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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン 前を表示する / 次を表示する
Date: 2007/03/02 06:09






 8.ロックンロールイズメード






 水は人を殺す。当然のようで忘れがちな節理だ。九条むつみは口中のレギュレーターに激しく違和感を覚えつつ、ゆっくりと体を水中に沈めていく。
 ウェットスーツを取り巻くのは、夏場だというのに凍えそうな温度の水だった。緊張感に熱を孕んだ頭には、かえって心地がよい水温とも感じられる。
 視界が完全に暗中へと没する寸前には、無心で岩の天井を見つめていた。マスク越しの景色が黒色に塗り替えられると同時、むつみは思考の一切を機械的なものへと切り替える。ウェイトベルトにくくりつけられた錘以外の存在が、際立って意識された。
 ここまでは遠泳の範囲だ。スノーケルひとつでも、問題はなかった。だが、ここからはちがう。むつみが今から行おうとしているのは、玄人の手にも余るかも知れないテクニカルダイビングである。油断どころか充分に気を張りめぐらせていても、ひとつの不備が命取りとなりかねない。
 とりわけ、洞窟潜水となれば注意はいくらしても足りないくらいだった。足先のフィンをゆったりと動かしながら、むつみは夜よりも濃い闇の中へと潜っていく。行く手を照らすのは、か細い水中ライトの筋一つきりである。目的地までの道程と一通りの留意すべき事項は完全に頭に叩き込んではいるものの、圧倒的な水底の前ではそれも頼りないコンパスのひとつでしかなかった。
 エントリーから数分も経たないうちに、むつみは何度もコンピュータとコンソールゲージを確認する。タンクに貯えられた酸素量には十全を期している。万が一とは言わないまでも、百分の一の不運にでも見舞われない限り、溺水の心配はない。それでも、残像量を逐一確認せずにはいられなかった。
 左手には機材を運んでいるため、右手で瀝青のように黒く重たい水を掻き分けながら、むつみは更なる水深を目指していく。見えないながらもかなりの空間的広がりを感じさせるだけに、十メートルほど潜って底に行き当たる頃には、体も思考もずいぶんほぐれていた。
 が、本番はここからだ。目前でぽっかりと口を開ける横穴を前にして、むつみはわずかに呼吸を乱した。パーマネントラインすらないケイブダイビング。それが厄介とされる由縁は枚挙に暇ないが、いちばんの問題は水中における緊急の際、逃れるべき絶対の安全圏である水面が存在しないことにある。なおかつ周囲は鋭い岩に囲まれており、手狭だ。タンクが破損した場合、むつみは手もなく藻屑となるだろう。教習は受けても習熟したとはいいがたい彼女の力量では、手に余る冒険だった。

(……行かないわけにも、いかないんだけれど)

 さきほど文字通りの頭上ですれすれの無茶をやらかしていた共犯者を思って、むつみはマスクの下にある頬を緩めた。いつか、彼はいっていた――「冒険は男の特権です」と。しかし、こうも付け足したのだ。「でも、度胸ではぜったいに女性にはかなわないでしょうね」
 ふっと微笑すると、むつみは誘うような洞穴の縁へ手をかけた。そのまま体を滑り込ませる。視界が悪いだけに、他の感覚が伝える情報量はやや誇張された。レギュレータから漏れる気泡や水流、それに自身の鼓動。半ば触覚で洞窟に充分な広さのあることを探りあてると、温存しておいた水中スクーターを起動し、前方への推力に身を預けた。地図どおりならば、この回廊はもうしばらく続くはずだった。
 上下左右に曲がりくねる道は、あたかも生きものの胎だ。いくつかの岐路を慎重に進むうち、むつみの感覚はすっかり翻弄され、もはや深度は計器に頼りきるしかない。魚群どころか魚影ひとつさえなく、道々に見えるのはただ暗闇と、ときおり朽ちた貝や、光など届きえないというのに自生しているまばらな海藻ばかりだった。
 心理的な圧迫感は相当なものだ。潜行から十五分ほど経て脈を取りながら、むつみは自身に精神的な失調を認めた。体力的にも、さすがに余裕とはいえない。

(でも、減圧症や窒素酔いではないわ。単純にプレッシャーによるものね)

 九条むつみは、どういった意味においても自分が強靭であるとは決して思っていない。むしろ人間的には脆弱な部類に位置付けられるとも考えている。だからこそ弱さを克服するための工夫には常に迫られた。それはある場合では逃避であったり、または依存であったりする。どちらも見目はよくなくとも、効率的という観点では悪くない手段である。
 けれど、今はそのどちらも選ぶわけには行かない。むつみは背を炙る焦りを自身もよく知る観念に置き換えた。卑近なところで、ノルマの達成ならず受注の期日を迎えんとしている前夜の心境だ。そんな修羅場にならば、シアーズに身を置くようになってからも幾度となく経験している。
 気を落ち着かせ、ゲージに目を落とす。予定では、そろそろ行程の半分は消化されているはずだ。後半はこれまでほどスムーズには行かない隘路が続く。だが、冷静になればさほど難しくはないはず――。
 思った矢先、進路が壁に塞がれていることに気付き、むつみは愕然と身を震わせた。

(間違えた!? そんなはずは……)

