄と小脳に付設された高村の感覚および運動中枢を補佐するM.I.Y.ユニットにはいくつかの応用法がある。そのひとつが上位互換体である深優のユニットとの遠隔通信だった。高村が生身である以上相互的な情報の伝達は不可能だが、深優の側から高村のヴァイタルデータおよび位置情報を知ることはいつでもできる。また、親機である深優のユニットには、独断で高村のユニットを停止させる権限さえ与えられていた。
 しかしここで深優が口にした『暗示』とは、それらのデジタルな連結とは少々勝手が異なり、より即物的な行為を意味している。
 軍機を含む重度の高い情報を高村が知る上で施された、それは保険だった。意識に対して、権限者の許可なく情報を口にしないよう、リミッタが設けられているのだ。そうした投薬と専門の技師による処理を、彼は複数受けている。ディティールとプロセスは異なるが、つまり一種の後催眠暗示である。
 深優は手早く簡易的な手続きによってキーワードをキックした。
 とたんに深層心理に刷り込まれた暗示が、情動の浮沈を例外なく駆逐する。こうして高村の精神は一時的にフラットな状態へ引き戻された。次に正気づくまでに費やす時間はほとんど一瞬だったが、しかしその刹那の間に高村の認識は確かにフィルタリングされていた。
 試しに『星詠みの舞』に『黒曜の君』と発音しようとすると、頭の中で音と意味がほどけるように散らばって、形をなさなくなった。音声化もできない。

「いつやっても、これは不思議だなぁ」
「遊んでいる場合ではないでしょう」深優は子供をしかるように言った。もっとも、本当の子供である所のアリッサに対し彼女がこんな態度に出た場面を高村は見たことがない。「では、段取りどおりに」
「ああ。そっちも怪我しないように」
「私は人間ではありません。したがって、怪我もしません」
「なにいってるんだよ」高村は取り合わなかった。「アリッサちゃん!」

 アリッサは眸だけで応じた。ちらりと高村に見せた横顔でウインクして、令嬢にはやや似つかわしくない仕草で、ぐっと親指を上げる。
 まかせて、と言っているように見えた。
 高村は頷きを一度送ると、きびすを返し、その場を離れた。


 ※


 ふたりとわかれてすぐ、高村は携帯電話を手に取った。繋がらないかとも思ったが、電波はまだ通じているらしい。すばやく110番と119番をそれぞれコールして、場所と事件があることを伝え、連絡を切る。十中八九握り潰される通報だろうが、打てる手を打たない理由もない。ともかく衆目がある場所まで無事に逃げ切れば、今日のところはやりすごせるだろう。
 しかし――

「教師は、もう潮時かな」

 こうなった以上、これまでどおりの日常生活を営むのは危険が大きすぎる。
 思ったよりももったというべきではあった。しかし、早すぎるという感想を抱かずにはいられない。大体にして、凶報の到来は早すぎる結末を告げるものだ。
 ありていにいって、未練があった。
 高村にとっては、見方を変えれば渡りに船ではある。恐らく最後となるであろう日常を楽しんではいたが、日中学園に拘束される生活様式には限界を感じていたところだ。そもそも、最初に玖我なつきが自ら関わってきた時点で、彼があえて教師を続ける理由は失われていた。
 それでも惰性で続けていたのは、高村自身が望んだからに他ならない。
(それも、無事に帰れたらの話だな)
 この場での投降も含めて、次手を何通りか吟味する。
 高村が取る行動の基準は三つ存在する。ひとつはシアーズ財団が想定していたプラン。これはアリッサや深優といった財団内部でも会長派と呼ばれる派閥が練った計画表である。完成度にしても動員される規模にしても、現行では最善だろう。ただしその最善は、高村が最後までシアーズにつくという前提に基くものだ。そして高村の手ではどうしたところで流れを変えることはできない。
 ふたつめは、九条むつみが個人的に示唆したタイムスケジュールだった。基本的には財団の導く流れに沿いつつ、要所でジャンクションを設けて最終的に効果が生まれるように組まれているらしい。
 前者は物理的に、後者は能力的に、高村では全容を理解できない。実質唯一の切り札を用いたとしても、事態に一石を投じて波紋を生む程度が関の山だ。だからこそ、タイミングは慎重に計らねばならない。
 そこで第三の基準として高村自身の裁量に比重が傾くのだが、今のところ余計な場面に首を突っ込んで怪我を増やしているばかりなので、さすがにそろそろ保身に走らねば、愛想を尽かされそうな気もしていた。シアーズにも、むつみにもである。
(ただでさえ、アンチマテリアライザーの消費は予定外だった)
 過日、九条むつみが用いたマテリアルの精製には、高村が人生を百回棒に振っても釣りが出るほどの労力と費用と時間が注がれていた。誰が責めずとも、責任を感じずにはいられない。むつみは何も言わないが、彼女のシアーズでの部下の中には文字通り身の破滅を迎えた人間だっているだろう。
 小走りにアスファルトを駆けながら、高村は頭に巻かれた、汗のにじむ包帯をむしりとった。その日の朝取り替えた包帯には、もう血痕はない。姫野二三にはよほどうまく加減されたようだ。
(その割にはやたら頭を打たれけど)
 本来ならば精密検査が必要だが、高村のバイタルデータは基本的に深優を通して随時モニターされている。その点でも二三の『授業料』にぬかりはないらしい。
 高村は陰から陰へと移動しつづけた。
 近場に人の気配はない。セミの声だけは溢れている。すでに数百メートル後方となったアリッサと深優のいる場所からは、もう何の物音も聞こえない。
 何はなくとも気がついたら撃たれていた、という事態だけは避けなくてはならない。注意深く崖側にはりつきながら、高村は手庇をつくって空を見た。におい立つような濃い碧空は、まさに夏そのものの風情だった。海岸線にそびえるような入道雲は、近い夕立を予感させる。
 周囲の静けさは非日常の気配をまるで感じさせない。岬を渡る風に不穏を気取るのは、高村の逼迫した精神状態のためだ。
 高村は鼻を鳴らした。

