<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

その他SS投稿掲示板


[広告]


No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[2120] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン 前を表示する / 次を表示する
Date: 2007/03/08 01:23



9.イーヴンフォールとオッドナイト・イブ




 世の罪を除きたもう主よ――

 オルガンの伴奏に唱が溶けていく。昼下がりのひかりが天上のステンドグラスを淡く輝かせ、落ちてくる彩られた陽射しのもとで子供たちが粛然と調べを告げる。
 先日の夜間外出の罰として執行部に申し付けられた奉仕先で出くわした、思わぬ光景であった。
 鴇羽舞衣の胸に響くその声は、凡百の歌と同一視することがはばかられるほどだ。音でありながら形象として美しかった。
 彼女には歌唱技術の巧拙はよくわからない。しかし採点することさえ恐れ多いと思う。厳粛な心持ちになるあまり、床を拭くモップの手さえ止まっていた。
 耳を傾ければ、心を悩ませる様々のわだかまりが、一時的にせよ溶けていくような気がしていた。いつまでもこの歌を聴いていたいと心底感じた。
 陶然とする舞衣の視線はソロ・パートを歌い上げる金髪の少女に釘付けになっている。彼女は知るひとぞ知る有名人である。名はアリッサ・シアーズ。風華学園初等部一年に所属する、天使の歌声を持つと評判の娘だ。

「凄い、あの子」

 独唱が終わると、惜しみない拍手を送りたい衝動さえこみ上げてくる。しかし整然としていた列が崩れ聖歌隊の子供たちが三々五々散り始めるとタイミングを逸してしまって、一寸舞衣は立ち尽くした。
 感動と癒しの余韻にひたり、しばらくぼんやりとして動かないままでいた。放っておかれたらいつまでもそのままでいかねなかった。が、舞衣と同じく教会清掃の当番になっていた原田千絵に肩を叩かれ小声で名前を呼ばれて、ようやく我に返ったのだった。
 ごめんと舌を出そうとすると、あまり空気を読まない台詞が礼拝堂に響き渡った。

「さしいれでーす」

「はいぃ?」と舞衣が上げる声も低い。
 いったいどこの馬鹿かと音源に眼をやり、絶句した。
 高村恭司だった。どこから仕入れたのか、駄菓子がはちきれそうなほど詰まったビニール袋を抱えている。
 近所の青年がジョギングの途中で忍び込んだと言われても信じそうな風体に、舞衣、千絵の二人は思い切り腰を引く。やはり彼女らと同じく掃除当番の瀬能あおいばかりが、「紙芝居屋さんだ」と嬉しそうに笑っていた。

「き、今日見かけないと思ったらこんなところでなにしてんのあの人……。てか、また怪我増えてるし! なにあの顔面包帯!?」
「ミイラ男のようだ。行動が読めないねぇ」とモップの柄尻に顎を乗せて千絵が呟く。

 普段はいたって行儀のよい礼服の子供たちが、高村を中心に群がっていく。異様な光景である。コンビニやディスカウントストアでは見られない菓子の力を持って、男は童心を掌握しようと試みたのだ。

「あ、押さないで押さないで――」

 たちまち教会の中は合成されたソースや漬けダイコンをピンクに染める液体や酢イカのにおいで満たされた。
 教会建築に舞い降りた昭和的空間の完成である。
 すばらしい歌の名残など皆無になった。
 子供たちの指導係であるシスター紫子が、鍵盤を閉じるや大声で叫んだ。

「高村先生! 子供たちにかってにお菓子を与えないでください!」

 高村は、申しわけない差し入れのつもりだったんですとわざとらしい困り顔つくる。さらにその隣で納豆味のうまい棒をくわえる金髪碧眼の少女の姿を見つけると、舞衣は頭を抱えた。

「あああ。あたしの天使があああ。なんでよりによって納豆味なの!?」
「お、落ち着きなって舞衣。風味が確かにあれだけど、人によっては好きなんだから」どこかずれた千絵の慰めも、遠かった。
「それ以前にあれは駄菓子じゃないよねえ」もの欲しそうな目のあおいがそわそわとしはじめる。「あっ、ミコトちゃん子供たちの中に紛れてるよ。さすが、素早い……。あれ? でもそういえば今日、ミコトちゃん奈緒ちゃんと遊びに行くっていってたような。いや、でも奈緒ちゃんまた昨日からずっと部屋に帰ってきてないし……」
「それでいいのかルームメイト」千絵が半眼であおいを睨む。
「だ、だって奈緒ちゃん外泊常習犯だし……」
「結城さんだっけ? は、今日学校も休んだみたいよ。それで、なし崩しでヒマになっちゃった、と」ため息混じりに舞衣がいった。「はあ、それにしても楯といいあいつといい、ほんッと幻滅させてくれるなぁ、いろいろ」

 きなこ棒を一気食いしてむせるルームメイトの姿に諦めを覚えた。美しいものとはかくも儚いのだ。
(昨日のこと先生に聞きたかったんだけど――そんな空気じゃないな、コレは)
 無常を噛みしめていると、背後で出入り扉が開いた。現れたのは、同じクラスの深優・グリーアである。

「アリッサお嬢さま」

 ふだんの生活では微動する事さえない鉄面皮が、ほんの少し強張っていた。舞衣たちの姿など目に入っていない様子で、彼女はつかつかと高村とアリッサの元へ歩いていく。無言の圧力を放つ彼女に恐れをなしてか、集っていた子供たちが道を開けた。

「む」
「あ、深優。もう来たの?」

 高村をはさみ見えざる火花を散らせていた美袋命とアリッサが、闖入者へと目を移す。命はともかく、アリッサまでもが深優の登場を歓迎していないのを見取り、舞衣は首を傾げた。

「おむかえに上がりました」深優がアリッサを見つめ、いった。
「そ。だったらまだ早いわ。どっかそのへんの隅っこで邪魔にならないようにしてて」

 一瞥しただけでつんといい放つアリッサの姿に、あおいが嬉しそうな悲鳴を上げた。

「うわっ、きついねえあの子。でも超カワイイ……」
「サマ付けか。お家の関係か何かかね。アリッサ嬢は黄金の天使だなんて呼ばれてるらしいけど、いいとこのお嬢さんなのかも」腕組みする千絵は興味しんしんだ。
「にしても、あんないいかたってないと思うけど。反抗期かしら」

 可愛らしい見目をしているだけに、辛らつな態度は必要以上にとげがある。
 もっとも、深優はさほど気にはしていないようだった。一瞬だけそばで命をあやす高村に眼を放ると、アリッサの耳へ口を近づけていく。

