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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン 前を表示する / 次を表示する
Date: 2006/10/29 10:31




6.Rocket






 多くの意思が集う空間には悪意がある。明確なベクトルはない。芽生えるのでもない。最初からそこに吹き溜まっている。
 澱である。その手の憑物は嵩が増えれば自然に行き場を求め、些細なことで発露する。集団の指向とはニュートラルであれば風見鶏よりも薄弱なものだ。
 取り分け弱みもないのにいじめの標的にされる人間は、だからほとんど生贄のようにして選出される。
 楯祐一のクラスである1―Aの場合もそれは同じだ。そして眼をつけられたのが、彼の隣に座る転入生の少女だったというだけの話である。
 
 祐一が誰もいない教室に足を踏み入れると、薄暗の空間に菊を生けられた花瓶が目についた。彼はおいおいとうんざりしながらひとりごちる。憤慨はなかった。くだらないと思い、道端で動物の轢死体に出くわした気まずさをおぼえて、後ろめたくもないのに周囲の気配を探った。
 舞衣の机には、花瓶だけでなく顔をしかめたくなるような落書きも書かれていた。身体的特徴や性格、アルバイトに精を出していることなどを最大に悪意的に解釈すれば、頷けなくもない文句である。
 標的は違っていたが、以前にも似たような仕業を目にしたことはあった。常習的にクラスメートを的にかける一派がいるのだろう。

「朝っぱらからくだらねーモン見せやがって」

 やれやれと、学生鞄を机に放った。
 創立祭の準備でよっぴき作業にかかった翌日である。ふだんより一時間早く登校した朝だった。秋にある文化祭のように生徒を半強制的に総動員できる催しとはことなり、地域の振興と学園外部とのふれ合いを目的とした創立祭では、日頃強権で鳴らす生徒会執行部はここぞとばかりにこき使われる。不摂生に親しんでしまった身にはきついスケジュールであったが、どこか懐かしい気分でもあった。一年ばかり前には、竹刀を手にもっと体に鞭打っていたのだ。
 ほろ苦い気分にひたり、鞄を机に置きに来た矢先に供花だ。いまどき小学生でもやらない貧弱な発想に、祐一は鼻を鳴らした。
 舞衣は気が強い上に自意識が過剰でさらに不当に祐一を貶める論外のやからではあったが、こんな陰湿な仕打ちを受けるほど〝嫌な奴〟ではない。せめて花をどかして落書きを消すくらいは、善意のクラスメートの分を出ない行動だろう。そう自分に言い訳すると、彼は花瓶を手に雑巾を求めて、掃除用具入れへときびすを返した。
 高村恭司がいた。

「イジメか?」

 祐一は一拍遅れて、

「……っくりしたぁ。眼鏡かけてないから一瞬どこのクラスの……どこの父兄が入り込んだのかと思いましたよ」
「言い直したなおまえ」
「いや、まあ。いつの間にいたんスか?」
「さっきからいたよ」溌剌と、素顔の高村はいった。昨日までの疲労が嘘のように血色がよい。さては眼鏡に生気を吸いとられていたのだと思わせんばかりだ。「声もかけた。だけどおまえ、義憤に駆られたのか真剣な顔で歯を食い縛ってたからな。気がつかなかったんじゃないか」

 え、と祐一は顔を撫でた。すると、いつものスーツではなくスウェット姿の高村がにやりと笑う。かまをかけられたのだ。仏頂面で口を尖らせた。

「……そんな顔、してねえッすよ」
「そこは鴇羽の席だったよな」眉をひそめて、高村が舞衣の机を見おろした。
「ですね」
「いつから?」
「さあ……俺も見たのは初めてで。今日からかもしれないし、前からかもしれねーし」呆れながら祐一はいった。「あいつ、鴇羽のことですけど、何があっても笑って平気な顔してるっていうか。大したタマなんですよ。なもんで、具体的にいつからってのはわかんねーです」

 これほど露骨なものは初見でも、舞衣が遭っているめについては、おぼろげながら雰囲気で察したというのが本音だ。それほど苛烈ではなく散発的に行われる嫌がらせのようではあるが、問題が表面化しないのは舞衣が全く騒がないせいもあっただろう。

「教師に優しい心がけだ」醒めた顔で高村は呟いた。「でも、実際に平気かどうかなんてわからない。そうだろう?」
「そりゃそうです」祐一も頷く。「けどそのうち止めるとは思いますよ。ちょっとしたことで。どうせ遊び半分でやってんですよ、こんなの」
「怖いな、今の子って。それとも鴇羽がなにかしたのか?」
「どーっすかね。なにもしてないと思うし、アホなことやってんなうちのクラスでも一部ですよ」弁解のようだと思ったが、事実である。祐一は不機嫌さを隠さずに打ち明けた。「女子ってグループとかメンドクセェでしょ。ちょっと気に障ったくらいで眼をつけたんじゃねえかな。見て見ぬふりばっかの周りも悪いんでしょうけど……。まァ、そんな感じで」

 熱っぽく語っている自分に気付いて、溢れそうな言葉を留めた。先ほどの高村の揶揄も、あながち嘘ではないのかも知れない。何をむきになってるんだと、祐一はばつの悪い思いにとらわれた。
(べつにオレがやられたわけでもねえのに)
 高村は肩をすくめただけだった。

「転入生ってことで色々あるのかもしれないけど、俺の時代じゃ美少女ってだけで一目置かれたものなのに。それともこのクラスがおかしいだけか」
「美少女ぉ?」

 思い切り胡乱な顔を作る。悪くはなくともそれほどずばぬけた美人ではないというのが、祐一の舞衣に対する印象だ。奇妙に快活な教師は、「眼が肥えてるな」と喉で笑った。

「鴇羽はカワイイだろう? スタイルもいいしな。同年代なら放っておかないんじゃないか」
「たしかに、高一であの胸は反則って感じですけど……」
「へえへえ」

 面白げな眼を前に、祐一は渋い顔になって口を閉ざした。むだ口を叩く暇ならば、さっさと不愉快な光景を清める行為に充てたほうが有意義である。

「仕事しましょうよ、お互い。もう今週っスよ、創立祭」
「そうだな。けど、その前にやることがあるだろ」

 先回りした高村が濡れた雑巾を投げて寄越した。いたずらっぽく笑う顔を見返して、祐一はためいきまじりに会釈した。

「じゃ、いっしょにやりますか?」
「是非もない」
「ヘンな先生っすね。悪い意味じゃなくて」

 いやあ、と高村がわざとらしく照れた。

「実は今日は悪いことをするつもりなんだ。だからここで善行を積んで徳のバランス調整をしとうという腹積りなのさ。情けは人のためならずの確信的使用例というわけだ」
「悪いこと?」
「女子中学生をひとりボコボコにしようと思って」