「これでもうすぐ世界が滅びるなんて、誰が信じるっていうんだ」
「――ええ、本当に」

 声は頭上からだった。
 高村は、その出所を確認するため顔を上げた時点で致命的な間違いを犯した。落ちてきたのは声だけではなかったのだ。
 音も気配もなく飛来した銀紙細工でできているような光が、彼の胸を貫いた。
 痛みはなかった。悲鳴も上げられない。自分が死ぬという気も、不思議としなかった。ただ、高村恭司はさすがに理解せざるをえなかった。
 結城奈緒に出し抜かれたことにはじまり、姫野二三に完敗し、そして今また、凡庸な過ちを犯してしまった。
(ここまでってことなのか)
 舞台は端役をそでに押しやろうとしはじめていた。
 表立って自分が踊る必要性は、もうないのだ。


 ※


 赤錆の浮いた電波塔に、コイル状のモーメントで電流を流す。アリッサ・シアーズはチャイルドに命じて鉄塔を巨大な電磁石へと変えた。電波妨害と、付近一帯の電力を落とすためである。物質の透磁性や伝導係数を考慮すれば滅茶苦茶な現象ではあるのだが、チャイルドの特性を用いれば実質不可能なことはない。HiMEと呼ばれる力の本質は、実際的な自然現象としての燃焼や放電ではなく、あくまでそれを模倣した結果を現出させることにある。アリッサは理論としてその理を解してはいなかったが、感覚的には充分に直観できていた。
 かといって、HiME――アリッサがワルキューレと呼ぶ少女たちがそのまま万能の力を持つことにはつながらない。認識や出力の限界は厳然として存在する。九条むつみの理論によれば、根本的な仕組みとして能力に対するリミッタのようなものが設けられているのだという。
 そしてそれは、同種の存在を駆逐するたびに外れていくのだとも。
 もっとも、アリッサにはどうでもいい話だった。難しい話は得意ではない。意欲があれば理解できる素地はあっても、少女には他に興味深いことが山ほどあった。同時に、自分の役目に直接関係のないことには極力無知でいなくてはならない。それは時として常識が枷となるワルキューレの立場を案じられての処置だ。

「フンフフ、フーン」

 鼻歌をうたいつつ、森を抜けていく。目的地は手持ちの携帯電話が案内してくれる。
 常にそばについて離れない深優・グリーアは、いまアリッサのもとにはいなかった。本人の設定はともかく、深優の現状でのプライオリティは敵性体との交戦に置かれている。そしてアリッサも、深優とわかれてすぐ高村に追いつくつもりだった。先ほど路上で交わしたやり取りは盗聴を警戒してのものだ。

「お兄ちゃんは、どっこかなー」

 当面、深優やジョセフは、アリッサが戦闘するにあたってあるひとつの制限を設けていた。それは、敵性のチャイルド――シアーズにとっては使い魔――が複数でなければ、極力彼女の『メタトロン』を行使するべきではないという方針である。
 理由はアリッサには教えられていない。相手が単騎ではものたりないと思うアリッサも、強いて逆らうつもりはなかった。
 無論、火の粉を払う場合は話が別だ。

「ふぅん――」

 散歩のように軽いステップを止めて、アリッサは歌を中断した。
 木蔭から複数の気配が現れて、彼女に銃口を向けていた。

「……だれ?」

 バイザーの降りたメットにタクティカルジャケットという出で立ちで統一された、計六人のチームだった。アリッサも何度か触れたことのある、職業的な軍人に近い空気を身にまとっている。昨日、洞窟の中で軽く揉んだ男たちと同種の空気だ。
 油断なく銃をかかげたままで、ひとりが声を発した。

「アリッサ・シアーズだな」
「そーだよ」

 全員が微妙に距離を取った配置で、アリッサを扇状に包囲しつつあった。エレメントやチャイルドによる攻撃を警戒して、木立を巧妙に盾にしつつ囲みを狭めようとしている。
 アリッサがつぶらな瞳を揺らしながら首を傾げると、再び声が語りかけてきた。