「なあに。まだなにかあるの。アリッサ、お歌の練習の途中なんだけど、――え?」

 おや、と舞衣はいぶかった。深優が何かを囁いたと思しき間のあとで、アリッサの瞳が細められたのだった。

「それ、ほんと?」

 少女の問い掛けに、深優は無言で頷く。へえと呟くと、アリッサの顔が綻んだ。
 天使と呼ぶにふさわしい、無邪気な笑み。だがそれを、舞衣は寒々しいと感じた。
 アリッサ・シアーズはわずかに顎を引く。きっかり三度瞬きをしたのち、何かを思案するふうに腕を組むと、
(え……あたし?)
 一瞬だけ、その碧眼が舞衣を映し出した。
 向けられたのは無垢な微笑である。つられて、舞衣も頬を緩めた。が――

「お菓子を食べたらゴミはこの袋に入れてくださいね」

 子供ひとりをさらえそうなビニル袋を広げて、高村が礼拝堂を歩いていく。その姿に気をとられて顔を戻すと、もうアリッサは舞衣を見ていなかった。

「みなさん、休憩はもうお終いですよ!」

 シスターが柔らかに打鍵して子供たちに再召集をかけた。聖歌隊の子供たちは総じてしつけがよいらしく、菓子の味に後ろ髪を引かれることもないようだった。
 練習が再開されて、まず機敏に動いたのは深優だ。かぶりつきの席を陣取って、居住まいを正し、舞衣たちクラスメートにはとうとう一瞥をくれることも無かった。教室では一瞬たりとものぞかせない熱っぽい視線を、隊列のなかで一際目立つ少女へと向けて、微動だにしなくなる。

「クラシックでも聴こうかっちゅう佇まいだねえ」
「うん。気合入ってるって感じ」

 千絵と頷きあいながら、舞衣は高村恭司へと歩み寄っていくあおいの背を視界に納めていた。

「あおい?」
「ははあ」と千絵が手を打った。「さては、高村先生にインタビューを敢行する気だな。わたしもこうしちゃいられないね」
「インタビューって、なんの」
「そりゃ当然、深優さんやアリッサ嬢との関係についてでしょう」
「またそれ?」と舞衣は苦笑した。「お熱だねえ。学園の消息筋魂ってやつ?」
「いや、純粋に不思議なだけ。だって考えても見れば、おかしな取り合わせだよ。舞衣も気にならない?」
「ならないってことはないけど……」

 口ごもりながら、浅い午後を告げる時計に目をやった。創立祭準備週間は短縮日課になっており、今日の舞衣たちにはもう授業は残っていない。
 課せられた掃除も落着しようかという頃合である。教室に戻ることも考えたが、そうしたところで待ち受けているのは創立祭の前準備だけだ。アルバイトの前に体力を無駄にすり減らすのは好ましくない、と舞衣は彼女らしからぬ言い訳めいたことを思った。
(あれ、もしかして、あたし)
 教室に戻りたくないという意思に気付くと、しくりと胸が疼いた。閾値に達しない負の感情が刺した痛みだった。
 舞衣にとっていまやそこは安らぎの場所ではない。少なくとも、余事を忘れて無心に笑っていられる空間では、もはやなくなってしまった。

「舞衣、どうかした?」

 急な沈黙に千絵が首をかしげていた。
 なんでもないよと舞衣が微笑むのと、あおいの黄色い声が上がるのは同時だった。

「幼馴染み!?」
「正確には、その妹がグリーアだってことだけど」ゴミをまとめた袋を胸に抱きながら、高村が答えた。
「それじゃあそれじゃあ、深優さんとも子供の頃から知り合いなんですか?」
「いや、まあ、それは違う。お父さんとはその時分の付き合いだよ」

 高村は首を振って否定する。目を輝かせるあおいに、やや腰の引ける形となっていた。

 千絵が鼻を鳴らした。「これは、ちょっとしたニュース、かな」
 舞衣には賛同しかねる意見だった。「そう? わりとつまんないオチじゃない」
「でも、いろいろと想像の予知がある」
「憶測でものをいうのはどうかと……ていうか、あおいの食いつきがやけにいいよね」
「夢みるトシゴロだからね」
「そうはいっても、ひとごとじゃない」夢より実をとる舞衣は、自分には縁遠い心境だと嘆息したい思いだった。
「もうじき夏休みだもん。ロマンスにあこがれるヤカラも増えるってものでしょう」

 そう口にする千絵自身は、いたって平静である。

「千絵はないの? そういうの」
「私は、見聞きするほう専門なもんで」
「そんなんだと耳年増になっちゃうわよ」
「ご忠告どうも」うやうやしく一礼すると、千絵は指先で眼鏡のフレームを押し上げた。レンズ越しの顔立ちは存外に端整である。女子校であれば、間違いなく疑似恋愛の対象に祭り上げられるタイプであった。
「……モテそうなのに。なにげにスタイルいいし」
「いやいや、舞衣サンにかかったら形無しさぁ」男前に彼女は笑った。「褒めてもらっちゃったし、サービスで特だね教えちゃおうかな。ねえ、あのオルガン弾いてるシスター紫子のことは知ってる?」
「寮母さんでしょ?」

 進学校の学生寮とは思えないほど緩い規則の風華学園の女子寮は、そのまま校風が反映されているためか自治の趣が強い。ために風紀は乱れてはいなくとも、厳粛ともまたいえなかった。それというのも実質寮監も兼ねているシスター――真田紫子の入寮者に対する姿勢が、一貫して信頼に保たれているからだ。
 聞こえはよくとも、実質の放任である。
 といっても、紫子が規律にずさんなのではない。むしろ対応そのものは真摯極まりないとさえいえる。
 しかし、どこか甘い。育ちが良すぎるのだと、舞衣は分析していた。上に立つものとしての気概が見られないのである。気負いすぎる執行部部長とは正反対の性格だった。
 紫子は敬虔だ。よく生徒を信じており、人望も篤い。けれど、寮母として適材とは言いかねた。
 集団生活を円滑に回す上では、締めるべき所を締める必要がある。紫子はそれをしない。たとえば生徒間になにか問題が生じれば、一晩中かけてでもその原因をやんわりと追求しつづける。費用対効果のみならず、怒るべきときに怒れないというのは指導者として致命的な欠陥である。
 それでも寮内でさしたる問題が起こらないのは、そもそも育ちがよい生徒が多いことに助けられている。
 寮生に生徒会長の藤乃静留がいることも、秩序を保っている大きな要因だった。寮内は学内とはまた別個のヒエラルキィによって成り立っている。生徒間の軋轢や仲違いなどは日常茶飯事で、その場合にまずうかがいが立てられるのは紫子ではなく静留なのだった。
 紫子の不備よりも静留の処理能力が飛び抜けすぎていることに、むしろ歪みはあるのかもしれなかった。総じて立ち回りに不満はないものの、やはり責任者としてはいかがなものだろう。それが舞衣の、紫子に持っている印象である。

