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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン 前を表示する / 次を表示する
Date: 2007/01/09 06:16




7.Rocked




 その日、アリッサ・シアーズの昼食はサンドウィッチだった。何ら特別ではない市販の品物である。深優・グリーアはやや難渋を示したが、アリッサはこれを取り合わなかった。

「そんなことより、もっと気にすることがあるでしょ」
「はい、お嬢さま。先生のことですね」
「そうよ。お兄ちゃんのこと」

 教会で、彼女たちは昼食を囲んでいた。たまたま居合わせたシスター紫子が微笑ましそうな視線を向けていたが、アリッサは彼女を意図的に無視していた。
 深優は一瞬の沈思のあと、

「現在は裏山にいるようです。ここからそう遠くはありませんね。ユニットは起動しています。恐らく、戦闘状態にあるのでしょう」
「ドクターは?」
「捕捉できていません」
「ふうん――」
「これまでの予測を基に、いくつかの推論が立案できます」
「細かいことはいいわ。もしかしたら、も要らないの。深優」

 深優が主の言葉を察する間は、ほとんどなかった。

「現時点で、両名は確実に独自の行動を起こしています。これはまず原則に沿っておりません。また本隊にバックアップを要請していない以上、その理念は秘密裏なものと推測されます。これらに加え、現在把握できる要素の動向から判断して――本日中に、警戒レベルの飛躍的な引き上げが懸念されます」
「もー。スイソクとかハンダンとか、深優ってそんなのばっかり」

 嘆息に対し、深優は無表情に首を傾げた。

「では、言語形式をファジイなものにせよという命令を取り消されますか?」
「だめ。深優、メーレー守ってないもの。だいたい今のはファジイじゃなくてファジイっぽくしてるだけじゃない」
「では、せめて厳密な定義を。ルーティンさえわかれば、お父様に勘案していただけます」
「それがないからファジイっていうのー」

 頬を膨らませて抗弁する。なるほど、と深優は真摯な面持ちで受け止めた。

「さすがお嬢さま。ご慧眼です」
「はあ……だめだめだよぅ、深優。これじゃお兄ちゃんを驚かせる日は遠いわ」

 最後の一切れを小さな口に無理やりおさめて、アリッサの頬は冬眠を前にしたげっ歯類に似る。パンくずを服から払い落とすと、彼女はステンドグラスから射す陽光に髪をきらめかせて、立ち上がった。

「それにしても、困ったお兄ちゃんだわ。アリッサのフィアンセなのにね」

 年格好に似合わない仕草で、アリッサは肩を竦めた。

「ちょっとそこのところ、オシオキしなくっちゃ。いいわね、深優?」
「はい。パナケアの調整は完了しています」深優も、アリッサに続いて腰を上げた。
「じゃ、いくわ」

 指先についたマスタードを赤い舌が舐めとる。舌先に走る刺激にアリッサは涙目になった。

「からい」

 深優はそっと水の入ったペットボトルを差し出した。

「あのー……」始終微笑んで黙っていたシスター紫子が、遠慮がちに深優に訊ねた。「ところでいま二人がお話していたのって、……英語、でいいのかしら?」
「ラテン語です」

 素っ気なく答えると、深優・グリーアは軽い足取りで教会を出る少女の後を追った。

 その背を見送った真田紫子は、ふいに表情を沈鬱なものへと変える。胸元のクルスを僧服の生地ごと握り締め、おびえるように陽射しを透かすステンドグラスへと視線を転じた。なにごとか誰にも聞き取れないほど小さな声で二三の言葉を漏らしたかと思うと、はばかるように教会の奥へと消えた。
 


 ※



 反復して学習する。肉体に負荷をかけ回復を促す。更なる上達のための創意工夫を凝らす。対峙するものがあれば、その弱点を探す。
「哲学的な求道を除外してしまえば、鍛えて強くなるということはつまりそれだけのものです」
「それは、そうでしょうね」
 いつも通り、ひたすらに畳とキスしたあとのことである。嘔吐寸前の態でうずくまる高村を見下ろしながら、あたかも鉄芯の通ったかのごとく背筋を伸ばして、白髪の女丈夫は訓示を垂れた。
「――貴方を見ていていつも思うのですが、言われたことをただ繰り返せばいいというものではありません。愚直は美徳などと、いったい如何なる人生訓が支持するでしょう? 模倣するのならばその理というものをどこまでも考察しなさい。競技格闘ではないのですから、足運びにせよ体捌きにせよ、周囲の環境に左右されやすいということも忘れずに」
「ひとつひとつ、技の意味を考えろということですか?」
「その理解力は、肉体に天与がある人間にはあまり備わらないものですね」女が肯いた。彼女が世辞めいたことを口にするのは極めて珍しい。「術理という言葉が日本語にはあるでしょう。洗練された技術体系というものは極めて合理的なものなのです。どうせ一年や二年教えた程度でものになる技術などないのですから、せめてそのノウハウやシークエンスを自分なりに咀嚼してみなさい。――最後にひとつ、個人的な質問があるのですが」
「はい」
「間借り人に頼らないのはプライドのためですか」
 答えあぐねる内に、女性は彼に背を向けた。

 高村にとって女は一応の師にあたった。脳手術後のリハビリ補助員として九条むつみに紹介されたのが最初の出会いである。彼女が基地で兵士を相手にした体技教導官を務めていると知ってからは、熱心に請うて護身術を学んでいた。
 といっても、女が高村に体系だった技術を教えることはなかった。もちろん彼女が専門にする軍隊格闘もだ。
 レッスンは単調ながら刺激に満ちたものだった。彼女はただひたすらにMIYユニットの調整を受けた高村を打ちのめし、その都度口頭で動きや戦術の善し悪しを批評した。高村は毎度せめて一矢報いようとものの本を読み、付け焼刃の特訓をしては返り討ちにあった。当然の結果だった。何かを学ぶのならば、専門の師を仰いだほうがはるかに効率的に決まっているのだ。
 ある日業を煮やしてとうとう意見してみたことがあった。
「俺は色々と試行錯誤していますが、これでは散漫になるばかりでちっとも上達しません。何かひとつの技術に的を絞った方がいいんでしょうか」
「それは許しません」と、彼女はいった。「案ぜずとも貴方にはせいぜい器用貧乏の素養がある程度です。ひとつところに打ち込めば、すぐ才の頭打ちに会うだけですよ」
 高村はうなだれた。「いつもながら容赦ないですね……」
「優しくしてほしいと?」
「いや、それはちょっと気持ち悪いかなぁ」
「よろしい。立ちなさい」
 このスタンスばかりは、高村がいくら望んでもとうとう変えられることはなかった。

 また別の日のことである。どうにか転がされる頻度が十秒に一度から三十秒に一度ていどに減ったころ、高村は彼女に聞いてみたことがあった。
「人間以外のものを倒すにはどうすればいいですか? バケモノ、たとえば大きい虎だとか、二メートル半あるグリズリーとかを倒すには」
「道具を使いなさい。火器が無難ですね」莫迦を見る目で彼女は答えた。「道具がないのならば斃すなどとは決して思わず、逃げ足を鍛えなさい。そもそもそういう状況に陥らないよう頭を働かせなさい」
 もっともだと肯かざるをえなかった。以降、高村は走ることだけは欠かすまいと決心したのだ。
「だけど、身も蓋もないですね。道具っていうと、たとえば銃とか、刃物ですか。そういえば、人間は銃を持ってはじめて動物と対等なのだ、なんてハンターの言葉がありましたっけ」
「どうしても戦う方向で行かせたいようですね。よいですか、ミスタ・高村? 私は猛獣使いではありません。もちろん猟師でもないのです」
「……では、さすがにミス・マリアでもケモノはどうにもならないと」
「いえ、熊や虎なら屠ったことはありますが」
「あなたは本当に人類ですか?」
「他の何に見えるというのです。有袋類や羊歯植物にでも見えますか」白刃のような眼光が高村を刺し、すぐに逸れた。「……冗談に決まっているでしょう。鍛えられた軍人でも、徒手では中型犬を殺すことさえ難事です。撃退、というだけならばそうでもありませんが、察する所貴方のいっているのはそういうことではないでのしょう?」
 本当に冗談なのだろうかという疑心を拭えず、高村は肩を縮こめてひきつり笑いを浮かべた。
「ええ」
「格闘技は、人間以外のものを相手にするようにはできていません」と、彼女はいった。「ですが、外敵から身を守るようにはできています。よって仮想敵としていわゆる害獣を想定するのは、非常識とはいえ、心底無駄なことではないのです。が、問題はそこにはありません」
 高村もばかではない。彼女の言わんとしていることは、さすがに理解できた。人間と猛獣とでは、生物としての強靭さの次元が違う。
「だから、道具が必要なんですね」
「間違ってはいませんが、正解ではないですね」彼女は高村を見つめた。「われわれのする狩猟の本質とは野を駆る闘争ではないのです。そこに宿る原始的信仰それ自体を否定するものではありませんが、あくまで物資の調達が目的。武器は補助器なのですよ。より効率的に獲物を斃すための擬似的な爪牙に過ぎません。畢竟、われわれが有する切り札とは――準備に尽きます」
「準備、ですか」と、高村はいった。
 満足げに彼女は肯いた。