「我々は全員、対電撃用の備えをしている。抵抗は無駄だ。チャイルドや、エレメント、それに類する力を行使するな。大人しく投降すれば手荒な真似は加えない」
「なにいってるかわかんなーい」

 唇を尖らせる。アリッサの真正面に立った男は、くぐもった声でいい直してきた。

「何もするな」
「やだよ」

 顔いっぱいに笑顔を咲かせて、アリッサは片手を振るった。正面の男はためらいなく銃爪を引いた。

「わ」

 銃声はひとつで、アリッサも驚きに悲鳴をあげただけだった。放たれた弾丸はあらぬ方向を貫いている。
 発砲した男も含め、アリッサに迫っていた六人すべてが一瞬地にふして痙攣していた。全身を棒のように硬直させ、声もなく激痛に喘いでいる。
 アリッサは胸に手を当て、大きく息をついた。

「びっくりした。いきなり音おっきいよ」

 頬を紅潮させ、歩みを再開させる。足下に銃を撃った男を見たところで、思い出したように告げた。

「ホントに電気を流してるわけじゃないんだから、ゼツエンタイなんかいみないよ」

 いわゆる超能力といった、HiMEに類似した力は世界中で例がある。しかしアリッサが振るうのは、紛れもなく元々はこの国から来た力なのだ。なのに原住民が知識に精通していない。それはアリッサをして妙だと思わせることだった。
 しかし次の瞬間にはもう懸念を忘れて、アリッサはオーファンを召喚することにした。少なくともあと何人かが、アリッサのいる高台の林には配備されている。せっかく口うるさい深優がいないのだ。邪魔をされず高村に合流してそのままどこかに遊びに行きたいのに、今度は知らない連中が余計な面倒をかけてくる。
 と、そこまで考えて、アリッサは足を止めた。

「あれ」

 森の中で、ぐるりを何度も見渡す。

「アリッサ、どうして……」

 敵の使い魔と対峙していたはずなのに、なぜこんなところに移動しているのだろう。
 算段ではあった。深優を山中に飛ばして迅速に各個撃破させる。その間にアリッサは敵性の使い魔を目に見える場所に釘付けにして、可能ならば打倒する。そのあとで高村に合流し、支配圏から離脱する――。
 そのはずだった。
 その過程の先に今があるはずだった。
 だが、この森に至るまでの記憶がない。
 少女の感性が、違和感と危険を同時にとらえた。何かされた。もしくは、何かを『されている』。
 動悸が速まる。背後をおびやかす凝視の気配を、確かに感じていた。草地に膝をつきながら翼のエレメントを展開する。
 風が森をわたる。

「……だれ」

 曇天下とはいえ充分に明るいはずの景色が、夜のそれに変貌した。群生する針葉樹が笑いさざめきアリッサを囲う。
 遥か頭上に銀の月。
 深淵の底流に身を浸す樹海。
 白銀が世界を化粧する空間に彼女はいた。

「ここ……」

 見覚えのある景色だ。凍える空気も同様に。
 現実から離れ、極東からは何千キロと離れた生まれ故郷にアリッサはいる。
 今はもうない、三歳までを過ごした研究所の敷地内だ。

 ものごころ、という認識をアリッサは持っていない。生まれた瞬間から彼女には自我が植え付けられていた。だから彼女が獲得したのは、ただ肉体の作用のみである。
 通常人間の感覚は、生まれつき長じているものではない。視ることも聴くことも、母胎から出、外界に触れるうちに生育順応する。従って生まれた瞬間を知らないのは単純に記憶力だけの問題ではない。物理的に周囲を認識することが困難な状況だから、保存することができない。
 たとえば成人の意識が嬰児の肉体に宿れば、たとえ神経プロセスの問題を無視したとしてもほどなく発狂するだろう。
 アリッサは違う。
 感覚に先立つ自意識があった。集団内の異物という自己が認識できていた。生まれた瞬間から、彼女は大きなものの一部だった。群体『Alyss-A』の153番が彼女の役回りだった。アリッサの起源は機械的な役割に根ざしていた。
 植え付けられた自我。しかし、発露したのは彼女独自の人格だ。
 ふたりにひとりが不適格として機能停止を迎える『Alyss-A』たちの中で、他の追随を許さない高次物質化適性を発現させた異常性がきっかけである。

 ――153番。
 彼女のルーツは、東方で産まれ、生き、そして死んだ、ある少女にあった。
 だから、雑種と呼ばれた。
 シアーズ内部でレイシズムの風潮が極端なのではない。しかし『アリッサ・シアーズ』の原型は、現総帥の、十年以上も前に死亡した孫娘にある。

 ――『Alyss-A』。
 プロジェクトの発祥は、ただ、失われた命の蘇生を目差しただけのものだった。
 それがいつしか、来る戦いのための人形製造へと主眼を変えたのだ。
 よって、後半のナンバーの鋳型にはもとの『アリッサ』の細胞が用いられているが、HiME能力への親和性のため、遺伝子には幾度も改良が施された。趣旨から逸れ、機能だけを追い求めた極限が、アリッサを始めとする『Alyss-A』たちである。