 あまりにも和やかに告げられたので、祐一はそれを冗談だと決め付けた。「それはワルいっすね」とやや引きつった声でいった。

「そういえば、昨日まで調子悪そうでしたけど、もう大丈夫なんですか」
「あんまり大丈夫じゃない。今朝がた栄養剤を注射して体をごまかしてるだけだ」机をごしごしと拭きながら高村がいった。「中身はわりとずたぼろだよ。寝てないし、この真夏に寒い思いはするし、肉体労働は控えてるし、そもそも俺けが人だし」
「あれ? そういえば三角巾どうしたんスか」いわれて初めて、祐一は高村の右手に注目した。スウェットの袖口が膨らんでいる。ギプスの厚みだろう。もちろん手先も相変わらず包帯で覆われていた。何針も縫う怪我だったのだから、一週間ていどで完治するはずもない。
「なくした」高村はぼそりといった。底知れないものを予感させる響きであった。
「な、なくしたって。もしかして、眼鏡もですか? ひょっとして、今日スーツじゃないのも……」
「なくした、なくした。なくしたんだ」投げやりな声だった。きりきりと歯軋りしそうな顔で続ける。「おかげで大目玉だ。いや、怒られちゃいないが、それよりよほどつらい。心底俺は反省したよ。人に迷惑かけるのは、やっぱりきついな」

 背景は不鮮明ながら、高村はなにか手ひどい失敗をしたのだと祐一は了解した。率直に意外であった。彼に対しては、何をするにしても卒のない男であるような印象を抱いていたのだ。

「つまらない慰めっすけど、そういう日もありますよ」
「ありがとう。おまえはいいやつだよ。カッコ良い」

 高村が笑った。邪気のない笑みだった。そののんびりとした空気にあてられて、ずっと気にかけていたものの、祐一は結局、あの辻斬りの事件について何ひとつ切り出すことはできなかった。
 清掃が終わると、どちらともなく息をつき、何ともいえない顔を見合わせた。吹奏楽部のクラスメートが教室に入ってきたのが頃合だった。ふたりは生徒会室へ赴くことにした。朝の仕事は、まだまだ終わっていないのだ。
 廊下を歩きながら窓外に目をやっていると、裏山から大型のトラックが出てくるのが見えた。荷台にはへし折れたらしい木を三本ほど積んでいた。昨夜は雨も地震もなかったはずだが、風華では不自然な天災など日常茶飯事だ。祐一の眼には、見慣れた景色のひとつとしか映らなかった。
 蝉が鳴き始める。歌はひねもす続くだろう。涼しげな朝は終わりを告げて、また盛夏の一日が始まるのだ。生徒会会議室に足を踏み入れ、既に集結している役員や各部の幹部たちを前にして襟を正す祐一を尻目に、高村恭司は真剣な顔つきで遠景に焦点を結んでいた。