「よく見てるね。さすがバイトの鉄人」千絵は感心しきりだった。「しかも、けっこう辛口だ」
「いや、うん。べつに不満ってわけじゃないんだけどね。バイトで帰りが遅くなるのも見逃してもらってるし、なんだかんだで頼りにされてるっぽいしさ」

 けれど、少なくとも舞衣は深刻な問題を彼女に相談しようとは思わない。暗にそうほのめかすと、千絵も同感だといわんばかりに頷いた。

「でも、そんなシスターに浮いた話があるんだなぁ、これが」
「まじ!? だってあんな、神さまがコイビトー、って感じなのに……」
「まだ確証を得たわけじゃないけどね」千絵が片目をつぶる。「でもシスターに限らず、休みが近いせいであっちこっちで人知れずカップル成立してるからねえ。今週の創立祭もそうだけど、休みが終わってすぐにも玉響祭とかあるし、そのあとはいわずもがなのクリスマス。イベント目白押しだもの。校則第一条もないがしろにされることはなはだしいわけよ」
「さかっちゃってるわけかぁ」

 翻って我が身はと、肩を竦めて見せるのも半分以上はポーズだった。舞衣は本音では、さほど恋愛の必要性を感じていない。

「舞衣もカレシ作ればいいじゃん」
「相手がいればね」

 だから何の気なしに水を向けられても、苦笑しながら定型句で答えた。

「いるでしょ。楯とか」
「はい!? なんでそこでアイツの名前が出てくるの!」
「だめ? 仲良さそうだし……」
「だめ! 考えられない!」

 いささか過剰なまでに、舞衣は身振りで否定した。追及してくるかと身構えれば、千絵はあっさりと矛先を変えて、

「それじゃあ、副会長は? 麗しの黎人サマ。超優良物件だよ」

 思い浮かんだのは、寸前に挙げられた名前とは正反対の、非の打ち所のない青年の顔だった。確かにパートナーとして文句のつけようがない人物ではある。

「いやいや、黎人さんは会長さんとくっついてるんじゃないの。スーパーモデルでも呼んでこなきゃあの人には張り合えないと思う」
「それ、デマだよ。ホントは付き合ってないって。あの二人」
「そうなの? それはそれで、まぁそうかもって気はするけど……。でもそれこそ競争率高すぎるわ。ライバル多すぎ。あたし、恋愛に高望みはしないタイプだからさぁ。鞘当とかもごめんなのよ」
「そういうこと言ってる子に限って、なかなか腰を落ち着けないもんなんだよなぁ」訳知り顔で千絵は呟く。「あ、そうだ。じゃあ高村先生みたいなのは?」

 思わぬ候補を出されて、舞衣は返答に窮した。好み以前に、その対象として見たことがない相手である。

「またどうしてその人選なのよ……」
「え、だってわりとと人気あるんだよ、高村先生って」

 芳しくない反応こそ意外だとでもいいたげに、千絵は出所定かならぬ高村恭司の評判を披露した。若い男性教師というだけでも学校においては一種のステータスになる。くわえて彼の顔立ちはまずまずよく、人当たりもいたってやわらかい。奇癖を差し引いてもなお、主に下級生に好評を博しているのだった。

「いや、でも怪我ばっかしてるし」
「関係無いでしょそれは。それにホラ、子供にももててるし優しいし」
「どっちかというとアレはモノで釣ってるというか……」

 理解できないと、やはり舞衣はかぶりを振った。

「だいたい、見本市じゃないんだから品定めしたって意味ないでしょ」
「それをいっちゃおしまいってやつだ」言って、千絵は両手を挙げた。「難攻不落だね、舞衣は」
「もう、やめやめ。あたしはそういうのはいいの。パス!」

 強引に話を打ち切った。そもそも長期休暇中はいうまでもなく書き入れ時である。アルバイトを増やし、一日刻みでスケジュールに詰め込むつもりだった。稀に虚しく、人恋しい気分に浸ることもないではないが、今は遊びに興じる心境にはとてもならない。

 勢い込むあおいとは対照的に、高村の傍らで菓子のあまりを平らげていた命は話題には無関心のように見えた。ソースせんべいをかじりながら、聖歌隊の子供たちに漠然と眼差しを投げている。だが歌に聞き入っているふうでもなく、高村が言葉を濁すたび撫肩が反応していた。見つめるうち彼女の眉間がやや寄っていることに気付いて、舞衣はひそかにほくそえんだ。
(あれはやきもち妬いてるな)
 浮世離れの反動か、命は寂しがりの側面をたまにのぞかせる。常識に照らし合わせれば過剰なスキンシップは、その主だった表れだろう。また気に入った人間に持つ独占欲もあんがい強く、舞衣が弟の世話にかまけていると、露骨に嫉妬をすることもあった。自身でも処理しにくい感情であるらしく、そんなときは決まって構うように行動で注意を引こうとするのである。
 情操を育む上では、御座なりにすると後々不具合を起こす反応である。舞衣もそのような場合に命をからかったりはせず、素直に構いつけることにしていた。
(あ、なんかあたし、お母さんみたい)
 微笑むうちにも、命の口は鋭く尖りつつあった。
 ほどなくして、案の定命があおいに向かって「やめろ」といった。強い口調にあおいと高村が驚くと、いつもとは異なった弱々しい調子で「恭司がいやがってる。よくない話題だと思う」と続けた。自分でもなぜ会話に割り込んだのかわからずに戸惑っているようだった。菓子を食べ終えて手持ち無沙汰を装ったのは、彼女なりの意地かもしれなかった。

「はいはい、あおいもそこまでにしなって」

 腕まくりする素振りを見せながら、舞衣も仲裁に入った。



 ※



 子供たちが帰宅すると、なし崩しで清掃も終えるようにと紫子からの指示があった。さすがにひとりで大勢の遊び盛りを相手にするのは堪えるようで、尼僧服の下にある秀麗な顔には疲れの色が濃い。

「そういえば、もうひとりシスターさんいませんでしたっけ? ちょっとミステリアスでアダルティな美人」
「ええ、シスターむつみですね」千絵の言葉に、紫子が柔らかく返答する。「それがなんでもご実家で急用ができたとかで、しばらく留守になさると……」
「その間は神父さまと二人だけってわけだ。大変そうだなぁ」
「いいえ、ふだんわたしが未熟なもので、彼女にはいつも助けていただいていますから……こんなときくらい、しっかりしたいと思います」

 話し込む紫子と千絵だが、後者には隙あらばくだんの『お相手』の片鱗でもつかもうという気概が透けてのぞけている。舞衣はこっそりと苦笑しつつ、礼拝堂の隅で熱心に歌の感想を少女へ伝える深優を尻目した。
 額に包帯、頬にガーゼという顔の高村が、背広姿で現れたのはそんなときのことだ。