 ――仕組まれた『アリッサ』には共通した特徴があった。
 彼女らの多くが、生まれてすぐ父性を希求したのである。それ自体は、アリッサも例外ではない。父がすべて。父の役に立つことが存在意義。シアーズが、父が求める『黄金時代』のために自分たちは生まれた――。
 アリッサは違う。
 同じだが、少しだけ違う。彼女の組成に関わる部位には、ワルキューレになりそこなったワルキューレがいるからだ。彼女の名も存在も、アリッサは知らない。だが確実に影響下にある。

 ――いつのまにか、吹雪いていた。

 半ば雪に埋もれて、アリッサは暖かみを感じている。この世界には安定があった。孤独は寂寞を彼女にもたらすが、膨大な同位体に個性を紛らわされることもない。アリッサがアリッサでいられるのは、誰かに選ばれた瞬間だけだった。
 たとえば、『父』に一度だけ抱いてもらった記憶。それ以前も以後も、顔を合わせることのない人物が与えた温もりが、アリッサの原風景にある。
 そしてもうひとつ。
 とぼけた顔をした、あの東洋人の青年。彼と初めてあった瞬間に、アリッサは強烈な引力を感じた。愛情ではない。その対象は『アリッサ』にとって父だけだ。だが彼から眼を切れない。
 最後に――認めたくないが、認めるしかない。深優。深優・グリーア。無愛想で無表情で無感動な彼女。いつもそばにいてくれるあの少女。アリッサと、深優と、そして青年。この組み合わせは意識されないまま、アリッサの中で不可侵の領域を形成していた。
 どうして――?
 問い。アリッサは答えられない。
 降りしきる雪が声を掻き消した。
 皮膜のように霜が降りた表情が動く。手を伸ばせば届く距離にたたずむ少女の存在のためだった。

「ミユ?」

 に、よく似ていた。
 だが、違う。深優・グリーアは悲しそうな顔など決してしない。少なくとも、まだできない。
 深優に良く似た誰かは、何ごとかを言葉にしようとして口を開くと、すぐに消えた。

「読まないで……」アリッサはひどくゆっくりと発音した。「もう、わたしを、読まないで……」

 動揺の気配が周囲に漏れる。それに対してさして反応もせず、アリッサは重たくなるまぶたに反抗できない。
 精神の眠り。それは死に近い。

 心を透徹するチャイルド、『聖ヴラス』の影響下で、アリッサは緩慢に死へ向かって歩いていく。
 やがて、完全に瞳が閉じられると、アリッサ・シアーズの心臓が鼓動を止めた。


 ※


「え……?」

 ヴラスと精神を同調させていたカソックの女、真田紫子が、茫然と声を漏らした。慄く口元を抑え、見開いた眼を伏臥する少女へ向ける。つい先刻、紫子の奏でるオルガンに合わせてうたっていたアリッサは、身動き一つ見せない。
 その精神も同様だった。
 もとより鈍かった精神の返す反応が完全に消えた。熟睡のなかでさえ途絶えない精神活動が、停止したのだ。

「どうしました? シスター」
「うそ……。そんなはずは……だって、ヴラスは人を傷つけたりなんて……」

 背後の声に答えることもできず、紫子は強張った指で襟元のクルスを握りこんだ。金属の突端が手中に食い込むが気にならない。いや増す動悸、呼吸がうまく行えず、急速に視野が狭まった。先刻、高村恭司を射たときから忍び寄りつつあった罪悪感が一挙に水位を上げ始めている。懸命に声をかけてくる傍らの存在にも応えられず、彼女は青白い顔を伏せた。
 しかし、その視線の先には倒れ、拘束された高村恭司がいる。たまらず目を閉じて、嗚咽をこぼした。

「シスター!」
「無理です、やっぱり、私には、こんなこと……」ふるえる声で紫子はうめいた。「無理だったんです。だれか、あの子を助け、助けてあげなくちゃ……」
「落ち着いてください、シスター! なにがどうしたというんです!」

 しきりに声を上げるのは、長身の青年だった。眼鏡の奥で細まる柔和な眼差しが、緊張感に歪んでいる。力なく首を振って、紫子は彼を見返した。

「先生、これは、本当に、子供達のためなのですか……?」

 縋る心地に、青年は一拍沈黙を落とすと、柔らかく微笑んだ。

「そのとおりです。辛いかもしれませんが、どうかご理解ください。シスター……あなたもわかっているはずです。このまま彼を」と、青年が高村を見下ろした。「引いては彼らを自由にさせては、大変なことになる。生徒たちにも被害が及ぶ。いえ、すでに及んでいるんです。いつ誰が犠牲になってもおかしくないんだ。僕にはそれを放っておくことはできません」