 まず自身の記憶を疑い、反芻する。あらかじめ教えられ、覚えた手順に誤りはなかった。だとすれば、情報に過誤があったのか。戸惑いのなかで動悸に喘ぎ、むつみは胸元に手を置いた。
 戻るべきだという判断が頭をかすめた。しかし、それは最悪の場合にしか取れない行動だ。高村が今回打った奇手は、二度と通じるものではないだろう。
 複数のHiMEの同時扇動と戦闘行為、さらには多数の目撃者が生まれるように事態を仕組み、内通者の助力さえ借りて厳重な警戒網にわずかな綻びをつくる。それが、むつみと高村恭司がかねてから計画していた、シアーズにも知られていない腹案である。高村が備えた「HiMEやオーファンと引き合う」、特殊な蓋然性を逆手に取った策だった。昨夜の結城奈緒との衝突でやむなく緊急に実行に移ったが、それでも今のところ、偶然の助けもあり事態はむつみに味方するよう推移している。

(だけど、次は無い)

 ルビコンはとうに越えていた。
 仕掛けている相手、一番地のというよりは、彼女らの所属しているシアーズの問題だった。今回ばかりは、多少自由を許されている高村はおろか、むつみの独断専行も看過されまい。
 シアーズとて全く甘くはない組織である。本来技術屋のむつみが前線で責任者としての地位を得るまでには、相当の無茶があった。そんな彼女が現地の実働スタッフすべてを欺き、計画に支障を来たしかねない問題を画策したとなれば、更迭は免れない。よくて沖縄のラボに押し込められるか、悪ければ粛清の対象になるだろう。一枚岩ではないシアーズ内部を強引な手段で伸し上がってきたむつみの心象は、人種的な偏見を除いても最悪だ。無沙汰などという楽観はできるはずもなかった。
 ――だから、そう簡単に諦めるわけにはいかない。
 ライトを四方に向けながら、むつみは焦眉の態であるべき道を探した。真実行き止まりならば、ともかく前の岐路に戻ってみるしかない。
 果たして、通るべき穴は見つかった。しかし、むつみの心境は安堵にはほど遠い。向こう側へ通じていると思しき唯一の抜け道は、いたって小さな孔に過ぎなかったのである。

(サイフォン……では、ないみたいだけど。地図にはなかったはず。それにしても、ぎりぎりだわ)

 女性として相応に小柄なむつみが、タンクを外してどうにか通れるといった程度の隙間だ。凝然と狭洞を見つめたあとでどうにか拡張できないかと手を伸ばしたが、もちろん無駄だった。

(天井の基部に崩れたあとがある。地震か何か、かしら。どちらにせよ、そう古いものではなさそうだけど……)

 苦渋に満ちた目が、何度もいかんともしがたい現実をなぞる。脳裏に不安げな元同僚の言葉がよみがえった。
 ――古い、調整用の通路ですからね。もうずっと使っていないものですし、整備もされていない。安全とは言えませんよ。
 まったくだと、むつみは引きつった苦笑を浮かべた。だが、いつまでも迷っている時間は残されていない。逡巡のすえ、むつみはBCを脱いだ。タンクのひとつを放棄し、体と分離してどうにか穴を通過できないものかと考えたのだ。

(ステージボトルの応用ってことになるわね。もっとも取りに来ることはないし、時間的な猶予がずいぶん圧迫される事になるけど、他に手は無い)

 ステージボトルとは、長時間のダイビングに際して三本以上のタンクを用意し、その内のいくつかを復路における後顧の備えとして事前に置き去りにするタンクや手法自体を指す言葉だ。本来なら行程の過半を消化した上で行うものであり、また決して狭洞を通過するために取るべき方法ではない。
 が、背に腹は変えられない。むつみは蛮勇を選んだ。まずスクーターを押し込み、レギュレーターはくわえたまま、器用に足先から穴へ体を差し込んでいく。多少窮屈ではあるものの、見込みどおり崩れた穴自体の長さはそれほどではなく、腰まで穴に入る頃には足が不自由なく動かせるようになっていた。胸がややつかえた瞬間にはひやりとしたが、それも少し体をひねればどうにか通る。

(いける――)

 思った直後、ごうと水流が渦を巻いた。
 むつみが身を横たえた穴の足側から、それはやってきた。水槽を塞ぐ栓を、むつみはとっさに思い浮かべた。
 暗闇のなかで、泡立ちがマスクの向こうを大量に通過するのがわかった。ほとんどパニック寸前で、それでもどうにかむつみはレギュレーターを放さぬよう口元を手で覆った。余った手は、機材とタンクを包むBCを握りしめている。
 十数秒、ろくに身動きできないままむつみは耐えた。しかし不慮の流れがようやく緩んだかと見えたとき、あっと声をあげかける。確保していたはずのタンクのひとつが、彼女の腕から離れていたのだ。
 穴の向こうへと運ばれ落ちていくタンクを、むつみは見送るしかなかった。
 とにかく一度、穴を完全に抜けてしまわねばならない。残った最後のひとつを後生大事に抱え、ようやくのことで難所を脱した。
 コンピュータの示すエアーの残量は、半分といったところだ。むつみの最長潜水時間は一時間には届かない。予定では、あと二十分もあれば目的地には到達できるはずだった。強行軍をしてできないことはないものの、確実とはいえない。慎重を期すならば、もう一度穴をくぐってタンクの回収を試みるべきだ。
 うんざりしながら身を翻そうとしたとき、ヘッドライトの光に翳りが差した。
 ――頭上から巨大な闇が迫ってくる。
 咄嗟にフィンで水を蹴り、むつみは体を後退させた。先ほどとまではいかなくとも、むつみの体を吹き飛ばすには充分な渦が生じていたためだ。
 伝わる重い震動は、落石を連想させた。すぐに何かが体のすぐそばを通り抜ける気配を感じるが、ライトの灯りでさえ巻き上げられた泥に遮られ、あたりはまったき闇に等しい。

(なにかいる?)