「つまり、罠です」



 ※



 蜘蛛は、獲物を捕食する罠のかたちを生まれながらに知っている。巣の模様はだれに教えられるものでもない。天然自得の習性。彼らにとって自らが描くべき幾何学的形象は自動的だ。そも彼らに感情はない。ただ生きるためのメカニズムだけが備わっている。
 美しい蝶を捉えて殺す彼ら。毒をもって翅を蝕む仕業は残酷だろうか? 結城奈緒はそうは思わない。彼らは当たり前の営みをしているだけだった。捕食することもされることも、世界に織り込まれたシンプルなプログラムをただ履行しているだけにすぎない。そこには優しさも酷薄さも存在しない。美しくも醜くもない。
 しかし、人間の眼を通して視れば異なる意味付けがなされる。

 今でこそそう考える奈緒にも、その〝ムシ〟を毛嫌いした事実があった。幼い日、彼女は六本の節足を目にして震え上がった。理由はない。形状に対し生理的な嫌悪感が催されただけだった。自宅にあったベランダの隅でへたりこみ、まだそれの名も知らなかった奈緒は「ムシが」とかすれた声で人を呼んだ。やってきた女性は取り乱す彼女をあやしながら事情を問うた。子ども特有の要領を得ない不快感を説明して、奈緒は巣にぶら下がる一匹の小さな蜘蛛を指差した。

「潰して」

 女性は――きっと彼女自身も蜘蛛が得意というわけではなかったのだ――少し考えたあとで、かぶりを振った。奈緒はその反応が理解できなかった。不平をいっぱいに表して女性の背に回りながら、どうしてと訊ねた。納得がいかなかった。虫に命を見いだしていなかったということもあるが、蚊や蝿は殺すではないか? ではどうしてあの気持ち悪い虫を殺さないのだろう。

「かわいそうだから?」

 これも女性は否定した。やんわりと蜘蛛は益虫だから無暗に殺さずとも良いのだと語った。エキチュウという単語の意味がわからずに奈緒は首を捻った。女性は言い回しを少し変えて、クモさんはお家の守り神なのよ、と付け足した。幼い奈緒はこの言葉にいたく肝銘を受けて、以来蜘蛛を見かけるたびに手を合わせて拝むという少しばかり変わった習慣に親しむようになった。
 そんなことがあった――



 ※



 ――当たらない。
 獲物の身の軽さに、奈緒は歯軋りしてエレメントを振るう。狙う先にいる高村の動きそのものはさして速くもない。美袋命のような機敏さも運動能力も、男には備わっていない。彼の挙動はあくまである程度鍛えられた人間の域を逸脱するものではないのだ。
 だが奈緒の振るう糸は、高村を捉えきれない。危いところで躱され、捕まえたと思った瞬間には決まって手近な幹に進路を阻まれる。
 攻撃の軌道を先読みされているように、高村の足運びには捉えどころがない。胸の悪くなるような錯覚を、奈緒は攻撃の手数を増やすことで駆逐した。そもそも、体捌きだけで合計十本もの致死性の糸や、合間にチャイルドから放たれる針の攻撃から逃れられるはずはないのだ。
 最悪なのは、森林という周囲の環境だった。
 武器である爪型のエレメントから伸びる糸は、途方もなく鋭い。絡めば鋼鉄さえ斬ってのける。だが糸は刃物ではない。勢いと質量ではなく、摩擦で対象を切断するのである。目的の間に障害物を置かれては、思うように狙いがつけられない道理だった。
 もっとも、糸の先にはアンカーがついている。距離と空間さえ開ければ遠心力を利用し、一度に木を刈ることは不可能ではない。だが高村はつかずはなれず、常に一定の距離を置いて奈緒の猛攻をしのぎつづけた。奈緒がフェイントさえ駆使して大振りの一撃を加えようとすると、そのたびに距離を詰めようとしてくる。そうした素振りを見せ付けられては、奈緒も安易に隙を見せる気にはなれなかった。高村と出会った最初の晩に腕を折られかけた記憶は、苦く彼女の中に根づいている。
 チャイルド、ジュリアによる追撃にいたっては、それ以前の問題だった。高村は常に動き回り、自らとジュリアとを結ぶ線分の上に必ず奈緒を置いた。これも視界の悪い森の中でなければできるはずもない芸当だった。無理にジュリアを矢面に立たせると、彼は即座に背を向けて全力で逃げ出した。もちろん、山中である。人ひとりが身を隠す場所には困らない。そして標的が駆け込んだ木立にジュリアの巨体をけしかけた数秒後には、移動した高村が奈緒の背をうかがい、気付いた瞬間にエレメントで迎撃を計れば躱された。
 その繰り返しだった。

「おい」糸を放り投げた枝に絡ませてしのぐと、息を弾ませて高村がいった。「また石が行くぞ。しっかり避けろよ!」

 横手投げの投擲モーションから、拳大の石が飛ぶ。当然ながら躱すのはたやすい。一歩動けば済むからだ。だがその先にもまた、反対の手から投石が放たれているとなれば、面倒でも糸で叩き落とすことになる。結果そのぶん、後手に回る。これもまた十度近く反復されたやりとりだった。
 ここまでされれば、奈緒にも察しがついた。そもそも、いくら森の中とはいえそれほど手頃な石が都合良く十も二十も落ちているはずはない。明らかにおかしい――不自然なことはほかにいくらでもあった。高村を追って茂みに入れば、草で結ばれたアーチに足を取られ、危く転びかけた。寝かされた枝が突然跳ね上がって奈緒の顔面を狙ったのも一度ではなかった。あわやというところまで追い詰めた瞬間にどこかで目覚し時計の音がけたたましく鳴り響き、思わず気を取られたこともあった。
 そして何より、今、奈緒の視界は数十本の発煙筒から立ちのぼる有色の煙によって、著しく狭められていた。
 いうまでもなく高村は生身だ。すでに疲れも見えていた。時を待てば仕留めるのはたやすい。
 だが奈緒は、HiMEでもオーファンでもない対手に時間をかけることをよしとしなかった。それは手に入れた力に自ら泥を塗るような真似でしかない。

「ちッくしょうっ、畜生! ウザイんだよセコいんだよ、クソッ、バカにしやがって、ちくしょう――ジュリア!」

 呼びかけに応じて、ジュリアが硬質の上体を軋らせ駆動する。有機的なフォルムに無機的な質感。半ば人半ば蜘蛛という異質さは、白昼の元でますます際立った。
 蠢くチャイルドの胴体には孔がある。ノズルの役目を果たし、排気音にも似た悲鳴を上げる部位だった。
 尾が反り返る。顔面の下半分だけを露わにした彫像が、歌うように口唇を開かせた。
 無音の歌声が招くのは蒸気だ。一度に大量の糸を精製する前段階の咆哮である。