 熱っぽい口調に諭されて、紫子もようやく平静を取り戻しつつあった。あるいは、心を別の色で染められたのかもしれない。その危険性は紫子もおぼろげに感じ取っていた。だが、抗えない。その種の麻薬めいた魅力が、男の声にはあった。いや声だけではない。姿が、指が、目が、なにがしかの引力をもって紫子を惹きつけた。心のどこかでおびえる一抹の不安さえもが、この衝動に身を任せる快楽をいや増させていた。
 誰もが落ちる陥穽に彼女はいた。同時にたいていの人間がいつしかそなえる階梯を、彼女は持っていなかった。かわりに手には円匙があり、ますます深みへと掘り進んでいく用意だけが整えられている。
 吐息は腐乱した果実のように甘い。毒と知りつつ鼻先を寄せてしまう妖しさがある。

「わかっています。必要なことです。先生のおっしゃっていた通り、彼らはとても……とても罪深いことをしようとしています。先ほど、それは確信いたしました。けれど……」

 彼女は十一番目のHiMEだった。
 紫子自身は知る由もないことだが、玖我なつきを端緒として、能力を持つ巫女の席の数は十二ある。その席にアリッサ・シアーズは含まれていない。また彼女らの闘争が持つ真の意味も、紫子は知らされていない。ただ外洋の勢力が悪意を持って学園の秘密を狙っているとだけ教えられていた。
 疑問はあったが、それを上回る感情があった。信頼ではない。単に、彼の役に立ちたいという、ひどく利己的な思惑が紫子の動向を示唆している。

「わかりました」と、男は心苦しげにうなずいた。「確かに、そうですね。シスターを争いごとに巻き込むなんて、僕がどうかしていた。すみません、こんな危険な目にあわせてしまって……。ですが」
「わかって、います」ひりつく喉を鳴らして、紫子は何度も頷いた。数百メートル離れた車道に置いたチャイルドを消して、ほっと息をつく。

 それから、手短に、入手した情報を口伝えにした。紫子にとっては意味のわからないことばかりだったが、男にとってはそうではないようで、彼は細い目をみはって、何度もしたり顔で頷いていた。

「お役に立てたでしょうか……」
「充分です。充分ですよ、シスター。これでみんな、守れるかもしれない」

 彼の破顔に救われる想いだった。すると不安が、最前のアリッサへと及ぶ。紫子のチャイルド、ヴラスは対象の意識や記憶を丸裸にして、彼らが視る現実を自在に改ざんすることができる。一度に異なる世界を発現することはできないが、距離さえ離れていなければ複数をまとめて術中に陥れることもできる。個人を相手取った場合には、ほぼ無敵といっても良い能力だった。この能力を用いて、彼女は彼と協力し、学園近辺に現れたオーファンを倒したことがある。
 しかし、人に対して能力を用いたのはこの日が初めてだった。高村恭司に相対したときには、常と同じだった。ついでアリッサをターゲットにしたのだが、予期せぬ異変が起きた。
 読まないで――。
 アリッサの声が耳に張り付いていた。現実として聞いたわけではないが、ヴラスを通して紫子の意識に、その哀願は確かに伝わっている。いたいけな子供を傷つけ、人事不省においやった可能性が頭から離れない。
 不吉な考えを振り払い、紫子は腰に力を入れた。差し伸べられた手をおずおずと取って、男の横顔を盗み見るようにうかがう。緊迫した面立ちで、彼はどこかしらと連絡を取っているようだった。
 そのまま見つめていたい気持ちを自覚すると、即座に視線を切った。含羞もむろんだが、状況を鑑みた後ろめたさが圧倒的だった。すぐそばで倒れる高村の素性がどうあれ、紫子自身は彼をあまり悪人だとは意識していない。だから、エレメントによる狙撃も相当手加減した。しかし高村の眠りは予期せぬほどに深い。先ほどの精神干渉がまた慮外の障碍を残しているのかもしれない。
 急に恐ろしくなって、紫子はひそかにヴラスを喚んだ。高村の心が無反応な、廃人のそれだったらという心配を引きずったままでは帰れない。
 一角獣のオブジェクトの相貌がきらめいて、振動する。眼光が伏臥した高村を捉え、彼の心を丸裸にした。
 紫子はそして、夢に少女の姿を幻視した。
 同時に、上空に音もなく巨大な天使の姿があらわれた。


 ※


 深優・グリーアは迷いも躊躇もなく最善の選択を最速で行う。四百六十メートル離れた位置にいるアリッサ・シアーズの心停止を確認すると同時に、無力化させた六人の狙撃手を全員殺害した。周囲に他の生命反応はない。高村恭司は数分前に意識を失ったが、すぐに覚醒して、以来動かずにいる。予定合流地点に向かっていないことから拘束されているのかもしれない。だが現状での優先度はアリッサにある。
 鼓動停止のシグナルを得た一秒後にはもう飛翔していた。森を眼下に置いて、脚部パーツを拉げさせつつ、深優は風を置き去りにして奔った。障害物はすべてなぎ払った。指部マニピュレータが数本千切れたが頓着しなかった。梢の枝が顔面の皮膚を深く割いて擬似血液を溢れさせるのにも構わなかった。五秒後にはもとの車道に戻り、胸を押さえて伏せる小さなアリッサの姿を確認した。体温が異常にあがっている。高次物質化能力の暴走が始まっていた。