「着替えるにしても、どうして教会の奥からやってくるかな」呆れ顔で舞衣が呟く。
「それは、着替えを置いてるからだ」
「公私混同。職権濫用ー」
「生活の知恵といってくれないか」嫌そうに高村が抗弁した。
「てか、なんで眼鏡してないわけ? 色気づいたんですか?」
「すごいあんまりな質問だなそれ」吹きだしそうになりながら、高村がいう。「おまえ、ちょっと玖我に影響されてないか? 眼鏡は単になくしたから新調中なだけだよ」
「ふうん。で、その怪我は? 教師のクセにケンカでもしたの。それとも」周囲を気遣い、舞衣は声のトーンを落とした。「もしかしてまた、例の、アッチ系の……? だいたい、昨日だって突然ミコト呼び出してそれっきりだし」
「ああ」高村も、舞衣に合わせて声音を抑えた。「オーファンが出たんだってな。悪かった。単に目立って欲しかったってだけで、他意はなかったんだ。怪我とかは大丈夫だったか?」
「あたしはね」考えすぎだったか、と嘆息する。「でも、命は怪我したよ。女の子なんだからあんまり傷物になるようなこと、させないでよね」
「肝に銘じる」治療跡のため表情は読みにくいものの、高村の受け答えは真摯だった。「ところで、今日はこれからバイトだったりするか?」

 唐突な質問に一瞬答えあぐねて、舞衣は午後のスケジュールを脳裏に浮かべた。

「うん、夕方からね。それまでは命と……まあちょっと出かけるけど、それがどうかした?」
「いや、遅めの昼をあそこで取ろうと思ったから」あそこ、というのは舞衣の仕事場であるリンデンバウムというレストランを指していた。「鴇羽がいるならどうしようかと思ったけど、いないなら遠慮無く行くことにする」
「それどういう意味!?」
「だっておまえ俺の鍋焼きうどんへの熱意を阻むじゃないか。注文の多いレストランなんか嫌だよ、俺は」

 ぐ、と舞衣は言葉に詰まる。確かにそういう過去があったことは否定できない。

「でも、ふつう夏に鍋焼きうどんはないんじゃない! あたしは店員としては間違ってたかもしれないけど、人としては間違ってないわ」
「ほう」と笑う高村。「大言吐いたな鴇羽。じゃあ聞くけど、どうして夏の鍋焼きうどんはダメなんだ」
「そんなの、熱いからに決まってるじゃん。ただでさえ夏で暑いっていうのにさ」
「言ったな。おい、美袋! ちょっと来てくれないか」ステンドグラスを見上げて大口を開けていた命を、高村が呼びつけた。
「なにか用か?」
「アンケートだ。出来たて熱々の鍋焼きうどんと、ほったらかしてぬるくなった鍋焼きうどんと、わざわざ冷蔵庫で冷やした鍋焼きうどん。そしてまあついでにまずいと評判の冷凍冷やし中華。美袋ならどれがいい?」
「それは、デキタテのアツアツがいいに決まっているだろう」命は当然のように言ってのけた。
「ほらな」高村が勝ち誇る。
「なんかおかしくない!? 今のはなんかおかしいわ! サギっぽい!」

 喚く舞衣を取り合わず、これ見よがしにため息をつく高村だ。

「負けを認めろよ。往生際が悪い」
「む、むかつくなぁ……!」大人げない教師もいたものだった。「ちょっとミコト! あんたどっちの味方なの!」
「わたしはうまいものの味方だ」幸福そうに目を細める命の手には、水あめが握らされていた。
「買収されてるし!」
「それはともかく、おまえ筋トレの方法ちゃんと考えないとますます二の腕太くなるぞ」
「い、いきなりグサッと人が気にしてることを、この教師は……」

 散々だった。
 ともあれ、こうして話す限り高村恭司は少々たちの悪い教師でしかない。舞衣にとって、彼は疑惑を持つにはあまりに日常的な人物であった。怪我が多いのだって、きっと間が抜けてでもいるせいなのだろう。無理にでも、そう自分を納得させる。
 人知れず胸を撫で下ろす舞衣をよそにして、意外な人物が高村に話し掛けていた。

「あ、あの、高村先生?」紫子だった。「これから外食なされるというお話でしたが、今日はどちらかへお出かけになるのですか?」
「はい? あ、ええ」高村も一寸面食らって、ぎこちなく頷く。「グリーアやアリッサちゃんを連れて、美星に出かけようと思ってるんです。学園祭の打ちあげの候補地があそこの海岸らしいので……。ほら、執行部長の珠洲城って子がいるでしょう。彼女の家の別荘があちらにあるらしくって、経費も格安にまけてくれるって話ですよ」
「そ、そうですか。それは結構なことですね」

 そう言って微笑むと、紫子は会釈してすぐ礼拝堂の奥へと消えた。
 高村が不可解極まりないという顔で舞衣を見る。

「あれ、俺に惚れてると――」
「ありえない」皆まで言わせずに舞衣は首を振った。「それはありえないにしても、何だろうね、今の」
「すごい美人には違いないから、とりあえずお話できてよかったってことにしよう」
「先生って」さらりと容姿を褒めた手際に、舞衣は唇を吊り上げた。「もしかしてけっこう女慣れしてます?」
「なんだ、鴇羽。俺の貞操に興味があるのか」
「その言い方はなんかすごいイヤ! もうっ、下らないことばっか言ってないであっち行って! しっしっ」

 笑う高村は、じゃあなと言い置いて深優とアリッサの元へ向かった。



 ※



「あちぃ」

 毒づきながら、尾久崎晶は総合病院の門前を通り過ぎる。これで五度目だった。左手にぶら下げる缶ジュースの詰まったビニル袋も、痕がつくほど掌に食い込んでいる。
 学園祭用の飾り付けを買出しにでかけ、しかし予定よりもずっと早く仕事が終わったのがまず予定外だった。そこからさらに気まぐれを起こしいつもと違う帰路を選んだのも異例の事態といえる。さらに頭ひとつ抜けて見える病院の姿を見、そこにいるであろう顔を思い出してしまったのが運の尽きだった。