 震動はなおも続いている。まんじりともせず、気泡を抑え呼吸さえ殺して、むつみは身動きを止めた。ライトの光もぎりぎりまで絞る。発見を恐れてのことだった。
 先ほどの潮流。そして今の気配。この水域には間違いなく何かがいる。
 恐怖が背筋を撫で上げ、むつみはタンクの回収を断念した。ついでに、スクーターの所在もわからなくなった。
 ようやく震えがおさまる。むつみもまたまとまらない思考をどうにか落ち着かせ、現状を把握したとき、心臓が一際強く脈打った。
 違和感がある。不安の正体はすぐにはわからなかった。少しずつ、確かめるようにあたりへ手足を伸ばし、そこに空間的な広がりのあることを確かめる。先ほどまでの回廊のような隘路では、既にない。よどむ水のためにはっきりとは視認できないが、開けた場所にいるようだった。
 今度こそむつみはうめいた。
 記憶では、まだ通路が続いているはずだったのだ。

(そんな、位置を見失った……?)

 装備を欠いた上で見当識を失った。致命的なミスに近い。
 空気は残り少ない。
 水面には上がれない。
 戻る道は、恐らく塞がれた。

(え……)

 体をくまなく覆うスーツの端から、ひやりと冷気が忍び込んできた。
 心がこわばる。

(待って、これ。え……)

 咄嗟に脱出経路が思い浮かばない。
 思考が促進を拒否している。
 命に替えても守ると決めた面影が、水位の低い闇に浮かんだ。

(え……?)

 周囲は水と闇と石ばかりだ。
 無機的な包囲は棺を思わせる。
 ――水禍の密室に囚われた。

(死ぬの……?)

 茫然と胸中でごちたとき、光が瞬くのが見えた。
 はっと身を竦めて、我に返る。ちかちかと、サインのように光が何度も明滅している。むつみからは右手側だ。
 鬼火。そんな名詞が脳裏をよぎる。あまりのタイミングの良さに、むつみは自身の正気を疑った。
 だが、どうやら光は現実だった。定期的な明暗の拍子は人為を意味している。

(人工物? 潜水艦じゃあるまいし、こんなところになぜ)

 眉をひそめ、身構えようとして、すぐに馬鹿馬鹿しいとむつみは苦笑した。死の恐怖が、目前の好奇にあっさりと奪われている。
 救いようがない人種だと自嘲する一方で、彼女は気を取り直すように頭を振った。どのみち、今はいくら妖しかろうと差し出された手を頼るにしくはない。

(鬼が出るか、蛇が出るか)

 地上ならば深く嘆息したに違いない。とにかくBCを着直して、タンクを背負うことを優先した。そろりと近場の岩に張り付き、腕の力で体を運ぶ。光が誘導する先へと、必死になって泳ぎ進んだ。
 目的の経路に復帰したのはそれから間もなくの事だった。安堵の息をつくと、光が離れていくことに気付く。一瞬だけ追うべきか迷うが、もちろんむつみには見送る以外できることはなかった。ただ腑に落ちぬ感謝の念を視線に込めて、遠ざかる影を見つめた。

 予定外の事さえなければ、元よりそう困難な道程ではない。あとはつつがなく運んだ。

 行程を予想より消化していたらしく、水中に見える景色の人工色がより如実になるころ、むつみはようやく出口にたどり着いた。先ほどの灯りとは違う、薄っすらとした緑色の光が、誘蛾灯よろしく水中隊伍をなして道をつくっている。その先には、ハンドル式の扉がむつみを迎えるように解放されていた。
 ここからの手順も教わっていた。扉の内側はカプセル状になっており、人間のひとりやふたりはやすやすと収納できる構造である。
 体をすっかり内部に滑り込ませると、今度は開かれていた扉を閉じ、ハンドルを回して固く封じた。と同時に、壁に備え付けられているL字レバーを操作する。排水のための仕掛けだった。
 水抜きが済むと、むつみは何よりも先にレギュレーターを外し、天然の空気を肺に取り込んだ。壁に背を預け眼を閉じると、疲労に身を浸す。

「……よし」

 きっかり一分を調息に費やすと、むつみは侵入時とは逆側にある扉へ手をかけた。むろん、ここでも注意は怠らない。腰に備えた得物へ手を添えながら、ゆっくりと桟を押し開けていく。
 間もなく見えた人影に、銃口を突きつけた。そうする彼女の口元にはかすかに笑みが浮かんでいた。

「撃たないでくださいよ」両手を挙げた迫水開治が、破顔した。「まさか、本当にこの水道を通ってくるとは。いやはや、お若いことで」
「年だけど無理をしたのよ。こんなときに、そうでもしなきゃ入れないでしょう?」むつみはゆるゆると首を振り、銃を降ろす。「それで早速だけど、潜る前から状況は変わってないかしら」