「おいおい、本気かよ……」
「いいかげん、くたばれ!」

 泡を食う高村を指差して、奈緒は声高に叫んだ。
 ジュリアの息吹によって人工の煙幕が吹き散らされる。渦巻く気流は目視すら可能だった。その中心には奈緒と、彼女が従えるジュリアがいる。
 絡新婦の鋭い尾は、地面に突き立てられていた。穿孔された大地を起点に罅が地を走った。意思あるように円形を描き、螺旋を写しては縦横に互いを繋ぎ合わせ、格子をかたどった。
 硬軟自在の糸に土木の別はなく、人も例外ではない。高村はすでにその術中にある。
 尾の先から糸を地中に潜らせたのだった。半径数十メートルにわたる『巣』のありさまに、高村が絶句して後退した。

「……やめておいたほうがいいぞ。昨夜の地盤沈下どころの話しじゃなくなる」
「そんなの、知るか。あたしは」

 後々の面倒など知ったことではなかった。奈緒はいま、目の前にいる男がとにかく気に入らないのだ。高村の大人ぶった物腰が、それを韜晦する軽薄なたたずまいが、こちらを見透かしたやり口が、ことごとく癇に障った。
 ――いや、
 と昂揚に身を浸しながら奈緒は唇を弓形に吊り上げる。彼女の怒りは必ずしも高村個人に向けられたものばかりではない。もちろん男は看過できない標的だ。そのことに一切の変更はない。しかし奈緒を炙る感情の焦点は、どこか無限遠にひとしい場所で結ばれていた。その瞋恚は既に焦げ付いている。悪性の腫瘍にも似ていた。
 望みはあった。それが叶わないことを彼女は充分に理解していた。
 だが切望はやまない。感情の制御は何年も前に破壊されている。
 彼女は『現実』がわからなかった。すべては空々しく、虚ろで、忌々しい書き割りにしか移らない。不快感は毒々しく吐露されて、精神と肉体を埋め尽くすのだ。
 夜毎宿主を痛めつけ、安息の眠りを許さない、宿痾に似た呪いのくびき――。
 それが結城奈緒を駆り立てる全てだった。
 衝動の塊に身を任せることだけが彼女を癒した。

「――アンタがいなくなれば、それでいいンだよッ!」

 叫びを聴いた高村は、この土地ではじめて彼を知った誰もが知らない感情を浮かべた。口端の歪みは食い縛られた歯を示した。眉根が寄せられ、眼が細められた。それは紛いなく、嫌悪だった。
 誰にも聞こえない声で、彼は何かを呟いた。
 転瞬、ヘキサグラムの格子が完成した。
 『糸』は地盤にまで達するものではない。表層だけを切り刻んで、跳躍するジュリアに引き上げられる。いわば変則的な投網だった。
 一帯の樹木が、茂みも含め、はかなく散らされた。多量の土砂が舞い上がり、粉塵が視界に満ちた。
 即席で耕された地表から、高村が素早く飛び退いていく。
 しかし、間に合わない。巣糸から逃れた先は、奈緒とジュリアの追撃の射程圏だ。
 迫るチャイルドの巨大な尾を、高村は身をよじって回避する。体勢が崩れた。途端に横手から伸びた脚の一本に、その細身が弾き飛ばされる。呆気ない軽さで高村は地に叩きつけられた。逆上せた奈緒の頭は容赦の無い追い討ちを決断する。手を振るった。糸が高村に向かう。かろうじて顔を上げた高村が、かばうように怪我を負っている右手を差し出した。糸が彼の手首をスウェットの袖とその下にあるギプスごと捕捉した。

「はッ」

 奈緒は勝利を確信する。ギプスの強度など、彼女のエレメントの前には物の数ではない。
(このまま引き寄せれば、終わる)
 奈緒は強く手を引いた。
 ――手応えがあった。
 切断する感覚だった。

「……え」

 と、誰かが間の抜けた呟きを発した。
 双方押し黙り、凝然と患部を見つめずにはいられなかった。
 高村の手首から先が消えていた。
 ありえないほどに美しい断面だ。それは、ギプスが断たれたためのものに他ならない。

「え……?」と、今度ははっきりと、奈緒が漏らした。「ちょっ……と、……手、どこ……?」

 呟きの後を追って、切り取られたギプスが地に落ちた。あまりにも軽い音だった。
 吹き散らされた土煙が、光景をモノクロオムに化粧していた。高村の目が丸く見開かれているのが奈緒の目に止まった。彼の着るスウェットの色が鮮烈だった。青。奈緒は勢いを減じていない右手に体を引かれ、たたらを踏んだ。倒れかけた背がジュリアの装甲にもたれた。
 そして、赤。
 それは思考の、ほんの空隙だった。
 高村が絶叫した。思わず耳を塞ぎたくなるほどの叫びだった。それが奈緒の空白に恐れを呼んだ。一時的な恐慌、それを決定的にしたのは、高村の『手の無い』右手首から迸る、鮮やかな赤色の液体だった。
(……あたし、やばい?)
 奈緒の意思に寄らず、体が硬直した。高村の叫びはまだ続いていた。地面を染める紅も、留まる所を知らないようだった。奈緒は土に吸われ黒ずんでいくその色から眼を離せない。
(あれ――死ぬ? 殺す? え。嘘――でしょ)
 動悸が急激に高まる。頭から、熱が一気に失せた。結城奈緒が現状を把握し立ち直るまでにはまだ数秒を要した。ほんの一度の深い呼吸で充分だった。それだけで彼女は我を取り戻し、自らの行ったことを冷静に顧みる余裕を取り戻したはずだった。
 だがその暇は与えられなかった。次の数瞬で起こったいくつかの出来事を、そうして奈緒は完全に無防備に受け入れた。

 ――戛然、オーファンが現れた。頭上からだった。黒い翼を広げたそれは、ジュリアの巨体に体当たりをしかけた。
 無防備な奈緒は、衝撃にいともたやすく膝を屈した。茫乎として顔を上げた彼女は一撃離脱をなしたオーファンの影さえ捉えない。すぐさままた空へと消えたオーファンの存在も、彼女は認識できない。
 目前に高村がいたからだった。
 咄嗟に奈緒が反応できたのは、半ば奇跡の領分だっただろう。だがそれもむなしく、足を払われて意味をなさなかった。

「……っ!」
「どうしてこの暑いのにわざわざ長袖を着てるのか、なんて考えなかっただろうな。ダイエットでもしてるんだと思ったか? 古典的なトリックだ、結城。おまえが切ったのは、ギプスだけだった。血はただの絵の具」

 千切れた袖から赤い液体に汚れた右手を突き出しながら、高村恭司は無表情に告げた。
 彼の手が閃いて、奈緒のエレメントよりもはるかに太い紐状の何かが伸びたのはそのときだった。重い感触が奈緒の手元に伝わった。いまだ驚愕から脱しきれていない奈緒は、それでも機敏な動作で己の手を認めた。
 右手に、無骨な手錠が架されていた。鋼の環から伸びているのは鎖ではなく、登山か、でなければ大型車の牽引にでも使うようなザイル。そのもう一方の果ては、高村の左手にある手錠に綯われている。
 悟った刹那には、全て仕掛けは終わっていた。