 ※



「耳を澄ますと潮騒が聞こえるね」と杉浦碧がいった。「なんだかロマンチックじゃない?」
「こんなに泥だらけでなければ」と高村は答えた。
 碧は違いないと微笑んだ。
 二人はランタンの光に照らされて、倒れた木の一株に腰を降ろしていた。かたくなに自分は杉浦碧ではないと主張したウェートレスは既におらず、偶然だねとそらぞらしく嘘をついて入れ替わりに現れたのが、ツナギに着替えた碧だった。
 高村の拘束はすでに解かれていた。自称正義の味方がハルバードのエレメントを振るい、難なく戒めの糸を断ち切ったのだ。上乗せされた身体能力だけではなく熟練を感じさせる、見事な手際だった。
 状況が落ち着くと、高村にしても碧にしても会話の切り口に難儀するはめになった。なんといっても、高村には金で中学生を利用しようとしたという後ろめたさがある。恐らく地盤沈下を引き起こした張本人であろう碧も見つかれば不味いことになるのは決まりきっており、そうした事情が二人の口を貝のように固くしていた。
 趣味や性格はそれなりに合う二人だったから、暗黙のうちにもそのあたりの呼吸はしれたものだ。だからこそ糸口に困っていた。
 高村の場合は完全な被害者を装うのがもっとも無難な選択肢である。だがその場合は碧から話を聞くことは難しくなる。かといって関係者然とした態度を取れば、余計な勘繰りを招く事になるだろう。塩梅の見極めが複雑に絡んで綱引きしていた。
 しかし十分もだんまりを決め込めば、さすがに飽きが来る。
 腹の探り合いはごめんだ。高村は駆け引きを早々に諦めた。どうせ話術となれば碧が上手なのだ。
「碧先生」と彼は口火を切った。「単刀直入に聞きますけど、先生はさっきの正義の味方さんですよね」
「ちゃうよ」
 即答だった。
 高村は眉根を寄せて、換言した。
「誕生日は?」
「四月六日」
「身長」
「最近計ってないけど百五十七ー。六十はいってないよ」
「体重とスリーサイズを」
「いうわけねーだろ」
「失礼。年齢は?」
「じゅうななさい」
「……はぁ?」
「じゅうななさい」
「二回いわなくてもいいです。ちなみに干支は」
 実年齢に換算すれば、碧の干支は酉。当然十七歳ではないことの実証になる。にわか仕込みの年齢詐称なら即座に引っかかるトラップである。
 しかし、やはり碧は即座に、しかもポーズ付きで答えたのだった。
「辰年でーす」
「なんで合ってるんだよ!」
「修行が足らんのう」
 完璧だった。
 不敵に笑む大人げのない教師を前に、脱力して高村は最後の問いを発した。
「――それじゃあ、先生はHiMEですか?」
「うん」
「それはいいんだ……」
 杉浦碧は、どこに譲れない線があるのかわからない女であった。
「やっぱり恭司くんもしってるんだね、HiMEのこと。そっか、そういえば舞衣ちゃんが巻き込んだ人っていったらキミしかいないもんなぁ」
「鴇羽? 鴇羽のことを知ってるんですか」
「命ちゃんもね。ちょっと縁があった。前に……ま、色々あって」仄紅い光を瞳に宿しながら、碧がいった。
「オーファンがらみで?」
「それも知ってるんだ?」碧は一寸目を丸くした。「思ったより事情通なんだね」
「ほどほどには」
 あえて否定はしなかった。夜の山奥である。明らかにおかしな出会い方をした時点で、そしらぬ風を装っても空々しいだけだ。玖我なつきの場合と対応が違うのは、単に高村の趣味である。
「んじゃ、恭司くんがウチに来てからずっと調べてるのって、もしかしてHiMEのこと、だったりするのかな」
「それも入ってます。メインはあくまで伝説やこの学園について、ではあるんですけど」
「オーファンやHiMEの事情を知ってまだそういうことをするってことは、キミ、フリーじゃないね」
「いってることがよくわかんないですね」
「たかが論文ひとつのためにそんな大怪我してちゃ、割に合わないでしょーに」
「勉強バカですから」
「……かわすなぁ。もしかして、今あたしヤバめな話してる?」
 吊りあがり気味の瞳が、鋭さをもって高村を舐める。鳥を落とすような眼光の穂先は、身を射すくめるに充分だった。
「何にもないって言いたい所なんですけどね。答えなくちゃまずいですか」
「……ワケありか」
「碧先生が想像する程度には、誰だってわけありだと思いますよ」
 煮えきれない返答に、目を細める碧だ。
「言わぬが華かな?」
「気になりますか」
「そりゃね」碧は軽く首を傾ける。「こう見えてあたしもHiME歴長いからさ、なるべく関わらないよーにしてたけど、〝そういう人たち〟がいるってことも知ってる。だけどまさか恭司くんがそうだとは思ってなかったよ」
 口ぶりに精神的な距離を、高村は感じた。警戒されたのだ。
 落胆している自分に気が付き、呆れ、苦笑した。
 腹に一物隠したまま、誰にでもいい顔をするのは不可能だ。願うことさえ驕慢だし、虫が良すぎる。だから彼は軽く笑うのだった。
「誰にだって隠しごとくらいあるでしょう」
「一般論に逃げるのは、カッコいいとはいえないよ」碧の顔色がやや険しくなった。
「気をつけます」高村は、小さくすいませんと口にした。「でも、黙ってたことは悪いとは思いませんよ。俺にも事情があってしてることですから」
「そりゃあ、そうだろうね」
 さびしげに俯く素振りは十中八九演技だろう。そうとわかっていて、高村は口を縛る紐をほんの少し緩めた。
「まあこの際だからいっちゃうと、媛伝説について俺が論文を書く可能性はもうないです」
「そうなの? なんで……」言いかけて、碧はかぶりをふった。「そっか。もったいないね。せっかく、同好の士だと思ったんだけど」
 ものわかりの良さは、推察の行き届いていることの裏返しだ。碧の回転の速さには、高村も舌を巻く思いだった。
「いや、趣味なのは本当ですよ。実際院生だし、伝手で臨時教員になったのは、まあ否定しませんけど」
「そこはあたしも人のコトいえないや」
 カラリと碧が大笑した。恐らく彼女もHiMEであることを理由に招かれたのだろう。
「そんなわけなんで、俺に論を剽窃される心配はないってことです」
「あ、失敬だなぁ。そんなことする人だとは思ってないよ」と、碧はわずかに眉根を寄せた。「フーン。とりあえず恭司くんに関してはあんまり詳しく身上聞かないほうがいいってことで良し?」
 え、と高村は虚を衝かれ口を開いた。むろん願ったりかなったりの折衷である。しかし説得の過程を飛ばして碧が折れたことが意外だったのだ。
「いや、それでいんですか」
「イイもワルイもないっしょ。話したくないんだったら、べつに聞かないよ。知りたいことだったら自分で調べるし、知らなきゃいけないことならそのうち嫌でも知ることになるじゃん?」
 ありがたいが、物分りがよすぎて逆に疑わしい。高村は苦笑しつつ、
「女の子はみんな穿鑿が好きなものと思ってましたよ」
「そりゃ、恭司くんにいい女を見分ける眼が育ってないからじゃないかな」
「そうですか?」笑みを絶やさずいった。「でも碧先生も穿鑿してましたよね。地面を」
「ぎくり」
 わざとらしく碧が顔を逸らしたのを見て、高村は了見の広さの一端を踏みつけた気がした。
 元はといえば、高村が井戸でさんざんな目に遭ったのは突然の崩落のためである。あのような不測の事態に見舞われなければ、最低限逃げる程度の立ち回りを演じることはできたのだ。
 この上怪我らしい怪我の増えなかったことはまったくの幸運だった。傾斜が緩い場所であったため被害は転倒に留まったものの、崖の根元で土砂に埋もれれば当然怪我では済まなかっただろう。
 そして碧には、前後の事情についてはぼかしつつ、井戸に閉じ込められた経緯はすでに話してある。
「負い目があるのはお互い様ってことですね」高村は首を一寸すぼめていった。「大の大人がふたりそろって、ろくでもないなぁ」
「そういわないでよ」小さく碧が反論する。「あたしもあれはちょっとやりすぎたと思ってるんだからさ。いきなり地面がぼっこーって崩れだしたときはマジで血の気引いたよ」
「確かにあれは凄かった。世界の終わりかと思いました。やっぱりオーファンと?」
「うん。雑魚いのとね。でもそれだけじゃなくて、それは勢いみたいなもので……」気まずさを持て余してか、碧は乱暴に後頭部をかく。テールにくくられた髪が、オレンジ色の灯りを揺らした。
 いいよどむ様に、直感的に閃くものがあった。と感じたときには、高村はもうそれを言葉に換えていた。
「もしかして、この山のことを調べようとしていたんじゃないですか」
「恭司くんも?」勢いよく首を高村へ振り向けた碧が、前のめりになった。「やっぱ、図書館の水路図見た?」
「水路図?」
 聞き返すと、「あら」と彼女は身を引いた。
「ハズレかぁ。でも、じゃあなんで?」
「いや。たぶん俺たち、同じものを見てると思います」口調に熱を込めて高村はいった。シアーズや本来の目的からはいくぶんかけ離れた、彼自身の主体にとても近い好奇心に火が入りつつあった。「その話、ちょっと詰めませんか」
 きょとんとしていた碧は、すぐにその頬を緩めて話に乗った。見合わせる二つの顔は、傍から見ればそっくりに違いなかった。
 楽しげに、杉浦碧が語り始めた。



 ※



 自席に座るまでは、とても気分の良い朝だったのだ。
 その日の奈緒には、寝起き特有の、体を引きずるようなあの倦怠感がなかった。目覚ましより早く目を覚ましたことにもひそかな満足を覚えた。寝ぼけ眼の瀬能あおいが朝食のあいだ終始首を傾げていたことも気にならなかった。これだけ気分が良いのだからと街へ逐電を計ろうとした後襟を捕まえられたことも、戯れ合いで済ますことができる。奈緒は大半の生徒に先んじて、軽い足取りで校門のアーチを抜け、下駄箱を通り教室へむかった。朝練組と思しき数人の先客が、意外そうな目で奈緒を迎えた。奈緒は名前を覚えていない、たしか剣道部に在籍しているという坊主頭の生徒が、恰幅の良い体を揺らして笑顔を見せた。
「奈緒ちゃん、どうしたの? 今日は早いね」
「ううん。ちょっと眼が覚めちゃったの」と、猫なで声で奈緒は答えた。居合わせた女子が露骨に舌打ちするのが聞こえて、愉快な気分になった。
 そこまでだった。
 まず彼女は、教科書を全て詰め込んである机の収納スペースから、これ見よがしに伸びている飾り用のリボンに気がついた。更紗のような生地の先には茶封筒があり、まぎれもなくリボンはその封筒に添えられたものだった。
 封筒には堂々たる毛筆で『結城奈緒さまゑ』とだけ記されていた。花をあしらった意匠を見るに、まさかラブレターではあるまい。といって剃刀やおかしなしろものが込められている気配もなく、いたって当たり前の紙が納められているようだった。
 表面にも裏面にも差出人の名はない。
 奈緒は胡乱な眼つきで封緘された口を破り、中身を机の上に振り落とした。