 張り出た腹を揺らして、迫水が苦笑する。あまり冴えた顔色ではない。彼の立場を思えば当然だった。
 むつみはあえて気付かない振りを続けた。

「ええ。おかげさまでてんてこ舞いですな。高村先生も、ずいぶん無茶な人だったようです」
「ええ。大したものよ、彼。ほんとうに」むつみはそこで、微笑を深めた。「ところでさっき、鬼が出るか蛇が出るかって思ったんだけど」
「はい?」
「カエルって、海を泳げたかしら?」



 ※



 クレヴァスを突風が吹きぬける。水流が複雑な紋様を描き小船を翻弄する。風鳴りがまるで遠吠えのようだと結城奈緒は思う。やかましい水と風の音に負けじと響くのは、なぜか当たり前のようにいる杉浦碧の、能天気な歌声だった。

「はしりだせっ、ごーうごーうっ、かぜになれっ、ごーうごーうっ」
「ジャスラックに怒られますよ」
「……ふんふんふん、ふーんんー、だらら」
「まあ、お金を取らなければいいんじゃないですか」
(なんなの、この状況……)

 奈緒が見上げた先で、鍾乳石が雫を垂らした。彼女が脱力して体を預けるのは水面を揺れる艀。額に汗して櫂を漕ぐのは、高村恭司だ。

「無駄口叩いてないでさっさと漕ぐ漕ぐぅ。馬車馬のように漕ぎなさーい」船の縁に頬杖をついて、碧が女王のごとく命令する。
「いや、だからどうして俺なんですか。もうすぐにでもぐったり寝たいほどむちゃくちゃ疲れてるんですけど」ぎこぎこと上半身を動かしながら、高村が心底気だるそうに不平を口にした。言葉に違わず、顔色には疲労が濃く表れている。「それになんでモーター使わないんですか……。文明への叛逆ですよ」
「だってあたしトリーズナーミドリ。それにモーターは音が出るじゃん。あと帰りのことを考えると燃料は温存しておくべきでしょ。わかったら文句言わないの。あんた男の子でしょー」碧が吊り目がちの眸をさらに鋭くした。「それに生徒に最低のセクハラ働きをしといてこの程度の刑で済めばお徳よお徳」
「でも、あれは結城がいきなり蹴ってきたんですよ。いや、それにですね、さっきはちょっと事情があって、どうにもあの状態だと思いついたことをそのままやってしまうというか、自制が効かないというか」
「言い訳すんなー!」

 碧の一喝に、高村がうな垂れる。奈緒は碧のポニーテイル越しにその姿を認めつつ、舟底に深く身を沈めた。碧にやりこめられる高村には溜飲が下がらないでもないが、いまはとにかく眠気が強く彼女を捉えている。碧を真似て船縁に置いた腕に頭を預けて、遠ざかりつつある出口を半眼で見やった。
 本物の洞窟に、彼女らはいた。

 絶壁の根元にある岸辺で途方に暮れていた奈緒と高村に碧が合流を果たしたのは、陽が山の端にかかったころだった。碧は近所の量販店でわざわざ購入してきた着替えや、他得体の知れない雑多な機材を持って、船で現れたのだ。
 ひったくるようにして衣服を奪い、着替えた奈緒はもちろん早々に寮への帰路につこうとした。着衣水泳のあげく溺死しかけたせいか、体がくたにくたに疲れていたのだ。一刻も早くベッドへ飛び込んで眠りにつきたい気分だった。そこを呼び止めたのは高村ではなく杉浦碧で、彼女は奈緒に対し自分もHiMEであると告げるとしげしげと奈緒の体を天辺から爪先まで見回して、
「なるほど、あなたがねえ! ともかく、よろしく頼まれてちょうだい」
 訳知り顔で頷いたのだった。
 碧はそそくさと暇しようとする奈緒を陽気に引きとめた。
「まあまあ、ちょっと待ちんさい。これから行く所に、奈緒ちゃんもついてくるといいよ。あたしと同じHiMEなら、全然無関係ってわけじゃない場所を探そうと思ってるんだ」
「きついなら帰ってもいい、と思うぞ」
 と言い添えたのは高村だ。こちらは先ほどの狂態が嘘のように落ち着いている。むしろばつの悪そうに奈緒から距離を取って、あまつさえ気遣うような素振りさえ見せていた。あれだけすき放題に暴れておいてどういうつもりなのか。疲労の極致にあっても奈緒の反骨精神は健在だった。彼女は反射的に碧に答えていた――。

「いく」

 早まった、と思わないでもない。

 洞窟の入り口は、奈緒が目ざめた海辺から船で十分ほど島を東巻きにした地点にあった。壁面から蔦が繁茂し、傍目にはとてもそうと見とれないものの、大振りなクルーザー程度ならやすやすと飲み込んでしまえそうなうろが、そこには口を開けていたのだ。
 碧のゴーサインに高村は諾々として従って、奈緒は完全に他人事と割り切り事態の推移に身を任せることにした。
 なかば聞き流してはいたものの、冒険に胸を躍らせ嬉々として語る碧によれば――「この洞窟は人工的なもの」とのことだ。きっかけは図書館で彼女が見つけた、少なくとも昭和初期以前に学園に施された工事の図面だった。その資料には学園地下を網羅するいくつかの通路や、瀬戸内海と下水を直結させる計画などの進捗がこと細かに記されていたのだという。

