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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン 前を表示する / 次を表示する
Date: 2006/10/07 23:17




5.I do




 創立祭が終われば一学期も終わりね、と鷺沢陽子がいった。杉浦碧は化調によって豚骨出汁が過剰に演出されたラーメンをやっつけながら、「なにを今さら」といいたげな眼差しを旧友に向ける。

「別になんてことはないんだけどね。あんたが教師だなんてって、いまだに違和感を覚えるのよ、わたし」
「なにおう。生徒には大人気なんだぞ、あたしゃ」
「今のうちはね、物珍しがってもらえるから。でも適当に距離置いてないと、友達付き合いじゃないんだからそのうち痛い目見るわよ」
「べつにぃ」チャーシューと呼ぶのもおこがましいふやけた乾燥肉を最後に食べて、碧は顔をしかめた。「どうせいつまでも教師やってるわけじゃなしに、そんな難しく考えんでも」
「いつまでも、って。大学戻るつもりしてるわけ」
「トーゼンじゃん」碧は鼻を鳴らす。「絶対戻るね。ちゃくちゃくと準備中よう」
「そんなにあのオヤジがいいんだ?」
「オヤジいうなっ」
「呆れる……。いつまでも学生気分が抜けないんだから。これでうちの学校の採用条件って結構厳しいのに、どうしてあんたみたいなちゃらんぽらん雇う気になったのかな。しかもその前はファミレスでバイトしてたっていうじゃない。いくら臨時採用だからって……。聞いたことないけど、あんた、コネでもあったの?」
「あったような、ないような」

 質問をのらりくらりとかわして、碧は意味ありげに微笑んだ。へえ、と呟いたきり陽子も追及はしなかった。保健室の蛍光灯がちかちかと瞬き、碧は渋い顔で手元に視線を落とした。カップの内で油脂いっぱいのスープが揺れている。白濁した液体には、かろうじて人の顔だとわかる輪郭が映り込んでいた。
 白衣がすっかり様になっている陽子を見た。大学卒業とともに、碧は院へ行くことを、陽子は職に就くことを選んだ。分かれてからは二年経っていた。もちろんすっかり顔かたちが変わるほどの年月ではない。しかしまだまだ稚気の抜けなかった頃に比べれば陽子はやはり大人びた物腰になっていた。反面碧は自分が年々退行していくような心持ちによくとらわれる。若返っているのではなく、堂々巡りをしているような……。それはやはり身を置く環境の差異に起因するのだ。事実、碧は自分が成長しているとは思っていなかった。

「子供ねえ」感慨を込めて碧はいった。
「なによ」
「いやあ、あたしってば小賢しくなるばっかりだなって思ってさー。若返りたいー」
「みんな思うのよ、それは。生徒たちだって、何年かしたら必ずね」
「あたしは永遠のじゅうななさいなんだけどね」
「だから、イタいわよそれ」

 手厳しい、と碧が机に突っ伏すと、じゃまっけに陽子は椅子の背もたれを小突いてくる。定例的なざれ合いである。
 碧とは学部生時代からの付き合いである陽子は、まとう雰囲気の点だけいえば碧とは対照的な人間だった。しかし現状では、少なくとも碧にとってアクティブな友人は陽子ただひとりだ。気さくで催し物好きな碧の交友関係は広いが、継続して付き合うとなれば相手方には相応の根気が必要だった。また快活なようでいて淡白な性根や気分屋といった側面も、よく心得ておかねばならない。陽子にその両方や碧の無茶に堪えうる度量があったかはともかく、不思議とうまの合った二人である。
 じきに話題は他に聞く人のいないこともあって、遠慮のない方向へ進み始めた。彼氏の有無や婚期についてなど、あとさらに五年もすれば胃が痛くなるような話も、今はまだ気兼ねなく交し合うことができた。碧が風華学園に着任して陽子と再会したときから、こうしたガス抜きは頻繁に行われている。酒が深まると決まって「妻子持ちはやめておいたら」と言い出す陽子には辟易していたものの、気苦労の多い仕事場に気心の知れた人間がいるというのは存外救われる要素である。碧は彼女のことを、だからおおむねありがたいと思っていた。
 作業のため保健室の外でも賑わっていた人の気配が徐々に下火になり始めた頃、この日最後の来客があった。碧の担任する1―Aの生徒、楯祐一である。彼は開いた戸から半身をのぞかせると、保健室に視線を這わせた。誰かを探しているようだった。

「高村先生帰ってますよね? どこにいるか知りませんか?」
「恭司くんなら準備室じゃん?」と碧は答えた。楯の背後に、ちらと少女の姿を見た。
「いや、そっちはもう行ってみたんですけど、いなくて」
「ふむ?」

 思案顔で腕を組むと、碧は入用ならあたしが受け付けるけどと提案した。はたで聞いた陽子が意外そうにあら、と呟く。

「それじゃ、この図書館の鍵返しておいてくれますか。職員に預ければいいって言われてたんで」
「おっけー」
「すんません。お願いします」

 会釈し、楯が頭を引っ込めて戸を閉める寸前に、「お兄ちゃんはやく」という甘い声が聞こえて、碧は頬に手を当てた。これから一緒に帰るのだろう。青春ねと、陽子が苦笑するのが見えた。

「さて」と碧は立ち上がる。
「帰るの?」
「んー。というか、ちょっとこれから一仕事あってね。それが終わったら帰るけど」
「感心じゃない。残業するんだ」
「というより」

 碧は肩をすくめ、窓の向こうへと眼を移した。夜闇に覆われ今は見えないが、その方角には禿げた山と森が広がっている。

「課外活動なんだけどね」




 ※



「立ち入り禁止って書いてあるけど?」
「気にするな」

 デフォルメされた作業員の一礼を無視して、高村は薄いスチールの看板を除ける。手渡された懐中電灯の光をもてあそびながら、奈緒は飄然と工事現場に分け入っていく男の背を追った。
 山麓の森を抜け高村が向かったのは、先月失火によって景観を損なわれた尾根の、まさに焼け跡だった。
 隕石でも落ちたかのように抉れた地面は、いまだ復旧作業の途中である。何しろ遠近感が損なわれるほどの惨状であったので、一ヶ月単位の土木工事でもとの姿に戻るはずもない。今後土を盛りさらに植林なりをするとしても、数年後まで傷痕の違和感は残るに違いなかった。

「ふうん」

 密集していた木が突然途切れると、河が干上がったかのような陥没が数万平米の単位で続いていた。ちょうど底に当たる部分には運び込まれたのだろう土が敷き詰められて、ひところよりは見られる状態になっている。

「気を付けろよ、このあたりはまだ崩れやすい。梅雨にたっぷり水吸ったからな。火事の後の山じゃ崩落が起こりやすいっていうのは迷信でもなんでもないんだ」
「言われなくたってわかってる」

 足場を確認している最中珍奇なオブジェを目に留めて、奈緒は口笛を吹いた。
 それは三分の一ほどが完全に炭化した木である。しかも熱を浴びた部分と、辛くも難を逃れた部分が明確に塗り分けられているのだった。もちろん付火で負った火傷にしては不自然すぎる。明らかに普通の火災によるものではない。

「ま、信じてなかったケド」

 最初から感付いてはいた奈緒だ。街で頻繁に起きている不自然な事件と、原因は同じである。つまりオーファンとHiMEの衝突による被害だった。
 特に風華学園の周辺では、奇妙な出来事に対しての大本営発表が頻繁に行われる。裏山の焼失はさすがに飛びぬけた規模だが、工作が奏効してか今では話題に上げる生徒もいなかった。
 ではいったいどんなHiMEだろうか、と考えていると、高村がひとりで窪みへと踏み出し始めた。段差に仮設された梯子を使って、片腕ながらにすいすいと地形の底へ降りていく。後を付いていく気はさらさらない奈緒は、その奇行を見るともなしに眺めていた。
 足場を確認しながら溝の中ほどに達した高村は、提げていたショルダーバッグからいくつか機材を取り出した。夜目のため奈緒には詳しく判別はできなかったが、それは暗視スコープと数点の測量器具だった。双眼鏡のようなスコープをのぞき、高村は溝の彫られた山頂と麓とを交互に振り返りつつ、時おり定規を二つ直角に合わせたかのような道具で、奈緒が立つ岸をはかってもいた。
 五分が経ち、十分が過ぎた。さすがに退屈を持て余し始めたところで、ようやく高村は作業を終えた。昼間と打って変わって軽快な調子で奈緒のもとに戻ると、