「さて、結城」
「アンタ……」

 高村が微笑んだ。一瞬、目を奪われるほどの無邪気な笑み。

「つかまえた」

 項を怖気が走った。腰を浮かし、振り返りざま奈緒はチャイルドへ向かって叫びを上げた。

「――ジュリ」

 ア、という語尾は空中で吐くことになった。たわんだザイルが視界でのたくっていた。あざなわれた蛇の死体のように。
 腰から地面に落とされ、奈緒は息に詰まった。咳き込みながら、右手が意思に反して真上を指した。高村が強制的に奈緒を立ち上がらせたのだ。
 ふらつく足を踏ん張って、奈緒は高村を睨みつけようとした。エレメントでザイルを断とうと試みた。
 不可能だった。高村はいまや全長百五十センチほどのザイルを挟んで近距離にいる。彼が一瞬で視界の端から動けば、奈緒も腕が胴につながっているかぎり倣わざるをえない。腕力ではなく、呼吸を制されていた。奈緒が何らかの反撃を考えたときにはもう、高村はその出がかりを潰している。動きを読まれているという次元ではなかった。対応に過ぎなかった掌握が、即応から封殺に至るまでは数秒もかからなかった。ジュリアの衝角さえ、奈緒を通しては高村を捉えきれない。
 それでも、奈緒は諦めなかった。一瞬の判断で手近に生き残っている木の幹へと、手空きのエレメントを飛ばした。糸でウインチのように回収して自分の躯ごと高村を引きずり、そこを攻撃する。そう考えた。だが伸びきった奈緒の肘に、高村の手がそっと添えられた。
 折られる。
 悪寒の命ずるまま奈緒は目論見を中断して腕をかばった。
 棒立ちの瞬間が生まれた。
 高村の肘が折りたたまれるのが見えた。手錠の嵌まった手のひらが、ぶれた。
 それは理想的な曲線を描き、奈緒の鳩尾に突き刺さった。
 奈緒の脳裏を過ぎたのは、あの夜、玖我なつきが自分の背後で吹き飛ばされた光景――。
 呼吸が止まり、胃液がこみ上げ、膝が砕けてから痛みがやってきた。言葉も無く、気の抜けた息を漏らして奈緒は腹部を押さえて跪いた。今まで経験したことがない類の痛みだ。腹痛ではない。生理痛とも違った。横隔膜を基点に躯の『なかみ』を一気に揺らされた、という感覚だった。玖我なつきが嘔吐したのも無理はない。奈緒はそう認めるほかなかった。吐く。吐かなければ、痛みがひどすぎて、これ以上は我慢できそうにない。
 だが、それでも奈緒は耐えた。最後の矜持だった。みっともなく吐瀉することだけは、死んでもすまいと決心した。

「……吐いた方が楽になるぞ」

 黙ってかぶりを振った。顔を上げる余力はない。荒れた地肌ばかりが奈緒の視界だった。
 ふと、ふるえる睫毛に重みを感じた。涙だった。
 唇から唾液が垂れて糸を引いた。土に吸いこまれ染みを作った。
 高村の追い討ちはない。そんな必要はない。時代錯誤の決闘は、ここに幕を閉じたのだから。
 まぶたもまた、降りかけた。大地に替わり暗幕が眸の大半を満たした。そこに去来したのは、やはり玖我なつきの立ち姿だ。
 ――あの女は、立った。
 唇を噛み破った。
 血の味で、正気づいた。
 反射にまで達しかけた奈緒の勝ち気が、最後の抵抗を呼び起こす。伏臥を拒絶するように、地面を両手で突き飛ばした。この期に及んで、土汚れが気がかりなのが我ながら妙だと彼女は感じた。

「っと」

 反動による頭突きを、危なげなく高村は躱した。激甚の痛みが奈緒の体の内部を揺さぶり、それを無視するというわけにもいかなかった。根性論では誤魔化す事しかできない。だから、めくら滅法に振ったエレメントの一撃も同じ末路を辿った。だが奈緒の狙いはそこにはない。
 反動で振った左手から伸びた紅糸のエレメントが、アンカーごと手出しができずにいたジュリアの多脚に絡み付いていた。

「――ジュリアアッ!」

 懇願にも似た主の叫びを、これ以上ないほど完璧にチャイルドは汲みとった。すべての足がいっせいに畳まれ、発条のように力をたくわえた。袖で目元を拭いながら奈緒は無理やり狂的な笑みを浮かべた。充血した双眸は苦笑混じりの高村を捉えた。ジュリアが噴霧を撒き散らして飛翔するまでの一瞬間――。
 ふたりは視線を交し合った。

「とことんやるってわけだ」
「当然だよ」

 加速が奈緒の意識を体ごと、どこか遠くへと追いやった。
 


 ※



「ちょっと悪者くん、いい加減にしてくれない? このあっつい中、山の中でオーファン退治なんてあんまりしたくないんだよ。どうせなら海にしてよ、海」
「碧ちゃんこそ、そのワルモノくんって呼び方、なんとかしてくれない」
「じゃ、イイモノなのかい」

 煤を払い、エレメントの柄をしごきながら、杉浦碧はその穂先を炎凪へと向けた。一帯をつんざく爆音の轟いたのはそのときだ。見れば、森の斜面から巨大な蜘蛛の化け物が飛び立つ所だった。
(もしかして、手遅れになっちゃったか)
 しかめらた碧の顔を見て取って、凪がわざとらしく両手を挙げた。

「さあ。とりあえず、高村センセのことなら心配は要らないよ。今のところはだけど。しかし、なんか、なんだかねぇ……。せっかくの小細工が無駄になった感じ。さて、あれはいったいどこからやってきたんだか」

 碧から逸れた凪の視線は、彼の背後に伸びる空へと向かった。伸びた目尻は、陽光のためばかりでもないようだった。

「わたしが恭司くんと合流する予定だってのは、どこで聞きつけたわけ」皮肉げに碧は唇を吊り上げた。
「――おっと。ひょっとして、あっちに何か用事があったんだ」わざとらしく凪が韜晦する。
「キミが邪魔さえしてくれなければね」

 眼光鋭く、碧はエレメントを振るう。少年との距離は一定に保っている。思う所は様々だったが、彼については現状、何らの確信も持てていなかった。仮説めいた懸念はいくつか抱いているが、どれも真実からは遠いように思えてならないのである。

「ぼくは別に邪魔なんかしちゃいないよ。心外だなぁ。たまたまここに居合わせて、どこか行こうとしてた碧ちゃんの目の前にオーファンが現れた。運が悪かったけど、それだけでしょ。それとも、デートの予定でもあった?」
「ま、似たようなもんが」碧のいう予定とは、昨夜交わした、高村との約束のことだ。もちろん、今では高村もまた警戒を抜きに接触を持つには穏やかではない存在だということも、彼女は心得ている。
「良かったらぼくなんかどう?」
「遠慮しておく」
「あら。あっさり」

 おどける凪を見ながら、碧は唇を舌先で湿した。
 高村と約束した場所に向かおうとした碧の前に、突如オーファンと、そして彼が現れたのは今しがたのことだった。オーファンそのものは、既にチャイルドによって駆逐されている。碧が疑問に思うのは、いつもながらあまりにも凪が現れるタイミングが適宜を心得ていることだった。
(ここで種明かしさせるのも手か。どうやら、恭司くんは自力でどうにかできてるみたいだし)
 予期せぬ一戦のため乱れた呼吸を、徐々に整えていく。そんな碧を、凪の猫を思わせる双眸は興味深げに捉えていた。

「単刀直入に訊くけど、悪者くんはマジで黒幕なのかい」
「……碧ちゃんそれ、ほんとストレートすぎ」凪が音もなく笑う仕草を見せた。「でも、ノーといっておこうか」
「それを信じるには、キミは毎度アヤシすぎるのよね」碧も好戦的に笑った。「あなたはたぶん、わたしが知らないHiMEのことも全員知ってるでしょ。これがまず変だと思う。誰かさんの言う通り、本当にHiMEがオーファンを退治するための異能者なんだとしたら、どうしてそれぞれ自由に戦って狩れ、なんて現状がまかり通るんだろうね。能力の秘密を保全するためとか、手を組んでよからぬことを企まないようにするためとか――。ま、色々思いつくだけは思いつくんだけど、どれもピンと来ない」
「うんうん、いいセンいってる、かもしれない」凪の態度は他人事のようだった。「でもそれをぼくに言うのはお門が違う。確かにぼくの立場は位置的にキミたちHiMEより状況を俯瞰できるところにあるけど、それはそれだけ核心から遠のいてるってことでもあるわけじゃない。まさか、個性豊かな碧ちゃんたちをぼくなんかが思い通りに操ってる! なんて言いがかりはないでしょ?」
「そうだといいけどね」
「意外と弱気だ。それに色々考えてる。いいよね、碧ちゃんのそういう二面的なところ。魅力的だよ」
「やァ、どもども」褒められるのはいつだって満更でもない。碧は素直に喜んだ。
「そもそも、黒幕の条件は何とする」
「決まってるじゃん。裏であくどいこと考えて糸引いてるヤツさ」
「単純すぎ」凪が吹きだした。「ま、粘着質なのは否定しないけどさ――」