「それでこの洞窟が作られたってことですか」合いの手は高村のものだ。
「ううん。それは違うみたい。その頃にはもう、この洞窟はあったんだ」碧が首を振った。「要はそのとき工事に当たった人たちが、偶然ココを見つけたってことなの。だもんだから、当時の人たちはそりゃビックリよ。突如! 目の前に現れた巨大な洞窟。神の御業かはたまた悪魔のイタズラ、いったい真相はいずこに……ってやってるあいだに、緘口令が布かれちゃったみたいね。まあ、あたしらが今通ってるこの洞窟は、さすがに天然の浸蝕ではできないと思うけどさー。まず規模が大きぎるし、地理的にも海流的にも、ここまでの天然洞窟はできるはずないもん」

 船が浮かぶ水路は、碧の言葉通り広く、また深い。既にいくつかの支流と合流し、地下でありながらほとんど河川か湖かといった様相を呈している。奈緒は意識の外にそれらの光景を置きながら、高村とは別の意味で舟を漕いでいた。

「さっきから何回か別の流れにぶつかってますけど、その図面だとこういう水路がまだ他にもあるんですか?」高村が言った。
「うん。というか、このルートは途中で通れなくなってるから、正規の道じゃないみたい。とはいえさすがに学園のほうがこれを知らないってことはありえないだろうし、探せば別の詳しい資料も見つかるかもしんないけどね」
「なるほど、ねえ」

 ところでさ、とそこで碧が揚々と切り出した。

「山型で、かつ迷路構造の巨大建築物っていうと、やっぱあれ思い出さない?」
「ピラミッドですか」
「そうそう」得たりと碧は笑う。「もう上の山が媛伝説と密接な関係にある土地ってのはほとんど確定だけど、まずあちこちにあるヘンテコな穴蔵の意味、あたしなりに仮説立てたんだよね。あれとかこれって、たぶん慰霊のための御社みたいな役割を持ってるんじゃないかな。そもそもさ、発破もない時代にこんな大掛かりな工事の施工できるワケないんだし、そこにはきっと――」
(ヤだヤだ、これだからヲタは)

 喧々と推論を戦わせる二人を尻目して、奈緒は欠伸した。彼女の興味は、碧が解説する洞窟の役割などにはなかった。気になるのは、それだけのことをやってのける存在についてである。
 命や玖我なつきといった他のHiMEと出会うまでは、単純に状況に酔っていられる余地があった。好きに街を狩場に変え、夜を住処に女王として振る舞うことができた。久しく求めていた自由と解放を彼女は手中に収めたのだ。
 だが、それが与えられたものだとすれば状況は変わる。甘い食餌をちらつかせ、巣に誘い込んで殺す。それは奈緒の常套手段である。そしてだからこそ、それをされる屈辱と危険性についても熟知している。

 ――『自分だけは大丈夫』なんてことはありえない。

 奈緒の双眸が倦怠と怜悧を交えた斑な光をたたえ、碧と意見を交わす高村をじっと睨みすえていた。熱中する横顔には、彼女をやりこめた面影はもはやない。子供のように瞳をかがやかせ、益体のない絵空事や目の前に広がる探険へと完全に意識をうばわれているようだった。
(玖我もコイツを追っかけてたっけ。あれは、そういえばなんで……?)
 ぼうっと昔日に意識をやっていると、高村が船底のランプを手に取り、奈緒に押し付けてきた。

「……なに?」
「聞いてなかったのか」高村が苦笑する。
「だってアタシ関係ないじゃん」
「これから碧先生が碧先生の独断と責任の元でディギングするんだ」奈緒の抗弁を、高村はさらりとかわした。
「え、なにげに恭司くんがヒドい」碧がうろたえる。「共犯だろー。つれないこというなよーう」
「ディギングってのは要するに塞がってる進路を削る事なんだけど」高村はやはり取り合わない。「今から碧先生がやるのはほとんど轟天号だから、ええとその、なんていうか、ヤバイ」
「ヤバイって……ていうか5.5ってなに?」
「あっ、その反応は時代を感じちゃう」碧が悲しげに呟いた。
「それで有毒ガスが出てきたりするかもしれないから、そのランプの炎の色がおかしくなったらすぐ教えてくれ」
「はあ!? 毒ガス!?」聞き捨てならない単語だった。「勘弁してよ。アタシ帰る」
「あはは、奈緒ちゃんは面白いなぁ。――そぉれ出ませい、ガクテンオー!」

 舳先に片足をかけた碧が、朗々と自らのチャイルドの名を呼ぶ。
 召喚の余波に水面が波を立て、突風が奈緒の異論をかき消した。

「とっかーん!」



 ※



 脱いだスーツを鞄に押し込め、持ち込んだシャツとタイトスカートに手足を通す。濡れ髪をアップにまとめてウィッグに押し込み眼鏡を装えば、即席の変装は完了した。費やした時間は二分にも届かない。反復練習の成果である。
 必要な機材は全て、手荷物として運べる程度のものだった。緊張感を作り笑いでほぐすと、むつみは閉じられた非常扉に手をかける。

「お待たせ」
「いえ、正直意外なほどお早い」言葉通りに眼をしばたいて、迫水がむつみの足下から顔面までを、まじまじと見つめた。「いやはや、なんというか……」
「どこかおかしいかしら」眼鏡のリムを押さえながら、むつみは自分の体を見下ろす。「念には念を入れてみたんだけど」
「いえ、一瞬別人が出てきたのかと」
「そう? なら成功ね」口早に答え、ふたたび手元の時計に目を落とす。時間を意識して焦っている所作だ。自戒するように呼吸を深くして、むつみは迫水に頭を下げた。「とりあえず、ほとんど心配はないとはいえ、万が一もある。怖い人たちに見咎められない内にさっさと移動することにするわ。ありがとう、迫水くん。ここから先は――」
「そこから先は、いいっこなし、でしょう?」迫水が台詞を遮った。「乗りかけた船です、私もお付き合いしますよ。それにまぁ、こんな僻地だ。今なら誰とも会わないとは思いますが、万が一を考えると、誰かあなたの身元を保証できる人間がいたほうが都合がいい」
「そこまで迷惑はかけられないわ。独りでだって平気よ」