「変な土地だよな」と言った。
「なにが?」
「この火事にしても、どう考えてもおかしいってみんな思ってる。なのに真相が明るみに出ることは絶対ないんだ。どうしてだと思う?」
「ばれたら困る連中がいるってことでしょ」

 高村が眉を上げた。

「そのあたりのことは誰かに聞いてるのか」
「ちょっと考えればわかるし」

 得意になって答える。高村が意地悪く笑った。

「まあ、そうじゃなければ結城はとっくに手が背中に回ってるよな」

 奈緒は顔をしかめて口を閉じた。実際その通りだろうと思ったからだ。
 途端に凪の『忠告』が脳裏をよぎり、紛らわすように話題の転換を試みた。

「それより、もう調査ってのはいいの。靴が汚れるからあんまり柔らかい土は踏みたくないんだけど」
「ああ、もうしばらくだ。この焼け跡のどっかには間違い無いからな。よし、またいったん森に戻ろう」
「はあ、まだやんの」

 奈緒は舌を出しかけたが、思い直して自制した。これまでのところオーファンも現れずさしたる問題もなく、実に楽な作業である。何事かは起きてもらわねば奈緒の思惑には反する。が、仮に平穏無事にことが済んだところで、あと二時間もこの道楽に付き合えば奈緒の手元には百万もの金子が転がり込む手はずだ。これほど割のいい話は、奇特にもほどがあった。
 何しろ法外な報酬である。
 若干の緊張と浮世離れした心地はまだあったものの、その使い道を考えるだけで、知らず奈緒の口元は綻んだ。

「眼がドルマークになってるぞ、結城」
「……ん」笑みを引き締める。

 高村は左手で後頭部を掻くと、大きく吐息した。

「実を言うと、結城は金には釣られないんじゃないかと思ってた」と続けた。
「なんで」
「だって、君はHiMEの力を自分のために使うのをためらわないタイプだろう」
「当たり前じゃない。何言い出すかと思えば……。あたしの力なんだから、あたしのために使って何が悪い?」
「誰の力だって、悪いことは悪いことだろ」高村の表情は曖昧で、口ほどに咎める様子もなかった。「最初に会った時のことをおぼえてるか? 俺がいきなり路地裏に連れ込まれたときの」
「そりゃ、まあ」玖我なつきの醜態を思い出しながら答えた。「それが?」
「少し考えてみたんだよ。どうして美人局なのかってな。あの日はなんだかずいぶん強引だったけど、普段は出会い系サイトかなにかでいちいち男を呼び出してから襲ってるんだろ? 手当たり次第にしては今のところ足がついてないみたいだし、一応最低限のルールはあるわけだ」

 手口のくだりで、奈緒は目を細めた。無論彼女は高村に狩りの手法を教えたことはない。

「ミコトにでも聞いたの?」
「そこは想像に任せる」高村は肩を竦めた。「で、なんでそんなことするかって考えた。だってただ金が欲しくて、おまけに犯罪にも抵抗が無いのならだ、そんな手間ひまかけた真似をしなくたって、HiMEの力なら他に何か方法がありそうなものだろ? それに繰り返せば、リスクだって増える。人が利益を度外視して何かにこだわるとき絡むのは、大抵は信念か意地だ。結城にも、それがある――んじゃないか、と思った」

 奈緒は足を止める。気付いた高村も歩みを中断して、奈緒を振り返った。森の濃い闇の中では、懐中電灯の光が無ければ数メートル先にある互いの顔も覚束ない。だから高村にというよりは彼の手を守る白い包帯に焦点を合わせて、奈緒はため息まじりに言った。

「なにそれ。勝手に人のこと、決め付けないでくれる? ……それにアタシは、街をキレイにしてるんじゃない。はした金で中学生とやれると思ってるようなクズをさ。男なんて誰も同じ。そろってマヌケだけど、中でも極めつけのゴミを、掃除してやってンの」
「じゃあ、結城は世直しのためにあえて美人局をやってるっていうのか? ゴッサム・シティのコウモリ男みたいに」

 割合好きな映画を引き合いに出されて、奈緒は半ば熱中の状態からはたと冷めた。寸前までの自分を顧みて、口ごもりながら目線を落とす。

「どうせならサム・ライミのほうがマシ」
「死霊のはらわたか」
「ははっ、なんでそっちなの。スパイダーマンのほうだって」

 合いの手のくだらなさに、思わず吹き出した。が、すぐさま笑みを押し殺す。
 無防備な瞬間を視られたように思ったのだ。それで口ごもったのだが、高村はさして気付いた様子もない。
 咳払いを交え、ことさらに低い声を発した。

「……べつに。やりたいからやってるだけ、だけど」
「やりたいから、ねえ」思わせぶりに、高村は言葉を溜めた。「他にやることないのか」
「ひとの勝手じゃん」
「部活とかしたらどうだ? いつも何に苛立ってるのか知らないけど、体動かすのは気晴らしになる」
「興味ない。団体行動とか、体育会系とか、馬鹿っぽい」
「ま、俺も文系だからそのへんは人のこと言えないな」

 うそぶく高村を尻目に、奈緒は思った。これではただの雑談ではないか。期待していたオーファンが現れず、高村が動く以上は、奈緒も付き合わねばならない。しかし親しみを覚えるには高村は得体が知れなすぎる。
 時間を潰す必要があっても、それが会話である必然性はない。奈緒は双眸険しく高村を見据えた。

「……あのさ、カウンセラー気取るくらいなら黙っててくんない? センセイは金を払う。あたしは仕事する。それだけで充分でしょ。ギブアンドテイクってやつ」
「雑談はお気に召さないってわけか」
「馴れ合うつもりはないんだよ」

 高村は臆すことなく見つめ返してきた。

「じゃあむだ口は止めて、実利的な話をしようか。そういえば、昼間は話が途中だったし」
「聞かなくてもいい」
「そういうなよ。結城にはなにか、気になることはないのか? たとえば俺が大枚はたいてまで何を調べようとしているのか、とか」
「興味ないね」即答し、奈緒は爪先で地面を蹴った。「それを聞いたからって、あたしが何か得するとも思えない」

 それに面倒ごとに巻き込まれる可能性だって増える、と奈緒は暗につけ足した。高村がいったい何を調べているのかはともかく、こそこそとかぎ回るような行為が学園に利する事柄であるはずはない。

「もっともだ」高村はさして否定もせず左肩の鞄を背負いなおすと、無造作な口調で続けた。「入り口を探してるんだ」
「入り口?」
「地下へのな。鴇羽のチャイルドのおかげで山肌が抉られた。学園側のアナウンスでは崩落の危険を見込んで即座に工事を始めたってことだが、それにしては規模や人員がせせこましいとは思わなかったか?」

 問い掛けよりも、突然持ち出された名前が奈緒を瞠目させた。

「トキハって、あのミコトが懐いてる鴇羽舞衣?」
「そうだよ」こともなげに高村は頷く。「知らなかったのか。彼女もHiMEで、そのチャイルドが山を燃やしたんだ」
「まあ、HiMEだってのはミコトから聞いて知ってはいたけど」放火魔とまでは聞き及んでいなかった。
「で、俺もその巻き添えを食って救急車の世話になったわけだが」

 半ば感心し、半ば呆れを交え、奈緒はほくそえむ。

「へえ、あの女がね……イイヒトぶった顔して、やることえぐいんだ」
「不可抗力だ。責めてやるなよ」

 諌めつつ、高村は不意に奈緒が照らす明かりの範囲から消えた。
 濃紺のスーツは夜中において保護色である。奈緒は目を瞬きながら、見失った彼の姿を闇に探した。右手から声が響いた。

「この山の、というか学園一帯の地下に空洞があることには気付いてるか? 山の右側、学園から見れば左だが、そこに浄水場があるから、てっきりその関係かとも思ったんだが、調べるとどうも違うようでな」

 風華学園は山と海とに囲まれた立地だ。何しろ手狭な地域であるから、生活のためのインフラ設備を築けばどうしても露骨になる。本土なり四国方面からそう距離があるわけではないのに、ほとんど市が一個で自活できるほど施設が充実しているのも、不自然といえば不自然な環境である。