「コード404、エマージェンシー」

 すぐさま衛星『アルテミス』とのリンクを介して媛星とアリッサとの供給パイプをカットするべくコールした。コンマ五秒に百四十四回のコール繰り返しその全てにエラーが返された。原因は不明だ。アリッサへの『力』の流入は収まらない。アリッサの心臓がそのとき、一度だけ、微弱な反応を起こした。それきり、完全な沈黙へ回帰する。まるで末期の揺らぎだった。深優は主人の呼吸と脈が絶えたことを物理接触で確認した。
 黒い。
 そうとしか表現できないものが擬似思考プロセスを蔽いつくした。深優はプログラムに組み込まれた一切の人間的な処理を忘却した。そのうちいくつかはそのまま棄却される。表情APIが軒並み潰れた。戦闘ルーチンの中核が二十パーセントオミットされた。そのかわりにアリッサの救命・延命処理に関しての天文学的容量のデータがダウンロードされた。文字通りの刹那に、MIYUは性能以上の電子演繹を履行した。半径数十キロに点在する大小問わないすべてのサーバをハングアップさせるほどの暴力的な手際であらゆる医療情報をダウンロードした。痕跡についてなど考えも及ばなかった。深優を深優たらしめる最重要の存在が壊れつつある。その前では倫理も、規定も、コードも、使命も、思慮の外だった。

「コード409、人工ワルキューレ、アリッサ・シアーズの緊急蘇生処置を実行」

 エラーだった。
 暗い。
 比喩ではなく、深優は絶望を学習した。この場での開胸手術から最寄の病院への搬入、さらには一番地への投降と情報提供を引き換えにした場合のアリッサが助かる可能性等々、数百も検討した。成功確率が五パーセントを上回るものはひとつもなかった。時間があまりにも切迫しているのだ。その間もアリッサへの流入は続いている。心臓は電気マッサージで揺り返せても、すぐにこの小さな体は生物としての輪郭を崩してしまうだろう。深優は憎しみを抱いた。何に対してか? それはわからない。強いて言うなら世界に向けての殺意だった。現実を拒絶する心が芽生えつつあった。
 一方、頭上でアリッサのガーディアンであるメタトロンが暴走状態に入ろうとしている。深優は反射的にアリッサの体を抱えて待避行動に移る。助けを。助けを求めなくてはならない。
 だが、誰に?
 天を、翼を広げつつあるメタトロンを仰いだそのとき、彼女の電脳に短くつたないメッセージが届いた。

 【Kyouji.T(16:44:03/09/07):まかせろ】

 それが悪魔の囁きでも、このときの深優ならば迷わず乗っただろう。疑義の余地はない。放電するメタトロンの攻撃をいなすと深優は跳んだ。崖をかけのぼり高村の心拍が示す座標へ邁進した。追随する天使の巨体は彼女に倍して早い。ソニック・ブームが細い木立をたわませ花粉の気流を渦巻かせた。高村を狙っているのか? 深優はすでに限界を超えた躯体をさらに酷使すべくコードを自前で改変した。最上級装備であるミスリルドレスがないのが『悔やまれた』。 悔やまれた? 深優が平静だったならば、その感情をいぶかることもあっただろう。だが今の彼女は、ただアリッサを助けるための機械と化していた。少女を腕に抱えたまま、高村がいると思しき地点に接近する。いち早く現場にいたメタトロンは発光して砲撃の準備についていた。深優は迷いなく手近な木を選んで足場にし、駆け上り、樹上に躍り出た。空いた片手にアンチマテリアライザー・ブレードを発現させ、一切の迷いなくメタトロンの片翼を切り裂いた。歌声か、でなくば怨嗟のような悲鳴が天使から立ち上る。血の飛沫で半身を染めて、アリッサだけをかばいながら無様に深優は着地した。バランサーが破損していた。左足が脹脛から折れて、肉を突き破り骨が現れていた。邪魔なので切り落とした。深優は視界に高村の姿を探した。

「こっちだ」

 憔悴した声を拾って、すぐさま片足で跳んだ。高村は幹に背を預けていた。上空で未だ絶叫するメタトロンを見、ついで青白い顔のまま深優と抱かれたアリッサを目にした。痛ましげに眉が寄せられている。深優は無言で彼を促した。
 高村は静かに頷いた。

「アリッサちゃんを寝かせてくれ」

 言われるままにした。言語化の間も惜しんで、深優は高村のユニットへ、彼がそれを読解できないことも忘れ大量の疑問を送りつけた。それを察してか、高村は消耗した顔で力強く笑うと、「大丈夫だ」といった。「まだ間に合う」

「どうするつもりですか?――いえ、それよりも早く、アリッサ様を」
「わかってる。なあ、深優、これから見ることをさ、」と言いかけて、高村は首を振った。
「先生?」
「いや、なんでもない。――じゃあ、なんとかしようか」