 思いのほか強い口調であった。迫水の言葉に詰まった様子を見てむつみはすぐに己の失敗を悟り、目を伏せた。「ごめんなさい」と口にした。
 迫水は欧米人のような身振りで「お気になさらず」と答えた。

「ですが、これが危険な橋だとおっしゃるなら、どうか理解してください。ことはあなた独りの問題ではないでしょう? 何かあれば、あの娘にも累が及ぶことだってありうるんです」
「もう、儀式は始まる寸前だわ。今さら」アキレス腱をつかれ、むつみはうめくように言い訳した。「……済まないわね、本当に。どうやら、思ったより余裕がないみたい」
 迫水が笑った。「当然のことですよ」

 結局、むつみが提案に折れる形となった。先行する迫水の半歩後を、変装した彼女はついて歩き始める。

 九条むつみと、風華学園の教師である迫水開治に、書類上いかなる縁故も存在しない。せいぜいが同じ学園に職場を持っているという共通点のある程度だ。しかし、むつみがまだ『九条むつみ』になる以前、彼女は彼と近しい仲だった。今よりもよほど親密な、職場の同僚だった。迫水は彼女にとって貴重な友人だったとさえ言える。
 職場の名は、岩境製薬といった。
 紹介は彼女が学生時代、院で世話になった教授によるものだ。専攻が薬学系でない彼女としてはあまり興味をそそられる分野ではなかったものの、当地ではいわゆる一流に属する企業で、研究室のコネクションを用いた就職としては申し分がない進路だった。当時才媛として期待されていた彼女を受け入れる条件は思いのほか好待遇で、リクルートスーツでヒールをすり減らす労苦を思えば即決できた。何よりも、当時の彼女には無視できないハンデがあった。それすらも斟酌して雇用してくれる企業となれば、他に探すほうが難しい。
 だが違和感は入社後すぐにやってきた。
 彼女は研究者である。そしてそれに相応しい職務が、回ってきすぎていた。内容が新入社員がこなすものとしても製薬会社の業務しても、異様だったのだ。おかしなことは他にもあった。雁字搦めの守秘義務、単なるチームワークとは断じ切れない開発室の連帯感……。次から次へと与えられるタスクに忙殺されるとともに、彼女の内部で違和感は肥え太りつづけた。この会社は何かがおかしい。一年が経つころ、異様な昇給を見せた給与明細を前に、それは確信となっていた。
 薬品開発に後ろ暗い事情がつきものだということは、もちろん知っている。しかし通常それはいわば境界的な汚さともいうべきで、結果的には利益へと還元される企業努力だ。その綱渡りのリスクヘッジを見誤ったとき、企業は危地を避けえない。しかし、当時の岩境製薬が踏み込んでいたのは、とてもそんな単純な領域ではなかった。
 違和感を黙殺できたのは、単純にそれらの作業が魅力的だったからだ。彼女は有能で才気に満ち、知的探究心に溢れていた。周囲もそんな人間ばかりだった。遺伝子工学、応用物理――別分野の突出した才能とのやり取りは刺激に満ちていた。自分を高められる場所はここしかない、と彼女は理解していた。私生活も落ち着き、上向き始めた。家庭もうまくいっていた。勉強や雑務に追われていた学生時代とは違う。
 華があり、それを育てる潤いがあった。
 迫水と知り合ったのもその頃だ。

 ――何もかもに裏があるのだと悟るまでには、まだしばらく時間が必要だった。



 ※



「どうやら、この先に地底湖というか、大きな水たまりがあるみたいですね」

 中洲でデジタルカメラのシャッターを切りながら、高村はメジャー片手に測量に励む碧にいった。碧はレーザポインタを天井に照射しながら、不可思議なジェスチャーを交えつつ、

「えーさいんこさいんたんじぇんと」と唸っていた。
「何の呪文ですか」
「さ、三角比でスケールを計算しようとしてるんだけど、ノーパソ忘れた」
「あほだ……」高村は嘆息して、携帯電話を取り出した。気密していたおかげで機体はまったくの無事である。「じゃ、ちょっと数値ください」

 碧が投げやりに返した数字を聞くと、一拍置いて高村はすぐに正解を口にした。

「うおっ、スゲー! 恭司くん数学オリンピック!?」
「いや、計算したのは俺じゃないですから」
「へ、じゃあだれの仕業よ。フェアリーさん?」
「マルチプルインテリジェンシャルユグドラシルユニットさんです」
「ああ、なるほど」碧は訳知り顔で頷く。
「ご存知なんですか?」
「ウン。スーファミで多人数プレイするやつでしょ? ドカポンのとき使った。あとボンバーマン」
「さて、そろそろもっと奥に行って見ましょう」
「突っ込んでよーぅ!」ボートへと歩き出す高村に追従しながら、碧が喚いた。「あっ、で、でもエロい意味じゃないよ」
「呑屋のオッサンと同レベルだな、この人……」