「金持ちが多いからだろうな」と、高村は説明した。「だから税金もいっぱい取れる。というのは、まあ表向きの理由かもしれないけど」

 奈緒は声を頼りに、におい立つ青草を踏みしだいて道を外れた。実のところ彼女は山歩きに慣れていて、ソックスに夜露がついて湿り気がくるぶしを濡らすのも、さほど気にはならなかった。ここのところはめっきり機会も減っていたが、HiMEになる以前は街に足が向かない日も少なくはなかったのだ。そんなときは、決まって風華の森や山でひとり何をするでもなく時間を潰していたのである。
 ブナの幹に手をかけながら、奈緒は引き続き高村の姿を探した。目当てはすぐについた。木立を突っ切るとひときわ大きな木が屹立する空間が見つかった。根元の周辺では射光量の関係でかあまり草も育っておらず、即席の広場のようになっている。高村はその場に立って、頭上で梢を広げる大樹と、その向こうにある空を仰いでいた。

「ここは爆心地から、おおよそ直線距離で二、三百メートルってところだ。山の高度で換算すれば中の下くらいかな。大したもんじゃないか結城、スカートにローファなんてなりにしちゃ、ずいぶんすらすらついてきた」

 奈緒は答えず、高村を通して木陰に見えるオブジェに目を凝らした。

「それ、なに?」

 直径が一メートルほどの円筒が、草に紛れるようにして数十センチばかり地面から顔を出し、ぽっかりと口を開けていた。筒は土管ではなく石を積み重ねたものらしく、石と石との間からは雑草が伸び放題になっており、凹凸の激しい表面も苔むして緑色に変色している。素人目にも、よほどの長い年月を経た代物のように見えた。

「……井戸?」
「のように見える、隠し通路だと俺は踏んだんだがな。井戸にしては深さがそれほどでもないんだけど、前に見つけた時は準備もなかったから手が出せなかったんだ。今日は一応、ロープ持ってきてはいるんだが、この腕だし、様子見ってことにした」

 縁のきわに立つと、奈緒は暗渠に光を差し向けて穴を覗き込んだ。底は思ったよりもあっさりと見通せた。乾燥しきった壁面をたどっていけば、湿った土が見える。どうやら完全な枯れ井戸ではないのかとも思ったが、雨季を経たばかりだということに思いあたり、それが周囲の地面から染み出したか、あるいは湿気が結露したのだろうと推察できた。しかし――

「これ、べつに横穴とかなくない?」
「だよなあ。いかにもすぎるとは俺も思うんだ」盛大に高村はため息をついた。「でも、どうも怪しくってさ。それにほら、光を当ててよく見ると、底の部分の石質が微妙に違うように見えないか?」
「さあ」穴の深度と高村とを注意深く見比べながら、奈緒は生返事をした。
「さて、ここでようやく結城の出番が来る」

 というわけで移動だ、と告げると高村は目線で奈緒を促した。彼の背ではくだんの焼け跡のため、森が途切れていた。企図をはかりかねて、奈緒は口を半開きにした。

「は?」
「つまりな」と高村は言った。「穴掘りだ」
「はァ!?」

 十分の後、奈緒はジュリアを召喚し、井戸から数十メートルほど推移した地点に立っていた。そこはそのまま、鴇羽舞衣のチャイルドによって抉られたという地面でもある。匙で刳り貫かれたアイスクリームを連想させる懸崖を前に、奈緒は高村を振り返った。

「……ここでいいわけ?」
「たぶんな。とりあえず、この周辺にも網状に通路が走っていたことは間違いない。それが都合良くあのわざとらしい井戸に続いてるかどうかは、正直博打だ。で、地形図をみ、じゃなくてええと、パソコンに食わせてシミュレートした結果、このあたりが怪しいぞという話になった」
「この下に隠し通路があるって?」
「あるはず。あるかも」
「どっちよ」
「とりあえず、気持ち斜め下にその尻尾みたいなごついやつをグッサリ行ってみてくれ」
「はあ」

 九割疑ってかかって、奈緒は腰に手を当てた。
 なぜこうも素直に指示に従っているのか、自分でも釈然としないものを感じていた。恐らく充分に睡眠を取ったせいで、日頃の鬱憤が一時的に晴れているせいもある。ルームメイトの瀬能あおいならば「ご機嫌だね」と評する状態に彼女はあった。
 とはいえ、言われるがままというのはどうにも面白くなかった。ちらと高村をうかがうと、彼はわずかに距離を取って佇んでいる。奈緒とジュリアの動きを視界に納めつつ、どうとでも反応できる位置取りである。
(馬鹿正直に信用はしてないってこと)
 脅威というほどではなくとも、けが人の高村がHiMEになんの抵抗もできないほど無力ではないことは、奈緒もさすがに学んでいる。無意味に仕掛けたところで逃げられれば、今夜の報酬さえ水泡だろう。
(めんどくさ……)

「結城?」
「……はァい」

(とりあえず、早いトコ帰ってシャワー浴びたい)
 念じつつ、チャイルドに命じた。

「ジュリア」

 女体を模したレリーフの頭部が妖しく輝き、巨躯が音もなく駆動した。ジュリアは静穏性に優れたチャイルドである。反面モチーフとした蜘蛛と同じく、骨格は頑強とはいえない。ましてや土木作業には不向きと見えた。
 が、意外にもスムーズに掘削は進行した。土がいまだ柔らかかった事も影響してか、すぐに煤けた木の根が露出するまで掘り返し、やがて広い範囲で地面が蠕動し始めた。地崩れが起きかねないほどである。

「……大丈夫なの、コレ?」心持ちジュリアから離れて、奈緒は呟いた。
「気にするな。どうせ俺の仕事じゃない」高村はひどく無責任だった。「たぶん灰にはなってなくても、地熱でもう根が駄目になってたんだろ。今は平気でももう二ヶ月くらいして台風が来たらどうせ崩落してたよ。転ばぬ先の杖って奴だ」
「ものはいいようっていうか、……?」

 こぼしかけて、奈緒ははたと動きを止めた。
 ジュリアの尾を突き入れた地面が、不自然に震えたように見えた。
 見間違いではなかった。
 さらに静観を続けると、ふたたび地が揺れる。干乾びるような音を立てて土や小石が零落するさまを見、呟いた。

「地震?」

 ――ではなかった。震動に加え、今度は穏やかならざる音までもが耳朶を打ったのだ。雷鳴を低く重く規則的に響かせる楽器があれば、こんな音色だったかもしれない。

「オーファンかな」緊張した面持ちで高村がいった。

 違うと奈緒は思った。山をとよもすほどの衝撃だ。オーファンの威嚇行動にしては大仰過ぎる。それよりは、何か、とてつもなく堅牢で巨大な何かに、再三再四突撃をかけている、といった風情である。
 二人が耳を澄ませる間にも、音はさらに大きく、より間を空けて続いていた。比例して、ジュリアによって掘り返された地面のたわみも規模を増していく。
 しかし高村が首を捻り、

「なんだか、破城槌で門でも衝いてるような騒ぎだな」

 と呟いた直後、ぴたりと音が止んだ。
 すぐさま、真向かいの森から黒い小粒の影がいくつも飛び出した。鳥だった。一群の野鳥が、追い立てられて森から逃げたのだ。
 津波の前の凪。ひとつづきの起伏を前にした、せつなのトーンダウン――を、静寂は思わせた。
 高村が叫んだのはそのときだった。

「結城! チャイルドにつかまれ!」

 言われるまま、咄嗟にジュリアの脚のひとつに手をかける。すると見えざる波紋が足下を駆けた。地面がこのように歪むものだと、奈緒は初めて知った。
 次ぐ地鳴りが、地盤を致命的に脅かした。土地の核となる礎が、決定的に砕かれた――その断末魔だった。
 これまでにない轟音は異変に遅れてやってきた。耳を聾するそれはすでに爆音にもひとしい。もはや決定的だった。
 巨大な何かが、凄まじい勢いで地表に突撃を仕掛けているのだ。繰り返し何度も。その傷みで、地盤が悲鳴を上げているのである。

「やばい」

 漏らした高村の体が地割れに足を取られるのを、奈緒は肩越しに見た。

「ひゃっ」と奈緒も小さく悲鳴を上げた。ジュリアの巨体までもが、バランスを欠いたのである。

 地面が崩れる。危地に反応して、ジュリアがその多足をたわめ、一息に跳ねた。
 足場にした地面があっさりと陥没する様は、蜘蛛の巣を思わせた。
 十メートルほどの高度に達して、奈緒は警戒の視線を左右に散らせる。
(ん……?)
 奈緒たちがいる場所からさらに上った山の中腹あたりに、違和感を認めた。木が何本か、傾ぎつつあるようだった。しかし目利きの頼りは雲をかろうじて抜いた月光だけだ。眉間に皺を寄せてみたものの、仔細を把握することは放棄せざるをえなかった。