 苦笑いしかけた凪の表情が、緊迫を孕んだのはそのときだった。
 碧もまた、体を貫くような鬼気にあてられ、面持ちを神妙にした。ふたりが同時に振り返ったのは、やはり彼らが身を置く山の、さらに奥まった地点である。先ほどチャイルドが飛び出した箇所からは、ちょうど碧と凪を結んで正対する座標になる。

「あらら、またか……」驚愕に賞嘆の色を混ぜつつ、凪が呟いた。「今度は命ちゃんと、あと舞衣ちゃんも一緒。今日だけで何度目だ、こりゃあ……もしかしなくても、もしかするのかな」
「おや、あの二人もいるんだ」耳ざとく聞きつけた碧が、警戒を解かず軽口を叩いた。「なになに、今日ってもしかしてオーファンの特売日だったりするの?」
「ふむ」顎に手を当てた凪が、黙考の構えを見せた。「じゃ、ちょっと碧ちゃんも来てよ。出方を確かめたいんでしょ?」
「出方って――キミの?」
「高村センセの、だよ」妖しく微笑む少年の眼光が白昼にきらめいた。「ちょっと凄いことになってるよ、いま。この山の結界内に、覚醒してるHiMEが半分以上集まってる。いやたぶん、集められてるんだ」
「全員? 全員って、いや、ちょっと待って」頭をかきながら、碧は混乱寸前の態でいった。「集められてるって、その主体は誰さ。もしかして、ラスボスって恭司くんだったりするの?」

 炎凪は、やはり肩をすくめるだけだった。ひしめく木々の奥底に澱む闇へと、その視線は注がれている。

「さあ。それこそ運命次第じゃない?」

 神ならざる碧の視点には捉えられない。しかし、上空から見ることがかなうならば、彼女にもはっきりと見えたはずだった。
 ――頂目指して次々と生み出され、森を吹き飛ばしていく黒曜石の渓谷をだ。
 それは、美袋命の剣による蹂躙に違いなかった。
 


 ※



 放課から三時間が経っており、昼時をずいぶん過ぎていた。しかしいまだ生徒たちは学園祭準備のため下校しておらず、そして風華学園の敷地に残っている人間のほとんどがその光景を見ていた。

 生徒会会長の藤乃静留や同書記菊川雪乃も無論その例外ではない。彼女らはちょうど文化部と体育会の代表者を合わせ、学園祭の最終申し合わせの席についている所だった。
 その瞬間まで、会議はここ一週間の内ではもっとも穏便な流れだったといって構わないだろう。学園祭はすでに総務の手を離れていた。小康状態とはいえ、開催までの短い期間に責任者達は束の間の休息を取ることが許される。やり遂げた感慨と疲れとが、彼らに年相応でない落ち着きを伝播させていたのだった。時おり文化部と角逐を合わせたがる珠洲城遥の険を含んだ言葉さえ、許すものの笑みで見守る人間が多いほどだ。
 徹底した工程管理のなせる技に、それは違いなかった。前日になって慌てるような醜態を、藤乃静留の辣腕は決して許さない。突発的なトラブルさえ、彼女は折り畳み傘でも取り出すような安易さで捌いてのけた。
 静留自身も、自分の働きについては概ね満足しているといえた。学園祭当日には彼女が主催する茶会などという文字通りの茶番も予定されているが、それこそ余儀でくくられる瑣事である。当日に目論んでいる『計画』を思って、静留は周囲にそうと判らないほど薄く笑んだ。
 もちろん疲れていないはずはなかった。彼女のここ一週間の平均睡眠時間は三時間を切っている。だが顔色を取り繕うのには慣れていた。もっとも親しい友人にさえ、静留は己の腹蔵を隠しきる自信がある。
 その顔色が変わったのは、会議の終わる間際のことだった。
 窓越しに飛び込んだ光景に、静留はゆっくりと目を丸くした。茶をすする音も消え、彼女は一切の動きを停止した。
「……静留さん?」
 これがただならぬ事態だと真っ先に気付いたのは、副会長の神崎黎人だった。隣席から彼女の目線を追って校舎の外へと向きを変えた彼もまた、おや、と呟くと沈黙した。
「あらまァ」と静留がいった。
「これは大変だ」神崎が頷いた。
「ちょっと、会議中よふたりとも!」珠洲城遥がバンバンと床机を叩いて注目を促した。彼女は窓に背を向けて座っていた。「いったい外に何があるっていうんです。よそ見なんかして……」
 そこまで言いかけて、何とも言えない場の雰囲気に彼女は鼻白んだ。
 異様な空気が生まれつつあることに気付いたのだ。
 憤っているのは遥だけだった。その場にいた彼女以外の全員が、絶句して窓外の景色に意識を奪われている。
「な、なによ、いったい。わたしが何かいった!? ねえ、ヘンなこといった!?」
 菊川雪乃が、恐る恐るといった様子で遥の袖を引き、皆が見ているものを指差した。
「ハルカちゃん、あれ、あれ」
「こら、もう、私語は慎みなさいって……もう、なによ。なにがあるっての。まさか、また火事ってわけでもあるまいし。ってなんだ、山にツノが生えてるだけじゃない。ツノが。……?」
 手庇をかざして山を見た遥は、無言で目を擦った。すぐにカーテンをしめると、眉間を指先で揉んで「むむむ」と悩めるパンダのような唸り声をあげた。顔を上げて深呼吸すると、閉じたカーテンを勢いよく引いて、窓ガラスにかじりついた。
 山から角が生えていた。

「なにあれ」

 彼女がここまで適切な言葉を発した快挙は、しかし誰の心にも留まらないのだった。
 


 ※



 厄介事が起きる前兆があるならば、今後それを余さず自分に知らせるべきだ。
 蒼褪めた顔色で大樹にしがみつきながら、鴇羽舞衣は埒もない考えにふけった。
 舞衣が見つめる先で、美袋命が猛っていた。局所的な震動と地響きに翻弄されつつ、舞衣はどうにかエレメントで安定をはかる。
 地震の原因は、命が剣を突き立てたことにあった。原理など想像も出来ない。ただ彼女がそうすると、剣が地面に映す影が拡大し、平面の闇をわだかまらせるのだ。そして闇からは、鋭い岩くれが次々と突出するのだった。

「ミコト! ミコトー! もう止めてってば! このままじゃ、山が崩れちゃう!」
「……」

 答えない美袋命の双眸は、縦横無尽に中空をゆく黒い影に釘付けだった。彼女がその異能で隆起させた大地は、針のような鋭さで周囲一帯を囲っている。まるで黒曜石の谷だった。地上数メートルの高度でふわふわと所在無く浮かびながら、舞衣は人の身を圧倒する水晶の鋒鋩に生唾を飲み込む。

(これは……ひょっとしなくても、目立ってるよ。ぜったい!)