「あー、クソ、暑いっつの」

 六度目の右往左往。都合三往復を果たしたことになる。盛夏の午後陽射しは遠慮などしない。夏服の襟にもじんわりと汗が染みた。目撃者がいれば不審人物の認定を受けてもおかしくはない。
 迷うくらいならば早く進退を決すればよく、晶自身即断即決を信条に行動するのが常である。思い切れないのは往くことが自分の性に合っていないと自覚しているからで、かといって退けないのは後ろ髪引く面影のあるためだった。
 ――それもこれも、あの先生が関係ねえのにオレを見舞いになんか連れてくから悪ィんだ。
 晶は生粋の医者嫌いだった。治療を受けるのは元より、本来ならば足を向けることさえ忌避するほどだ。だというのにかかる事態に陥っているのは、すべて数日前の出来事が原因だった。
 きっかけは大道具制作の折りにした怪我にある。同級生が工具をしまい忘れ、看板をたてつける際に躓いて転倒したのだ。咄嗟にそれをかばった晶が、釘で制服と腕に小さくないかぎ裂きを作った。
 騒ぐほどの傷じゃない――と晶は素面で考えていたのだが、大量の流血に動転した周囲はそうはいかなかった。即座に顧問の教師に報告し、縫合が必要かも知れないという保険医の診察を受け、ものを言う間もなく車で病院に運ばれた。だが病院に着く頃にはもう傷口が癒着を始めており、外来の治療にあたった医者と看護婦は大げさに血は出ているが心配はないと太鼓判を押した。縫う必要も、当然なかった。それどころか別件で負った打ち身のほうが重傷だったほどだ。
 保険医がひとり、傷口を見て首を傾げていた。
 騒動が持ち上がったのは看護婦のひとりが待合室の顧問教師を発見してからである。なんでも腕を刺されて救急車で運ばれた翌日に脱走して以来の通院だったらしく、強制的に拿捕の命令が下ったのだった。診療室に連行されていく彼が、去り際手持ち無沙汰になった晶にとある病室の場所を指示したのが――
 巧海との出会いだった。
 
「来たぞこらぁ!」
「いらっしゃい」柔和な笑顔が晶を出迎えた。「晶くん」
「お、おう」

 勢いで照れ臭さをごまかそうとしたのに、当然のように受け入れられて出端をくじかれた形になった。決まり悪く視線を彷徨わせながら、晶は病室へ足を踏み入れる。そんな晶を見つめる巧海の相好は崩れていた。

「ほんとに来てくれたんだ……嬉しいな」
「まあ、な」晶は年上の威厳を意識しつつ鷹揚に振る舞った。「たまたまヒマだったからよ。気まぐれってやつだよ」
「十回くらい門の前ぐるぐるしてたもんね」
「見てんじゃねえよ!」余裕が一瞬で崩れ去った。
「でも、ほんと嬉しいんだ」巧海がはにかんだ。「もしかしたらあのまま帰っちゃうかな、とも思ったから。師匠やお姉ちゃん……以外のお見舞いなんてこっちに来てからは初めてでさ。ありがとう」
「いや……」

 ごまかすところのない巧海の台詞を浴びて、晶は返答に窮した。
 赤面を隠しながら窓を一瞥すると、確かにそこからは正面玄関から門が一望できるロケーションである。不覚、とうめいて晶は来客用のパイプ椅子を引きずり出す。吐息しながら「悪かったな」と呟いた。

「え、なにが?」
「オレは余計な気を遣うのも遣われるのも嫌いだ」晶は巧海の眼を見、告げた。「だからぶっちゃける。別にかったるいとか、見舞いが嫌だとか、そういうつもりはなかったんだよ。ただなんつうか、ガラじゃねえし、そもそも『また来てほしい』なんて社交辞令真に受けるのも図々しいだろ? それでぐだぐだしてたんだが」
「社交辞令だなんて、そんなこと。来てくれるだけで充分うれしいのに」巧海が口を開きかける。
「いいから、聞いてくれ」晶はそれを制して、「確かに来る前は迷った。けど結局オレはここに来た。自分で決めたんだ。ということは、もうオレとオマエはダチだ」
「ダチ? 友だちってこと?」
「う、まあそう言っちまうとなンかアレだけど」晶は咳払いする。「そういうことだ。わかったか?」
「そっか。友だちかぁ」どこか陰のあった微笑が、年相応の朗らかさを湛えた。「こっちじゃ初めてだ。ありが――いたっ」

 巧海の言葉を、手刀で遮った。瞬いた眼が、晶を見つめ返す。

「いいか? 男がそういうなよなよした言葉を安売りするもんじゃねえ」人差し指を立てて言い聞かせる。「ふだんはビッとしてだな、肝心なときに言えばそれでいい。それにだなー、見舞いに来たダチにいちいち礼なんか言わなくていんだよ」
「え? でもお礼はちゃんとしないさいっていつもお姉ちゃんが……いたっ」
「それはそれこれはこれだ」指を弾きながら、晶は断言した。「機に臨み変に応じる、故きを温め新しきを知る、だ」
「それは誤用じゃないかな」
「男が細かいこと気にすんな」ぴしゃりと言いつつ、土産の缶ジュースを取り出した。買ったときには汗をかいていたアルミの表面が、今はすっかりぬくもっていた。「つかヌルいなこれ……。冷蔵庫で冷やすか」
「ううん。いいよ、それで。あんまり冷たいのもだめなんだ」
「……そっか。じゃ、ほらよ。ありがたく飲めよ。オレのおごりだ」
「こういう場合はありがとうって言っていいの?」
「あー、テキトーでいいよ」

 缶を受け取った巧海がプルタブに指をかける。はっとするほど白く細い手でも、さすがに開けられないということはなかった。
 飲み口に近づく唇やうっすらと汗をかく首筋が倒錯的で、晶は意味もなく目をそらす。改めて見ると病室は殺風景ながら主の個性を反映したものだ。特に多いのは書籍で、晶の眼から見ても妖しげな背表紙が居並ぶ様はそこはかとなく圧巻であった。

「外、暑かった?」清涼飲料水を嚥下しつつ巧海が尋ねた。「今日は散歩ダメって言われたから外には出てないんだけど、お日さまがすごく出てるよね。海開きもしたみたいだし」
「あ? ああ。けったくそ悪いくらい暑ィよ」頷いて、そういえばと思いを馳せる。「海な。昨日ちょっと潜ってみたけど、まだ水温は低いカンジだったぜ。泳ぐにはまだ早いな」
「海か、いいな」巧海の口ぶりは夢みるようだった。「行ってみたいな。せっかく近くにあるのに」
「なんだよ、海くらいで」反射的に晶の口をついて言葉が出た。「退院したらいくらでも行けるだろ。どうせ泳ぎ方も知らねーんだろうし、気が向いたら教えてやる」
「あはは、そのときはお願いする」
「あぁ、任せろ……」

 果たせない口約束の典型だと晶は心ひそかに思った。自分の調子が狂ったままであることも自覚している。そもそも、たまさか知り合った子供の見舞いなど、決して必要な行動ではない。奇遇が味方したからといってわざわざ足を運ぶのは、やはり妙なことだった。

「でも、その前に学園祭かな」
「ん?」場違いな言葉に気を取られた。「んだよ、学園祭がどうしたって」
「うん。僕もお姉ちゃんと行けることになってるんだ。外出許可が出て」待ちきれないといった様子の巧海だった。「楽しみ。もしかしたら、晶くんにも会うかもね」
「どうだろうな。学校つっても広いし人も多いから。あー……」そこでふと晶は鋭く眼を細めると、腰を上げた。「ちっと野暮用だ。すぐ戻る」
「あ、うん――」