「ぅえ!?」

 ちょうどいくつかのグループがまとめて教室に現れるのと、奈緒がひきつったうめき声を上げるのは同時だった。
 素っ頓狂な声を漏らした奈緒を、室内の視線が物珍しいとばかりに舐めまわした。彼女はぎこちなく取り繕いの笑顔を浮かべ、机に落とした和紙とA4のコピー用紙を腕で隠した。
 すかさず教室を脱け出した。
 行先は決まっていた。トイレである。それも出入りの激しい校舎のものではなく、実験棟の方のトイレだ。

「……っ」

 スカートのポケットにしまった手紙を力いっぱい握りしめ、奈緒は早足で個室へと滑り込んだ。扉を閉め、鍵をかけると背を戸に預け、目尻を震わせながら手紙の内容をあらためた。
『拝啓 結城奈緒さまへ』という字句で文章は始まった。
『盛夏の候ますますご健勝のことと思いますが、いかがお過ごしでしょうか。今日もイカの足に似たヘアスタイルは絶好調のことと思います。つきましては本日放課後、昨晩私たちが居合わせた井戸があった場所でお待ちしておりますので、そこに荷物を持って来てください。むりじいではありませんのでよく考えて来るように。そうそう、同封した写真は心ばかりの気持ちです。以下に暗号を記しておくので、あなたにはちょっと難しいかもしれませんが、来るかどうかを決めるときの参考にしてください。さて、心のじゅんびはいいですか。いいですね? 暗号は〝こたないたとしゃたしんたばらたたまくたぞ、このズベ公〟です。ヒントはたぬき。がんばって挑戦してくださいね。敬具――K・Tより』
 宛先を小馬鹿に仕切った手紙を律儀に読み終えてすぐ、奈緒は紙面を八つに引き裂いた。爪を噛みながら、苛立ちもあらわに壁面のタイルに拳を打ちつける。

「あいつ、どうやって……」

 糸の拘束は完璧なはずだった。強度も硬軟も奈緒の意思ひとつで変化する材質だ。高村に巻きつけたものならば早くとも今日の夕刻までは決して弛まないはずだった。
 仔細はともあれ、高村は井戸の底から脱け出し、学園に現れて、奈緒の机に呼び出しの封筒を忍ばせた。それが現実だった。認めることから対応をはじめなければならない。予定通りにことが運ばない不快感に、奈緒は荒々しく息をつく。

「なに、これ?」

 声に出して呟いた。高村を閉じ込めたことも持ち物を奪ったことも、深い考えがあってしたことではない。そもそもあの男が悪いのではないか? 中学生を金で釣るような真似をして、しかも睡眠薬まで盛ったのだ。仕返しをされて当然の屑だ。それに高村の口座には何千万円も残高があった。そこから手間賃に授業料としていくらかの金をせしめ取ることくらい、大した痛手はない……。
 奈緒は歯軋りして『写真』を食い入るように見つめた。凝視するほどに、かっと耳から目の下にかけてが紅潮した。怒りや混乱や羞恥が一緒くたになって、思考がまとまらなかった。
 現像したのではなく印刷された画は、あられもない奈緒の姿そのものだった。
 ぱっと見は、布団の上であどけない顔で眠りにつく少女の図だ。問題は、下腹部の下敷きになったシーツにあった。
 染みがあるのだ。巨大な、地図のような、水分の染み込んだ跡があるのだ。
 どう見ても、寝小便の図だった。
 眠っているのが自分でなければ、奈緒もそう考えるに違いなかった。
 呼び出しに応じなければこれを衆目に晒す。封筒の送り主はそう言っている。
 いつ撮られたのか。
 ――考えるまでもない。

「は、はは」

 虚ろな笑いしか、もう出てこなかった。

「は、ぁはっ」

 力任せにその紙も細切れに破ると、奈緒はより自然に笑おうと努めた。馬鹿馬鹿しい。ガキと同レベルのイタズラじゃないか。こんな写真一枚の安っぽい挑発に乗ってたまるか。
 繰り返しそう考えようとして、失敗した。小刻みに肩を震わせながら、背を壁に預けて石膏の便器を蹴りつけた。
 あまりのくだらなさに、彼女は少しだけ眼を潤ませた。

「は……くっ、くだ……はぁっ、あっ、アイツ……こんっな……くだ、くだら、らない……」

 深呼吸を繰り返し、拍子を取るように何度も、後頭部で壁を叩いた。頭蓋骨に響く痛みが冷静さと真っ当な感情を呼び戻すと、奈緒はひどく低く乾いた声で一度だけ囁いた。

「――ブッ殺してやる」

 予鈴が鳴った。



 ※



 テラスには強い陽射しが降りそそいでいた。屋敷の主、風花真白にとっては半ば毒性を持った光線である。しかし日除けの下で学園校舎に目を向ける真白の面は、穏やかな微笑をたたえていた。

「創立祭の準備は順調のようですね」
「ええ。みなさん、がんばっていらっしゃいます」と、傍らに控える姫野二三が頷いた。
「もう今週ですものね。なんだかわくわくしてしまいます」
「きっと良い日になりますわ。生徒のみなさんにとっても」

 まったくそうなってほしいものだと、心から真白は思った。
 だが割って入った第三者の声は、淡い願いに亀裂を走らせた。

「そうもいかないかもよ」ガラス戸にもたれた炎凪が、珍しく真剣な調子で呟いた。「このところ水面下で騒がしい連中がいる」
「本部のことですか?」
「それもあるけど、違う」凪は首を振った。「あの連中はいつだってそんなものだよ。僕が言ってる連中ってのは、もっとイレギュラーな人たちのことさ」
「……高村先生のことですね」真白は眉根を寄せた。「報告は受けています。昨夜、裏山の岩戸がひとつ開かれたそうです。確認しておきますが、あなたの計らいですか」
「あれ、そっちのこと? あんなのただの手違いじゃない。繋がってた先も同じ山の中だし、たいした問題じゃないよ。ま、おかげで面白いものは見れたけど」

 拍子抜けという顔で、凪が首を捻った。真白も会話の齟齬に気付き、車椅子の肘掛に指を立てる。

「別件があると?」
「いや、同じ。まあ高村先生もその内に入ってるはずだよね。だけど……なんか真白ちゃん、っていうか本部か。そっちの見解と僕とじゃちょっと相違がありそうだ。そこをはっきりしておきたいな。――えっと、君たち、もしかして高村センセの動きが全部計算ずくで、HiMEたちにも承知の上で近づいたとか思ってない?」
「違うというのですか?」
「違う違う」凪はおどけながら肩をすくめた。「それじゃHiMEたちの情報だだ漏れだったってことになっちゃうでしょ。そんなことになってたらもうとっくにアウトだよ、冗談じゃない。そして現状そうなってないってことは、向こうもHiMEの素性についてはなおも調査中ってことだ。祭の本義は、まあさすがに知られちゃってるだろうけど」
「ですが、偶然というにはあまりに……」真白はいいよどみ、束の間言葉を探した。「そう。あまりに、出来すぎています。彼が既に接触したHiMEの数は、あなたならばご存知でしょう? 作為的でないと解釈するには偶然の要素が強すぎます。嘆かわしいことですが、星繰りの者は既に外洋の勢力に取り込まれたと考えるのが自然ではありませんか」