「ま、いいか。カンケーないし」

 夜風を堪能し、目を細める。
 ふと教師の存在を思い出した。足下に意識を向ければ、惨憺たる崩落の跡が広がりきっている。その中心で転倒し身動きを取れずにいる高村を視界に納めると、奈緒は薄笑いを浮かべた。

「……ラッキーじゃない?」



 ※



 度を越えて疲労した夜に、金縛りを経験したことがあった。今の自分の状態はそのときに良く似ていると、高村は分析する。声が出せず、からだの自由が利かず、まぶたの痙攣さえも思い通りには行かない。そもそも感覚が麻痺していた。四年前、怪我を負ったばかりの頃を想起させる不自由さだった。うすら寒い心地で、高村はじっと耐え忍んだ。朦朧としていた。しかし意識はある。痛みはない。ならば死ぬことはないはずだった。
 楽観し気を落ち着かせると、やや息苦しさを覚えるものの、深く呼吸を取れることに気付いた。少なくとも呼吸に関する筋肉は麻痺していないということになる。生き埋めや、致命的な怪我を負ったのでもない。
(そもそも、俺は……)
 独白し、意識が断たれる寸前へ思いを巡らせた。
 地面が崩れ、結城奈緒に警句を発したのだ。
 直後に赤い線が闇に飛び、首筋に痛みを覚えた。その後の記憶は無い。途切れたのはそこからだ。
(と、いうことは)
 気の進まないことこの上なかったが、徐々に事情は察することができた。
 そのまま数分ばかりまんじりともせず苦い思いに浸った。鈍かった体の反応が少しばかり上向いた。少なくとも眼を開けることはできる。
 とたんに目が眩んだ。強力な人工の灯が眼球を灼いたのだ。

「起きたの? 早いじゃない。ハイ、よく眠れた?」

 頭上の月から、少女の顔がのぞけていた。高村は混乱するが、すぐに月はただの穴なのだと思い至る。彼は穴の底にいて、少女――結城奈緒は、穴の縁に頬杖ついて高村を見おろしている。

「結城」
「気分はどう? とりあえず、喋れるくらいに回復したってことはわかるけどさ」
「なんでそんな高いところにいるんだ?」
「逆だって。ソッチが低いところにいんの。ジョーキョー、ちゃんとわかってる? バカ?」

 軽侮の笑みと呆れの調子。感じ入るところあって背筋の毛を逆立てながら、改めて高村は状況理解に努めた。
 彼がいるのは井戸の底だった。先ほど、奈緒をともなって検分した場所だ。
 ついでに、両腕を胸の前で畳まれて、体ごと粘着性のある糸のようなもので雁字搦めに縛り付けられている。

「……体が痺れてるのはどういうことだ? 毒か」
「そう、毒」と奈緒がいった。しなやかな指を振って見せながら、「あたしのエレメントでね、作れるのよ、麻酔ってやつ。イイ気分でしょ?」
「蜘蛛といえば毒か。穏やかじゃないな」軟性を有しながらもいっこうに緩まない糸に戦慄しながら、高村は頭上を仰いだ。「どっかでなんかやってくると思ったけど、やっぱりやられたか」
「油断したとかいうわけ?」
「まあね。不覚だった。結城のことだから、ぜったい何かやってくる気はしてた」
「それでそうなってちゃ世話ないね」
「まったくだ。リスクは織り込み済みで君を選んだつもりだったんだが」
「はっ、ミジメぇ」

 嘲笑が降ってくる。実際に言い訳しようのない醜態である。肩に疲労を感じて、高村は首を捻りまわした。

「で、さっきのは地盤沈下は結局なんだったんだ? 君の仕込みじゃないだろ」
「さあ? まあ、なんでもいいわ。日頃のオコナイってやつが味方したのかも」
「どの口でそんなことを」

 ぼそりと呟くと、耳ざとく奈緒は聞きつけたようだった。険悪な調子で舌打ちして、手に持った何かを高村に示す。

「覚えがないとはいわせないよ。これ、なぁんだ?」
「暗くて見えない」はじめから一瞥さえせず、高村はいった。手元に自分の鞄がないことにはすぐに気付いた。顔面から即座に血の気が引いた。まずい、と思った。
「処方箋。睡眠導入剤二週間分」無感動に奈緒がいった。「アンタのカバンに入ってたよ。おかしいと思った。やっぱり昼間の、アンタの仕業だったんだ」
「なんのことだか」
「手頃な石でも落としてやんないとならない?」
「……あー、すまない。悪かった」あっさりと前言を翻した。「でも誓って、結城には必要以上に触れていないぞ」
「信じると思ってるの、そんな言い分?」

 その程度ならば、追及されたところでなんの痛手でもない。高村は軽口に徹した。

「それは俺からはなんともいえない。ただ、結城が寝不足って聞いてな。お節介とは思ったんだが、つい。でもよく眠れたろ」
「下衆」奈緒に容赦はなかった。「どういうつもりであたしにちょっかい出したのかはわかんないけど、この借りは高くつくってこと、センセイに教えてアゲなくちゃ、ね」

 どう考えても酌量の余地は認められなかった。高村は居心地の悪さに狭隘な穴のなかでさらに身を縮め、己の迂闊さを呪う。採取した血液のほうは準備室のクーラーボックスに入れておいたことが、せめてもの救いだ。あれを見られればさすがにもう学園に居残る事さえ絶望的になるだろう。
 そしてそんな進退問題さえ些細としてしまう代物が、鞄の中には納められている。できる限り鷹揚と、平静を保ちながら、高村は奈緒に視線を合わせた。

「まあ、それについては全面的に俺が悪い。罵倒も甘んじて受けよう。で、俺にどうしろと? どうせ残りの報酬はもうパクったんだろう? 財布も抜いたみたいだし、この上は直接この身を差し出すくらいしか、結城の気を晴らせそうな持ち合わせはないよ」
「黙れよ」居直りが何らかの癇の虫を目ざめさせた。底冷えするような眼つきと声で奈緒が吐き捨てる。
「手も足も出ないんだ。口くらい出させてほしい。……カバン、返してくれよ。金以外に用はないだろ?」
「せっかくだから、もっと奮発してくれなぁい?」必要以上に嫌らしく、奈緒は笑った。「通帳はさすがにナシ、と。まあ本人確認があるから無理か。でも、カードはあんのよね、これ。ホラ、見えるぅ?」
「わざわざ見せなくていいよ」弱々しく高村は呟く。

 それでいくばくか満足を得たらしく、奈緒は上機嫌に鼻を鳴らした。

「とりあえず、暗証番号を――」
「0912だよ。俺の誕生日だ」
「……は?」奈緒の口がぽかんと開いた。
「0、9、1、2、だ」高村は繰り返した。「ATMに行ってカード突っ込んで暗証番号いれりゃ上限までは出せる。って、言わなくてもそれくらいわかるか」

 今度は素早い反応はなかった。奈緒の胸中でためらいと疑惑と慎重とが綱引き合う様が容易に想像できる。高村も大人しく口をつぐみ続けた。

「どういうつもり?」
 思案の間を置いたにしては、芸がないといわざるを得ない問い掛けだった。「そっちが教えろっていったと思うんだが」
「物分りがよすぎんだよ。アンタ、まだなんか隠してる?」
「隠し事なんてありすぎてどれのことだかわからない」紛うことなき本音の吐露であった。「いや怒るなよ。考えても見てくれ。俺は井戸の底にいて身動きも取れない。しかもここは人里に近いっていったって山の中で――声を張り上げたって蓋でもしてしまえば誰にも聞こえない場所だ。つまり、俺の生命線は君が握ってるんだよ。だいたい、そのつもりでこんなところに放り込んだんだろう? へたに逆らえないようにさ。だったら、意地張るだけムダだ」
「……いらいらする。なに余裕ぶっこいてんの?」
「諦めが早いだけだ。なにしろ俺は怪我人なんだ。なあ、もういいだろう。金はちゃんと渡すさ。なんならカードもそのまま預けたっていい。だからここから引き上げてくれ。強盗なんかしちゃいるが、殺人犯にあこがれてるってわけじゃないんじゃないか?」
「――はん?」