 あきれ返りながら船に乗ると、碧は不満も露わに唇を突き出した。

「昨夜えろいことしようしたのはそっちじゃん」
「はいはい、すいませんでした」
「なんだその態度ー!」

 諸手が上がるたび、くくられた髪の毛も揺れる。高村は苦笑しながら、オールを手に取った。

「結城も寝ちゃったみたいだし、別にそんなにテンション上げてかなくていいですよ」
「あら、ホント?」と、碧が船底に目を落とした。顔面にタオルを被せて横になった奈緒はぴくりともしていない。「でもこのコがあたしらの前で寝たりするかね……。ぽんぽこたぬたぬぐーぐーかもよ」
「ぽん……? ああ、別に狸寝入りでもいいじゃないですか。要はこっちとコミニケイション取りたくないって意思表示をしてるかどうかですよ」
「フーン、ま、本人を前にして色々言うこともないね」

『よっこいしょ』と腰を降ろす碧に対して、高村はもう何も言わなかった。しかし白眼視することまでは止められない。碧はにこやかに「なにか?」と訊ねた。
 高村もまた何気なく答えた。

「碧先生って実は巨乳ですよね」

 碧は危く水面に落ちかけた。

「思ってることと全っっ然ちげーだろォーがぁー!」天に向けししくする。語尾が洞窟の中で幾重にも反響した。「ンもぅ、昨夜からあたし的高村恭司像のパラダイムシフトの連続なんだけどー。あんたってそんなお茶目キャラだったの?」
「いや、今ちょっと酔っ払ってて人格が安定してないんです。Nihil aliud est ebrietas quam voluntaria insaniaってやつです」と言ってから、唖然となって高村は自らの口元に手をやった。「……なんですか、今の呪文。何語でした?」

 冗長な空気を一変させた同僚を見る碧の目が、戸惑いを含んだ。

「何って……自分でいったんじゃん。セネカでしょ、たしか? ラテン語で……」碧が記憶を探るように目を細めた。「『酩酊は自発的な狂気に他ならない』……だったかな。酔っ払いはダメだぜって格言」
「ラテン語」と高村は鸚鵡返しに呟いた。かぶりを振り、嘆息して、荒々しくオールを漕いだ。「ラテン語ですね。なるほど、コンテクストは整合が取れてるわけだ」
「その、どうかした?」

 怪訝そうな物言いは追及の気配を含んでいる。しかし高村がなんでもないと答えると、碧はあっさりその矛を収めた。ただし口には出さないだけで、視線は疑惑を伴ったままだった。
 しばし、水の流れに沈黙を支配される。通ってきた支流が大きな水路に合流すると、水面から突き出す岩肌が明らかに目減りし始めた。どうやら本当に、この通路を利用している気配があるようだ。推論にしても穴だらけだった碧の見当は結果的に正鵠を射ていたというわけだ。その推量は、もはや神憑りの霊感とでも呼ぶべきかもしれない。
 両腕の前後動を機械的に反復しながら、高村はもの問いたげな碧の気配を黙殺しつづけた。かといって、彼女が口に出して訊ねてくるのならば、答える用意も彼にはあった。杉浦碧は大胆だが、同時に娯楽を優先して結果迂遠になる傾向がある。高村が致命的な解答を発して「つまらないこと」に陥るのを警戒しているという見方もできた。
 そうだとして、そこまで慮って行動する意図は高村にはない。間を繕うように、彼は個人的な疑問をぶつけることにした。

「碧先生にとって、HiMEの力ってなんですか?」
「なに、急に。質問タイム?」茶化すようでいて、質問の裏を咀嚼する怜悧さが、碧の面貌には宿っている。熟考とは呼べない束の間を挟んで、彼女は簡潔に答えた。「身を守る、もしくはオーファンをやっつけるための力、かな。少なくとも今は、それ以外の何ものでもないし、それ以外には力を使うべきじゃないと思ってる」
「歯止めが利かなくなるから、ですか?」
「ん、まあそういうことなんだろうね」碧は含羞の面持ちで頷いた。「そりゃぁさ、便利な力だよ。ホントいうと、まるっきり悪いことには使ってない、ってこともない。むしゃくしゃしたときなんか、峠でもいってゾッキーでも丸ごとぶちのめしたいなんて思わなくもない。独特の感覚なんだけど、チャイルドでオーファンを倒すと、凄くすっきりするんだ。あぁ、楽しいなって思っちゃう。オーファンだって生きものなんじゃないのかとか、結局殺してるだけじゃないのかとか、そういう考えはどっかいっちゃう。――そう、酔ってる」

 高村は、無言で続きを促した。

「だけど、やっぱり、HiMEってのは何かを壊すものなんだよね。いろいろ考えたけど、どうやらその他には使えそうもないものなんだよ。そうしたら、それはどうしても必要なときや、何かを壊す事で他の何かを守るときにしか、どうやら使えそうもない。そんな風に思うようになった。……まあ、そのへんのラインはずいぶん緩いと我ながら思うけどさ」

 さっぱりとした顔で碧はそう言い切って、

「――バッカじゃないの?」

 結城奈緒は、そう嘲った。

「会話に参加する気になったのか?」
「くだらない。せっかくの力なんだから、思い通りに使えばイイじゃん」高村を無視して、奈緒は碧にいった。「はっ、オーファンがどこのマヌケをヤろうが、あたしらには関係ないでしょ。こんな便利なモノ、自分のために使わないほうがよっぽど不自然だね」
「フーン」高村が曖昧に相槌を打った。「それで、結城は援助交際まがいのことやって男をフィッシュしてはカツアゲしてるわけだ」
「それが、なによ――」