 それはどうかなと凪は笑う。手には、湯気の立つティーカップとソーサーが出現していた。

「僕もセンセのスタンスを掴んでるわけじゃないから、彼についてはっきりとしたことはまだ言えない。だけど、いまの真白ちゃんの解釈には少なくともふたつの誤りがある。ひとつは、センセが〝星繰り〟としての役目を心得た上で動いてると思ってること。ひとつは偶然をありえないものと切って捨てていること。ま、このふたつは本質的には同じ間違いかもしれないね」
「……あなたはそうではないと考えているのですね」

 当然とばかりに、少年が肯いた。

「だって、ありえないじゃない。小野が儀式から駆逐されて何回周期が来たっていうのさ。その間復権の動きも介入もなかった。僕だってもう血は絶えたものとばかり思っていたんだ。あるいは生きていても、一番地に根絶されることを恐れてもう関わってくることはないだろう、とね。そもそも、この国で生きつづけた星繰りの末裔たちのことをだ、僕らが知らないっていうのにどうして外様が知ってるのさ。それこそありえないよ。さっきもいったでしょ? 地の利はそうそう覆らないし、それが覆っちゃったらもうお終いだ」
「そう、でしょうか」

 凪の言葉は正論だった。だが違和感は消えない。真白は若干うつむいて、その元を胸裏に探った。すると、凪が先回りするように口を開いた。

「言い当ててあげようか? そこには真白ちゃんの願望があるんだよ。考えても考えてもどうにもならず、犠牲を看過しなければならない立場にあるきみは、高村先生を特別視している。閉塞した状況に現れた一縷の望み。今までの儀式とは違う展開と結末を、星繰りの末である彼に期待してるんだ」
「……そうかもしれません。否定はできないでしょう」真白は唇を噛んで、銀髪の少年を見つめた。
「言うまでもないことだけど、儚い願いだね」
「ですが、彼が星繰りの資格を持っているということは、他でもないあなたに知らされたことです。わたくしは、資料どころか実際に顔を合わせても、そんなことには気付きませんでした。ただ口承でのみ、その存在は聞き及んでいますが……。もう一度確認します。あなたの見立てどおり、高村先生は確かに、〝そう〟なのですか?」
「そこはね、間違い無いと思うよ。センセを見たときにすぐぴんと来たんだ。ああ、懐かしいものを見たな、って。同時に、とんでもないことするもんだなぁって呆れもしたけど」
「とんでもないこと?」
「おっとっと」わざとらしく、凪は口を押さえた。「それは内緒だ。ま、いっても仕方がないことだしね」
「ともかく、根拠があっての判断というわけですね」真白は嘆息した。「いいでしょう。追及はしません。しても答えてはくれないのでしょう……。なにより、わたしが高村先生にある種の期待をしていることは間違いありませんから。彼が真実かの血族であるということさえわかっていれば充分です」
「だから、その期待が的外れなんだって」凪もまた、ため息をついた。「センセは真白ちゃんが思うほど万能でも英雄的でもないと思うよ。彼はそうじゃない。すごく人間的で、臆病で無様で、醜いんだ。うん、僕が大好きなニンゲンそのものだ」

 姫野二三が、柔和な面差しをそっと曇らせた。真白にだけわかる不快の兆しだった。彼女も同じ思いだ。ひそめた声が、わずかに硬くなることを避けられなかった。

「あなたは人間ではないとおっしゃるのですか?」
「そこまで厚顔じゃないからね、僕は」飄々と彼はいった。「だからこそ、センセが全部計算ずくで動いてるなんて勘違いもせずにいられる。――あのね真白ちゃん、高村恭司という個人がことごとくHiMEたちに出会うのは、そんなさかしらな意図の下にはないんだよ」
「では、どんなものの下に?」
「運命の樹の下にさ」
「なるほど。それがもうひとつのわたくしの間違い、ですね。HiMEたちと出会いを果たさせたのは、彼の星宿――」
「いや、もちろん種はあるよ」凪は苦笑する。「ただ、彼に関してだけは、そう偶然や必然をわけて考えてもあまり意味がないってこと。――何しろ彼は、戯曲で擬えるならばまさに主人公なのだから、なんてね」

 やり取りを誘導する凪の意図に気付いて、真白は微笑した。

「同じことです。逆説的決定論に従属しているというのでしょう?」
「『頭がイイ子は会話の帰結をポンポン先読みするからニガテだよ』」誰かの口ぶりを真似るように、凪がいった。「ま、あれだ。僕から言えることはそんなに多くない。高村センセには偶然の種があり、行動原理だって、きっといたって普通のはずなんだ。だから、あまり肩入れしない方がいいよ。それはおそらく、真白ちゃんみたいな潔癖な子とは相容れないはずなんだ。彼は大人、だからね。そのことをきちんとわかっておいたほうがいい。でないと」

 ――きっと、失望するはめになる。
 そう苦笑を落とすと、一言の挨拶もなく、凪の姿は消えた。不意打ちのように現れ、唐突に消える。神出鬼没を体現する少年である。

「いつもながら忙しないかたですわ」二三が困り顔でいった。もてなす暇も与えてくれない客は、メイドとしては不得手なのだろう。

 まったくですと返しながら、真白は凪の思わせぶりな言葉を反芻した。

「……偶然、の、種……?」
 
 神妙に居住まいを正して、真白は凪のいた空間に向き直った。あの少年の役割に向かう意思は、ほとんど人間の域を離れ怪物的なまでに徹底されている。道化た振る舞いもすでに術中であると考えて間違いはない。言動を逐一深読みしたのでは、大勢を見誤ることもあるだろう。
 真白の脳裏には、赴任以前から現在に至るまで、高村が取った行動の軌跡が思い浮かべられている。
 彼がかつて風華で関わった〝事件〟からは、おおよそ四年近くが経過していた。だが真白が把握している彼の足跡は、事故後の療養に費やした半年と、現時点から一年ほど遡った範囲でしかない。つまり、完全なブランクがあいだに二年半存在していることになる。
 その時期の高村恭司の足取りは杳として知れぬ。が、推察を働かせることは容易だった。もともと彼の師である天河諭教授は、とある世界的企業のバックアップを受けて活動していたのだ。直接の弟子である高村自身も関連しているとみて間違いない。
 そして企業の背骨である財団は、風華学園とも因縁浅からぬ関わりを持っている。
 シアーズ財団。
 彼らは中世に端を発する、互助組織がその母体だという。いわゆるフリーメーソンに近いが、その権勢を鑑みれば現状では世界的な企業カルテルと呼ぶのがふさわしいかもしれない。欧州に本拠を置きながら米国を主戦場にする組織である。
 誰もが思いえがく虚構の中のフィクサー。それこそ高村の言い草ではないが、東亜圏を決して逸脱しない一番地に比べて、シアーズは規模も実力も段違いに巨大だ。戦後さらに弱体化したいまの一番地では、資金力からして勝負にはならない。