 足早に部屋を辞して廊下に出た。
 目線だけで素早く左右をうかがう。平日の昼間らしく、院内には忙しく立ち回る看護婦や見舞い客、患者の姿がまばらに見える。廊下側の窓からは、屋上に干された大量のシーツが見えた。清潔な色の布が、万国旗よろしく風に踊っている。
 晶は歩き出す。一切の個性を発さない独特の歩法である。無音ではなく、環境に溶け込む類の欺瞞を用いている。衣服が制服のままであるのは片手落ちだが、耳目を避けるだけなら充分な隠行であった。病室棟の長い回廊を抜け、渡り廊下へ向かう。あらゆる建物は初見でその構造を頭に叩き込むように訓練を受けている。目的地は院内で一種の死角である上階への非常階段だった。
 一歩ごとに人の気配や音から遠ざかる。晶は誰の記憶にも留まらないまま、薄ぼんやりとした照明のもとにある踊り場へたどりつく。一足で階段を駆け上り高度の有利を確保すると、冷めた双眸を空間に向けた。

「おい」感情を消して言った。「式神ごときがオレの眼を欺けるとでも思ったのか? こそこそかぎ回るんじゃねえ。消すぞ」
「それは、怖いな」

 飄々と返しながら階段を上って姿を見せたのは、炎凪と名乗る少年の姿をした存在だった。なぜか首に仰々しいコルセットを巻いていて、見目はひどく間抜けている。

「用件はなんだ?」口早に晶は問う。
「見ての通りさ」凪がコルセットを示した。「昨日、乱暴な人にやられちゃってね。散々だよもう。あ、昨日といえば、晶くんも確かあそこに――ってちょっと待った!」

 弾きかけた千本を手中でもてあそびながら、晶は半眼で凪を見下ろす。

「不干渉を気取るなら徹底くらいしろ。こうちょくちょく蟲が顔にまとわりつくと、潰したくなるだろ?」
「そう言われても、これがお役所づとめのサガってやつでさ」凪は弱った顔で笑った。「晶くんならそのへん理解してくれると思うんだけど」
「なにビビッてんだか」そこでようやく、晶も表情を動かした。「わかってるよ。オレひとりじゃアンタはどうこうできない。殺すくらいはやり方次第だろうが、調伏は無理だ。んで、それじゃ意味がない」
「わかってるなら、凄まないでくれるかな……」
「ウサくらい晴らさせろ」嘆息とともに、続けた。「三尸の真似事もこれっきりだ。次は警告ナシで射つぜ」
「ところが閻魔帳の管理者の子孫は、今ごろドライブ中なんだよね」
「は?」
「いや、なんでも」凪が珍しく言葉を濁した。「ところで、晶くん。最近体の調子におかしなところはない?」
「――っ」

 咄嗟に感情を殺したことが裏目に出た。凪の質問を肯定したのと同じことだ。白髪の少年がため息混じりに肩を落とした。

「やっぱりね。胸かな。それともお腹?」
「黙れ」
「余計なお世話かも知れないけど、そんな無茶は良くないよ。きみの体はもうとっくに二次性徴を迎えてなきゃおかしいんだ。それを薬で無理やり押さえ込んだら、体にだってガタがくる。ニンジャは体が資本でしょ。関節とか筋とか、だいぶ無理させてない?」
「……関係ないだろ。あとニンジャっていうな」
「まあ、結局はきみが決断する事さ」と凪はうそぶいた。「それじゃ、とっとと退散させてもらうよ。――お友だちに、よろしくね」

 ウインクを一つ残して、凪は階下へと歩み去っていった。もしかしたら本当に診察を受けに来たのかもしれない。

「は」笑える空想だった。

 目眩をおぼえて、晶は階段に腰を落とした。
 日ごとに偏頭痛が酷くなっている。原因は明らかだ。度重なる抗成長剤の服薬や投与が、晶の精神と肉体の両方に悪影響を及ぼしていた。
 自らの内部で膨らみつづける得体の知れぬ悪寒に、晶は恐怖を覚えた。痛みにではない。まとう肉を満たす心の歪さが、認識を軋ませる。擬似的にして強制的な同一性の障害。それが、晶を蝕むものの正体である。
「くそ」
 迷妄を噛み殺すつもりで歯を食い縛る。罵りが歯列の隙間から漏れたが、それが何に向かうものかは判然としない。




「あ、おかえりなさい」
「おう。――なにやってんだそれ?」

 病室へ戻るまでには、大事を取って大目の時間を遣った。態度に変化はない。巧海も特に気にはしてないようで、ベッドの上に置いた代物で暇を潰していた。
 膝の上に広がっているのは、一見ラップトップ型のノートパソコンだった。ただし機体に社名や開発元を示す印字が一切ない。ただシロツメクサをかたどったアイコンがモニタの背に刻まれているのみだ。

「うん、師匠に貸してもらったんだ。特にすることもないときは話し相手になってやってくれって」
「話し相手? パソコンだろ、それ」晶が覗くと、液晶ではプロンプタ画面が立ち上げられていた。黒地に白い文字で会話のログが流れている。話者は【TAKUMI】と【Y.U】の二人だ。「誰かとチャットでもしてんのかよ。ユー?」
「ううん。このYUさんって――ちなみにこの名前の由来はある雑誌なんだけど――人工知能なんだってさ」
「……は? 実はネットに繋がってるとかじゃなくて」
「なくて」巧海は何度も頷く。

 意外かつ脈絡のない取り合わせに、晶は絶句した。無言でログを確認する。『晶くん、まだ帰ってこないみたい』『――確かにすこし遅いですね』『うん、なにかあったのかな』『――あまり心配することもないとないと思いますが』『まあそうだよね。しっかりしてるみたいだし』『――晶さん=友だち=しっかりしている人』『そうそう』……。

「スッゲーな」感嘆が漏れた。「オレ、あんまこういうの詳しくないけど、人工知能ってまだ実用化とかされてねえんだろ? 普通に会話してるぜこれ。SFだな、SF。時代がここまで来たかー」
「うん。師匠が知り合いからモニターに選ばれた試供品らしくて」他人事ながら、巧海が誇らしげに胸を張る。「色々なひとと色んな会話をして、そのデータをあとで回収するんだって。でも忙しくてなかなか自分じゃ触れないから、僕とかお姉ちゃんとか看護婦さんなんかに手伝ってほしいって貸してくれたんだ」
「ちょ、ちょっとオレにもやらせてくれ」