 呟くや否や、高村の手に光が集まった。蛍光か粒子のようだった。空からは地に突き刺さると爆発する羽が大量に吹き降りていた。深優は終末的な景色で、アリッサの顔だけをただ見つめた。
 そして、高村の手に短剣が物質化された。深優は当然だが表情を変えず、何一つ言及はしなかった。ただ時間の歩みの遅くなることを痛切に願っていた。アリッサの心配停止から、三十秒が過ぎていた。
 高村の手がひるがえる。
 剣の切先がアリッサの胸に添えられた。
 深優はここではじめて声をあげた。

「何を」
「大丈夫だ」高村は血を吐きそうな声でいった。「大丈夫だ。アリッサちゃんがこれで死んだなら、深優、俺を殺してくれ。――はは。おまえは覚えてないんだろうけど、実はこの台詞も、初めてじゃない」

 短剣が、深々とアリッサに突き立てられた。


 ※


 高村が目覚めたのは教会の地下だった。隣のベッドではアリッサ・シアーズが健やかな寝息を立てている。その柔らかい頬を指先でつつくと、彼は嘆息した。笑いかけて、目頭を押さえ、発作的に土壁を拳で殴った。痛みが肩を走りぬけた。
 ほかに人の姿はない。
 彼はその場を後にして、亡者のような足取りで、教会の外へ出た。
 すっかり夜になっていた。いよいよ翌日に控えた祭のために、思ったほどの静謐は望めない。ただし、星だけはどこまでもよく見えた。忌むべき媛星もあかあかと赫いている。
 教会の裏手に回ると、土肌にそのまま腰を降ろし、高村は茫洋と空に対峙した。終わったな、と呼気だけで呟いた。深優に見られてしまった。今ごろはシアーズの上部にも報告がいっているだろう。こうして空を見つめられるのも、今が最後に違いない。

「なんだろうなあ。どうしてなんだろう。見捨てる覚悟だって、してたはずなのに、黙っておけば済むことなのに、そうしたら、自分は落ちなくて済むのに、なんで、誰かを助けたいなんて思うんだろう」
「後悔しているのですか?」
「いや、それがないから、つまり問題はそこなんだろうと思ってた」

 不意の声を振り向かないままで、高村は答えた。

「感謝します」
「なんだよ急に。いいよそんなの。あれはな、ほんとうにさ、そういうんじゃないんだよ。未必の故意ってやつなのかな。いや、薄々はわかってたのさ。俺は、どうもそんな大それた器じゃないってことだったんだ。俺はな、深優、前の君がいなくなってしまって、何もかもなくなって、それからあの人にあって、色々と知ってから、考えたんだ。とても考えたんだよ。無い知恵絞って考えて、誰の味方するかも選んだんだ。それが意味するところ、つまり誰を見限って、誰を助けないってことなんだとか、傲慢な悩みも持ったりしたんだ。いま考えるとお笑い種だ。結局、その覚悟にさえ、殉じ切れなかったわけだから……」
「とりとめがない言葉ですね」
「うん。ごめん」高村は乾いた笑いをあげた。「なんだろうな、へこんでるけど、俺は今、感動してる。あのとき、深優が身も蓋もなくあっちこっちにシグナル飛ばして、俺のユニットも励起されたとき、凄いな、って思ったんだ。ああ、深優は必死になってる、アリッサちゃんを本当に助けたいんだろうってさ。その気持ちに、打たれたっていえば聞こえはいいけど、要するにただ、俺は甘えてただけなんだ。考えたけど、それだけだった。頭の中だけのことで、目の前であのかわいいアリッサちゃんが死んでしまうってことを、ちっとも理解してなかったんだな。何もできないなら、きっといたましく思っても、それだけだったんだろう。だけど、似たようなことは前にもあって、それで今度は助けられるかもって思ったら、当たり前みたいにしてた。自分以外にとったって致命的な選択なのに、迷いもなかった。いや嘘だ。ごめん、ほんとは少し迷った」
「そうですか」
「だけど、結局、やってしまったんだ。で、後悔してない。思慮が足りないってことなんだろうな。そういえば前にも、誰かに脳みそが足りないって言われたっけ。実際ちょっと減ってるんだけど、やっぱりあのときに、どこかに落としちゃったのかなあ」
「……」
「深優、調子はどうだ? 怪我は問題ないのか」

 ようやく深優・グリーアを顧みて、高村は問いかける。

「ええ。活動には支障ありません」

 というには、少女の姿は満身創痍だった。右手と左膝下は丸々カモフラージュのギプスで保護されている。お揃いだな、と高村は笑った。深優は普段以上の無表情で、その頬にもガーゼが貼られていた。人工皮膚が定着するまで十数時間はかかるのだと言う。

「女の子なんだから、顔の怪我にはもうちょっと気を遣おうな」

 高村の軽口を無視して、深優が静かに眸を伏せた。

「高村恭司。貴方は、私たちに敵対するのですか?」
「ああ」高村は自分で思うよりも、ずいぶん軽妙に頷いていた。「正確には、そのつもりだった。もうおじゃんだ。わかっているだろう」
「なぜ」と問うてから、やや遅れて深優が補足する。「つまり、それならばなぜ、アリッサ様を?」