 ひたりと、宵闇さえ透徹して奈緒の怜悧な双眸のひかりが、遠慮のない刃先のように高村の胸裏を抉った。ぎくりと全身を硬直させ、高村は失態を悟った。喋りすぎたのだ。

「よく喋るねぇセンセイ。あたしになにか、してほしくないこと、あるワケ?」
「あ、いや」

 見通され、高村は反駁できない。
 その遅滞はこの鋭い少女に対して充分に致命的であった。

「クスリじゃない。カネじゃない。財布、でもない。……じゃ、なーんだ?」

 高村の反応をいちいち見定めながら、奈緒はわざと高村に見せつけるようにして、ショルダーバッグの内容物を漁っていく。
 少女の洞察は鋭敏過ぎた。高村の取り繕いがほつれ、動揺が露呈する。表情を閉ざすべきだと思いつつも、一度乱れた自制心を取り戻すのは至難の業だった。元来高村は腹芸の得手な人格ではないのだ。そして思わせぶりに奈緒が小型のアタッシュケースを取り出した瞬間、口元ははっきりと引きつってしまった。

「アッハハ、せんせーわっかりやすゥい。顔に出すぎ。これでアタリでしょ?」

 奈緒が手元の直方体をもてあそぶ。それは化粧箱ほどの大きさで、表面は光沢のない白色でコーティングされている。持てば驚くほど軽く、また触れれば陶磁のような手触りがするはずである。
 高村は腹を括った。匣に目をつけられた以上、騙しあいは彼の完敗だった。
 忸怩たるものはある。しかし些末なことだ。彼は二心なく訴えた。

「それは返してくれ。頼む。それは――」

 答えず、奈緒は微笑んだ。
 視界が暗転したのはその直後だった。穴の口に蓋がされたのだ。いったい何を使って、と高村は暗中で目をみはったが、すぐに自分の体を縛る糸を応用したのだと見当をつけた。

「バイバイ、センセイ」と奈緒の声だけが響いた。「気が向いたら、また来てあげるから」

 それから完全に気配が遠のくまで、一縷の望みにかけて高村は声を上げつづけた。それもすぐ力尽きて、ぐったりと肩を落とした。井戸の底は外気と違い冷えており、尻を湿す泥土の感覚に彼は身を震わせた。

「あのガキ」と高村は珍しく言葉を荒れさせた。が、結局は自業自得なのだ。自嘲を交えて嘆息し、「参ったな。笠原メイかあいつは」と静かに呟いた。

 視覚が断たれたせいもあってか、徐々に鈍磨していた感覚が戻り始めていた。これは果報ではなくむしろよくない兆候だった。
 障害の後遺症と脳手術の副作用のため、高村の五感は一定以上の負荷をかけると極端に先鋭化しはじめる。異常に鋭敏になり、暴走するのである。覚せい剤などの幻覚剤を服用するか、あるいは人間が生命の危機に瀕した場合、同じような症状を見せるケースがあった。彼の場合はその箍が壊れたまま二度と戻らなくなっているのだった。
 発作にも似た、一種自律神経の失調症である。問題なのは、日常生活において知覚が増大したとしても、利する点はほとんどないということだ。常人に聞き取れず、見取れない対象とは、すなわち大概が不必要な対象でしかない。受容体が脳に伝達する情報は常に取捨選択がなされているが、この状態の高村にはそれが不可能になる。そしてその果てにオーバーフロウを引き起こす。具体的には幻視、幻聴に加え、頭痛といったかたちでそれは現れる。
 術後三年を経て病状は安定しつつあったが、風華の地を訪れて以降は悪化の一途を辿っていた。とくにここのところの不眠不休がたたっているのは明らかだった。奈緒に盛った即効性の睡眠薬は、せめても睡眠を取るためにと九条むつみが彼のために都合したものだ。そして今、高村に無条件で意識を沈める薬効は望むべくもない。
 鼓動ごと突き上げる頭痛にうめきながら、高村は身を穴の底で横たえた。頬を水が濡らしたが気にならなかった。もとより視覚などまったく用を為さない暗黒のなかなのだ。
 一方鼓膜は水流の音をとらえていた。むろん幻聴である。
 神経が剥き出しになったような熱が、全身を発汗させ始めた。ギプスごと縛り付けられた右腕の筋と肉と骨とがそれぞれ痛んでは軋み、疼痛となってこめかみを刺す錐と手を取り合っていた。ふつりと何かの糸が途切れ、高村は感情の赴くまま自由になる脚を壁に向けて打ちつけた。手応えは綿のように柔らかだったにもかかわらず、足には当然の痛みが走った。しかし軟らかかったのだ。どうしてだろうと彼はおもった。壁面と人体の硬度が相対化されて置換されたに違いなかった。認識が齟齬を起こしていた。
 混乱はそれだけに止まらない。
 三半規管が酔っ払った。俺は立っているのかそれとも座っているのか泳いでいるのか伏しているのか。高村にはそれだけのことも判別できない。上下左右すべての黒が彼を圧迫している。取り巻く闇に高村は窒息し、耽溺している。閉じられたはずのまぶたから黒が滑り込み、眼球の裏側で蠢いてはちかちかと光り強く痛ませる。激しく瞬きして無理やりにも涙を流す。
 カバン。
 痛みに堪えきれず額を黒の濃度が強い部分にぶつけると、ぱしゃんという気を失いかねない爆音が井戸の中に響き渡った。眼鏡が落ちたのだ。高村はうるさいと叫んだ。その叫びがやはり耳を聾し彼は悶絶する。
 カバン。
 意識の電熱線が負荷に耐えかね白熱し、焼けていた。
 がむしゃらに高村は足を振るい、何度も壁を蹴った。何度蹴っても壁は布団のような手応えで、やはり足はしびれ、痛んだ。
 カバン! カバンを取り戻さないと!
 不意に足の抵抗がなくなったと思った瞬間だった。体がさらなる深みへ誘われ、抗する術も持たない彼はただ身の転がるに任せた。
 どこまでも――
 地下数メートルから数十メートルへ。転倒ではなく彼は既に落下している。
 ありうべからざる風に前髪が煽られる。
 それは闇そのものの吐息に相違ない。
 生臭い息吹に彼は辟易とした。
 ために頭の疼きが痛覚の閾値を振り切って、高村恭司の時間が混線した。
 そして、走馬灯を彼は見た。



 ※



「おかえり!」
「……ただい、ま?」

 奈緒が寮の自室に戻ると、見慣れたふたつの顔が出迎えた。ひとりはルームメイトの瀬能あおい。もうひとりは、隣室の美袋命である。
 高村恭司から巻き上げたショルダーバッグをベッドの上に放り投げる。と、満面の笑みのあおいと目が合った。

「なによあおい」
「ううん。ただ今日は奈緒ちゃん、早いなーって」
「あっそ」

 同室で暮らす人間としては、満点ではないにしても、あおいはまだ奈緒にとって許せる人格ではあった。とはいうものの、やたらと益体の無い話を好むのは難だ。ひたすら奈緒を「かわいいかわいい」といっては構いたがるもいただけない。なにより一度夜遊びに関して泣き落としされて以来苦手意識を持ってはいるが、それ以外では余計な詮索もせず、奈緒にとっては珍しく穏便な関係を保っていられる対象である。

「ミコト来てたんだ」
「舞衣ちゃんがバイトだからね」とあおいがいった。

 命が部屋を訪れるのは、決まって同室の鴇羽舞衣がアルバイトで留守にしているときだ。今夜もそのご多分には漏れないだろう。あおいなどは大喜びで命を迎えるし、奈緒にとってもいて気障りな少女では彼女はないので、来室は容認していた。

「あっ、あたしたちもうごはん食べちゃったけど、奈緒ちゃんどうする? 余りもので良ければつくるけど」

 奈緒は壁時計を見る。午後十時を回っていた。「いい」とそっけなく断った。

「太るし、今食べたら」
「えええ」あおいが目を丸くする。「それ以上痩せたら大変だよ。ちょっとでいいから食べようよ」
「いいっての。あんたらがバクバク食べすぎなの」
「じゃあ、わたしが食べる」と命が割り込んだ。
「あんたはもう食べたんでしょ」
 命がパジャマの腹部をさする。切なそうに虫が鳴いた。「でも、はらへった……」
「っていうかなんであんたってあれだけ食べて太らないわけ?」
「わたしはいつも腹八分だぞ? ジイと舞衣のいいつけをちゃんと守ってる。偉いか!?」
「八分って……」早弁用のドカ弁をつまんだ上で昼食に重箱を平らげる健啖を思い、奈緒はわなないた。「あんた胃下垂かなんかじゃないの? 食ったぶんはどこに消えてるのよ。あ、いや、答えなくていいから」
「あはは、じゃ、なんか作るね。奈緒ちゃんのぶんも」ベッドからあおいが立ち上がり、台所へ向かう。