 食ってかかりかけた奈緒を制したのは、碧の一言だった。

「でもさ。そういうことしてると、本当に好きな人ができたとき、後悔するよ」

 さしたる険しさもない台詞だ。含蓄を読み取る事もできないほど、何気ない。それでも高村は顔つきを改め、奈緒は犬歯を剥き出しにして火のように反駁した。

「ナンデスカソレ? ウザイんですケド。だいたい、クサい上に陳腐なセリフ! 恥かしくないわけ? 好きだとか愛してるだとか、ドラマの見すぎだっつーの。男なんてヤりたいだけのバカ。それに乗る女も欲しいのは結局金で、そのために体使ってるバカ。好きだの愛だのキレイゴトでうわっつら塗り固めてごまかしてるだけ! どいつもこいつも馬鹿馬鹿しい……」
「俺はおまえのせりふが恥かしい」高村が小さく呟いた。
「恭司くん、茶々入れない」碧がぴしゃりと言った。「まぁ、奈緒ちゃんも好きな人ができたらわかるかな。恋だ愛だって言葉や物語が陳腐に感じられるのは、それだけ世界に溢れてるってこと。それに、ごまかしだって決して無意味じゃない。きっと奈緒ちゃんもそのごまかしに助けられてるはずだよ。……ちょっとあたし、さっきからいいこと言いまくってない? いいこと製造マシーンじゃない!?」
「それを自分で言っちゃだめでしょうよ」
「ざけんな。勝手なこと言うな」奈緒が眦を吊り上げた。「あんたに……あたしの何がわかるんだよ」
「結城」空気を和ませようと、高村は柔らかく語りかけた。「そんなに昂奮するとまたパンツ脱げるぞ」
「――殺スぞ」奈緒がエレメントをちらつかせた。
「お、俺を殺してもパンツが脱げるぞ」
「死ね」
「空気読まないセクハラとかマジ最悪だよねー」碧も奈緒を支持する始末だった。「やっちゃえやっちゃえ」
「キモいんだよ毛虫!」
「眼鏡ないとキャラ薄いんだよ三葉虫ー!」
「今はこの仕打ちも甘んじて受け入れよう。はぁ、はぁ」高村は息切れしながら、激しくなりつつある潮流に歯を食い縛った。
「うわー、虫呼ばわりされて息荒くしてるこの人ー」碧が余計な一言を発した。
 奈緒の軽蔑しきった眼差しが高村を貫いた。「キモい。普通に気持ち悪い……」
「ちょっと待って、はぁ、違うんだ、これは、はぁ、はぁ……俺はあえて汚名を被ることで、はぁ、はぁ、危険な空気をどうにか、はぁ、…………奈緒たんはぁはぁ……」
「たん言った! たんって言ったー!」碧が大はしゃぎだった。
「……」奈緒は無言で艀の最後尾に寄った。

 空気の緩和には成功した。しかし高村は、二度と取り戻せない何かを失った思いだった――。

 罵倒に怯えながらも、一心不乱に船を漕いだ。さして時間も置かないうちに、舳先が固い感触にぶつかった。

「ようやく着いた」と呟き、高村は我勝ちに陸へ飛び移った。

 そこは、広大な空間だった。山の下にあるのだと、知識で知っていても認識が追いつかない。学園の運動場くらいならば収納してのけるのではないか。それほどの容積がある広間だ。

「こりゃ、すごい」

 後追いした碧も、さすがに絶句しているようだった。奈緒は無言のまま、薄気味悪そうに周囲を見渡している。

「ここが――」

「――そう。黒曜宮です」

 高村の台詞を継いだのは、碧でも奈緒でもなかった。
 にわかに空気が緊張し、三者の視線が声の出所へ向かう。
 先にいたのは、車椅子の少女だった。傍らには、独特のシルエットが控えている。風華学園理事長風花真白と、その侍従である姫野二三の姿に相違ない。
 問題は、その他にも多数の気配が存在することだった。まず四人の黒服が真白と二三の背後に控えている。さらに少なくとも十人単位の人員が、高村らのいる広間に集結しつつあった。目線を左右に走らせ、高村は包囲されていることを悟った。

「待ち伏せ……」碧が挑戦的に呟いた。
「後手にまわらざるを得なかっただけの話です。本来ならば、部外者がこちらにたどりつくことなどあってはならない事態でした。まさか、道を切り開いてくるとは思いませんでしたよ」真白が穏やかに実情を吐露した。「これは目論見どおりですか、高村先生? それとも主犯は杉浦先生かしら……」

 名指しされた二人は同時に答えた。

「恭司くんです」「碧先生です」

 痛々しい沈黙が降りた。
 真白は気を取り直すように咳払いして、厳かに高村を見つめた。

「行状が過ぎましたね。先生は慎重な方かと考えておりました。ことここに至っては、もはや看過はかないません」
「遅かったくらいだと思っています。これまでお目こぼししていただいて、ありがとうございました」

 清廉な双眸である。水晶のそれにもにた輝きに捉えられ、高村は居心地の悪い感覚に囚われた。

「ご真意を、お聞かせ願えますね」

 ――どうやら、肚の決め所のようだ。




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