 難しい質問だ、と感じるのはごまかしに過ぎない。高村は率直に己の心理を認めた。

「死なせたくなかったからだ。それだけだな。結城のことも、結局、それに尽きる。俺はとんだ甘ちゃんってことだ」
「矛盾ではないのですね」
「そうだ。麻のごとく千々に乱れ、ってな。ある心象が、並行する別の心象を押しのけるなんてことは日常茶飯事だ。結局のところ、人の成果っていうのは行動でしか表れない。真髄は精神にあるのかもしれないが、結果は発露によって見極めるしかない。そしておよそあらゆる苦悩や煩悶の思惟というのは、行動という快刀の前に無力だ。どんな高度な思考実験も、行為にかかれば、それがよほどのなまくらだって手もなく両断されてしまう。それは悲劇だし、喜劇だし、というのは要するに、当たり前だってことだ」
「それは要約しすぎだと思いますが」
「助けたいから助けたっていってんの」高村は嘆息した。「だって、アリッサちゃん可愛いんだものな。懐いてくれるし、素直だし、ほんと、いい子なんだよ。死んだら悲しいだろ。そんなの、間違ってるだろ」
「正しくなくても、人は死にます」
「そうだな」高村は立ち上がり、深優に正面から向き直った。「じゃあ、頼みがある。きいてくれないか」

 深優は珍しく即答しなかった。

「……おっしゃってみてください」
「俺を殺してくれ。今、この場でなくてもいい。とりあえず、本部に引っ張られる前にな。黙秘とかどうせやるだけ無駄だし、後腐れなく死にたい」
「お断りします」
「そっか」予想はついていた。「悪い。冗談だ。変なこと頼んで、ごめん」

 となれば、無駄と知りつつ逐電あるのみだ。高村は脳裏に潜伏先を描きつつ、その場を後にしかけた。
 深優が沈黙を破ったのは――かなり後になっても高村はこの数秒を不思議に思った――そのときだった。

「今日のことは、この会話も含め、記録されていません。報告もいたしません」
「なんだって?」
「言葉どおりの意味です。メモリの破損が大きく、復旧に際しても完全な復調は望めませんでした」

 真丸に目を見開いて、高村が深優を振り返る。どこまでも無表情な少女は、暗がりでじっと高村を見つめていた。それがとても神聖なものに思えて、吐息混じりに囁いた。

「深優……、君は、ちょっとおかしいぞ。それは、全然、合理的じゃない。俺が一方的に得をするだけだ」
「そうではありません」深優は不動のまま否んだ。「あのとき、先生には私に対し取引を持ちかける選択肢がありました。それを貴方は吟味したはずです。しかし、そうはしなかった。何も言わずにアリッサ様を助けた」
「だからなんだ。かっこつけただけだぞ、そんなの」
「それはよくわかりません。ですが、私はあのとき、取引を持ち掛けられれば、断る術を持たなかったでしょう」
「かもしれないな。でも、たとえそうでも、君が俺をかばう理由にはならないな」
「アリッサさまは、尊いお方です。かけがえがないと、それは『私』自身にとっての価値なのだと感じています」

 はっきりと、感情のこもった宣言だった。眩しいものを見つめるように、高村は細目する。後々のジョセフ・グリーアの狂喜を思って、若干の苦味も感じた。

「貴方は、その尊い命を繋ぎました。私はその行為に価値を認めます。いずれ先生が敵対するのだとして、私は貴方をのぞくことにためらいは持たないでしょう。しかし、私の中でアリッサ様の尊さを損なう行為は選択できません」

 知らず、高村は泣きそうになる自分を発見した。衝撃のあまりよろめきそうになった。深優・グリーアは故障したのか? それとも獲得したのか? いずれにせよ、奇跡の瞬間に、彼は立ち会っていた。
 隠すように、苦笑を浮かべた。

「遅かれ早かれ死ぬんだから、今は見逃してやるってことか?」

 深優の動かないはずの顔が、すこしだけ、動いた。

「遅いか早いかより重要な問題は、先生にはないのでしょう」
「――」

 高村は絶句した。深優の表情に釘付けになって、ふらふらと歩み寄る。
 錯覚だという可能性がもっとも高い。それを知りつつ。指先を深優の頬に寄せた。触れた感触は人工のそれとは思えぬほど自然だった。
 一瞬だけ浮かんでいた微笑のように、自然だった。

「それは止めてくれって、言っただろう……」

 見返す紅い眸は夜を吸い込んで黒々とひかっていた。高村は深優のつむじを見つめて、深く息をつく。彼女からは、ミルクのにおいがした。
 そのとき、

「ああああーーーー! お兄ちゃんが深優とチュウしてるううーーーーー!!」

 余韻をぶち壊しにするアリッサの声が響いて、高村は弁解に三十分も費やす羽目になった。

 






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