 身を乗り出して、巧海のベッドに上がりこむ。巧海は嫌な顔ひとつせず、画面を晶に向けた。
 一本指でキーをタッチしながら、晶はいまだ半信半疑だ。まず巧海を装ってみることから始めた。それが三度の会話で見破られ(「あなたは誰ですか?」)、答えあぐねると即座に特定された(「あなたは晶さんですか? おかえりなさい」)。やや感じたぎこちなさは、更に会話を応酬する内すぐ払拭される。質問形式のコメントがある時点を境に激減し、話題は世間話から雑談まで多岐に渡った。歓談には最適なバランスを発揮する人数があり、二人よりは三人の方が会話は盛り上がりやすい。巧海と晶は間にこの奇特なAIをはさみ、しばらく時を忘れた。
 一時間ほど経って、人工知能が唐突にある質問を画面に提示した。それを見て巧海は「変なの」と笑い、晶は引きつったごまかし笑いを浮かべた。

「巧海ー」

 そこで見知らぬ少女が来室した。家庭的な笑顔が、同じベッドの上にいる晶と巧海の姿を認め、ぴしりと固まった。

「あ、お姉ちゃん」巧海は無邪気にその来訪に顔を綻ばせた。

 彼の姉、鴇羽舞衣の関節が、一時的にすべてブリキ製に変わった。

「えっと、……どなた?」

 晶はひたすら居た堪れない思いだった。

『――晶さんは女性ですか? Y/N』

 画面には肯定も否定もされないままの質問が浮かんだままだ。

 ――もちろん、現行電子情報工学の技術の粋を尽くしたところで、こんな人工知能は組み上げられない。



 ※



「あかねちゃん」

 言葉をかけられて始めて、日暮あかねは恋人の接近に気付いた。思考に没頭するあまり、今がアルバイトの最中だということも忘れかけていたのだ。鴇羽舞衣と同じく、ファミリーレストラン〝リンデンバウム〟が、あかねの放課後の職場だった。
 このところ学園祭の準備で空きがちだったシフトの隙間を、短縮日課を利用して埋めたのがこの日だ。申し合わせて出入りの時間を調整した倉内和也も一緒だった。
 平日の昼間である。客入りの少ないのをいいことに暇を持て余し、あかねは時間の許すまま物思いに耽っていた。和也に声をかけられるまで、かなり長い間沈思黙考に励んでいたらしい。

「あ、ご、ごめんねっ。なんかあたし、ぼうっとしちゃって」
「やっぱり、やりにくいよね」何かを合点したように、和也が頷いた。
「え? なにが?」
「ほら、担任がお客さんだとさ」と、客席を指差した。言われてみれば、テーブル席には確かにあかねの担任の高村恭司がいた。
 相席しているのは金髪の少女と、そして――深優・グリーア。

「深優、さん……」

 名を呼んだ刹那に深優の視線が動いた気がして、あかねは咄嗟に壁に身を隠した。

「あかねちゃん?」突然の行動に和也が目を丸くする。「どうかしたの?」
「ううん。別に、なんでもないの。あはは……」激しくなる動悸は台詞と正反対の感情を訴える。あかねは落ち着かない指先を握り締めて、態度を取り繕った。「それじゃ、注文取ってこようかな」
「いや」和也がさりげなくあかねの前に出た。「俺が行くよ」
「カズくん?」
「なんか、オーダー取りたい気分なんだ」

 止める機を逸して、あかねは和也を見送った。颯爽とした後姿だった。言葉にしなくても、彼が自分の身を案じているのがよくわかる。それだけの気遣いを受けて思い切れない自分が、あかねはもどかしい。しかし思わずにいられないのだ。こんなに居心地の良い関係が――果たして自分が化け物だと教えた後でも維持できるだろうか?
 血が頭から落ちていく感覚が、あかねの背を冷やした。冷房が効きすぎているような気もした。
(明日だ。明日……)
 あした、言おう。
 今日まで何度も繰り返し自分に言い聞かせ、とうとうこなかった〝明日〟だ。
 けれど、もう黙っているのは限界だった。和也に隠し事をするのは辛い。そのことについて心配させるのはもっと心苦しい。
 冷静に考えれば、あかねの抱える事情は誰にも明かすべきではないのかもしれない。そう提案する客観的な意識がある。
 だが、あかねはこれ以上楽になりたいという誘惑に抗えそうにない。打ち明けたい。そして和也と悩みを分かち合いたかった。恋人同士の親密さというのは、お互いだけが在処とかたちを知る合鍵を積み重ねていくことにある……。あかねはそうした考えの持ち主だ。
 告白し、受け入れてもらえるのならば、二人の絆はより強固になる。想いはどこまでも深まるだろう。
 そうなる期待がないといえば嘘になる。和也が自分を拒絶することなどないと信じている。あかねはただ万が一を恐れて踏み切れずにいるだけである。
 背中を押したのは、同僚の舞衣だった。彼女はあかねと同い年とは思えないほど強く、芯がある。あかねは自己主張の強い少女とはいえない。どちからかといえば消極的な性格で、何事につけ目立つ立ち位置でもない。だから、一本筋の通った舞衣のあり方に憧れた。彼女のようになれればと思った。

「明日は、きっと」

 トレイを抱いて祈る。オーダーが矢継ぎ早に飛び込んできたのは、それからすぐのことだった。



 ※



 シアーズに身を預け、九条むつみを名乗ってから覚えた健全な趣味は片手で数えられる。逆となると両手両足の指でも余る。
 わけても不健全な項目の代表が喫煙の習慣である。徹夜明けと作業的な情事のあとの煙草は彼女にとってのスイッチのような役割を担った。夢と現を切り分ける波のようなもので、依存症というよりは自家中毒に近い。
 昨夕身柄を拘束されて以降、むつみは睡眠を取っていない。高村ほどではなくとも臥所と縁遠い生活を送ることには慣れているとはいえ、肉体労働のあとの精神的な苦痛はさすがに堪えた。長時間視覚と聴覚を封じられたのも神経をささくれ立たせた一因である。
 おかげで、来客にも刺々しい態度を取らざるをえない。一脚の椅子が置かれているだけの部屋に現れた影が誰であれ、むつみは歓迎しなかっただろう。それがこの男ともなれば尚更だった。

「大それたことをしたものですね」
「貴方がメッセンジャー?」九条むつみは皮肉も露わに口端を吊った。「吉報ではなさそうね。どうやら」
「私も嫌われたものだ」ジョン・スミスは完璧な微笑を浮かべた。「親密だった女性につれなくされるというのは、なかなか堪える」
「無駄口から入るあたり、底が知れるわね」むつみは鼻で笑った。感情を制すためことさらに無表情を維持する。「単刀直入に話を進めましょう。わたしの処分は決まったの?」
「現在のポストからの降格。ならびに更迭。とうぶんは監視下での生活、ということになりました」
「シアーズも甘いわね。もっとも、来月には『その後事故により死亡』という末文で顛末書が結ばれるのかしら」

 さしたるショックもなく、むつみは事実を受け入れた。目的は半ば果たした。元より、現状へ至る布石を打ち終えた時点でシアーズという宿りの役目は達成されている。惜しむ気持ちもない。