「斜陽を引き伸ばすために海を乾す彼ら。遠い夜明けを待ちきれず人工の黎明を灯す彼ら」真白は疲労を滲ませてひとりごちた。「どちらも、どちら……。やはり、そこから洗いなおすべき、なのでしょうね」

 伏せた顔を上げて、真白は二三を見た。

「二三さん。久しぶりにすこし卜占をしてみようと思います。盆の用意を」
「かしこまりました――」

 二三が一礼し、邸内へと向かう。すると前後して、外壁に設置された内線の子機が着信ベルを鳴らした。

「あら……」

 一瞬二三を呼びつけるべきか迷って、結局真白は自ら車椅子の車輪を漕ぐことにした。風花邸は真白の障害もあり一度全面的に改修の手が入っているが、やはり高度の面ところどころ以前の面影を残している。腕の力だけで軽い体を持ち上げて、鳴り響くスピーカーに手を伸ばした。

「はい。――え?」

 報せは急を告げるものだった。風華の土地において不可侵を約束された最深部に、賊が侵入したというのだ。正確には未遂に終わったようだが、それにしても異常事態には変わりなかった。

「はい、わかりました。いえ、警戒は続けてください。すぐ人をやります……」

 通信を切ると、真白は未発達な肢体をこわばらせた。陽気に汗ばんだ青白い首が、噛みしめた歯によって筋を浮かせていた。

「真白さま?」準備を整えて戻ってきた二三が、けげんな顔を桟の向こうからのぞかせた。
「次から次へと、問題が積みあがっていきますね」真白は小さく肯いた。

 微笑したつもりだったのに、二三にはそう見えないようだった。侍女は心からの労わりを表した。

「何が起きているのでしょうか」
「わたくしもそれが知りたいのです」

 気だるいいらえは熱っぽい吐息をともなった。脆弱な体があげる悲鳴だ。我が身のわずらわしさに、真白は極めて珍しい苛立ちを垣間見せた。
 遠いクマゼミの雑音を切り裂くように、頭上の高みで鳶が鋭く鳴いた。奇しくもそれは、終業のチャイムと同期していたのだった。



 ※


 
『確認したわ。荷物も持ってる。そっちに向かってるみたい。一応こちらでも確認は怠らないけど、意外と素直ね』
「ま、直情的なところはありますね」屈伸運動をしながら、高村恭司はインカムに向けていった。「でも、来るのか。やっぱり写真が効いたかな」
『写真?』
「いや、なんでも」

 授業がはけてすぐ、結城奈緒に指定した場所に彼はきていた。地面に突き立つ木漏れ日の槍が際立って見える、もはや馴染みの感が漂う山中だった。奈緒に文字通り陥れられた井戸が『あった』場所の近くである。
 林立に視界を遮られるわりに足場にあまり困らない、高村にとっては理想的な環境だった。標高がさほどでもなく、山腹には比較的なだらかな斜面が続く山だ。高村が立つ場所もそんな地形のひとつである。
 黙々とストレッチを続けていると、『ねえ』と耳につけたイヤホンが囁いた。『無理をすることはないんじゃない? 今すぐその場所を離れても、時間は充分に取れるわ。そもそも結城さんと、その、ケンカ? どうしてもしなければいけないの? 怪我もまだ治ってないっていうのに、どうしてそんなことをする必要があるのかしら』

「そのことについては、正直どうにも弁解のしようがありません」恐縮しながら高村はいった。「昨夜から手間取らせっぱなしで。ラボとの通いで、九条さんも俺なんかより全然忙しいっていうのに」
『謝るのはなしよ。それに、そのことはべつにいいんだけど……』九条むつみの声色には、心配をはっきりと感じとることができた。

 彼女の気遣いに満足を覚えるのは、いくらなんでも趣味が悪い。が、止められるものでもない。高村は自嘲を深めた。

「大丈夫です。こんなことはこれっきりだから」
『当たり前よ。そうそう何度もあってたまりますか』冗談めかしていたが、怒った口調だった。『でも、最初からあなたにはこっちのバックアップに回ってほしいっていうのも本音なの。重ねて聞いて悪いけど、そちらは必要なことなのね?』
「そうです」高村は答えた。「いや、どうかな。厳密には要らないことなんでしょうけど……」
『どっちなのよ』
「必要です」きっぱりと言い切った。
『最初からそう言ってくれればいいのよ。男の子なんだから』むつみの声には笑みの気配があった。何が可笑しいのかは、高村にはわからなかった。『……ま、仕方がないわ。ポジティブにいきましょう』
「肝に銘じます。……九条さん?」
『なあに』
「俺は馬鹿ですかね」
『どうしたの。急にそんなこと聞いたりして』
「ああ、いえ、なんというか、なし崩しにいよいよという状況になって、緊張しているみたいです」

 高村は恥じ入ってうつむいてしまう。情緒が不安定になっているのを自覚した。MIYユニットが脳神経に作用している影響なのかもしれず、単純に彼の精神の波が激しくなっているという可能性もあった。感情の抑制がままならないという状態はまったく厄介なものだった。

『そう気負わないことよ』むつみの優しげな声だった。『確かに突然だったわ。でも、いいきっかけだともわたしは思うの。このままずるずる安全策を取っていたら、機会を失っていた可能性もあるのだから。だからってもちろん、何も心配は要らない、なんて安請け合いはできないけれどね。それにあなた、いつも言っていたわ。危なくなったら――』
「逃げます」と高村はいった。ためらいなど億尾も見せなかった。
『よろしい。じゃ、健闘を祈るわ』といったあとで、むつみは小さく付け足した。『おばかさん』

 通信が切れた。
 高村は一息をつくと、インカムを取り外してジップロックつきのビニル袋へ三重にしまい、上着の内ポケットへおさめた。
 さらに数分ばかり簡単な調整運動を繰り返した。ほどなく主に顔面の皮下が熱を持ち出し、体表面がうっすらと汗ばみ始めた。ここ数ヶ月の通勤ですっかりスーツに慣れた体に、スウェットの可動性はずいぶんと着心地がよく、とつぜん身軽になったような錯覚すらおぼえた。
 仕上げに彼は、携帯電話をポケットから取り出した。眼鏡や服は昨夜泥まみれになったり紛失したりして使いものにならなくなっていたが、これだけは無事だったのだ。