 その背を見送って、奈緒はベッドに体を投げ出した。

「つっかれた……」

 枕に埋めた顔が、思わず緩む。懐の温まり具合を思い出したためだ。
 手持ちで百万。浪費しようと思えばいくらでもできる額だが、それでも使い道はとっさに思いつかない。
 クレジットカードと暗証番号も控えてあるが、積極的にそちらに手を出すつもりはなかった。ATMは必ずカメラで監視されている。不用意に物証を残すものではないだろう。
 高村については、一日置いて明日の夜には解放するつもりだった。少々手間ではあるが、さすがに死なれては大事になる。逆をいえば、殺さなければどうとでもなるという、ある程度の自信があった。後ろ暗いのは互いのことであるし、なにしろ奈緒はHiMEであり、いざとなれば学園理事長の後ろ盾があるのだ。
(しばらく財布代わりにしてやろうか)
 ほくそえむ。ともあれ、初対面から苦渋を味あわせてくれたあの男をやりこめたのだ。達成感と満足感にひたって、奈緒はにんまりと命に話し掛けた。

「ねえミコト、明日半ドンだし街に買物いかない? おごってあげるからさ。アンタも服とか新しいのほしいでしょ」
「ん……あれをやらないならいい」

 〝あれ〟とは狩りのことだろう。先月の辻斬り騒動の夜から、命はそのての〝わるいこと〟についてやや及び腰になっていた。無闇に悪事を働くものではないと、同居人に厳命されたらしい。

「ああ、あれね。いいよ。どうせしばらくはやる気しなかったし」

 徒党を組んで襲われた直後である。この上派手に動けば、ただ出歩くだけでも警戒が必要になりかねない。そう思い、奈緒は安く請け合った。もちろん、二度とやらないなどというつもりはない。あくまで一時休止である。

「また映画か?」
「さあ、面白そうなのやってるんならそれもいいけど」

 布団の上で転がりながら、枕元に置いてあるタウン情報誌を手にとってめくった。紹介頁で目立つのは全米や大仰な総制作費を枕詞に銘打たれたビッグネームばかりだが、奈緒の目当てはマイナーな単館やB級のリヴァイバル上映だ。命とあおい以外にはほとんど知るものもいない、奈緒のひそかな趣味である。

「これ、これがいい」奈緒の背にのしかかった命が、肩越しに頁の片隅を指差した。
「おもい。のっかるなっつーの。……で、なにこれ。アニメ? おいしい大冒険って……まあ短いしハシゴすればいいけど、あんたちゃんと大人しく見んのよ」
「ん。まなーだな。おぼえているぞ」

 得意げに胸を張る姿には、そこはかとなく不安を煽るものがある。大丈夫なのと念を押すと、任せろと命はますます背を反らすのだった。
 台所から、下ごしらえを終えたらしいあおいの鼻歌と、油の跳ねる音が聞こえ始めた。覗くまでもなく「ヤキソバ、ヤキソバー」と口ずさんでいるので、何を作ろうとしているかは明らかだった。

「いいにおいだ」命が犬のように鼻を鳴らした。と思うと、けげんな素振りで首を傾ける。「ん? おかしい」
「ヤキソバが?」
「恭司のにおいがする」
「……あ。ちょっと」

 奈緒が止める間もなく、命は即座に高村の鞄に目をつけた。

「これは恭司のものか」
「さあ? 拾っただけだから、あたし」と何食わぬ顔で奈緒はいった。
「そうか……」

 命は高村恭司に対して不思議と懐いていたから、食ってかかられることも予期はできた。しかし、予想に反して命は追及してこなかった。それよりも気になることがあるのか、釈然としない顔で鞄に何度も顔を近づけては、いつの間にか手にしていたエレメントの剣先で鞄を突いている。
 しばしば奇行に走る少女ではあるが、行動原理が動物に近いものだと一度わかれば、少なくとも表面的に複雑な性質では、命はない。
 このとき彼女が鞄に対して取るそれは、警戒のように奈緒には見えたのだった。

「なにやってんの?」
「わからない」困りきった顔で命が答えた。「わからない。けどなんだか、これ、おかしいぞ。ヘンな感じがする。ミロクが騒いでるんだ。ざわざわする……」
「あ、それ」

 断りもなく中身をまさぐって、命が取り出したのは匣だった。奈緒が見せたとたんに高村は狼狽しだしたのだから、よほど大事なのだろうと思われた。森ではろくろく観察もしなかったが、白々とした明かりのもとに置くと、どうにも不自然な印象のする匣だった。両手に持てば厚めの雑誌ほどの大きさなのだが、異様に軽く、まず材質からして判然としない。硬度は紛れもなく金属のそれだが、触れた感覚のなめらかさは陶器で、しかし比重は木か竹程度にしかない。あえて当てはめるならばセラミックがもっとも近しいが、奈緒にはっきりとした区別などできるわけもなかった。眺めれば眺めるほど、かえって物質としてのアンバランスさが際立ちさえした。
 手応えから何かを内蔵していることは間違いない。しかし、もっとも異質な点はそこにある。

「そのハコ……どうやって開けるのよ」

 継ぎ目がないのだった。番や取っ手さえない。溶接のあともなく、であれば既に『箱』という名称はふさわしくない。そういう形に鋳られたとしか考えるほかなかった。

「骨董品とか? には見えないし」

 指先で、突こうとする。と――
 奈緒の耳を鈴音が打った。眉をひそめて音源に目をやれば、命だった。茫洋とした顔つきで、エレメントを引っ提げベッドの上の匣を凝視している。
 彼女の胸元が、妖しく紅く、輝いていた。

「ミコト?」と奈緒が呼びかける。
「はい」と答えがあった。「はい。兄上」
「――は?」

 疾風のように突き出された切先が匣を直撃した。
 その瞬間だった。自動的に奈緒の手にエレメントが装着され、連動してチャイルドまでもが顕現されかける。あわやというところでその衝動を抑制し、奈緒は命に真意を問おうとした。
 できなかった。
 声が出ない。指先一つ、射止められたようにぴくりともしないのだ。視点も動かせず、時間が止まったかのようだった。意識だけが平常の時を刻んでいる。
(何?)
 恐慌を来たさなかったのは、ひとえに現実感の欠如からだった。自分が呼吸さえしていないことに気付いたが、酸素を取り込まずとも一切苦しみを覚えないのだ。
 静止した空間をつんざく激しい音も、気を逸らす一助となっている。
 発生源は、やはり美袋命のエレメント。そして、彼女が攻撃を仕掛けた匣だ。奈緒は両物質の中間にある毛先ほどの空白を見た。
 その空白が慟哭するのを聞いた。世界中で恐らく奈緒だけが聞く叫びだった。
 ハウリングのごとく、音程の上昇は際限を知らない。直線のように高音がどこまでも伸びていき、恐怖すら感じさせた。ふいに基礎的な理科の知識が奈緒の思考をよぎった。
 音叉の共鳴現象。
 徐々に空白が膨れ上がっていく。比例して、音も大きく、高くなる。
 成長しているのだ。
 表情筋が動けば、きっと顔を引きつらせていた。さらに音が高みへとのぼりつめる様を前にして、奈緒はただ見守ることしかできない。
(冗談じゃ――ないッ!)
 意思だけが支配下ならば、力をそこに集わせるだけだ。HiMEを扱うのと同じ要領で、奈緒は念じた。あらんかぎりの精神力で、不可解な状況の沈静化を願望した。その想いに呼応して、体の局所、エレメントをまとう指先だけが活動を再開した。あとは時間をかけてその力を全身に流すだけだ。奈緒は勢い込んだ。指から手、手から腕、肩、首をめぐって胴から下半身へ。泥を掻き分けるように、匣へとエレメントを伸ばしていく。
 そして触れた。
 とたんにすべての異常が掻き消えた。