「物騒なことを」とスミスが言う。「我々は営利団体だ。貴女のように優秀なスタッフをそのように使い捨てることなどしませんよ。何より、今日までに貴女がシアーズにもたらした恩恵を鑑みれば、少々の暴走など補って余りある。そうは思いませんか?」
「自分が微妙な位置に居ることも、そこまでにどれだけ敵を作ってきたかも、わたしは理解しているつもりだわ」そう言いきることの傲慢さも、もちろん自覚している。
「それは結構なことです。『つもり』なだけでないことを心から祈りますよ」スミスは右手で紙切れを振りながら、「これは辞令です。おや、不思議な顔をなさってますな。はは、今さら取り繕ってもしようがありませんよ。まあ、隠すほどのことではないですが――要するに、貴女が何らかの違背行為に走ることは、我々にとって折込済みだったということです」
「でしょうね」むつみは自嘲を隠そうとも思わなかった。自分の身元を知るシアーズが、風華にまつわる思惑を気取れないはずもない。「利用できるものは利用する。そういう方針は、正直、嫌いではなかったわ。浅はかで、いかにも無節操で、なりふり構わず無様になる必要のあったわたしにはぴったりだったから」
「ドクターの皮肉というのは少々迂遠ですな。私のような現場の人間にはわかりにくい」
「あらごめんなさい」むつみは全く悪びれなかった。「あいにくとわたしはカラードで、かつ生粋の日本人なものだから、どうもそちらのおめでたい連中がいうところの高尚な言語感覚には疎いみたい」
「その、おめでたい連中のお歴々ですが」スミスがやや語調を硬質に変えた。「今回のことでは、幾人かの責任問題まで発展するでしょうね。知ってのとおり、貴女をいまのポストへ強く推した方も含めて、です」
「それが本当なら、わたしの予想は外れだわ。だっていま、嬉しいもの」
「後ろ盾をなくしたという報せがですか?」
「あなたのほうがよっぽど迂遠ね」むつみは意識的に艶めいた態度を取った。万が一にもありえないが、自棄になって媚びている、とスミスが取れば僥倖だ。
「――で、しょうね。それも意外ではない。余人はいざ知らず、私は貴女のことを多少はよく存じ上げている。いわゆる売笑と陰口を叩かれる類の女性とは一線を画した種類の方だ」
「なんでも知っているって態度ね。だったら話すことなんて何もないんじゃないかしら。って言いたいところだけど、わたしからひとつ質問があるの」
「ほう。貴女が質問。なんですかな? 古い付き合いだ、ひとつに限り答えましょう」

 興味ありげというスミスの態度は八割以上演技だと、むつみにはわかった。そして彼が想定している質問の大半は、実際どうかすると口に出してもおかしくないものに違いない。質問を許可されるということは現状では相応に重要な問題である。答えを得られるかどうかはともかく、相手の反応から情報を得ることは可能だ。今後不自由な状態に陥ることが確定した今となっては、慎重に吟味すべき案件だった。
 けれど、むつみは境遇と好奇心をはかりにかけ、スミスの意表を衝くことを選んだ。

「結城奈緒についても、あなたたちの予想通りにことは運んだ?」
「――」

 淀みを知らなかったスミスが返答に詰まる。
 それだけで、むつみは大いに満足した。口を開きかけたスミスを遮って、さらにまくし立てる。

「ええ、もう答えてもらわなくて充分。――老婆心ながら言い訳には誤差の範囲内っていう箴言を薦めるわ。そして、これをきっかけに綻びが大きくならないよう、せいぜい気をつかいなさい」
「痛み入るお言葉だ」スミスは最後まで表情を変えなかった。「さて、付け足すようでなんですが、今回の失態の雪辱をはかるおつもりはありますかな? 上層部が貴女の忠誠心を試すのにぴったりな試験紙を見つけたようで、立場上打診せねばならないのですが――いかがでしょう。私見ですが、そう困難な課題ではありませんよ。にもかかわらず、見事やり遂げれた暁には、ややもすれば今以上の地位にゆけるかもしれない」
「本気?」むつみは眉をひそめた。「命令無視、情報漏洩、機材の無断借用・紛失。ならびに重度エープラスプラスのマテリアルを失っておいて、どんな魔法を使えば失地回復できるっていうの?」
「簡単なことです。例のワルキューレ、玖我なつきを貴女が説得し、我々シアーズに迎える――」

 スミスの声が途切れた。
 むつみはただ目を細めただけだった。
 身じろぎひとつしなかった。目線も手の位置も、なにひとつ動かしていない。にもかかわらず、明確に室内の空気は変質した。既に韜晦を用いてさえ会話は続けられない。双方にそう確信させる氷柱が、むつみとスミスの間に突き立った。
 スミスは、ほんの一瞬だけ、素の感情をのぞかせた。それは愉悦だ。稀少だが、しかし何の価値もない発見だった。むつみは呼吸を深くして、平静を装う。失言を羞じる気持ちはない。ことこの件に関して、彼女はどんな譲歩だろうとするつもりはない。

「行って。もう話すことはないでしょう、お互い?」
「ええ、ええ。そうさせてもらいましょう。異動の実効は今月が終わり次第、すぐです。身辺整理をお勧めしますよ。しかし――」スミスはしきりに頷いて言った。「まったく、たいした変わり身だ。いまの貴女はかつてとはまるで別人ですね。教えていただきたい。親子の関係とは、貴女にとって本当にそれほど重いものでしたか?」

 沈黙以外にむつみの口を出るものがなかったのは、拒絶のためだ。むつみはそう思い込もうとした。
 だが、実情は違う。スミスの問いは、彼女の脆い部分を確かに衝いていた。動揺が漏れずに済んだのは奇跡だった。もっとも、たとえむつみが狼狽する様を見ても、スミスは眉一つ動かさないだろう。確信が彼女にはあった。そんなとき彼は、昆虫のような瞳でその様子を冷静に観察するに決まっている。

「あなたには、家族がいないの?」背を向けたスミスに対し予定外の問いをぶつけたのは、悔し紛れだった。
「いたが、処分しました。どうも、邪魔だったもので」服に埃がついていた。だから払った。そんな口ぶりだった。

 何ひとつ衒いのない声を残して、スミスは部屋を出て行った。残されたむつみは不思議と納得していた。長年の疑問が氷解した思いだった。
 出会ってから初めて、ジョン・スミスという男に対するひとつの理解が生まれた。
 そういう人間もいる。それだけのことである。単純に割り切ってしまえるむつみも、やはりどこか欠落した人間には違いない。
 吐息ひとつで気分を切り替えると、椅子から立ち上がった。

「わかってるわよ、今さらだなんてことくらい」胸にさげたペンダントを軽く撫でながら、吐き捨てるように呟いた。

 我ながら、弁解以外の何ものでもないと感じた。





前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.048641920089722