「ああ、もしもし。高村です。はい、はい。それじゃ昨日言った通りの。え? いやだからなんでもないですよ、悪巧みなんて、はは。あるわけないですってば。ちょっとけじめをつけるだけで。ええ。お願いします。はい、もちろん約束のものは。それは当然。わかってますって。それじゃお願いしますよ碧先生、はい。じゃ」そこで高村は一度通話を切り、すぐにまたボタンを操作しはじめた。「よう鴇羽。元気か。え、誰かって? 何言ってるんだよ。おれおれ、おれだって。おれ。わかんない? あっ」切りやがった、と渋面で高村はつぶやいた。ツーツーという味気ない信号音がスピーカから響いている。彼はめげずにもう一度コールした。次はしばらく受話されなかった。「風華学園社会科古代史担任の高村というものですが。あのなあおまえ、まがりなりにも教師からの電話をだな、え、いや、はい。すいませんでした。ごめんなさい。今後はもうしないようにするので勘弁してください。いや、怒らないでくれ俺が悪かったから。あ、そう、あのな、そこに美袋いるか? いる? んじゃちょっと代わってくれないかな。用があるんだ、個人的な。あっ、もしもし美袋か? うん、そう、用っていうか頼みごとがあるんだ。ちょっとこれからいうことを、これからいう時間にやってほしくてさ。うん、頼む。お礼はする。いちご大福? ああいいよいいよ、そんなもんだったらいくらでもおごってやる。この先俺が生きてる間はおまえがいちご大福に不自由することは絶対にないことを保証しよう。やったな美袋、いちご大福大名だぞっ。よし、それじゃあ約束な。それでやってほしいことっていうのはだな、――」

 十分近くもかけて説明を終えると、あとは奈緒の到着を待つばかりになった。緊張を食べて鼓動が育ち始める。

「さて、細工はりゅうりゅうってやつだ」やおら双眸を閉じて、高村は手に持ったままの携帯電話へ語りかけた。
「――おまえも知ってのとおり、そろそろのんきに生徒と交流を育んでいられるような状況じゃ、もはやなくなった。昨夜の結城のことがきっかけといえばきっかけだけど、あれは引き金のひとつにすぎない。というのも、今日になって、上から突然人員の充当が事後承諾でねじ込まれたんだそうだ。しかも実質のチーフである彼女の頭を飛び越して、だ。これがなんとこっちのプロジェクトチームとは指揮系統も違うし、連携は取らないんだってさ。それがどういう意味を持つかはわかるだろう? じきに一学期が終わる。夏期休暇の終わりを座して待つほどのんびりするつもりは、シアーズにはない。そしてもちろん、俺たちだってそうだ。だから、もうなりふり構うのは止めるべきなんだと思う。……なんてことを今のおまえに聞かせたって、意味はないんだろうけど」

 間があった。
 草を踏み分ける足音が彼の耳朶を打ったのは、そのときだ。
 目蓋を押し開けて、高村は電話を懐に戻す。目線は山の麓側へと注がれていた。

「よう――」

 結城、と名を呼びかける間は与えられず、昨夜取り上げられた高村の鞄が一直線に飛来した。顔面を狙う軌道のそれを軽くかわして、ずいぶんな挨拶だと彼はぼやいた。
 におい立つ青草の香気の向こうに、結城奈緒がいた。
 半眼の眼差しは眠たげで、脱力したたたずまいには無気力さを感じさせた。だが彼女と対峙する高村はすでに総毛だっていた。

「それ、返すわ」と奈緒はいった。彼女の目は嫌悪すべき害虫を見るそれだった。「なにあれ? なにムキになってんの? バッカじゃないの?」
「ああ、果たし状のことか」意識して高村は軽薄に笑った。「気に入ってもらえたか? 写真うつりがいいよな、結城は」
「死ね」静かに奈緒は吐き捨てた。「もういい。メンドくさい。返すから、金輪際アタシには関わるな。それで、あのクソふざけた写真も捨てな。全部。それだけやったら、半殺しで勘弁してあげる」
「心配しなくても、写真はあれ一枚っきりだよ。良心が咎めたから、バックアップは取らなかった」
「それを信じろって?」
「べつに、お好きにしたらいい。参考までに、やらなかったらどうなるか聞きたいな」
「殺す。あんたの家も突き止めて、跡形がなくなるまで壊す」

 高村はこれ見よがしに肩をすくめた。奈緒の言葉を心からの本気だと信じたわけでも、はったりだと断じたわけでもなかった。だが結果的に彼女の言葉通りのことが起こることは充分にありえるだろうと思われた。稚さの定義のひとつは、衝動との親密な付き合いだ。そして衝動は、想像力の一時停止を意味する。『想像』の中には、未来や過去の一切合財が包含される。
 人を社会という幻想の成員たらしめるのは根本的な無力さである。無力さとは、理性の強さとも言い換えられる。
 体制という枠を決して超克しないことが、人間の条件だ。逆説的に、もし社会を単体で覆せる存在があるとするならば、それは怪物にほかならない。奈緒はいま、一時的にそういう怪物だった。
(いや――)
 そうではない。
 計算は働いているはずだ。高村は己を睨む少女の意思に理知の光を感得して、深く肯いた。結城奈緒という少女は充分に計算高い。原動は典型的な反抗期に根ざすものであっても、彼女自身が典型的な少女像にあてはまらない。それだけの複雑な事情と、そしてなにより特殊すぎる能力を持っている。
 それをよく心得た上で、猛獣つかいの荒業をやってのければならなかった。

「悪いが」と高村はいった。「『おまえ』の物騒な譲歩は全部却下だ。問題外だ」
「そういう口がきける立場だと思ってンの?」

 奈緒が一歩間合いを詰めた。その両手にはすでにエレメントが具えられている。
 大気が慄える様も、高村は見逃してはいなかった。HiMEの本質は、少女たちによりもむしろその環境にある。とりわけ風華という地においてはそれが如実だ。
 視線はひたと奈緒に据えたまま、高村はゆっくり後退した。地面になげうたれた鞄の中身を確認するために、爪先で分厚い生地を触診する。
 案の定、あきらかに足りないものがあった。

「……やっぱりな」
「気付いた?」声のトーンをあげて、奈緒が勝ち誇った。「センセイのだぁいじな大事な、あの気持ち悪いハコは、そん中にはないよ。ていうかさっき、海に捨てたから」

 もちろんはったりだということはわかっていたので、高村は黙殺した。また仮に海に捨てられていたとしても、さほど問題にはならない。匣の所在地は常に明らかだし、現時点で結城奈緒の寮部屋にあることも判明している。今日の『計画』に必須である匣の回収には、既に九条むつみが向かっていた。
 高村は両手を挙げた。

「本題に入る前に、結城、俺はおまえに対してちょっとした懺悔がある。聞いてもらえるか?」
「……はぁ?」

 これ以上不快な表情はできないだろうと思わせる素振りで、奈緒の眉が吊りあがった。こうまで他人に嫌われるということが新鮮で、高村は倒錯した快感さえ覚えてしまう。そしてああ俺も大分屈折してきてるんだなと今さらながらに実感するのだった。これじゃまるで好きな女の子にちょっかいをかけてしまう子供じゃないか。