「うわっ!?」

 命の悲鳴だ。冷や汗に前髪を湿らせながら、奈緒は億劫な視線を左側へ向けた。

「いたた」
「……なにしてんのよ」

 壁際で命はひっくり返っていた。弾き飛ばされたのだ。頭を打ったらしく涙目になっていたが、顔つきはすでに正気づいていた。いやそもそも、彼女が先ほど見せた表情が現実のものかさえ、奈緒は如何とも見分けられなかった。
 大きく息をつき、指先が触れている匣に目を移した。
 エレメントは、具現化されていない。
「なんなの」と奈緒は呟いた。すぐさま匣をショルダーバッグの中へと戻した。認めがたい不気味さが、打ち込まれた楔のように胸に残留している。
 井戸の底に落とした高村の顔を思い出した。人畜無害そうな、セルフレームの眼鏡の下にある童顔。言動は真っ当なようで奇矯。だがそんなものは、表層にすぎない……。

「あいつ、なに?」

 爪を噛む。あおいが湯気の立つ夜食を運んできたのはそのときだ。

「はい、できたよー」
「おおーっ」

 飛びつく命をよそに、奈緒は布団に寝ころがった。試しに目蓋を閉じれば、昼間あれだけ眠っていたにもかかわらず、急激な眠気が襲ってくる。夜に睡魔と出会う感覚があまりに久しぶりで、奈緒は面食らった。まだ薬が効いているのかもしれない。
(ああ、でも、だめだ)
 遠のかないままの命とあおいの談笑を聞いていた。浅い眠りの予感がした。泥のようなと形容されるほどの深い眠りを最後にしたのがいつだったか、奈緒は覚えていない。体はくたくたで、得体の知れない出来事により心労もかさんでいたが、それでも何もかも手放す気分にはなれない。安寧に身を任せようとすると、取り返しのつかないことになるという不安が必ず肩を叩くのだ。だから結城奈緒は決して熟睡しない。
 それでも束の間の微睡は、意識の逃避先として最適だ。名を呼ぶ声を揺り籠に、奈緒は浅い眠りへ落ちた。



 ※



 地を舐めていた。敷かれた畳の芳香が鼻をつく。這いつくばって身動きとれず、彼は荒く呼吸しては瀕死の虫のように手足を蠢かせた。
「起きなさい」
 厳しい声が降ってくると、脳はなけなしの体力に鞭打つ事を要求してきた。さもなければより悲惨な結果が待ち受けるのだと学習し、賢明な示唆を試みているのだ。
 だが無い袖は断じて触れない。彼は相変わらずうつ伏せのまま、声一つ上げずにいた。
 その背に硬い何かが触れる。
「起きなさいといっているでしょう」
 言葉と同時に、脊椎からわずかに逸れた一点を圧迫された。
 気が狂うかと思うほどの激痛が、全身を海老反りにさせた。のたうちまわり、命の危険を感じた彼はたまらず起き上がり、転がりながら上半身だけを起こした。抗議の意をこめて、無体な女性を見上げた。
「起きられるのではないですか」
 しかし、険しい双眸にぶつかるとすぐに意気がくじかれる。彼はこれほどこわい女を他に知らなかった。
 老女、といっていい年配に達していた。しかし老人と呼ぶには闊達すぎる。そんな雰囲気の女性だった。
 元は金色だったという髪はまったく褪せて銀色に変わっていたが、動作は極めて矍鑠として、背筋もぴんと伸びている。長身もさることながら、体型といい体力といい、面貌のしわや先に触れた髪や肌質のほかに衰えの要素を見いだすのは極めて難しい。美容整形をすれば二十は若返りそうなほどの堂々たる女丈夫である。
 ベースの中には、グレイスバートの中身は鉄だと本気で噂するものが少なくない。独身をもじられて、アイアンメイデン・グレイスバートと呼んだりするものもいた。そのたび敬老の精神豊かな彼は欧米人の物言いをいちいち不快に思ったものだが、今ではまったくその通りだと感じている。
「では、続きを」
 畳に膝を突きながら、彼は少し休ませてほしいといった。
「私は貴方に乞われて教えていると記憶していますが」
 口ごもり、消沈してその通りですと彼は答えた。だけど体がついていかないのですとも言った。手術は成功したそうです。血を吐くようなリハビリにもたえました。だけど体はまともに動いてくれないんです。油をさし忘れたブリキの人形みたいに。訥々と、われながら女々しいとしかいいようのない言い訳を彼は重ねた。
 女はその全てを黙って聞いていた。
「では、止めますか」
 彼は答えあぐねた。ただ休憩が欲しかっただけなのだ。ままならない体のために心が腐ってもいた。心身を衝き動かす感情の源泉さえ、不自由な身では維持するのも難しい。
 否定を見て取り、女はならば立ちなさいといった。
 唇をかみ締めた。笑いつづける膝を殴りつけて、彼は立ち上がった。
 何もかも失った彼を支える手立ては、気力だけだった。女はよろしいといって、頷いた。微笑みさえしなかった。
 今度は意識が飛ぶまで転ばされた。

「私は才能という言葉が嫌いです。なぜだかわかりますか?」
 仰向けに倒れたまま、彼は首を振った。今度こそ起き上がるのは不可能だった。
「劣等の言い訳にしか使われないからです」
 ハスキィな声は、あくまで淡々としていた。
「個々人に差異があるのは摂理です。厳然とそうしたものがあるのは事実。ならば、わざわざ口に出す必要はありません。非才はさらなる研鑚の理由にこそなれ、道を諦めるていのよい言い訳にはなりません。止めるならば、己の惰弱さのためなのです」
 彼はどうとも言えず沈黙を守った。彼女の言葉は正しいが、正しすぎる。強者の理屈である。
「それを踏まえた上で、あえていいましょう。ミスタ・タカムラ。貴方には才能がありません。素養についてもそうですが、身に負った障害が致命的です。年はいくつでしたか?」
 二十歳になりましたと彼は答えた。うつろな響きになるのはどうしようもなかった。こうまできっぱりと断じられれば、惨めな心持ちにもなる。
「二十歳ですか。いかにも遅い。ですが、可能性はあります。可能性だけは。ただし何事を成すにしても、そのために必要不可欠である充分な時間が貴方にはない」
 その通りだった。今さらの事である。女の言わんとしていることが計れず、彼は隙なく佇む姿を盗むように見た。
 目鼻立ちの際立つ造作は上品だが、拭いきれない険しさと厳しさをたたえている。彼女の鉄面皮は、自律と矜持によって保たれているに違いなかった。
 とつぜん、女は話題を変えた。
「先日、ひとり教え子を見ました。立場上は貴方の後輩です。まだほんの少女なのですが」
 生返事する。
「天稟というものを久しぶりに目の当たりにしました。彼女には貴方と同じニホンの血が混じっているそうですが……」
 つ、と女は彼を見おろした。もう一度貴方には才能がありませんと言った。
「諦めなさい。そしてどこかで平穏な生を送るべきです。ブトウのみならず、貴方には争いごと全般に対する適才が欠けています。これは、人としてまったく羞じることのない資質なのですよ」
「それでも」と彼は言った。「それでもですよ、ミス・マリア。俺には才能がないかもしれないけど、死に物狂いでやってものにならないほど見込みがないわけじゃないはずです。だから鍛えてください。お願いします。もう他にどうしたらいいのかわからないんです。これ以外何も残ってないんです。がんばります。がんばります。がんばりますから、どうか、お願いします」