 だが、突き上げられた地面は空のオーファンに対する牽制にもなっている。舞衣にもそれはわかる。だから、せいぜい命の邪魔にならないようにしているしかない。チャイルドを駆使するべきかとも思うが、場所が場所だった。一ヶ月が過ぎても、山肌を消し飛ばしあやうく人を殺しかけた衝撃は忘れがたい。

(だめだ……、やっぱり怖い)

 忸怩たる思いだった。だがいまは、ともかく年下の同居人に頼るほかに手がない。
 剣を天衝くように構える命の姿にも、いくつか鋭い傷が刻まれていた。もっとも深手なのはスカートの裾の下に覗く右腿の裂傷だ。黒い影――突如現れたオーファンの不意打ちによって負った傷だった。
 オーファンが現れたのは、ほんの数分前だった。急襲を許したのは、寸前まで何の気配も感じなかったためだ。そもそも舞衣と命が山を訪れたのは、あの高村恭司がもたらした突然の電話のためだった。舞衣がついてきたのは好奇心と責任感からだが、仔細は命しか聞いていない。いったいどういう用件で呼び出されたのか、こうなると物騒な疑念も湧いてくる。

「ミコト」ひとまずオーファンが距離を取ったのを確認して、舞衣は命に近づいた。「ねえ、どうなってるのよ。あのオーファン。もしかして先生がここにオーファンがいるっていったの?」
「ちがう。恭司はただ、ここで前のようにしてくれと頼んできただけだ」

 静かな声で否定し、命はかぶりを振った。舞衣が持たせているハンカチをスカートから取り出すと、縦に引き裂き、手早く太股の傷口に巻きつける。

「前みたいにって? 前ってなに?」突然の戦闘に、舞衣は明らかに混乱していた。自分が置かれている状況もその異常さもさすがにもう理解しているが、だからといって日常から非日常への急な振幅には慣れるはずもない。
「初めて会ったときのことだ。……ジイが、死んでしまったときの」
「おじいさん……、の」
「うん。恭司は、そのときずっと一緒にいてくれたんだ」

 それは命には似つかわしくない、複雑な感情をともなう告白だった。苦み、痛み、含羞に、そして温かい何か。舞衣は命がこんな顔を見せる場合をひとつだけ知っている。彼女は兄についてのわずかな思い出に心を馳せるとき、同じような色を見せるのだった。

「恭司はいいやつだ。色んなことを知ってる……。そして、わたしの力になってくれた。だから、わたしも恭司のお願いは、なるべく聞くようにしてる」
「うん」舞衣は落ち着きなく頷いた。高村がひとしなみに善良である事に異論はない。「それで、お願いされた事ってなに」
「この山の上のほうで、ミロクを使えといわれた」
「うん。……え?」危く聞き流しかけて、舞衣は口を引きつらせた。「え。え? な、なんで先生がそんなことを?」
「目立つように騒ぎを起こしたいといっていた」

 眼を白黒させて、舞衣は気圧されるように後退した。オーファンは置いておくとしても、高村が騒ぎを画策したと命はいう。だが舞衣の抱く高村の印象と、間違い無く大事に発展する行動を命に依頼するという行為がうまく結びつかなかった。いたずらにしては度が過ぎている。
(HiMEがいることを、みんなにばらしたいってこと?)
 そうだとしても、動機がまったくわからない。そんなことをして、高村になんの利益があるというのだろう。

「目立つようにって――どうして。意味わかんないよ。先生がなんで、そんなこと。それに、HiMEだってことがみんなに知られたら大変じゃない」
「なにが大変なんだ?」

 何気なく問い返されて、舞衣は絶句した。

「決まってるでしょ! 周りが大騒ぎになって、あたしたちだって今のままじゃいられなくなるの。ミコトだって、この力が普通じゃないことはわかってるよね?」
「それはちがうぞ」命が困惑気味に眉を下げた。「HiMEのことを目立たせようって言うんじゃなくて……、恭司がいったのはそうじゃない。えっと……うん、なんだろう。たとえば、舞衣はこの前あのすごく強いチャイルドを使った。だけど、それが舞衣がしたことだって、千絵もあおいも知らないだろう。だけど、わたしや恭司は知ってる。ん……、それと、同じことだ、と思う」
「……そりゃ、言葉でいうだけなら、そうだけど」
「心配しなくても、これはわたしのしたことだ」命が微笑み、舞衣を安心させるようにミロクの刀身を立てた。「舞衣のせいじゃないし、迷惑もかからない。そんなことをいってくるヤツがいたら、わたしが舞衣を守る」
「あ、は、は。ありがと……」ややひきつった笑みで、舞衣は応じた。「でもさ、やっぱり、HiMEの力は内緒にしておいたほうがいいよ。目立ってもいいことなんてないもん」
「なぜだ?」心底不思議そうに命が尋ねた。「それに、そうだ、目立てば、兄上もわたしのことを見つけるかもしれない。町でひとりひとり声をかけて探すより、ずっと早い」

 命と自分とでは問題にしている次元が違うということに、舞衣はようやく気付いた。それは既に受け入れている命と、いまだ覚悟の決まっていない舞衣との差だった。戦士と少女の懸絶とも換言できる。
 舞衣は、超常的な現象によって引き起こされる混乱そのものを危惧している。だが命は、害が直接自分たちにまで及ばないのであれば、騒動はむしろ歓迎すべきだとさえ考えているのかもしれない――。もしそうだとすれば、剣呑な命の方針には、やはり行方の知れない『兄』の存在が影響しているに違いなかった。どこまでも兄を探す事に執着するのならば、確かに命の手段は――褒められたものではないにせよ――有効といえる。
 だが、どこか命らしくない効率を求めた思考でもあった。舞衣は一抹の不安を覚えずにいられない。

(もしかして、そう、先生にでも吹き込まれたの――?)

 歓迎すべきでない疑問が、胸裏に浮上した。そしていまになって、一顧だにもしなかった玖我なつきの警句が舞衣の耳朶を打つのだった。彼女は高村に気を許すなといっていた。もちろん、彼が命に何を言い含んだにせよ、それはそうおかしなものではないのかもしれなかった。何しろ舞衣は、命と高村の間に起きたことさえ正確には知らないのだから。

(ううん、そもそも)

 命を見つめたままで、舞衣は唇を噛んだ。あらゆる言葉を呑み込んだ。高村への疑惑というよりは、改めて自分を取り巻く状況の不可解さと不自然さを見た思いだった。そもそも、玖我なつきや高村恭司の言うように、なぜ学園側は躍起になってオーファンやHiMEの存在を隠すのか? 真実危険ならば、むしろ注意を促すべきなのだ。しかし、彼らはそれをしない。もちろん怪物の存在など、常識として受け容れがたい代物ではある。だがそれだけが、果たして理由の全てなのだろうか。……
 同じような問いを風花真白に対して向けていたのもまた、高村恭司だった――舞衣は理事長宅での一幕を思い、その連想は彼女の迷いに拍車をかけた。誰がどの位置に居て、何を考え思い、そして動いているのか。彼女の立場からでは、到底俯瞰は不可能だった。
 けっきょく、舞衣はあからさまな言及を避けた。大きくため息をつくと、両手を命の肩に置き、視線を合わせた。

「――わかった。約束したもんね、あんたをただ子供あつかいするだけにはしないって。だから、あたし、ミコトを信じるよ。だから、あんたもけが……はもうしちゃってるけど、無茶しないこと。あたし、怖いけど、情けないけど、それでもあんたがピンチなら、あたしだって戦う覚悟くらい、できてるんだから」
「ん、わかった」舞衣の苦悩とは無縁の様子で、命はあっけらかんと頷いた。「心配するな。舞衣は、わたしが守る」
「オッケー。そんときは任せたわ」舞衣もフランクに応じた。それから頭上を仰ぎ、「んじゃま、とりあえずいきなりびっくりさせてくれたアイツをなんとかしちゃおっか。で、どうする? アイツ、飛んでるし。あたしがミコトを抱っこして上に行くって手もあるけど」

 黙考のあと、命が素早くその意見を却下した。

「それじゃだめだ。足場がないと狙い撃ちになる。だから――」

 命が提案した作戦は、いかにも彼女らしい無茶なものだった。それではどちらにせよ失敗する。そう反論を試みたが、どうやら他に好手はなかった。押される形で、舞衣は尻込みしながらも頷くはめになった。
 応急処置を終え、屈伸して傷の具合を確かめると、命はミロクを握りなおした。柄の手触りを確かめるように拳の位置を変えながら、きっと頭上の黒い蝙蝠型のオーファンを睨みつける。