「俺はなんというか、いい人ぶろうとしていたんだ」一息に喋る事に決めて、高村はまくしたてた。「だからってもちろん殊更に悪人になろうなんて思ってるわけじゃない。そうじゃなくて、今さらだが、おまえに対する俺の態度には一貫して誠実さが欠けていると思ったんだな。わざわざ金を持ち出して気を引いたりしたのは、非常によろしくなかったと思う。とても浅はかだ。いや、どうせもう俺にとってはあぶく銭だし、誰かにやるのは構わないんだが、それにしたっておまえにも選択肢があるようにいったのはまずかった。ああ、俺は、意図をごまかしたりせず、こういうべきだったんだな」切り口上で彼は締めくくった。「俺はおまえを巻き込むと決めた。おまえにはもう選択肢がない。だから黙って従ったほうがいいってな」

 奈緒の目に怒り以外の色が初めて差した。不理解と困惑だった。話す間は高村の言葉に耳を傾けていが、それもどうやら意図的な態度ではなく反射に近い対応だった。何の習い性かはうかがいしれなかったが、あんがい受けた親のしつけが厳格だったのかもしれない。
 高村は話をつづけた。

「一般的な大卒サラリーマンの平均生涯所得を知ってるか? だいたい三億くらいだそうだ。でかい宝くじの1等と同じ値段が、つまり人生の価値ってことだ。これが安いか高いかは知らん。実際に俺だってその具体的な重みを知っているわけじゃないから。でもおまえにやるといった報酬は、だいたいこの総計の何分の一かだな」
「……で?」
「ちなみに俺の月給は手取り二十二万。もっとも税金や保険料でもろもろ引かれて月に懐に入ってくるのは二十万には届かない。そしておまえが昨夜持っていった百万は、もちろん立派な大金なわけだ……」
「つまり、今さら返せって言ってるんだ?」奈緒ははっきりと嘲った。「ダッサ」
「べつにそれはもういい。手間賃みたいなものだと思ってる。あとは、授業料だな」高村は首を振った。「俺がしているのは、重みを理解すべきだって話さ。とにかく、おまえには今後俺に協力してもらわなきゃならない。是が非にも。否が応でも」
「あんた、さっきから何を」
「HiMEをめぐってよからぬことを画策する連中がいることには感付いてるっていってたな?」高村は奈緒の言葉を遮った。「要は、俺がそういう連中のひとりってことだよ」

 奈緒が苛立たしげに頭を掻いた。

「だから! 何のハナシしてんのアンタ。うざいんだよ、さっきから、最初ッから……!」
「察しが悪いな。ここまで話せばわかるはずだろ? 結城なら。大人の都合に利用されることなんて、もう慣れっこじゃないのか? 結城奈緒なら」
「なんですって……」

 高村はギプスをはめられた右手を眺めた。
 包帯の巻かれた五指を開閉した。
 高村は淡々と告げた。腰部に提げていた『工作』に手を回しながら。

「力尽くでも俺の言う通りにしてもらう。そういうことを、さっきからいっている」
「――あぁ。へえ、そう。なんだ。始めからそういえばよかったのに。ははっ。つまり、あたしを思い通りにしたいって、そういってるわけだ」

 ああ、と奈緒は無表情に何度も肯いた。

「わかってもらえたか」糸が限界まで張りつめた。高村は圧力に吐気さえ催した。

 しばらく、感情が伴わない笑い声を、奈緒の喉が奏でていた。
 奇形の笑声が泡のように弾けつづけた。少女の背後では、紅い粒子が虚空に渦を成し始めていた。

「ホント。最初からこうしとけば良かったんだよね。なに遠慮してたんだろう、あたし」
「おまえが素で遠慮した瞬間なんか珍プレー好プレーより希少だと思うぞ」
「センセイも悪いんだよ? あんまりしつっこくて、しぶとくて、下らなくて、バカだから」それはすでに内向的な呟きだった。「は、は。アンタもあたしにここまでやってくれたんだしさぁ。別にイイんだよね。――死んじゃっても」

 絡新婦のチャイルドが、骨格を軋ませながら顕現した。
 高村恭司は、もう走り出していた。



 ※



 フェリーのタラップから飛び降ると、身軽なステップで少女は着地した。編みこんだ髪を跳ね上げながら、勢いよく空を仰いだ。

「空だー! 青ぅい! 雲、しろーい! 夏だー! あっつーい!」
「大声を出すな。周囲の迷惑になる。そして空の色は本国と変わらん」軽くたしなめる声は厳しかった。先の少女に続いて地面に降り立った、やはりまだ成熟の域には達していない娘のものだ。
「ごめんなさーい!」と第一の少女が大声で答えた。

 彼女よりはいくぶん年かさに見える第二の少女は、無表情のまま嘆息した。

「地上に降りたとたん、ずいぶん元気になったな。船酔いでもしていたのか」
「いやぁーっ、あたしってフェリーなんて初めてだから緊張しちゃってっ。それにホラ、こんな綺麗な街もはじめてなんですよぉ。つい感動しちゃったんです! あのあのあの、自由時間とかあるんですよね! あたし、見学したい!」
「そんな暇はない。すぐにロッジへ向かう。そのあとはまた洋上だ」
「えぇーっ!? ヒドイ!」

(騒がしいやつらだな……)

 港で水平線と本土の影を眺望していた玖我なつきは、ひそかに苦笑した。少女たちは四月の沈没以来閑古鳥が鳴いている遊覧船のにぎやかしを一手に引き受けたかのようなはしゃぎぶりだ。一見して少なくとも静かなほうの少女は外国人そのものの身なりだから、おそらく酔狂な観光客だろうとあたりをつけた。本州から出ている遊覧船は、出身によっては珍しいものに映っても不思議ではない。
 昨夜ヤマダの報告を受け、夜を引いて資料を洗い、ろくに睡眠も取らずに朝を迎えていた。気が済んだ頃には六時を回っており、惰眠をむさぼるのにも半端な時間帯のため、眠気覚ましにシャワーを浴びたあと市内を適当に単車で流し、いきついたのが港だった。
 登校しても構わなかったのだが、なつきはあえて避けた。何をといえば、高村を置いて他にない。一夜の間に自分なりの推察を進めたのだが、結局彼に対して今後どのような態度を取るべきかは決めかねたのだった。
(しかし、またサボりだなんだとうるさくいわれるんだろうな)
 査定に響くんだと身も蓋もない頼み方をしてくる男の泣き言を想像して、なつきは吹きだした。
 妙な教師だった。そもそも教師らしくなく、へんに幼稚で、不自然に達観している。軽薄な態度で謎めかし、塗炭の過去を覆い隠している。

「しばらくは今までどおりにするしかない、か」

 週末には創立祭もあることだし、と付け加える。この上そんなイベントまでサボタージュを決め込めば、しつこくまとわりつかれるに違いなかった。
 彼の真意を問いただすにしても、それが今すぐである必要はない。なつきはそう思っていた。いつかは聞かねばならないことではある。だが、ことがことだけに慎重を期さねばなるまい。
 それまでの今少し、日常を謳歌しよう。



 ※



 最初のワルキューレが墜とされるまで、あと――





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