 一転して、彼は屋外にいた。紅い日が海に没しつつあった。たそがれの時間帯。一年ほどのあいだ体技の指導をした女性は、技らしいものは何も伝授しなかった。彼はただ彼女の動きに倣い、教えを踏襲しつづけた。考えつづけ、動きつづけ、決してよどまず、感覚に身を明け渡しなさい。体格と障害のハンディキャップを常に念頭に起き、それらを利用して身を守る術を研ぎ続けなさい。
 言いつけを愚直に守る。彼に与えられた才と呼ぶべきものはそれひとつだった。
 彼はひたすらに型をなぞり、体を苛め続けている。白を基調とした部屋でベッドに寝かされ、頭部に電極を差しては、自分の意思を介さず電流と信号によって傀儡にされる手足を眺めた。そのたび体と人格が造りかえられるような違和感にさいなまれた。だがいつか死に接した折の発狂を思えば何でもないことだ。ジョセフ・グリーアは何度か検体を降りてはどうかと打診してきたが、だから彼はその全てを突っぱねた。苦痛は必要な代償だった。目的を決して忘れないためにだ。眼が醒めると、目の前に頬を膨らませた天河朔夜がいた。お兄ちゃん居眠りなんてヒドイと彼女は形ばかりの不機嫌さをアピールする。お互い疲れてるわねと九条むつみがいった。この頃の自分は彼女に恋をしているのかもしれないと彼は思った。
 大学時代の前半に住んでいた学生長屋の前の夜道を、彼は玖我なつきと歩いていた。いや九条むつみと並んでコンビニへ向かっているような気もした。優花・グリーアを伴って海にでも行っているのかもしれなかった。どれでも同じだけ理不尽だ。彼女たちとこんな時間を過ごした記憶は彼の中にはない。しかし真夏にもかかわらず真冬のように寒いことに比べれば些細な問題だった。
 風邪を引くかもしれないからと言って、彼はなつき/むつみ/優花の手を取った。空気が澄んでいた。急に自分の見目が気になったが、ここで鏡を確認すれば自己愛的にすぎると思い自重して、しかしこんなことを気にする時点で俺は自意識過剰なのかもしれないと己に対する不信感を持て余した。俺はナルシストなんだろうか?
 誰かに意見を聞いてみたかった。隣に顔を向けると、そこには鏡があった。取り立てて妙な顔ではなかったので、彼は安堵した。しかしすぐに恥じ入ってうつむいた。
 地面には星がよく見えていた。
「何みてるの、先生」鴇羽舞衣が言った。
「星だよ、鴇羽」
「星なんか見えないぞ」美袋命が眉をひそめた。「それにわたしは舞衣じゃない」
「そうだったな、美袋」
 夕刻のベイ・ブリッジを歩いていた。むろん隣には誰もいなかった。彼は寂寥と茫漠に耐えられず、その場にうずくまった。波音に意識を洗われてはすすり泣いていると、優しく肩に手をかけられた。鷺沢陽子だった。背後には迫水開示もおり、労わるような笑顔で彼を見つめていた。それから現実感がないまま、彼は鷺沢陽子と同じベッドの中にいた。これは果たして俺の女性に対する願望が顕在化しているのだろうかと彼は思った。荒唐無稽な筋は他に解釈しようのないほど直接的な内容であり、フロイトやユングの出番はどこにもなかった。裸のままベッドから降りて振り返ると鷺沢陽子は既に消えており、そこには無垢な寝顔をさらす結城奈緒がいた。健やかな呼吸が憎らしくなって、彼は奈緒をくるむシーツを剥ぎ取った。天体観察をするのにワイシャツとズボンだけでは雰囲気が出ないと思ったのだ。
「何をしているのです」厳しい声が問い掛けた。振り向かないまま彼は答えた。
「星を見てるんです。ほら、あの月の横にあるあの星を」
「そんなものは見えません」
「おかしいですね、それは。あれだけ光ってるのに。放物線みたいに真っ赤なのに。どうして誰も見えないんでしょう」
 落胆しながらふすまを開けた。そこは両親と過ごした実家の居間だった。虚を衝かれて立ちすくんでいると、急激な震動が世界を揺さぶった。柱が折れ梁が落ちて、また世界は暗黒に閉ざされた。いいかげんにしてくれ、と彼は怒鳴った。もうこんなのはたくさんだ。どれだけ続くんだこの穴は。俺を出してくれ。外に出してくれ。
 声がした。「恭司、そろそろ起きた方がよいでしょう」。聞き慣れているようで、久しぶりに聞く彼女の肉声だった。だから彼はもう少しだけこのままでいても良いかも知れないと考えを改めた。
 再び、声がした。

「わ。恭司くん!?」



 ※



 畳ではなく、冷たい石の上に転がって、高村は言葉にならないうめきを漏らした。腕は相変わらず糸で縛られていたが、いる場所は明らかに井戸の底ではない。今度はどこかの洞窟が舞台のようだった。

「え、ええー……。今、どっから出てきたの?」

 高村の目には杉浦碧の姿が映っていたが、彼はこれもまやかしだと判断した。碧の格好があまりにも奇矯だったからだ。
 月杜にあるファミリーレストラン、『リンデンバウム』のウェイトレスの制服を着ていたのである。どういう趣向なのか、強調された胸元のあちこち土汚れで煤けていて、ただでさえ扇情的に短いスカートの裾も何箇所かほつれている。おまけに手には中世の騎士が武器にしたハルバードのような得物を持ち、背後には車輪を牽く犀の化物までもいた。幻以外には考えられない取り合わせだ。
 高村は手を使わず器用に立ち上がると、混乱している碧を、据わった眼で見つめた。

「碧先生」
「は、はい。いやじゃなくて、あたしは通りすがりの正義の味方だけど――」
「じゃあ、正義の味方さん」
「ハイ?」
「優花はどこへ?」
「ユーカ?」碧は小首を曲げた。「誰それ。あ、わかった。彼女?」
「それはもういいです。よくないけど、いいです」高村はあからさまに失望して見せた。「ところで、リンデンバウムの和訳はなんですか」
「シナノキ」
「そう」得たりと高村は頷いた。「ウンター・デン・リンデン。北海道土産で有名なくまの彫り物もシナです。で、シナノキといえば巨樹。そそり立ってますよね。つまりこれはメタファーですよ」
「え、なんの」
「性欲の。ぶっちゃけ男根の」
「なにいってんのこのひと……」碧の白眼が不審人物を見るものに変わりつつあった。「恭司くん、下ネタとか言わない人だと思ってたけど」

 夢の中とはいえ、据え膳食わねば男の恥である。錯乱した高村は、不意を討って碧に飛びかかった。

「うおーーいッ!?」

 両手の自由は利かなかったが、運良くも高村は碧を押し倒す事に成功した。互いの体臭が香る距離で、高村は碧の首筋に鼻を埋める。狼狽した碧が半笑いの叫び声をあげたにもかかわらず、ずいぶんディテールの凝った夢だとしか彼は思わなかった。熱に浮いた高村の興味の矛先は、碧の汗ばんだ首から肩、隆起した胸へとくだっていった。

「ちょッ、待って待って、あははは、首で息しないで、え、なになに、どうしたのこれちょっとー! あっ。いやマジマジで! そこはやばいっ。おっぱい、ただのおっぱいだからそれはぁっ。セクハラかっこ悪いよー! っていうか殿中! 殿中でござるっ。うわー恭司くんが乱心したー! ……くっ、こうなったら、ていっ」

 ごん。
 目の眩むような一撃が、頭部を強かに打った。たまらず高村は碧の上から転げ落ちて、またも無様に地を転がる。まぎれもない現実の痛みに眼をしばたかせた。乱れた制服と、足を崩してへたりこむ碧の姿を見た。
 体温が二度ほど下がったと思う。

「…………えぇ」
「はぁ、は、はぁ……正気に戻ったか……」
「……え?」
「なに、そのハトが豆鉄砲食らったような顔」碧がきりきりと眦を吊り上げた。「かよわき乙女をあやうく手篭めにしかけた悪漢の末期にしちゃあふてぶてしいなぁ」
「え、リアル碧先生? ですか?」
「バーチャル碧先生がいるんかい」鼻息も荒く手にある物騒な得物を一振りする。「いや、あたしはただの通りすがりの正義の味方で碧ちゃんとは関係無いけどね?」

 息を乱し、ハルバードを杖にして、碧がようよう立ち上がった。きわどい角度で仁王立ちの彼女を見、芋虫のように這って距離をとると、高村はさめざめと泣いた。

「汚された……」
「あァ?」

 無表情の碧にハルバードを突きつけられる。

「ごめんなさい頭領。少し調子乗ってました」
「頭領って誰だ。けどまあ、うん、素直でよろしい。何があったか話せば許すのもやぶさかじゃないぞう」

 高村はしおらしく続けた。

「俺、血迷ってたんです。正気なら決して頭領を襲ったりなんか考えもしませんから、勘弁してください」
「それはそれでプライドが傷つくなぁ……」

 腕を組む碧を前にして、高村は内心で驚倒しきりだった。
 どう見ても、彼女が手にしているのはエレメントだ。
 ならば、背後に控える巨獣もチャイルド以外にありえまい。
 杉浦碧もまたHiMEだったのだ。
 疑問はいくつもあったが、その全てを棚上げにして、高村は深々と息をついた。安心したい所ではあったが、そうもいかない。
 ――ハコを盗られたのだ。取り戻さなければならない。

 ことここに至って、結城奈緒から手を引くつもりはもはやなかった。





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