「任せたぞ、舞衣」
「おっけえ……」いささか顔色を悪くして、舞衣も腹を括った。「成功したら今年いちばんのファインプレーだわ……」
「――ん!」

 言い置いて、爆発するように矮躯が駆け出した。向かう先は、地面から突き出たままの巨大な水晶の棘だった。ささくれのように鋭い節を立てたその表面を、命のスニーカーが踏みつける。所々に突き出た枝を、そして時には剣先を足がかりにして、垂直に近い傾斜を、少女はまるで平坦な野をゆくように駆けだした。
 ましらの身軽さ。オーファンは完全に命に狙いを定めたようだった。するすると上昇する体に向かって滑空し、その爪牙が水晶状の壁面を削る。命は八艘飛びよろしく、近場の棘に飛び移っている。反撃がオーファンの羽根をかすめたが、彼女自身も危く落ちかけていた。

「もう、危なっかしいなぁ」

 再度上方への跳躍を試みる同居人の背を追って、舞衣も飛翔する。作戦は単純なものだ。加速し、飛んだ命がオーファンを攻撃し、落下する彼女を舞衣が地面に落ちない内に捕まえる。

「できるかなぁ」ぼそりと弱音を漏らして、鴇羽舞衣は両手で頬を打った。「やるしかないか……。まっ、大丈夫! なんとかなる!」
 


 ※



 元々岬へと近づいていたのか、森を縫う心臓に悪いシチュエーションはほんの数秒で終わった。背部から蒸気を噴出して凄まじい勢いで飛ぶジュリアは蜘蛛というよりまるでハンミョウだ。高村はかろうじてチャイルドの装甲にかじりつきながら、強烈な向かい風に眸を開くこともままならずにいた。
 潮と風が周囲を取り巻いたのは直後だった。加速感と、落下感――。水面が近づいている。着水は何秒後かに迫っていた。
 内臓がまるごと逆立ちするような感覚に吐気を催しながら、高村は意識のどこかで鳴り響く警鐘に耳を傾ける。結城奈緒と繋がった右手が、わずかな抵抗を体に伝えていた。冷や汗が彼の背を伝った。まさかこの状態で何ができるとも思えない。が、奈緒の向こう気や我武者羅さには、既に何度も痛い目にあっている彼だ。無視できるはずもなかった。
 目を開くと奈緒が逆様になっていた。
 両手は完全に自由になっている。赤い糸が、高速の視界で天の川のように靡いていた。

「――……」

 彼女の体をジュリアと結んでいるのは太股だ。むろん少女の脚力で、おそらく時速百キロ近い速度の空気抵抗を相殺できるはずはない。奈緒は節足のひとつと己の両太股を例の粘ついた糸球で雁字搦めに拘束しているのだ。確かに、エレメントでもなければ切断できない糸は絶好の命綱だといえた。
 少女の応用力に、高村は手放しで拍手でも送ってやりたい気分だった。もちろん、実際はそんないとまも余裕もない。高村に許されたひと刹那、彼が思ったのはひとつだけだった。

(パンツ見えてる……)
「――」奈緒の口がわずかに開く。向かい風でないぶん、呼吸はできるようだった。だが猛風の中だ。何を言ったかなど聞き取れるはずもない。同じように高村は、自分の心の声が彼女に伝わらないことを天に感謝した。

 奈緒と高村の、埃や土、血や涙で汚れた顔がさかしまのまま向かい合った。血走った彼女の眸を見据えたのは半秒にも満たない時間のはずだった。たとえ錯覚にしても、高村は見た――奈緒の双眸を彩る勝利の喜色! 奈緒の両手がゆっくりと動いた。エレメントの糸は物理法則を踏破して、風を食らう紙魚のように身震いする。目指す先は大蜘蛛にとりついた高村だ。
 高村は全身から力を抜くと、体にかかる負荷に身を任せることにした。

「……―――」

 奈緒の口がぽかんと開き、鯉幟のように風に流れていく高村を見送った。が、それは一瞬に過ぎなかった。高村と奈緒のあいだには物理的な絆がある。この加速で、成人男性ひとりぶんの荷重が少女の腕にかかれば、もちろん軽傷では済まない。エレメントでザイルを切断するほどの時間もない。そのあいだに奈緒の肩は抜け、下手をすれば手首から先が肉ごと削り取られるだろう。一瞬のためらいもなく、あわや張力が限界に達するすんでで、奈緒は右手首を左手でつかんだ。エレメントの糸がすばやく彼女の両手を一体化し、繭のように包まって補強した。ぴぃんと張り詰めたザイルの張力がそのとき限界に達した。
 高村の肩にも少なくない負荷がかかり、しかしそれは奈緒に比べればまだ少ないものに違いなかった。奥歯が砕けそうなほど歯を食い縛る奈緒の表情は壮絶だった。高村は後味の悪いものを感じながら、ほとんど奇跡的にジュリアの女性形をした部分の頭部を左手で掴む事に成功した。奈緒と彼とをつなぐザイルはまさに命綱だ。そして奈緒の安定性が、いま高村をも助けることになる。高村はザイルをたぐって奈緒に近づいた。この状態ならば、高村はザイルパートナーに対して一方的に優位に立てる。
 落下はもう始まっている。岸はすでに何十メートルも彼方にあった。
 苦痛の波をやり過ごした奈緒の目が見開かれた。高村の接近を認めたのだ。海面に落ちつつあるジュリアの体躯において高村が上、奈緒が下という位置取りになっている。このまま着水すれば、足にくくりつけられた奈緒は身動きが取れない。着水の衝撃をまともに受け止めることになるだろう。
 永い、二秒間だった。
 高村は奈緒にたどり着き、水面は既に間近だ。
 覚悟を決めて、高村は奈緒の露わになった上半身を抱きすくめた。小さな頭をかかえこむと、奈緒の体が強張るのを感覚で悟る。

(ちくしょう、またこのパターンか――ああでもやっぱりこいつは見捨ててもい)

 ――瞬転、大量の水が世界に『落ちてきた』。
 衝撃を受け止めたのは当然、背中だった。水上でも受身は有効だとは高村の師匠である女性の教えだ。だが両手が塞がってはその教訓も意味をなさなかった。息が詰まり、大量の気泡が視界全てを埋め尽くした。水が鼓膜に押しかけるとき特有のあの耳障りな静寂が聴覚を満たした。意識を保つために思い切り腕の中の細身を抱くと、胸元からごぼりと気泡が漏れた。果てしない落下感が彼の身を包み込んだ――。

(……落下感?)

 ジュリアが、消えていた。奈緒が取り下げたのだ、そう高村は思ったが、それは淡い期待に過ぎなかった。水底に引きずられるように落ちていきながら、高村は胸の中の奈緒の様子をうかがった。
 完全に気絶していた。
 高村は死を予感した。水の中で服を着た人間ふたりが手錠でつながれ、一方には意識がない。パニックを起こされるよりましとはいえ、プロの潜水士でもなければ浮上は難しい。
 鼻の間から気泡を漏らしながら、高村はもう数メートルも遠くになった海面を見上げた。夏の午後の陽射しが強く、水を焼いていた。縫合が開いたのか、じわじわと痛みを強める右手を、彼は何度か握り、次の瞬間、その手には――。



 ※



「逃げられた……」

 地面で光に溶けていくオーファンの片腕を不満げに見おろすと、命は剣をバットケースに納めた。探りの眼差しを空に向けても、そこには天を刺す物質化された峰があるばかりだ。蝙蝠のオーファンは、傷を負うとすぐに逃げ出してしまったのだった。

「あはは、いいじゃない。とりあえず追い返せたんだから」

 舞衣は彼女ほど剛毅ではない。脱力してその場に座り込むと、安堵のため息をついた。
 そのうなじに、水滴が落ちたのはそのときだ。

「え、雨?」

 と、空を見上げるが、雨雲は何処にも見あたらなかった。晴天とは言えずとも、まずまず気分の良い晴れであり、何より太陽は燦々としている。

「狐雨か……」

 珍しい。指先で雨粒を捏ねながら、けがの具合を訊ねるために命をうかがった。

「なんとかキャッチはできたけど、あんた、ほんとになんともないの?」

 頬におちた水滴を舌で舐め取りながら、命があくびを漏らす。

「けがはない。だけどなんだか、眠くなってしまった」
「そりゃあれだけおお暴れすればね」
「うん……」

 答えもそこそこに、命はその場に横になると、舞衣の膝を枕に目を閉じた。止める間もなかった。一瞬後には、もう寝息を立てている。
 舞衣はしばし絶句してその寝顔を見つめ、途方に暮れた。



 ※



「打ちあげられたアザラシみたいだ」

 声に反応して、結城奈緒は飛び起きた。ところで強烈な立ち眩みに襲われる。ちかちかと明滅する視界でこうべをめぐらせれば、そこは崖の麓にある海岸のようだった。陽光で強烈に熱された岩の一つに、奈緒は寝ころがっていたのだ。
 髪がいやに重く、体は異常に気だるかった。水泳の授業の後のようだ。服はまるごと、余す所なく濡れているようで、下半身がとくに冷えている。靴はどこにも見あたらず、靴下も脱げてしまっていた。

(あたし――)

 やるべきことがあるはずだった。いや、まさに彼女は戦っていたのだ。疲労と混乱に茫乎としたままの頭で、とにかく高村の姿を探す。男の姿はすぐに見つかった。上半身は裸になっており、浅瀬に脛を浸しながら、さすがに気だるげに水面を眺めている。
 前後の見当もつかず、奈緒はのろのろと高村の背後にしのび寄った。水音に反応した彼がふと顔を上げて、

「ああ、起きたか」

 と言った。
 その顔面に素足を蹴りこんだ。
 会心の一撃であった。
 声さえ漏らさず、高村はもんどりうって水辺へ転がった。
 たっぷり十秒間、仰向けになった高村を睥睨し、奈緒は勝ち鬨を上げた。

「勝ったっ――」
「――俺がな」

 足首を掴み取られ、バランスを崩したところでひっくり返され、頭からは落ちないようにうっちゃられて、奈緒は水中に突っ込んだ。高村が朗らかに笑っていた。頭に血の上るまま、奈緒はすぐさま立ち上がる。

「こっ……のぉっ」

 へらへらと笑う高村の顔面を右拳で打ち抜いた。
 ――あれ?
 と、彼女は思った。
 ――当たった?
 首を傾げる。

「この……痛い、……だろっ!」

 同時に奈緒の首を、ラリアットが襲った。激しく咳き込んだが、今度は倒れなかった。痛みにうめきながらも、負けじと左拳、右拳を交互に打ち返す。高村は今度も避けない。かわりにきっちりと同数の報復を欠かさなかった。猫だましからの大外刈りで奈緒は沈められる。それでもめげずに蹴飛ばした。高村は奮然としながら浴びせ蹴りで反撃を試み、自爆して思い切り腰を打った。爆笑を送ると、高村は突然奈緒の手首を強く握った。わけがわからない内に腰が砕け、重心を崩されて、奈緒は両足を抱え込まれた。

「ひっ」近い未来を予感して、奈緒が息を飲んだ。「や、やめっ」
「いくぞーいくぞー」

 高村はどこまでも楽しげだった。奈緒の足を掴んだまま人差し指を天に向けると、気勢を吐いてその場で回転を始める。

「はい! いっ――かぁーいっ、にっっ――かぁーいっ、さんっっっかぁーーい!」
「あああああちょちょっとまじでやめてまじで放して」高村が素直に奈緒の足を放そうとすると慌てて、「ああじゃなくて放すな! いやダメだってバカ止まるな! ああでも止まってよ! クソ、このヤロウ死ねっ、死ねー!」
「おまえが死ね」

 高村が和やかに死刑を宣告した。奈緒は涙目になって絶叫した。

「ちょっ、本気でやばいってこのクソ教師! 放してって……!」
「は、は、は。それが人にものを頼む態度かこのガキ。おくすりを飲んだ直後の俺に泣き落としが通用すると思うなよ」このとき、高村の眼は有体に言って鉄格子のある病室に住む人のそれだった。「ほらななかーいはちかーい、ほらほらスピードアップだ。おえっ」
「きああああ、あぶっ」回す最中で岩肌が奈緒の額を掠め、水中を頭が通った。

 結局二十二回転めで高村は昏倒した。奈緒も諸共に岸辺へ倒れこんだ。荒い息をつきながら、奈緒は吐気を必死で堪えていた。疲れ、痛み、そして屈辱。何もかもが最悪だった。

「サイアク……」岩肌にうつ伏せになって呟いた。
「とりあえず、これで二人は仲直りだな」高村が爽やかにいった。

 奈緒の面が少女らしい、可憐な笑顔をかたどった。

「センセイ、もうヴァカを通り越して頭おかしいですよね」
「邪険にするなよ。俺は結城の寝ゲロまで見たんだぞ。写メ見るか?」

 高村がズボンから取り出した携帯を無言で奪い取ると、奈緒はそれを力いっぱい沖のほうへと投げ捨てた。遠くで小さい水しぶきが上がった。
 高村が気まずそうに告げた。

「いや……あれ、結城の携帯なんだけど……」
「え……」さあっと顔色を紙のようにして、奈緒は沖を見た。寄せては返す波が、静かに彼女の絶望を肯定していた。「えー……」
「ま、まあ昨夜の金で買えばいいじゃないか、新しいのを」
「はあ……」

 くしゃりと前髪をかきあげて、奈緒は今日いちばん大きなため息をついた。興ざめという言葉がふさわしい時間だった。すっかり高村のペースに乗せられて、しかも、どうやら認めざるを得ないことがある。

「あのさぁ」心底嫌な気分だったが、問わないことには胸がすかない。奈緒はそっぽを向きながら高村に尋ねた。「センセイ、なんであのとき、ああいうイミ判んないことしたの?」
「とりあえず、その関係代名詞だらけのフレーズをなんとかしてくれないかな」と言いつつも、高村は奈緒の言わんとすることを正確に察した。「と、言われてもだ。べつにさっきに限らず、結城に限ったって俺は何度か同じような事をしてると思うよ。だいたいこの右手だってそうだろう」
「あー……」言われてみれば、そうなのかもしれなかった。奈緒は嘲笑を浮かべる。「偽善者っていうかなんていうか……。バカじゃないデスカ?」
「よし」高村が膝を打って立ち上がった。「次は三十回転目指すか」
「……やめてよ! 反吐が出ンだよ!」奈緒は素早く転がって距離を取る。

 そんな奈緒を見て腰を落とすと、高村はあくびを噛み殺した。

「とりあえず、ゆっくりしてたほうがいい。死にかけたくらいだから体だってしんどいだろう。なんにせよこのままなし崩し的に結城も洞窟探険に同行するのはほぼ決定だし」
「はぁ!? 勝手に決めないでよ、そんなの」
「タダとは言わない」高村がにやりと笑んだ。「いま碧先生がコンビニに行ってくれてる。結城が俺たちに同行するっていうなら、先生がちゃんと結城にパンツを買ってきてくれるぞ」
「――――は?」

 高村の言葉が耳を抜け脳に届いた瞬間、奈緒はスカートの下の冷気の原因を遅まきながら悟った。絶望や失意が羞恥と屈辱に混交され、彼女は強くスカートの裾を握った。

「え?」高村が眼をみはった。「まさか、気付いてなかったのか!?」
「う、あ?」と奈緒はうめいた。
「い、いや、ほら。水着じゃないとゴムが弱いから、水を吸うと勝手に脱げたりしちゃうだろう。俺が脱がしたわけじゃないぞ」
「…………あぁ」

 奈緒の全身から力が抜けた。這うように岩陰に向かい、へたり込んで確認する。
 間違いなかった。
 奈緒は泣いた。

「あぁ、泣くな、泣くな結城」おろおろする高村だった。「あ、そうだ。このあいだ玖我もノーパンだったんだぞ。仲間だ。な?」

 奈緒は余計に泣いた。
 マジ泣きだった。





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